BITTER AND SWEET

written by tamb   


 わたしはもう、あの頃のような何も知らない子供ではない、とレイは思う。

 バレンタインデイが贈り物のチョコレートと共に女の子から男の子に告白してもいい日
とされ、同時にそれがチョコレート製造会社の商業的戦略によって画策されたことも知っ
ている。義理チョコなどという奇妙な習慣のことも。
 義理チョコに関しては、クラス全員の女の子が共同でクラス全員の男の子に対して一つ
ずつチョコを配るという、まさに味も素っ気もない無味無臭な合意が形成されていたので、
レイが気に病む必要はなかった。
 問題は、いわゆる本命という部分にある。
 バレンタインデイには女の子から男の子に告白してもいいという設定がなされ、それが
世間一般で一定の合意事項として評価されているということは、バレンタインデイ以外の
日には女の子が告白してはいけないということだ。

 レイはシンジが好きだったし、シンジに好かれたいと願っていた。シンジの方から好き
だと言って欲しかった。ごく普通の女の子と男の子が付き合い始めるときのように。
 だがその望みは、少なくとも今はほとんどないということもわかっていた。彼に誰か他
に好きな女の子がいるといういうわけではない。もちろん男の子が好きなわけでもない。
 彼は恋愛に興味がないのだ。
 こんな自分ですら恋愛感情を持ってしまったのにと、レイは不満を募らせていた。

 そんなレイにとって、バレンタインデイはまさにうってつけのチャンスのはずだった。
 女の子から告白しても構わないなら、当然ながらわたしが告白してもいいはず――。
 だがそれは、あまりにも危険な賭けのように思えた。恋人として好かれているわけでは
ないにしても、友人としての付き合いはある。時には遊園地や動物園にも連れて行ってく
れる。手を繋いだりもする。二人だけでいるそんな時間は、とても幸せだった。告白する
という行為はそんな幸せを破壊する可能性を秘めている。失いたくない幸せだった。
 友達同士として普通に付き合っていた二人が、告白という行為に及んだがばかりにその
関係が気まずくぎこちないものになり、普通に話すらできなくなってしまったケースを彼
女はいくつも見ていた。
 だが、今はまだ無理でも将来的には可能性があるはずだ、とレイは思う。自分に決定的
に魅力がないのかどうかは判断できない。なぜなら、シンジはアスカにもヒカリにも興味
を示さないからだ。自分よりもはるかに可愛いと思える彼女たちに興味を示さないのだか
ら、彼女たちに恋人がいるという理由があるにしても、それは女の子に興味がないという
ことだと思えた。友達が女の子の話をしていても笑って聞いているだけだ。アイドルタレ
ントにすら可愛いと言っているのを聞いたことがない。人の趣味はそれぞれだ。外見が全
てではないはず。女の子に興味がないだけなら、興味を持ったときには自分にもチャンス
がある。彼女は自分にそう言い聞かせた。だが、今はまだその時ではない――。



 アスカとヒカリが手作りチョコの話題で盛り上がっている。それぞれ自分の想い人――
カヲルとトウジだ――にどんなチョコを渡すかという話だ。もう付き合っているのだから
わざわざチョコなど渡す必要はない。それに手作りといっても、生クリームを溶かし込む
というようなプロセスはあるにしても、要するに既製品のチョコを溶かして固め直すだけ
だ。手作りと言うならカカオ豆から作るべきだと、瞳を輝かせる彼女たちを見ながらレイ
は悪態をつく。口には出さないが。
 
「あんたはどうするの? バレンタインは明後日よ」
 
 唐突に話を振られ、レイは我に返った。
 
「なにを?」
「なにって、チョコよ」
「誰に?」
「バカシンジに決まってるでしょ」
「別に……」
 
 アスカはヒカリと顔を見合わせた。
 
「渡さないの?」
 
 視線を落とし、レイはうなずいた。
 
「別に、碇くんとお付き合いしてるわけじゃないし……」
「付き合ってない?」
 
 アスカとヒカリは再び顔を見合わせた。
 
「あんたたち、しょっちゅう二人でどっかに出かけてるじゃない。あれは何なの?」
「遊園地とか、動物園とか……」
「だからそれってデートなんじゃないの?」
「……違うと思う」
「どうしてよ」
「だって、何も言ってもらってないし……。好きとか、愛してるとか……」
「あなたたちらしいわ」ヒカリは笑顔でため息をついた。「でも、レイは碇君のこと好き
なんでしょう? 好きって言って欲しいのよね?」
 
