舞花
宵闇に舞う桃色の雫たち
つぼみは花でなく
散り果てた後もまたそうでないのならば
咲き
舞う時が花であるのならば
花の在るところは
花の還るところは
何処なのだろう
舞花。風がそれ程長くない前髪を柔らかく梳いて通り過ぎてゆく。桃色が夜風に溶けながら視界を横
ぎる。花風。時折微かに強い風に流れを乱されながら、花嵐。足元で小さく渦を巻く。高台から見下ろ
す街の灯は、儚く瞬いている。遠い囃し声。先程通って来た広場に集まっていた人々の、賑やかな宴の
様が目に浮かぶ。ここはとても静かだ。辺りの木々を照らし出す灯も広場のそれより遥かに控えめだ。
そのせいだろう。桃色がとても濃い。
また風が通り過ぎる。夜風はまだ冷たさを含んでいる。でも外套はもう必要ない、と思う。制服の上
着だけで十分だ。ブレザータイプの上着はそれなりに気に入っている。ポケットが多く機能的だ。夏場
はスカートのポケットにしか携帯品を入れる事が出来なかったから、上着の着用に切り替わる秋以降が
待ち遠しかった。
(・・・・・・)
傍らに目を向ける。昼間は黒色と見間違えそうな濃紺も、夜の闇の中ではやや明るい。身体の中央に
縦に並ぶ金のボタン。男子の上着は学生服だ。彼も上着がある方が良い、と言っていたのをふと思い出
す。でもね、カラーはあまり好きじゃないんだ。擦れて首周りが痛くなるから。今もカラーは外してい
る。視線を上げると、闇に白く浮かび上がる横顔。
(・・・・・・)
風が彼の髪を揺らして通り過ぎてゆく。ほんの少し目を閉じ、また開いて遠くに焦点を合わせる。絶
え間なく舞い続ける桃色の向こう側に、何を見ているのだろう。柔らかく微笑んでいるような表情。も
うどのくらい経つだろうか。こうして、桃色の舞う中に肩を並べて佇み始めてから。時が伸びやかにそ
の持続のうねりを広げてゆく。わたし。あなた。宵闇。桃色。全ては度合いの差異。意識の流れだけが
それを紡ぎ、導いてゆく。
(・・・・・・)
視線を戻す。か弱い灯の届かない闇から現れ、また闇の中へと去ってゆく桃色の雫たち。風に舞い、
わたしを包む。この時はいつまで続くのだろう。心の奥底で小さな響きがこだましている。此処に。わ
たしはまた問を抱く。何を望むの。この時に、わたしは何を望んでいるの。答えは無く、また想いだけ
が残る。それが雫となって落ち、心に小さな波紋を作る。還らなければいけないの。いつかは終わるも
のなの。
土に還るのではないのだろう
それは“花”ではないから
「・・・あれ・・・?」
日直の当直日誌を職員室に届けて教室に戻って来たところで気が付いた。誰もいなくなった教室。ひ
とりのひとを除いては。彼女は自分の座席で机にうつ伏せている。東南向きの窓からは、もう陽の光が
入らなくなる時間だ。他の教室よりも早く暗くなる感じがする。黄金色の空気の中で、彼女の姿はまる
で風景に溶け込んでしまったように見える。そんなひとだから。彼女は。
「・・・綾波、ねえ、綾波。」
席の傍らまで歩み寄り、肩を軽く揺すってみる。細く柔らかい感触が、一瞬だけ心に波紋を起こす。
ふと思い出す。いつもの事だからと見流していたが、今日の彼女はずっとこの姿勢のままではなかった
だろうか。朝の一時限から四時限目までずっと。昼食の時間も、午後の授業の間も。そこまで考えて少
し苦笑する。意識していた訳ではないのに、我ながらよく覚えている。無意識に気を配っているのかも
知れないな。やがて、ゆっくりとした動作で身を起こす姿が視界に映る。揺れる水色の髪。
「・・・・・・」
「・・・どうしたの、もう放課後だよ?」
「・・・・・・」
「今日ずっと寝てたよね、体調が良くなかったの?」
「・・・うん・・・。」
