記憶の彼方

written by tamb   


「ここじゃあL結界密度が強過ぎて助けに来れないわ」
 
 そう彼女――確かアスカという名前のはずだ――は言った。
 
「リリンの近付ける所まで移動するわよ」
 
 彼女の判断は正しいと思う。
 エントリープラグに装備されているサバイバルキットは最低限のものでしかない。ネルフがエヴァをロストすることはあり得ず、ただプラグ内で救助を待っていればいいからだ。何らかの理由でプラグ内に留まれないとしても、大きく離れる必要はない。救助が来ないならそれは切り捨てられたことを意味する。
 彼女たちの組織――ヴィレでもそれは同じだろう。サバイバルキットのサイズを見れば想像はつく。ヴィレにおけるパイロットの地位、あるいは重要性については良くわからないが、救助に要するコストに見合わないとなれば切り捨てるのが当然だ。助かりたいと思えばコストを下げる努力をするべきだろう。
 もっとも、わたしは必ずしも助かりたいとは思っていないのだけれど。

 この砂漠のような場所で、炎天下にやみくもに行動するのは自殺行為だ。だがもう一人パイロットがいたはずだ。そのパイロットがわたしたちの位置をトレースしていて、なおかつ生還していれば、そしてわたしたちがリリンの近付ける所まで移動できれば、救助の可能性は高まると判断できる。
 問題は水分の補給だ。エントリープラグ内に留まっていればLCLがある。だがプラグから出て行動するとなれば、スクイズボトル以上のLCLを持って行くことはできない。いきおい行動範囲は限られることになる。
 いずれにしても、ただここで待つことが有効でないと判断される以上、何らかの行動は起こさなければならない。ならば歩くしかない。
 彼女はセンサーを見て、よりL結界密度の低い方向を選んだ。捜索を行う場合でも同じ判断をするだろう。その方向で水分の補給が見込めなければ、余力を考慮した上で引き返すことも視野に入れておけばいい。彼女が碇くんの様子を見ていたのはそういう意味だと思う。

 碇くん。

 L結界密度が強すぎて助けに来れない。リリンの近づけない領域。結界の中。原罪の汚れなき浄化された世界。
 そこにわたしたちは、いる。
 わたしはもとより、彼女も、そして碇くんもリリンではない。

 わたしは碇くんの落としたS-DATを拾い、そして彼女たちについて歩き出した。
 それはなぜだろう。
 わたしは命令に従って生き、命令に従うことによって生かされてきた。今わたしは、自分の勝手な判断で行動しようとしている。
 生存の可能性を探ることが命令違反とは思わない。だが彼女たちと行動を共にすることが碇司令の意に適うとも思えない。プラグに留まって救助を待つか、少なくとも別方向に向かって動くべきだ。そもそもわたしが碇くんのプラグの方に歩いて来なければ彼女に発見されることもなかった。コンタクトそのものを避けるべきだったのだ。
 それでもわたしは、ためらうことなくここに来た。

 碇くん。
 彼にひかれるのはなぜだろう。
 彼がわたしに関心を示すのはなぜ?
 ひかれるってなに?
 わたしは何を知っているのだろう。
 碇くんは何を知っているの?

 彼女はときおりセンサーを確認し、無言で歩き続ける。二時間も経った頃、前方に比較的状態のいいアパートが見えた。あそこまで十分程度だろうか。体力的にはまだ問題はない。だが喉の渇きは感じた時には手遅れだ。陽が傾き気温は下降傾向にあるとはいえ、引き返す可能性を考慮すればそろそろ限界と思えた。
 
