あなたの望んだ世界で

Written by tamb



「ねーねー、パンツ覗き魔ぁ」

 放課後の教室。私は碇くんにまとわりつきながら、アスカ来るのを待っている。早く帰って来ないかな……。

「なんだようるさいなぁ」
「たいくつなんだもん」
「それにさぁ、いい加減、そのパンツ覗き魔っていうの、やめてくれないかな」
「だって、覗いたじゃん」
「しつこいなぁ。何回言ったら分かるんだよ。あれはただぶつかっただけじゃないか」
「でも、転んでめくれたあたしのスカートの中、じーっと見てた」
「違うよ! 顔を上げたら、たまたまちょっとめくれてただけじゃないか!」
「でも見た」
「見てないよ!」
「絶対見た。転校初日で、気合入れて選んだあたしの勝負パンツ、見た」
「勝負パンツ? あんな真っ白で子供っぽい……あ……」
「やっぱり見たんじゃん」
「……」
「責任とってよね」
「せ、責任て……」
「どうしたんだい、シンジ君」
「あ、カヲル君」

 アスカに来て欲しいのに、いつもこの人が現れる。渚カヲル。真実を知る者。

「あなたは呼んでないわ。渚君」
「ひどい言われようだなぁ。……じゃあシンジ君、僕はお呼びじゃないみたいだし、一緒に帰ろうか」
「うん」

 碇くんと渚君が一緒に帰って行く。私はその後ろ姿にあっかんべーをした。

「なにやってんの、レイ」
「ん、別に」

 ヒカリと一緒に担任の先生に日誌を出しに行っていたアスカが、二人と入れ替わりに教室に戻って来る。遅すぎるのよ。もぉ。

「じゃ、帰りましょ。ヒカリもすぐ戻ってくるから」
「うん」

 アスカ。この人はとても優しい。碇くんに甘えていてもいい人。碇くんを幸せにできる人。碇くんが、幸せにしてあげるべき人……。

*****
「ね、ちょっと寄って行かない?」

 私はファーストフードを指さす。

「いくいく。ヒカリも行くでしょ?」
「……う、うん。ちょっとだけなら」

 アスカに異存のあろうはずもないし、ヒカリも少しためらいながらもついて来た。委員長っていうのも大変だなと思う。

 転校して来て一カ月。この二人とは仲良くなれたと思う。みんなと仲良くできなかったのは心残りだったから、ここでこうしていられて良かったと思う。


「でさぁ、バカシンジったら――」

 フライドポテトをつまみながら、彼女は快活に話を続ける。

「やっぱ碇くんって――」

 私も負けてはいない。私はそういうヒトとしてここにいるのだから。

 碇くんのことをかっこいいと言ってもここがダメと言っても、彼女はほんの少しだけ顔色を変える。表面だけは私に同調しながら。好きなら好きだと言えばいいのに、でもそう言わないのが彼女。素直じゃない。それが彼女。


「ねぇ、ヒカリ。アスカって素直じゃないよね。碇くんのこと、好きなら好きって言っちゃえばいいのにさ。アスカって、昔からあんななの?」

 アスカがお手洗いに立った時に、私はヒカリにそう言った。
 碇くんとアスカ。幼なじみ。それは私には縁のない言葉だけれど、このまま時間に流されていれば、仲のいい友達で終わってしまうのは分かる。あの二人には乗り越えなければならない壁があって、だから私はここにいる。二人の力になるために。幸せになってもらうために。

 幸せになれ。それが私の願い。みんなみんな、幸せになれればいい。

 ヒカリは優しく微笑んで言った。

「そうね。でもレイ、素直じゃないのはあなたも同じよ」
「あたしが? どうして?」
「レイも碇くんのこと、好きなんでしょ?」
「まっさか。あんなパンツ覗き魔」

 ヒカリはくすくすと笑いながら、それでも真剣な目で言う。

「嘘ばっかり。あなたのこと、見てれば分かるわ。気づいてないかもしれないけど、レイってすごく分かりやすいのよ。すぐ顔に出るもの」

 思い出してしまう。碇くんが教えてくれたこと。自分が教えたということを、彼は知らない。
 碇くんの教えてくれたこと。笑うこと、泣くこと、悲しむこと。人を好きになるということ……。
 だから私は、碇くんのことが好きなんだろう。

