「ねぇ、ファースト」
「なに?」
「どうしてあんたはお肉を食べないの?」
今日のメニューはシンジの作ったすき焼きだった。食事は朝昼晩を問わず常にシンジが作る。食事当番とは何ら関係なく。そしていつものことなのだが、レイは肉だけは全く口にしていない。
「肉、嫌いだもの」
「だからなんで嫌いなのかって聞いてんのよ」
「おいしくないもの」
「お魚はあんなに好きなのに」
「肉とお魚は味が違うわ。お魚はおいしいもの」
レイがそっぽを向いて答える。アスカはため息をつき、話の方向を変えることにした。
「ねぇファースト。もうすぐクリスマスよね」
「そうね」
「クリスマスなのに七面鳥も食べないなんて、盛り上がりに欠けると思わない?」
「思わないわ」
「ケン○ッキーも食べないの?」
「食べない。おいしくないもの」
「それじゃ盛り上がれないわ」
「ツリーの飾り付けに力を入れれば、十分盛り上がれるわ」
アスカは再び話の方向を変えた。
「ねぇ……」
「なに?」
「アタシたちは中三で、春になったら受験なのよ。受験勉強も追い込みなのよ。お肉くらい食べないと、受験戦争に勝ち残れないわよ」
「受験と肉は関係ないわ」
「シンジが心をこめて作ってくれた料理なのよ。悪いと思わないの?」
レイはちらりとシンジを見る。苦笑いしているその表情は、レイの目には優しい笑顔に映った。碇くん、ごめんね、とレイは心の中で言った。いくら碇くんの作ったお料理でも、肉だけは食べられないの。
「おいしくないもの……」
うつむいて、小声でレイが言う。
「ファースト! 強情ね!」
「別に問題ないわ。セカンド」
顔を上げ、その紅い瞳で真っすぐにアスカを見つめて言う。無論、その程度でひるむアスカではない。レイが肉を嫌うが為に、葛城家の食卓にトンカツ焼き肉ステーキの類が並ぶことはほとんどない。アスカの大好きなハンバーグでさえもだ。要するに、アスカにはそれが我慢ならないのだった。
「何よ! ファースト!」
「なに、セカンド」
「ファースト!」
「セカンド」
「やめなよ、二人とも」
火花を散らし始めた二人を見て、シンジが慌てて割って入る。
「嫌いなものは無理して食べることないよ。タンパク質は魚や豆腐からでも取れるし」
「シンジも甘やかし過ぎなのよ! 若いんだから何でもバランスよく食べなきゃだめよ!」
「明日はアスカの好きなハンバーグにするからさ」
見透かされてる――。
アスカはぐっと言葉に詰まり、ミサトに助けを求めた。
「ミサトも何か言ってよ! ビールばっか飲んでないで!」
にやけながら三人の漫才を聞いていたミサトは、突如として自分に矛先が回って来てビールにむせた。
「そ、そうねぇ。やっぱ好き嫌いはない方がいいわねぇ。いろいろ食べた方が美人になれるし」
レイが反応した。
「美人……」
これだ、とアスカは思う。
「そうよ。お肉食べないと美人になれないのよ。アタシ一人で美人になっちゃうわよ。それでもいいの?」
それは困るとレイは思う。しかし肉は不味い。でも美人にはなりたい。とはいうものの肉は食べたくない。かといって美人になる道をむざむざドブに捨てるのもいかがなものか。しかしながら……。
レイは激しく葛藤する。アンビバレンツ。
レイは今のままでも十二分に可愛らしく美人であるが、シンジは美人になりたいという彼女の願いを叶えてあげたいと思った。肉を食べれば美人になれるというものでもないと思うが、気は心である。美人になると思って食べるとそうなるかもしれない。彼には今よりも更に可愛くなったレイの姿は想像できなかったが、脈拍が激しく上昇するのを自覚した。
「と、とりあえずさ、綾波でもおいしく食べられるように僕が何か工夫してみるよ。それでどうかな」
シンジが妥協案を出す。アスカは期待を込めてレイを見る。レイは自分の世界で葛藤を続けている。
「お風呂、入るから」
好き嫌い放談に飽きたミサトはそう宣言した。
レイはなぜ肉が嫌いなのか。シンジは考える。おいしくないと思うということは、少なくとも一度は食べたことがあるはずだ。いったい何を食べたのか。
「ねぇ、綾波」
シンジの甘い声に、レイは葛藤を中断して顔を上げる。レイにとってシンジの声はほとんど全て甘い声である。
「お肉、食べたことあるんだよね?」
レイは無言で頷いた。
「何を食べたの?」
