NO END SUMMER

Written by tamb

 九月に入って、少しずつ日差しのやわらぐ季節になった。雪が降るようになるにはまだあと何十年もかかるらしいけれど、たとえ少しずつでも季節が変わってゆくのは素敵なことだと思う。

 思う存分朝寝坊をし、軽い昼食を済ませてからシャワーを浴びた。身体の滴をぬぐったバスタオルを巻きつけ、それほど中身の入っているわけでもない作り付けのクローゼットの前で、何を着るか考える。ワンピースにしようか少し迷い、結局お気に入りのシャツにジーンズのオーバーオール、それに麦わら帽子をかぶって部屋を出た。

 十八歳の夏、大学生になって初めての夏休みも、そろそろ終わりだった。




 サードインパクトがあって、それでも今、私たちはココにいる。ただ一人、碇司令を除いては。

 政府と国連を交えた話し合いがなされ、第三新東京市は放棄されることになった。ネルフは解散し、マギは解体処分になる。
 赤木博士は松代に出来る新しい組織で人格移植OSの研究を続けることになり、葛城三佐は二佐待遇でUN軍に行くことが決まっていた。冬月副司令は大学に戻って元の研究を再開するらしい。

 新しい行き先が決まったのはスタッフだけではない。私たちチルドレンも、名前を変えて散り散りになる。
 弐号機パイロットはドイツの両親の元に帰り、私は赤木姓を名乗って赤木博士と共に松代に行く。
 碇くんは自分が引き受けると葛城三佐は強硬に主張したが、国連サイドは難色を示した。
 チルドレンはエヴァとシンクロできるという点を除けば全く普通の子供なのだが、政府も国連もそうは思っていないし、事実、私は普通ではない。日本政府としてもチルドレン同士は極力引き離しておきたいという意向を持っていた。誰しもトラブルのタネは背負いたくないだろう。
 私たちは信用されていない。特に碇くんと私は、サードインパクトを起こした張本人と言われても仕方がない。私たちが名前を変えるのには、そういう理由もあった。

 結局彼は、冬月シンジとして副司令と共に京都に行くことになった。

 私たちが守ったこの街に残された時間は少なく、すぐにも新しい土地へ移らなければならなかった。葛城三佐の強引な呼び掛けがなければ、記念写真を撮ることもかなわなかっただろう。集まったのはチルドレンと主要なスタッフだけだったが、それでも写真を撮って、話をすることはできた。

――これからは、自分のために生きるんだよね、僕たち
――ファーストもしっかりやんなさい。何年かしたら、また三人で会いましょ

 エヴァに乗ることだけで自分を保って来たのは、私だけではなくみんな同じだった。将来の希望よりも不安の方がはるかに大きかったのはみんな同じだったはずなのに、二人は私にそう言ってくれた。私はただ頷くしかなかった。
 自分のために生きるということにどんな意味があるのか、私には分からない。ただ赤木博士が、生きて行くのはそれだけで大変なことだけれど、それでも生きていれば素敵なことも見つかると言った。そんなものかなと思う。

 その時にみんなで撮った写真は、ただひとつ第三新東京市から持って来た家具であるチェストの上に、今でも置いてある。


 私は紅い瞳を隠すコンタクトを入れて髪を黒く染め、赤木レイとして中学校に通い、高校に進学した。
 赤木博士の働く新しい組織は慢性的な人手不足で、それまでも度々アルバイトのような形で手伝いはしていたし、卒業したらそのまま赤木博士の元で仕事ができればいいと思っていた。でも、私の助手になりたいなら大学で情報工学を学ぶべきだと言われ、そうすることにした。進学が決まって、髪を黒く染めるのもやめた。大学生は髪を染めている人が多く、私のような髪の毛でも目立たないらしい。

「レイはやっぱり」

 赤木博士が私の髪に触れて言う。

「この方がいいわね。あなたらしいわ」

 私もそう思う。

 でも、コンタクトを外すことはできなかった。


 松代から大学までは遠く、引っ越しをすることになった。大した荷物があるわけでもなく、準備はすぐに終った。

「ここはあなたの部屋でもあるんだから」

 最後の夜、赤木博士が私に言った。

「いつでも帰ってらっしゃいね」

 私は頷いて、これが家族というものなのかなと思う。少しだけ泣きそうになった。




 ゆっくりと歩いて、いつものお気に入りの公園に向かう。学校からは少し遠いけれど、今の部屋を選んだのはこの公園に近いからだった。
 昔の私を知っている人はずいぶんましになったと言うけれど、今でも人付き合いは得意ではない。それでも何もない日に部屋の中に一人でじっとしているのは嫌だと思うようになったのだから、やっぱり変わったのだと思う。

