手にしたグラスを軽く揺らしてみると、中に入っていた細かい氷の塊がカシャカシャと
いう音を立てた。

 ついさっきまでアイスティーが入っていたそのグラスには、今はもう、幾つかの氷とそ
こから溶け出した水しか入っていない。それでも何かしていないと間が持たないので、そ
の水にチビチビと口をつけてみる。

(まいったな……)

 デパートの屋上のビアホールで少しの間休憩を取ろうと決めたのが、大体三十分程前の
こと。未だにジリジリと照りつける太陽を避けるため日陰に行き、それほど大きくないラ
ウンドテーブルをはさんで腰を下ろしたボクたち。ボクはアイスティー、綾波はオレンジ
ジュース、ミサトさんは大ジョッキの生ビールを頼んで、一分後に同じものを追加注文。
また昼間からそういう……、というボクの視線に、まあそう固いこと言わないの、とミサ
トさんは何も言わずに微笑んだ。

 買った品物は、デパートの中に店を構える配送会社に頼んで家に送ってもらっていた。
だからボクはようやく荷物持ちの役目から解放され、束の間リラックスした時間を過ごし
ていた。と言っても、それは長くは続かなかったのだけれど。

(何か話さないと……)

 そんな思いに急き立てられ、ボクは向かいに座る綾波をチラリと見つめる。けれど、ど
うしても先程の踊り場での会話を思い出してしまい、うまく話が切り出せない。さっきか
らそんな状態がずっと続いていた。

(ミサトさんがいてくれたらな……)

 視線を綾波の脇に向けると、そこにあるのは大分前に空にされたビールの大ジョッキ。
それを見つめながら内心で溜息をつく。ひょっとしてミサトさん、こういう展開を狙って
たのかな。

 ミサトさんならそれは十分あり得る話だ……というか、おそらくそうに違いない。ボク
の中にはそんな確信めいた思いがあった。ミサトさんが一人で店を出る直前のあの言葉。
ミサトさんが強引なのはいつものことだけど、それにしたって、あれはどこかワザとらし
かった。

『ねえ、二人ともこれからどうする? あたしこれからさ、ちょっち個人的な趣味のもの
買いにいきたいんだけどな』

『あ、ボクは別に構いませんけど』

『う〜ん、シンちゃんがそう言ってくれるのはいいんだけどさ、きっとあたしと一緒に来
てもつまんないだけだと思うのよね。それに、レイも洋服以外にいろいろ細々としたもの
を買っといたほうがいいでしょ。だからさ、ここで別れてお互い自由行動ってことにしま
しょうよ。あ、んじゃ一応あたしのカードを渡しておくわ。自由に使っていいけど、あん
まり高いものに手出しちゃダメよ。んじゃ、そういうことであたし行くから。あんまり遅
くならない内に帰ってくんのよ。さって、残り少ない休暇の一日、有効に使わないとね〜』

 そう言うなり、何か口を挟む間もなくミサトさんは立ちあがった。そして展開の早さに
少し茫然とするボクと、興味なさげに何も言わない綾波を尻目に、お勘定は済ませておく
から後はごゆっくり〜、などというセリフを残してさっさと店を出ていってしまったのだ。

 テーブルを離れる間際のミサトさんのあの表情。言葉にはしなくても、言いたいことは
大体分かる。うまくやんなさいよ、とか、そういう表情だった、あれは……。

 そんなわけで取り残されてしまったボクと綾波。ああ、もう、どうしたらいいんだろう
と、今更ながらに自分の置かれた状況に頭を抱えたくなる。

 そうこうしている内にグラスの中の氷も全て溶け、溜まっていた水も全て飲みほしてし
まった。今手の中でグラスを弄んでいても何の意味もないし、互いのグラスをジッと見つ
めているだけのボクと綾波も、周りから見たら変な感じかもしれない。

(いいかげん何か言わなくちゃ。いつまでもこうしてるわけにはいかないんだから……)

 コースターの上に置いたグラスから手を離すと、ボクは少しだけ目線を上げた。綾波も
俯いていたから、その視線とボクのそれがぶつかり合うことはない。先程から綾波は、注
文したオレンジジュースのグラスに両手を添え、その中身に視線を送っているように見え
た。グラス半分ほどまで減ったジュースを眺めているのだろうか。それとも、何か考えご
とをしているのだろうか。

「……ねえ、綾波」

 長い沈黙を破ってついにボクが声をかけると、綾波は少し視線を上げて答えた。

「…何?」

「……あの、綾波はさ。グラスに半分水が入っているって考える人? それとも、グラス
は半分空っぽだって考える人?」

 少しキョトンとした表情でボクを見つめ返す綾波。突然のことだったから、ボクの質問
の意味が分かっていないのかもしれない。それに気づいたボクは、慌てて説明の言葉を付
け加えた。

