< 師弟対決企画記念品 >
ざざーん、ざざーん
果てしなく広がる赤い海を前に、少年が独り、ぽつねんと立っていた。
何も応えてくれない大海原に、絶望的な視線を投げかける。
云いようのない孤独だけが、彼の傍にいる。
白い砂浜の上に立つものは、他に誰もいない。
握り締めた拳が怒りに震え、つややかな黒髪が、ざわざわと色を失っていく。
雄叫びとともに、漆黒だったその瞳が真紅に染まり、逆立った髪が銀色の光を放つ。
カッッッッッッ!!!!!!
刹那、まばゆい光が辺りを覆う。銀光に包まれた彼の姿は次の瞬間、その場から消えていた。
ざざーん、ざざーん
残された赤い海は何事もなかったかの如く、まるで生命体のように、有機的なうねりを繰り返している。
永遠の、いつ終わるともしれない波の繰り返しを———。
「 S - Z 」
〜 プロローグ 〜 お約束の地に舞い降りしもの 〜
抜けるような夏の青空を、数条の飛行機雲が白く切り裂く。
天空を翔けるのは、武装した国連軍の主力戦闘機。
上空を覆うVTOLの編隊、湾岸線を埋め尽くす戦車隊。どちらも、平時では有りえない光景である。
彼らの攻撃目標は、それまでの常識を覆す巨大生物。
———『使徒』、と名付けられたその化け物は、着実に都心に近づいていた。
2015年、平和だった第三新東京都市は今まさに、戦場と化している。
避難勧告は既に出され、近隣の住民たちは皆、シェルターに避難している、はずだった。
にもかかわらず、いまや無人と化した駅の前に、何故か一人だけ、人影が見える。
黒髪に漆黒の上下、闇を思わせるマントを羽織った全身黒尽くめの少年は、猛暑の中、汗もかかずにその場に立っていた。
軍の攻撃が激しさを増すが、使徒に毛ほどの傷もつけられない。周囲への被害を無闇に増やしているばかりだ。
この駅とて、いつ業火に包まれてもおかしくはない。
それなのに逃げようともせず、平然と構える少年の存在は、どこか異質だった。
交戦していたVTOLのうち一機が使徒の反撃にあい、煙を吐きながら、黒衣の少年目掛けて落ちてくる。
だが彼は、それでも動こうとしない。瞑想中なのか何かを思索しているのか、瞼を閉じたまま、静かに佇んでいた。
不意に、目を開く。黒曜石を思わせる瞳が、ひび割れたアスファルトの先へと視線を投げた。
ぐおぉぉぉぉぉんっっっっ!!!
地面に激突したVTOLが燃上し、爆風が少年の細い身体を吹き飛ばす———かに見えた。車のドアが開き、サングラスをかけた女性が勢い良く促す。
「———遅い。」
だが、シンジと呼ばれた少年は感謝するでもなく、冷静に彼女が遅刻した事実だけを指摘した。
そう言い棄てて助手席へ乗り込む少年にムッとしつつも、急いで車をスタートさせる。腹いせがわりにアクセルを強く踏み込んだ。
弾丸の如く走り出したルノーは時速140kmのスピードで、みるみる被害地から離れてゆく。
運転席の女性は一息つくと、傍らの席に向かって話しかけた。
サングラスを取ったミサトは大人の笑みを向けるが、少年は窓の外を見たまま、返事もしない。
「も〜〜っ!初対面なんだから挨拶ぐらい、ちゃんとしなさい。礼儀でしょ。」
年上の余裕を見せようとしたのも忘れ、たちまち頬を膨らませる。もともと子供っぽい性格なのだ。
今度こそミサトは容赦なく睨みつけるが、クスリと嘲笑うかのような笑みに軽く流される。
正面に向きなおると、ふらふら流れてきた巡航ミサイルが、すぐ目の前まで迫っている。
———やられる!———
瞬間、固く目を閉じたが、衝撃が襲ってない。はっと気付くと、ミサイルの姿は影も形もなかった。
小馬鹿にした物言いを受け、ミサトは鼻白んだ。再び険しい視線を送るが、少年はそ知らぬ顔で景色を眺めている。
中性的な横顔は少女のように繊細で、間近で見るとその造形の完璧さゆえか、ある種神秘的な雰囲気すら醸し出している。
だからこそ、次々飛び出してくる毒舌が余計に小憎らしい。
(かっわいくね〜ガキッ!)
