フルーチェの味わい方

written by tamb   


 碇くんが洗い物をしている。わたしはその姿を見るともなく見ていた。
 今日の食事当番は彼で、洗い物も当番がすると決めてあった。
 彼は器用で、そして妙に研究熱心で、レシピ本など買い込んで来ては色々な料理作りに楽しみを見出していた。

 わたしの知っていた碇くんはどうだったのだろう。

 わたしの知っていた碇くん。
 わたしの知っている碇くん。

 あなたは誰?

 わたしは誰なのだろう。あの全てが溶けた世界から記憶を持って還って来たわたしは。

 赤い薬を飲むと夢から覚めて現実に戻れる。真実を知ることができる。とてもとても辛い現実。目を背けたくなるような真実。
 青い薬を飲むと夢の中で幸せに生きて行ける。本当の現実、知りたくもない真実など知ることもなく。暖かな陽だまりの中で、幸せに。

 わたしはどの薬を飲んだのだろう。
 碇くんはどの薬を飲んだの?

「綾波、フルーチェ食べる?」
「食べる!」

 エプロン姿の碇くんが声をかけて来て、わたしは脊髄反射でそう答えた。碇くんの言葉をわたしの脳みそが理解したのは返事をしてからだった。少し恥ずかしい。

 どうでもいいことなのかもしれない。何が真実かなんて。その人にとっての真実。その人にとっての幸せ。それはその人が選び取るものでしかない。そしてその価値はその人が決めるしかない。
 でも真実が見えなければ、それを選び取ることすらできはしない。

 どこかに真実はあるのだろうか。信じることができないなら、たとえそれが真実でも価値などない。でも、それでも知らないよりはまだいいのかもしれない。虚構を真実だと信じていたとしても。

「綾波」
「なに」
「フルーチェがこんなに美味しいなんて、今までずっと知らなかったよ。なんだか損した気分だ」
「真実を知るというのは大切なことよ」
「フルーチェで真実を語るのもどうかと思うけどね」

 そう言う彼は笑顔だった。
 わたしは思わず視線を落とした。自分が誰を見ているのか、誰の笑顔を見たのか、一瞬わからなくなっていた。
 フルーチェが入っていたはずのお皿は、いつのまにか空っぽだった。
 おかわりをおねだりしようとして、やめた。もう少し、というくらいがいい。

「紅茶、いれるわ」
「うん。ありがとう」

 彼のお皿も空だった。



「碇くんは、どんな女の子がタイプなの?」

 お風呂から上がって、後は眠るだけのゆっくりした時間に聞いてみた。わたしも碇くんもゲームはしないしテレビもニュースくらいしか見ない。だから部屋の中はいつも静かで、それは良かったと思う。