「いや、あのさ、綾波のグラスを見ていたら、なんかそんなことを思い出しちゃって。何
かの本に載っていた単純な質問なんだけど、その答えの中に結構その人の性格が出ると思
うんだよね。ボクはさ、グラスが半分空っぽだって思うほうなんだけど、そのグラスを見
て綾波はどんなことを考えるのかなって思って……」

 ボクの言葉に再び視線を落とし、自分の手の中にあるグラスをジッと見つめる綾波。一
体どんなことを考えているんだろう、どんな答えが返ってくるんだろう。

「…よく分からない」

「……そ、そう」

 けれど、膨らみかけたささやかな好奇心は一瞬にして失望に取って代わられる。

(そうだよね。いきなりこんなこと聞かれても困っちゃうよね……)

 普段あまり表情を変えることのない綾波だから、その胸の内で一体何を考えているのか、
それを読み取るのは簡単なことではない。だからそんな綾波の一面を知る、これはいいチ
ャンスではないだろうか。そう思ったのだけど、やはり、そうそう自分に都合のいい展開
にはならないようだ。

「……」

「……」

 再び重くのしかかろうとする沈黙の中、ボクはほんの僅か肩を落とした。自分が言った
ことにあまり関心を示してもらえなかった一抹の寂しさ、つまらないことを聞いてしまっ
たのかもしれないという後悔。そんな負の気持ちの流れの中でボクがもがいていると、何
の前触れもなく綾波が口を開いた。

「…でも」

「……え?」

「…グラスは、いつか空になってしまうと思う」

「……」

「……」

「それって……」

 予想もしていなかったその答えに、ボクは少しの間言葉を失ってしまった。綾波は何を
言おうとしているのだろう? それをどう解釈すればいいのだろう? それがよく分から
なかった。

 脳裏を、ボクの知っている人たちの言葉が駆け巡る。

『ワシはそんなん考えんと、さっさと飲んでまうわ、なはははは』
『俺は満たされてるって思うタイプかな。ほら、俺ってオプティミスティックだからさ』
『そうね、半分水が入っているって思うようにしているわ』

 そのどれとも違う、綾波の言葉。
 
 グラスは、いつか空になってしまう。

 ボクは、思わず自分の手元のグラスを見つめた。

 空っぽのグラス。
 何も入っていないグラス。
 かつては何かで満たされていたもの。
 でも今、そこには何もない。

 浮かんでくるそんなイメージのせいだろうか、ボクは自分の中に、何かキュッと絞めつ
けられるようなものを感じた。それはどう表現したらいいのだろう。何とも言えない寂し
さのような、何かそこにいることがとても虚しくなってしまうような、そんな感覚。

『私には、他に何もないもの』

 それは、二子山で綾波がそう言った時感じたものに少し似ているとボクは思った。

(それが、綾波の答えなの? 綾波の思い浮かべるものなの?)

 ボクの視線の先の綾波は、俯いたままジッと何かを凝視しているように見えた。何を見
ているんだろう。その紅い瞳には一体何が映し出されているのだろう。ボクにそれが分か
るはずもなかったけれど、でも、その少し虚ろで物憂げな瞳は、どこか遠いところを見つ
めているように思えた。そう、遠いところ。ここではない、どこか遠いところ。

 そんな綾波を見ていると、ボクは何か得体の知れない不安のようなものに襲われた。ボ
クたちの間にある直径80センチほどの大きさのテーブル。それがボクたちの間を隔てる
もの。でも、綾波はすぐそこにいるはずなのに、手を伸ばせば届くはずなのに、ボクたち
の間には決して埋めることのできない大きな距離があるような、そんな気がした。そして
そう思ったら、何がダメなのかよく分からないけれど、とにかくボクは、ダメだよ、と思
っていた。何か喋っていないと綾波がどこか遠くに行ってしまうような、そんな気がして、
ボクは自分の意志で積極的に沈黙を破った。

「これから……」

「……?」

「これから、どうしようか」

「……」

「別に、これから予定とかないよね?」

 無言のまま綾波は僅かに首を振る。

「じゃあさ、ちょっとデパートの中をブラブラしてみない? ほら、ミサトさんも言って
たけど、服の他にもいろいろ細々した物を買い揃えないといけないでしょ? だからさ、
行こう、ね?」

 そう言って立ちあがると、少しボクの方を見つめた後で、綾波は無言でボクの後に続い
た。



I wish 6 -The first day (part 4)-



 何も言わず自分の後ろから付いてくる綾波の気配。それを背中で感じながら、ボクは、
らしくないことを言ってしまったなと、今更ながらにそう感じていた。

 基本的にボクは、他人を誘う、ということをあまりしない人間だ。友達と話していても、
どこかに遊びに行こうとか、何かをしようとか、そういったことを積極的に切り出す人間
ではない。と、いうか、14年間ボクはボクをやっているわけだけど、そんなことをした
記憶というのは数えるほどしかない。今の所でも、帰りにゲーセンに寄っていこうという
のはケンスケだし、いつも買い食いをしたがるのはトウジだ。そしてボクは、そんな二人
にただ付いていくだけ。