ミサトはそれ以上の会話を放棄し、ぎりりとハンドルを握り締めた。
∞∞∞∞
同時刻———。
第三使徒殲滅の任務が完遂されないことに業を煮やした国連軍は、切り札のN2地雷を使徒に向け投下。
一個の街を灰燼に帰すほどの破壊力はしかし、使徒に対してはまるで無力だった。
歯軋りして悔しがる国連軍の高官達。対象的に、彼らより一段低い席に座る顎鬚の男が、冷笑するように唇を歪める。
その口調に込められた苦々しさなどそ知らぬ顔で、顎鬚の男は静かに立ち上がる。
黙したままの男の存在感に気圧されまいと、高官の一人がやや皮肉っぽく言葉を継ぎ足す。
碇と呼ばれたその男は、僅かな沈黙の後、落ち着き払った仕草でサングラスを押し上げ、重々しく口を開く。
ついで傍らにいる初老の男を振り返り、指示を送る。
そう言い捨ててエレベータで降りてゆく彼を、冬月は複雑な面持ちで見送った。
(三年ぶりの息子との対面か・・・・・・。)
∞∞∞∞
通信機に向かう理知的な女性の声に、微かな困惑が混ざる。
しなやかな指で通話を切ると、金色に染めた髪をさっと揺らし、命令を伝達する。
命令を受けたオペレータ達に緊張が走る・・・はずだったが、約一名だけ下を向いたまま、何やら他のことに熱中している。
「日向君、聞こえてる?第一種戦闘配置、初の実戦なのよ。」
日向と呼ばれた男は大げさに敬礼を返すと、あたふたとコンソールに手を走らせた。
隣にいた長髪の青年が、次々に指示を出す赤城リツコの目を盗んで、彼に話しかける。
大事そうに隠した単行本の表紙には、金色の髪を逆立てた少年と白いターバンを巻いた緑色の異星人が睨み合っていた。
調子よく肯いた青葉シゲルが、長髪を揺らしながら、軽くエア・ギターをしてみせる。
メガネに隠れたマコトの瞳も、興奮で輝いていた。
子供のようにはしゃぐ二人を見咎め、リツコの黒い眉がピクンと逆立つ。
マヤと呼ばれた女性がおずおずと振り返る。もともとの童顔が、叱られそうな子供のように、更に幼くなっていた。
リツコが苛立つのも当然だ。いくら準備万端にしても、指揮を執る者もパイロットも居ないのでは、なんの意味もない。
ミサト直属の部下であるマコトが、またもや敬礼しながら立ち上がる。
リツコは一息溜め息を吐くと、努めて平静な口調で返事をかえす。
オペレータたちのうわずった返事を背中に受け、リツコは指令室を後にした。
廊下に出たところで、不機嫌そうに独りごちる。
∞∞∞∞
NERVへ辿り着いた二人は、広い施設内を黙々と歩いていた。
地図を片手に、落ち着きなく視線を上げ下げしていたミサトが、靴音がしないのに気付いて振り返る。
少年の視線は廊下に向けられながらも、一応着いてきている。
猫のようにしなやかな足取りは音も立てず、黒いマントの裾だけ、影のように揺れ動いていた。
ノースリーブのタイトドレスに制服を羽織っただけのミサトが、さも暑苦しいと言いたげに地図で扇ぐ。
またも突っかかるような答えにカチンときたのか、嫌味を嫌味で切り返す。
ミサトは返事に詰まる。道に迷ってたのが、しっかりバレていた。
口論していた二人の後ろで、エレベータの扉が開く。踏み出したヒールの音が甲高く響いた。
背後からの言葉に、ミサトの肩がギクッと上がる。
振り返ると、赤城リツコが白衣のポケットに両手を突っ込んだまま、不機嫌そうに睨んでいた。
間髪いれず愚痴られたミサトはグッと唇を噛んだが、図星だけに何も言い返せない。
小声で文句を言うミサトの肩越しに視線を送る。少年はあまり友好的ではない顔つきのまま、そっぽを向いている。
白衣から右手を抜き出して握手を求めるが、完全に無視された。
声を低めたミサトの威嚇にも、全く意に介した様子はない。平然と構えたその横顔を、リツコは訝しげに観察する。
(写真で見るよりカワイイ・・・・じゃなくて、確か資料には内交的で人見知りをするタイプ、とあったけど・・・・。)
しかし、目の前の少年は内気そうにも、ましてや虚勢を張っているようにも見えない。
自分に向けられた疑惑の目を知ってなのか、挑発するような発言を飛ばす。
クスリと意地悪い笑みとともに告げられたその言葉に、二人は驚いた。
ぴしゃりとミサトの口を封じたリツコは、腹を抱えて笑う少年を冷やかに見据える。
掴み掛かろうとするミサトを押し止めたリツコは、冷徹な表情を崩さずに問い詰める。
実験動物を見るように冷たかったリツコの目が、驚愕に見開かれる。
(まさか!?仮にミサトがエヴァのことを喋ったとしても、何故この子がコアのことまで知っているの?)