「あのアパートの中を調べて」アスカが歩き始めてから初めて口を開いた。「何もなければ引き返します。いいわね?」
「……わかった」
 
 碇くんが答える。口調に疲労は感じられない。
 
「あんたは?」
 
 彼女がわたしを振り向いて言う。
 
「問題ないわ」
 
 彼女はわたしの答えを聞いてすぐに前を向いたが、その直前、少し笑ったような気がした。



「結構ラッキーかもよ。あたしたち。というより、こうなると御都合主義に近いわね」
 
 小さなワンルームだった。シンクの下の開きに500mlのペットボトルのミネラルウォーターを発見した彼女はそう言った。ここからでも十数本は見える。
 
「突っ立ってないで、座んなさいよ。飲んだらシンジは他の部屋に行って、リュックみたいなものを探してきて。あと、水と食料も」
 
 彼女がミネラルウォーターを差し出す。
 碇くんはそのペットボトルを開け、一口だけ飲むと黙って出て行った。
 
「ほんとに世話の焼けるヤツね。ふさぎ込んでてもどうにかなるわけじゃないのに」
 
 彼女はため息をついた。
 
「で、あんたなんだけど」彼女はわたしを見て言った。「わかってると思うけど、このままあたしと行動を共にして、首尾よく救援が来れば、あんたもシンジも拘束されることになるわ」
「……わかってる」
「ほんとにわかってるの!?」彼女は声を荒げた。「拷問なんて古臭いことはしないわよ。そんなことしなくても、胃に半リッターも自白剤をブチ込まれて知ってることを隠し通せる奴はいないわ。洗いざらい喋らされたあげく、糞便垂れ流して廃人になるのよ」
「わたしは何も知らないから」
「それはそうかもしれない。ただそれをミサト……葛城大佐に理解させるのは――」
 
 彼女は言葉を切った。
 
「いいわ。あたしの人生じゃない。自分のことは自分で決めるべきよね」
 
 自分のことは自分で決める。そうかもしれない。でもわたしは、今まで自分のことを自分で決めたことはなかった。今わたしは、自分のことを自分で決め始めている。

 こんな時、綾波レイならどうするの……?

「明朝、行動を開始するまでに決めればいいわ。一緒に来てもいいし、誰かとどこかに消えてもいいし。あんた個人に恨みはないし、シンジももうどうでもいいわ。なんだか気が済んじゃったみたい」
「……碇くん?」
「そう。ガキシンジ。十四年もプラグの中で寝てたんだから、ガキなのも無理ないけど。……それにしても」彼女は苦笑混じりに言った。「シンジのことになるととたんに反応するのは、何年たっても変わらないのね。三つ子の魂百まで、とは違うか。血は争えない……ってのもちょっと違うわね。
 まあいいわ。無駄話しててもしょうがないし、あたしたちも家捜しするわよ。水と食料はいくらあってもいいんだから。ここをベースキャンプにして、適当な場所に前進キャンプを設定できればいいわね」
 
 彼女はひとり言のようにそう言って、やたらと棚を開き始めた。



「水はたくさんあった。リュックも登山用みたいなしっかりしたのがあった。食料は、缶詰めはいくつかあったけど、携行食糧みたいなのはなかった」
 
 戻って来た碇くんが、平板な声で報告する。何も映さない瞳。
 こちらも状況はそう変わらなかった。水がたくさんと、缶詰めが少し。
 想像できることはいくつもある。配給のバランスの悪さ。あるいは順番。変異する人々、恐怖、パニック、疑心、脱出行――。
 だがここに住んでいた人々がどうなったかを想像しても意味はない。
 
「缶詰め、食べられるかしらね。少なくとも十四年は前の缶詰め」
 
 テーブルの上のホコリを手で払い、缶詰めを並べながらアスカが言う。
 
「この状況でお腹壊したら最悪よね。……シンジ、このシャケ缶、美味しそうよ。試してみない?」
「……遠慮しておくよ」
「そっちのあんた、ホワイトアスパラは?」
「お腹、すいてないから」
「あんた、面白いこと言うわね」
 
