髪を切ろうと思った。
それは特別な意味があるわけではなくて、ただ伸びたと思ったからだ。
でも、今までのように赤木博士に切ってもらうのではなく、美容院に行こうと思った。どうしてそう思ったのか、自分でも良く分からない。
ネルフ内の美容院には行きたくなかった。他のどこに美容院があるか、どんな美容院に行けばいいか分からない。分からなければ聞くしかない。赤木博士に聞けばいいのだろうが、それはしたくなかった。聞けば、たぶん切ってもらう事になる。クラスのみんなにも弐号機パイロットにも、そんなことは聞きたくない。
葛城三佐にも聞きたくなかった。それは……たぶん、碇くんと一緒に住んでいるから。
髪を切るのは、何も特別なことじゃない。葛城三佐が碇くんと一緒に住んでいるのは、私には関係のないこと。なのに私は、どうしてこんなにこだわるのだろう。
「伊吹二尉……」
聞く相手はこの人しか思い当たらなかった。
「どうしたの?」
私が伊吹二尉に話し掛ける事はほとんどない。もしかすると初めてかもしれないと思う。そう思うと、少し聞くことがためらわれた。
「どうしたの?」
彼女は少し微笑んで、もう一度私に聞いた。
優しく、柔らかな微笑み。たぶん私は、持っていないもの。この人もヒトなんだと思う。表情が硬くなるのが、自分でも分かる。それでも私は聞いた。
「髪は、どこで切っていますか」
「あたし?」
「はい」
「いつも行ってる美容院、今日行くつもりなんだけど、一緒に行く?」
伊吹二尉は私の硬い声を気にする風でもなく、さりげなく近づいて私の髪に触れながら言う。それは不快な行為ではなかった。一人で行きますと答えれば良かったのかもしれないが、はい、と答えた。
一緒に行こうと言った、このヒトの気持ち。
「あなたにこんなこと聞かれると、なんだかほっとするわ」
「……」
「変な意味じゃないのよ。ほら、やっぱり女の子だもん。可愛くしたいわよね」
可愛くしたい。私はそう思ったのだろうか。
何のために?
誰のために?
仕事を終わらせてくるからちょっと待ってて、と言って走って行く伊吹二尉の後姿を見ながら、心の底に湧きあがる想いをこらえていた。
「こんにちわ」
「あ、伊吹さん、お待ちしてました」
伊吹二尉に店の女の人が声を掛けた。
「こちらの方ですね」
その人が私を見ながら言う。
「そうなの。可愛くしてあげてね」
「う〜ん、彼女、これ以上可愛くするのは難しいわねぇ」
二人は小さな笑い声を上げる。私は少し疎外感を覚えた。
その女の人はもう一人別の女の人を呼んで、この人が担当だからよろしくねと言った。
「えーと、お名前は?」
その人が私をカウンターの方に呼んで、聞いた。
「綾波です」
「じゃ綾波さん、ここに名前と住所を書いてください」
私は言われるままに書き、それからネルフのIDカードのようなカードにも名前を書かされた。会員証だと言う。こうして流されるままに、私はここの会員になった事になる。何か意味があるのだろうか。
ここに座ってくださいと言われて、私はそれに従う。
「きれいな髪ね」
女の人は私の髪を解かしながらそう言った。私は黙っている。何も言うことがない。
「こういう髪質って傷みやすいから、ちゃんと手入れしないとダメよ」
「……」
「男の子にもてるでしょ。綾波さん、可愛いし」
黙っている私に、彼女は話し続ける。
「じゃあ綾波さん、今日はどういう風にする?」
「……このまま、3センチくらい切って下さい」
他に言うことはない。
「はい。……じゃあ、後はあたしにおまかせでいいかしら?」
「……はい」
「…レイヤーで……軽くシャギかな……」
その人はそう呟いて、ハサミを持った。
しゃきしゃき。耳元で髪の毛を切る音がする。赤木博士に切ってもらう時とは違って、その音はとても心地よく響く。私は目を閉じた。
携帯が鳴り、すぐに切れた。ひとこと断って、身体に巻きつけてあるビニールの幕のようなものをはぐり、携帯を出した。赤木博士から、本部に来なさいというメールだった。ただし、緊急ではない。緊急ならば、メールではなく電話が鳴るはず。それに私の居所を知らないわけがない。
「大丈夫?」
「はい」
続きをはじめてもらう。
いつもなら緊急ではなくてもすぐに出頭する。でも今は、この心地よさに浸っていたかった。
髪の毛を洗ってもらい、ドライヤーで乾かして、それからもう少しだけ髪を切って、終わりだった。
「はい、お疲れ様でした。うん、可愛いわよ」
私は黙って目を逸らす。
「ちゃんとブローすると髪の毛につやが出るから、めんどくさがらないでした方がいいわよ」
ウインクをしながら、その人は言った。
「ブロー……」
「こうやって」
さっき私の髪の毛を乾かしていた時のような仕草をした。私はこくりとうなずく。
ブローすると、髪の毛につやが出る……。
「あの……」
カウンターでお金を払ってから、私は思い切って声を出した。その人は小首をかしげて私を見る。
「ちゃんと手入れって、どうしたら……」
「毎日シャンプーしてリンスして、トリートメント。ブラシもちゃんとして、でもしすぎない、くらいかな」
「トリートメント……どんなのがいいですか」
「そおねぇ……」
カウンターの下からトリートメントを取り出して、私に手渡した。
「これ、うちで使ってるんだけど、いいと思うわ」
「……」
「プレゼントしてあげる。もし良かったら、次からはうちで買ってね」
「はい」
そう答え、少しだけ頭を下げて振り向くと、伊吹二尉が待っていた。
