有限の日々 1
終業のチャイムが鳴った。今日一日の授業からようやく解放された生徒たちが、帰宅の準備を始めたり友人と話し 出したりで、すぐに教室内は騒がしくなる。 アスカも大きく一つ伸びをしてから帰り支度を始めた。その様子を見てヒカリが声をかける。 「今日もこれからネルフなの?」 「うん、いつものシンクロテスト。でも明日は予定ないからさ、一緒に買い物行こうよ、ヒカリ。こないだのアクセ サリーショップ、また覗いてみない?」 「いいわね。楽しみだわ」 「それじゃ、また明日ね。シンジ、遅れないで来んのよ」 ヒカリに手を振り、黒板を消しているシンジに一声かけて、アスカは教室を出て行こうとした。彼にはあらかじめ、 先に行くことを告げてあるのだから。しかし、 「あっ、アスカ――」 振り向いたシンジは何か言いたそうな顔だった。 「何よ?」 「あのさ、たまには……」 そこで言葉が途切れ、口だけが何度も何度も開閉される。その挙句に出てきたのは「……何でもない」という消え 入りそうな声。 「あんたねぇ……」 アスカのこめかみがヒクヒクと動く。これがシンジでなければ間違いなくどやしつけていた。だが彼に限って、か らかうつもりでやったはずはない。アスカを呼び止めはしたものの、やはり人前では話しにくいなどの理由で言葉を 呑み込んでしまったのだろう。だから怒ることも無理に言わせることもやめておいた。 「まぁ、いいわ。後で言いたくなったら言いなさいよ」 「う、うん……じゃあ、またネルフで……」 思い悩んでいる様子のシンジを気に掛けつつ、アスカは教室を出た。 チルドレン四人全員参加のスケジュールが入っている場合、全員で連れ立ってネルフに行くことが多いのだが、今 日はそうならなかった。 シンクロテストの前に行わなければいけない用事があるとかで、レイは午前の授業が終わってすぐに早退。 シンジは週番。雑用をこなしたり日誌を書いたりという仕事が終わるまで待つなど、アスカには御免である。だか ら先に行くと決めた。 残る一人は早退することもなかったし、週番でもなかったが、おそらくシンジが終わるのを待って共に行くつもり だろうから(本部施設内の居住区に住んでいる彼にとっては『行く』より『帰る』の方が正しいかもしれない)、ア スカはその意向を確認しようともしなかった。 そもそも、アスカがシンジ以外の同僚に対して「一緒に行こう」と誘いをかけたことはない。全員で行く時だって、 いつも二人を誘うのはシンジだ。 別にアスカも二人を嫌っているわけではない――今は。ネルフへの道中には雑談くらいするし、学校でもクラスメ ートとして普通に接している。 ただ、積極的に声をかけるほど親しい関係ではないだけだ。席が離れているというのに、どうせまた後で会うとい うのに、下校の際にわざわざ挨拶してやるほどの関係ではない――それだけのことだ。 「君、惣流・アスカ・ラングレーさんだよね?」 昇降口で不意に呼びかけられ、足を止める。 相手は見知らぬ男子生徒。しかし茶色く染めた長めの髪や、その顔に浮かんでいるニヤニヤといった形容が相応し いような笑みに、アスカは一見して彼を好ましくない男と断定した。 「……誰だか知らないけど、何か用?」 警戒心も露わに問うと、男子生徒は三年B組の某と名乗った。もっとも、その名前はアスカの耳をただ素通りした だけだが。 彼が回りくどい言い方でだらだらと述べた用件とはつまり、ここでは言えないような話があるから一緒に校舎裏ま で来てくれないか、というものだった。 聞こえよがしに大きな溜息をついてみせる。 この男子生徒がどんな話をするつもりかは明らかだ。いや、話ならまだいい。ここでは言えないようなこと、をす るつもりかもしれない。そう感じさせる男だ。 勿論アスカには、ほいほいと校舎裏までついていってやる気など更々なかった。 「お生憎さま。あんたの話なんか聞いてやる義理はないわよ」 「まあまあ、そんな冷たいこと言わないでさぁ」 なれなれしい口調で食い下がられて、アスカの瞳が剣呑な光を宿す。 場所が場所だけに幾人もの生徒が通りかかるのだが、何やら険悪そうな雰囲気を感じ取り、誰も足を止めることな くそそくさと去っていく。その中にはクラスメートもいたことにアスカは気付いていたが、元より助けを求めるつも りなどないので気に留めなかった。 「あまり時間は取らせないからさぁ。ちょっとだけ来てくれよ。なっ?」 「私は忙しいのよ。帰らせてもらうわ」 「忙しいったって、彼氏とデートってわけじゃないんだろ? 