「ほらね。ほっぺが赤くなった」
「そ、そんなことないよ。あたしはパンツ覗き魔になんて、興味ないもん」

 碇くんのことが好き。私は、碇くんが好き。
 でも私は、それを伝えるためにここにいるんじゃない――。

「アスカはなんにも言わないけど、たぶん気づいてるわよ。あなたの気持ちに」
「だからぁ――」
「男の子の気持ちは良く分からないけど、碇くんだって、満更じゃないかもよ。授業中、時々見てるもの。レイのこと」
「……」

 私は黙り込むしかなかった。

「なに話してんの?」

 アスカが戻ってきた。

「碇君のこと。アスカは碇君のことが好きなのかなって」

 ヒカリがストレートにそう言って、私は必死に動揺を隠した。

「なに言ってんのよ。アイツはただの幼なじみ。好きとかそんなんじゃないわ。……あんたはどうなのよ、レイ」
「ん、あたしも興味ない」
「アイツもかわいそうな奴よね。誰にも相手にしてもらえなくてさ」

 アスカが心なしかほっとしたような顔で言う。あはは、とヒカリが笑った。

*****
 じゃあね、と手を振って私たちは別れた。
 ヒカリは家で食事の支度をしなければならない。彼女は毎日、家族の食事を作る。きっとすごく大変なんだろうけど、でも幸せそうだなと思う。
 アスカは家で、家族みんなで食事だろう。お母さんが作ってくれる。朝は碇くんのことを起こしに行っているらしい。朝食を一緒にすることもあると、彼女は言っていた。

 私には何もない。



「お邪魔してるよ」

 部屋のドアを開けると、渚君がいた。

「勝手に入ってこないでって、何回も言ってると思うけど」

 カバンを置いて、彼の目を見つめて冷たく言う。私と同じ紅い瞳が目に飛び込んでくる。
 彼は小さく微笑んだだけで、何も言わなかった。
 私はそっとため息を漏らす。

「……コーヒーでも飲む?」
「ああ、悪いね。もらおうかな」

 彼にコーヒーを、自分には紅茶をいれた。
 アスカはミルクをたっぷり入れたカフェオレが好きで、それでコーヒーメーカーは買ったけれど、私はあまりコーヒーを飲まない。

 赤木先生――赤木博士もコーヒーが好きだったなと、ふと思い出した。

「渚君」
「うん?」
「お願いがあるんだけど」
「なんだい?」
「碇くんにつきまとうの、やめて欲しいの」
「別につきまとってるつもりはないんだけどね」
「あなたが耽美に走るのは勝手だけど、碇くんまで巻き込まないでくれる?」
「巻き込むって、どういう意味かな」
「だってあなた……ホモなんでしょ?」

 あはは、と彼は笑った。

「どうしてそう思うんだい?」
「だって、そうなんでしょ?」
「根拠のないいいがかりはやめてくれないか、と言ってもいいんだけどね。ま、ノーコメントにしておくよ」
「とにかく、碇くんとべたべたしないで。碇くんにはアスカがいるんだから」

 ふふ、と彼は含み笑いをした。

「コーヒーをもう一杯、もらってもいいかな」
「ご自由に」

 私がそっけなく答えると、彼はまた小さく笑う。カップを持って立ち上がると、そのまま宙に浮き上がり、すーっと滑るようにキッチンまで移動した。デカンタに残ったコーヒーをカップに注いで、宙に浮いたまま戻ってくる。

「……ねぇ、渚君」
「なんだい?」

 何事もなかったように着地し、腰を下ろした彼を見て、私はため息をついた。

「人間なんだからさ、そうやって幽霊みたいに浮かんだり玄関のドア通り抜けたりするの、やめたら? 誰かに見られたら、ワイドショーが取材にくるわよ」
「それはそれで面白いんじゃないかな」