「うん、可愛いわよ」
「……」
何て答えたらいいか分からない。少し頬が熱い。
「ちゃんとお礼、言いなさい。トリートメントの」
「あ…、ありがとうございます」
店の人は小さく手を振って、またね、と言った。
「ばんごはん、食べてこっか」
店を出て伊吹二尉にそう言われ、はい、と答えかけて、呼び出しの事を思い出す。
「本部に戻らないと…」
「え、こんな時間に? 呼び出し?」
「はい」
「そう……。大変ね……」
伊吹二尉は暗い表情になり、黙ってしまった。
ホームで挨拶をして別れ、私は本部に向かう。明日学校で、一番に碇くんに髪を切った私を見てもらいたかったけれど、でも仕方がない。
「お入りなさい」
赤木博士の部屋をノックし、返事を待ってドアを開けた。翌日のテストに関する資料を渡されて、それで終わりだったが、下がってもいいと言われないのでそのまま待っていた。
「レイ、あなたも女の子ね」
答える必要のない言葉。だから黙っていた。でも赤木博士の表情は、今までに見たことがないくらい柔らかだった。
「素敵よ」
「……」
「わざわざお疲れさま。あがっていいわ」
私は、失礼します、と言って部屋を出た。
「あらレイ、こんな時間に呼び出し? あ、髪切ったのね」
葛城三佐に廊下で声を掛けられ、私は黙って頷いた。
「素敵よ」
笑顔でそう言ってくれる。また少し頬が熱くなった。
部屋に戻って鏡の前に立ち、自分の姿を見た。
自分の顔、自分の髪、自分の身体。
私、素敵なのかな。可愛いのかな……。
自分の姿をこんな目で見るのは、はじめてだと思う。
鞄からトリートメントを出して、バスルームに置いた。
翌朝、いつもよりも早起きをして、シャワーを浴びて髪を洗った。説明書きを読んできちんとトリートメントをし、念入りにブローをした。どうしてこんな事をしているのだろう。必要のないこと。でも、したいと思う。
「おはよう、綾波」
少し遅れて学校につくと、もう碇くんと弐号機パイロットは来ていた。
「あら、ファースト」
弐号機パイロットが私を見て、意外そうな顔をする。それから少しだけ笑顔になって、すぐに不機嫌そうな顔になった。碇くんは私たちを交互に見て、困っている。私を見ても何も言わない。
私は碇くんの目を見ることが出来ない。
弐号機パイロット。
彼女がなんでもない時に碇くんを見つめている事があるのを、私は知っていた。そんな時の彼女は、すごく優しい表情になっている。可愛いと思う。
碇くんと弐号機パイロット。この二人は仲がいい。私は自分の心が冷たくなっていくのを感じた。私には関係のないことなのに。
「ファースト、髪、切ったのね」
シンクロテストを終えた後のロッカールームで、弐号機パイロットが言う。私が頷いて、それだけで会話は終わりだった。
「お先に」
私は手早く着替えて、ロッカールームを出た。碇くんはいなかった。
翌朝、昨日と同じようにトリートメントをし、念入りにブローをして学校に向かった。碇くんはいつもと同じように、おはよう、と声を掛けてくれる。でも他には何も言ってくれなかった。赤木博士も葛城三佐も、私が髪を切ったのに気づいて、素敵よ、と言ってくれた。弐号機パイロットも気づいた。でも碇くんは何も言わない。
鏡に向かって、自分の姿を見る。
弐号機パイロットが碇くんを見ているときのような、優しい笑顔を作ってみる。
ぎこちない、不自然な笑顔が鏡にうつった。
私は素敵なんかじゃない。可愛くなんかない。弐号機パイロットに比べれば……。
涙がこぼれそうになり、必死にこらえた。悲しくもないし、嬉しくもない。泣く事に意味はない。だから泣いてはいけない。涙をこらえている鏡の向こうの自分が、ひどく滑稽に見えた。
次の日も、意味のない事と思いながらもトリートメントとブローをした。必要がなければしなければいいのに、それでもやめる事が出来ない。
いつもより早めに学校につき、自分の席に座る。碇くんたちはまだ来ていなかった。心を閉じて、本を開いた。
「おはよう」
弐号機パイロットが教室に入ってくるのが、視界の隅に入る。一人だった。
碇くんはどうしたんだろう。
時間が過ぎる。
遅刻寸前の時間になった頃、碇くんが教室に入ってきた。私は本を読み続ける。早くチャイムが鳴らないかなと思う。
「あっ」
碇くんが驚いたような声をあげて、私のほうに歩いてくる。前の席に座った。私は彼の方を見ることが出来ない。
「髪、切ったんだね」
碇くんが話し掛けてくる。碇くんが、私が髪を切った事に気づいた。ちらりと目線を上げると、優しい笑顔が飛び込んできた。私はこくりとうなずき、すぐにまた目線を落とした。でも本なんて読んでいられない。頬が熱い。
「似合うよ」
「髪型は、変えてない…」
「でも、可愛いよ」
「あ、ありがと…」
彼の目を見られない。自分の心臓が早鐘を打っている事に、私はとまどう。
始業のチャイムが鳴り、彼が自分の席に戻る。チャイムなんて鳴らなければいいのにと、私は思った。
テストの後、碇くんの家でいっしょに食事をし、帰りは送ってもらった。
「じゃ、綾波、また明日」
「うん」
「おやすみ」
「おやすみなさい」
帰っていく彼を見送る。その後姿に、そっと手を振ってみた。彼には気づかれないように。
部屋に戻り、鏡に向かって自分の姿を見る。
碇くんが、可愛いって言ってくれた……。
髪を切った私を見て、可愛いよって言ってくれた。
私は微笑んでいた。
ぎこちない笑顔だけれど、そんなに変じゃない。
髪の毛、早く伸びないかな……。