――今日は絶対にろくでもない日だ。
 発令所に向かうエレベーターの中で、アスカはそう断定する。
 この場にいるのは彼女一人。学校からネルフ本部に至るまではレイと一緒だったが、プラグスーツに着替える必要
のある者とない者とで、本部に着いてすぐに行き先は分かれた。
 正確に言えば、アスカも着替えるよう指示されてはいる。だが、従う意義を見出せなかったので無視した。エヴァ
で出させてもらえないのに、プラグスーツだけ着て何になるのか――。

 午後の授業の最中に鳴り響いた携帯電話。パイロットに非常召集を告げる音。
 本部施設内に使徒出現という切迫した事態に、しかし何故かマヤが伝えてきたのはレイへの出撃命令と、アスカへ
の待機命令だった。
 実験が予定されていたため既に本部にその身を移していたシンジが、先行して使徒を追撃するという。それはいい。
だが何故、アスカが待機なのか。本部内の戦闘ということでエヴァ三体の同時展開が困難なのだとしても、何故レイ
の方に出撃命令が下るのか。シンクロ率、訓練での成績、戦闘での実績――いずれにおいてもアスカの方が優れてい
るのに。
 納得がいかず、説明を求めて食って掛かったが、マヤは弱々しい声で言い淀むばかり。通信当初から彼女はそんな
調子で、使徒という単語さえ満足に口に出来なかった。怒鳴りつけながら話を聞き出してきたアスカもいいかげんに
業を煮やし、「もういいわよっ! そっちへ行って直接ミサトに聞くからっ!」と吐き捨てて通信を切るに至った。

 その宣言通り、本部に着くや発令所へと直行しているのだが、機械の上昇速度に任せるしかない現状がアスカには
まどろっこしくてならない。イライラとつま先を動かし続ける。
 そもそも今日は朝から、不安や焦燥といったものが彼女を苛んでいた。

 ――いなかった。
 教室に入るとすぐに捜すようになったその姿が、今朝は見当たらなかった。
 HRが始まっても、授業が始まっても、来なかった。
 それだけで、ずっと落ち着かなかった。

 挙句が使徒の出現、意味不明の待機命令。
 もやもやとした気持ちをぶつけるべく鉄の壁を蹴ろうとした時、軽やかな音を立ててエレベーターは止まり、扉が
開いた。肩透かしを食らってアスカの気分は余計にささくれ立ったが、とりあえず目的を果たすべく通路を駆け、発
令所の自動扉を怒声とともにくぐり抜ける。

「ちょっとミサト、何で私が待機なのよっ!? ――って、何よ、これ?」

 ずかずかと歩を進めると、スクリーンに躍るLOSTの文字が嫌でも目に付いた。その中にはEVA−02の表示
もある。

「何で弐号機が……一体どうなってるのよ!? 納得のいくように説――」

 視覚から情報を集めようと、あちこちに視線を走らせて。
 ある一点を見た瞬間、アスカの目が、足が、口が、動きを止めた。

 サブスクリーンに映し出されている静止画像。
 そこには彼女の愛機と、今日一日いなかった相手が――いた。



有限の日々   



「……弐号機は使徒に乗っ取られたわ。だからあなたは出撃出来ないの」

 アスカはぎこちなくそちらを向く。

「現在初号機が目標を追撃中。ただし、強力なATフィールドによって光波、電磁波、粒子、全てが遮断されてしま
ったため、モニターもパイロットとの連絡も不可能。正確な状況は把握出来ずにいるわ」

 今まで、どんなに緊迫した戦況下であっても耳にしたことのなかった、低く押し殺された声。乾き切った、事務的
な口調。感情の一切を削ぎ落としてしまったような、ミサトの横顔。
 その説明はアスカの頭の中に半分も入っていかない。ただ、使い慣れているはずの単語への違和感が激しく押し寄
せてくる。