 ……流れる時間が私を変えてゆく。生きていたいと思うなら、いつまでも十四歳のままではいられない。私は自分を変えてきた。いらないものは全部捨てた。失ってはいけないものがあるなんて思いもせずに。
 何のために生きているのか分からない。本当の自分なんて、どこにもいないんじゃないかと思う。ただ生きるために生きているなんて、意味があるとは思えない。
 自分のために生きるということの意味は、今でもまだ分からない。今の自分が好きになれない。何か大事なものを失くしてしまったような気がする。でも、大事なものが何なのかすら分からない……。


 大好きな場所の一つ。木陰になっている、公園の中を流れる小さな川の傍らにあるベンチに座って本を開いた。

 心地よい風に誘われ、ほとんどページをめくることもなく私は居眠りをしていたようだった。ふと気づくと、もう辺りは暗くなりはじめていた。私は立ち上がるのを惜しみ、夕焼けを見つめていた。


「綾波?」

 それは懐かしく、でも忘れることのなかった声。綾波という名前で呼ばれるのはいつ以来だろうと、ふと思う。
 深呼吸をして気持ちを整え、ゆっくりと振り向いた。
 捨てたつもりだった思い出。忘れようとして忘れられなかった、記憶そのままの彼が、そこにいた。

「碇くん……」

 彼はびっくりしたような顔で私を見つめている。私にしても、たぶん同じような顔をしているんだと思う。
 ほんの少しだけでいいから時間が欲しかった。
 私は目を閉じる。心の細波を静めるために。


「碇って呼ばれるの、久しぶりだな……」

 彼は表情を和らげて言う。同じようなことを考えていたのが嬉しくて、私は頷いた。それから、碇くんに会えるなら、もっとちゃんとした格好でいれば良かったと思う。よりによってオーバーオールだなんて。
 彼はいつも突然に現れる。前には、私がシャワーを浴びている隙に勝手に部屋に上がり込んで来たこともあった。

「どうしてこんな所にいるの?」

 私と碇くんは、同時にほとんど同じ言葉を口にした。

「近所に、住んでいるから……」
「あ、そうなんだ。ネルフに来る前は僕もこの近所に住んでたんだよ。子供の頃、よく遊んだんだ。この公園で」

 碇くんの前に立つと、私は十四歳の頃のように無口になり、彼は少しだけ饒舌になる。
 彼は私よりもずっと大きくなっていて、私は見上げるようにしながら懐かしい声を聞いていた。不意に涙がこぼれそうになり、私は目を伏せる。

「コンタクト……入れてるの?」

 私は目を伏せたまま頷いた。

「あんまり目立たないように……」
「そうなんだ……」

 彼がすぐに話題を変えた。まるで私をいたわるかのように。

「夏休みも終わりだしさ、先生の所に挨拶に来たんだ。子供の頃、父さんと……別々に暮らしてる時にお世話になってたんだけど」
「……」
「これからリツコさんの家でも行こうかと思ってたんだけど、その、綾波はリツコさんと一緒に住んでないの?」
「大学、遠いから」
「あ、そうか。松代からここじゃ、ちょっと遠いよね」
「……夏休みの間は向こうにいたんだけど……もうすぐ授業がはじまるから…」
「そうだね」
「……」
「四年半ぶり、になるのかな……」
「……」
「どうして会いに来なかったんだろう……」

 彼が小声でそう言って、会話が途切れる。伏せていた目を上げると、彼は私をじっと見つめていた。頬が熱くなってしまう。私は誤魔化すように、あの時のような言葉を口にした。

「……なに…見てるの?」

 子供だった私。大事なものが何も見えていなかった、見ようとしていなかったあの頃の私――。それだけは今でも同じなのかもしれない。

「あ。えっと、その。綾波、き、きれいになったね」
「何を言うのよ……」
「い、いや、別に前はどうとかそういう意味じゃなくて、ま、前から可愛いとは思ってたけど」

 碇くんはしどろもどろに弁解をしている。私はくすりと笑ってしまい、彼はそんな私を見て不思議そうな顔をした。
 あの頃の私は、こんなふうに笑ったりはしなかった。だからたぶん、碇くんは不思議そうな顔をしたのだと思う。あの頃の私はもういない。碇くんの知っている私は、もういない。