じゃあ、早退した方が良かったのに。その言葉は飲み込んだ。ひとに言われるような事では無いだろ
う。何かの理由があったのかも知れないし。代わりに、今日は本部の日なの、と尋ねる。寝起きでぼん
やりとした表情の少女は少しだけ虚空を探るような目をし、やがてゆっくりと首を振った。恐らく平気
だろうとは思っていた。ここ数ヶ月の間で被験体を必要とする試験は驚く程減っていたから。組織の存
在意義も変わりつつある、と同居の“上司”も言っていた。
「授業も終わっちゃったし。帰って休んだ方がいいよ。」
「・・・・・・」
「平気?送って行こうか?」
「・・・・・・」
暫しの間の後、ゆっくりと首を振る。元々それ程血色のいい方ではないのだが、今日はその青白さが
際立っているように見える。本当は付いていた方がいいのだろうが、彼女がそれを断るのならば仕方な
いだろう。分かった、とこたえて自分の席に戻る。鞄を手に取って教室を出ようとしたところで、机の
揺れる、がたっ、という音が響いた。振り返ると、反対側の出入口近くで机に手をつく少女の姿。視線
が合う。朱い瞳。無表情に固まった端正な顔。何秒かそうして視線を合わせていた。やっぱり心配だ。
当然の事ながら、先に折れた。やっぱり送って行くよ。その言葉に、今度は視線を落とした少女。小さ
な澄んだ声で、ごめんなさい。別に謝るようなことじゃないよ。心と口とが同じ言葉を発していた。
「・・・暖かくなったね。」
「・・・そうね・・・。」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
彼女の使ういつもの通学路は控えた。幹線道路を幾度か横切らなければいけないからだ。車の通りも
結構激しい。代わりに旧道を通って帰るようにした。首都移転以前は古い宿場街の面影を残す小さな街
だったという。もちろんその頃の事など知るよしもないが、細く入り組んだ道や立ち並ぶ商店街などに
その名残を見受けられる。
はたから見ただけでは、少女の体調の程は分からない。両の手で鞄を持ち視線を落として黙々と歩き
続ける彼女の姿は、いつもと同じ感じだからだ。ただ、少しばかり歩く速度が遅いような気がした。や
はり具合があまりよくないのかも知れない。歩くペースを合わせた。一度だけ、休まなくて平気、と尋
ねたが、首を横に振ったのでそのまま淡々と歩き続けた。
古い感じの商店街を抜けた後、旧道は丘を昇り始める。丘の上の神社の境内を横切って反対側の細い
参道を降りると、彼女の住む古いマンションの裏手に出られる。それ程広くない境内を通る時に、ふと
はらはらと舞い落ちるそれに気が付いた。桃色の花。桜。見上げた境内の桜の木々は、まだ五分咲きに
も至らない。それでも早咲きのものから散り始めているのかも知れない。こんな季節になったのか、と
ぼんやりと感じた。
ここまででいい、とも中に入ってとも言わなかった。ただ扉を開けたままで先に部屋の中へ行ってし
まったので、場の流れで部屋の中へと続いた。いつ訪れても変わらない。窓から差し込む4時の黄金色
の陽光に照らし出された、静謐の住居。簡素な型のパイプベッド。止まっているかも知れない小型冷蔵
庫。その傍らの、小さな木製のチェスト。少女はベッドに腰を降ろし、視線を落として床を見つめてい
る。彼女を含めた全てが、静かな風景画を形作っていた。その中でふと気が付く。窓の外、流れるよう
に通り過ぎてゆく桃色の粒。桜の木が近い場所にあるのだろうか。まるで無数の気泡が通り過ぎる水族
館の水槽を見ているような感じだ。
「・・・お昼、食べなかったよね?」
小さく頷く。
「お腹、すいてる?」
ゆっくりと、首を横に振る。