 彼は意に介さない。私はもう一度ため息をついた。

「君には誰がいるんだい?」

 彼が唐突に言う。

「何の話?」
「アスカちゃんにはシンジ君がいるんだとすれば、さ」
「……」
「レイちゃんには誰がいるのかな、と思ってね」
「そんなこと、あなたに関係ないわ」

 彼は笑って答えない。

「あなた、何しに来たの?」
「コーヒーを飲みにね」
「もう飲んだでしょ。帰ったら? それから、もう来ないでくれる?」
「君はどうしてここにいるんだい?」

 この人は私の話を聞いているのだろうかと、ふと疑問に思う。

「シンジ君が願ったから、だろう? それは僕も同じさ。そして僕はこういう僕を、君はそういう君を選んだ。アスカちゃんみたいに、明るくて元気な君をね」
「……それで?」
「シンジ君がアスカちゃんと幸せになるのはいいとして、それから君はどうするつもりなんだい?」

 無に還る。それだけのこと。

「そんなこと聞いて、どうするつもりなの」
「別にどうするってこともないんだけどね。シンジ君がアスカちゃんを好きになるように君が仕向けるのは、もしかするとシンジ君の意志に反することなのかもしれないよ」
「……」
「それを考えたことはあるのかな、と思ってね」
「あたしは、碇くんにもアスカにも幸せになって欲しいだけなの」
「自分のことはどうでもいいのかな?」
「……」
「僕たちはシンジ君の夢の中にいるんじゃないんだ。これが現実なんだよ」
「……」
「変わらないね、君は」
「……帰って」

 私は玄関の方を指さした。

「コーヒーをごちそうさま。また来るよ」
「もう来ないで」

 彼は微笑みを浮かべたまま“歩いて”玄関に向かい、帰っていった。



 ――渚君の言っていることが正しいことを、私は知っている。

 碇くんがみんなのいる世界を望んだから、私はここにいる。アスカも渚君も、それは同じ。

 私はリリスで、渚君は使徒だった。私たちは、アスカやヒカリとは違う。それでも私たちがヒトとしてここにいられるのは、碇くんが赦してくれたから。もしそれが、彼が何も考えずに元に戻りたいと願ったというだけのことだったとしても、彼が私たちを拒否しなかったことに変わりはない。あんなことがあったのに。

 私という存在が自分の意志を持たずにいたことで、彼を苦しめてしまった。アスカのことも同じように苦しめた。だから今度は、二人には幸せになって欲しい。そのためなら私は何でもする。

 でも、私も今は普通の女の子だから――。

 碇くんとずっといっしょにいたいし、手をつないでデートもしたいし、時にはぎゅって抱きしめて欲しい。頭を撫でて欲しい。幸せになりたい。

 それでも、自分が幸せになるよりも、碇くんとアスカに幸せになって欲しいと思う。自分が幸せになる陰で誰かが泣いていることには耐えられない。もう誰にも辛い目になんて会って欲しくない。

 こんな風に自分のことはどうでもいいと思うのが、渚君が「変わらない」と言った部分なんだろう。でもそれが私なのだから、無理に変えることはできない。

 それに碇くんは、リリスだった私を見ている。彼は恐怖のあまり絶叫した。今の彼はそれを覚えていないにしても、私のことなんか好きになってくれるわけがない。


 私はチェストの奥から初号機のぬいぐるみを出した。ここに来てすぐに、一週間もかけて作ったぬいぐるみ。碇くんが乗って、かつては私だったものの象徴。私があそこにいたということの証。

「ねぇ、あたし、どうしたらいいんだろう……」

 ぬいぐるみは答えてくれない。それは意志を持たない人形だから。かつての私のように。それでもぬいぐるみを抱き締めていると、少しだけ落ち着きを取り戻すことができた。やっぱり自分も何かにすがりたいのだろう、と思う。アスカには笑われるかもしれないけれど、ヒトは独りでは生きて行けなくて、そして私はヒトなのだから。

*****
 シャワーも浴びず、着替えもせずに初号機のぬいぐるみと一緒に眠ってしまい、翌朝目が覚めたときにはすっかり体調を崩していた。身体がだるくて、熱っぽい。風邪をひいたのかもしれない。
 学校に電話をするのもめんどうで、ずる休みをしてしまおうと思う。今日はテストもなかったはずだし、一日くらい休んでもどうということはない。
 白いつなぎのパジャマ――少しだけプラグスーツに似ている――に着替えて、初号機のぬいぐるみといっしょにベッドにもぐりこんだ。