 また会話が途切れた。

「あ、あのさ……」

 何か言いにくそうにしている。

「部屋、少し上がってく?」

 私は彼が言いたい言葉を口にした。

「い、いいの?」
「うん」

 私は答え、それから心の中で言った。碇くんだもの。

 並んで歩いても、会話は途切れがちだった。彼は必死に言葉を捜している。無理に話なんてしなくてもいい。そばにいてくれるだけでいい。でも、沈黙に耐えられない彼の気持ちも分かる。碇くんは、ずっと碇くん。あの頃のまま。

「あの人、どうしてるかな……」
「え、あの人って?」
「惣流さん……」
「あ、アスカ。ドイツで元気にやってるみたいだよ。クリスマスカードだけは来るんだけど、おかしいんだ。年々ひらがなが増えて、字が下手になってるんだよ」
「……」
「つまんないかな、こんな話」

 私は首を振って答えた

「友達だから」
「……そうだよね」

 少し驚いたような顔をして、それから安心したように彼は言う。

 私の友達。高校や大学で私にも友達は出来たけれど、私を知っている友達は一人しかいないのだと思う。
 碇くんのことは――。

 どうして私は彼から離れてしまったのだろう。

 仕方がなかった。他に方法はなかった。

 そうやって自分を慰めることはできる。でもこうして碇くんのそばにいると、心が満たされるような感じがする。気づかないふりをしていた心の隙間。忘れたつもりで、忘れてはいなかった。捨てたつもりで、でも捨ててはいなかった想い。離れたくない。
 ずっとそばにいて一緒に変わることができれば、私は彼の私でいられたのかもしれない。
 でもそれは、考えても仕方のないことだと思う。もう私は、今の私なのだから。あの頃の私には、もう戻れないのだから。




「コンタクト、外すね」
「あ、うん」

 二人で部屋に上がり、私は独り言のように言う。せめてありのままの、今の私を見て欲しいと思う。

「何か冷たいもの、飲む?」
「あ。ありがとう。もらうよ」

 ベッドの前に座ってもらい、テーブルを出してアイスティーを置いた。

「部屋、狭くてごめんね」
「ううん、一人で住むならこれくらいがちょうどいいよ。掃除も楽だし」

 彼の科白は相変わらず。

「狭い部屋、選んだの。そのほうが落ち着くから」
「いい部屋だと思うよ。ほんとに落ち着く感じで。あの頃とは……」

 碇くんは、はっとして口をつぐんだ。口を滑らせたと思ったのだろう。私はなるべく自然に微笑んで言った。

「少しは女の子らしくしなさいって、赤木博士が……」
「そ、そうなんだ。はは……」
「こうして、部屋をきれいにしていると」
「……」
「優しい気持ちになれるような気がするの」
「……そうかも…しれないね……」
「素敵な服も、持ってるの。こんな服じゃなくて」

 私は自分の着ているオーバーオールを指差す。変わってしまった自分を。

「碇くん、いつも突然だから……」

 彼も何か思い出したのだろう、慌てたように、少し早口で喋りだした

「そういう綾波も可愛いって。それに今日は服を着てるから……」

 また口を滑らせる。

「こ、この部屋、いい風が通るね。エアコンなんてなくても涼しくって。京都はあつくってさ。ほら、盆地だから」

 碇くんが必死に誤魔化そうとしている。私はそれが嬉しくて、でも少し悲しかった。私に気を使う碇くんが悲しかった。彼に気を使わせる私が、悲しかった。
 彼は気持ちを落ち着かせるように、ストローに口をつけてアイスティーを一口飲む。

「美味しい?」
「うん。美味しいよ。とっても」
「よかった」

 私は笑顔を作った。

「ね、碇くん」
「ん」
「あたし……きれいになった?」

 彼が紅茶にむせる。

「な、なんだよ。急に。前から可愛かったって」
「変わったよね、あたし」
「……」
「あの頃のあたしは、もういないの」
「……僕は」

 氷の浮かんだ、汗をかいたグラスをそっとテーブルの上に置いて、彼は真剣な口調になった。

「もう綾波とは、会わない方がいいと思ってた」
「……」
「綾波のためにも、僕のためにも。綾波が生きていくためには、僕がいたということは忘れてしまった方がいいと思ってた。変わるために。あの頃の僕たちは、いてはいけないと思ってた」
「……」
「でも人間て、本当の所は変われないんだと思う。まして四年や五年じゃ、絶対に変われない。僕も綾波もあの頃のままだよ。変わってなんかいない。久しぶりに会って少ししか話してないけど、それは分かる」

