「あの、ミサトさん……」
アスカが風呂に入っているタイミングを見て、洗い物の手を休めたシンジが口を開く。
「なぁに?」
「昨日から、綾波の機嫌が悪いような気がするんですけど」
「そう? それで?」
「どうしてかなって思って。何か知りませんか」
「知らないわねぇ。あなたの方が良く知ってるんじゃないの?」
「……」
「アスカにでも聞いてみたら?」
「そんなの聞けるわけないじゃないですか」
ミサトは小さく笑った。
「ねぇシンちゃん」
「はい」
「本当に気づかないの?」
「え、何をですか?」
「女の子が不機嫌な時はね、男の子が鈍感な時って決まってるのよ」
「……?」
「明日学校で、よく見てごらんなさい。レイのこと」
「見れば…分かるんですか?」
「それはあなたしだいね」
「…からかってるんですか?」
「そうかもね」
シンジは黙って洗い物を再開した。
「アスカ…ちょっといいかな…」
ミサトが風呂から上がり、自室に入ったのを見て、シンジはアスカの部屋のドアを叩いた。
「いま着替え中」
「あ、ご、ごめん」
「もういいわよ」
勢い良くふすまが開いた。
「なによ」
「あ、あのさ……」
「なに。ハッキリしなさいよ」
シンジはアスカに聞こうとしたことを激しく後悔した。
「最近、あ、綾波の機嫌が悪いような気がするんだけどさ」
アスカは一瞬、虚を突かれたような顔になり、すぐに怒りの表情に変わった。腰に両手をあてる。
「それで?」
「い、いや、その、何か知らないかなと思って…」
「アタシが何か知ってると思うの?」
「そ、そうだよね…」
「明日、学校で本人に聞いてみなさいよ。ファーストの顔をしっかり見てさ」
アスカは疲れきったような声でそう言い捨てると、ぴしゃりとふすまを閉じた。
「バカシンジ…」
閉じたふすまにもたれかかり、アスカは本当に小さな声で呟いた。
「綾波の顔を見て、か…」
ベッドに横になり、天井を見つめてシンジは想う。
「からかわれてるわけじゃ、ないのか…」
翌朝になってもアスカは不機嫌で、一人でさっさと学校に行ってしまった。
「レイに続いて、アスカもご機嫌ななめ、か」
ミサトが、わざとシンジに聞こえるように独りごとを言う。
「僕のせいですか?」
「知らないわよ。そんなこと」
「…」
「ま、人間関係は色々難しいわよね。みんなお年頃だし」
「……僕はどうしたらいいんですか…」
「知らないって言ってるでしょ。あ、もうこんな時間。そろそろ行かなきゃ。今日は定期テストが終わったら一緒に帰ってこれると思うから、たまにはレイも呼んで、みんなで食事しよっか?」
ミサトはそう言って、部屋を出て行った。ちょっと白々しかったかしら、と思いながら。
シンジは教室の前に立ち、今日はこのまま帰ってしまいたいと思う。気が重かった。しかしそうもいかず、意を決して扉を開いた。
「おはよう」
「おはようさん」
トウジが声をかけ、ヒカリと話していたアスカが横目でちらりと見る。レイはすでに席についていた。
――よく見てごらんなさい。レイのこと――
――ファーストの顔をしっかり見てさ――
机の上に鞄を置き、レイに目を向ける。
「あっ」
「シンジぃ、どうしたぁ?」
シンジは思わず声を上げた。驚いたケンスケが声を掛けるが、それも耳に入らない。まっすぐにレイの元に歩き、前の席に座る。レイは読んでいる本に目を向けたまま、シンジの方を見ようともしない。
「髪、切ったんだね」
レイはちらりと目線を上げ、黙ったままこくりとうなずいて、それからすぐに目線を落とした。レイが頬をかすかに染めている事に、シンジは気づいた。
「似合うよ」
「髪型は、変えてない…」
「でも、可愛いよ」
「あ、ありがと…」
シンジの方を見ずに、レイはそう言った。自分の心臓が早鐘を打っている事に、彼女はとまどっていた。
「どうしたんだよ、シンジ」
「いや、なんでもないんだ」
始業のチャイムが鳴る。ケンスケの問いを受け流し、シンジは自分の席に戻った。
――女の子って、難しいな――
シンジは、アスカが恐ろしい目つきで睨んでいる事に気づいてはいなかった。
その日のシンクロテストで、レイは驚異的な値を叩き出し、アスカは最低値を更新した。
「じゃ、アタシ先に寝るから。おやすみ」
レイを送ってきたシンジが部屋に戻るなり、アスカがそう言った。
「あ、おやすみ」
「おやすみ、アスカ」
朝にも増して不機嫌な様子で、アスカが自室のふすまを凄い勢いで閉じた。
「アスカ…どうしたんだろう……」
「面倒見切れないわ。勝手になさい」
冷たい言葉とは裏腹に、ミサトは笑顔を見せている。
缶ビールのプルトップを開ける音が、部屋に響いた。