「あの、惣流さん……渚君と付き合っているって、本当?」

 またか、とアスカは深く溜息をついた。隣ではシンジが乾いた笑いを浮かべている。
 今朝この質問をされたのは、目の前の女子二名で都合三回目だった。ちなみに最初の相手は三人組の女子で、二回
目に相手をしたのは男子一名。更に言えば、昨日一日でこの質問を八回受けている。
 何度となく繰り返してきた言葉を、いま一度アスカは口にする。

「付き合ってなんかいないわよ。ただのデマ」
「でも、デートしたって……」
「ネルフまで一緒に行っただけ」
「な〜んだ、良かったぁ!」

 あからさまにホッとした様子の女子二名。弾んだ足取りでC組に戻っていく彼女たちとは対照的に、アスカとシン
ジは朝から既に疲れきった顔をしてA組に向かう。

「毎日大変だね、アスカ……」
「ビラでも配ってやった方がいいのかしらね……」

 アスカが三年男子に絡まれて、そこにカヲルが『これから僕とデートなんです』と助け舟を出したあの日以来、こ
の騒動は続いていた。
 アスカは主にシンジと行動を共にしているのに、不思議と今まで彼と付き合っているという噂が流れたことはない。
姉弟的というか兄妹的というか主人と下僕的な雰囲気のせいだろうか。逆にカヲルと行動を共にしたのはあの日が初
めてだったにも関わらず、こちらは一発で噂になった。人の集まる昇降口でデートという直截的な単語を用いたこと、
演技とはいえ如何にも親しげに振る舞ってみせたこと、エヴァパイロットということを抜きにしてもアスカとカヲル
はそれぞれ注目を集めている存在だったこと――これらの相乗効果で、あっという間に学校中の話題になってしまっ
た。
 二年A組内ではすぐに噂を否定しきれたものの、クラスも学年も違う相手にまではなかなか伝わっていかない。
 何度も何度も同じ質問をされ、三年女子にはすれ違いざまに足を踏まれ(肘鉄を食らわしてやったが)、体育の合
同授業でB組女子とバレーボールをすれば集中攻撃され(軽く負かしてやったが)、帰り際には一年女子に木の陰か
ら涙目を向けられ(勿論無視してやったが)……ここ数日というもの、アスカにとって不愉快なことばかり続いてい
た。
 その中でも最も面白くないのは――

「……あ」

 シンジが妙な声を上げて立ち止まったので、何事かとアスカもそちらを見遣り……顔をしかめた。
 A組前の廊下でカヲルが男子生徒と話している。同じクラスの生徒ではない。声までは聞こえてこないが、どんな
会話をしているかは容易に想像がつく。
 カヲルは少し困りぎみではあるが、アスカが先程女子二名に向けたものとは比べ物にならないくらい愛想のいい態
度で対応している。もっとも、仏頂面で愛想の悪いカヲルなど、アスカは元よりシンジも誰も見たことはないだろう
が。
 男子生徒が軽く頭を下げ、ヒラヒラと手を振っている。話が終わったらしい。明るい表情でこちらを向いて、初め
てアスカに気付いた男子生徒は滑稽なまでに慌てた。ど、どうも、などとすれ違いざまにモゴモゴと言いながら走り
去っていく。カヲルの方も二人に気付き、ばつが悪そうな苦笑交じりに挨拶してくる。

「おはよう、シンジ君、惣流さん」 

 『惣流さん』と『渚』、または『セカンド』と『フィフス』。カヲルとアスカの互いの呼び方は何も変わっていな
い。精神的な距離は確かに以前より縮まっているが、気の置けない相手、というにはまだ微妙だ。あの日のように二
人きりで行動する機会が今後そうそう増えるとも思えない。付き合う、付き合わないなど問題外である。
 二人の関係はその程度にすぎない。

