その手を離さない

written by tamb   


 綾波。その柔らかな響きの名前には覚えがあった。
 たぶん母方の親戚だろう。お葬式に来ていたのだから。幼い頃に一緒に遊んでいたのかもしれない。だから名前に聞き覚えがあるのだろう。そう思っていた。

 両親が死んで、ぼくは一人になった。考えたこともなかったしもちろん気づきもしなかったけれど、親戚の中でぼくの両親は忌み嫌われていたようだった。それは式の最中のみんなの態度でわかる。理由はわからない。知り合いなど一人もいなかった。親戚がいるという事実すら意識に上らなかった。それは向こうにとっても同じことで、僕たち家族の存在など思い出したくもなかったに違いない。
 多額の遺産でもあればともかく、嫌われ者の残した子供を引き取ろうとする者などいるはずもなかった。それならそれで構わない。誰かの世話になどならずとも、一人で生きて行ける。

 葬儀のシステムというのは実によく考えられていて、次から次へと決定すべき事項が降り注ぎ、悲しんでいる暇などなかった。ましてやぼくに親身に相談できる相手などなく、全てをぼく一人で、葬儀社の人と相談しながら――担当の人はとても親切だった――決めるしかなかった。
 精進落としが終わるのを待ちかねたように、ぼくは斎場から抜け出した。親戚の間では、ぼくの扱いについて話し合いが続いていたようだが、もう関係なかった。彼らの問題は世間体だけだ。
 誰かが引き取るべきだ。自分以外の誰かが――。
 ぼくには関係ない。ただ一人になりたかった。

「うちで暮らす?」

 鈴を振ったような声、というのはこんな声のことをいうのだろう。
 葬儀で見かけた女の人だった。
 ぼくは黙って首を振った。親切心で言ってくれたのだろう。確かにそれはありがたい話には違いない。でもこの人に決定権はない。両親に反対されて、それで終わり。――うちで引き取る理由はないでしょう?

「わたしも一人で暮らしているの。誰に気兼ねすることもないわ」

 ぼくは驚いて立ち上がった。ぼくと暮らして、この人にどんなメリットがあるというのか。ぼくはもう幸せになろうなんて思わない、どこにいても死んでいるのと同じなのに。いれば目障りなだけなのに。

「あなたは死なないわ」

 何を言っているのかわからない。でも涙があふれた。あふれて、止まらなかった。この人にすがってもいいのかもしれないと、ほんの少しだけ思った。

 するべきことはまだ山ほどあった。葬儀社への支払い、遺品の整理、マンションの解約、保険の手続き、挨拶状、etc、etc。ぼくは綾波と名乗った女の人に甘え、かなりの部分を手伝ってもらいながら仕事を進めた。遺産の管理は冬月という遠縁の親戚の人に任せることになった。彼女の保護者的な立場にいる人らしい。

「姐さん」
「ねえさんはやめて」

 彼女のことをなんと呼んでいいかわからず、しばらくは「あの」とか「すいません」とか声をかけていたが、引っ越しが終わった時にそう呼んでみると、言下に拒否された。妥当な、当たり障りのない呼び方だと思うのだが。反射的に後ずさるほど冷たい声だった。

「特にその姐という字はやめて」
「わかりました……」

 彼女はそれでいいと言うかのように深く頷いた。しかし、では何と呼べば良いのか。彼女は少しだけ考えてから言った。

「綾波、でいいわ。……そう呼ばれていた……みんなそう呼ぶから」

 呼び捨てにはできない。綾波さんと呼ぼう。
 だがそれは何週間も続かなかった。彼女は特定の部分で驚くほど不器用で、例えば包丁の扱い方が異様に危なっかしい。部屋は綺麗にしているがゴミの日を忘れる。高い所の物を取ろうとして椅子の上に乗り、バランスを崩して落下し腰を強打する。妙に幼いところがあるのだ。
 そらからフルーチェとアイスがありえないほど好きだ。まあそれはいいのだが、それでいて、例えばぼくがゴミを出すと、偉いねと言って頭をなで、子供扱いする。それがぼくを苛立たせる。
 呼び捨てにしたくもなる。

「綾波」
「なに」
「今日、ゴミ出した?」
「……忘れた」
「忘れないでよ」
「燃やすゴミの日は週に二回あるわ。一回くらい忘れても――」
「こないだの火曜もぼくが捨てたんだけど?」
「――紅茶、いれるわ。碇くんも飲むでしょう?」
「あ、ああ。うん」

 彼女のいれる紅茶は絶品で、それだけで何もかも許せてしまう。少し苦くて、暖かくて。前に誰かに教わったらしい。男の人か、女の人か――。
 ぼくはその人のことを考える。

