それを伝えた後、ゲンドウは言い添えた。 「……信じがたいがな」 アスカだって信じられなかった。理由は彼とは異なるが。 総司令室を辞去し、マンションに帰るべくエレベーターに乗り込んでも、彼女は半ば放心したままだった。ぐるぐ ると、頭の中で言葉が回る。 やがて指定した階層に到着し、扉が開く。まだ気持ちの整理はついていない。足を動かす気になれなくて、アスカ はそのまま立っていた。しばらくして扉が自動的に閉まる。それでも彼女は動かなかった。 次の指示を待って停止しているエレベーターの中は、静寂に包まれていた。それにつられるようにして、波打つ心 が僅かながらも静まっていく。 もう一度、ゲンドウから聞かされた言葉を反芻する。 ……やはり信じられなかった。 疑っているわけではない。ただ、受け入れられるだけの下地が出来ていないのだ。 思いを巡らせていると、一つの姿が頭をよぎった。 ほんの少しだけ考えてから、彼女はある階層へ行くためのボタンを押した。 「……あんたは、知ってたの?」 問い掛ける。答えが返るわけもないのに。 水底に沈む相手を、アスカはじっと見つめる。 赤い巨躯。 彼女の愛機。 整備スタッフが慌ただしく行き交い、修理を進めている。ケイジの隅に佇むアスカを気に留める者はいない。 損傷の度合いを確かめたかったわけではない。作業の進捗具合が知りたかったわけでもない。彼女がここに来たの はただ――奇妙な理由だと承知で言えば――会って、質したかったからだ。 「私より先に知ってた? だったら順番が逆ってものよ」 アスカは知らずにいたのだ。 つい先程まで、ずっと。 知ったら知ったで、分からないことばかりでいる。 「あんたは何を見て、何を聞いたの? ……教えなさいよ」 ゲンドウから聞かされた言葉だけでは足りない。 シンジから聞かされた話だけでは足りない。 彼女の求めに応じる義務が、弐号機にはある。 「あんたは、私の代わりに行ったんだから……」 弐号機は何も答えない。アスカは何も分からない。 自分は今、嬉しいのか、腹立たしいのか、悲しいのか。 喜べばいいのか、怒ればいいのか、泣けばいいのか。 そんなことさえ分からない。 そして―― ミサトの執務室で彼と再会を果たすに至っても、アスカはまだ、分からないでいる。 有限の日々 5 「カヲル君……」 「……やあ」 シンジにどんな表情を向けるか、彼はしばし迷ったようだったが、最終的に少し照れくさそうに笑ってみせた。 「迷惑をかけてしまって、すまなかったね」 「そんなの気にしなくていいよ! それで、あの、学校にも行けるの?」 「うん。また通っていいって」 「よかった……本当によかったよ……」 今までと変わらない付き合いが出来ることをシンジは心から喜んでいたが、それを部屋の奥から見つめるミサトの 顔には、複雑な色が浮かんでいた。アスカの表情も硬いものだった。 隣でずっと無言を通している彼女に、シンジが何かを促すような目配せをするが、アスカは無視した。温かいとは 言えないその視線を、カヲルは静かに笑って受け止める。 「……ミサト、場所を変えてもいい?」 「いいわ。ただ、本部からは出ないで」 Danke、と礼を述べてアスカは踵を返す。ミサトに会釈し、シンジに微笑を残して、カヲルもその後を追う。 二人がドアの向こうに消えるのを、もう二人は黙って見送った。 先に立って歩く彼女は振り返らなかったし、彼も隣に並ぼうとはしなかった。 どこへ行くとも告げなかったし、どこへ行くのかとも尋ねなかった。 会話は一言も交わされなかった。 特に速くもない足取りで通路を進み、やがて辿り着いたのは、パイロット用のロッカールームのある区画。四人の 子供以外でここを訪れるのは清掃作業員くらいなもの。人の気配はまるでなかった。 アスカはロッカールームではなく、その近くに設けられている自動販売機コーナーへと足を向け、備え付けの長椅 子に腰を下ろした。カヲルも向かい側の椅子に座る。彼女の真正面からは少しずれた位置だった。 一呼吸置いてから、低い声でアスカが切り出す。 「――司令に言ったこと、本当なの?」 