「……ねぇ……目標って……」

 やけに寒い。
 心臓が奇妙なリズムを刻んでいる。

「使徒、って……」

 口の中が乾いていく。
 舌が上手く動いてくれない。

「……あいつ……なの……?」

 言葉にした途端、現実味がまるでなくなって、アスカの顔が笑みのようなものを形作った。
 現実味なんてまるでない。これは……そう、何かの訓練なのだと当たりをつける。
 本部の地下やエヴァを使っての、大掛かりな訓練。御丁寧に画像まで用意しているという手の込みよう。きっと発
案者はミサトだ。真剣な顔の裏では、「そうよ〜、あの子が使徒役だからね〜」と明かすタイミングを計っているの
だろう。
 彼女が言いやすくなるように、アスカは顔の筋肉を懸命に動かして、なるべく明るそうな表情を作ってみせた。あ
んたの考えなんかお見通しよ、と目で伝えてやろうとする。「やっぱりアスカは騙せなかったかぁ」と残念がればい
い、ざまあみなさいだ。そう心の中でせせら笑う。

 ……ミサトは、笑わなかった。固く結ばれた口元が緩むことはなかった。

 リツコを見る。
 アスカが入ってきた時に一瞥を寄越したきりで、後はずっと背を向けていた。話しかけられることを拒むかのよう
に。

 オペレーター達を見る。
 彼らはただ仕事をこなしていた。沈んだ声で、俯きがちに。

 上層にいるだろうゲンドウや冬月の方は見なかった。
 そちらを仰いだところで、アスカに反応を返してくれるとも思えなかったから。

 沈黙だけが、流れていく。


 ……分かっていた。
 アスカはとっくに分かっていた。
 これは訓練などではなくて、ましてや冗談などであるわけがない、と。
 見えない何かに圧し掛かられているような、息苦しささえ覚えるこの雰囲気から、とっくに分かってしまっていた。

 分かりたくなんて、なかったけれど。


 笑みらしきものが、固まったまま動かない。表情の作り方さえ頭から抜け落ちてしまって、アスカはただ立ち尽く
す。
 堪えかねたようにミサトが顔を歪めた。体ごとアスカに向き直り、沈痛な面持ちで何か言いかけて――結局何も言
うことなく唇を噛み締め、目を伏せる。やがてその口から出てきた言葉は、マヤに向けられたものだった。

「……零号機の準備はどう?」
「後はパイロットを待つだけです……」

 平板な調子での質問に、あるいは別段意味などなかったのかもしれない。沈黙から逃れるため、とりあえず尋ねて
みただけだったのかもしれない。
 しかしミサトが口に上せたその単語によって、止まりかけていたアスカの思考が鈍いながらも再び動き始めた。

 零号機、と頭の中で反復する。零号機……零号機……

 ――零号機。

「アスカ!?」

 ミサトが声を上げた時には彼女は既に、ケイジへ通じるリフトへと身を躍らせていた。





 ――空っぽの席に、何回視線を向けただろう。

 今日の授業内容をアスカは覚えていない。中学の授業は退屈で低レベルで、元々まともに聞く気がない。
 なのに、その机に射す影がどんなふうに角度を変えていったか――そんな、授業よりも更に役に立たないようなこ
とは、しっかりと頭に刻まれている。

 少し前までは教室の中の一つに過ぎなかった席。
 少し前からは意識の一部を向けずにいられなくなった席。
 ずっと、見ないようにしてきた。もし気付かれてしまったら、言い訳を考えなければいけない。言い訳を求められ
なかったら――気付かれても何も言われなかったら――それはもっと考えたくないことだった。
 空っぽだったから、今日は見ていられた。
 ……いてもいなくても意識が向かうのだと、自覚させられた。

 一時間目が終わった後、メールでも来ていないかとシンジに尋ねられたが、馬鹿なことを言うと思った。
 彼に来なかったものがどうしてアスカに来るのか。非常時に備えてアドレスこそ登録してあっても、メールを送っ
たことも送られたことも一度もないというのに。

 連絡など来るはずがない。
 シンジが帰ってくれば、部屋まで様子を見に行った結果を勝手に報告してくれるだろうが、それは夜遅くになる。
 だからアスカは……自分からネルフに行こうと思った。

 何の予定も入っていなくても、パイロットである彼女がネルフに足を運んで悪いわけがない。実験を見物しながら
そのついでのように、ミサトかリツコに聞いてみるだけで済むのだ。「そういえば、あいつは?」と。
 顔は見なくてもよかった。……迷惑そうな顔は見せられたくなかった。状態を確認出来ればそれでよかった。
 そのために、学校が終わったらネルフに行こうと思った。
 午後の授業の最中、空っぽの席に目をやりながら、ずっとそんなことばかり考えていた。

