月明かりに照らされた二人は

Written by tamb


 機体交換実験の後、食事を終えた彼女は、私物を取りにロッカールームに戻った。

 士官のために用意された個室で、ゲンドウ、冬月、リツコと共に摂る食事の時間は、い
つもと同じように無意味としか思えなかった。
 数年以上先のことを考慮する必要のない彼女にとって、食事など無用なものに過ぎない。
これ以上の肉体的な成長は要求されていなかった。必要な栄養はサプリメントだけで十分
に得られる。食事に使う時間があるなら休息にあてた方が効率的であるのは明らかだった。
 彼女は食事も睡眠も、できれば呼吸さえもすることなく、ごく近い未来に訪れるであろ
う「その日」を迎えられればいいとすら思っていた。
 だが彼女は食事の誘いを断ることはない。それは命令であり、自分はゲンドウの命令を
遂行するために生かされている。誘いを断るという行為は、そのまま自己否定に繋がるか
らだ。

 学生カバンを持ち、彼女は地上に出た。もうリニアが走っている時間ではない。部屋ま
での車が手配されているはずだったが、今日は歩いて、時間をかけて帰りたかった。ゲン
ドウと食事をした日はそんな気分になることが多かった。
 歩いて帰るのに要する時間も無駄には違いない。だが適度な運動は休息に繋がると彼女
は考えていた。特に、今日のように精神のみが疲労する実験の後では。

 地上には月の冷たい光が静かに降り注いでいた。その光は、まるでフィルターでも通し
たかのように鮮やかなコントラストと沈んだ色彩で夜色を浮かび上がらせていた。

 彼女が少年を見つけたのと少年が彼女に声をかけたのは、ほぼ同時だった。

「お疲れさま。遅かったね」
「……碇くん?」

 彼がなぜここにいるのか不思議だった。今日の実験は彼女単独のもので、彼はネルフに
用はないはずだった。
 
「ミサトさんに呼ばれてさ、届け物をしに来たんだ。……お弁当なんだけどね」彼は少し
早口で話しはじめた。「それで、帰ろうと思ったんだけど、綾波がいるって言うから、そ
の、せっかくだから一緒に帰ろうかなって思って……」

 彼女は静かに彼を見つめ、その声を聞いていた。
 澄んだ月光に照らされた彼の表情は、まるで不安という気持ちだけを切り取って浮かび
上がらせているかのようだった。

「迷惑、だったかな……」
「かまわないわ」
「ほんとに? 良かった」
 
 彼の本当に安心したような声に、彼女は少しだけ笑顔になった。
 ぎこちない笑みだった。
 それでも最近は、笑顔になるということの意味が、ほんの少しだけわかりかけて来たよ
うな気がしていた。
 
「わ、笑わなくてもいいじゃないか」
「……ごめんなさい」
「あ、ご、ごめん。そんなつもりで言ったんじゃなかったんだ」
 
 あわてたように言う彼を、彼女は黙ったまま見つめていた。

 相手が誰であっても、沈黙は苦にならない。
 独りでいるのは嫌いではないし、楽しそうな人の群れの中に孤独であっても淋しいと感
じたことはない。
 
「か、帰ろうか。送って行くよ」
 
 だから彼が意を決したようにそう言うまで、彼女は黙ったままだった。
 本当は、彼女にとって彼と二人の静寂は「苦にならない」という表現は正しくなかった。
例えば学校からの帰り道や、本部で待機しているとき――ただ黙っているだけでも、それ
ははっきりと好きな時間だった。一緒にいられれば、それだけで――。
 彼女は彼の言葉に頷いてから、いつからこんなふうに感じるようになったのだろうと、
ふと思った。

 家まで送るという行為が彼にとってどんな意味を持つのか、彼女にはわからなかった。
 ただ、彼と並んで黙って歩いていると気持ちが静かになる。彼もそうだったら嬉しい、
と彼女は思う。
 彼女にとって、彼と共に過ごす時間は笑顔になることと同じだった。