カヲルの目が意外そうに見張られた。 「碇司令って……聞いたの? 彼から?」 「総司令室に呼ばれた時にね」 「あの中では一番期待出来ないと思ったんだけどな。ちょっと驚いたよ。あれで案外、律儀だったりするのかな?」 彼はそう言って笑ったが、アスカは到底笑える気分になかった。 「……本当なの?」 もう一度尋ねると、カヲルの笑みが遠い何かを見るようなものに変わる。 「本当だよ」 アスカの顔が下を向き、両手がスカートをぎゅっと握った。 深い響きのある声が、彼女の耳に流れ込んでくる。重なるようにして頭の中で、不信や侮蔑よりも当惑を多く含ん だ、ゲンドウの声が再生される。 「何故サードインパクトを起こさずに戻ってきたのかと、問い質されてね」 ――奴は言っていた―― 「理由の一つとして挙げたんだ。君のことが」 ――お前のことが―― 「好きだからって」 ――……使徒にそんな感情が芽生えるとは信じがたいがな―― 長く、沈黙が続く。 布地を強く握る手が、アスカの指先に鈍い痛みを生じさせる。 「……どうして?」 ようやく彼女が口に出来たのは、そんな短いものだった。 「どうしてよ……」 聞きたいことがあり過ぎて、その一言しか出てこなかった。 アスカはずっと考えてきた。 ゲンドウの口から伝えられて以来、たくさんのことを、ずっと。 嬉しいのか、腹立たしいのか、悲しいのか。 喜べばいいのか、怒ればいいのか、泣けばいいのか。 そんなことさえ分からず、考え続けてきた。 生きているのか、死んでいるのか。 また会うことが出来るのか。 考えたくないそんなことさえ、考えないわけにいかなかった。 答えは一つも出なかった。 見つけられないのだ、彼女一人では。 カヲルは黙っている。下を向いたままのアスカにはその表情は窺えない。 二人とも身じろぎ一つしないでいたが、ふいとカヲルが立ち上がった。 「長い話になりそうだから、先に飲み物を買ってくるよ。何がいい?」 「……コーヒー。ブラックの奴」 「分かった」 彼女は苦い物でも飲みたい気分だったし、彼もこれから話すことをまとめるために、少し時間が欲しかったのかも しれない。同じ缶を二本買って戻り、一本をアスカに渡すと、思案に耽るような面持ちで自らの分を飲み始めた。ア スカも無言でコーヒーを啜る。 彼女の缶の中身が三分の一程度まで減った頃、 「……やはり、最初から話すべきなんだろうな」 そう前置きして彼は語り始めた。 ネルフに来たそもそもの経緯、ヒトとの関わりの中で感じたこと、少しずつ変わっていった心……。大仰に感情を 交えることもなく語られていく内容に、アスカは黙って耳を傾ける。 やがて話は彼女自身のことに及んだ。まだ新しい、鮮明な記憶が呼び覚まされ、その瞬間の想いまでもが蘇る。 彼の言葉の裏に、表情の陰に、何があったのかをアスカは知った。聞かせてもらえなかったものを、見つけさせて もらえなかったものを、隠し通されてしまったものを――知った。 「言おうとは、思わなかったの……?」 気が付けば、そんな言葉が口をついていた。 「私に伝えようとは……思わなかったの……?」 もし彼が、気持ちを伝えてくれていたら。そうしたらきっと―― だがカヲルは、逆に彼女に問い掛けた。 「伝えたところで、何が変わったんだい?」 きっと―― 「何が変わったとしても、僕があの場所に下りていくことだけは変わらなかったよ、きっと」 反論を試みて、しかしアスカは力なく口を閉ざし、目を伏せた。 ……彼の言う通りだった。 正体を隠してここにいたのだから、隠すことでここにいられたのだから、いつかは必ず破綻が訪れたはずなのだ。 偽りは所詮、偽りにしかならない。 それを裏付けるようにカヲルが先を続ける。 「嘘をつき続けるのは限界だった。真実を明かして楽になりたい――そういう思いもあったよ。だから、全てを終わ らせることにしたんだ。どんな形であろうとね」 彼の想像していた結末は、どんなものだったのか。考えたくないことを頭から追い出したくて、アスカは唇を噛み 締めた。 「地の底にあったのは、懐かしい、還るべき場所ではなかった。