 そんなボクだから、どこかに行かないかと女の子を誘うなんて考えたこともないわけで。
自分で作り出した状況とはいえ、このシチュエーションは何だかくすぐったいし、それに
正直プレッシャーも感じてしまう。でも今回はボクの方から誘ったんだから、やっぱりボ
クが主導権を取らなければいけないんだろうし、綾波にそれを期待することもできないだ
ろう。

(でも、どうしようかな……)

 細々としたものと言っても、他に買う物でボクに思いつくものといったら、間違っても
アクセサリーだとか可愛い小物だとかそういう方面のものではなく、いわゆる日常生活品
の類だった。こういう考え方をするようになったのも、ミサトさんと暮らしている影響な
のだろうかなどと思いつつ、そうしたものを探しながらボクと綾波は少し店内を歩いてみ
ることにした。エスカレーターの前にあったフロア案内を見ると、4階に日用品のフロア
があるようだったので、二人でそこに向かうことにする。

 服を買っていたときにそうだったように、綾波はただ黙ってボクの後を付いてくるだけ
で、相変わらず何も言わなかった。それはつまり、さっきまでのミサトさんの苦労を今度
はボク自身が味わう番だったということだ。

「ねえ、この箸なんかどうかな」
「綾波はどんなデザインのピローケースが欲しい?」
「こういうハンカチってなんかいいと思わない?」

 こういうことには慣れないながらも、ボクはボクなりにいろいろと思いつく限りのこと
を聞いてみたけれど、綾波の答えはいつも同じだった。薄々予想していたこととはいえ、
実際にそれを経験してみると、やはり複雑な気持ちになってしまう。

(やっぱり、ボクには無理なんだよね……)

 ミサトさんみたいに人当たりのいい人でも無理だったんだ。ボクにそれができなくたっ
て、全然不思議じゃないよ。そんな風に自分で自分を慰めようとするけれど、心の中にど
んよりと厚い雲が立ちこめてくるのはどうしようもなかった。

 そんな綾波にちょっとした変化があったのは、たまたま通りかかった洋食器店に入った
ときのことだった。ビーカーしか持っていないという綾波のためにマグカップでも買おう
かと、ボクたちはふと目に付いた店に入ったのだ。

 フロアの片隅にあったその店はそれほど大きなものでもないし、内装にも特別なところ
があったわけじゃない。ただ、小じんまりとしていて、なんとなくその落ち着いた雰囲気
に引かれるところがあったので入ってみたというだけだった。

 棚に陳列された商品に、ざっと目を通してみる。イギリス、デンマーク、チェコ、ドイ
ツ。スペースの問題のせいか数はそれほど多くないけれど、ヨーロッパ各国の有名ブラン
ドが一通り陳列されている。それらの商品が演出する鮮やかな色の競演と、棚の上に咲き
乱れる描かれた花々。そうしたものを眺めるのは楽しいことだった。

 邪魔が入らずに、自分のペースでゆっくりと見られる限りでは。

「お客様、何かお探しですか?」

 後ろから突然掛けられた言葉に、思わず体がピクリと震える。

 声のした方に視線を向けると、二十代中程くらいの女の人が笑顔でこちらを見つめてい
た。白いシャツに紺色のベスト、同じ色をしたスカート。これといって独創性のないデザ
インの制服。だけど、その落ち着いたトーンが何となくその人の髪の色に合っているよう
な気がした。カラスのような、と表現したら失礼かもしれないけれど、それは今時珍しく
全く染められていない綺麗な黒で、後ろへ流された髪がうなじの少し上で一つに束ねられ
ている。

「お知り合いの方へのお贈り物でしょうか?」

 静かな口調でそう言って、その店員さんはチラリと綾波に視線を向ける。その顔に浮か
ぶ優しそうな微笑みに、ボクは何とも言えない気分になってしまった。今この人が何を考
えているのか、それが何となく分かってしまったから。

「あ、えっと、贈り物っていうか。綾波にマグカップを一つ買っていこうと思って……」

「綾波……さんですか?」

「あ、ごめんなさい。えっと、綾波っていうのは、つまり、その……」

 ボクが言葉に詰まっていると、それを察してくれたらしい店員の人がニッコリ笑った。

「ああ、そうでしたか。可愛いお連れ様ですね」

「え? あ、あの、ありがとうございます」

 掛けられた言葉に咄嗟に返事を返すと、一瞬、不自然な間がその場に漂う。

(……あ。な、何言ってるんだよボクは。綾波がそう言うならともかく、なんでボクがそ
んなことを言うんだよ?)