 碇くんが私を見つめている。私は彼を見ることができない。

「でも綾波はきれいになった。すごく柔らかくなったよ」
「……」
「そうやって少しずつ、色んなことをおぼえていくとき、綾波の隣にいたかったって、思う」

 はっとして顔を上げる。怖いくらい真剣な表情の碇くん。私はもう目を逸らすことができなかった。
 彼は急に照れたような顔になって、上を向いた。

「ち、ちょっとかっこつけすぎたかな。はは……。さて、と……」

 碇くんは立ち上がった。

 もう帰るの……。
 隣にいたかったって、言ってくれたのに……。

 彼はキッチンに歩いて窓を閉め、戻って来ると部屋の窓も閉めてカーテンをとじた。

「さ、立って」

 私に手を差し出す。

 ……碇くんは帰ろうとしているわけじゃない。

 それに気づいて、私はどうしたらいいのか分からなくなった。
 彼は座り込んでいる私の腕をつかんで、強引に立たせた。

「綾波……」

 かすれた声で、うつむいている私に言う。

 そして彼は、黙って突っ立っている私を、いきなり抱きすくめた。

「後悔してる。綾波から離れたこと」
「碇くん……」
「綾波、彼氏はいる? 好きな人、いるの?」
「好きな人……いる……」

 碇くんの身体が硬くなる。

「……」
「好きな人……碇くん……」
「……」

 彼の腕に力がこもる。私、嘘は言ってない。

 彼は私の頬に手を添えた。柔らかな微笑を浮かべた碇くんがいる。私も同じように微笑んでいられたらいいと思う。

「目を、閉じて」

 言われるままに目を閉じる。
 気配がして、私と碇くんの口唇が重なった。ただ立っていた私は、背伸びをして碇くんにしがみついた。

 ほんの短い、触れただけの、小鳥のようなキス。私にとって初めてのキス。
 口唇が離れても、碇くんは私を離さなかった。

「綾波、怖い?」
「……少し」

 碇くんの腕に包まれて震えている私に、彼が聞いた。

「僕もだよ。ほら、こんなになってる」

 そう言って、震えている手を私に見せた。

「でも、僕も少しは大人になったから」
「……」
「逃げちゃいけない時があるって、わかったんだ」
「碇くん……」
「今はきっと、逃げちゃいけない時なんだと思う。それに、同じ後悔はしたくないんだ」

 彼はそう言うと、首につかまっている私の手をほどいた。オーバーオールの肩紐をずらし、腰のボタンを外す。

 ぱさり。

 音を立ててオーバーオールが床に落ちた。

 ぎくり、と身体が強張る。

 背中に回された碇くんの手が、シャツの上から私の下着のホックを外した。
 慣れてる……。
 少しだけ悔しいと思う。
 シャツのボタンを、上から順番に外してゆく。シャツと胸の下着を順番に腕から抜いて、そっと床に落とす。それから碇くんは、小さな白い布切れだけを身に纏って身体を硬くしている私を、優しくベッドに押し倒した。

 耳年増のクラスのみんなが聞かせてくれたことが頭の中をよぎり、消えていった。碇くんの手が、私に触れる。私はどうしようもなくなって、ずっと碇くんにしがみついていた。漏れそうになる声を必死に堪える。碇くんの甘いキスが、噛み締めている私の口唇を溶かす。何度も足を突っ張らせ、息をすることもできずに身体を震わせた。

 そして――。

 私は、女になった。




「泣いてるの?」

 明け方近く、碇くんの腕の中で静かに涙を流している私の耳元で、彼はそっと囁いた。

「嬉しいの……」

 嬉しい時にも涙が出るということを、私は初めて自分の事として知った。

「これからは」

 そっと私の髪を撫でながら、碇くんは暖かな言葉を紡ぐ。

「これからは、ずっとそばにいるから」

 私は黙って頷いた。

 でもたぶん、もう会えないと思う。彼には彼の生活があって、私には私の生活がある。そして、チルドレンだったという私たちの過去は、消すことができない。チルドレン同士が接触したことはいずれ発覚し、政府に報告されるだろう。そうすれば引き離される。碇くんもそのことは知っているはず。だったら、もう会おうとしない方がいい。会おうとしなければ、いつか会えると信じていられる。
 碇くんは、ずっとそばにいると言ってくれた。それだけでいい。
 彼にだまされていたい。そうすれば、ずっとあなたを待っていられるから……。