 レイはこくりとうなずいた。
 
「でも、自分から言うのは怖いのね?」
 
 再びうなずく。
 
「ならバレンタインはいいチャンスよ。碇君もレイのこと、好きだと思う。ううん、絶対
だわ。あたしが保証する。いっちゃえば?」
「イっちゃうの?」
「アスカ――」
「ご、ごめんなさい」

 ヒカリが怖い顔をし、アスカは顔を赤らめて舌を出す。
 レイにその意味はわからなかったが、ヒカリが保証してくれたのは嬉しかった。思って
いたよりも危ない橋ではないのかもしれない。渡れる可能性はあるのかも――。

 カカオには、恋をしている人間の脳内で発生している脳内物質と同じような作用をする
物質が含まれている。失恋するとチョコレートを食べたくなるのはそのせいだ。恋をして
いなくても、チョコレートを食べると恋をしている気持ちになれる。

「でもさ、ヒカリは、いったことって、まだないの?」
「そ、それは……あるけど……」
「マジで!?」
「こ、声が大きいわ」

 だから、バレンタインにチョコレートを渡して告白というのは、それなりに蓋然性があ
るということになる。商業的策略にも理由はあるのだ。
 もしシンジが恋をしていないとしても、チョコレートを食べてそういう気分になった時
に告白すればうまく行くかもしれない。まずは付き合っているという既成事実を作ってし
まって、それから好きになってもらうのでも全く構わない。結果さえ出せれば問題はない
のだ。

「ヒカリって、そういうのは全然まだかと思ってたわ。せいぜいキスくらいで」
「そ、そう?」
「で、熱血バカってどうなの? なんかすごいワイルドなイメージがあるけど」
「優しいわよ。頭のてっぺんから爪先まで、身体中をそーっと……」
「ふーん。そうなんだ。抱えて立ち上がったりするのかと思ったわ」
「そういうのは……たまに」
「あるの!?」
「だからたまによ。そういうアスカはどうなの?」
「どうなのって?」
「その……ちゃんといっちゃえる?」
「このあいだ……初めて……」
「ほんと!? よかったねー。どんな感じだった?」
「なんか……頭が真っ白になって……あーってなって……」

 ヒカリが保証してくれたことも心強いが、それだけではいかにも心許ない。
 従って問題はチョコレートというよりカカオだ。いかにカカオを大量に含んだチョコレ
ートを選ぶか。いや、どうせなら作るべきだ。ほぼカカオのみのチョコをだ。カカオを生
のまま食べていただいてもいいくらいだ。手作りチョコにもやはり意味はあるのだ。

「そ、それで?」
「なんか、わかっちゃったみたいで……その……何回も……」
「何回も!?」
「うん……」
「すっごーい」

 だがそれではむりやり薬物中毒にするようで、あまり気分はよくない。カカオが切れた
らどうなるか気に病むのも嫌だ。やはりチョコレートは添え物であり、あくまでもありの
ままの自分を好きになってもらうべきだ。やはり危険な賭けなのか。頼りになるのはヒカ
リの保証だけだ。当たって砕けてしまうのは困る。いったいどうすればいいのか――。

「レイは?」
「え?」
 
 アスカがいきなり話を振った。全く聞いていなかったレイはそう聞き返した。
 
「レイは、いったことあるの?」
「どこに?」
「レイにそんな話はまだ早いわよ」
 
 笑顔を引きつらせながらヒカリが言った。
 
「どこにいくの?」
「素敵なところよ」ヒカリは笑顔を柔らかなものに変えた。「碇君にしっかりつかまって
いれば、連れていってもらえるわ。でもレイは、まだキスもしたこと、ないんでしょう?」
「うん……」
「まずはそこからね。素敵なバレンタインにして。碇君も待ってるわよ」

 碇くんが待ってる――。

 ヒカリのそのひとことでレイの心は決まった。



 どんなチョコを渡せばいいのだろうかと、レイは上の空で授業を聞きながら考えていた。
ハート型というのが一般的なはずだ。だがそれだと食べる時にハートを破壊することにな
る。それはいかがなものか。丸や四角、三角ではありふれている。四角に「好きです」と
か書くのは……それは恥ずかしすぎる。レイは一人で赤面した。球かサイコロ型のチョコ
を多数用意して一個に一文字ずつ書くのはどうだろうか。「す」「き」「で」「す」――。
 だめだ。同じくらい恥ずかしい。

 ――サイコロ型?