「あ、いや、あの、ボクがそんなこと言うのは変ですけど、でも、それは、そういう意味
じゃなくて……」

 慌てて言い訳をするボクを見て、店員の人がみるみる内に表情を緩めていく。そしてそ
の微笑みに、ボクはそれを確信した。ああ、完璧に誤解されたな、これは、と。

 そんなボクの内心を知るはずもなく、その店員さんはボクと綾波を相手にいろいろな商
品の説明を始めた。穏やかでゆっくりとしたその口調は、おしつけがましい、という言葉
からはかけ離れたもので、その人柄がうかがえるような気がした。最も、それだけに申し
訳なくなってしまう気持ちというのが自分の中にある。

 この物腰と笑顔を見れば、多分、この人はいい人なんだろうということがよく分かる。
それに、この人はただ自分の仕事を一生懸命しているだけであって、そこに非難される理
由なんかあるわけもない。それはよく分かっているのだけど。

(でも、ボク、こういうのって苦手なんだよな……)

「こちらお客様もご存知かもしれませんが、世界の食卓で一番愛されている食器、と称さ
れることもあるブランドでございます。様々なシリーズがございますが、特に有名なもの
はブルーを主としたものでしょうか。或いはボーンチャイナの乳白色に深みのあるブルー
という、シンプルな中にも印象的な色のコントラストも世界的に人気がございまして……」

 そんな中でも続く商品紹介。一生懸命に説明してくれているその様子を見ると、ちゃん
と聞かなくちゃと思うのだけど、いかんせん長いし、それに正直よくわからない。だから
悪いとは思いつつも、ボクは意識の半分を商品紹介に割り当て、残った半分を実際の商品
に向けることにした。

 何の飾り気もない真っ白なカップ。淡いブルーの下地に白で描かれた、何か紋様のよう
な図柄が印象的なカップ。美しい自然に恵まれた湖水地方を舞台にした、あるウサギの話
のワンシーンを描いたもの。

 並べられたそれらの商品に目を向けていると、ふと、あるものに興味を引かれた。ちょ
うど折もよく商品説明も一段落したところだったので、思いきってこちらの方から聞いて
みる。

「あの、すいません。これって何ですか?」

 ボクが指差したのは、直径が20センチ程のお皿のような物だった。幾つか陳列されて
いたそれらの表面には、青い色で様々な場面の絵が描かれている。

「はい、こちらはイヤープレートでございます」

「イヤープレート、ですか?」

「はい。これはこのブランドが、毎年一枚その年を記念して生産しているシリーズでござ
います。出産ですとか結婚といった何か記念になるようなことがあった時、或いはお知り
合いの方にそうしたことがあったとき、お求めになるお客様が多いようです」

「そうなんですか……。あの、これ、手に取ったりしてもいいですか?」

「ええ、どうぞ。何かお気に召したものがおありでしたら、どうぞご覧になってみてくだ
さい」

「あ、はい。ありがとうございます」

 お礼の言葉を返し、ボクは棚の隅に陳列されていた、イヤープレートというらしいお皿
の一つを手に取った。

「ね、綾波、これなんだけど……」

 ボクが見つけたそのプレートには、何か特別なものがあったわけじゃない。下地の色は
青と白。プレートの淵には円に沿って青い紋様のようなものが入っており、その中心には、
川辺に腰を下ろす女の子の後姿の絵が、やはり青一色で描かれている。真っ白なワンピー
スを着たそのショートカットの女の子は、両膝を抱え、空に浮かぶ満月を静かに見上げて
いる。そしてその周り一面には、何の花かは分からないけれど、白い花びらを持った花が
一面に咲き乱れていた。

 言葉にすればただそれだけのことだった。そのプレートには、人目を引く何か派出な模
様があるわけでもなく、その中から溢れ出るような華やかさがあるわけでもない。ただ、
どこか落ち着いた雰囲気を持っていて、静かな優しさ、密やかさ、そんな印象を見る人に
与える、そんな品物だった。

「この花は何だろうね。……あ、裏に英語でなんか書いてある。イブニング……え〜っと、
これはなんて読むんだろう、分からないや。でもさ、これ、なんだか綾波のイメージに合
ってると思わない?」

「……私の、イメージ?」

 その言葉にスッと視線を上げ、綾波はボクを凝視するかのように見つめた。

「……あ、いや、イメージっていうか。ゴメン、急にこんなこと。そ、そうだよね、ボク
が勝手に綾波のイメージとか言うの変だよね」

「…別に、変ではない」

「……そ、そう」

 その色と絵柄のせいだろうか。ボクの中では、そのプレートが与えるイメージと、二子
山で見た綾波のそれが、何となく重なってしまったのだ。それがその品物に興味を引かれ
た大きな理由だったのだけど、でも、それを実際に口に出してしまったのは失敗だったか
もしれない。

「……あの、これ、どう思う?」

 そのまま黙っているのも気まずいので、今までと同じ答えを予想しつつも、一応声をか
けてみる。でも少し驚いたことに、すぐに返事は返ってこなかった。ボクのその問いかけ
に、綾波はボクに視線を向けるでもなく、プレートを手に取るわけでもなく、ただそれを
ジッと見つめていた。綾波がブランド名で物を選ぶとは考えにくいから、デザインか何か
に気にいったところを見つけたのだろうか?

