「明日の朝さ……ってもう今日だけど……」
いつもより遅くなった実験の帰り。ミサトの運転する車の後部座席で、シンジはレイに向かってそうささやいた。
「迎えに行くよ。このまま帰って普通に寝たら、寝坊しちゃいそうだし」
レイは黙ったまま頷いた。
いつになく長時間に及んだ実験に、二人は疲れていた。
通常、実験は長くとも数時間で終了する。今日のように遅くなるのは珍しいことだった。
シンクロという技術を用いたマンマシンインターフェイスの可能性を探ることを目的とした一連の実験は、人類の存亡を賭けて闘っていた――少なくとも表向きは――頃とは違い、ハードなものではなかった。
将来的には民間への技術転用を視野に入れているとはいえ、現時点ではまだ先の見えない純粋な基礎研究に過ぎなかった。特別に選ばれたわけでもない、ごく普通の人間と何かを――例えば第七世代有機コンピュータを――シンクロさせてコントロールするというのは、それほど容易いことではない。だがリツコをはじめとしたスタッフにも焦りなどはなく、研究を楽しんでいるように見えた。
元チルドレンにしてみれば、単に今までと同じようにシンクロすればいいだけだった。しかも実戦時とは違って深度は比較的浅く、神経への負担もごく軽いもので済んでいた。学校の定期考査や行事の時は当然のように休みがスケジュールされているし、体調の悪い時なども休んで構わない。気楽なものだ。
そして何よりも、決して安くはないバイト代が出る。あの一年間の埋め合わせのつもりかもしれない、とシンジが言うほどだ。もっともアスカは、こんな程度で埋め合わせられると思ったら大間違いだと主張するが。
でも、こうしてみんなで生きていられるのだから、とレイは思う。それだけで十分に幸せなのだろう。
実験はローテーションを組んで、主に二人ペアで行われる。レイは、カヲルと一緒の時は――アスカに気を遣うという意味もあって――ほとんどは真っ直ぐに帰るが、シンジと一緒の時は寄り道をしてお茶を飲んだりする。彼が部屋に来てくれることもあった。シンジと二人で過ごす数時間はとても楽しかった。
アスカもよくレイの部屋に来る。時には泊まって行くことさえあった。
パジャマに着替え、お菓子をつまみながら、アスカは実によく喋った。話題はクラスメートの男女関係の噂話からファッション、アイドル、人気の音楽と実に豊富で、ほとんど相槌を打つだけしかできないレイもとても楽しかった。気を遣ってもらっている、と思う。だが不思議とカヲルの話は出なかった。
いいのよ、アイツのことは――。
レイが水を向けてもアスカはそう言うだけだ。だがそんな時の彼女は少し頬が赤くなっていて、とても可愛いと思う。確かに二人は、例えばクラスのみんなの前ではあまり仲良くしていない。カヲルはごく普通に振る舞っているが、アスカが冷たくしているように見える。だが二人きりで街に出ている時には――レイは何度か偶然見かけたことがあった――とても仲良さそうに腕を組んで歩いていたりする。そんな時のアスカはとても素敵な笑顔だった。
なぜクラスでも仲良くできないのかはわからない。だが二人は確実にお互いを想い、信頼しあっている。時には少しくらい冷たくしても、二人の本質的な関係は揺るがない。レイはそんな二人がうらやましかった。
自分はどうなのだろう、とレイは思う。
彼女はシンジのことが好きだった。だがシンジの気持ちはわからない。シンジに自分の気持ちが伝わっているとも思えない。好きだと言ってもらったことはないし、自分から言ったこともない。
言葉にしなくても気持ちは伝わる、とも思う。そう思ってはいても、シンジが他の女の子と楽しそうに話をしているのを見ていると悲しくなった。それはシンジの本当の気持ちがわからないからだ。
彼の気持ちが知りたい。
好きです、と言ってしまえばいいのかもしれない。だがシンジが自分のことを何とも思っていなかった時のことを考えると怖い。傷つくのが怖い。自分は一人ぼっちなんだと知るのが怖い。勇気が出ない。
それなら遠くから見守って、彼の幸せを祈っているだけの方がいい。
でも、彼の傍にいたい――。
アスカとカヲルは、どうやって気持ちを伝えあったのだろう。どうやって勇気を出したのだろう。
アタシから好きですって? なんでこのアタシがそんなバカなこと言わなきゃいけないのよ――!