 目が覚めると夕方だった。体調はますます悪く、だるさに加えて悪寒もする。熱があって、汗をかいて気持ちが悪かった。こういうとき、一人暮らしは心細い。アスカかヒカリでも来てくれればいいのにな、と思う。
 何か食べて薬を飲んだ方がいいのかもしれないけれど、何か食べるものを作ろうなんて気にはなれない。着替えてコンビニに行く気力もない。だいたい、食欲なんて全然ない。
 もう一眠りして、少し元気になったら何か作って薬を飲もう。もしインフルエンザだったら、お医者さんに行かないといけないかもしれない。でもお医者さんは嫌い。すぐ注射するから。注射は痛い。痛いのは嫌い。

 頭がぼんやりしていると自分でも思いながら、手を伸ばしてブランケットをかけなおす。

 ぴんぽん、とインターホンが鳴った。

 誰か来た。アスカかヒカリだったらいいな。もしそうなら、何か食べるものを作ってもらおう。赤木博士――保健の赤木先生なら、お願いすれば来てくれるかもしれない。お薬を持って。
 教育実習で来ているマヤ先生だったら、お料理とか上手そう。美味しいものが食べたいな。食欲はないけど。

 そんなことを考えながら起き上がろうとして、起き上がれなかった。自分で思っているよりも私の体調は悪かったようだ。

 もう一度インターホンが鳴る。

 なんだ。アスカでもヒカリでもないんだ。あの二人には合鍵を渡してあるから、勝手に開けて入ってくるはず。渚君なら通り抜けて入ってくるから関係ない。新聞の販売拡張かな。

 私はブランケットを被りなおして、急に気づいた。昨日、渚君が歩いて帰ってから、鍵を閉めた覚えがない。やっばー、と思う間もなく、ドアの開く音がした。

「……綾波、いないの?」

 うわ。碇くんだ。あたし、風邪の熱で汗まみれだし、昨日はシャワーも浴びてないし、髪はぼさぼさだし、歯も磨いてないし……。

 気持ちだけじたばたしても、身体は動かなかった。

「碇だけど……綾波、入るよ……」

 だめ。女の子の部屋に勝手に入ってこないで。碇くんの悪い癖よ。

 思うだけで言葉にはできない。碇くんが入ってくる。ブランケットの中に頭までもぐりこんで眠った振りをしようかと思ったけど、碇くんの顔が見たかった。

「あ、ご、ごめん。その……プリントを持って来たんだ」

 私と目が合って、彼はあわてたようにそう言った。

 どうして謝るのだろう。悪いことなんて何にもしてないのに。謝るくらいなら、最初からしなければいいのに。

「顔色悪いよ……風邪、ひいたの?」
「……ずる休みだと思った?」

 憎まれ口。素直じゃない私。せっかく来てくれたのに。プリントを持ってくるなんて口実で。
 もしかすると本当にプリントを持って行けと言われたのかもしれないけど、私は碇くんが様子を見に来てくれたと思いたかった。

「すごい熱だ……」

 彼は私の憎まれ口を無視して、私のおでこに触ってそう言った。
 そうやってさりげなく触っちゃダメ。ますます熱が出てしまう。

「お医者さんなんて……行ってないよね……」

 私はこくんとうなずく。

「お注射、嫌い」
「薬くらい、飲んだ?」

 首を振る。

「一日、何も食べてない?」
「うん……」
「何か食べて、薬くらい飲まなきゃだめだよ。ちょっと待ってて。おかゆでも作るから。ご飯はある? 昨日の残りとか」
「冷蔵庫に、ラップして入れてある……」
「本当はお米からちゃんと作るのがいいんだけど、時間がかかっちゃうからね」
「碇くん……」

 キッチンに立った彼に、私は声をかけた。

「優しくしないで。アスカに怒られるわ……」
「下らないこと言うなよ」

 彼の声は少しだけ怒気を含んでいた。

「あ。ご、ごめん。怒鳴ったりして……」
「……ううん」
「でもさ、風邪ひいたときくらい、甘えてくれてもいいと思うよ」

 彼はそう言ってキッチンに立った。

 甘えてくれてもいい。彼はそう言った。彼は私に甘えて欲しいと思っているのだろうか。

 ……そんなはずはない。彼にはアスカがいるのだから。私が風邪をひいているから、優しくしてくれているだけだ。

「すぐ出来るから、ちょっと待ってて。待てるよね?」
「うん」

 彼が部屋に戻って来て、そう言った。
 優しすぎて泣きそうになる。思いっきり甘えたくなる。こんな気持ちになるのは、きっと風邪のせい。

 彼はベッドの脇に腰を下ろし、私の目を覗き込んだ。

「あたしが風邪で弱ってるからって、それに付け込んで口説いてもだめよ」

 そんなことを言ってしまう。でも彼は、私の言葉を聞いてはいなかった。

「初号機……だよね……これ」

 彼は私の枕元から初号機を取り、そう言った。

 私は驚きのあまり、声も出せなかった。

 ――碇くん、憶えてるの?