 良くわからない。でも、少しだけわかるような気がする――。



「ねえ、綾波……」
 
 しばらく無言で歩いたあと、彼が静かに言った。
 
「……なに?」
「なんだか今日は、月が大きいような気がしない?」
 
 彼は月を見上げていた。彼女は少しの間だけ彼の横顔を見つめたあと、高い位置にある
月を見上げた。眩しかった。
 
「……大きさは変わらない。でも、いつもより明るいわ」
 
 彼は無言だった。否定されたことで気分を害したのかと、彼女は一瞬緊張した。
 
「……そっか。明るいから大きく見えるんだね」
 
 変わらない彼の声音に、彼女は大きく息をついた。
 彼が怒ることを、嫌われることをなぜこんなにも恐れるのか、自分でもわからなかった。
 彼と過ごせる時間は、いずれにしてもそう長くは続かないのだ。彼に嫌われて、傍にい
られなくなるのがほんの数か月早まったとしても、それは大きな問題ではないはずだ。
 それに、今までもいつも一緒にいたわけではない。休みの日に二人で出かけたこともな
い。メールのやり取りすらなかった。ただ、帰りが一緒になれば並んで歩いた。時々話を
して、笑顔を向けてくれた。それだけだ。一緒にいられれば嬉しいと感じたし、確かに好
きな時間だった。だからといって、その時間が消えてなくなってそれが一体なんだという
のだろう。
 だがやはり怖かった。嫌われたくなかった。

「こんな月夜の晩にはね……」彼はそんな彼女を気にする様子もなく、少し硬い声で言っ
た。「狼男が出るんだよ」
「……おおかみおとこ?」
「うん。いつもは人間の姿をしているんだけど、こんな月明かりに照らされると、狼の姿
に戻ってしまうんだ」
 
 私と似ている、と彼女は思った。こんな月夜の晩に彼と二人でいると、ヒトになれるよ
うな気がした。
 ヒトになるのか、それともヒトに戻るのか――。

 どこからか獣の遠吠えが聞こえ、彼女は一瞬立ち止まった。
 
「大丈夫」彼は手をのばしかけ、だがそのまま降ろして言った。「たぶん犬だよ。狼男な
んて、小説か映画の中だけの話で、本当にはいないからさ」
「いればいいのに」
「え?」
「いればいいと思う。おおかみおとこ」
「……ロマンチックだなぁ。綾波って。いるかもしれないね、狼男」
 
 彼は何かのタイミングを計りながら言っているように思えた。だから彼女は、黙って彼
の次の言葉を待った。
 
「あ、ご、ごめん。あたり前だよね、ロマンチックで。綾波だって普通の女の子なんだか
ら」
 
 彼女の沈黙をどう受け取ったのか、彼はあわてたように言い繕った。

 普通の女の子――。

 彼女の頭の中に、彼のその言葉が強い衝撃と共に繰り返し響いた。
 自分のことを、彼は女の子として見ているのだろうか。

 彼女の身体は、確かに女性の姿をしている。その意味で“女の子”であることに間違い
はなかった。だがその姿には関係なく、自分の存在そのものが普通ではないことも彼女は
知っていた。自分は“普通の”女の子ではない。だから彼女は、女性としての自分の将来
に希望を持つことはなかった。考えたことすらなかった。希望がなければ絶望もない。彼
女はそのように育ってきた。
 自分が生かされているのには理由があり、目的が果たされれば存在理由も消える。正確
に言えば、目的を果たすためには彼女は消えなければならない。彼女はそれを理解してい
た。彼女は自らのために生きているのではなかった。
 彼女にとって、自分が女性であるという事実は意味を持たなかった。

 普通の女の子――。

 その言葉がもう一度頭の中に響いた。
 男の子が“女の子”という言葉を使うとき、特別な意味の込められる場合がある。
 鈴原トウジの洞木ヒカリを見る目を思い出した。
 心臓の鼓動が早くなった。
 自分の身体がなぜそんな反応をするのか、彼女には理解できなかった。だがそれは、彼
が怒ったり嫌われたりするのを恐れる気持ちと同じなのだろうとは思った。
 そして、洞木ヒカリの瞳を思う。

 彼に好かれたい――。

 それが自分の気持ちなのだろうか。
 その想いを持つことが自分の存在理由にどのような影響を及ぼすのかわからない。意味
がないならそれでもいい。それだけなら少なくともマイナスにはならないのだから。だが
それが相反するものであったとしても、絶望に繋がるものだとしても、この想いを捨てた
くはなかった。
 彼女はそんなことを考えてしまう自分に戸惑った。自分の存在そのものを否定すること
になりかねない。それでも――。