 彼女は少しも面白くなさそうに笑い、ふと思いついたように言った。
 
「そういえば水は大丈夫なのかしら。いまさらだけど」
「二十年保存可って書いてある」
 
 碇くんがラベルを見ながら。
 
「いよいよ御都合主義ね」
 
 彼女はにこりともせずそうつぶやく。それから改まった調子で告げた。
 
「明朝、0500に行動を開始します。水を各自二十リットルと食糧――プラグから持ってきたやつよ? 缶詰めじゃないからね?」
 
 碇くんが少し笑った。
 
「――をリュックに入れてここに集合。出発します。状況をみつつ、大きく変化がなければ四時間をメドに適当な建物を探して水をデポ、ここに戻ります。もちろん、私と行動を共にするかどうかは各人の自由です。強制はしません。何か質問は?」
 
 あるはずもなかった。
 
「賢明な判断を期待します。いずれにしても休息は十分にとるように」
 
 彼女はドアに向かって歩きかけ、振り向いて言った。
 
「あたしは一番向こうの部屋で寝るから。なるべく近寄らないで」
 
 そして彼女は出ていった。後に残された、碇くんとわたし。

 碇くんは立ち上がって部屋の隅にあるベッドに向かった。わたしはそれを目で追う。
 ベッドはホコリだらけだったが、ブランケットの下のシーツは思いのほか白く、ベッド自体も睡眠には十分に耐えられそうだった。
 外はもう暗くなり始めている。
 彼は倒れ込むようにしてベッドに横になり、両手を枕にして仰向けになって目を閉じた。
 わたしはどうすればいいのだろう。
 例えば隣の部屋に行って碇くんと同じように休息を取る。たぶんそうするべきだろう。
 でもそうしたくなかった。碇くんの傍にいたかった。なぜかはわからない。ただそうしたかった。
 自分のことは自分で決めなければならない。こんな時、綾波レイならどうするだろう。
 わたしは誰?

 わたしのしたいこと。命令ではなく、今わたしが願うこと。それが唐突に、はっきりとわかった。
 わたしの願い。わたしにそんなものがあることに戸惑ったのは一瞬だった。
 ヘッドセットを外し、テーブルの上に置く。立ち上がり、碇くんの所に歩み寄る。手を伸ばし、彼のヘッドセットも外した。彼はまるで死んだように動かず、目を開くこともない。
 自分で決めなければ、他に決めてくれる人はいない。
 手首のボタンを押し、プラグスーツのロックを外す。静かに脱ぎ下ろし、裸になって碇くんの隣に横になった。彼の方を向いて、少しだけ丸くなった。
 
「……君は、誰?」
 
 碇くんが細く小さな声で言った。
 
「わからない……」
 
 わたしはそう答えた。わたしにはわからない。今のわたしには。
 
「僕は、誰なんだろう」
「あなたは、碇くんだわ」
 
 そう思う。なぜそう思うのかはわからない。でもそう思うのは本当だった。
 だからわたしは目を閉じ、勇気を振り絞って、彼の名を呼んでその背中に言った。わたしの願い。
 
「碇くん、手を、貸してくれる?」
 
 かすれた、小さな声にしかならなかった。碇くんに届いただろうか。でももう一度言うことはできない。
 どれくらい経っただろう。たぶん数分と経っていない。でもわたしには何時間にも思えた時間のあと、彼がかすかに動いた。目を閉じたわたしには、彼が何をしているのかわからない。
 また長い時間がたった。
 不意にプラグスーツのロックを解除する音がして、わたしは身を硬くした。
 
「プラグスーツ越しじゃ」彼の声が聞こえる。少し湿った、決して平板ではない碇くんの声。「手を貸したことにならないよね?」
「……うん」
 
 目を開く。
 彼がそこにいた。少しはにかんだような笑顔。心の奥底まで響く声。わたしに心なんてあったの? 身体が震えるのはどうして?
 そっと手を伸ばす。碇くんがその手を取った。身体が、心が震える。こんな時、どうしたらいいのだろう。
 こんな時はきっと。
 わたしは彼を見つめ、笑顔を作った。
 そう、こんな時はきっと、笑えばいい。
 うまく笑顔になれたのか、よくわからない。はじめてなのに、はじめてじゃない気がする。
 彼は驚いたような顔になり、それから笑顔になって、少しだけ泣いて、そしてわたしを抱きしめた。
 ずっとずっと前、こんなことがあったような気がする。憶えてはいない。でも知っている。あったかくて、ちょっぴりくすぐったい、この感じ。
 