 突如ひらめいた。八面ダイスはどうだろうか。ラミエル型だ。苦しい戦いだったが、今
となっては思い出の使徒だ。あの時からシンジを意識するようになったのだ。ラミエルに
感謝したいくらいだ。
 だがラミエル型のチョコなどどう造ればいいのか見当もつかなかった。ハート型等の平
面状のものならわかる。型に流し込めばいいのだから。しかし立体物はどうしたらいいの
だろうか。MAGIでNCルーターでもコントロールさせ、分厚いチョコから削り出せば簡単か
もしれない。ラミエルの形状も記憶されているはずだ。だがそんなことをしたらリツコに
張り倒されることは間違いなかった。公私混同にも程があると。
 チョコにこだわるからいけないのだ。チョコを渡すのはあくまでもバレンタインにかこ
つけた手段に過ぎず、目的はシンジに好きになってもらうことにあるのだ。もっと正確に
いえば、シンジと付き合って、幸せになって、結婚して――。

 碇くんと結婚――。

 レイはまたも赤面した。つまり本当のプレゼントはレイ自身なのだ。
 碇くんにわたしを受け取っていただきたい。ならばいっそのこと、おでこにリボンでも
巻いてわたしをプレゼント――!
 発狂したかと思われるだけだ。レイは机に突っ伏した。



 放課後を待ちかね、レイはヒカリに聞いた。
 
「ヒカリは、どんなチョコを渡すの?」
「チョコレートケーキを作ろうかと思ってるの」
「……」
 
 聞くだけ無駄だった。しょせんヒカリとレイでは料理技術に差がありすぎるのだ。自分
にケーキなど作れるわけがない。付け焼刃の技術でむりやり作ったとしても、シンジに失
笑されるだけだ。
 だがアスカなら。
 
「アスカは?」
「アタシもチョコレートケーキ。あいつ、あれでケーキが好きなのよね」
 
 レイは目を見張った。インスタントラーメンすらろくに作れなかったアスカがケーキを
作るというのか。いつのまに特訓したのか。
 
「ヒカリに色々教えてもらって。ずいぶん腕が上がったのよ」
 
 これが愛の力なのか。自分も負けてはいられないとレイは強く思った。
 彼女はすっくと立ち上がり、驚く二人に目もくれず、何か言いたげなシンジの視線にも
気づかず、足早に教室を出た。

 向かった先は本屋である。チョコを適当に溶かして固めてもろくな物にならないのはわ
かりきっていた。まずはレシピを入手するべきである。
 バレンタインデイが近いということもあり、様々な種類のバレンタイン手作りチョコの
レシピ本が平積みになっていた。
 レイは手近の一冊を取り、ぱらぱらとめくる。美しい画像が載っている。だがこんなも
のは自分に作れないことは明らかだ。彼女は目次を探し当て、「初心者向き」という項目
を開いた。熟読する。
 数分後、彼女は静かに目を閉じた。本屋の中でなければ涙を流していたかもしれない。
 ココアを適量入れる。自信のない人は多めに――。
 適量とはどのくらいのことか。自分には自信などないが、多めにというのはどの程度多
めになのか。全くわからなかった。結局、初心者向けとはいってもある程度は料理経験の
ある人向けに書いてあるのだ。料理経験皆無の自分はどうしたらいいのか。諦めろという
のか。シンジを諦めろというのか。自分にはシンジに愛される資格がないのか。

 碇君も待ってるわよ――。

 ヒカリの言葉を思い出した。そうだ。彼が待ってるのだ。こんなことで挫けてはいられ
ない。適量なんて適量なんだから適当でいいのだ。多ければ減らし、少なければ増やせば
済むことだ。何十回も作っていればいずれ適正な量にたどりつく。やればわかる。時間は
ないが、やるしかないのだ。
 顔を上げた彼女は鬼気迫る表情でレジに向かった。