 ――彼の傍にいたい。

 そう想っているのは事実だった。
 だが、自分が彼に好かれているとは、とても思えなかった。

「あの……ご、ごめん、綾波」
 
 彼女は、彼がなぜ謝るのか一瞬考え、黙ったまま首を振った。



 部屋に近づくにつれ、二人の歩調は遅くなっていた。このまま暗い独りの部屋に帰りた
くなかった。
 だが同時に、早く独りになりたいとも思う。彼が“女の子”という言葉を使ったからと
いっても、自分が好かれているわけはないのだ。
 冷静になるべきだ。早く独りになって、いつもの自分を取り戻したかった。

「あの、さ……」沈黙を破ったのは、やはり彼だった。「晩ご飯、食べた?」
 
 彼女は黙ったまま彼を見た。ゲンドウと済ませたとは言いたくなかった。
 
「お弁当をさ、ちょっと多めに作っちゃったんだ。持って帰ってもしょうがないし、もし
良かったら、食べてくれないかなって……」
「……」
「こんな時間に食べたら、太っちゃうかな……」
 
 長い沈黙の後、彼女はこう答えた。
 
「……上がってくれるなら」
「え?」
「碇くんが部屋に上がってくれるなら、食べるわ」
 
 彼女はそう言ってから、自分の言葉に驚いた。
 いったい自分は何を言っているのだろう。ついさっきまでは、早く独りになりたいと考
えていたはずだ。
 それに、ただでさえ本部から歩いて帰るのに時間を費やしている。早くベッドに入り、
身体を十分に休める必要があった。
 彼のことも考えるべきだ。彼はここからまた自分の部屋に帰らなければならないのだ。
彼に余計な時間を使わせるべきではない。

 でも――。

 彼と二人でいられるなら、自分にとってはその時間も無駄ではないと思えた。彼には無
駄な時間を強いることになるのかもしれない。でも、いつかは独りになるのだから、もう
少しだけでも、いられる間だけでも彼と一緒にいたい。
 彼女の、初めてのわがまま――。
 
「い、いいの?」
 
 彼女自身が望んだことだ。だから彼女は、ただ静かにうなずいた。
 彼が部屋に上がる。一緒にいられる。
 そのことに震える自分の心を信じよう。



 彼女の部屋には椅子もテーブルもなく、二人はベッドに座るしかなかった。彼は少し困
った顔をして、お盆とかないかな、と言った。彼女は首を横に振るしかなかった。
 
「そうだよね……」
 
 彼の困った顔を見るのが辛くて、顔を伏せた。
 
「ああ、そうだ」彼は思いついたように言って背負っていたリュックを下ろし、S-DATの
カタログを二枚、取り出した。「ベッドの上に直接お弁当を置くのはどうかなって気もす
るし、それにこうしておけば、こぼしてもベッドが汚れないからね」
 
 そう言って、ベッドの上にカタログを広げた。
 
「カタログが汚れるわ」
「いいんだ」彼は明るい声で言った。「またもらってくればいいし、どうせきっと買わな
いから」
 
 そう言って彼は、カタログの上に弁当箱を二つ、置いた。
 彼は彼女の視線に少し照れたような顔で、僕の分もあるんだ、と言った。多めに作って
しまったのではなく、二人で食べるためにわざわざ作ってくれたのだということが、それ
でわかった。
 それがどういう意味なのか考えるのは、今はやめようと思う。ただ、もうしばらく一緒
にいられる――。
 
「インスタントだけど、お味噌汁も持ってきたんだ。お湯、沸かすよ」
 
 彼は紙コップとインスタントの味噌汁を彼女に見せ、立ち上がった。



「……おいしいかな」
 
 彼が心配そうな顔で聞く。
 
「おいしい……」
「良かった」彼は本当に嬉しそうだった。「綾波の好みって、お肉が嫌いっていう以外は
わからなかったからさ。どうかなって思ってたんだけど」

 食事をおいしいと感じるのは初めてだった。味そのものに特別な何かがあるわけではな
いのは彼女にもわかる。むしろ冷めている分だけ味は落ちているだろう。それでも彼女は、
それをおいしいと感じた。それは彼が隣にいるからなのだろうか。
 そんなことを考えながら、ゆっくりと噛み締めるように食事を進めた。
 弁当の残りが少なくなってゆく。食べ終えてしまえば、彼は帰るだろう。それが嫌だっ
た。だが、必要以上にゆっくり食べて無理していると思われるのはもっと嫌だった。
 
