夏に咲く花、濡れた光

written by tamb   


 一目見たその瞬間から好きになった、というわけではなかった。碇先輩にはレイちゃん先輩がいるって、その高校に入る前から知っていたから。
 きまぐれで軽音学部に入って、そこに碇先輩と、もちろんレイちゃん先輩もいたけれど、いつのまにかあたしの目は碇先輩のことを追うようになっていた。
 あたしは楽器なんか触ったこともなくて、そういう人は一ヶ月くらいの間に自分の担当楽器を決めればいいことになっていた。
 楽器が弾けるという人もそれなりにいて、同じ学年で例えばギターだったりボーカルだったりがやたらといても仕方がないから、未経験者で特にこれが弾きたいという楽器のない人は、必然的に余ったパートを選択することになる。あたしの場合はそれがベースだった。碇先輩と同じパートだった。
 今にして思えば先輩のベースはあまり上手ではなかったかもしれない。クラシックの素養が強すぎるように思うのだ。先輩もそれを意識していたようで、いろいろなロックっぽい奏法を練習していたけれど、成功していたとは思えない。むしろスタンダードなジャズとかの方が向いていたような気がする。
 でもその頃のあたしには、碇先輩の演奏技術は神のように思えた。
 パート別の合同練習で先輩はあたしたちによく言っていた。演奏技術は必要で、それは磨かないといけない。でもそれは練習すれば身につく。本当に大事なのは気持ちだって。
 レイちゃん先輩のキーボードはとてもシンプルで、素人目にも上手とは思えなかった。高校に入ってから始めたって聞いたし、子供の頃からピアノを習っていた人たちに混じればそれは当たり前だった。
 でも唄は素敵だった。碇先輩の奏でるベースラインに上手に乗った歌声を聞いていると涙が出た。気持ちが大事だっていう碇先輩の言葉の意味が、とてもよくわかった。ベースが音楽を支えているということも。碇先輩がレイちゃん先輩を支えていた。

 碇先輩を目で追うと、どこかに必ずレイちゃん先輩がいた。レイちゃん先輩は碇先輩を見ていたし、碇先輩はレイちゃん先輩を見ていた。あたしはその視界の中には入れなかった。

 レイちゃん先輩がうらやましかった。レイちゃん先輩をうらやんだ。レイちゃん先輩みたいに素敵に笑えたら。レイちゃん先輩みたいにきれいだったら。レイちゃん先輩みたいに優しくなれたら。レイちゃん先輩みたいに素直になれたら。
 レイちゃん先輩みたいに。レイちゃん先輩みたいに。レイちゃん先輩みたいに――。
 レイちゃん先輩なんていなければいいのに。
 そんな風に思ってしまう自分が嫌いだった。
 とてもとても嫌いだった。



「モトミちゃん……」

 部活に出るのがつらくて帰りかけたとき、聞きたくない声が聞こえた。あたしは大きく深呼吸をして振り向き、精一杯の笑顔で言った。

「あ、先輩。部活はどうしたんですか?」
「モトミちゃん、碇くんのこと、好きなのね?」

 先輩はあたしの言葉なんか耳に入らないみたいにそう言った。その顔はまるで能面みたいに表情がなかった。いつものレイちゃん先輩とはまるで別人みたいだった。アイスドール。あの戦争の前、レイちゃん先輩がそう呼ばれていたって聞いたことがあったのを思い出した。

「どうしたんですか、急にそんなこと」
「あなたの方が、私なんかより碇くんにふさわしいと思う」
「……先輩?」
「あなたの方が、私なんかより素敵に笑える。素直で、優しくて、可愛くて」
「先輩、いったい何を――」
「碇くんのことを考えたら、碇くんのためを思ったら、私よりあなたの方がいい。その方が碇くんはきっと幸せになれる。碇くんがあなたを選ぶならそれが……でもね……」

 レイちゃん先輩は急に顔を歪め、大粒の涙を流した。

「碇くんだけは、どうしても渡せない。何があっても、私の命を取られても、碇くんだけは渡せない。碇くんじゃないとだめなの。お願い……」

 あたしはレイちゃん先輩に一歩近づき、真っ直ぐにその濡れた瞳を、紅い瞳を見つめた。

「……先輩。先輩もわかってると思うけど、碇先輩ってとっても素敵です。優しくて、かっこよくて、思いやりがあって」
「……」
「だからこの先、こんなことは――碇先輩のことが好きって女の子が出てくるなんてことは、いくらでもあります。あたしくらいの女が出てきたくらいでいちいち泣いてたらダメです。身体が持たないですよ。ほら、涙を拭いてください。可愛い顔がだいなし」
「私は……」
「こういう時にはもっと強くて悪くならなきゃダメです。選ぶのは碇先輩だとか、誰かの方がふさわしいとか言ってたらダメですよ。あたしの男に手を出すんじゃないよくらい言ってください」

 レイちゃん先輩は伏せていた顔を上げ、あたしを見た。

「ほら。言ってください」
「……私の碇くんに、手を出さないで」
「あたし、碇先輩が好きです。でもレイちゃん先輩のことも好き」
「……」
「碇先輩が先輩のことを選んだ理由、とってもよくわかります。先輩が、碇先輩じゃないとダメなんだって思う気持ちも。先輩と競争しようなんて思わないです。でも……」

 今度はあたしが涙を流す番だった。

「見るくらい、いいですよね?」
「碇くんを好きでいることが誰かを不幸にするなんて、考えたこともなかった。私は……私は碇くんのこと、好きでいていいの?」
「どうしてそんなこと言うんですか? そんなの当たり前じゃないですか」
「私……ごめんね」
「謝らないで!」

 あたしは大声を出した。

「先輩は何も悪いことなんかしてない。謝ったりしたらいけないんです。そんなことじゃ先輩は碇先輩を幸せにできない。あたしは碇先輩をレイちゃん先輩に譲ったわけじゃないんです。競争しないって決めただけ。でももし先輩が碇先輩を幸せにできないって思ったら――あたし、碇先輩を奪いに行きます。……先輩。先輩は、碇先輩を幸せにしたいんでしょう?」
「……私は、碇くんを幸せにしたい。私が碇くんを幸せにしたい」

 はっきりと頷くレイちゃん先輩に、あたしはハンカチを差し出した。

「先輩、顔がボロボロですよ」

 あたしは涙を拭くレイちゃん先輩の髪の毛を整えた。

「ちゃんとした顔になって、部活に行きましょう。碇先輩が心配しますよ」
「……そうね。ありがとう」
「いえ」
「ハンカチ、洗って返すから」
「碇先輩に洗ってもらってもいいですよ」

 あたしは笑顔で言った。レイちゃん先輩も笑顔になって、あたしを抱きしめてくれた。

「私の碇くんに手を出したら」

 悪い女になって下さい、レイちゃん先輩。こういう時は、こういう時だけは、悪女になってもいいんです。

「めちゃめちゃにいじめちゃう。酷いんだからね」




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