彼女は急に口元を押さえ、見る見るうちに青ざめて行く。
「思い出したくない……」
「わ、わかったよ、ごめん。もう聞かないから」
そんな二人を見てアスカは思う。
仲のおよろしいことで――。
しかし今のアスカにとっては、はっきり言ってそんなことはどうでもよかった。とりあえずシンジの手作りハンバーグを食べられれば、当面は満足なのである。
明日、学校でヒカリに愚痴を聞いてもらい、カヲルに八つ当たりをしようと思う。
――日曜の朝。
アスカとレイは同じベッドの中で惰眠を貪っていた。手をつないでいるのはなぜだろうか。
サードインパクト以降、レイは葛城邸に入りびたりである。月に一回も自分の部屋には帰らない。用事がないのである。
最初に葛城邸に泊まった時、レイは何のためらいもなくシンジの部屋で眠ろうとしたのだが、ミサトもアスカもさすがにそれは止めた。シンジですら困惑の表情を浮かべていたのがレイには不満であったが、ミサトにこんこんと説教され、渋々納得したのだった。
すったもんだの末、その夜はアスカと共に寝ることになった。それ以来、アスカの部屋はレイの部屋でもある。
「ん〜」
寝ぼけた声を出し、目をこすりながらアスカが身体を起こす。すかさずレイがベッドの中にひきずり戻した。
「もう少し……」
「お昼から用事があるの……」
アスカはくぐもった声でそう言いながらも目を閉じる。
この状況、二人がベッドの中で何をしているのか、読者的にも興味津々だと思われる。作者としても詳細な描写をしたいところではあるが、残念ながらストーリーとは何ら関係がないため割愛せざるを得ない。
数分後、アスカは気力を振り絞り、レイを振りほどいて起き上がった。
「起きなくっちゃ……」
レイも上体を起こす。
「アスカは、今日は渚くんとデート?」
「デートなんてのじゃないわよ。買い物に付き合ってもらうだけ。……レイはシンジと遊びに行かないの?」
「碇くん、今日は司令に会いに行くって、言ってた」
「碇司令のところに? 何しに?」
「わからない……」
アスカがベッドから降り、着替えはじめる。つまり、レイもそうなのだが、着替えないと洗面にも行けないような姿で眠っていたということである。どんな姿であったか。描写したい。しかし断腸の思いでこれを省略する。ストーリーとは無関係なのである。
「ねぇ、アスカ……」
レイも着替えをはじめながら言う。
「なあに。レイ」
「どうして二人で部屋にいる時はレイって呼ぶのに、学校ではファーストって言うの?」
「レイだって、学校じゃ惣流さんとかセカンドとかって言うじゃない?」
確かに、とレイは思う。二人は目を合わせて微笑みあった。少女たちには少女たちにしかわからない何かがあるのだろう。それは作者にも窺い知れない部分である。
美少女二人が微笑みあっている頃、シンジはゲンドウの元にいた。レイに得体の知れない肉を食べさせたのはゲンドウ以外にあり得ないと確信していたのである。
「父さん」
「どうした、シンジ」
「綾波にお肉を食べさせたこと、あるよね?」
「ああ。ある。それがどうした」
「何を食べさせたの?」
「霜降り極上松坂牛のレアステーキだ。血の滴るような、な」
ゲンドウは生唾を飲み込む。
「……いつ?」
「お前を呼ぶ四年ほど前になるか。思えばレイはあの時から少しずつ私を避けるように……」
ゲンドウは悲しそうな目で遠くを見つめた。
いくらなんでも小学四年生の女の子に血の滴るレアステーキは早い。肉嫌いになるのも無理はなかろう。
シンジはあきれ果ててそう言った。
「なぜだ。今でもそうだが、松坂牛は貴重品だ。しかも霜降り極上なのだ。私だから手に入れることができたのだ。それをレイは……レイは……私の気持ちも知らずに……」
私の気持ちもくそもあるかと、滝のように涙を流して崩れ落ちるゲンドウを見下ろしながらシンジは思う。
「どうなさったのですか、司令」
リツコがコーヒーを持って現れた。
ゲンドウはすがるような目でリツコを見上げる。
「シンジが私をいぢめるのだ」
「シンジ君、お父さんをいじめちゃだめでしょ」
「いじめてなんていませんよ。リツコさん」
「シンジ君……」
リツコは悲しげなため息をつく。
「どうしてお母さんって、呼んでくれないの……」
無理な話である。リツコだってゲンドウのことを司令と呼んでいたではないか。それともシンジの前だからか?