「あの、ひょっとして、これ気に入った?」

「……」

「……」

「…分からない」

「でも、なんとなく気になったって感じじゃない? ジッと見つめてたしさ。それって何
か気に入るところがあったってことかなって思うんだけど……」

「……」

「あの、じゃ、折角だから……これ、買って帰らない? そんなに高いものでもないしさ。
もちろん、綾波がよければ……だけど」

 その様子を伺いつつ、ボクがおずおずとそんな提案をすると、少し考え込んだ後、綾波
は何も言わずにただコックリと頷いた。包装してもらうため、店員の人にその品物を渡そ
うとする時も、その視線はボクが手にしたプレートを捉えたままだった。







「はあ、今日はいろんな所に行ったから、何だか疲れたね」

「…ええ」

 空いていたリニアのシートに腰を下ろすなり、シンジがそんなことを言った。レイはそ
れに短い返事を返すと、自らもシンジの隣に腰掛ける。座席から微かに伝わってくる振動
はどこか心地よく、窓の外では夕焼けが街のビルに反射して少し眩しかった。

 規則正しいレールの音。時折耳に入る車内放送。二人の間に流れるのは沈黙。

 今日もまた、一日が終わろうとしている。

 本当にいろいろなことがあった日だった。レイはそう思った。

 部屋に戻り、引越しをし、ミサトの部屋でそばを食べ、初めてデパートというところに
出かけた。その過程でシンジと様々な話をして、そして今日も、初めての言葉をかけられ
た。

 そう、初めての言葉。

『多分周りから見たら、綾波は可愛いんだろうなって』

 あの時、心に一滴垂らされたその言葉が、レイの中で静かな波紋を巻き起こした。そし
てその波紋が自らの内で段々と大きなものになり、体中に広がっていくのが分かった。そ
れに共鳴するかのように心臓の鼓動が僅かに早くなり、奇妙な感覚が胸の中に広がってい
くのを感じた。

 可愛い。
 愛らしいということ。
 好感を持つ相手に使う表現。

 何故、彼はそんな表現を自分に使ったのだろう。

 蒼い髪。
 紅い瞳。
 白すぎる肌。
 他とは違うもの。
 造られたもの。

 必要なのは、魂とその容れ物。ファースト・チルドレン、綾波レイ。その事実が全てだ
った。使い捨ての道具に表面的な美など必要なく、重要なのはそれが持つ機能のはずだっ
た。それ故自分がどんな形を持とうとそれは重要なことではないと思っていたし、それを
気にかける他人にも出会ったことなどなかった。

(…碇君は、違うの?)

 あの感覚。不思議な感覚。不快ではなかった。少し胸がキュっとして、背筋の辺りで作
り出された熱が、体中にジンワリと拡散していく感じ。どうしてあんな風になったのだろ
う。

『女の子はね、似合ってるよ、とか、可愛いよ、とかそういうなんでもないことを言って
もらえるだけでも、すごく嬉しいものなのよ』

 ミサトが言っていた言葉が脳裏に蘇る。

(……私、嬉しかったの? 可愛いと言われたから、嬉しかったの?)

 ほんの少し頬を赤らめ、視線をキョトキョトと彷徨わせながら考え込むレイ。だが、そ
れについて思考を進めれば進めるほど、それは少し違うのかもしれない、という結論が浮
かび上がってくる。

 振り返ってみれば、シンジと共に洋食器店に入ったときも、あの店員に同じことを言わ
れた。だがそれにも関わらず、レイの中では何の感慨も沸き上がってこなかった。

 では、何故最初の時は違ったのだろう。

(……碇君)

 鮮明なイメージと共に蘇るのは、あの笑顔。

 そう、答えは分かっていた。それ以外には考えられなかった。

 可愛い。

 それは、ただの言葉。
 音の集合体。
 何かを描写する記号。
 それ自体は、それ以上のものでもそれ以下のものでもない。

 だがそこに何かが加わる時、言葉に息吹が吹き込まれる。
 きっとそれは、記号以外のものになる。

『あんたたち、何かあったの?』

『『別に』』

 重なる声。同じ言葉。特別な意味があるわけではない。

 それなのに、また何かが自分の中で揺れ動いていた。可愛いと言われたときとは少し違
った感覚が広がっていった。

『な〜に恥ずかしがっちゃってんのよ〜、二人とも〜』

 恥ずかしい?