 彼女は書店を出ると、ガードレールに座ってレシピ本を開いた。初心者向けのページを
開き、必要な食材と道具類をチェックし始める。
 まずは道具類だ。ラップが切れているはずなので買う必要がある。小さめのタッパー。
家にもあるが、失敗することを考慮に入れて少し多めに買っておくべきだろう。ボウルや
しゃもじはあるから問題ない。
 次に食材。何を置いてもチョコレートだ。クーベルチュールとかいうものを使うらしい。
なんだかよくわからないが、これは店頭で決めればいいだろう。砂糖の入っていないココ
ア。一袋もあればいいだろうか。生クリーム。どういう形態で売られているのか見当もつ
かない。これも店頭で決めるしかない。ラム酒。ラム酒――?
 酒など未成年の自分には買うことはできない。それに同じく未成年のシンジにラム酒の
入ったチョコレートを食べさせるわけにはいかない。酒に酔わせた上にカカオの効果でど
さくさに紛れて好きになってもらうという方法が頭をかすめたが、いくらなんでもそれで
は意味がない。酔いが覚めたら綺麗さっぱり忘れてたでは悲しすぎる。
 お酒を使わないレシピはどうかとレイはページを読み進めたが、ホワイトチョコを使う
とかナッツを包むとかチェリーをコーティングとかそういう類のレシピばかりで、レイの
望むものはなかった。買う本を間違えたかと思うが、同じような本を何冊も買っても仕方
がない。根拠はないが、ラム酒抜きで作っても問題ないだろう。たぶん。
 彼女はそう判断し、百円ショップに向かった。

 レイは買い物かごの中に次々と商品を入れてゆく。本に書いてあった通りの、砂糖の入
っていないブラックココアを一袋。中くらいのタッパーは五個。ラップ。クーベルチュー
ルなるチョコレートは見当たらなかった。百円では売れないということか。別の店で探す
ことにする。生クリームもなかった。
 レジで料金を支払い、買ったものをカバンに押し込むとスーパーに向かった。生クリー
ムとクーベルチュールを買うためだ。
 良く利用しているスーパーにもクーベルチュールなどなかった。彼女はしばらく考え、
高級輸入食材店を扱っているスーパーを思い出した。中学生の自分が入るような店ではな
いが、この際そんなことは関係ない。彼女は走るようにして駅に向かった。

 その店のなんともセレブな雰囲気など全く気にせず、何はともあれチョコレートのコー
ナーに向かう。
 あった。解説まで書いてある。クーベルチュールというのは要するにカカオバターの含
有量が高い製菓用のチョコレートのことらしい。では、カカオバターとはいったい何か。
カカオならわかるのだが。しばらく考えたが、もうキリがないので気にしないことにした。
 棚を見るとそれらしいチョコがいくつかある。割れチョコなるバレンタイン手作り用の
チョコがあった。カカオ70%のものが800グラムで三千円弱だ。なんとカカオ100%というも
のもあった。これはもはやチョコではなく単なるカカオではないか。値段の方も1キロで
四千円以上する。カカオ100%という数字にレイの心は揺らいだが、目的はシンジをカカオ
中毒にすることではないということを思い出し、無難にカカオ70%のものにすることにし
た。どのくらい買えばいいのか見当もつかないが、二つもあればいいだろう。1.6キロだ。
 次に生クリーム。肉や魚のコーナーにあるとは思えないので、そこは飛ばして端から見
て回る。乳製品のコーナーにそれらしいものがあった。どうやらフレッシュクリームとい
うのが生クリームらしい。念のため店員に確認したが、間違いなかった。様々な種類があ
り、何を選ぶか迷ったが、国内産ミルクのみを使用し、何の意味かはわからないが「フレ
ッシュクリーム」の後ろに書いてある数字が高く、プロ仕様というものを選択することに
した。1リッターもあるが、多いに越したことはないだろう。二千円近い。チョコと合わ
せると致命的な金額になるが、食費を切り詰めればなんとかなる。最悪の場合、ゲンドウ
に甘えれば追加のお小遣いをもらえるはずだ。最近はあんまり相手にしていないから寂し
がっているという噂も聞く。それを思い出して、再びチョコレートのコーナーに向かう。
義理チョコ用にラッピングされたものが陳列してあった。安いものを適当に選択し、レジ
に並んだ。