「赤木博士の言うとおりだ。母さんのことは母さんと呼ばねばならん」
「父さん」
「なんだ」
「父さんはリツコさんのこと、赤木博士って呼んでるの? リツコさんは父さんのこと、司令って?」
「それとこれと、何の関係がある?」
「関係はないけど、ちょっと聞いてみたくて」
「夫婦のことをあれこれ詮索してはいかん。そんなことはいい。どうだシンジ。私たちと一緒に住む決心はついたか」
またその話か。シンジはため息をついた。ゲンドウに会うと二言目にはこの話だ。これだからこの家に来るのは嫌なのだ。
「そうよ、シンジ君。親子なんだから一緒に住むのが自然だわ」
リツコが後押しをする。
「僕がここに来たら、ミサトさんもアスカも綾波も飢え死にしちゃいますよ」
「それなら、みんなで一緒に住むのはどうかしら。ミサトもアスカもレイも」
「そんな無茶な」
「何が無茶だ、シンジ。問題ない」
「問題あるよ!」
ミサトほどではないにしろ、リツコにしても料理はそう得意な方ではないし、何より仕事が忙しい。料理その他の家事一般がシンジ担当になることは、ほぼ間違いないと見てよい。最近はアスカやレイが料理の手伝いをしてくれるし、自分の分の洗濯もするようになったから一時期よりは大分楽になった。しかしあの二人がゲンドウの汚れ物を洗濯するとは思えない。料理にしても、実に六人分用意することになる。それを考えてシンジは憂鬱になった。
「問題ない。葛城三佐も含め、みな私の可愛い娘たちだ」
シンジは戦慄した。父さんはリツコさんには飽き足らず、ミサトさんやアスカや綾波まで手籠めにするつもりなのか。
――いくらなんでも、もう少し父親を信用してもいいかと思うが。
とにかくシンジは叫んだ。
「一緒になんて住めないよ!」
「なぜだ。なぜそうまで私を嫌う」
ゲンドウは再び怒涛のように涙を流した。
「シンジ君、そんな言い方はないわ。お父さんに謝りなさい」
「無理だよ! 同居なんてできないよ!」
「なぜだ。私が何をしたというのだ」
そりゃーいろいろとね。
リツコとシンジは、心の中で同時に突っ込みを入れた。
しかしリツコはそんなことは全く顔に出さずに言う。
「シンジ君、家族が一緒に住むのはいいものよ」
「そういう問題じゃないんだ! それにミサトさんもアスカも綾波も僕の家族なんだ!」
「あたしは家族に入れてもらえないのね……」
「だからそういうことじゃなくて」
「私も家族と認めてはもらえんのか。シンジ……」
「そういう問題じゃないんだってば!」
以下、不毛かつ噛み合わない会話が数時間に渡って続くことになるが、ここでは大幅に省略する。すでにレイの肉嫌いの原因を探るという用件は済んでいるのである。
「ただいま」
「おかえりなさい」
「おかえり、シンジ」
何とかゲンドウの元から脱出し、夕食の買い物を済ませて部屋に戻ると、少女たちの声がシンジを出迎える。彼はほっとした気持ちになり、ここが自分の家なんだなと思う。そして、ゲンドウと同居なんてできるものかと改めて思った。なんとも不幸なゲンドウである。
「司令のところに行って来たの?」
「うん」
アスカの問にシンジが答える。
昼間、カヲルにカツ丼をおごってもらったアスカは異様に機嫌がいい。それにしても夕食の時間には帰っているとは、なんと健全なことであろうか。中学生なんだから当然のような気もするが。
「なにしに行って来たの?」
「綾波の肉嫌いの原因がわかるかと思って」
その言葉を聞いて、レイが青ざめた。思い出してしまったらしい。
「で、わかったの?」
「だいたいわかったよ。無理もないんだ。まだ子供の頃、父さんが血の滴るようなレアステーキを……」
シンジははっとしてレイを見る。レイは口元を押さえて洗面所に駆け込んだ。
「レイ! 大丈夫!?」
アスカが慌ててレイの後を追う。シンジも後を追いながらも、妙な違和感を覚えていた。レイ……だって?