それなら消してもらうだけだった。還れないのなら、 僕が在り続ける意味などないから。……そのはず、だったから」 言葉が途切れる。 「……『帰ろう』と言ってもらえるなんて、思わなかった……」 そこにはハッとさせられるような深い感慨が込められていて、アスカの顔を上げさせた。カヲルは微笑とも何とも つかない表情を向けてくる。 「最初からまた始めようという提案は、とても魅力的だったよ。君の名前まで出されてしまったらもう、消してくれ なんて言えなかった……」 あるいは彼は、笑いたかったのではなくて、 「会えるものなら、もう一度会いたいって……思ったんだ……」 泣きたかったのかもしれない。 「…………」 アスカは、何も言えなかった。 言いたいことはたくさんあるのに。言うべき時だと感じてもいるのに。 全身が痺れたようになってしまって……言えなかった。 彼女が何も言わないことをどう受け止めたのか、カヲルの表情が曖昧なものから苦笑に変わった。 「――とはいえ、ほとんど期待していなかったよ。まずは尋問が待っているとして、それが終わればすぐに消される だろう、とね。僕を生かしておくわけがないんだし」 穏やかではないはずの内容が、まるで天気の話か何かのように、さらりと軽く語られていく。 「せめて、何かを残したかった。だから碇司令達の前で、君が好きだと口に出して言ってみせたんだ。言葉にした以 上は、彼らの中に残り続けるから。……僕が消えても想いは残る。想いだけは、残ってくれる。いつかは君にも伝わ るかもしれない。それなら戻ってきた甲斐もあったと、そう思えた」 まぁ、結局はこうして生きているんだけどね――と肩を竦めてみせてから、彼は一言添えた。 「……もう一度会えて、よかったよ」 その微笑は、どこまでもただ透き通っていた。 再び沈黙が訪れる。 話は終わったのかと視線が問い掛け、話は終わったと視線が答えた。 今度はアスカの番だった。 意識的に呼吸を繰り返し、気持ちを落ち着かせていく。 一つ、彼女には確認したいことがあった。 「……『碇司令達』って言ったわよね? その場にいたのって、司令と、あと副司令と――」 「葛城さんと赤木さん。全部で四人だよ」 思わず溜息が零れ出る。 「どうりで、場所を変えたいってのをミサトがあっさり認めたわけだわ……」 「……何か問題があったかな?」 「色々とね」 「どんな問題?」 「例えば、あんたは私の気持ちなんか全然考えてないってこと」 痛いところを突かれたのだろう、カヲルが言葉に詰まった。 「……確かに、配慮していたとは言えないね」 「私のことが好きだったっていうのを、あんたの死んだ後で聞かされたら私がどう思うか……そこまで考えなかった でしょ?」 「……考えなかった」 「勝手過ぎ」 低い声で放たれた矢が、更に彼を沈黙へと追いやる。 「自己満足な告白をされたって嬉しくないわよ。私が望んでいたのは……そんなことじゃない……」 「……すまなかったね、セカンド」 「……謝られたって嬉しくない」 「うん……」 視線を外し、アスカは他人事のような口調で、 「あんたを追って行ったのがシンジじゃなくて私だったら、連れて帰らずにその場で殺してたかもね」 物騒なことを言った。 「ミサトの立場にいたとしたら、絶対に殺せって喚き散らしたかしら。連れて帰ってこられても、問答無用で撃ち殺 そうとしたと思うわ。あんたが銃で死ぬのかは知らないけどさ」 そんな自分の姿が、彼女には容易に想像出来た。 少し歯車が違っていれば、ありえたかもしれない過去。 「――でも実際は、私はどっちの立場にもいなくて」 話すトーンが自然と落ちた。 「追いかけることも、命令することも出来なくて……」 「今からでも遅くないよ」 穏やかな声に視線を戻すと、彼は微笑を浮かべていた。アスカが今まで見てきた中でも、一番優しく見える微笑。 「僕を殺したければ殺していいよ。シンジ君には悪いけれど、それだけの権利が君にはある。気の済むようにしてく れていい。君に殺されるのなら仕方がな――っ!!」 ――立ち上がったアスカが思い切りその脛を蹴った。