 自分は恥ずかしがっていたのだろうか。
 あれが、恥ずかしいという気持ちなのだろうか。

(…よく、分からない)

 今日は分からないことが多すぎる。レイはそう思った。

 だがそんな中でも感じるのは、もしあれが恥ずかしい気持ちだというのなら、それはき
っと、シンジと声が重なった時に生み出されたということ。あれが嬉しい気持ちだという
のなら、それはきっと、シンジに可愛いと言われた時に沸きあがってきたのだということ。

(……)

 それを確かめるために、レイはもう一度、胸の内で同じ言葉を繰り返してみることにし
た。言葉だけではなく、記号だけではなく、もう一度その時を思い返し、シンジの声と共
に。

(……)

 やはり、同じだった。胸の奥を何かが動き回っていた。

(……私、嬉しいの?)

 そうなのかもしれない、きっと自分は嬉しいのかもしれない。それを裏付ける何の根拠
もレイは持ち合わせていなかったが、ただ自然とそんな風に思えた。そしてその中に紛れ
こんでいるのは、ほんの少しの恥ずかしい気持ち。これはなんだろう。交じり合う気持ち。
それがひき起こす科学反応。頬がまた紅潮するのが分かる。嬉しいと頬が赤くなるのかも
しれない。恥ずかしいと頬が赤くなるのかもしれない。

(……碇君も、同じなの?)

 あの時、シンジにも同じ現象は起こっていたのだろうか。声が重なったとき、彼も恥ず
かしかったのだろうか。レイの座っていた位置からは、シンジの様子はよく分からなかっ
た。あの時、彼は何を思っていたのだろう、どんな気持ちだったのだろう。

 知りたい。

 何故だか、そう思った。

(……)

 レイが横目でその様子を伺うと、シンジは目を閉じ、少しうつらうつらしていた。つい
先程のシンジ自身の言葉通り、きっと疲れているのだろう。午前中は引越しでレイの私物
を運び、午後は午後でミサトやレイの荷物持ちをしていたのだ。それほど長い時間ではな
いが、少し眠るのもいいかもしれない。レイはそう思った。

『次は舞卯坂、舞卯坂でございます』

 するとちょうどその時車内にアナウンスが流れ、少し体が引っ張られる感覚と共に、リ
ニアが次の駅に停車するための減速を始めた。
 
 ポフッ。

 そして、不意に何かが自分の肩に置かれたような感触。軽く首を傾け視線を向けると、
そこにあったのはシンジの黒い髪だった。どうやらシンジは本格的に眠りに落ちてしまっ
たらしく、それとリニアの減速が相俟って、レイに体重を預ける態勢になってしまったよ
うだ。

 やがて駅のホームにリニアが滑りこみ、その動きが完全に止まる頃には、シンジは頭だ
けでなく、上半身全体をレイの体に預けるような形になっていた。

 起こすべきだろうか?

 少し迷ったが、レイは結局そのままの状態を保つことにした。無理に起こすことはない。
降りるべき駅が近づいたら、声をかければいい。だから、このままでも問題はない。そん
なことをレイは思っていた。

 あの時感じた不思議な気持ちと、そしてどこか心地よい充足感が、自分の胸の中、どこ
か深いところから沸きあがってくるのをハッキリと自覚しつつ。







「で、二人であの後何してたわけ?」

 ボクと綾波がリビングのテーブルに腰を下ろすと、ビール片手のミサトさんに早速そん
なことを尋ねられた。

「いや、あの、別に何をしたってわけじゃないんですけど」

「……」

「その、二人でちょっとブラブラして、それで帰りの電車に乗って、目が覚めたら遅い時
間になっちゃってて……」

「要するに、電車の中で居眠りして寝過ごしちゃったってわけ?」

「……は、はい」

「ほんとに〜? こんな遅い時間まで?」

「ほ、本当なんです」

「そ〜んなこと言ってぇ、ほんとはさ、二人でどこかでデートと洒落こんでたんじゃない
の〜?」

「そ、そんなわけないじゃないですか!」

「どうだかねえ。……ねえレイ、シンちゃんの言ってることは本当?」

「……はい」

「ふ〜ん。な〜んか取って付けたような言い訳だけどねえ」

「でも、本当にそうなんです」

「ま、いいわ。シンちゃんたちが中々帰ってこないからさ。今日は出前取ったのよ。ちょ
っと奮発してね、お寿司よ、お・す・し」

「え、大丈夫なんですか? 給料日前なのに」

「……シンちゃん、あんたってつくづく苦労性よね。そういうことは、あたしが心配する
ことでしょうが」

「あ、す、すいません」

「ま、いいってこと。それに、これはレイへの歓迎の意も込めてってことでね」

 ミサトさんの言う通り、冷蔵庫の中には2人前の寿司が入っていた。一つを綾波に渡し、
自分も席につく。こういうことがあるなら家に遅く帰るのも悪くないかも、なんて、そん
なことを考える自分に内心で苦笑する。ボクの心の声を聞かれたら、ミサトさんに軽くこ
づかれてしまうかもしれない。

