待ち合わせのときめき

written by tamb   


 春になると魔法使いが現れる。
 そう言ったのはリツコだった。
 枯れているとしか思えなかった草木が生気を取り戻し、一斉に緑を芽吹かせる。それは確かに魔法だった。

「極限にまで発達したテクノロジーは魔法と区別がつかない」
 リツコは甘煮にしたじゃがいもを食べながらそう言った。
「私は科学者だし、人間の叡智を信奉しているわ。こうしてガスコンロで料理を作れるのも人が生み出したテクノロジーのたまものなんだし、そうやって人間は淘汰圧に耐え、生存競争に打ち勝ってきた。でもね」
 レイはふきのとうの天ぷらを口に運び、リツコを見た。
「手を出してはいけないこともある。季節の移り変わりもそのひとつだと思うわ」
 季節が戻ってくる。今はまだ少しの変化に過ぎないが、それでも春の訪れはレイの心を浮き立たせた。
「手を出してはいけないこと。神様の領域。それを私たちは学んだはずだから」
 リツコはそう言った後、レイの反応を待たずに続けた。
「それにしてもあなた、随分とお料理が上手になったわね」
「ありがとうございます」
「これ、なんていうお料理だったかしら。お肉抜きの肉じゃが」
「じゃがじゃがです」


 季節が少しずつ戻ってくる。
 この冬はまだ、少し肌寒い程度だった。クリーム色のパーカーとピンク色のカーディガンを、アスカに選んでもらった。
「あんたは髪の色が特殊だから」アスカは手に持った服をレイの身体に当てて言った。「コーディネートが難しいのよね。肌は真っ白だし」
「アスカだって髪の色は特殊だわ」
「日本人に混じればね」
 アスカは自分用に深紅のパーカーを手に取って言った。
「あんたと色違いのおそろい」
 アスカはきれいだな、とレイは思う。
 いつかはアスカみたいに、きれいで、笑顔の素敵なかわいい女の子になれたら――。


「ぼくたちは確かに、今でもエヴァのパイロットなのかもしれないけど」シンジは心底うんざりした顔をした。葛城家のリビングだった。「中学生なんだよ。週末を利用して中学生に出張を命じるって、どういうこと? しかも一人でだよ」
「どこに出張なの?」とアスカ。
「松代。いまさら何かやることがあるとも思えないんだけどな。わざわざ出張までして。アスカは知ってる? 松代って、長野からバスで行くんだよ。でなきゃ三十分くらいかけて歩くか」
「迎えが来るなんて気のきいた話はないわけね。タクシー使えば?」
「ネルフってもうあんまりお金ないらしいよ。タクシー代、出るかな?」
「で、何をするかは聞いてないの?」
「バックアップデータの整合性が取れないからその検証とか言ってた。それと新型のプラグスーツのテスト」
「意味がわかんないわね」
「だろ? いまさら新型プラグスーツも意味不明だし、なんか理由があるにしても、送ってもらってこっちからリモートでやれば済むと思うんだ。お金もないのに、出張って」
「データの整合性の問題だって、わざわざ行く必要があるとも思えないわね」
「そもそもぼくに何をしろって言うんだろう。リツコさんかマヤさんならともかく」
「きっと理由があるんだわ。深い深い理由が」
 黙って聞いていたレイが静かに口を開いた。
「そうね。例えばどんな?」
「……松代の大深度施設の奥深くから、髪の長いもう一人のわたしが現れた、とか」
「松代に大深度施設があるの?」
「知らない」
「……あんたの冗談はわかりにく過ぎる」
 緊張した表情になっていたアスカが一気に脱力し、抱えていたクッションと共に倒れ込んだ。
「加えてシャレになってない。大深度施設と深い理由をかけてるのかもしれないけど、もうちょっとなんとかして」
「ごめんなさい」
「まあいいよ。行けばわかることだし」シンジがとりなすように言う。「一泊だしね。紅茶でもいれようか」
「あたしがいれるわ。ダージリンのファーストフラッシュがあるの」
「それ、ここんとこ巷で話題になってるみたいだけど」アスカは脱力したままくぐもった声で言った。「あんたの閃光ってのは、いったいなんのことなの?」
「わたしの、閃光……?」
 レイは数秒、アスカを見つめたまま考え込んだ。
「……この場合のファーストというのは、わたしとは関係が――」
「わかってるわよ。冗談よ」
「アスカの冗談もわかりにくいわ」
「悪かったわね」
 いつの間にか倒れ込んでいたシンジは、もはやうつ伏せになったまま微動だにしない。


 終わったよ。電話越しにシンジの疲れ切った声が聞こえた。夜も十時を過ぎていた。
 朝早くから松代に向かったシンジは、昼前からこの時間まで断続的にシンクロテストを繰り返していたという。
「さすがに疲れたよ」
「大丈夫?」
「なんとかね」
 今は平時なんだし、児童福祉法的にどうなのかしら、こんな時間まで中学生を、とリツコがまるで他人事のように呟く。
「明日、帰るよ。昼前にはそっちに着くから、待ち合わせしようよ」
「待ち合わせ」
「いつもの公園にしようか」
「うん」
「あそこに十ニ時にしよう。噴水の前。それからいつもの喫茶店でお昼かな」
「うん。わかった」
 おやすみの挨拶をして、電話を切った。
「明日はデートね?」
 リツコが笑顔で訊ねる。
「はい」
 そう答えてから、レイはそれがデートなのだと気づいた。
「楽しんでらっしゃい」
「は、はい」
 頬を赤く染めたレイの頭を、リツコはそっと撫でた。