彼女はそう言った。ではカヲルの方から言ったのだろうか。だがアスカは少し考えたあと、小首を傾げながらこう答えた。
そういえば、言ってもらってないわね――。
言葉なんかなくても通じ合えてるんだ、とレイは思う。
キスは、もうしたの?
そりゃあ……って、そんなこと言えるわけないでしょ――!
耳を真っ赤に染めたアスカはとても幸せそうに見えた。自分もそんな風に赤くなってみたかった。
「おやすみなさい」
そう言ってレイは車から降りた。
また明日。迎えに行くから――。
彼女に向かって、シンジはそう言った。その言葉は嬉しいと思う。シンジと一緒にいれば幸せな気持ちになれる。それ以上何を望むというのだろう。今までのことを思えばこれ以上の幸福など考えられない。だがレイは、自分の心の奥底にある想いにも気づいていた。
碇くんを独占して、独り占めにして、わたしも彼のものになって――。
軽くシャワーを浴びてから、パジャマに着替えてベッドに横になる。長時間に及んだ実験で神経は疲れているはずだが、明かりを消しても一向に眠りの精は訪れなかった。頭の中はシンジのことで一杯だった。
シンジは自分のことをどう思っているのだろう。彼ともっと通じ合いたい。言葉がいらないくらいに。アスカとカヲルみたいに。そのためにはどうしたらいいのだろう。いったい自分には何ができるのだろう。何かできたとして、自分はそれをしてもいいのだろうか。それは彼にとっても幸せなことなのだろうか……。
そんな不安な気持ちは、時間が経つにつれて、もうすぐシンジに会えるという想いにかき消されて行った。
結局、眠れないまま朝になった。カーテンを開くと朝陽が眩しかった。朝六時前。シャワーを浴びようか迷う。だがシンジが来るにはまだ時間があるだろう。シャワーは彼が来る直前に浴びて、身体をきれいに磨いたすぐ後に会いたかった。もしシャワーを浴びている最中に彼が来たとしても、別に困ることはない。レイはその場面を想像し、シンジの慌てた顔を思い浮かべて微笑んだ。
朝ごはんをどうしようか考える。もしシンジが食べないで来るなら一緒に食べたいと思う。だがシンジも疲れているはずだ。寝坊して遅刻寸前になるかもしれない。そうなったら食べている時間はないが、どちらにしてもシンジが自分だけ済ませて来ることはないように思えた。ならば準備だけはしておいてもいい。食べる時間がなかったら自分も朝食を抜いて、用意したものは夜にでも食べればいい。
彼女はベッドから抜け出し、米を炊く用意をはじめた。まだご飯の残りはあるが、炊き立てを食べて欲しかった。
炊飯器のタイマーを三十分後から炊き始めるようにセットする。二人でゆっくり朝食を食べても学校には十分間に合うはずだ。おかずは何にしよう。
冷蔵庫の扉を開けて考えていると、インターホンのチャイムが鳴った。こんな朝早く、いったい誰だろう。ドアスコープから外を覗くと、シンジが立っていた。レイは急いで鍵とチェーンロックを外し、ドアを開いた。
「ごめん、こんなに早くに。起こしちゃったかな」
パジャマ姿のレイを見て、シンジが済まなそうに言う。
「大丈夫。起きてたから」
「なんだか眠れなくて。少し早いけど、綾波に会いたいなって思って……」
シンジは少し口ごもった。どうして口ごもるんだろう、とシンジの口元を見つめ、レイはまだ自分が洗面を済ませていないことに気づいた。シャワーは後回しにするとしても、歯くらいは磨いておきたかった。
「わたし、歯を磨いて来るから」
「あ、うん」
「座って待ってて」
「わかった」
シンジは少し赤くなった。
入念に歯を磨き、顔を洗い、髪をとかしてから部屋に戻ると、シンジはベッドにもたれ掛かって目を閉じていた。
「あ……」
レイの気配に気づいて目蓋を開く。
「ごめん。急に眠くなっちゃって」シンジは目をこすりながら照れたように笑った。「なんだか昨日は眠れなくてさ」
「わたしも、眠れなかったわ」
シンジのことを考えていたら朝になった、とは言わなかった。
「朝ごはん、まだだよね。何か作るよ」
「わたしが作るから」立ち上がろうとするシンジを制してレイが言う。「碇くんは寝ていて。ベッドを使ってもいいわ」
「ベッドを……?」シンジが意味を掴みかねたように言う。振り返って一瞬だけベッドを見つめ、すぐに向き直った。