 彼女は足早に帰宅すると、チョコレートや生クリームを冷蔵庫にしまうのももどかしく、
ベッドに座ってレシピ本を熟読し始めた。
 ここで彼女は二度目の挫折を経験することになる。
 もったりするくらいまで泡立てる――。
 この「もったり」というのは何のことなのか。いったいどういう状態を指すのか。泡立
ての基準として「もったり」というのは一般的に使われる言葉なのか。
 サードインパクトを乗り越えたばかりのあの頃とは比較にならないくらい色々なことを
知ったつもりでいたが、まだまだ普通の女の子とは程遠いと痛感させられた。シンジに聞
くこともできない。再び涙を流しそうになるが、泣いている場合ではない。ぐっと堪えて
さらに読み進めていくと、チョコはあらかじめ二日くらい前に刻んでおいて常温で保存す
ると書いてあった。
 ここまで来ればもう知ったことではない。ラム酒も使えないし、つまりこのレシピ通り
に作るのは不可能ということだ。ならばやはり造形で勝負するしかない。ラミエル型で行
くのだ。NCルーターは使えないが、構うものか。シンジならきっとわかってくれるはずだ。
自分の、この想いを。

 レイはレシピ本を持ってキッチンに向かった。タッパーにラップを敷く。チョコレート
をとりあえず300グラム、はかりで計って包丁で小さく刻んだ。それを鍋に入れる。生ク
リームはチョコレートに対して1対1の割合で使うらしい。慎重に計ってチョコレートに
混ぜた。
 いよいよ火をつける。緊張するにはまだ早い。火を全開にし、しゃもじでかき混ぜる。
本の記述に従って沸騰直前で弱火にし、完全に溶けるまで混ぜまくる。やがて溶けたよう
に思えたので、ラム酒の投入は省略してボウルに移した。次は問題の、もったりするまで
泡だて器で泡立てる、という場面だ。適当に泡立てて、これでいいことにする。
 それをタッパーに流し込む。レイの買ってきたタッパーは約7センチ四方の立方体に近
いもので、内容量は205ミリリットルと書かれていた。泡立てたことによって体積が増え、
五個のタッパーは全てほぼ一杯になった。幸先がいい。
 それを冷蔵庫で二時間冷やすらしい。時間を節約するため、レイは冷凍庫に投入した。

 ベッドに戻り、再びレシピ本を開く。気づかなかったが、最初の方に「チョコレートを
作る前に」というページがあった。あわてて読んでみると、チョコレートを作るときは暖
房を切れと書いてある。彼女は急いで暖房を切り、窓を全開にした。
 上級者向けの、何が書いてあるかすら不明な難解なレシピを眺めているうちに一時間が
過ぎた。もういいだろう。
 冷凍庫から一つ取り出す。チョコをラップごとタッパーから出すと、がちがちに凍って
いた。何のために泡立てたのか良くわからなかったが、そんなことは問題ではない。これ
からラミエル型に加工するのだ。
 頭の中でラミエルの姿を思い浮かべる。全ての面が正三角形で構成された正八面体だ。
頂点から見ると四つの面が見え、投影すれば正方形になる。チョコレートはほぼ立方体に
なっているから、面の中心から面の中心に向かって切り落として行けばいい。それを上下
の面で合計八回やれば完成するはずだ。
 まずはチョコレートブロックを完全な立方体にしなければならない。彼女は図工の時間
に使ったノギスを持ち出し、最も短い部分の長さを計測した。74ミリだった。面は僅かな
がら波打っているので、マージンを取って一辺は70ミリにすることにした。千枚通しで印
をつけ、正確に直角を出して罫書く。包丁で慎重に切り落とそうとしたが、僅か数ミリを
切るのは困難だった。切れ味があまりよくない。ヤスリを使えばいいのかもしれないが、
食べ物にヤスリがけするのも違うように思う。糸ノコを使うのも抵抗がある。
 やはりMAGIを使ってNCルーターか。どうやってリツコをだまくらかそうかと考えている
と、不意にナイフを持っていることを思い出した。ゲンドウにプレゼントされたものだ。
ゲンドウはナイフマニアで、ナイフコレクターなのである。貰ったはいいものの使う機会
などなく、引き出しの奥深くにしまってあった。三本ある。一本はオールドのガーバー、
フォールディングハンターである。もう一本はクザン小田の小刀であった。値段にすれば
それぞれ二十万は軽く越え、それだけの価値は十分にあるが、もちろんレイはそんなこと
に興味はない。もう一本は相田義人の3インチ・セミスキナーである。これはカスタムモ
デルではないが、それでも十万近い価値がある。
 レイは小刀を手に取った。桐の箱に収められたそれは、その名の通り小さな日本刀のよ
うで美しかった。当然片刃であり、このような用途には向いているのだが、それを知らな
いレイもこれで切れば上手くいくのではないかと感じる。
 チョコレートに当てると、さほど力を入れる必要もなく、あたかも豆腐を包丁で切るか
のごとく切り落とせた。凄まじい切れ味だ。レイは感動した。その調子で立方体に加工し、
面の中心を出すとすぱすぱと八面を切り落とした。