付き合ってる男がいないってのはチェック済みだし」 この一言で、ついにアスカの我慢も限界に達した。 それがあんたと何の関係があるってのよっ!! そう怒鳴ろうとして、しかしアスカは何も言わなかった。 「惣流さんはこれから僕とデートなんですよ」 至って涼しげな声が、彼女の背後から聞こえてきたからだ。 よく知っている声。 振り返るとやはりそこには、教室を出る前に挨拶もしないでおいた同僚が、いつものにこやかな表情で立っていた。 「――といっても、ネルフまでですけどね。ただ、学校を出るのが遅くなると、警護の人たちが心配して迎えに来て しまうんです。余計な心配をかけたくはないので、僕たちが先を急ぐのを許してもらえませんか?」 実際はそんなことはない。テストの開始時刻まではまだまだ余裕があるし、少しばかり学校を出るのが遅れたくら いでチルドレン付きの保安部員が校内に入ってくることはないだろう。 しかし男子生徒がそんな正確な事情まで把握している由もない。「ネルフ」「警護」という単語を出されて狼狽し ているのを見て取り、アスカはすぐさま調子を合わせることに決めた。 「もうっ、遅いわよ、カヲル! ぐずぐずしていたらゆっくり話も出来ないじゃない!」 「待たせてすまなかったね。さあ、行こうか。……それでは、失礼します」 アスカは拗ねたように頬を膨らませて、カヲルは軽く会釈をして、それぞれ男子生徒の脇を通り過ぎる。そして至 極親しげに肩を並べながら校舎を後にした。 わざとらしいくらいに声を弾ませた会話はしばらく続いたが、あの男子生徒が追いかけてくる様子は全くないこと を確認すると途切れた。その途端、 「……プッ」 「……フフッ」 どちらからともなく噴き出し、大笑いする。 周りの生徒たちが何事かと驚くが、二人は気にせずに笑いながら歩き続けた。 「アハハハハッ! あの時のあいつの顔、見た? それまでスカしてたくせにオタオタしちゃってさぁ。あんたも言 う時は結構言うじゃないのよ」 「ちょっと脅しをかけるくらいでちょうど良さそうな場面に思えたからね。でも、君なら男子相手でも引けは取らな いだろうし、余計な真似をしてしまったかな?」 「そんなことないわよ、あいつにとってはね。あんたが来るのがあと少し遅かったら、私の右ストレートを顔面に食 らうところだったんだもの」 「ハハッ、暴力は良くないよ」 「暴力じゃないわ。護身よ、護身」 またひとしきり笑い合ってから、アスカは少しばかり表情をあらためてカヲルに向き直った。 「……まっ、一応礼は言っておくわ。ありがと」 鼻骨と歯の二、三本も折ってやろうかというくらいに激昂したのに、カヲルが口を挟んできた途端、アスカの心は 不思議なほどに落ち着いた。あの険悪な場でも、彼の口調は常と変わらぬ穏やかなものだったせいだろうか。 彼女にとってあれくらいは危地にも入らないし、一人でも切り抜けられる自信は充分にあったものの、彼女一人で は絶対に不可能だった痛快な切り抜け方が出来たことは、何とも心地よかった。素直に感謝の言葉を口にしたくなる くらいに。 どういたしまして、とカヲルが微笑で応じる。 「結果として、シンジ君を待たなくて正解だったことになるかな」 「そうそう、あんたはシンジと一緒にネルフに行くと思ってたわ。先に行ってていいよ、とか言われたの?」 「うん、先生が色々と仕事を頼んできてね、しばらくかかりそうだから。手伝おうとしたんだけど、鈴原君や相田君 もいるから大丈夫って遠慮されてしまって」 「……なるほどね」 教室を出る前にシンジが何を言いかけたのか、アスカは分かった気がした。 『たまにはカヲル君と一緒に行ったらどう?』 そう提案したかったのだろう。しかしアスカが簡単に承諾するとも思えない、薮蛇になるかもしれない――との不 安から、結局言葉を呑み込んだに違いない。それでも諦めがつかなくて、今度はカヲルに先に行くよう勧めてみたの だ。おそらく、急げばアスカに追いつくはずだとも言って。 これらはアスカの想像でしかないが、多分間違っていないだろう。彼女がカヲルやレイと距離を置いていることを、 シンジはいつも気にしていたから。 来日当初のアスカは、他のパイロットに対して強いライバル意識を持っていた。 特に予備パイロットとして着任したカヲルは驚異的なシンクロ率を記録したため、弐号機パイロットの座を奪われ かねないとの危機感を抱き、シンジやレイにも増して彼には敵意剥き出しで当たった。 自分こそが正規パイロットだと、エースパイロットだと認めさせたくて、使徒との戦いではアスカは常に先陣を切 って向かっていった。 