誕生日には二人きりで

written by tamb   


 アスカと二人で、女子トイレと更衣室の掃除当番だった。二ヶ月に一度くらいしか回ってこない当番だけれど、結構疲れる。体操服に着替えて、モップがけ、雑巾がけ。

「掃除なんて、プロの業者にお願いすればいいのにねぇ。まったく、週頭からこんなこと」

 ベンチを動かし、その上に立ったアスカがロッカーの上を雑巾で拭きながら言う。「うわ、きったな」

 わたしは畳を雑巾がけしながら、噂話を口にした。

「更衣室はともかく、トイレ掃除は業者にお願いするらしいわ」
「それは素晴らしいわね。トイレ掃除が教育の一環だなんて時代錯誤も甚だしいもんね。で、いつから?」
「来年度」
「……関係ないわね」
「ええ」

 わたしたちは高校生になっているはず。たぶん。

「まさか高校でもトイレ掃除って話はないでしょうね……」

 わからないので黙っていた。

 アスカともずいぶん親しく話をするようになった。気を遣って貰っている、と思う。まだ人との適切な距離感みたいなものはよくわからないけれど。
 気を遣って貰っていると知ったのも、碇くんが言ってくれたからだった。アスカは綾波と仲良くなりたいみたいだよ――。

「どうして?」
「そういうのに細かい理由はないんだ。直感的に、この子とは仲良くなれそうとか、友達になったら楽しそうとか、そう思うものなんだよね」

 よくわからなかった。

「友達なんて、無理して作ったり多ければいいってもんじゃないけど、気の置けない友達がいるっていいもんだよ」

 そうかもしれない。
 リツコさんとミサトさんは、口喧嘩をしていたと思えば次の瞬間大爆笑したりそのまま飲みに行ったりしている。二人の関係性はよくわからなかったけれど、気の置けない友達というのはそういうものなのかもしれない。
 アスカに限らず、わたしと誰ががそういう関係になれるかどうかはわからなかったし、特になりたいとも思わなかったけれど、しばらくは流されてみよう。碇くんの言葉は信じられる。わたしにはわからないことが多すぎる。

 碇くん。
 彼はわたしのことをどう思っているのだろう。
 碇くんの傍にいると体温が少し上がる。それはどうしてだろう。
 顔が見えるところへ。
 声の聞こえるところへ。
 それで何かが起きるわけでもない、何も変わらない。ただ胸が苦しくなるだけなのに。
 碇くん。

 更衣室の掃除を終えて、トイレ掃除を無言で簡単に済ませ、また更衣室に戻った。制服に着替え直す。

「なんかこう」アスカが下着姿で伸びをしながら言った。「掃除するってんで制服からジャージに着替えて、掃除終わってまた制服に着替えて、家に帰ってまた着替えるって盛大な無駄な気がしない?」
「そう?」
「そうよ。女子の着替えに萌える奴がいるのよね、きっと」

 ほんの少し前まで制服以外の服は持っていなかった。プラグスーツは服とは言わない。たぶん。だから、着替えて自分の姿が変わるのは少し楽しかった。

「それはおしゃれの話でしょう? 制服、ジャージ、制服、スウェットと着替えても別に楽しくないしときめかないわ。フェチ方向の奴ならあれかもしれないけど」
「ふぇち?」
「なんでもない。あんた、家に帰ったらどんな服着るの? もう外には出ないとして」
「パジャマ」
「へえ。どんな?」
「碇くんが買ってくれたの」
「ワタクシが間違っていました」

 アスカはそう言って笑った。わたしは自分の答えがとんちんかんだったことに気づいたが、気づかない振りをした。頬が熱い。

「さ、帰るわよ」
「うん」

 わたしたちは校舎を出た。制服姿で。

「もうすぐシンジの誕生日だけど、知ってる?」
「……知らない」

 わたしは碇くんのことを知らない。自分でも驚くほど知らない。もっと知りたい。彼の全てを知りたい。わたしのことも、碇くんに知って欲しい。

「今度の日曜日。うちでパーティとかやるわけじゃないけど、きっとミサトがサプライズでケーキくらい買ってくると思うの。シンジに誘われたら遠慮なんかしないで来るのよ」
「碇くんがわたしを誘うの?」
「そう思うけど。あたしがシンジならそうするわ。みんなでご飯食べて、それから電気消してローソクかなんか吹き消しちゃって、ケーキ食べて、それから、ぼくの部屋に来ない? なんて言っちゃって、部屋でひとしきりお喋りして、タイミングを見計らって綾波かわいいねかなんか言ってそのまま……」
「……そのまま?」
「なんでもないの。とにかく遠慮は無用ってことよ。あんたは家族みたいなもんなんだから」
「家族?」
「そうよ。そんなことは深く考えなくてもいいの。一年間、苦楽を共にして戦った仲間でしょ? そういうこと」
「わかった。ありがとう」