 ラミエルチョコの完成である。

 美しい。
 あまりに美しかった。
 対称性も完璧であった。

 自分には才能があるのではないか――。
 彼女はそう思った。こうなるとラミエルだけでは寂しい。目指すは使徒完全制覇だ。
 まずはサキエルである。これは困難である。身体の造形はもちろんだが、指などの細い
部分や身体の各所についているパーツ類はどうすればいいのか。考えた挙句、細かいパー
ツは本体と別に作って付けることにした。パーツ用にはラミエル作成時に切り落とした部
分を使えばいいだろう。
 もう一つのチョコブロックをタッパーから出し、厚さ3センチ程度に切る。ここから身
体部分を切り出すのだが、この小刀では彫刻のような作業は不向きに思えた。食べ物に彫
刻刀を使うわけにもいかない。だが、あたかもこういう時のために用意されたかのように、
彼女の手元には3インチ・セミスキナーがあった。ゲンドウに感謝である。
 その小さなナイフを使い、頭の中にサキエルの姿を思い浮かべながら慎重に削り出して
行く。
 数時間後、サキエルは完成した。完璧である。彼女は自分の才能に自信を深めた。
 次はシャムシエルだ。脚の部分がややこしいが、その他の部分に問題はなく、すぐに完
成した。ガギエル、イスラフェル、サンダルフォンは良くわからないのでパス、マトリエ
ルは球の一部に足をつけただけで完成、サハクィエルなんかも適当でいいし、イロウルは
削りかすをさらに細かく刻めばOK――。

 彼女はふと我に返った。窓の外はもう明るくなっている。時計を見ると、朝六時だ。食
事をとることも忘れ、十二時間以上も使徒作成に励んでいたことになる。
 テーブルの上にはサキエル、シャムシエル、ラミエル、マトリエル、サハクィエル、イ
ロウルがずらりと並んでいた。ある意味壮観ではあるが、目的が不明になりつつある。
 これをシンジに渡すのか――。彼女は激しい虚脱感に襲われた。今日はもう学校は休も
うと決めた。ネルフ時代から培ったずる休みの癖は簡単には直らない。スカートだけを脱
ぎ、ごそごそとブラを外してベッドの中にもぐりこんだ。



 気づくとシンジがいた。素敵な夢だ。
 
「起きた?」
 
 夢の中のシンジが言う。夢を見ているのだからまだ眠っている。起きてはいない。だか
ら彼女は、目元までベッドにもぐりこんだまま首を振った。
 
「あ、寝てるんだ」
 
 シンジが笑う。夢の中でも相変わらず素敵な笑顔だ。胸がきゅんとなる。
 どうせ夢だ。手でも握ってもらおうと、彼女はベッドから手を出した。
 
「手、にぎって」
 
 彼の両手が触れた。そのあまりにもリアルな感触に、レイは急速に覚醒した。夢じゃな
い。シンジはここにいるのだ。合鍵は渡してあるから、学校を休んだレイを心配して来た
としても不思議はない。窓は閉まっているし、ご丁寧に暖房まで入っている。シンジはい
つからここにいたのか。レイはがばと跳ね起きようとして、危うく思いとどまった。ブラ
ウス一枚しか着ていない。こういう無防備な姿でいると怒られる。シンジはベッドの前に
座っているから、レイが起き上がれば腰から下を直視されることになってしまう。おまけ
にノーブラだ。絶対に怒られる。彼女はベッドの中でひたすら硬直していた。
 