「うーん、そうだなぁ」

 彼は少し考えてから言った。

「姉さんみたいなタイプ、好きだよ」
「ねえさんはやめてと言ったはずだけど」
「字は変えたよ? 姐じゃなくて姉」

 彼は宙に指で字を書いた。細い指。

「それでもだめ」

 彼は静かに笑った。

「綾波はどんなタイプの男の子が好きなの?」

 そんなことを聞かれるとは思わず、わたしはどきりとした。

「そうね……碇くんみたいな男の子、好きよ」

 あはは、と彼のやわらかな声。

「じゃあぼくたち、付き合おうか」
「……優しくしてくれる?」
「でも綾波は、ぼくのこと見てないよね」

 わたしはまたどきりとした。

「……どうして、そう思うの?」
「どうしてっていうか、そりゃわかるよ」

 彼は笑顔のまま続けた。

「きみの言う碇くんて、誰? 綾波は誰を見ているの?」

 わたしは顔を伏せた。わたしはその答えを持っていなかった。

「……ごめん、つまんないこと言って」

 顔をあげることもできなかった。

「もう寝るよ。おやすみ」
「おやすみ……なさい」

 彼の背中も見れなかった。
 わたしは部屋に一人残された。
 一人だった。



 買い物を済ませて家に帰ると、女の子がいた。おじゃましてます、とその子は明るい声で言った。

「おんなじクラスの霧島さん。帰る前にひと休みで、ちょっと寄りたいって言うからさ」

 碇くんは少し早口だった。

「いらっしゃい。ごゆっくり」

 わたしは笑顔で言った。うまく笑えたと思う。
 霧島さんはかわいい女の子だった。碇くんはあんな感じの女の子がタイプなのだろうか。明るくて、快活で、いつも笑顔で。
 連絡くらいくれればいいのに、と思う。外で少し時間を潰すくらいのことはできる。そうすれば二人でいられるのに。
 そうでなければ、自分の部屋にいればいい。リビングにいなくても。そう思ってから考え直した。自分の部屋というのはほぼ寝室のことで、いきなりベッドルームに女の子を連れ込むのはどうか、と彼は考えたのだろう。碇くんらしい。
 わたしは手を洗いうがいをして、夕食の買い物を冷蔵庫に入れ、それからお手洗いを済ませて部屋に引きこもった。出かけようかなとも思ったけれど、それも不自然な気がした。
 本を開いたが少しも頭に入らなかった。
 ため息をつき、どうしよう、と思う間もなくノックの音がした。はい、と返事をする。ドアが開いた。

「帰ったよ」
「もう帰ったの?」
「うん」
「送って行かなくていいの?」
「いいんだ。そういうんじゃないから」
「……そう」
「うん。あの、ごめん。急に女の子を連れて来たりして。どうしても上がりたいって言って、断れなくて」
「それはいいけど……連絡くらいしてくれればいいのに。少しくらい、外で時間潰せるから」
「そういうんじゃないから」

 彼は少し強い口調でもう一度そう言った。わたしはどう答えたらいいかわからなかった。

「霧島さん、かわいい子ね」
「綾波の方がかわいいと思うよ」
「……なにを言うのよ」

 頬が赤くなる。くすり、と碇くんが笑う。碇くんらしい笑顔だった。

「お腹へったな」
「すぐ作るわ」
「今日のごはん、なに?」
「冷蔵庫の中で予想外に賞味期限切れの近いもの。ヒント、開封後は冷蔵庫保管で約三か月」
「……カレーかな?」
「あたり。さすが」
「まかせてよ」

 碇くんの笑顔、とわたしは思う。彼のことをずっと見ていたい。



 夕食を済ませ、洗い物をする。
 見られているような気がする。視線を感じる。でも振り向いて目が合ったら恥ずかしい。だから気がつかないふりで洗い物を続けた。洗い物が終わったらどうしたらいいのだろう。考えすぎてお皿を落とした。割れなくてよかった。割れたら元には戻らない。
 碇くんは、きっとわたしを見ている。視線を感じる。どうして見ているのだろう。慎重にお皿を拭く。見られている。耳が熱い。たぶん見られてる。洗い物が終わったら――。

「い、碇くん」
「うん?」
「フルーチェ、食べる?」
「ああ、もらおうかな。フルーチェには真実があるからね」

 碇くんがここにいる。それは信じられる。わたしの知っている碇くんとわたしの知っていた碇くん。
 碇くんに会うべきではないと思っていた。碇くんに会いたい、それは間違った想いだとわかっていた。
 それでも。
 碇くんの隣にいると、それだけで満たされてしまう。彼の隣に知らない女の子がいると、心が空っぽになる。それは、彼が碇くんだから。
 知らないでいるより知っていた方がいい。それが辛い現実でも。悲しい真実でも。それで嫌われても。
 選択の残酷さはわたしが引き受ける。碇くんに辛い思いはさせない。

 わたしは、碇くんを知っているわたし。
 わたしは、綾波レイ。

 だから今は。

「綾波」
「なに」
「フルーチェ、おいしいね」
「おいしいわ」
「おいしくて、笑顔になるね」
「うん」
「しあわせ?」
「とっても」

 碇くんの笑顔が眩しかった。

 碇くんを見ていよう。今はそれでいい。それだけでいい。
 ずっと碇くんを見ていよう。


 イチゴのフルーチェは、真実の味がした。



「ねえ、綾波」
 ぱくぱく
「うん」
 ぱくぱくぱく
「フルーチェって、太らないかな?」
「えっ!?」




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