「そう。でも、少しくらい食べた方がいいから、何か買って来るよ。」
無言。
「じゃ、ちょっと行って来るね。」
靴を履いて扉を開けたところで、ごめんなさい、という小さな声が背中に届いた。気にしなくていい
よ、と小さく首を振って外に出る。彼女にそれが伝わったかどうかは分からないが。
パックのおかゆを手にしたところで、ふと考える。先程目にした、窓の外を流れる桜の花の光景が蘇
る。不思議なくらいに鮮やかだった。煌めいていた。ぼんやりと漂った思考が、おかしなところへ落ち
着く。あれを眺めながら食事を摂ったら、それは一種の“お花見”かも知れない。その考え方から行け
ば、折詰が相応しい。かっぱ巻きと稲荷寿司のパック、インスタントの味噌汁を買った。あの部屋でも
さすがにお湯くらいは沸かす事が出来るだろう。
扉を開いて中に入ったところで、ふと、ただいま、という言葉が口から洩れた。無意識に。殆ど反射
的なものだった。が、それに対して、お帰り、という声が返って来た時には少しだけ驚いた。目を向け
ると、ベッドに座ったままこちらを見つめる少女の姿。不思議そうな表情で、幾度も瞬き。きっと彼女
自身、自分が思わず口にしてしまった言葉の根拠がよく分からなかったのだろう。それが可笑しく思え
て少しだけ笑った。それでも、彼女のその言葉で僕はとても安心を覚えていた。
彼女の薦めてくれた簡易椅子に腰掛けて、一緒にパックの寿司を口にした。彼女自身はベッドに腰掛
けて。買物に行っている間に自分の楽な服装になったのだろう。ワイシャツを上に羽織っただけの無防
備な格好。目の遣り場に困った。そうして特に会話らしい会話も交わさないまま、ただ窓の外の舞花を
眺めながら食事を続けた。食事を終えて彼女が身を横たえたのを見届けてから、部屋を後にした。本咲
きになったらちゃんと桜を見に行こう、と最後に声をかけて。
花が花である時
それが本当の姿であるのなら
宙に舞うその時こそ
咲き誇るその時こそ
花の還る所なのかも知れない
たとえどんなに短くとも
風花。横にあおられた髪を指先で軽く戻す。その想いは何処から来たのだろう。分からない。桃色の
雫が水に落ちるように、静かに、微かな足取りでやって来た。それがわたしの心の鍵穴に当て嵌まる。
正しい、とは言わない。ただ、そう想う。時の長さではなく、確かさでもない。花は花。夜の闇に鮮や
かに咲き誇るその姿が花であるのならば。夜の風に漂い続けるその姿が花であるのならば。それが花の
帰る場所であるのかも知れない。
だから、今
わたしは此処にいてもいい
舞花。ふと意識しないままに、口から言葉が流れ落ちる。ただいま。自分のその言葉が耳に届いてか
ら、驚きが回り道して意識に辿り着く。思わず傍らの彼の方を見る。少しだけ驚いたような顔。幾つか
の桃色の粒が、視線の道を横切っていく。宵闇の中、舞う花だけが絶えず流れ続けている。その中でふ
たりだけが静止しているようだと思った。
(・・・・・・)
やがて彼がゆっくりと応えた。お帰り、と。そして少し照れたように視線を落として微笑んだ。以前
から思っていた。理由もなく。とても彼らしい表情。嫌いじゃない。そう感じている自分の事はよく分
からない。もしかしたらそんな感じ方をしているのは自分だけかも知れない。それでも構わない、と思
う。桃色の雫が心の器に落ちた。波紋が、静止していたわたしをまた動かし始める。花が舞う中に、わ
たしと彼もまた舞い始める。
おかえり
その言葉で
わたしはとても安心した
Written by "Kame" for "Ayanami Rei no Shiawase".
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