「いただきます」
「…いただきます」

「は〜い、いただいちゃって。んじゃ、あたしはちょいとシャワーでも浴びてくるから」

「あ、はい。いってらっしゃい」

 ボクたちに一声かけてバスルームに歩いていくミサトさんに、正直少しホッとする。綾
波がボクの言ったことを証明してくれたおかげだろうか。もっといろいろなことを追求さ
れるかと思っていたけど、あの程度で済んでくれてよかった。

(でもミサトさんが簡単に信じてくれないのも無理ないかもな)

 既に九時を回った時計をチラリと見つめ、ボクはそんなことを思った。

 綾波と一緒に帰りのリニアに乗ったところまでは、ハッキリと覚えている。ああ疲れた
なと感じたこと、それを実際に口に出したことも覚えている。それから、窓の外の夕焼け
が少し眩しかったことも。

 でもハッキリとしているのはそこまでで、次に気がついたときには、窓の外は真っ暗に
なっていた。そして段々と鮮明になっていく意識の中、ボクは自分が何か柔らかいものに
持たれかかっているのに気がついた。ぼんやりと首の向きを変えると、そこにはボクをジ
ッと見つめる綾波の紅い瞳。一瞬、自分の置かれている状況がよく理解できなかった。

 綾波がボクの隣にいて、それでボクは綾波の方に寄りかかっていて、なんか頭がボーっ
としていて、それでちょっと寝起きの感覚。

『あ、あれ? ボク、眠っちゃってたの?』

『…ええ』

 微かに呟く綾波に、ああ、またやってしまった、という気持ちになる。今日のボクは最
悪だ。訳の分からないことを言ったり、妄想気味の事を考えたり、挙句の果てには綾波の
肩に持たれかかって眠ってしまうなんて。ここまでいろいろなことが重なると、さすがに
綾波も気を悪くしているんじゃないだろうか。

『ゴ、ゴメン……。ボク、こんな、綾波に寄りかかったりなんて……』

『…別に、いい』

 そう答える綾波の声は、いつもよりほんの少しだけ揺らいでいるように思えた。さすが
の綾波も少し恥ずかしかったに違いない。最初はそう思った。電車の中という周りの目か
ら隠れることが出来ない場所で、こんな彼氏でもない奴にもたれかかられて。

 今日何度目のことか数えるのも嫌になるけれど、自己嫌悪の底無し沼に再び沈みそうに
なるボク。でもその時、ちょっとした違和感を覚えた。

(あれ? でも何か変だよな……)

 ボクたちが電車に乗った時は、まだ外は大分明るかった。けれど、今窓の外は真っ暗に
なっている。ということは、あれからかなりの時間が過ぎているに違いない。ボクは眠っ
ていたのだから、そんな時間の流れなんか気になるはずもないし、降りるべき駅に着いた
のにも気付くわけがないけれど、でも綾波はそうじゃないはずだ。じゃあ、外がこんなに
暗くなるまで、一体綾波は何をしていたのだろう?

 ボクが寄りかかるのを、ただボーっと見つめていた? まさか、ありえない。内心では
迷惑していたんだけど、なかなかボクを起こす決断がつかなかった? それも考えにくい。
綾波は、言わなければならないことはハッキリと言うと思う。て、ことは、ひょっとした
ら綾波もウトウトしていたんだろうか。それでボクが目を覚ます少し前に、たまたま綾波
も目覚めたのだろうか。

 他にもいろいろな可能性を考えてみたけれど、どうもそれが一番有り得そうに思えた。
だってそうでなければ、綾波はボクのことを起こしていたはずだから。

『あの、ひょっとしてさ、綾波も眠っちゃってたの?』

『……』

 恥ずかしがっていた……のか、ハッキリとは分からなかったけれど、少し俯いて黙り込
んでしまった綾波の様子に、何だか自然に笑顔が浮かんできた。

(そうか、多分綾波も寝過ごしちゃったんだ。だからいつもとは少し様子が違うんだよ、
きっと。でも、何かそれってちょっとおかしいな。綾波って、何でも完璧にこなしちゃう
イメージがあるけれど、こういう風にちょっと抜けてるところもあるんだな。電車の中で
こんなに長い時間熟睡するなんて、ボクもボクだけど、綾波も綾波だよ)