「ごちそうさまでした」
「……ごちそうさまでした」
 
 二人はほぼ同時に食べ終え、彼にならって彼女もごちそうさまを言った。
 彼は二人分の弁当箱を持ち、キッチンで軽く洗うと、カタログと共にコンビニの袋に入
れ、リュックにしまった。彼女は悲しい気持ちでそれを見ていた。
 だが、彼は再びベッドに座った。二人の間に弁当箱がない分、その距離は縮まった。彼
女の心臓の鼓動が、また少し早くなった。

 彼は両手を身体の少し後ろに付き、ベッドに体重を預けた。
 彼の手が、彼女のすぐ傍にある。触れたい、と思った。手を伸ばしかけ、ためらった。
「触れてもいい?」と聞けば、彼は「いいよ」と言うかもしれない。だがその想いを口に
出してしまってもいいのかどうかわからなかった。
 自分は普通の女の子ではないのだから――。
 心が揺れた。自分の気持ちに正直になることが彼にとってどういうことなのか、そして
自分にとってどうなのか、彼女にはわからなかった。

「電気を、消してもいいかな」
 
 彼が不意に言った。彼女の返事を待たず、彼は立ち上がって明かりを消した。ベッドに
戻った彼は、前よりも少しだけ近いところに座ったように、彼女には思えた。
 
「見てごらん」
 
 彼が指差す方を、彼女は見た。
 二人のシルエットが床に映っていた。
 いつのまにか沈み始めた月が、光を窓越しに射し込ませ、二人を静かに照らしていた。

 二つのシルエットが離れているのが切なかった。

 細いシルエットが揺れ、もう片方のシルエットに少しだけ近づいた。自分が動いたのだ
と彼女が気づくまで、一瞬の間があった。

「今度、休みの日にさ……」
 
 そのシルエットを見つめたまま、彼は意を決したように、かすれた小さな声で言う。
 
「芦ノ湖に、二人で……ボートでも乗りに行かないか」
 
 途切れ途切れの、そのあまりにも唐突な言葉に、彼女の華奢な身体が震えた。
 
「きっと……気持ちいいと、思うんだ」
 
 彼はシルエットを見つめたまま、消え入りそうな声でそう言って、脅えた目で彼女を見
た。
 
「わたしは……」

 普通の女の子じゃないの――。

 言えなかった。言いたくなかった。
 
「どうかな……」
 
 だから彼女は、黙ったままうつむき、小さくうなずいた。
 少しでも彼と一緒にいたいと思うなら、そうするしかなかった。
 
「ほんとに!?」
 
 彼は本当に嬉しそうにそう言った。彼女の方に向きなおり、小指を差し出した。
 
「約束だよ」
 
 指きりげんまん。
 どこかでそれを見たことがあった。クラスの誰かがしていたような気がする。
 彼女はおずおずと手を伸ばし、彼の小指に自分の小指を絡めた。

 二つのシルエットも、細い線で繋がった。
 絡んだ指の感触に、不意に涙が零れそうになった。
 いつまでも一緒にいたいという想い。考えたことすらなかった未来。

 かなうはずのない希望は絶望と同義だ。彼女は自分の気持ちに押し潰されそうになり、
それでも必死にこらえた。彼に涙は見せたくなかった。
 顔を上げると、月明かりに照らされた彼は笑みを浮かべていた。沈んだ色彩の中で、笑
みが鮮やかに浮かんでいた。

 そう、今は笑えばいい。彼と同じように。
 だから彼女も笑顔を作った。

 彼が手をゆっくりと上下に動かす。彼女は少しだけ小指に力を込めた。その指と指が離
れないように。

 約束――。

 それは命令ではない。自分たちの意思で、二人で決めること。
 芦ノ湖に行って二人でボートに乗って、それがいったい何になるのか。それに意味など
どこにもない。ずっと一緒にいられるようになるわけでもない。それは良くわかっていた。
 だが約束を果たすことができれば、きっと楽しいだろうと思えた。そうとしか思えなか
った。
 自分自身の意志で生きてもいいのかもしれない。それは笑顔になれるということ――。

 普通の女の子ならこの約束を果たせる。この約束を果たせば、普通の女の子になれる。
彼の笑顔があれば、自分にも約束を果たせる。普通の女の子になれる。そんな気がした。

 普通の女の子になれたなら――。

 だから彼女は、もっと強く小指を絡ませた。その指が離れないように。
 二人の手が動きを止めても、その指は離れなかった。

 視界の隅で、自分ではない方のシルエットが揺れたような、そんな気がした。


end

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