素早くミサトの方に視線を這わせるが、彼女は今の話すら、まるで理解出来てない様子だ。
含みのある物言いは、リツコの言う見せたいものが何なのか、既に分かっているのだろう。
またもあっさり告げられた事実に、リツコの思考が目まぐるしく働く。
(どういうこと・・・・・・?仮に誰かが接触したとしても、ここまで彼に入れ知恵できる人物なんて・・・・・・もしや、指令?)
三年前、僅かながらも親子の対面を果たした碇ゲンドウ。
彼がそのとき何かを打ち明けた、そう仮定しても、状況証拠的には不自然では無い。
だがリツコは、即座にその考えを否定した。あのゲンドウがそのような行動を取る理由が、どうしても思い浮かばない。
今まで表面上は平静だった語り口に、初めて怒りの感情が剥き出しになる。
バッサリ斬り捨てた口調は気弱どころか、容赦無い敵意すら感じさせる。
(・・・・・いろいろ謎があるようね。或いは、指令なら知っているのかも・・・・・。)
このまま彼を連れて行ったものかどうか迷ったが、悩んでいる時間は無い。
リツコは黙って頷くと、少年を促して歩き始める。ただ独り、会話についていけなかったミサトを残して。
二人に置き去りにされそうになったミサトは、慌てて後を追った。
∞∞∞∞
話が違うと云わんばかりにリツコを睨む。彼女が案内した先は、初号機が格納されているケージだった。
疑いの言葉をさらりとかわしたリツコは、ケージに浮かぶ巨大な頭部を誇らしげに見上げた。
首から下は水槽に浸かって見えないが、鬼のようなその形相は、ロボットと呼ぶにはどこか生々しい。
そこで言葉を切ると大げさに振り返ったが、相手は退屈そうに欠伸するだけで、まるで感銘を受けた様子がない。
(やはり・・・・・この子は知っている。)
そうリツコは確信した。
決めつけるようなリツコの言葉に、ミサトは耳を疑った。
彼女の問いに対する返事は、頭上から降ってきた。三人が一様に顔を向ける。
初号機の真上、天井近くにある部屋のガラス越しに、その男———碇ゲンドウは居た。
片手をポケットにつっこんだ姿勢のまま、傲然と見下ろすその姿は、この組織の支配者であることを物語る。
無感動なその言葉に、再開を喜ぶ温かみなど、まったく感じられない。
サングラスを指で押えながら一方的に喋る男を、少年は仇のように睨む。
乾いた唇が震え、怒りに満ちた声をぶつける。
「くそジジィッッ!!」
∞∞∞∞
くそじじい———突然の罵声に、ケージに居る全員が固まったが、いち早く復帰したのはミサトだった。
なおも浴びせられた罵詈雑言に、ゲンドウの表情が険しくなる。
頭ごなしに命令された当人より、むしろミサトの方が狼狽した。
戦闘の最前線に立たせようとする人間とは思えない言葉で、反論を一蹴する。
好戦的に指をバキバキ鳴らしながら、野獣の笑みをゲンドウに向ける。
ミサトが助けを求めるように視線を送るが、リツコは腕組みしたまま、冷静に眺めるだけだ。
ひたすら高圧的な男の態度に、少年も怒りを通り越して呆れた。
話が進まないからか、当初の予定通りなのか、ゲンドウは傍らにある無線のスイッチを入れ、冬月を呼び出す。
通話を切ると、国連の長官をもビビらせる睨みで凄んでみせた。
本当に帰ろうかとも考えた時、左手側の扉が開き、これ見よがしに点滴をつけたベッドがカラカラと運ばれる。
そのベッドの上に、身体をところどころ包帯で覆われた、青い髪の少女が寝かされていた。
それまでの皮肉な表情を消して呆然と呟いた少年を、リツコは意外な面持ちで見つめる。
ゲンドウの一声で、レイと呼ばれたその少女は、痛みに顔を歪ませながら片肘を立て身体を起こす。
白い包帯に血を滲ませ、震えながらも懸命に立とうとする少女の姿を見て、少年はハッと我に返った。
倒れかけたレイに駆け寄り、手を伸ばして折れそうに細い身体を受けとめる。
既に意識も朦朧としているのか、彼女は腕の中でぐったりしたまま、苦しそうに喘いでいた。