 そして今、アスカは望んだ通りにネルフに来ている。

 ……来ているのに。





 リフトが床に着くのを待たずに飛び降り、走る。
 出せる限りの速度で走る。
 出撃準備を進めている整備スタッフを押しのけながら、走って、走って、走り続けて……アスカはようやくその姿
を発見する。

「待って、ファースト!!」

 エントリープラグに早足で向かっていた白い人影が振り返る。

「――何?」

 急いでいるのを邪魔された格好のレイは、険を含んだ冷たい声で応じた。しかし駆け寄ってきたアスカの様子に尋
常ではないものを感じたのか、怪訝そうな顔付きになる。

「……どうかしたの?」
「私も行く! 私も零号機で一緒に行く!」

 息を整えもしないで一気にまくし立てると、当惑の眼差しが返された。

「……そういう命令が出たの?」
「命令じゃないわ! 私の……勝手な頼みっ!!」
「頼み? どうして? ――碇君に何かあったの?」
「シンジじゃないっ!! シンジじゃなくて……あいつが……」

 説明を試みるが、アスカ自身もまだ気持ちが追いついていないため、上手く言葉が出てこない。レイは訳が分から
ないとばかりに首を傾げる。

「……それが命令じゃないのなら、私は急がないといけない。早く使徒を――」
「違う、使徒じゃないっ!! 使徒って言わないでよっ!!」

 反射的に喉から迸った声が呻きに変わる。

「……あいつ……なの……。使徒、は……あいつなの……」
「あいつ……?」

 意味を掴みかね、細められたレイの目が、やがて見開かれる。

「――フィフス?」

 小さな小さな首肯がそれに応えた。

「……あいつ……だったの。使徒……だったの……。……弐号機は持っていかれてしまったから、零号機に私を乗せ
て。ううん、手に乗っけてくれるだけでいいから、一緒に……連れてって……」

 俯きがちにアスカが搾り出す声を、レイは思案げに聞く。

「……一緒に行って、どうするの?」
「……分かんない」
「使徒は、殲滅しなければいけない」
「…………」
「彼が使徒だというのなら、」

 そこで言葉が数瞬、途切れた。

「……殲滅、しなければいけない」
「分かってるっ!!」

 そんなこと、今更言われるまでもなくアスカには分かっている。
 使徒は敵。人類の敵。殲滅しなければいけない敵。そのためにエヴァがあり、パイロットがいる。
 レイに言われるまでもない。使徒を倒してきたのはアスカなのだ。

 使徒は敵。人類の敵。殲滅しなければいけない敵。
 敵である使徒は、殲滅しなければいけない。
 今回もシンジが、あるいはレイが、殲滅しなければいけない。


 殲滅――されなければいけない。


 ……スウッと、目の前が暗くなった。
 膝から力が抜けていき、意識がどこかへ落ちていく。
 浮遊感がアスカを包む。

 しかし、傾いだ体は倒れなかった。何かが外側から支えてくれたのだ。
 両肩に加わったその力は、少しずつアスカの体を下ろしていく。やがて膝が冷たくて硬い物に触れ、崩れた正座の
ような体勢になった。

「……しばらく、休んでいるといいわ」

 まるで耳栓越しに喋られているみたいで、その声はアスカの耳にはっきり入ってこない。脳も何を言われているの
か理解が追いつかずにいる。ただ、自分に向けて喋られていることは分かったので、アスカは焦点の合わない視線を
ゆっくりと上に動かしてみた。白っぽいものがぼんやりと映る。
 やがて段々と頭の中の靄が取れ、目の前のものを認識出来るようになった。