シンジ君は、二人が隣の部屋で毎晩仲良くレイだアスカだと呼び合っているのに気づかないのであろうか。なんと鈍感なことか。
「全くあんたはデリカシーがないんだから!」
レイの背中をさすりながら、アスカがシンジを責める。
「ごめん。綾波」
「もう大丈夫。気にしないで。アスカもありがとう。もう大丈夫だから」
再び違和感を覚えるシンジ。アスカ、だって?
何がどうなっているのか。彼には全く理解できない。ほとんど思考停止状態である。
そんなシンジを気にする事なく、ひたすらレイを気遣うアスカ。口をすすいで、大丈夫と微笑むレイ。見つめ合う二人。
まさか。シンジはあることに思い当たって愕然とした。
もしかすると僕は大幅に出遅れているのではないだろうか。僕に対する彼女の気持ちに、僕は自信を持ち過ぎていたのか。やはり人の気持ちは言葉にしなければ伝わることはないのか。
彼は激しい焦燥感に駆られた。
アスカとシンジによるレイ争奪戦が始まっていることに、彼がようやく気づいた瞬間である。しかし、アスカはカヲルとも仲がいいようである。レイの心はどこにあるのか。シンジのことはどう思っているのか。そしてシンジとアスカの仲は? まさかレイとカヲルとは? トウジとヒカリは確定としても、伏兵ケンスケを忘れてはならぬ。お姉さま御用達のシンジ×カヲルも重要であろう。
これについても全面的に省略せざるを得ない。アホらしくていちいち書いてらんないのである。ま、恋に恋するお年頃とでも言っておこう。色気より食い気という説もあるな。
「どうするつもりなの? レイの肉嫌いは。なんだか無理しない方がいいような気がするんだけど」
レイをベッドに休ませたアスカが言う。そもそもレイの肉嫌いがどうのと言い出したのはアスカだろという気もするが、無理しない方がいいというのはその通りである。
「気持ちの問題だと思うんだ。その……」
血の滴る、と言いかけて、慌てて言葉を飲み込んだ。
「とりあえず今日は、お豆腐のステーキにしようと思うんだ。綾波、お豆腐好きだしね」
「……精進料理みたいねぇ」
「意外においしいらしいんだ。僕も食べたことないんだけど」
どんなものが出来るのか作る本人もいまいち把握していないという、いわば創作料理である。ひそかにシンジは燃えていたのだった。
おおむね下ごしらえが終わったあたりの、非常に素晴らしいタイミングでミサトが帰宅する。凄まじい御都合主義と思われるかもしれないが、これに関する非難は受け付けない。事実は曲げられないのである。
「あら。今日のおかず、何?」
「お豆腐のステーキです」
「……聞いたことないわね」
「まぁ食べてみて下さい」
シンジは自信満々である。レイもおいしそうな匂いに誘われて起きて来た。
いただきます、の声とともに、いっせいに箸を取る。
ぱく。
「おいしいっ!」
「でしょ。綾波は? どお?」
「おいしい。すごく」
異様に嬉しそうなシンジ。第一段階は突破か。
数日後。第二段階として選ばれたメニューは魚肉ハンバーグである。赤身の魚をミンチにしてハンバーグに仕立て上げるというものである。ちなみに、いわゆる魚肉ハンバーグというのが実際にこういう料理なのかどうか作者は一切関知しないので、そのあたりのことはご承知おきいただきたく願う。
ぱく。
「どお? レイ」
「……おいしいわ」
「シンジ、やったね」
アスカが珍しくシンジを誉める。シンジも満足気である。
更に数日後。今度は朝食のメニューとして魚肉ソーセージがテーブルに並んだ。出来あいである。シンジもそうそう創作料理に打ち込んでいるわけにはいかないのである。
「これはあんまりおいしくないわね」
「まずいわ。はっきり言って」
「おいしくない……」