「や、やっぱり僕が作るよ」
「いいの。わたしに作らせて」
「僕が作るよ。何かしてないと寝ちゃいそうなんだ」
シンジはそう言って立ち上がり、キッチンに歩きかける。だが足元がふらついた。レイが慌ててシンジを支えようとする。だが支え切れなかった。
「うわっ!」
「きゃっ!」
小さな悲鳴が重なり、シンジがレイを押し倒すような格好で、二人はベッドに倒れ込んだ。
シンジはレイの上でじっと動かない。レイは彼の鼓動が早鐘を打っているのを感じていた。恐らく自分も同じだろう。
決して忘れることのない記憶。あの時と同じだった。
あの時と違うのは、自分がパジャマを着ていること、胸を掴まれてはいないこと。そして、自分の上にいるシンジの重さを心地いいと感じていること。
動かなければ何も変わらない――。
レイは不意に思った。なぜシンジはこんなに無理してまで迎えに来てくれたのだろう。
――迎えに行くよ。
――綾波に会いたいなって思って……。
シンジの言葉を思い出す。
歯を磨くと言ったら赤くなってしまったシンジ。彼はその時、レイの口唇を見つめていたのではなかったか。
ベッドを使ってと言われ、慌てたシンジ。その時彼は、レイの匂いを想ったのではないだろうか。
碇くんは動いているのかもしれない。脅えた猫のように、でも必死になって、勇気を振り絞って。ただわたしが気づかなかっただけで――。
「ご、ごめん!」
シンジが急に叫び、跳ね起きようとする。レイは反射的に腕を回し、彼の背中にしがみついた。今の彼女にできることはこれしかなかった。彼の気持ちに応えるために、こうするべきだと思った。
……こうしたかった。
シンジのぬくもりを離したくなかった。
「……綾波?」
「いいの」レイはかすれた声で言った。「しばらく、こうしていて」
シンジの体温が上昇するのがわかる。やがて彼は、おずおずとレイの首の下に左手を回した。右手は細い髪に触れる。
もう二人の心臓は落ち着きを取り戻していた。どうして今までこうならなかったのか不思議なほど、二人は自分たちの姿をごく自然に受け入れていた。
「綾波……」静かな、お互いの体温だけを感じた長い時間の後、シンジがそっと口を開いた。「学校、遅刻するよ」
「……わたし、風邪をひいたみたい。身体が熱っぽいの」
レイが腕に力を込めた。
「……そういえば、僕もだ」
「今日は休みましょう。みんなにうつしたら、悪いわ」
「そうだね……」
二人は目を閉じた。
「碇くん……」シンジの背中をそっとなでながら、レイがくぐもった声で言う。
「制服が、ごわごわする」
「うん……」
「スウェットをかしてあげるから、着替えて。上から二番目の引き出しに入ってるわ」
「わかった。じゃあ借りるよ」
シンジがレイから離れ、スウェットを持って戻る。それをずっと目で追っていたレイは、シンジがベッドに座って着替えはじめても、その姿をずっと見つめ続けていた。
背中が広い、と思う。それは、クラスの女友達のような線の柔らかな背中とは違った。ずっと見ていたくなるような、触れたくなるような、不思議な背中だった。
指先が器用に動き、制服のボタンを外していく。その細い指に触れて欲しかった。白い腕は少し華奢だけれど、しっかりと引っ張ってくれそうな気がした。
「毛布、かけよう」
着替えを終えたシンジが、そう言って手を差し出す。我に返ったレイは、その手に掴まって上半身を起こし、毛布にもぐりこんだ。
そのまま、レイに手を引かれるようにしてシンジが隣に入る。彼女は待ち兼ねたようにその胸に顔をうずめた。
「やっぱり、少し小さいや」シンジはレイの頭をなでながら、優しい声で言った。「今度は、自分のを持ってくるよ」
彼が静かに、また一歩前に進んだ。
キスもしてくれない。抱き締めるだけで、触って来るわけでもない。
でもそれで良かった。少しずつ進めばいい。心さえ通じ合っていれば、今はそれだけでいい。
シンジに頭をなでられながら、レイは自分が眠りに落ちて行くのを自覚した。
綾波、好きだよ――。
シンジが耳元で、そうささやいてくれたような気がした。
目が覚めたら、好きだと言おう。キスもしてもらおう。
そして、とても幸せだと伝えよう。
生まれてきて、あなたに会えて、私はとても幸せです。
彼にそう伝えよう。