 それは彼女を覗き込む、分かりにくいながらも気遣いの浮かんだ顔。
 レイの顔。色白の顔。
 レイの瞳。


 ――赤い瞳。


「セカンド……?」

 赤が、滲んでいく。
 アスカの目から雫が落ちる。雫が溢れて落ちていく。
 はらはら、はらはら……涙が流れる。

「……けて……」
「え?」

 声は確かな言葉にならず、微かな音に留まった。
 わななく唇を動かして、喉に精一杯の力を込めて、アスカはもう一度それを口にする。

「助けて……」

 レイが息を呑む。両肩にかかる力がやや強まった。

「……セカンド……」
「助けて……ファー……ト……」

 とめどなく流れる涙が、頬を喉を伝い、落ちていく。

 アスカはずっと自分に禁じてきた。
 泣くことを。誰かに頼ることを。

 しかし今だけは、その禁を解いた。

 今は一人では何も出来ないから。
 ここにいるのがレイだから。
 アスカを連れて行ける、ただ一人の人物だから。
 赤い瞳の、持ち主だから。

「……ねが……から……」
「…………」

 レイは眉根を寄せて黙り込んでいる。
 こんな頼みなど、快諾出来なくて当然だろう。まして二人は大して親しい仲でもないのだ。
 それでもアスカは彼女に頼むしかない。他の誰にも頼めない。レイにしか頼めない。

「ファースト……」

 どうしようもなく震えて掠れる声を振り絞り、アスカはひたすらに訴える。
 行ってしまったあいつを――

「お願い……」

 行かれてしまった私を――

「お願いだから……」

 どうか――

「助けて……」

 広いケイジに嗚咽が吸い込まれて消えた。




















 ……どうして私はここにいるの?


 ここにいたいわけじゃないのに。
 行きたいところは他にあるのに。


 どうして私は行けないの?


 ねぇ、どうして……
 どうしてそんなところにいるの……?


 ずっと一緒だったじゃない。
 ネルフで、学校で、ずっと一緒だったじゃない。
 仲が良かったとは言わないけど、ずっと一緒だったじゃない。

 普通にやってきてたのに。
 そんなこと、一言も言わなかったのに。

 ねぇ、どうして……


   「僕はね、嘘つきなんだよ」


 どうしてそんなことだけ……本当のことを言うのよ……。



 ずっと……嘘をついてたんだ。
 本当に、嘘をついてたんだ。

 どんな気分だった?
 私達のこと、馬鹿な奴らだと笑ってた?
 みんな簡単に騙されて。
 さぞ面白かったでしょうね。

 ……そうやって、嘲笑ってくれてたらよかった。
 裏切られたことを嘆いて、怒って、憎んで……それで済んだ。
 でも、知ってる。
 みんなと本当に楽しそうに話してたのを知ってる。
 きっとみんなが、それを知ってる。
 全部演技だったはずはない。
 ……そんなはず、ない。

 それなら、どんな気持ちで嘘をついてたの?
 今、どんな気持ちでいるの?

 教えてよ。

 何も話してくれなかったから、私は何も知らないんだもの。



 ……何も話してくれなかった。
 肝心なことは、何一つ。
 それなら今まで、どんな話をしてきたんだっけ……?

 話がしたいと思った。

 何でもいいから話したかった。

 話し掛けてみようとした。
 私から話題を振ってみようとした。
 テレビとか、宿題とか、ネルフでの予定とか、とりあえずはそんなことでいいからって。
 ……そう思いながら教室に入るのに。
 いざとなると、本当にくだらない話題にしか思えなくなって。
 くだらないって顔をされそうで。
 急いで他の話題を考えようとしても、考えつく前に他の奴と話し出されて。
 私はもう、置いてけぼり。
 そんなことの繰り返し。

 ……分かってた。
 避けられてるって分かってた。
 目を合わせなくなったもの。
 声が冷たくなったもの。

 だから余計に話がしたくて、なのに結局出来なくて。
 私は何をやってるんだろうって思いながら、私じゃない奴と話すのを聞いた。

 ……だったら最初から私を避けてよ。
 後になって避けられるより、最初から避けられた方がずっとよかった。
 そうすればきっと、こんな思いをしなくて済んだ。
 元々私は、避けられるようなことばかり――


「素晴らしいシンクロ率を誇るパイロット様には、訓練なんて必要ないんじゃな〜い?」


 ……あ……。


「あんたを私の弐号機に乗せたりなんかしないわ!」


 ……ちが……う……。


「あんたなんか必要ないってことを分からせてやる!!」


 違う……違う……。


「あんたの顔なんて見たくもないのよっ!!」


 ――違うっ!!