身を折り、苦痛に呻く彼を憤怒の形相で見下ろして、肩をわ なわな震わせながら轟雷のような怒声を浴びせる。 「あんた、バカァッ!? 何がどうしてそういう話になるわけっ!? 誰も殺してやるとは言ってないじゃないのよ、 ええっ!?」 カヲルとしては何か言い返したいところだったかもしれないが、生憎彼はまだまともに口が利ける状態になかった。 銃で死ぬのかはともかくとして、泣き所はやはり泣き所らしい。 「私が言いたいのはねっ、あの時何も出来なかった私がどんな気持ちでいたか、少しは考えろってことよっ!! 大 体あんたを殺す気だったら、とっくにその首、絞め上げてるわよっ!! 私の気の短さは知ってんでしょうがっ!!」 「うん……今……あらためて思い知った……」 弱々しく返された声を鼻であしらい、憤然と座り直すと、アスカはその存在を忘れかけていたコーヒーを一気にあ おった。とっくに温くなってしまっていたが、煮えくり返った腸を少しは冷やす効果があった。カヲルの方も、何と か零れずに済んだ自分のコーヒーを飲んで息を整えている。 「――で。あの時の私の気持ちは想像がつくわけ?」 「……怒ったんじゃないかな?」 「多少はね」 「多少、で済むものじゃないだろう? 恨まれ、憎まれて当然だと思っているんだけど」 「シンジがあんたを恨んだり憎んだりした? 私も同じだとは考えてみないの?」 真意を探るように、カヲルが眉根を寄せる。アスカは説明を加える代わりに手招きをしてみせ、自分の隣を指し示 した。当惑気味にしながらも彼は席を移ってくる。 自然に手を下ろしていれば触れ合うこともないくらいの距離を挟んで、二人並んで座る。 「あんたに言いたいことは他にも色々あるんだけどね。まず――」 一旦言葉を切ると、アスカは体ごとカヲルに向き直り、神妙な表情で頭を下げた。 「……ひどいことをいっぱい言ってきたのに、まだ謝ってなかった。ごめん。……本当に、ごめん」 「…………」 無言。 返ってこない反応に不安を掻き立てられ、上目遣いに様子を窺う。 何度も目を瞬いてから、ようやくカヲルが口を開いた。 「……そういえばそんなこともあったね」 こちらの真剣さをぶち壊しにされ、アスカのこめかみがひくつく。 「人がせっかく謝ってるってのに、何よ、その言い草……」 「いや、僕は別に気にしていなかったし。……でも今になって思い返してみると、確かに、胸を抉られるようなこと をたくさん言われてきたんだったね。僕なんか必要ないとか、顔も見たくないとか」 「あらためて言わなくていい……」 壁に自分の頭を打ち付けたい気分だった。 「もうそんなふうには思ってくれていないなら、それでいいよ。セカンドが気にしていたとは思わなかった」 「微妙にムカつく……って、それよ、それ! 言いたいことの二つ目――三つ目?――まぁ、どっちでもいいわ、と にかくっ!」 ビシリと指を突き付ける。 「今後、『セカンド』って呼び方禁止! 『惣流さん』も禁止!」 「……名前で呼んでいいのかな?」 「その辺は自分で判断するのね。で、次がかなり肝心なんだけど――」 彼の目を見据え、挑みかかるようにしてアスカは告げる。 「私もあんたのことが好きよ、カヲル。勿論、異性としての意味でね」 完全に予想外の言葉だったらしく、カヲルは呆気に取られていた。 「――まさか」 「何よ、まさかって」 すぐには信じてもらえないかも、とは思っていたが、さすがに一言で否定されてしまってはアスカも立つ瀬がない。 憮然とした口調になる。 「僕は使徒だよ?」 「知ってるわ」 「ずっと嘘をついてきた。騙し続けてきたんだ」 「今も何か嘘をついてるの?」 「今は……ないかな」 「私のことが好きだっていうのは?」 「嘘じゃない」 「じゃあ、問題ないわよ」 「いや、あのね……」 何て言えばいいんだろう、と彼は困り果てたように額を押さえた。 「大体君は、加持さんが好きなんじゃなかったのかい?」 「好きだったわ。でも今は、あんたが好き」 「……そんなに簡単に、気持ちが変わるものなの?」 