シンジの手料理に舌が肥えてしまったのか、不評であった。失敗である。やはり出来あいは駄目かと深く反省するシンジであったが、客観的には女性陣が我儘なようにも思えるがどうか? 魚肉ソーセージ、そんなにまずいものではない。そもそも一般家庭で手作り魚肉ソーセージというのも結構ハードルは高い。
それはともかく。
本来、シンジの計画ではここでクロマグロのステーキを出す予定であった。しかしそれは中止した。クロマグロのステーキ、美味であり高価である。しかし、いかに牛肉ステーキ風に調理したとしても、いってみれば単なる焼き魚に過ぎない。魚肉ソーセージの失敗を受け、このメニューでは弱いと判断したのである。
シンジは究極の最終決戦兵器の投入を決断した。
その最終決戦兵器とは、「マグロのかぶと焼き」である。
これの「のど」の部分は牛肉に似た味がするのである。
いくら料理が得意とはいえ、一介の中学生に過ぎないシンジがなぜそのようなわけのわからぬ事を知っているのか。それはインターネットで検索したからなのである。そのページの記述に従い、マグロにはメバチマグロを使用することにした。材料となるメバチマグロの頭部を入手すべく、シンジは東奔西走した。他ならぬレイのためである。なんと涙ぐましいことか。そして努力は必ず報われる。高さ40センチはあろうかというメバチマグロの頭部を入手することに成功したのである。
一般論として、果たしてそのような物が入手可能なのか? 仮に手に入ったとして、高さ40センチもあるような頭部を一般家庭である葛城家でどのように調理したのか? 疑問に思われる方もおられるであろう。それに対しては、この言葉を以て解答とする。即ち、死力達成。人間の潜在能力は無限であり、死ぬ気で努力すれば不可能はない。その気になってやれば何でもなんとかなるものなのである。実際になんとかなったのであるから、この厳然たる事実を前にして、ありえないとか御都合主義ではないかなどという批判は筋違いであろう。シンジはレイのために死力を尽くしたのである。
念の為に書いておこう。もしかすっとこの作者は投げやりになってるんじゃねぇかとか、てきとーに書いてるなとか、日記じゃねぇんだ、などという印象を持たれた方がおられるかもしれないが、それは全くの誤解である。作者は常に真剣である。さらに書いておくが、メバチマグロ頭部の入手方法や調理の詳細については省略する。書けば書けるが、ストーリーの本質とは何ら関係がないので省略せざるを得ないのである。残念である。
大皿にどーんと乗っかったマグロのかぶと焼きが、テーブルの上に出された。
それを見たミサトとアスカの喉から「ひええ」とも「おおぉ」ともつかない声が漏れる。
「こ、これ……食べるの?」
ミサトは無意識のうちに缶ビールのプルトップを開けながら聞く。
「そうですよ。何か問題でも?」
アスカがなおも「ぬおぉ」という、まるでデギン・ザビがソーラ・レイ(レイである)を浴びた時のようなうめき声を漏らしながらレイを見る。レイは平然としていた。もともと魚は好きな方だし、シンジを信頼しきっているのである。どのような料理であっても何ら抵抗はない。肉でなければ。
完全に腰が引けているミサトとアスカのために、シンジは小皿に平等に取り分けた。ただし、「のど」の部分はレイに多めにした。本来の目的を忘れてはならない。他の部分は完全に平等にするため、二つしかない目玉も半分に切ろうとしたが、ミサトとアスカは涙目になって遠慮した。
シンジよって取り分けられたマグロのかぶと焼き、つまりマグロの頭部は、原形を留めつつも、まぎれもなく残骸と化していた。ややグロい。グロいマグロなどしゃれにもならぬ。
――言うまでもないことではあるが、念の為に記しておこう。このマグロの頭部の残骸から、「まごころを、君に」のラスト近くのシーンでの崩壊した巨大綾波を連想してはならない。絶対にダメである。アスカもそれは良くわかっているようなので、とりあえず安心である。