 それなのに。あるいは、だからこそ。彼との交際を否定して安堵されるたびにアスカは――甚だ面白くない気分に
なるのだ。



有限の日々   



「毎日本当にごめん。こんな騒ぎになるなんて思わなかった。軽率だったよ……」

 授業が終わり、シンクロテストのために全員でネルフに向かう道すがら、カヲルが心苦しそうに頭を下げる。

「謝らなくてもいいわよ。お互いさまだし、そもそもあんたが何か悪いことしたわけじゃないし。うちの学校には暇
人が多かったってだけでしょ」
「だけど誤解を招くような発言をしたのは確かだからね。シンジ君にも迷惑をかけてしまって……」
「えっ、いや、僕は別に何も……」
「でも、三年の奴に呼ばれたことあったじゃん。ったく、本人に直接尋ねる度胸もないんだからバカらしいったらあ
りゃしない!」

 その時はアスカがピンときて助けに入り、相手を罵倒しまくって、逆にシンジに宥められたのだった。

「まさかとは思うけどファースト、あんたのところにも誰か聞きに来たりした?」
「一度だけ」
「マジっ!? 何て答えたのよっ!?」
「知らない、って」
「……あんたのその淡泊さが、今は何となくありがたいわ」

 最初は四人で並ぶようにして歩いていたが、次第にシンジとレイが前を、アスカとカヲルが後ろを歩くという二列
の形になった。
 前列の二人は、聞く人によっては一方的にしか聞こえない会話をしていた。最近流しから変な匂いがするとか、昨
日の余り物のカレーを今度はカレーうどんにしようかなとか、シンジが取り留めのないことを話し続け、レイはただ
「……そう」「……そうね」と相槌を打つだけだ。
 しかしこれでもレイは興味深そうに話を聞いているのだと、他の三人には分かっている。普段は口数の多い方では
ないシンジも、自分だけ喋り続けることを苦にはしていない。それだけ、短くはない日々を共にしてきたのだ。
 一方、後列の二人の話題に上るのは、やはりここ数日の騒動のこと。

「昨日、青葉さんにからかわれてしまったよ……」
「ちょっと、ネルフにまで広まってるの!? ……ミサトの奴ね。本当に口が軽いんだからっ!」

 あの出来事の起きた翌日。学校中の人間から質問攻めされて辟易したアスカは、授業が終わるとすぐにヒカリとと
もに校舎を脱出した。約束していたアクセサリーショップを始め、目に付いた店に手当たり次第に飛び込んでは、目
に付いた品を手当たり次第に買いまくり、学校でのストレスを発散したのだった。
 自棄買いにも、その合間に漏らす愚痴にも、黙って付き合ってくれたヒカリ。
 いい友人を持った、としみじみ感じながら帰宅すると、珍しくミサトが早く帰ってきていた。そしてアスカの顔を
見るなり彼女は、ニンマリと笑いながら「アスカったらぁ、いつの間にか渚君とデートなんかしてたのねぇ〜ん。ダ
メじゃな〜い、保護者の私に報告してくれなくっちゃ〜」などとのたまってくれたのである。
 ――その後アスカが荒れ狂ってペンペンをおののかせ、シンジを嘆かせ、翌日には速攻で某ジャージと某メガネを
しばき倒したのは言うまでもない。

「さすがにネルフでは、騒がれるほどにはならないと思うけどね……。やっぱり問題は学校よ。あんたなんか、三年
男子に囲まれて袋叩きにされかねないわ。しばらくは一人で行動しない方がいいわよ〜。ほら、私の熱狂的なファン
って多いからさぁ」

 自虐的な笑いでも飛ばさなければやっていられない。それはカヲルも同様らしい。

「ハハッ、鈴原君が貸してくれたマンガの中に、そういうシチュエーションがあったな。でも残念ながら、そこまで
の事態に陥ったことはまだないねぇ」
「じゃあ、どこまでならあるのよ……っていうか、どういうマンガを借りてんのよ」

 どっちも秘密、と笑うカヲルに、アスカは大袈裟に肩を竦めてみせた。

「まぁ、人の噂も四十九日っていうし」
「七十五日だよ」
「とにかくっ! 放っとけばそのうち沈静化するわよ、うん」
「そうだね、早くみんな忘れてくれるといいね。君には加持さんがいるんだし」
「…………」

 加持の名前が出てきても、何故かアスカの心が躍ることはなかった。むしろ、今ここでその名前を持ち出されたこ
とが無性に寂しく感じられた。まるで、急に現実に引き戻されたかのように。