 アスカはわたしの言葉ににっこりと笑った。彼女の笑顔はとてもかわいい。あんな風に笑えたら、と思う。あんな風に素敵に笑えたら。

「何かプレゼントでも考えておくといいわ」

 誕生日プレゼント。言葉は知っていた。もらったこともなかったし、考えたこともなかった。

「……何がいいの?」
「何がいいかしらね」アスカは少し遠くを見ながら言った。「中学生だし、あんまり高価じゃなくて、もらって負担にならないものがいいと思うけど……」

 しばらく会話が途絶えた。それからいつものようにクラスの噂話や先生への文句や受験の話をして、手を振ってさよならをした。また明日。

 誕生日プレゼント。何がいいだろう。部屋に戻ったわたしはベッドに倒れ込んで考えた。
 負担にならないもの。もらって困らないもの。それはたぶん、記憶や思い出に残らないもの。飾ったり使ったりしないもの。
 考えた。考えすぎて熱が出てきた。食べる物しかなかった。他にはない。考えつかない。
 手料理は無理だ。技術的な側面はともかくとしても、碇くんの家に行って料理をするのは不可能だし、かと言ってこの部屋に呼ぶのもハードルが高い。部屋に来てと言うだけで倒れるだろう。
 お菓子にしよう。碇くんはお菓子食べ過ぎてちょっと太っても大丈夫。でも、そもそも碇くんはお菓子なんか食べるだろうか。少しくらいなら食べる。きっと。だっておいしいから。
 お菓子といっても色々ある。だがポテチひと袋はいと渡すのもいかがなものかと、さすがにわたしでも思う。思考能力が限界に達しつつある。やはり甘いものがいい。少し前、アスカに小さなお菓子がたくさん売っているお店に連れて行ってもらった。確か駅ビルの地下。駄菓子屋さんと言うらしい。あそこにしよう。チロルチョコとかアポロチョコとか、そういう細かいチョコレートとかの甘いお菓子をたくさん買って、それをかわいい紙袋に入れて。たくさん買ってもそんなに高くはならないはず。
 決めた。これで行こう。
 お菓子のことを考えていたらお腹が減ってきた。今日の晩ごはんは何にしよう。エスカリバータが食べたくなった。碇くんに教えてもらったメニュー。手間は掛かるけれど難しくないというのがわたしに向いている。それとパスタ。わたしは碇くんのことばかり考えている。



「碇くん……」

 水曜、木曜とチャンスがなかった。二人きりになれるタイミングというのは、あまりあるものではない。土曜日はお休みだから会えない。誕生日が日曜日なら、金曜日の今日がラストチャンスだった。今日しかない。わたしは朝から碇くんをストーカーのようにつけ回し、目を離すことなく、当然授業など全く聞かず、ひたすらチャンスを伺っていた。

 チャンスはあっけなく放課後に訪れた。アスカはヒカリとどこかに消えた。碇くんの友人達も彼女達と一緒らしい。

「綾波」

 わたしが彼を呼ぶのとほぼ同時に、彼も声をかけてくれた。

「一緒に帰ろうか」
「うん」

 わたしも碇くんもお喋りな方ではなく、会話は弾まない。彼が隣にいるだけで、わたしは満たされてしまう。
 でも今日だけはそんなことも言っていられない。プレゼントを渡さなければ。でも二人で並んでぽつりぽつりと喋りながらまっすぐに歩いていると、変化がなくて話を切り出せない。こういう時に限って信号もいつも青。わたしたちは歩き続ける。このまま永遠に歩き続けることができるのならわたしはそれでも構わないのだけれど、いつかは終わりの時が訪れる。つまり、別れ道が来る。碇くんはあっち、わたしはこっち。いったいどうすればいいのか。何もわからない。何もできない。立ち止まることも、話しかけることも。

「綾波は、パフェとか好き?」

 碇くんが唐突にそんな話をしてくる。

「パフェ?」
「うん。こないだ委員長が、美味しいお店を見つけたって、教えてくれたんだ。良ければ行ってみない?」
「パフェ、食べたことない」
「今日は、これから予定は?」
「ないわ」
「じゃあ決まりだ。何事も経験だよ。寄り道して行こう」

 彼はわたしの手を取って180度回頭、逆方向に向かって歩き出した。
 わたしは彼に手を引かれ歩きながら思う。これはデートなのではないだろうか。急にどきどきしてきた。碇くんの手が暖かい。

 その小さな店は、住宅街の一角に、まるで普通の家のように唐突にあった。中学生が入るには少しハードルが高いように思う。事実、碇くんは一瞬立ち止まった。
 からん。碇くんがドアを開けると、少し低めの、でも涼やかなベルの音がした。

「いらっしゃいませ」

 お姉さんの声に導かれ、わたしたちは窓際の席に座った。

「なんだか少し緊張するね」

 別の意味でも緊張しているわたしは碇くんの言葉に頷き、差し出されたメニューを開いた。

 パフェというのはつまり、アイスを主体としてフルーツやその他の様々な甘いものを乗せたものらしい。メインで乗せたものがイチゴならストロベリーパフェ、プリンならプリンパフェ。
 チョコレートパフェに心が惹かれたが、わたしには碇くんに誕生日プレゼントを渡すという使命がある。細かいチョコの詰め合わせだ。それでチョコパフェはどうかと思う。悩んだ末、ストロベリーパフェを選んだ。碇くんがチョコパフェを頼まないように念力を送る。その甲斐あって、彼はヨーグルトパフェに決めた。