痛々しいその姿に、掠れた声が泣くように滲む。
突然、遥か頭上から爆発音が聞こえ、伝わった振動が建物を揺るがす。
遂に使徒が、NERVの本拠地近くまで侵攻してきたらしい。
虚空を睨んでゲンドウが呟いた時、不意に天井が崩れ始めた。
巨大な破片が、ケージの真ん中でうずくまる二人の頭上に降り注ぐ。
次に展開されるであろう惨状に、ミサトは目をそらす。
が、その予想は思いもがけない形で覆された。
数百トンはあろうはずの物体が、まるっきり重力を無視して浮かび上がっている。
その真下にいる少年は少女の頭を抱えたまま、微動だにしていない。
漆黒だったその髪は銀色に染まり、白銀のまばゆい光を放つ。
目の前で変貌を遂げた少年を目の当たりにして、我知らず声が震えた。
意識を失ったレイを抱きかかえながら、ゆっくりと彼は立ち上がる。
その双眸は腕の中の少女と同じ、紅い瞳。
恐怖を感じたミサトがごくりと唾を飲み込んだ瞬間、静止していたはずの破片が飛んできた。
眼前の事象を理解する前に本能が働く。間一髪、床に転がって避けた。
四方八方に弾け飛ぶ塊は巨大な鉄槌と化し、頑丈な壁をもぶち破る。
ケージを満たしていた水がすき間から吹きこぼれ、みるみる亀裂が拡がってゆく。
滝の如く流れ出す奔流は激しさを増し、半壊したミサトたちの足場を激しく揺らす。
振り落とされぬよう必死で手すりにしがみ付くが、ひび割れた床が水圧に耐え切れず、ついに折れた。
ミサトたちを乗せたリフトは、渦巻く水の上で、笹舟のようにくるくる回る。
天井から降り注ぐ破片の勢いは激しさを増し、ケージ全体を揺るがす。
初めて動揺を見せたゲンドウの視線が紅い瞳とぶつかった瞬間、ガラスが飛び散り、ゲンドウの身体が宙に浮いた。
∞∞∞∞
ケージの混乱を指令室から見ていた冬月は、状況把握も出来ないまま、ただ怒鳴るしかなかった。
モニターがノイズだらけで視認出来ない。オペレータたちの手は懸命にコンソールボードを駆け回る。
サブのカメラが辛うじて生きていたらしく、マヤが叫んだ。
映し出された光景に、その場にいた全員が息を呑む。
彼らが見たのは、白銀の光に包まれ、レイを抱きかかえたまま宙に浮かぶ、黒衣の少年だった。
逆立った銀髪は炎の如くゆらめき、神秘的な輝きを周囲に振り撒く。
漆黒のマントをはためかせて、ゆっくり地上に降り立った少年は、腕の中の少女をそっと地面に横たえる。
一部始終を見ていたマコトは、モニターに釘づけになったまま、うわごとのように呟いた。
∞∞∞∞
ほんの数分で、ケージの混乱は収まった。が、その後の姿は、無残という他ない。
天井こそ崩れ落ちはしなかったものの、壁は穴だらけ、床には瓦礫が散乱し、まるで廃墟である。
だが初号機に傷一つついてないのは、さすがは最終決戦兵器というべきであろう。
瓦礫の山の一部がカラリと崩れ、隙間から伸びた手が小さな破片を取り除いた。
なんとか自力で瓦礫から這い出たミサトたちを見て、少年が心底残念そうに呟く。
不思議と、彼の周囲の床には塵一つ落ちていない。
ふと上を見ると、当のゲンドウは、天井から突き出た鉄パイプを襟首に引っ掛けたまま、ぶらーんと揺れていた。
ニヤリと口元を歪めると、右手をゲンドウの方に差し出し、小指を軽く折り曲げる。
ポキンッ
辛うじて残った最後の支えが、あっけなく折れた。
「んぬわぁぁぁっっ!!!」
約30mの自由落下。落ちたらノコギリ歯の如く乱立する瓦礫によって、肉片を振りまくのは疑いない。
が、鋭く突き出た金属片の寸前で、彼の身体は急停止した。むろん、宙に浮いたまま。
更に人差し指をクイッと曲げると、ゲンドウの身体が真横に滑り、再び目の前で止まる。
ぺしゃんとゲンドウを顔から落とすと、ボロボロの制服で突っ立っているミサトに命令する。
身体を起こしたときに傷口が拡がったのだろう。包帯から滲んだ血が、プラグスーツまで濡らしていた。
ミサトが辺りを見回すが、どこもかしこも瓦礫の山で動きがとれない。