「君は、綾波だよ」彼は両手に力を込めてそう言った。「いろんなこと、憶えてないかもしれない。僕のこともよくわからないかもしれない。でも、やっぱり君は綾波だよ。そう思う。僕がそう感じるんだ」
 
 それはわたしが彼を碇くんだと思うのと同じ、根拠のない思い込みかもしれない。でも彼は、少なくともわたしにとっては権威だった。もしかしたらこの世界全てに対しても。彼について行って、彼の願いを叶えたい。そう思った。
 でもその前に。少しだけでいいから。
 思う存分に甘えて、わがままを言って、困らせて、拗ねて、頭を撫でてもらって、後ろから包み込むように抱きしめてもらって。
 甘くて、暖かで、溶けてしまいそうな、心地いい感じ。ただ寄りかかっていればそれでいい、陽だまりのような安心感。
 そんな、経験したはずのない気持ちが込み上げてくる。もう一度、何度でもという願い。
 碇くんの言うように、わたしが綾波レイなら。
 わたしは彼を見上げ、口唇をなるべく自然な感じにして、そっと瞳を閉じた。

 ずっとこのままでいられたらいい、いっそ時間なんか止まってしまえばいい。そうすれば何かに思い煩うこともなくなるのに。
 でもそれを願うことはできなかった。わたしにも、そして碇くんにも、それぞれのやるべきことと果たすべき責任があった。
 
「わたしは、ネルフに戻るわ」
 
 ほんのわずかな、でも本当はきっと長い時間のあと、わたしは碇くんの腕の中で彼にそう告げた。
 
「僕も行くよ。綾波と一緒に行く」
 
 彼は力強い声でそう言った。それは嬉しいと思う。涙が出るくらいに。でもそれはできない。
 
「碇くんはヴィレに戻らなければいけないわ」
「どうして」
「あそこには初号機がある。初号機を動かせるのはあなただけだから」
「でもリツコさんは、もう初号機は僕じゃ起動しないって言ってたんだ」
「たぶん、初号機の魂は眠らされているの。怒りに我を忘れているのかもしれない。それはきっと、初号機に乗ればわかるわ」
「綾波は、何をするつもりなの? 僕は初号機で何をしたらいい?」
「世界を元に戻すの。あなたもそれを願っているはずよ」
「でも……いったいどうすれば……」
「人々に自分の姿をイメージしてもらえばいい。そうすれば、みんな人の姿に戻れるわ」
「そんなことが……」
 
 碇くんは黙り込んだ。今の世界の姿を見れば、絶句するのも無理はないと思う。
 
「できるはずよ。あなたとわたしなら。初号機の力を借りて」
 
 彼がわたしを見る。
 
「碇くんもわかっているはずよ。そうするのがわたしたちの果たすべき責任だって」
 
 碇くんの手が震えた。
 
「綾波は、どうするの?」
「ネルフに行って、そこにいるはずのわたしを探して逢うわ」
「そこにいるはずの……綾波?」
 
 わたしは彼の言葉を無視して続けた。
 
「わたしがわたしになれば、初号機はわたしを認識すると思う。そうすれば初号機は碇くんを迎えに行くわ」
「綾波……君がいったい何を言っているのか――」
「わたしにもわかんない」
 