 注文をお願いする。お姉さんが厨房に向かって、わたしたちには一瞬の沈黙があった。千載一遇のチャンス。これを逃すことはできない。

「碇くん」
「うん?」
「あの、誕生日……」

 カバンからチョコの詰め合わせを出して碇くんに差し出した。

「今度の日曜日、碇くん、誕生日って聞いたから」
「誕生日? ぼくに? もしかして誕生日プレゼント?」
「うん」
「ほんとに? ありがとう。うれしいよ」

 彼は袋を開いて中を見た。「チョコがいっぱいだ」

 なんだか恥ずかしかった。
 彼は周囲をそっと見渡した。

「たぶん、こういう店でチョコとか持ち込んで食べたらダメなんだけど」そう言いながらチロルチョコを二つ取り出す。「口をあけて?」

 彼はひとつ自分で口に含み、はてなマークを浮かべているわたしにもう一度言った。「お口あけて。はい」

 言われるままに口をあけた。彼はわたしの舌の上にチロルチョコをそっと乗せた。

「おいしいね」

 彼が笑顔で言う。どんな顔をしていいのかわからない。わたしは黙って頷いた。口の中でチョコが溶けていく。甘い。
 それでわたしは、言わなければならないセリフをようやく思い出した。

「碇くん、誕生日おめでとう」
「ありがとう。綾波からプレゼント貰えるなんて思わなかった。ほんとに嬉しいよ」

 碇くんの笑顔。わたしも溶けてしまいそうになって、目を伏せた。

「ぼくの誕生日、誰に聞いたの?」
「アスカが、教えてくれた」
「そっか。アスカにも何かお礼しなきゃな」
「うん」
「あ、あのさ。こういうのって勢いのあるうちに言わないとだめだから、思い切って言うんだけど」

 碇くんの頬が赤い。

「あの、明日さ、うちに来ない?」
「明日?」
「うん」

 一日早い。でもアスカの言った通りだ。

「明日、アスカもミサトさんもいないんだよね」

 碇くんと二人きり。わたしの頬もまた熱くなる。ただでさえ上がっていた体温が更に上がる。心臓のどきどきが止まらない。

「何かおいしいものを作るよ。一緒に食べよう」
「……」

 わたしは何も言えなかった。
 綾波、かわいいねかなんか言ってそのまま。そのまま、なんだろう。心臓が爆発しそう。

「お待たせしました」

 お姉さんがパフェを持って来てくれた。それで少し落ち着けた。お姉さんはすごくにこにこしている。どうしてだろう。

「お姉さん、すごくにこにこしてた」
「そうだね」
「どうしてかな」
「やっぱり」碇くんはちらりとカウンターの奥を見ながら言った。「少し聞こえてた、かな?」

 顔から火が出る。

「あの、それで綾波、明日部屋に、来てくれる、かな」

 もちろん行きたい。断る理由なんかない。でも男の子と二人っきりになるのに、簡単にうんと言っていいのだろうか。前にリツコさんが言ってくれたことがある。男の子はみんなオオカミなんだから、気をつけないとだめよ。
 碇くんならおおかみでも構わない。でも、軽い女だと思われるのも嫌だった。断りたくない。でも簡単に頷きたくもない。ふしだらな女だと思われたくない。
 碇くんは天井を見上げ、それからわたしをまっすぐに見た。少しだけ悪戯っぽい顔になって、大きく息を吸った。すぐに、思い直したようにまた大きく息を吐いた。
 そして彼はわたしを見つめ、少しだけ顔を寄せ、わたしにしか聞こえないくらいの小さな声でこう言った。

「――来い」
「いく」

 わたしは即座にそう答えた。







 パフェをつつきながら、なんでもないおしゃべりをする。それだけでわたしは幸せだった。碇くんの声。碇くんのお話。碇くんのお話が聞きたい。

「ぼくさ、アスカに誕生日って教えたことないんだ」
「……?」

 ではどうしてアスカは碇くんの誕生日を知っているのだろう。

「ミサトさんとかリツコさんはぼくの個人データにアクセスできるから、それを見ればわかるんだろうけど、わざわざアスカに教えるとも思えないし」
「……そうね」
「誰かに誕生日を教えた気がしないんだ。隠すことでもないし、話の流れで誰かに言ったことはあるのかもしれないけれど」

 何が言いたいのかわからない。だからわたしは黙って聞いていた。

「だからきっと、伝言ゲームみたいになって、どこかで違っちゃったんだと思うんだ。たぶんね」
「……うん」

 まだよくわからない。
 碇くんは苦笑いを浮かべている。

「それでさ、これは綾波に知っておいて欲しいんだけど……」
「うん」
「ぼくの誕生日って、6日なんだよね。先々週」
「えっ!?」




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