「私だって、加持さんより好きな相手が出来るなんて思ってもみなかったわよ。でも現に、こうなっちゃったんだも の」 「まぁ、僕もヒトを『好き』になるなんて思わなかったしね……そう考えればお互いさまか」 「自分の心を完全にコントロール出来るなら、世の中もっと平和よ。その分、面白みもなさそうだけど」 「確かに」 頷き合いはしても、本題からは離れてきている。気まずさを感じたわけでもないが、何となく遣り取りが途切れ、 後が続かなくなった。 アスカの手が空き缶を持て余し気味にしているのに目を留めたのか、カヲルが掌を上にして彼女の前に差し出して きた。無言の内に受け渡しが済むと、彼は自らの分も持って立ち上がり、後方のごみ箱へと歩いていく。アスカも目 だけでそれを追う。 捨てられる二本の空き缶。空のごみ箱特有の残響が完全に消えると、彼女に背を向けたまま、カヲルが静かに問い 掛けた。 「……何故、使徒である僕を好きになれるんだい?」 アスカも同じくらい静かな口調で答える。 「あんたの正体を知る前に好きになってたんだから、仕方ないじゃない」 「後悔している?」 「だったら好きだなんて言わないわよ。それ以前に、こうしてあんたと二人でいたりなんかしない」 半身になって彼を見る。カヲルも首だけ回して彼女を見遣る。 表情のないその顔を半ば睨むようにして、アスカは眼光と釣り合うだけの強い声音で言い放った。 「使徒だろうが何だろうが、私はあんたを失いたくないって思った。それが全てで、私にとって何よりの真実だわ。 誰にも文句は言わせない。例えあんたであってもね」 カヲルの目が眩しそうに眇められる。顔を伏せ、そのまましばらく考え込んでから彼は戻ってきた。腰を下ろした のは先程までと同じ位置。アスカに近付きもしなければ遠ざかりもしなかった。 無表情に床の一点を見つめながら、彼はゆっくりと口を開く。 「――今でも、声が聞こえるんだ」 「声……?」 「還りたい、という声。僕自身の、あるいは兄弟達の声」 『兄弟』の意味を遅れて理解すると、アスカの体の芯が冷えていった。 「還るべき場所がどこに隠されていたのかは、感じ取った。だから前より強い声になっている。多分、僕が死ぬか還 るその時まで、ずっと聞こえ続けるんだろう」 「…………」 微かに震える両の手が、再びスカートを握り締める。 カヲルは淡々と言葉を継いでいく。 「ヒトの世界で生きることが許されたなんて、楽観はしていない。どこまで行っても僕は使徒であって、人間じゃな い。いずれあらためて終わりが来ても、驚くには値しないんだ」 俯いて耳を塞いでしまいたいのを堪え、アスカはその顔を彼に向け続けた。 「シンジ君に夢を見させてもらった。想いを残すことが出来た。もう一度、君に会えた。……充分だ。充分過ぎる。 これ以上望むものなんてなかった、ここで君に殺されたってかまわなかった、なのに――」 声が、揺れる。 視線が彼女の方へと動く。 「君が、好きだと言ってくれたから……欲というものをかいてしまう」 双眸の奥に心が覗く。 躊躇いと不安、そして切望。 「……もっと、君と一緒にいたい。もっと君に近しい存在になりたい。同じ時を過ごしたい。……そう望んでも、い いのかな? 君の傍で生きたいと……そう望んでも……?」 「いいのよ……いいに決まってる」 誰が許さなくてもアスカは許す。 「そうしなかったら許さない……」 彼がまたいなくなったら、今度こそ地獄まで追いかけて行って蹴り倒すだろう。 「だから……」 だから―― 「傍に、いて……」 俯いた顔を雫が伝った。 「あんなのもう、やだ……いなくなるのだけは絶対やだ……」 それが望み。 呆れられても、怒られても、避けられてもいいからと、ただひたすらに望んだこと。 「ここにいて……ずっといてよ……」 もっと望んでもいいのなら―― 「私の傍に……ずっといて……」 「……うん。いるよ」 短い音に力を込めて応えが返る。 「ずっと、いるから」 「ずっとよ……ずっとだからね……。嘘なんかつかないでよ……?」 「つかない。君の傍に、ずっといる」 顔を上げると、彼が笑いかけてくる。 