自己中心的な動機による行為。 しかし結果としてそれが、味方の損害を最小限に食い止めながらの勝利を呼び込み続ける。 最初は苦い顔をしていたミサトも、アスカの虚栄心を満たすためではなく使徒を殲滅するために最も効果的な戦法 として彼女を主力に据えるようになり、シンジとレイにそのバックアップを務めさせるのが作戦行動の基本となった。 ――私は必要とされている。 その自信がアスカの心にゆとりをもたらし、同僚パイロットに向ける目をライバルではなく仲間に対するものへと 変えていった。 最初に打ち解けた相手がシンジだったのは、同居人ということを考えれば自然な成り行きだろう。 引っ込み思案だが気の優しい彼を引っ張り回したり発破をかけたりしているうちに、彼女の中には段々と弟の面倒 を見る姉のような気分が芽生えていった。もっとも、シンジにそう言ったところ、「僕の方が誕生日が早いのに……」 「あんた、私に兄貴面する気!?」と口喧嘩になってしまったのだが。 無口で無表情なレイ。 まるで人形みたいでアスカは内心薄気味悪く思っていたのだが、実は目元や口元の動きに確かに感情が表れている ことに気付いてからは、ひそかに表情を観察するのが楽しくなった。 一番アスカがきつく当たってきたカヲル。 しかし彼女がどれだけ毒舌を吐いても、いつも笑って受け流していたその態度は実に大人だったと、今のアスカは 素直に認められる。哲学的というか電波的な台詞の数々には、ツッコミを入れずにいられないが。 未だにアスカが自分からレイとカヲルに声をかけようとしないのは、単に、シンジや他のクラスメートを間に挟む ことなく話すほどのきっかけを、なかなか持ち得ていなかったというだけの理由からだ。 だからシンジは、カヲルにアスカを追いかけさせて、二人が話す機会をつくってやりたいと思ったのだろう。 その彼の心遣いは無駄にならなかったというわけだ。 「それにしても、デートなんて表現を使ってしまって、君が怒るんじゃないかと思ったんだけどな」 同じ道を歩いていた生徒たちもそれぞれの家の方向へと散っていき、人影がまばらになってきた頃、カヲルが少し おどけた口調で言った。 「べっつにー。あいつへの切り返しとしては効果的だったでしょうから、かまわないわよ。それに……」 ずっと滑らかに会話を続けていたアスカが、ここで初めて口篭る。 「それに?」 「私も、その……あの場の勢いであんな真似、したし……」 「何かあったかな?」 キョトンとした顔を向けるカヲル。 アスカの心に引っ掛かっていたことをカヲルの方は全く気にしていなかったと知り、彼女は自分からこの話題を持 ち出してしまったことを激しく後悔した。 そもそも何故あんな真似をしてしまったのか。今更ながらに恥ずかしくなり、頬が熱くなっていく。 強引に話をそらしてやろうにも、カヲルは無邪気に続きを待っている。仕方なしに視線を泳がせながら言葉を補っ た。 「だから、えっと……あんたのこと、名前で……」 あぁ、とカヲルが頷く。 「嬉しかったよ」 「な、何よ、それ……」 「だって、いつも『フィフス』か『渚』としか呼ばないじゃないか。場の勢いだったとしても、初めて君に名前で呼 んでもらえて嬉しかったよ」 そう告げるカヲルの顔は本当に嬉しそうで、何だかまともに見ることが出来ず、アスカは慌てて明後日の方向を向 いた。それでもカヲルが穏やかに笑っている気配は伝わってきて、頬だけではなくアスカの全身が熱くなっていく。 心臓も張り裂けんばかりの勢いで動いていた。 「これからも、名前で呼んでほしいな」 「……気が向いたらね」 彼の手や足が視界に入ることさえ堪えがたくなり、アスカは歩調を速めて二、三歩分先に立った。カヲルは無理に その隣に並ぼうとはせず、ゆったりと後ろからついていく。 「僕も君を、名前で呼んでみてもいいかい?」 「……一回だけなら」 自分が呼んだ分の借りを返すだけだ。アスカは自分にそう言い聞かせる。 「アスカさん」 「……『さん』は余計」 名前にさん付けされることに慣れていないだけだ。アスカは自分にそう説明する。 「アスカ」 「…………」 今の自分の顔をほんの僅かでも彼に見せたくなくて、アスカは更に歩調を速める。 「歩くの速いよ、アスカ」 「一回だけって言ったでしょ!」 振り向かないまま怒鳴りつけると、ごめんよ、と笑いながら謝る声が返ってくる。 彼を置き去りにするくらいの勢いでアスカはせかせかと歩き続けた。 だから、彼女は気付かなかった。 その背を見つめるカヲルの瞳が、いつしか翳っていたことに――。 |