 碇くんの背中を撫でながら、頑張って可愛らしく笑いながら言った。
 
「具体的には行き当たりばったり。流れに任せるしかないわ。その場その場で自分で決めながら」
「そんな――」
「……碇くん」
 
 わたしの好きな碇くん、と言いたくて、でも言えなかった。それはまだ言ってはいけなかった。
 わたしは彼の胸に頬をあてた。心臓の鼓動が聞こえる。
 
「あなたなら大丈夫。あなたならできる。あなたにできなければ誰でもできないわ。碇司令にも、葛城大佐にも」
「……」
「大丈夫。信じて。わたしと、あなた自身を」
 
 わたしはそう言ってから、大きく息をして胸一杯に彼の匂いを吸い込んだ。そして、彼の腕からするりと抜け出した。
 
「綾波……!」
「言わないで」
 
 彼の言いたいこと、彼の願いがわたしにはわかる。それはわたしの願いでもあるのだから。もうはぐれたりしないように、しっかりと手を繋いでいて欲しいのは誰よりもわたしなのだから。
 でもそれでは前に進めない。同じことを繰り返すだけ。
 それで何がいけないのかとも思う。なぜわたしたちが、背負えるはずのない重みを引き受けなければならないのだろう。
 今のわたしは、その答えを持っていなかった。ただ、ただわかるのだ。わたしたちには、わたしたちの果たすべき責任があると。それがわたしたちの引き受けなければならない、わたしたちしか引き受けられないことなのだと。
 だからわたしはそう言うしかなかった。言わないで。
 彼の言葉を耳にしてしまえば、またその腕の中に飛び込んでしまう。それは同じことの繰り返しだから。それではわたしたちがだめになってしまうから。
 碇くんは少しの間だけ目を閉じ、そして言った。
 
「自分の居場所……か。
 綾波。ひとつだけ約束して欲しいんだ。そしたら……君のいうことを聞くよ」
 
 冗談めかしたその言い方に、わたしは微笑みを作ってうなずいた。
 
「また……逢えるよね?」
「逢えるわ。すぐに。必ず。絶対に逢いにくる」
「わかった。信じるよ」
 
 彼の瞳には力があった。大丈夫、また逢える。本当にそう思った。
 そして碇くんはわたしを抱きしめ、わずかな沈黙の後で言った。
 
「帰って来たら続きをするよ。いいね?」
「……うん」



「行くのね?」
 
 アパートの外れまで歩いた時、背後から声が聞こえてわたしは足を止めた。
 
「早くから待ってた甲斐があったわ。
 で、どうだった? シンジのキス。優しくしてくれた? 歯と歯が当たって興醒め、なんてことはなかった?」
 
 からかうような言葉。でもその口調は優しかった。彼女も器用に人の間を縫って生きては行けないのだろう。
 
「良かったわ。あんたが一人で出てきて。シンジと一緒だったり、逆にあんたも残ったりするようなら、二人まとめて殺しちゃおうと思ってたとこ」
 
 彼女の懸念はわかる。彼女たちの目的のためには不確定要素は極力排除すべきだからだ。そして、実際にはそうはしなかったであろうことも。
 
「で、ファースト」
 
 わたしはそう呼ばれて振り返った。懐かしい呼び名だと思った。その名で呼ばれた記憶はなかったけれど。
 
「これは確認しておかないといけないんだけど、あんたはどうするつもりなの?」
「フォースインパクトを起こすわ」
 
 アスカがまだ明け切らない空を見上げる。
 
「あたしたちはそれを許すわけにはいかないんだけど」
「フォースインパクトは、あなたたちが想像してるようなものにはならないわ」
「なぜそんなことが言えるの?」
「碇くんが望んでいないから。彼は自分が何を望んでいるのか、もう完全に理解している。初号機を依り代とする以上、彼の望まないことは起こらないわ」
「初号機が目覚めるというの?」
「そうよ」
「あんたがそうさせる、というわけね」
「そう」
「もう一度聞くわ。それがニア・サードインパクトとは異なるものになるという根拠は?」
「碇くんの望まないことは起こり得ない。それだけよ。彼は権威だから」
「全てはシンジに託された、か」
 
 アスカは笑い、肩をすくめた。
 
「誰のためでもない、あなた自身の願いのために、ってね。なるほど、悪くないかもしれないわね。あんたの思惑通りに進めば。まあ賭けには違いないし、ヴンダーは落っこちちゃうかもしれないけど」
 