「……ありがとう、アスカ」 透明過ぎたりも優し過ぎたりもしない、温かいカヲルの笑み。 濡れた瞳にそれを映して、アスカもようやく、笑顔になった。 どこか、既視感がある。 いつの、どんな状況と重なるのかを考えて、アスカは交差点での記憶に辿り着いた。 あの時も彼女の隣には彼がいて、視線が交錯し、しかし言葉は交わされることなく視線もまた外された。 あの時確かに、二人の間で何かが始まり、何かが終わりを告げたのだ。 今、彼女の隣には再び彼がいて、視線は交わったまま外れない。ただ、いつしかお互い真顔になっているだけだ。 二度と戻らないと思っていた瞬間は、形を変えて戻ってきた。 今度は何が終わり、何が始まりを告げるのか。 ――予感はあった。 カヲルの手が伸ばされてくる。青い瞳と赤い瞳の距離が縮まる。 彼に触れられるその時を、胸を高鳴らせながらアスカは待った。 そして――日常が戻ってくる。 今までと変わらないようでいて、少しだけ違っている日常が。 違いを周囲に知らしめたのは、揃って休んでいたパイロット達が数日ぶりに登校してきた日の、朝の挨拶。 「おはよう、シンジ君、アスカ」 「おはよう、カヲル君」 「…………」 クラスメートのどよめく声に、アスカは激しい頭痛を覚えた。『学校以外では』と注釈を付けるべきだったかも、 という後悔が、そこはかとなく込み上げてくる。 「どうかしたのかい、アスカ?」 「……あんた、わざとやってる?」 「何のことかな?」 「名前呼び捨て!?」「休んでる間に何があった!?」「ネルフで根性合宿!?」「合宿を通じて深まる関係!?」 と、あちこちで話が飛び交い始める。「何だか騒がれているみたいだねぇ」と他人事のように笑うカヲルに、シンジ が苦笑を返す。レイは一人泰然と本を読んでいた。 突撃インタビューをかましてきた某ジャージと某メガネをとりあえず肘と裏拳で沈めると、アスカは肺の中の空気 を全て吐き出すかのような、深い深い溜息とともに席に着く。何も聞かずにただ微笑んで、休んでいた間の授業のコ ピーを差し出してきたヒカリが彼女の救いだった。 休み時間の内に、二人は本当に付き合い出したのではないかというところまで憶測は進み、昼休みにはもう、他ク ラスや他学年にまで噂が伝わっていた。 話が違うじゃないかと詰め寄られたカヲルは、 「でもそういうことになったから、今後はアスカに近付かないでね」 と、どこかどす黒いものの漂う笑顔を振りまき、一方のアスカは、 「――あぁ、もうっ!! あの時はそうじゃなかったけど、今はそうだっていうだけの話よっ!! 文句があるなら まとめてかかってきたらどうっ!?」 ……逆ギレ気味に開き直るしかなかった。 放課後にはまた、ネルフへの道を四人で辿る。本日のスケジュールは戦闘訓練。 しかしカヲルによると、向こうに着いたらまず紹介したい相手がいるらしい。 「ここで生きると決めた以上、君達だけを戦わせるわけにはいかないからね。『彼』を呼ぶよ」 その『彼』というのが、失われてしまっていたエヴァ4号機であることも。 ジオフロント内に突如現れた銀色のエヴァによって、本部が大混乱に陥ることも。 結局その日は訓練どころではなくなってしまうことも。 カヲル以外の三人はまだ、知る由もなかった――。 アスカはチラリと横を窺った。そこには黙々と歩くレイがいる。 前を行く男二人は、楽しげに今日の出来事などを語り合っているが、女二人の方は未だ一言も会話がない。 話をしても反応が薄くて張り合いに欠けるため、アスカはあまりレイと並ぼうとはしない。しかし今日は自ら、彼 女の隣の位置を占めた。どうしても、言っておかなければならないことがあるのだ。 一つ深呼吸をし、握り拳を作って自分に気合を入れると、前方に届かない程度の声音で思い切ってそれを口にする。 「――あの時は、ありがとう」 唐突に投げ掛けられた漠然とした言葉に、レイが小首を傾げる。 「ほ、ほら、あんたに色々と世話になった……あの時」 視線をさ迷わせていたが、やがてどの時のことを言われているのか思い当たったのだろう、彼女は軽く頷いた。 