「す、すごい偶然だね。綾波とおんなじ夢を……見るなんて……」

 最初は明るく、でも最後は消え入りそうな声だった。私は黙って首を振る。彼自身、自分の言葉を信じてはいないだろう。

「長い夢を見てたんだって、そう思ってた」
「……」
「すごくリアルだったけど、夢なんだって、そう思ってた」
「……」
「でも、やっぱりそうじゃなかったんだね……綾波がそう言うんだから……」

 私は絶望した。

 絶望する理由なんてない。碇くんが憶えているなら、余計に私のことなんて気にせず、アスカと支えあって生きていけるはずだから。それでも私は絶望した。なんて自分勝手なんだろう。

「アンビリカルケーブルとか、ないの?」
「……ない」
「そっか。じゃあ、S2機関を取り込んだあとってことにしようかな」

 碇くんが普通な感じで言う。私に気を使っているのかもしれない。でも声の堅さは隠し切れていない。

「プログナイフは?」
「それも、ない」
「素手で戦うのかぁ。ちょっと厳しいかな。ミサト先生……ミサトさん、もうちょっとしっかりしてくれないと困るなぁ」

 初号機の手を取って、パンチを繰り出す。

「他に、誰が憶えてるんだろう……」
「渚君は憶えてる。他には、いないと思う」
「アスカも?」
「うん」
「父さんも?」
「うん」
「そう。……その方がいいね」

 碇くんは、見えない使徒にパンチやキックをしながら、静かにそう言った。

「おかゆ、そろそろいいかな……」

 彼は私に微笑んで見せて、ゆっくりと立ち上がった。



 碇くんの作ってくれたおかゆは美味しくて、少しだけ食欲が出てきた。

「おいしい?」
「うん」
「良かった。ほら、おかゆなんて滅多に作らないからさ。自信なくて」
「碇くん、お料理、好きなの?」
「好きって言うか、しないといけないんだよね。父さんも母さんも仕事が忙しいから。前はミサトさんもアスカもあんなだったし、あんまり変わらないよ」

 前と変わらない。胸がズキンと痛んだ。

「僕もちょっと食べようかな……」

 私の顔色が少し変わったことに気づいたのか、彼はあわてたようにそう言ってキッチンに立った。

 彼はお椀におかゆを入れ、冷蔵庫の中からお漬物を持って来た。

「これ、もしかして綾波が漬けたの?」
「うん」
「おいしいよ。僕じゃこんな風に上手には漬けられないな」

 碇くんは、ぽり、と一口食べてそう言った。

「アスカに教わったの」
「へぇ、アスカがそんな事するんだ。意外だな」
「彼女も女の子だから。前だって、あんなことがなければ、お料理くらいしてたと思う」
「綾波は?」
「え?」
「料理、しないの?」
「してる。前も、少しはしてたのよ」
「そっか。そういえばシンクが洗ってないお皿でぐちゃぐちゃだったもんね。あは……は……。ご、ごめん」

 恥ずかしくて、少し赤くなった私を見て、彼が謝った。



 おかゆを食べたら、少し元気が出てきた。碇くんが作ってくれたからかもしれない。

「ごちそうさま」

 私は微笑んでそう言った。こんな風に笑うのも、碇くんに教えてもらった……。

「薬、飲まなきゃ。どこにあるの?」
「そこの、薬箱の中」

 私はチェストの上を指さす。薬は前からチェストの上。

 彼は温めのお湯を持ってきて、風邪薬の説明書を読んだ。

「一回二錠だって」

 そう言って薬を手渡してくれた。

「ありがと」

 私は素直にそう言って、薬を飲んだ。

「横になってた方がいいよ。……その、しばらくそばにいるから」
「碇くん……」
「うん?」
「帰った方がいいよ。風邪、うつっちゃうから」
「平気だよ。僕、風邪ひかないんだ。ほら、バカだからさ」