 ありがとう。

 私はそう言って、彼の胸の中で目を閉じた。もし夢なら、覚めたくないと願いながら。


 翌朝、目覚めると碇くんはいなかった。感情の波を必死に抑える。身体を起こすと、テーブルの上に食事が用意してある。その隣に置手紙があった。



綾波へ
よく眠っているようなので、起こさないで帰ります。
食事は暖めて食べて下さい。
少し時間がかかるかもしれないけど、絶対に会いに来るから、いい子にして待ってて下さい。

P.S.
今度会う時は、素敵なワンピースでも着ててくれると嬉しいかな。

碇シンジ



 私は微笑んで、それから少しだけ泣いた。優しい嘘。碇くんの嘘つき。
 優しさが人を傷つけることもあるけれど、私を起こさないで帰ったのが彼にできる精一杯のことだったのだろうと思う。だから私は、もう泣かない。
 涙を拭いて、彼の匂いの残るベッドの方を振り向き、心の中で碇くんに言った。

 碇くん、あたし、大丈夫だよ。

 明日から学校が始まる。そうすればいつもの日常に、きっといつもの自分に戻れる。
 だから今日はこの部屋で、今日だけはこの部屋の中で、ずっと碇くんのことを想っていよう。






 講義が再開されて二週間。私は身体に違和感を感じた。生理だった。保健室で生理用品を貰い、友達に代返を頼んで部屋に戻った。震える手で研究所に電話をかけ、赤木博士に取次ぎを頼んだ。

「赤木ですが」
「レイです」

 夏休みの間はずっと一緒にいたのに、私はいつもの赤木博士の声に安心して、力が抜けそうになった。

「レイ? どうしたの?」
「あ、あの、初潮が……」
「生理? 来たの?」
「……はい」
「あら。良かったじゃない」

 良かった? そう、これは喜んでいいことなのかもしれない。

「……心配なのかしら?」
「はい」
「前から言ってるでしょ。あなたは人間なんだから、必要な器官は全て備わってちゃんと機能してるって。あとは気持ちの問題だけだって」
「……」

 私が黙っていると、受話器の向こうから優しげなため息が聞こえた。

「いいわ。診てあげるから、こっちにいらっしゃい」
「はい」

 電話を切ると、私はすぐに自転車に乗って駅に向かった。


 研究所の受付でパスを発行してもらい、赤木博士の部屋に向かった。ノックをして返事を待ち、ドアを開ける。

「早かったわね」
「……」

 赤木博士の顔を見て、私は涙ぐんでしまった。

「大丈夫よ。心配ないから」

 抱きしめて頭を撫でてもらって、それで少し落ち着いた。まるで子供みたいだと思う。でも恥ずかしいと思う余裕はなかった。
 赤木博士の車に乗って、いつも通っていた病院に向かう。
 顔見知りのお医者さんに挨拶をして、開けておいてもらった部屋に入った。


「何の異常もないわ。大丈夫よ」

 一通りの診察を終えた博士が私に告げる。
 何の異常もない。
 ……私は普通の少女になったのだろうか。頭ではそれが理解できても、気持ちはついてこれなかった。

「一応、冬月先生にもデータを見てもらうわね。あなたもその方が安心でしょうから」
「……はい」

 うわの空で返事をして、その意味を理解した時には、赤木博士はもう話をはじめていた。
 赤木です、ご無沙汰してます。冬月先生もお元気ですか……。

 冬月元副司令。表向きの役職は離れていても、事実上は今でも旧ネルフスタッフを統括する立場にあり、政府に対しても強い影響力を持つ。公式非公式を問わず、あらゆる連絡は冬月元副司令の元に集まり、チルドレンに関する最終責任をも負う。つまり、私たちについて冬月元副司令が知らない事はあってはならないし、隠し通すことも不可能であるという事実。