 電車に揺られながら熟睡しているボクたち二人。そんなイメージを思い浮かべたら、ど
うにも自分の中の気持ちを抑えきれなくなって、ついにボクはクスクスと笑い出してしま
った。

『……?』

 そんなボクを、少し不思議そうに見つめる綾波。

『あ、ゴメン。でもさ、なんか、ふふ、ボクたちちょっとマヌケだね。二人揃ってこんな
に長い時間電車の中で眠っちゃうなんてさ』
 
『……』

 綾波は何も答えなかったけれど、ボクは、何だか清々しい気持ち、よし、と内心で軽い
ガッツポーズを決めたい気持ちになっていた。同居し始めてたった二日目。それほど多く
の時間を過ごしたわけではないけれど、いろいろな綾波、ボクの知らなかったたくさんの
綾波をその時間の中で見ることができたこと。そのことがとても嬉しく思えたからだ。

(そうだよ、ちょっと変わったところはあるけれど、綾波だって普通の女の子なんだよね。
こういう失敗だってそりゃあるよね)

 もちろんボクの見た綾波が綾波の全てではないだろう。でもついこの間までは、そんな
一面すら知らずにいたのだ。それを考えれば、これは確実な前進と言えるのではないだろ
うか。少なくとも、ヤシマ作戦以前の綾波の冷たいイメージは、ボクの中から少しずつ消
え去りつつあった。

『じゃあ、ミサトさんも心配してるだろうし、早く帰ろうか』

『…ええ』

 心配というよりも、きっと今ごろミサトさんは夕食を待ちわびているだろう。それとも
ミサトさんのことだから、自分で出前を取るか、コンビニ弁当でも買ってるかもしれない。
どっちにしても、白い目は避けられそうにないかもな。

 そんなことを考えていたけれど、帰ってみたらミサトさんの大盤振る舞い。なんて現金
な奴だろうと思うけど、終わりよければなんとやらってやつだろうか、などと感じる。い
ろいろ変なことを言ったり、恥ずかしいことをしたり、今日はいろいろあった日だったけ
れど、でも、振り返ってみればいい一日だったって言えるのではないだろうか。

(ああ、それにしてもなあ……)

 好きな卵焼きをつまみながら、たった一つの残念なことに思いを向ける。

(あの時、すごくいい夢を見ていたような気がするんだけど……。どんな夢だったのか全
然思い出せないんだよなあ……)







「じゃ、お休み」

 その言葉を残して、シンジの背中が部屋の奥へと消えていく。後ろ手にゆっくりと閉じ
られる襖。二人を隔てるもの。もうシンジの姿は見ることができない。

 一瞬感じる微かな違和感と共に、やがてレイもまた自分の部屋へと歩を進めた。

 たった二日。一つ屋根の下で時間を共有するようになって、それだけの時間しか経過し
ていないというのに、どうして彼はこうまでも自分の心を揺さぶるのだろう。しかし、経
験した数々の未知の感覚に戸惑いながらも、決してそれを不快とは感じていない自分にレ
イは気付いていた。

 部屋に入り襖を閉じると、明りをつけることもなくベッドの上にその身を横たえる。

 あの時。

 ゆっくりと光が去ってゆき、街が闇に覆われていくあの時間。あまり長くは感じなかっ
た。自分の肩で微かな寝息をたてるシンジをずっと見つめていた。触れ合う体と、そこか
ら伝わる温もりが心地よかった。またシンジが何か呟かないかと思った。その感触を、シ
ンジの言葉を、心のどこかで求めている自分がいた。

 だから、起こさなかった。

(碇君……)

 夢を見ていた。
 夢の中に、自分がいた。

 自分のことを可愛いと言った人。
 誰も言わなかったことを言った人。

(…そう、そうなのかもしれない)

 シンジに可愛いと言われた。それを嬉しいと感じる自分がいた。だが、それは表層的な
ものにすぎないのかもしれない。

 レイは今日二人で買ってきたあのイヤープレートを箱から取り出し、それを手に取って
みた。

 月と、それを見上げる少女。白い花。イヴニング・プリムローズ。

 シンジが言っていた、レイのイメージ。

(…私、碇君の中にいるの? 碇君、私のことを見つめているの?)

 一体何故なのか、その理由は分からなった。だが、“自分という存在”がシンジの中に
いるのかもしれないということ、碇シンジという他者が“自分という存在”を見つめてい
るのかもしれないということ。それらの仮定が、自らの内に微かな平穏と、そして同時に、
ざわざわとした揺らぎを巻き起こすのをレイは感じていた。


 闇に包まれた部屋。

 差し込む月光。
 柔かな光。


 ベッドに腹ばいになり、閉じられた襖の向こうにあるその姿をレイは思いやった。


 ねえ、碇君。

 あなたの私、どんな私?

 何故だか私は、それを知りたいと思うの……。



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