「借りを作ったままっていうのは性に合わないから、あんたに何かあった時、盛大に返してやるわよ。せいぜい楽し みにしておくのねっ」 「……そう」 返事はいつもと同じく簡潔だった。 「それと、あんたに聞きたいことがあるのよね」 「何?」 「あの時、私に『大丈夫』って言ったじゃない? あれって、どういう根拠があったの?」 「根拠……別になかったわ」 「はぁ!? とりあえず言ってみただけ!? うわっ、信じらんない。無責任ねー」 「無責任……そう、私、無責任だったの?」 おそらくそれは、ファーストチルドレン・綾波レイに対して初めて使用された単語だったろう。レイは新鮮な響き を味わうかのように、無責任、と口の中で繰り返した。 「根拠も何もなかったなら、どうしてあそこまでしてくれたのよ? 命令違反だったわけでしょうが」 命令に従う。 使徒を殲滅する。 シンジの助勢に向かう。 カヲルのもとに行く。 そのいずれのためであっても零号機に乗る必要があったのに、彼女はそうしなかった。大して親しくもしてこなか ったアスカの傍に留まった。 より大きな懸案の陰に隠れて、レイの一件は特に取り沙汰されなかったらしいが、本来なら独房に入れられてもお かしくないほどの問題行動だったのだ。今まで彼女は、命令に背くどころか反発一つしたことがなかったのに。 それにアスカは別の事実も知っている。 監視の強化は伴うとはいえ、カヲルがフィフスチルドレンの身分に戻ることが認められた理由について、ミサトは こう語った。 「つまるところ、もうサードインパクトを起こす意志もない使徒一体の殲滅と引き換えに、パイロット全員に離反さ れるのは、あまりに割に合わないって結論になったのよねぇ」 納得出来ているというには苦く、不満があるというには優しい、そんな表情で語ったのだ。 パイロット全員――。 そういう言い方をするからには、レイも含まれているはずだった。それは彼女がゲンドウに逆らったことを意味し ている。 何がそんな行動へと駆り立てたのか、アスカは知りたかった。 レイはすぐには答えなかった。アスカも急かしはしなかった。黙って並んで歩を進める。 やがて二人の間に声が響いた。 「……あなたが、泣いていたから」 前を向いたまま、レイは語る。 「あなたが泣いていたから、命令に従えなくなった。……私が行ったら、あなたは一人で泣くことになる。彼を殲滅 したら、あなたはきっと、もっと泣く。だから、従えなくなった……」 記憶の中の情景を見つめるようにして語っていく。 「涙を流すほどに強く、激しく、誰かを想う気持ち。……私には、分からない。あの人のことだって、そんなに強く は想えていない。あなたの気持ちは分からなかった。ただ、これだけ強い想いが報われずに終わるのは、嫌だと思っ た。彼がいなくならずに済むよう、願った。――碇司令にも、そう伝えた」 風が、吹き抜ける。頬を撫でて髪を揺らす。 心地よさに誘われたのか、レイが視線を上向かせる。アスカも視線の先を追う。そこには澄んだ空がある。 高く広く、青い空。レイの髪と同じ色。 「あなたに泣いてほしくなかった。流れる涙を止めたかった。出来ることがあるなら、したかった。ただそれだけが、 あの時、私を突き動かしたの……」 「ファースト……」 思いがけない言葉にアスカの胸が熱くなり、 「あれが、同情というもの?」 ……一瞬で生温くなった。 「ちょっと、それじゃ私がミジメみたいじゃないのよ! 友情とか言えないわけ!?」 「友情……友人同士の間に存在する感情。……私とあなたは友人なの?」 「そういうことは聞くもんじゃないわよっ!!」 後ろで上がった大声に、カヲルとシンジが振り返る。 こっちを向くな、とアスカが怒鳴る。 無責任、友情、友人、とレイが口の中で繰り返す。 高く広く、青い空の下、いつもの道を一緒に歩く。 解決したのは僅かなことだけ。 先の保証は何もない。 この日々は今日、粉々に砕けるかもしれない。 この世界は明日、破滅を迎えるかもしれない。 だから彼女達は、今この瞬間を大事にして生きる。 ――生きていく。 |