「さ、食べようよ」
「いただきます」
「いただき……ます…………」
ともかくミサトとアスカは、目の前にあるマグロの頭部の残骸を目にしないようにしながら口に運んだ。その姿さえ見なければ何ということもない。しょせんは魚である。
ぱく。
「……意外においしいわね」
「でしょ。綾波はどお? おいしい?」
「おいしい。すっごく」
すごくではない。すっごく、である。努力した甲斐があろうかというものだ。
シンジは自信を深めた。
ちなみに作者はマグロのかぶと焼きを食したことはないのであった。
翌日、シンジはついに宣言した。
「今日はハンバーグにするから」
クセの少ない鳥のササミ等も考えたが、今は一気に突っ走るべきだと判断したのである。アスカへの配慮もあった。
一同に緊張が走る。無理もない。今までは、いわば模擬戦であった。シミュレーションである。しかし今回は実戦である。これに敗れるようなことがあれば、レイは一生肉を口にすることはないであろう。
シンジは腕に寄りをかけてハンバーグを作り上げた。
テーブルの上に皿が並ぶ。全員が思わず固唾を飲んだ。
「レイ、だめだったら無理しなくていいからね」
アスカがレイを気遣う。
「……だいじょうぶ。食べてみる」
碇くんが作ってくれたんだもの。レイは思う。きっとおいしいに決まってる……。
「……いただきます」
……ぱく。
レイはぎゅっと目を閉じ、思い切ってシンジ特製手作りハンバーグを口に入れた。
もぐもぐ。
ゆっくりと咀嚼を開始する。
ミサトでさえも緊張に顔が青ざめていた。アスカに至っては失神寸前である。感想を聞くことなどできるはずもなく、ひたすらレイの言葉を待った。
「おいしい……」
レイが目を開き、ポツリと言った。一同がその言葉を理解するのに、数秒の時間が必要だった。
「「「やった!!!」」」
全員が跳び上がって喜ぶ。シンジが泣いた。ミサトも涙ぐんでいる。アスカも涙を流しながら電話に駆け寄った。
「カヲルに知らせなきゃ!」
まさに大団円である。しかし話はまだ終わらない。
「碇くん、今日のごはん、なに?」
「今日はアユの塩焼きだよ」
「お肉じゃないの……」
「美味しいよ、アユだって」
「うん……」
すっかり肉好きになってしまったレイである。
「ねぇファースト」
「なに?」
「なんでもバランスよく食べなきゃだめなのよ。お肉ばっかりでもだめなの」
「美人になるの」
「だからバランスよく食べないと」
「お肉、おいしいもの」
「強情ね! ファースト!」
「問題ないわ。セカンド」
「ファースト!」
「セカンド」
「だからやめなって。二人とも」
シンジはため息をついた。
「明日は豚の生姜焼きにするよ……」
家計の心配もしなければならないシンジの苦悩は、マリアナ海溝よりも深い。
「レイちゃん、今日のお弁当は餃子かい?」
お昼時、三バカ+カヲルと、レイ、アスカ、ヒカリのいつものメンバーで弁当を広げると、レイの弁当を見たカヲルが声をかけた。
「碇くんの手作りなの」
レイは自慢げである。たまには自分で作れよ。
「お肉、食べられるようになったんだってね」
「うん」
「じゃあアスカちゃんみたく、胸も大きくなるかな。ははは」
完全なセクハラ発言であるが、カヲルに悪意はない。だがレイは反応した。
「大きく……?」
顔色が変わる。
「ばかカヲル!!」
どご。
アスカの鉄拳がカヲルのアゴを的確に捉え、彼は吹っ飛んだ。
説明しよう。周囲がレイに気を遣い過ぎのように思えるかもしれないが、まだレイに対して「大きい」、あるいは「巨人」、「巨大」、「ビッグ」、「馬場」、「アンドレ」、及びそれに類する単語を不用意に用いるのは得策ではないのである。ある種のトラウマなのか、ご機嫌斜めになってしまうことが多いためである。ご機嫌斜めなレイは異様に扱い辛い。ならば、あらかじめ避けておくのが懸命というものであろう。