宙を睨んで怒鳴ると、少しして、年配の男の声がスピーカー越しに流れた。
狡猾、というか計算高い返事。なるべく優位に立とうとしてるのがミエミエだ。
(・・・この後に及んで交渉事かよ。よっぽど自分らの立場を理解できないマヌケなのか・・・。)
不敵な笑みで、身の程知らずな愚か者を嘲笑う。数秒の空白の後、返事が返ってきた。
少年がその方角に右手をかざすと、オレンジ色の光に包まれた瓦礫の山が、たちまち塵となって崩れ落ちた。
半ば夢を見ているような表情でリツコがうめく。自分の常識までが崩れるような気分だった。
その様子をモニター越しに眺めていた冬月が、難しげに眉根を寄せる。
マヤに指示を飛ばしたあと、長い長いため息を吐く。年齢以上に老け込みが増したような嘆息だった。
∞∞∞∞
レイが再びベッドで運ばれたのち、半分廃墟と化したケージに冬月が姿を表した。
なぜか後ろから、続いてマコトがバタバタと顔を出す。
彼がケージを破壊した理由が、なんとなくリツコには飲み込めた。どうやらレイとは、深い縁があるらしい。
あっさり拒否されたが、リツコも簡単には引き下がれない。
反論出来ずにミサトが押し黙ると、代わって冬月が、重大な疑問を口に出す。
来た。
来た来た。
来た来た来た来たぁーーーッッ!
そう、これだ!これが無ければウソだ。その為にわざわざ今まで、名を名乗るのを引っぱったのだから。
せっかく盛り上がっていた気分にバシャッと水をかけられ、盛大にコケそうになった。
ミサトの白い眼など気にしない。なにしろ、ここがヤマ場だ。
正義の味方には皆、相応しい名乗りを上げる場面があった。それを外すわけにはいかない。
有無をいわさず強引に自分のペースへと持ってゆく。こうなったらもう、言ったもん勝ちだ。
マントをばさりと翻し、左斜めからのカット割りを意識しながら、首を仰角45°に固定。
薄く半目を開き、駅でミサトを待っている間に考え抜いたセリフを、心の中で繰り返す。
・・・完璧だ。見落としはない。
あとはこれを実行するのみ!
ひと呼吸、間を置く。これが重要。
素人には分かるまいが、これがないと画竜点睛を欠く。
しーーんと静まるケージ内。
たっぷりふた呼吸の間が空いて、”牛” の鳴き声が響き渡った。
「ぜ、ぜぇ〜〜たあ〜〜〜〜?」
∞∞∞∞
ケージでの騒ぎが嘘のように静かな医務室で、レイだけが一人、寝かされていた。
包帯は新しく取り替えられているものの、まだあちこちにこびり付いた血が痛々しい。
弱々しい呼吸が辛うじて生を主張する。が、その存在は、かげろうのように儚い。
不意に、何かが動いた。停滞していた空気が、流れた。
いつの間にか、この病室に現れたもう一人の存在が、横たわる少女を痛ましそうに見下ろしている。
気配を感じたのか、レイが薄く瞼を開く。だがぼやけた視界は、焦点を結ばない。
(あなた、だれ—————?)
微かに唇が動くが、声にならない。
だがその人物は、了承したように柔らかく微笑むと、彼女の胸に手をかざした。
(・・・・・・何故?懐かしい気がする。それに、あたたかい・・・・・・。)
掌から伝わる暖かいものが、ゆっくりと全身を包む。
その温もりが身体中に染みわたり、傷の痛みが退いてゆく。
ふわりと心地良い安らぎに誘われたかのように、再びレイの瞼が閉じる。
穏やかに眠る少女を慈しむように見つめていた人物は、やがて部屋を後にした。
ちょうど入れ替わる形で、レイの様子を見るため、マヤが病室に入ってきた。
さっと部屋を見廻すが、誰もいない。
気のせいねと独り呟くと、思い出したように顔を覗き込む。
意外と気分は良さそうだ。呼吸も今は、規則正しい。
もし彼女が医者だったら、あれほどの重傷がほぼ完治していることに、首をひねっただろう。
ひとまず安堵したマヤは、持ち場に戻るため廊下に出た。使徒は依然として進行中なのだ。
ふと、背後に何かの存在を感じ、はっと後ろを振り返る。
マヤは放心したように、黒衣の人物に問いかけた。