 思えば、アスカが加持のことを最後に考えたのはいつだったろう。

 以前は毎日考えていたはずだ。寝ても覚めても加持さんで、彼とデートをしている自分や、彼の隣でウエディング
ドレスを着ている自分を想像してみたりしたはずだ。
 いつから考えなくなったのだろう。
 何故考えなくなったのだろう。

 ミサトがいるから?
 エースパイロットとして認めさせるための努力で忙しかったから?
 ……それだけが理由ではないような気がする。

 ただ、これ以上加持の名前を出されたくないということだけは確かだったので、アスカは話題を少しずらした。

「そういうあんたこそ、好きな女とかいないわけ?」
「……あまりそういうことを考えたことはないな」
「それでも好みのタイプくらいいるでしょうに」
「好みのタイプ、ねぇ……」

 カヲルはしばし天を仰いでいたが、やがて何か閃いたようにアスカに笑顔を向けた。

「君かな?」
「殴るわよ」
「冗談だってば」
「それもそれで腹が立つ」
「じゃあ、何て言えばいいんだい?」

 何故こんなに絡んでいるのか、アスカ自身にも分からない。分からないまま、絡み続ける。

「告白されたりラブレター貰ったりってことが一度もなかったとは言わせないわよ。その中の誰かと付き合ってみよ
うとか思わなかったわけ?」
「……思わなかったな」
「私ほどじゃないにしても、可愛い子もいたでしょう? よりどりみどりじゃないの〜? 別に好きな女もいないん
だったら、試しに付き合ってみるくらいしてもいいんじゃない?」
「そうもいかないよ。僕にはやるべきことがあるんだし」
「……やるべきことって?」
「それは勿論、エヴァ搭乗資格を持つフィフスチルドレンとして――」
「あんたがそんなに、エヴァに入れ込んでいるようには思えない」

 カヲルの足が止まる。アスカもそれに合わせて足を止め、笑顔が固まっている彼をじっと見据える。





 何故エヴァに乗るのか、アスカはシンジに聞いてみたことがある。
『エヴァに乗って戦っていれば、自分が必要とされている感じがするから』
 それはアスカによく似た理由だった。

 何故レイはエヴァに乗るのか、アスカはシンジの口から聞いたことがある。
『みんなとの絆だから』
 それはアスカにも何となく理解できる理由だった。

 だが、カヲルはどこか違う。
 常に高いシンクロ率を維持し、訓練でもアスカに勝るとも劣らない成果を挙げながら、それを誇っている様子はな
い。エヴァに乗って戦いたいと、焦りを覗かせたことは一度もない。誰かが負傷すれば案じこそすれ、自分ならもっ
と上手く戦えた、などと見下したりすることもない。
 率直なところ、シンクロ率も訓練も、チルドレンであることさえも、カヲルはどうでも良いと捉えているようにア
スカの目には映るのだ。チルドレンであることに拘ってきた彼女だから、自分と対照的な無関心さがよく分かる。
 彼は常々、今までずっと研究所暮らしで、学校に通うのはこれが初めてだからとても楽しいと語っている。実際、
学校での彼はいつも楽しそうだ。些細なことにも興味を示し、積極的にみんなと関わり、揉め事が起きてもその柔和
な態度で自然と鎮めてしまう。人との触れ合いが好きなのだということが、見ている方にも伝わってくる。
 にも関わらず、女の子と付き合う気はないと言い切るカヲルに、アスカは違和感を覚えずにいられなかった。どち
らかといえば、異性と交際する楽しさをも享受しようという方が彼の性格では自然ではないだろうか? 少なくとも、
チルドレンとしての責務が理由であるはずはない。そんなことが理由だとは到底思えなかった。 





 ――足が止まっていたのはほんの僅かな間のことで、すぐにカヲルはまた歩き出した。アスカもそれに続く。前を
行くシンジとレイとの距離はあまり開いてはいない。
 アスカが何を言いたいのかはカヲルにも正確に伝わったのだろう。笑みを消し、口を閉ざし、正面だけを見て歩く
ようになった。アスカもそれに倣う。
 いつしか足取りは重くなり、シンジとレイとの距離が少しずつ開いていく。前を行く二人は相変わらず楽しげにし
ていて、後方の不自然な沈黙に気付く様子もなかった。
 どれくらい、そうして歩いていただろう。不意にカヲルが口を開いた。