 何かを忘れている。そんな気がする。とても大事な、何かを――。

 聞き覚えのある綾波という名前。空色の髪と紅い瞳にも、うっすらと覚えがある。でもそのおぼろげな記憶の中にある少女は中学生くらいに思える。だとすればその少女はいま目の前にいる彼女ではない。他の親戚か。そうかもしれない。だが彼女に親戚関係のことを真っ直ぐに聞くのは躊躇われた。何度か遠回しに聞いてみたが、悲しそうな顔で黙るだけだった。彼女の悲しむ顔は見たくなかった。
 あるいは、幼い頃に遊んだ彼女がとても大人に見えて、記憶の中で中学生くらいに変化したのかもしれない。もしそうなら、彼女に親戚のことを聞かなくて済む。それならその方がいい。

 それでも、とぼくは思う。彼女はぼくを見てはいない。ぼくを通して他の誰かを見ているような気がしてならない。この感覚にも既視感があった。うっすらとした記憶の中の、中学生の彼女もぼくを見てはいなかったのではないか。ではいったい誰を見ていたのか。ぼくは何を忘れているのか――。



 遺跡がある。何もかもがわからない遺跡。謎のモニュメントだ。いつから建っているのか、誰が何のために建てたのか。
 宇宙人が来たとか、未来人が建てたとかいう都市伝説もある。遠い過去にあった最終戦争の名残りとか、神の怒りに触れた人類が赦しを乞い罪を贖うための碑、はたまた世界征服を目論んだどこぞの秘密結社とそれを阻止せんとした別の秘密結社が作った最終決戦兵器、なんていう陰謀論めいた説もあった。なんでも一朝有事の際には動き出すらしい。

 さして興味があったわけではなかったけれど、今にして思えば初めてのデートにそこを選んだのは偶然ではなかったのかもしれない。それをデートと呼べれば、だけれど。
 遺跡の周辺は自然の多い公園として整備されていた。
 遊園地でデートというのはよくある手だが、絶叫系マシンなんか見るだけで嫌だったし、綾波も興味を示すとは思えなかった。
 水族館か遺跡で迷った。きっと遺跡の方が人が少ないだろうというのが選択した理由だった。行くという行為そのものに意味がある。場所は重要ではない。
 彼女に対して単に家族という感覚以上のものを自覚したのは、14歳になって少し経った頃だった。ぼくの身長も急激に伸び、まだ追いついてはいないけれど見下ろされる感じは少なくなっていた。この自分の感覚――単に家族という以外の感覚が何なのか、確かめたかった。彼女が誰を見ているのか。それを確かめたかった。

「デート?」

 綾波は不思議そうを絵に描いたような顔をして、ぼくは激しく後悔した。彼女はぼくを見ていない。でももう後戻りもできない。

「最近天気もいいし、お弁当でも持って軽くピクニックみたいな感じでさ。気持ちいいと思うんだ」

 ぼくは取り繕うように早口で言った。

「いいけど……」

 そう答えた彼女の表情に不自然さはなく、ぼくはひとまず安心した。当たり障りのない一日を送れれば、それでもいい。

 日曜日、ぼくと綾波はサンドイッチを作り紅茶をボトルに入れて出かけた。暑くもなく寒くもなく、突き抜けるような青空が高かった。

 その始まりは、まるで冗談のようだった。緩い傾斜で綾波が足を滑らせ、転びそうになった彼女の手をぼくが掴んだ。それだけだった。

 彼女に触れるのは、初めてだった。

 ――本当は、七回目か。

 ぼくの手が他人を傷つける。
 他人の手がぼくを傷つける。
 でも本当に理解し合えないのか。
 確かめなきゃ。
 もう一度、手を、繋ぎたいんだよ。

 ――もう一度、触れてもいい?

 彼女が、綾波が誰を見ていたのか、わかった。

「綾波」

 ぼくの声に、彼女は驚いたように顔を上げた。ぼくは彼女の手を掴んだまま言った。

「……これでお別れなんて、悲しいこと言うなよ」

 彼女の顔から驚きが消えるのに、長い時間はかからなかった。

「……還って、来たのね」
「綾波の力を借りてね」
「あの時、うちで暮らす? なんて言わなければ良かったのかもしれない。いつかこういう日が来るかもしれない、その可能性を生むのだと思えば。でも……我慢できなかった」
「ありがとう」
「……どうして?」
「また、逢えたからね」
「……うん」
「一緒に確かめようよ。理解し合えるのかどうか。心を通わせられるのかどうか」

 ぼくは涙ぐむ彼女の暖かな身体をそっと抱きしめ、頭を撫でた。
 綾波は顔を上げ、少しだけ涙で掠れた、でも限りなく優しい声で、こう言った。

「こういう時の顔、この顔で、あってる……?」

 もう離さない。




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