 可笑しくてたまらないという風で彼女は言った。それから真面目な顔になって続けた。
 
「ひとつ、古い友達のよしみで教えてあげる」
「古い……友達?」
「状況が変わったの。L結界密度が低下してる。ヴィレと連絡が取れたわ。数時間以内にマリが来る。叩き起こされてブツブツ文句言ってたみたいだけど」
 
 マリ、というのはもう一人のパイロットだろうか。
 
「あんたの捜索もされるでしょう。あたしたちの救助が最優先だから時間はかけないと思うけど、プラグに向ってとぼとぼ歩いてたらソッコーで見つかるわ。そしたら前に話した通り」
 
 確かにその通りだろう。わたしはうなずく。
 
「あたしのいた部屋にでも隠れてたらいいわ。あんたのことは適当にでっち上げておくから。シンジとも口裏を合わせておくわ。あたしたちが出て行ってから、一時間くらいしたらあんたも出て行けばいいと思う」
「……ありがとう」
 
 感謝の言葉。彼女は笑顔で応えてくれた。



 少しの間だけ、彼女と肩を並べて歩く。話すことは何もない。
 
「まだ少し早いから」アスカは部屋の前で小声で言った。ひそひそと、いたずらっぽく。「しばらく隣の部屋にいるわ。シンジもちょっと一人でいたいだろうし。いきなりあたしにガミガミ言われてもね」
 
 彼女はそう言ってクスリと笑い、軽く手を振ってドアを開け、部屋の中に消えた。

 わたしは立ち止まったまま、なぜ彼女は、何に賭けたのだろうと思う。拘束などするまでもない。アスカたちの目的を果たすためにわたしを、そして碇くんを殺してしまえば良かったはずだ。そうすれば、マーク9も13号機も失われた今、ネルフになす術はない。
 確かに私には代わりがいるかもしれない。でも碇くんにそんなものはない。ゼーレの少年ももういないはずだ。仮にわたしの知らない機体が温存されていたとして、そして槍が残っていたとして、それとネーメジスシリーズで何ができるというのか。
 だが初号機の中にわたしのオリジナルが存在し、ネルフにその一部ともいうべきものが確保されていたとすれば。
 そしてこのわたしの存在に何らかの意味があるとすれば。
 この三位が一体となって顕現した時、それを無視することはできないはずだ。そして碇くんがそれとシンクロし、起動すれば。
 それはそのままフォースインパクトを意味することになる。
 わたしと碇くんを生かしておくというのは、そのリスクを冒すということに他ならない。
 サードインパクトは碇くんの願いを叶える形で起きた。フォースインパクトが彼女たちの危惧するような形にならないという保証は、わたしの言葉以外にはない。
 いずれにしても、わたしをネルフに戻してメリットがあるとは思えなかった。初号機を奪還されない自信、起動しないという確証があったとしても、それはリスクには変わりがない。

 それでもアスカは、わたしと碇くんに賭けた。

 彼女は自分で考え、自分の想いに従って歩いている。わたしにわかるのはそれだけだった。

 わたしも歩く。誰のためでもない、自分自身の願いのために。それしかない。

 リリンではないわたしたちが、それぞれの判断でそれぞれの道を行く。きっとその道は、いずれ交わるだろう。根拠はない。でもそう思う。

 背中のバッグにはS-DATがある。その重さを、確かに感じる。彼がS-DATをプラグに持ち込んだという重み。彼にとってそれが何を意味するのかはわからないけれど、それはなぜかわたしには暖かだった。

 言えなかった言葉があった。
 碇くん、助けてくれてありがとう。あなたのおかげで、わたしは今ここにいることができます。碇くん、わたしは、あなたが好きです――。
 言えなかったのはきっと、それがまだ今のわたしの言葉ではないから。

 わたしは歩き続ける。

 わたしの言葉にするために。
 彼にその想いを伝えたくて。

 わたしがわたしになるために。

 もう一度、碇くんに逢うために。

 歩き続けよう。




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