もちろん文脈にもよる。あらゆるケースでその手の単語を避けなければならないわけではない。しかし今回のカヲルの発言は、胸とはいえ「レイが大きくなる」という意味なので、まさに最悪のケースだったのである。
「ち、違うよ、綾波。カヲル君が言ったのは胸のことで、別に身長とかが惑星規模になるわけじゃ」
必死に取り繕うシンジだが、火に灯油混じりのガソリンを注いでいる。しかもハイオク。
「食べない」
「違うんだ、誤解だよ、レイちゃん」
「食べない」
「大丈夫よ、ファースト」
「おっきくなりたくないもの」
「平気よ、綾波さん。あたしもお肉すきよ。でもあんまり大きくないわ」
「そや。全然問題あらへん。……でもイインチョは胸も小さいで」
ばき。
「食べない」
「綾波、心配のし過ぎだよ。俺もそうだし、みんな食べてるだろ?」
「そうだよ、綾波。今の綾波はあの頃とは違うんだからさ」
「食べない!!」
こうなるとレイは頑なである。いったん諦め、とりあえず話題を変えて弁当を食べ始めた。
ただ一人、レイだけは話の輪に加わらず、じっとシンジの手作り餃子を見つめてだらだらとよだれを流しているのであった。
「しばらく様子を見た方がいいわね」
「やっぱりそうですか」
ミサトがシンジに答えて言う。
「レイもお肉がそれなりにおいしいってことはわかったみたいだし、時間が解決すると思うわ。変に無理して、過食症とか拒食症になっても困るし」
過食症と拒食症は表裏一体である。何事も無理はいけない。
よだれを流すレイを見て、食べたいのを我慢しているとわかっているシンジは、焼き鳥あたりで美味しそうな匂い攻撃をかけようとしていたが思いとどまった。正解であろう。
――日曜の朝。
いつもの如く二人は惰眠を貪っている。例によって手をつないで、である。仲良すぎである。
「ん……」
小さな声を出して、レイがむっくりと起き上がる。即座にアスカがひきずり倒した。
「まだいいじゃない……」
「今日は用事が……」
レイはくぐもった声を出しながら目を閉じる。
「……今日はシンジとデートって言ってたっけ?」
アスカも目を閉じたまま、やや甘い声を出す。
「お洋服、買ってもらうの」
「いいわね……」
二人の会話はここで一旦途切れることになる。なぜ途切れたかは読者諸氏の想像にお任せするしかない。
描写しかねる時間が過ぎ――。
「ねぇ、レイ」
「なぁに?」
レイの声も甘い。
「思ったんだけど」
「……」
アスカは言葉を切った。
「あの時、レイがめちゃめちゃ大きくなったときって、やっぱりお肉、嫌いだったのよね」
「……うん」
「じゃあさ、お肉とレイが大きくなるのって、あんまり関係ないんじゃない?」
「……」
「もし関係あるとしたら、それは話が逆でさ、お肉を食べないとおっきくなっちゃうとか」
「……」
正論である。こんな簡単なことに、なぜ今まで気づかなかったのか。
「……そうかも…しれない」
「あんまり気にしないで、食べたいもの食べた方がいいわよ」
ぐぅ。
とたんにレイのお腹がなった。顔を見合わせ、くすりと笑う二人。
「碇くんにお願いしてこよ」
するりとベッドから抜け出し、部屋を出ようとするレイ。
「待ちなさい!」
「?」
アスカが慌てて止める。
「そんな格好で行ったら、シンジの奴、鼻血吹いて死んじゃうかもよ?」
どんな格好であったかを描写するつもりはないので、存分に妄想していただきたいと、かように思っている。
――数年後の朝。
「お母さん、お料理、上手になったよね」
「あら、そう? ありがとう、シンジ」
「ホント。最初はアタシ、出て行こうかと思ったのよ。あんまりまずくて。ね、レイ」