「お忙しいところ申し訳ないのですが、レイのデータを見て頂きたいのです。……いえ、大した事ではないのですが、実は初潮が……。ええ、そうなのですが、本人が不安がっているもので。……はい、申し訳ありません。それではデータをお送りしますので。暗号コードは……。はい、わかりました。
 ……え、シンジ君が? 二週間前? ……いえ、私の所には来てませんが。…………そうですか。……承知しました。その件については……。わかりました。そのようにします。……親子、ということですか……。
 では、一応データはお送りしますので、よろしくお願いいたします。はい、いずれ近いうちにゆっくりと。はい。……はい、失礼いたします」

 私は全神経を集中して聞き耳を立てていたが、やはり片方だけの言葉だけでは内容を完全に理解するのは無理だった。
 赤木博士が受話器を置いて、まじまじと私を見た。目が笑っているような気がする。私はさりげなく視線をそらした。

「冬月先生からは、明日中にも連絡があると思うわ」
「……はい」
「レイ」
「はい」
「今日は泊まって行くでしょ」
「……はい。そのつもりです」
「私はまだ仕事が残ってるから、一回戻るけど」
「……」
「夕食の時間には帰るから。おかずの準備だけ、しておいてくれる?」
「おかずだけ、ですか」
「そうよ。おめでたい日なんだから、お赤飯炊かないとね」

 その習慣を思い出して、私は顔が赤くなるのを抑えることができなかった。

「それは私がするから。自分で自分のためのお赤飯炊くのも、なんか変でしょう?」




 お赤飯の夕食を終え、赤木博士はワインを開いた。前から時々付き合わされていたが、私はお酒に強い方ではない。それに、酔うと余計なことまで喋ってしまう癖がある。私は慎重に、少しずつワインを口にした。
 大学でのことを話したりテレビを見たりしているうちに、ずいぶん遅い時間になった。ワインを三本も空けてしまい、そろそろ眠くなってきた頃、赤木博士は思い出したように口を開いた。

「ねえ、レイ」
「はい」
「あたし、あなたに生理が来ないのは、気持ちの問題だって言ったことがあったわよね」
「……はい」
「女の子ってね、幸せな気持ちになったりすると、崩れていたバランスが急に元に戻ったりするのよ」
「……そう……ですか」

 私はひとつ深呼吸をする。赤木博士はそれを見て、くすっと笑った。

「変な言い方をするけど」
「……」
「女の子って、女の子としてこの世に生を受けて」
「……?」
「普通は少女になって女になるのよね」
「……」
「順番がちょっと逆だったみたいね。あなたの場合」
「………………」

 何を言えばいいのか分からない。
 私は平静を装う。身体が熱いのは、きっとワインのせい。

「たぶん冬月先生は気づいてないわよ。忙しい人だし、ああ見えてこういう事には鈍感だから」
「……」
「大学人としてだけでも充分に多忙なのに、チルドレンの面倒もみないといけないんだから、大変よね。冬月先生も」

 赤木博士は小さく笑って言った。

「いいわ。いじめるのはこのくらいで許してあげる。そろそろ寝ましょう。明日もあるわ」
「……は、はい」

 心臓が爆発しそうという気持ちを、私は知った。


 言われるままに、何年かぶりに赤木博士の隣に布団を敷いて、一緒に眠ることにした。
 明かりを消してしばらくたった頃。

「レイ、起きてる?」
「はい」
「ずいぶん昔のことのような気がするけど、生きていれば素敵なことも見つかるって、あなたに言ったことがあったわよね。憶えてる?」
「……憶えてます」
「素敵なこと、見つかったかしら?」
「……よく…分かりません」
「きっとすぐに見つかるわ。見つけたら、絶対逃がさないようにしなさいね」
「……」
「おやすみなさい、レイ」
「……おやすみなさい」

 私はその意味を考える。




「ごはん一緒に食べよ」
「うん」

 クラスの友達が声を掛けてくる。夏休みが終ってから、もう一ヶ月。何もかも元の通りだった。

 私たちはお弁当を持って、キャンパスのいつもの芝生に座った。オーバーオールだと、服の汚れを気にしなくていい。あの時のオーバーオール。

「レイのお弁当、いっつも美味しそうよね」
「そう? ありがとう」

 彼女の言葉に微笑んで、ふといつからこんな風に自然に話ができるようになったのだろうと思う。

「エリのお弁当だって、美味しそう」
「ん、ありがと。ちょっと自信あるんだけど。……それに比べてルカ、あんたのお弁当は」
「悪かったわね。コンビニ弁当で。今朝は時間がなかったのよ」
「ルカは週に一回くらいしか作ってこないじゃない。なんで毎日そんなに朝寝坊なのよ」
「っさいわね」
「彼氏が出来ても、すぐ嫌われちゃうわよ」
「いいもん。別に。一人でも生きていけるもん」
「強がりばっかり」