 碇くん、どうしてそんなに優しいの。あなたはあたしのことなんて構わないで、アスカのことを想っているべきなのよ。

「……ねえ、碇くん。あたしのこと、知ってるんでしょ」
「知ってるって?」
「セントラルドグマの……見たんだよね」
「見たよ」
「リリスだったあたしのことも、覚えてるよね」
「覚えてる」
「だったら、どうしてそんなに優しくしてくれるの?」
「どうしてって?」
「だってあたしは――」
「言わなくてもいいよ」

 碇くんは私の言葉を遮った。

「辛かったことは言わなくていい。忘れちゃえばいいんだよ」
「……」
「僕たちが今ここにこうしているのも、あんな事があったからだけど、でも」
「……」
「僕も綾波も、自分をイメージしたからここにいるんだ。そうだろ?」

 彼は私の瞳を真っ直ぐに見て言う。

「僕はみんなのいる世界を望んだけど、僕が望んだのはそれだけだよ。明るくて元気な綾波は、綾波が自分でイメージしたんだ」

 私が、自分でイメージした。今の私を。

「前よりずっと明るくて元気だけど、やっぱり綾波なんだなって、見てて思う。そういう綾波も、僕は好きだよ」

 風邪ひいたときくらいは甘えてくれてもいいって、碇くんは言った。だから私は、「僕は好きだよ」というその言葉を、今だけは私のいいように解釈することに決めた。だって、風邪をひいているから。

「それって、口説いてるつもり?」
「え? い、いや……その……」
「着替える」
「え?」
「熱があって汗かいちゃって気持ち悪いから、着替えるの。むこう向いてて」
「あ、う、うん」

 彼が窓の方を見ているのを確認して、替えのパジャマと下着を持ってバスルームに入った。
 まだシャワーは浴びられないけど、裸になって、絞ったタオルで身体をぬぐった。新しい下着とパジャマに着替えて、髪を解かして顔を洗って、思いっきり歯を磨いた。そんなことをしていると、風邪のせいでやっぱり少し疲れる。でもそんなことは言っていられない。碇くんに嫌われたくないもの。
 鏡に向かって微笑んでみる。うん、可愛いよね。

「もういいよ」

 私はバスルームを出て碇くんに声をかけた。彼はベッドのシーツを替えていた。気が利き過ぎる。女の子みたい。

「綾波、風邪ひいてるんだから、横になって休んでないといつまでたってもなおら――」

 彼は声を途切れさせた。私が彼を、ベッドの上に押し倒したから。

「憶えてるよね。あのときのこと」
「……憶えてる」
「これでおあいこだよ」
「……うん」

 私は手を伸ばして、二人にブランケットをかけた。

「いっぱいお話しして疲れちゃったから、少し寝るね」
「うん」
「あたしが安心して眠れるように、しばらくこうしててね」
「うん。いいよ」
「ありがと」

 私は、生まれて初めて誰かに思いっきり甘えることができたと思う。素直になれたと思う。それが風邪のせいでもいい。

「綾波……」
「なに?」

 碇くんが、下から私の背中におずおずと手を回して、ささやくように言う。私は風邪ではない別の理由で体温が上がるのを感じた。

「風邪って、人にうつすとなおるって、言うよね」
「……うん」
「試してみたいんだ。その、うつしてもらっても、いいかな……」

 持って回った言い方。でも私は彼を笑うことは出来なかった。

「いいよ……。うつしてあげる……」

 声がかすれてしまう。

 彼はそっと私の肩を押して、私たちは横向きになって向かい合った。
 無言で私の頬に触れる。歯を磨いておいて良かったと思いながら、静かに目を閉じた。

 私のファーストキスは、碇くんの作ってくれたおかゆの味だった。



 碇くんの腕枕で眠って、一緒に晩ごはんを食べた。碇くんと一緒にいられて、何となく風邪なんてなおったような気分だったけど、やっぱり熱はあって――それは風邪のせいじゃないのかもしれないけれど――身体はだるかった。咳の出ない風邪で良かったと思う。もしそうなら、キスなんてしてもらえなかったかもしれないから。