「生命の危険を感じたわ。お母さんの料理には」
「シンジに特訓してもらったから」
「……母親をからかうものではない」
ゲンドウの言葉にリツコが微笑む。
「さ、みんな早くしないと学校に遅れるわよ」
慌てて食事を終える三人。
「ねぇ、お母さん」
「なぁに、アスカ」
「今日の晩ごはん、何にするの?」
「まだ決めてないわ。そうねぇ……すき焼きにでもする?」
「うん!」
元気に返事をしたのはレイである。嬉しそうだ。そんなに肉が好きか。
「じゃあお父さんも、今晩は早く帰って来てよ!」
「ああ、わかったよ。アスカ」
「絶対よ」
「わかってるよ。レイ」
「綾波! アスカ! 早くしないと遅刻するよ!」
「「「いってきまーす!」」」
「「いってらしゃい」」
にこやかに手を振るリツコ。そしてミサト。
「お母さ〜ん、ビール取って〜」
「朝からビールはやめなさい。それからミサト、あなたにお母さんって呼ばれる筋合いはないって、何回も言ってるでしょ」
「いーじゃない。葛城も私の娘だって言ったんでしょ。お父さんが。それならリツコはあたしのお母さんよ。理論的には」
「あなた、何か言って下さい。新聞ばかり読んでないで」
「うむ……」
ミサトに「お父さん」と言われ、苦渋の表情を浮かべるゲンドウ。
「あら。もうこんな時間。あなた、早く着替えて下さい。ミサトも早くして」
「ああ」
「はぁい」
「ミサト、甘えた声を出すのはやめなさい。あなたも早くして下さい。いつまで新聞読んでるんですか。今朝は会議ですよ。あなたが遅刻してどうするんですか」
「ああ。わかってるよ。リツコ」
「ガミガミうるさいわねぇ、お母さんは」
ぷしゅ。
「ビールはやめなさい! 朝っぱらから! それからお母さんて呼ぶのもやめて!」
「へいへい」
平和だ、とゲンドウは思う。そして、そっと心の中でつぶやいた。
――これで良かったのだな、ユイ――
学校に走る三人。
「今日、転校生が来るんだよね」
「そう言ってたわね、加持さん」
加持は転職して高校教師になり、これまた御都合主義なことに三人の担任となっていたのである。
「男かな、女かな」
シンジは、可愛い女の子だといいな、と言おうとして、危うくその言葉を飲み込んだ。危険な波動を感じたのである。正しい判断だと思われる。
三人は走る。既に想像されていると思うが、走っていればいずれは曲がり角に差しかかってしまうものなのである。
そして――
「あーーーっ!」
ごちん。
「いったーい」
「いたたた……」
路地から飛び出して来た少女に、まんまと衝突するシンジ。
頭を押さえ、四つん這いのまま顔を上げて、閉じていたまぶたを開く。目の前には尻もちをついている少女がいる。そして一瞬、白い布切れのようなものが見えた。ような気がした。
ばん、と音を立てて少女がスカートを押さえ、立ち上がる。
「ごめん! マジで急いでたんだ!」
少女が叫ぶように言う。
「ホントごめんねー!」
そう言って走り去る少女の後ろ姿を見ながら、シンジは不思議な既視感に襲われていた。
――前にもどこかで……
再び危険な波動を感じ、思考を断ち切った。
うまくいったわ、と少女が心の中で舌を出していることなど、彼の知る由もない。
「喜べ男ども! 噂の転校生を紹介する! 高校で転校生なんて滅多にあることじゃない。しかも美少女だ! 存分に堪能しろ!」
無茶苦茶なことを叫ぶ教師、加持の後ろから少女が姿を現した。
「六分儀ユイでーす。よろしく」
驚いて立ち上がる三人を見つめ、今朝の少女――ユイは優しく微笑む。そして、心の中で言った。
ちっとも良くなんかないのよ、ゲンドウさん! あたしも仲間に入れてもらわないとね!
周囲に笑顔をふりまきながら、少女は加持に言われた席に向かって歩く。
あたしだって霜降り極上松坂牛のレアステーキ、食べたいもん!