 どうして私はそんなこと言ったのよっ!?
 どうしてそんなこと言えたのよっ!?
 言うんじゃなかった、言うんじゃなかった、言うんじゃなかった、言うんじゃなかった!!
 どうしてなのよ、どうしてよっ!?
 今こんな思いをしているのに、どうしてそんなこと言えたのよっ!?
 言うんじゃなかった、言うんじゃなかった、言うんじゃなかった、言うんじゃ……



 ……言うんじゃ……なかった……。



 ……これは……罰なの?
 ひどいことをたくさん言った私への……罰なの?

 謝るから。
 いくらでも謝るから。

 呆れてもいいから。
 怒ってもいいから。
 私を避けるなら、それでもいいから。

 だから……違うことも言わせてよ。


 私には他に言いたいことが……



 言いたいことが、あって……







 ……ねぇ。
 そこにいるの?

 こんなに会いたいのに。
 こんなにも、会いたいのに。

 どうして行かせてくれないの?





 ねぇ、



 もう、



 ……何も言わせてくれないの……?




















 アスカは泣き続けていた。床に膝をついたまま、ずっと。
 制服の前面はすっかり濡れて肌に張り付いている。それでもなお涙は流れる。流れ続ける。

 ……どれくらい時間が経ったろう。
 不意にその耳に、静かな、だが力強い響きの声が届いた。

「――大丈夫」

 驚き、反射的に顔を上げると、滲む視界に再びレイが映る。
 アスカと同じように床に膝をついている、声の主が。

「大丈夫」

 同じ言葉が繰り返される。一度目よりも力を増して。

「…………」

 アスカはゆっくりと瞬きをしながらレイを見つめた。
 さほど変わらぬ高さに位置する顔。赤い瞳。そこにはもう惑いは一切存在せず、代わりに意志の光が宿っていた。
 両肩に感じる重み。左右を見ると、どちらにもレイの手があった。いつ置かれたのかはよく思い出せなかったが、
その場所から片時も離れなかったという事実は、確かに肩が覚えていた。
 ……アスカを覆い尽くしていた悲しみや怖れが、徐々に薄れていく。しゃくりあげるのはすぐに止まりはしなかっ
たが、涙は出てこなくなった。
 ポケットからハンカチを取り出し、ぐしゃぐしゃになってしまった顔を拭う。レイは静かに待っている。
 二人を遠巻きにし、所在なげに立ち尽くしていた整備スタッフから、搭乗を促す控えめな声が上がった。しかしパ
イロットの返事はない。
 やがてアスカが落ち着いたと見ると、レイは立ち上がりながらその手を引いて立たせ、告げた。

「あなたを零号機に乗せることは出来ない」

 俯き、唇を噛むアスカに向けて、彼女は淀みなく先を続ける。

「あなたを乗せようとしても止められるだけ。零号機を出させてはもらえない。だから、戻りましょう」
「……戻る? どこへ……?」
「発令所。最初に情報が入るのはあそこ」

 既にその必要などなくなっているのに、繋いだ手は離されなかった。

「――戻りましょう、一緒に」



「シンジ君、馬鹿なことを言わないで!」

 発令所でまず飛び込んできたのは、ミサトの戸惑い気味の声だった。

「あなた達!?」

 アスカとレイに気付いたリツコが眉を上げる。ミサトも二人の姿を認めて何か言おうとしたが、それよりシンジと
の通信が先だと思い直したらしく、またスクリーンの方を向いた。