「明日の朝、また来るけど」

 彼は洗い物を終えて言った。泊まって行って欲しいけど、そういうわけにも行かない。

「ちょっとでも調子が悪かったら、無理しないで休んだ方がいいよ。ちゃんとなおさないと、結局あとからぶり返したりするから」
「わかってる」

 わかってるよ。早く元気になって、デートしたいもん。

「そうだ。部屋の鍵はちゃんと閉めなきゃだめだよ。前みたいにガードの人がいるわけじゃないんだから」
「うん」

 でもね、碇くん。あたしがもし鍵を閉め忘れなかったら、碇くんは入ってこれなかったんだよ。

「それでさ、だから、その……」

 わかってる。言わなくてもいいよ。私は机の引き出しからスペアの合鍵を出して、黙って彼に渡した。彼は照れくさそうに口の中でもごもごと何か言って、少し乱暴に合鍵を受け取ってくれた。
 綾波の風邪がなおったら返すから、とは言わなくて、それが嬉しかった。

「じ、じゃあ、明日ね。ちゃんと寝るんだよ」
「待って」

 私はそう言って目を閉じた。

*****
 翌日。まだ熱があるから休んだ方がいいって、碇くんが私のおでこに触りながら言った。無理すれば行けるかなと思ったけれど、言われた通り休むことにした。一緒におかゆの朝ごはんを食べて、学校に行く碇くんを見送った。


 夕方、学校を終えた碇くんが来てくれて、卵とじうどんを作ってくれた。

「明日は学校に行けそうだね」
「うん」

 ありがと。碇くんのおかげだよ。そう言えばいいのだろうけれど、やっぱり言えなかった。

「一応薬は飲んで、早めに寝た方がいいよ」
「わかってる」

 風邪がなおりかけて少し元気になってくると、アスカのことが気になる。

 碇くんと私がこうしていることを彼女が知ったら、なんて思うだろう。それを考えると辛かった。アスカを悲しませたくなかった。

「あたし、寝るね」
「あ、うん……。じゃあ、電気消すよ」

 碇くんは少し寂しそうに言った。私、すごく嫌な女かもしれない。泣きそうになって、必死に涙をこらえた。
 彼が出て行った後、明かりは消したままベッドから起き出して、熱いシャワーを浴びた。

*****
 “学校、先に行くね”

 碇くんが様子を見に来てくれると辛いから、私はそうメールを打った。返事はなかった。やっぱり私が風邪をひいていて可哀想だったから、それで優しくしてくれただけなのかもしれない。残酷な優しさだけれど、それならその方がいい。思い出として、大事にしまっておけばいいから。



「あ、おはよ、レイ。もう風邪は大丈夫なの?」
「うん、もう平気」

 アスカがいつものように声をかけてくれる。碇くんはまだ来ていない。私もいつものように返事をしたけれど、彼女の目を見ることはできなかった。
 でもアスカは近寄ってきて、私の前の席に座った。

「シンジがさぁ、綾波、だいじょぶかなだいじょぶかなって、やたらと心配してたわ」
「……」
「バカシンジの奴、あんたのことが好きなのかなぁ」
「……」
「……レイ、あんたもシンジのこと、好きなのね?」

 ごめんね、アスカ。ごめんね。

「黙ってないで! はっきりしなさいよ!」

 アスカが大声を出した。

「好きなの! 碇くんのこと、好きなの! でも……でもアスカのことも失いたくないの!」

 私も大声になる。周囲が静かになったことに、私たちは気づいていなかった。

「どうしてよ……」

 アスカの瞳が潤む。私は涙をこらえることができなかった。

「どうしてよ! シンジなんて見ないで! アタシを見て!」
「……え゛?」
「レイ、好きなの! あんたのことが好きなの! 好きで好きで、どうしようもないのよ!」
「あ、あの、それって……」

 それって、もしかしてレズってことじゃ?