「僕はね、嘘つきなんだよ」

 半分はアスカに、半分は自分自身に向けられているような口調だった。
 その顔に浮かんでいる笑みが自嘲的なものだと気付き、アスカは彼へと動かした視線をすぐに前方に戻す。今のカ
ヲルを見ていたくはなかった。

「笑いながら平気で嘘がつける。自分で嘘だと思っていないような嘘もつけるから、性質が悪いよね。誰にでも優し
いとか温厚だとか、みんなは持て囃してくれるけど、そんな立派な人格者じゃないんだよ、本当は」
「……私だって、御立派な性格なんかじゃないわよ。自己中心的だし、強引だし、すぐ怒るし……」
「そんなことはないよ」

 口調が変わった気がして、アスカは再びカヲルの方を向く。
 自嘲的な笑みは消えていて、代わりに遠くを見るような瞳をしていた。前を行く二人などよりもっと遠くを、まる
でこの街の果てでも見ているかのような瞳。

「君は生気に満ち溢れている」

 シンジとレイが交差点を渡っていく。

「生きようという意欲、より多くの歓びを掴みたいという渇望に溢れている」

 アスカとカヲルも渡ろうとした時、信号が変わり、二人の足は止められた。

「君は、自ら輝こうとする人間だ。まるで太陽のように」

 距離が開いていたことにようやく気付いたシンジとレイが、向こう側の歩道で待っている。

「君はとても眩しくて、魅力的で……好意に値するよ」
「……好意?」

 カヲルの視線が動く。青い瞳と赤い瞳が向き合う。
 遠くを見ているようだった彼の双眸の奥に、何かの感情が揺れた。唇が動きかけて、しかし何の言葉も発せられる
ことはなく、視線もまた前方へと戻される。
 先程覗かせた感情はもう、どこからも読み取れなかった。

 アスカは彼から視線を動かさなかった。動かすことが出来なかった。
 カヲルは確かに、何かを言いかけたのだ。おそらく、とても大事な何かを。それを聞き出さなくてはいけない。今
聞かなければ、もう二度と聞けないような予感がした。
 だが、どうやって先を促せばいいのか、彼女には分からなかった。

 ――今、何を言おうとしたの?

 ――今、何を考えているの?

 ――ねぇ、こっちを向いてよ。

 そのどれを口にしても、彼は応えてくれない気がする。口にすべき言葉が思いつかないから、アスカはただカヲル
の横顔を見つめ続けた。
 このまま二人でこの場所に立っていれば、いずれ彼の方が根負けして、言ってくれるかもしれない。だから、信号
なんて変わらなければいいと切に願った。
 しかし、カヲルは歩き出してしまった。信号は変わってしまったのだ。
 彼に視線を据えたまま、アスカものろのろと歩き出す。やがて交差点を渡り切る。

「ごめんよ、待たせてしまったね」

 シンジとレイにそう謝罪する声と表情は、既にいつものカヲルだった。自嘲も翳りも一切ない、穏やかな声と柔ら
かな表情……。
 彼と自分にとって非常に大きな意味を持っていただろう瞬間が、これで完全に失われてしまったことをアスカは悟
った。





 その日のシンクロテストで、アスカは前回より4ポイントも数値を下げた。
 最近色々あって疲れているんですよ、とシンジがリツコに対してフォローを入れていたが、それだけが原因ではな
いことをアスカ自身は分かっていた。





 夜、ベッドに入って眠ろうとしたアスカの脳裏にふと、あの瞬間に試みてみるべきだった行為が浮かんだ。

 ただ一言、呼んでみれば良かったのだ。
 カヲル、と。

 そうすれば、彼は何か言ってくれたかもしれない。少なくとも、アスカの方を向いてくれたかもしれない。

 けれどアスカはもう、あの瞬間に戻ることなど出来ないのだ。
 永遠に。


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