「……いい、シンジ君? 冷静になってよく――」
『よく考えた結果がこれなんです!!』

 LOSTの文字はもう消えている。EVA−02も、ANGELも。
 残っているのは――

『カヲル君はもう人を滅ぼす気はないって言っているんですから、殺す必要なんてないでしょう!? 僕はカヲル君
と一緒に帰りますから!!』

 セントラルドグマを上昇している、EVA−01――。

「滅ぼす気がある、ないという問題じゃ――」
『父さん、そこにいるね!? 聞いているんでしょう!?』

 もはやシンジの意識はミサトではなく、その上の人物へと向けられていた。

『僕はカヲル君を殺したりなんかしない。使徒だとかそんなの関係ない! 父さんがカヲル君を殺すっていうなら、
このまま初号機で本部を破壊してやるっ!!』

 司令席からの応答はない。窮状を訴えるように振り仰いでから、ミサトが苦しげに言葉を連ねる。

「あのね、シンジ君……無理を言わないで。使徒を生かしておくなんて出来るわけが――」
「どうして出来ないのよっ!?」

 今度はアスカが遮った。
 感情が昂ぶり、その手に力が篭っていく。痛いくらいだろうに、繋がった手はそっと握り返してくれた。

「今まで何の問題もなくやってきたじゃない! 出来ないわけないじゃないのよっ!」
「アスカ……」

 ミサトが弱りきった顔で見ている。
 マヤのすすり泣く声が聞こえる。

 ――殺さないで。

 ――奪ってしまわないで。

 収まったはずのアスカの涙がまた流れ出す。裂けそうになる心から。
 赤い涙が滴り落ちる。

「あいつを殺したら私があんた達を殺してやるっ!! 絶対に殺してやるからっ!!」





 その後、保安部員の手によってアスカとレイは発令所を出され、別々の部屋に押し込められた。
 ミーティング用の狭い部屋で、監視役として付いている保安部員に背を向けて座りながら、不安の渦に呑み込まれ
てしまいそうなのをアスカは必死に堪える。
 手を握り締めればそのまま掌に爪が食い込む。引っ張り、握り返してくれた手はもうない。

 零号機への搭乗を命じられていたにも関わらず、レイはそれに従わなかった。
 ずっとアスカの傍にいた。……いてくれたのだ。

 もしかするとレイには何らかの処分が下るかもしれない。だとしたらその責任はアスカにある。
 しかし、今の彼女に出来ることなど何もなかった。



 時間の感覚が麻痺して久しい頃、内線が入り、アスカはようやく部屋から出された。真っ先に取った行動は保安部
員への矢継ぎ早の質問だったが、彼は「何も聞いていない」の一点張りで、おそらく本当にそうなのだろうから、最
後には諦めて口を閉ざすしかなかった。
 歩かされる通路は、いつもよりも長く、いつもよりも入り組んでいるように感じられ、アスカの心身を疲れさせて
いく。そのまま車に乗せられ、外に出る。日はもうとっくに暮れていた。

 指示があるまでは学校にも行かず自宅で待機するように――。マンションに送り届けると、保安部員はそう言い渡
して帰っていったが、元より外出するだけの気力はアスカに残っていない。重い手足を動かして、ただいま、と呟き
ながら玄関を開ける。真っ暗な室内。シンジもミサトも帰ってきてはいなかった。
 自室で着替え、ペンペンの食事を用意する。アスカ自身も夕食がまだだったことを思い出したが、食欲は湧いてこ
なかった。何もする気が起きず、眠りたいとさえ思えなくて、リビングの床に横たわり、ただぼんやりと天井を眺め
る。
 何か感じ取ったのか、ペンペンが彼女の傍に寄ってきた。手を伸ばし、その温かな体を抱き寄せると、アスカの心
も少しだけ温かくなる。それがかえって、泣きたい気分にもさせた。



 玄関のドアが再び開いたのは、日付が変わる少し前だった。

「シンジ……」
「……ただいま」

 それだけ言うのがやっとだったかもしれない。シンジは靴を脱ぎもしないで、うなだれながら立ち尽くしている。
顔は半ば髪に隠れてしまっているが、色濃い疲労は見て取れた。
 ……彼かミサトが帰ってきたら、アスカには聞きたいことがたくさんあった。だが、ようやく帰ってきたシンジを
前に、彼女は何も聞けずにいた。良い知らせなど一つもないことが、もう分かってしまったから。
 その心中を察したのか、シンジが顔を上げないまま、しかし覚悟を決めたように切り出す。

「アスカは……どこまで知ってるの?」
「……あいつを連れて帰るって、あんたがミサトや司令に啖呵を切ってるところまで」
「……結局あの後、無理やり初号機から降ろされたんだ。だからカヲル君がどうなったのか……分からない……」

 抑揚のない、生気に欠けた声。

「僕は病院に送られて、それから父さんのところに連れて行かれて……父さんの言い方からすると、すぐにカヲル君
を……ということだけは……ないと思う……」

 その言葉を、シンジは口にするのを避けた。

「……助けてあげてほしいって言ったんだ。でなきゃ、もうエヴァには乗らないって。だけど父さんには……父さん
には、僕の言うことなんて……」

 後の方は涙声になっていた。

「ごめん……後はもう、何も分からないんだ……。カヲル君がどうなったのかも、父さんがどうするつもりなのかも、
何も……。ごめん……ごめんね……結局、僕は何も……ごめん……」
「謝らないでよ……。あんたが頑張ったのは知ってる。あいつを連れて帰ってきてくれただけで、私はあんたに感謝
してる! だから……謝らないでよ……」