 早起きをしてシャワーを浴びた。
 長い時間をかけて、シンプルなデザインの白い下着を選んだ。
 軽い朝食を済ませたあと、さらに長い時間をかけ、結局アスカと買ったクリーム色のパーカーとチェックのチュールスカートを選んだ。清楚で少しラフな感じのが似合うよね、綾波は、とシンジが言ってくれたのを思い出したからだ。それはファッションに疎い彼女を気遣った言葉だったのかもしれない。それでもシンジに、似合うよ可愛いね、と言われると、嬉しいような恥ずかしいような、不思議な気持ちになる。その新鮮な感覚は、悪い気持ちではなかった。

 行ってきます、とリツコに声をかける。
「あら、ずいぶんと可愛いお洋服ね。いかにもデートって感じ」
 そうからかわれ、レイはまた頬を染めた。
「いってらっしゃい。遅くなるなら連絡してね」
「……はい」
 もう一度行ってきますと告げ、少女は部屋を出た。


 見上げた空は目眩を覚えるような青で、彼女は日傘をさした。
 待ち合わせの公園は本当に以前からあったのだろうか。
 サードインパクト以前は、シンジに連れられて少し出かける以外、第3新東京市の街を歩くことなどなかった。だからこの公園のことを知らなかったとしても不思議ではない。だが、こんなにも大きな公園の存在に気づかなかったのだろうか。
 ネルフの庭園にあった、シンジの手に触れたあの公園は、サードインパクトでジオフロントと共に失われた。
 この公園は、あの公園に似過ぎているようにも思う。
 シンジが願い、レイが創出する。そんな記憶も実感もなかったが、散々聞かされた話だった。天地創造の一瞬だけ二人は神となり、そして人間としての自分達を自ら産み落とした。それが一番すっきりする解釈だし、それで何の問題もない。そう聞かされていた。
 それ自体に、彼女は深い関心を持ってはいなかった。今のこの世界の成り立ちがどうであれ、今とこれからを、たとえ手探りでも、シンジと歩いて行ければそれで良かった。
 それでも、あの公園の存在をシンジが願ったのだとしたら、それは嬉しいことだった。


 この公園には、学校の帰り道、お喋りを楽しむみんなから良く二人でこっそり抜け出して散歩に来た。
 何をするわけでもなかった。ただゆっくりと歩き、懐いてくる猫をなで、空を見上げる。
 晴れの日は綿菓子のような雲を。
 雨の日は優しく降り注ぐ線を、一本の傘の中で。
 そんな日は、歩調を合わせて歩くシンジとの距離がいつもより近く、足元が浮いているような気がした。
 少し疲れると、天気の良い日は木陰のベンチに並んで座った。細い髪を揺らす風が心地よく、レイは少しだけ足を伸ばし、スカートを押さえた。
 何を話すわけでもない。ただ隣にいるだけで嬉しかった。右を見るとシンジがいる。笑顔が眩しく、どうしていいかわからなくなる。自分は彼のように優しくて柔らかな笑顔なのかな、と思う。
 会話が途切れると、彼の息遣いを感じる。視線を感じる。
 キスされるかも、と不意に思う。心臓が高鳴り、視線が泳ぐ。頬が熱くなる。どうしたらいいのかわからない。シンジといると、いつもどうしたらいいのかわからなくなる。心ではただ彼のシャツを掴んでいる。
 やがてシンジは立ち上がり、レイに手を差しだす。
「行こうか」
「うん」
 レイは伸ばされた手をしっかりと掴み、立ち上がる。
 どこへ、とは聞かない。
 ただ手のひらの暖かさだけを感じる。


 とりとめのないことを考えながら歩いていると、もう公園はすぐそこだった。
 時計台を見上げると、もうすぐ待ち合わせの時間だった。少しの心臓の高鳴りを覚えながら、いつもの木陰のベンチに座った。水の流れは涼しげで、それを見ているだけで、熱くなった頬を冷やしてくれるように思えた。
 シンジは魔法使いなのかもしれない、と彼女は不意に思った。神様などではなく、魔法使い。レイの心を浮き立たせる、魔法使い。きっと空も飛べるだろう。
 春が来るんだ。レイはそう感じた。草木が緑を芽吹かせる、春が。

 わたしはここがいい。

 シンジの気配がする。
 待った? と普通に声をかけてくるか、後ろから目隠しでもして驚かせようとするか。
 レイは胸に手を当て、噴水を見つめながらその時を待った。

 幸せの匂い。夢に見ることすら知らなかったこと。それが手の届くところにある。
 暖かな幸せが、手を伸ばすだけで。

 碇くんの隣に、わたしがこうしていられる。
 いつでもわたしをときめかせてくれる。

 わたしは、ここがいい。


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