「「「「おおおお〜〜〜〜〜。」」」」


 周囲からどよめきが聞こえた。私たちは大声でとんでもないことを叫んでいたのに気づいて、真っ赤になった。


「おはよう……」

 碇くんの間の抜けた声が、教室の静寂を破る。最悪のタイミング。マスクをして、いかにもだるそうだ。

 ……あたしの風邪、うつった。

「あれ、みんな、どうしたの?」

 教室を支配する異様な雰囲気にようやく気づいたのか、彼はうろたえたように言う。

「シンジ君、風邪をひいてるなら家でゆっくりしてた方がいいよ。っていうか、君は今ここにいない方がいいね」
「え、どうして?」

 渚君が碇くんの肩を抱いて言う。

「どうしてもだよ。強いて言うなら、必要以上に話を複雑にしないため、かな。さ、帰ろう。送って行くよ」
「う、うん」

 耳元でそうささやきながら、渚君は彼を教室から連れ出そうとする。

「待って! 碇くんはあたしが看病してあげるの!」
「君にそんな資格はないよ。大切なシンジ君に誰が風邪をうつしたのかを考えればね」

 私はぐっと言葉に詰まる。アスカが驚いたように叫んだ。

「ちょっと待って! レイの風邪がシンジにうつったって事は、つまり……まさか……そういうことを……したって……」


「「「「おおおお〜〜〜〜〜。」」」」


 私が黙ってうつむいてしまったのをみて、また教室がどよめいた。

「さあシンジ君。僕に風邪をうつしてくれ」
「えっと……」
「碇くん! 迷わないで!」

 立ち上がった私にアスカがしがみつく。

「レイ! 行かないで! アタシを見捨てないで! アタシを殺さないで!」

 アスカの胸の膨らみが背中に押し付けられる。水泳の授業の前に更衣室で見た彼女の素敵な胸を思い出し、私は一瞬陶然となる。

「アスカ! 待って!」

 ヒカリが急に駆け寄ってきて、アスカの足にすがりついた。

「あたしね、あたしだって……アスカのこと……」
「え?」

 アスカは絶句した。

「カヲル! またんかい!」

 鈴原君の野太い声が教室に響く。
 まさか。いくらなんでも。

「カヲル……なんでワシの気持ちに気づいてくれへんのや……」

 目に光るものを一杯にためて、絞り出すように言う。

 相田君が眼鏡を朝陽にきらめかせつつ立ち上がった。
 嘘でしょ? お願い、嘘だと言って。

「なぁ、トウジ」
「なんや」
「トウジはどうして俺の気持ちに気づいてくれないんだ?」
「ケンスケよ……」
「……」
「お互い、初セリフがこれかい……」
「……正直、スマンかった」

 なんなのよ! このクラスは!


 そこからは連鎖反応だった。女子Aがヒカリに告白し、女子Bが女子Aにすがりつく。男子Aが相田君に抱きついたかと思えば、男子Bが男子Aにキスをする。どさくさにまぎれて女子Cと男子Cが人目もはばからず抱き合ってりもしているが、これは比較的まともだ。

 教室内はまさに修羅場だったけれど、私は思わず微笑んでいた。碇くんと目が合うと、彼も微笑んでいる。そう、この状況はまともじゃないのかもしれないけれど、前の世界よりはずっといい。たくさんの人が死んでしまったり、傷ついたりするようなことはないから。クラスのみんなだって――渚君のことはちょっと憎たらしいけれど――心の底から憎み合ったりしているわけじゃない。



 でもね、碇くん。

 これ、あなたの望んだ世界なの?



end


あとがき

えー、ども。tambです。red moonさんに投稿させて頂くのは、「綾波祭り」に続いて二度目になります。

作品中、クラスメイトのどよめきの部分に関しては、atu氏の某作品からタグごと引用させて頂きました。また、マヤさんが教育実習生というアイディアは――念のため仮名にしますが――AのO氏より頂きました(全然使えませんでしたが)。記して感謝いたします。atuさんには許可もらってないけど、これが掲載されていればOKということだ(笑)。

それでですね。

……こんなオチかよ!!(激爆) 短編なのに伏線使い切れてねぇしよ!!
だからオレに学園物は書けねえって言ってんじゃねえかよっ!!(逆ギレ)
殺せ殺せさぁ殺せ


鋼鉄祭に戻ります→

tambさんのメアドです。→


管理人:結局同性愛に走ったか・・・覚悟はいいか?tambさん・・・


初出:2003年05月12日「red moon」
サルベージにあたり、掲載時のファイルを可能な限り使用しました。そのため、一部画像が表示されなくなっています。
ご了承ください。

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