 謝罪などされたくなかった。アスカこそ何も出来なかったのだから。
 鼻の奥がつんと痛くなるのを堪え、もう一つの気掛かりについて尋ねてみる。

「……ファーストは? 会わなかった?」
「綾波……? ううん、会わなかったけど……綾波がどうかしたの?」
「ちょっと……どうしているのか気になっただけ」

 今のシンジにレイの心配までさせたくなくて、アスカは曖昧に言葉を濁した。



 買い置きのカップラーメンを二人で啜る。食欲は感じていなかったのに、いざ食べ始めると箸が止まらなくて、飢
えていたことを思い知らされた。
 食べ終わり、後片付けをして、あらためてリビングに二人で座ると、急に静寂が耳につく。
 ペンペンは既に眠ってしまった。ミサトはおそらく、今夜は帰ってこないだろう。
 動いているのは時計の針と空調だけ。そんなふうに感じさせる時間が続く。
 先に口を開いたのはシンジだった。

「……カヲル君は、消してくれって言ったんだ。僕の……初号機の手の中で、そう言って……笑ったんだ」

 ぽつり、ぽつりと語る。自分の右手を見つめながら。
 アスカも彼の右手を見る。実際に目にしてはいなくても、その光景は彼女の脳裏に描き出された。

「どうしてカヲル君がいつも笑っていられたのか……分かったような気がする。笑いながら死ぬことさえ出来るから
だったんだ。でも、そんなの……哀しすぎるよ……」

 虚無ゆえの微笑。
 諦念ゆえの包容。

「カヲル君の言うことは難しくて、僕にはほとんど理解出来なかったんだけど……これはカヲル君自身が望んだこと
じゃないって……それだけは、分かった」

 仕組まれた子供だと、運命だと、彼はシンジにそう語った。

「でも、運命なんて違う。そんなの絶対に違う。流れに逆らわずに生きるなんて、死んでるのと同じなんだ」

 流れに逆らわずに――そんな生き方をしてきたのは他でもない、シンジ自身だ。だからこそ『違う』と言い切れた。

「……もう一度友達になろうって、カヲル君に言ったんだ。友達になるところから、また始めようって。一人では出
来なくても、一緒ならやり直せると思うから。僕も、カヲル君も……きっと……」

 アスカは抱え込んだ自分の膝に顔を埋める。

「学校のみんなには本当のことは言えないだろうけど、その分は僕達が支えていけばいい。……支えていける。支え
ていくんだ、アスカだって――」

 半ば自分自身に言い聞かせるようだった言葉が、急に途切れる。逡巡を感じさせる沈黙の後に、シンジはそれを口
にした。

「……アスカ、さ。カヲル君と何かあったんでしょう? 多分、この間のシンクロテストの日に。……気が付いたら
何だか元気がなくなっていて、テストの結果を聞いても上の空で。カヲル君はカヲル君で、アスカの方を見ないよう
にしていたし。……いくら僕だって、それくらい分かるよ。せっかく仲良くなったと思ったのに、また二人がぎこち
なくなったりしたら……分かるよ」

 アスカは何も言わない。顔も上げない。

「何があったのかは知らないし、教えてくれなくてもいいけど……でもアスカはカヲル君のこと……嫌いじゃ、ない
よね? カヲル君だって……」

 アスカは何も言えない。声を殺して泣き続ける。

「……『アスカもきっと待ってるよ』って言ったら、カヲル君……泣きそうな顔をしていたよ?」





 夢でも見ていたのだろうか。目の辺りがまた濡れていた。
 カーテンの向こうはもう明るい。白み始めたところまでは覚えているが、その後眠ってしまったようだ。
 アスカの意識を覚醒させた電話は、彼女に総司令室への出頭を命じるものだった。