「ずる休みはダメだって、言ってるでしょ?」
 
 手を握ったまま、シンジが子供を諭すように言う。
 
「……どうしてずる休みだって思うの?」
「あれを見ればわかるよ」シンジは机を振り返った。使徒各種が並んだままだ。「朝まで
やってたんだろ? 綾波って、夢中になると回りが見えなくなるから」
 
 図星だった。レイは赤面した。使徒の群れを片付けなかったのはうかつだったが、シン
ジが来ることを予想できるはずもなかった。
 
「これって、きっとラミエルだよね?」
「……うん」
「だったらこれはサキエルで、これはシャムシエルで……」
 
 シンジは使徒の名をあげてゆく。改めて見てみると、さして上手く出来ているとも思え
なかった。昨日――正しくは今朝方だが――感じた自分の才能は何だったのだろう。
 
「……これって、やっぱりイロウル?」
 
 シンジの視線の先にあるのは、誰がどう見ても単なるチョコの削りかすだった。レイは
恥ずかしさにいたたまれなくなり、毛布の中にすっぽりともぐりこんだ。

「あ、あのさ、それで……」
 
 シンジの声が毛布の中でくぐもって聞こえた。
 
「その……ものすごく勇気出して言うんだけど、これって、きっと僕のために作ってくれ
たん……だよね?」
 
 レイは毛布からそっと顔を出し、小さくうなずいた。シンジの手に力が入った。
 
「去年も待ってたんだ。でも……綾波は、男に興味なんかないんだと思ってた。そう思っ
て、自分をなぐさめてたんだ。僕は臆病で、弱虫で、自分から言う勇気がなくて……」

 今言うべきだ、とレイは思った。

「碇くん、わたし――」
 
 その口唇をシンジの人差し指がふさいだ。
 
「バレンタインは明日だよ。だから今日は僕が言うんだ」
 
 言われた通り、レイはただシンジの言葉を待った。
 
「綾波、君が好きだ」
「……本当に?」
「今まで、これほど本当の本気だったことはないっていうくらい、本当だよ」
 
 レイはシンジの照れたような冗談めかしたセリフに笑顔になり、それから泣きそうにな
った。
 
「綾波が幸せになってくれれば、それでいいと思ってた。でも、それじゃだめなんだよ。
綾波は僕が幸せにするんだ。綾波は僕じゃなきゃ幸せになれないって、そう決めたんだ」
「碇くん、わたしも――」
 
 言いかけたレイの口唇を、もう一度シンジの人差し指がふさいだ。
 
「返事は、明日聞かせて欲しいんだ。バレンタインに。この……」シンジはテーブルの上
を振り返って言う。「この、綾波の作ってくれた使徒たちを一緒に殲滅しながらさ。どき
どきしながら待ってるから」
「……我慢できない」
「少しだけ、我慢して」
 
 レイはあふれそうな涙を毛布で拭い、するりとベッドから滑り降りた。
 
「あ、綾波……」
 
 ブラウス一枚にノーブラのレイを前にして、目を伏せることすらできないシンジはどぎ
まぎするばかりだった。
 レイはそんな彼の胸に顔をうずめた。言葉にして返事ができないなら、こうするしかな
かった。
 
「碇くん……連れて行って……」
「え……。えっと、いいけど……どこに?」

 まずはキスから――。

 レイはヒカリに言われたことを思い出し、顔を上げた。
 シンジを見つめ、そっと目を閉じる。
 どれくらい待っただろうか。シンジの手が頬に触れ、口唇が触れ合った。

 チョコも食べていないのに、そのキスは甘く、そして切なく、ほろ苦かった。


 恋の味だった。



end

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