 ……私の彼は、今頃何をしているのだろう。私の彼。碇くん。私の彼って、言ってもいいよね。

 もう会えなくても。
 私は泣かないから。

「大丈夫。一人でも平気よ」

 ふと漏らした私の言葉に、前に座っている二人は顔を見合わせた。

「……ねぇ。ずっと思ってたんだけど、レイって休み明けからちょっと変じゃない?」
「うんうん。思う。ちょっと変よね」
「……そんなことないわ」
「嘘。絶対何かあったわ。夏休みの間に」
「何もないわ」
「もしかして、け・い・け・ん、しちゃったとか?」
「まっさかぁ。男に全然興味を示さない、まだキスもしたことないレイが? いきなり経験? あり得ないわ」
「どうなのよ、レイ」
「……ひみつ」
「「ええ〜〜っ!」」
「……」
「誰よ! 相手は!」
「ど、どんな感じだった? やっぱ痛い?」
「エリ、あんた処女だったの?」
「うるさいわね。ほっといて。ねぇレイ、どうなのよ。まさかキスだけなんて許さないわよ」
「なんでレイがあんたに許してもらわないといけないのよ」
「ルカは黙ってて! ねぇ、教えてよ。もったいぶらないで!」
「何もないもの」
「もぉ。あたしたち親友でしょ。喜びは分かち合うのよ!」
「エリの場合は好奇心が」
「黙れ!」

「あやな……赤木さん!」

 まさか。
 私は身体を強張らせた。ありえないはずの、聞こえるはずのない声が聞こえた。

「赤木……さん?」

 もう一度聞こえた。ゆっくりと振り返る。幻じゃない。彼がそこにいる。碇くんがいる。

「碇くん!」

 私は思わず叫び、何か考えるよりも早く碇くんに飛びついていた。彼はバランスを崩し、私たちは芝生の上に倒れこんだ。

「どうして、ここにいるの?」
「て、転校してきたんだ。約束したじゃないか。そばにいるって。色々大変で、ちょっと遅くなったけど。ほら、み、みんな見てるよ」
「転校? 大学生なのに?」
「冬月先生にむりやり頼んで。ね、ねぇ。みんな思いっきりこっち見てるよ。恥ずかしいから、ちょっと離れようよ」
「嫌。離れない」

 私を抱きとめて、頭をなでてくれる碇くんの手が心地よくて、私は涙をとめることができなかった。碇くんの服は私の涙でびしょびしょだった。

「あれがレイの彼氏?」
「レイってば大胆。いきなり押し倒すなんて」
「ちょっとやせ過ぎかなぁ。あたしのタイプじゃないわ」
「でもちょっとステキ」
「優しそうではあるわね」
「きっと何でも言うこと聞いてくれるわよ」
「尽くすタイプかしら」
「母性本能、くすぐられるわね」
「とっちゃおうかな」
「あんた、さっきタイプじゃないって」
「撤回よ。こんな所で抱きしめてくれるなんて」
「殺されるわよ」

 友達が何か言っているけれど、私の耳には入らなかった。

 失くした時間はもう戻っては来ないけれど、これから一緒に歩いて行けるのなら。
 碇くんを好きでいられる自分のことなら、好きになれるかもしれない。

「転校なんて…… 本当に来てくれるなんて……」
「冬月先生、渋い顔してたけどさ。転校させてくれないと、綾波と組んでフォースインパクト起こしますよって、脅迫したんだよ」

 彼の冗談に、私はくすりと笑った。

「そしたら政府の人と交渉してくれたんだ。殴られたけどさ」

 私は碇くんの顔を見上げ、それから自分の着ている服に気づいた。

「あたし、またこんな服……」
「ううん、可愛くっていいよ」
「……」
「な、なんだったら、また脱がすけど」
「…………ばか」

 少し止っていた涙がまた溢れた。

「冬月先生にさ、言い出したら聞かないところは、お前の父親にそっくりだなって、言われたよ。似てるのはいいけど、女癖が悪いのは真似するなってさ。はは……」
「もし浮気なんかしたら」

 私は碇くんの胸をどんと叩いた。それから、あの頃のことを思い出して言った。

「A.T.フィールド、展開するから」


end


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