 風呂場でシャワーを浴びる。心身の疲労や腫れぼったい瞼が、幾分マシになった。
 いつもより丹念に身支度を整え、ダイニングに戻る。こちらは自宅待機のままのシンジに不安そうな眼差しを向け
られながら、ゆっくりと咀嚼してトーストを食べ、コーヒーを飲む。残さず平らげてから立ち上がり、カバンを手に
取り、「行ってくるわ」とだけ告げて玄関を出た。
 外の光の眩しさに、一瞬アスカの目が眩む。今日も暑くなりそうだった。



 総司令室で待っていたのは、ゲンドウと冬月の二人。直接の上司であるミサトの姿はなかった。
 いつも通り顔の前で手を組んでいるゲンドウと、アスカは机を挟んで相対する。最初から用件など分かっている。
背筋を伸ばし、顎を引き、その視線をネルフ総司令へと真っすぐに据えた。
 挨拶も前置きも一切なしで、単刀直入にゲンドウが切り出す。

「弐号機パイロットに命令だ。昨日出現した使徒を殲滅しろ」
「拒否します」

 予想通りの言葉に即答で返す。
 情に訴えたところで通用する相手ではないだろう。筋道立てて説得出来るだけの理屈も持ち合わせていない。なら
ばアスカは毅然と対応し通して意地を見せるまでだった。

「殲滅する気はない、と?」

 ゲンドウも動じた様子はない。

「はい」
「使徒の殲滅はパイロットの使命だ」
「でしたら、弐号機パイロットの身分を返上します」

 エヴァのパイロットであること。それは彼女の全てだった。だが、身分惜しさに命令に従うというプライドのない
真似は、絶対にしたくなかった。

「使徒を倒さぬ限り、人類に未来はない」

 正論という形を取った脅し。けれどもアスカは苦悩するどころか、一瞬目を丸くした後、笑い出してしまった。こ
れにはさすがのゲンドウ、冬月も眉を顰める。

「何が可笑しい」
「だって、司令があんまりズレたことを言うから……」

 つい、クラスメートに対するような軽い物言いまで出てくる。一つ咳払いして取り繕い、あらためて二人に向き直
ると、不敵な、それでいてどこか晴れやかな笑顔でアスカは、

「私は元々、人類のために戦ったことなんて一度もありません」

 そう言ってのけた。

「エヴァに乗って戦ってきたのは、全部自分のためですよ。私は優秀で特別な人間なんだってことを周りに見せ付け
て、認めさせて、自分で自分を誉めてやるためです。私自身が幸せなら、人類も世界も知ったことじゃありません。
……御存知なかったんですか? 私のこういう性格」

 いつだって、自分のためだった。今この瞬間だって、アスカは自分のために立っている。利他的精神など欠片もな
い。
 彼女はそういう人間なのだ。自己中心的で、強引で、すぐ怒って――

『生きようという意欲、より多くの歓びを掴みたいという渇望に溢れている』


 ――あぁ、そんなふうに言ってくれたっけ……。


 切ない痛みが胸を貫き、疼きとなる。
 よくよく考えてみると、あまり誉め言葉にはなっていない。ワガママ、というのを言い換えられただけのような気
もする。
 それでも、思い出された一連の会話は、彼女の顔に浮かぶ笑みをより柔らかなものへと変えてくれた。


 今ならアスカは言える。弐号機パイロットではなくても、セカンドチルドレンではなくても、私は私だと。
 人類など護りたい奴が護ればいい。そんなもののために生きるつもりはない。
 謗られようが蔑まれようが、アスカは胸を張って言ってやる。私は人類なんかより、私自身の誇りと想いの方が大
事だと――。


 冬月が嘆息する。
 サングラスと口元で組まれた手によって、ゲンドウの表情はほとんど窺えない。

「……もういい、下がれ」
「はい、失礼します」

 一礼し、ドアの方へと歩き出しかけて、アスカは足を止めた。
 ゲンドウが彼女をじっと見ている。その視線は先程までのものとはどこか違うように感じられた。

「まだ、何か?」
「……奴が言っていたことを思い出しただけだ」

 この部屋に入ってきてから初めて、アスカに動揺が走る。

「何て……言っていたんですか?」

 ゲンドウが答えるまで、若干の間があった。















 渚カヲルのフィフスチルドレンへの身分復帰が認められたのは、二日後のことだった。


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