叫んでみた
若さの証明のため
望んでみた
自分が、自分であるために
utterance
Written By NONO
まったく、昨日の僕は一体なにをやっていたんだろうか。まさかいい気になっているつもりはなかったけど、よくよく考えてみれば、あれはいくらなんでもでしゃばりすぎだったんじゃないか。
ため息とともに陰鬱な考えを吐き出し、その考えはしかし両手に抱える袋の重さとビニール袋が掌に与える痛みに消し飛ばされた。そうして何度目になるかわからないが袋を握り直す。いつもはたくさんの買い物をするときには大きなナイロンバッグを持っていって肩にかけるか、そうでなければ自転車を使ったりしていたのだが、今日に限って雨模様だから自転車は使えなかったし、傘はスーパーの傘立てに突っ込んでおいたらなくなっていた。緑色の地味な傘で、自分が差してきたものとそっくりのが代わりに差しっぱなしになっていたから、多分それと間違って持っていかれたのだろう。だからといって他の人の傘をあえて使う気もなれなかった上、どのみち両手はふさがっていたのでそのまま外に出た。雨がすっかり止んでいたのがせめてもの救いだ。
これくらいの幸運がなきゃ、やってられないよな…
苦笑いを浮かべてほとんど降っていないに等しい雨の中、徒歩で二十分程度の道のりをゆっくり歩いていった。行きはウォークマンで録音したばかりのMDを聞いてきたが、さすがに傘もささずに聞くのは咎めて、ポケットに突っ込んだままだ。
いまどき珍しくアナログなカセットテープに録音して聞いていたが、残念ながら壊れてしまい、しかも修理費がバカにならないため、これを機会にMDウォークマンに買い替えた。もう二ヶ月も前のことだが、まだすべてのテープをMDに落とせたわけではない。なにせその二ヶ月のうち一ヶ月以上は、あのエヴァンゲリオン初号機と「溶け合って」いたし、その前だって色々ありすぎた。思いだしたくないことばかり色々あって、とても時間的、精神的余裕は存在しなかった。
それは今だって怪しいもんだよな、と碇シンジは思う。
雨がまた降りだし、けたたましい空間を作りはじめた。
りんりん!けたたましい、ザラついた音が耳についた。顔を上げると、この細い道を自転車がかなりの速さで向かってくる。いつの間にか真ん中を歩いていた自分に気づき、慌てて飛び退いた。すれ違う自転車に乗っていた人が、わざとらしく舌打ちを残していく。わかってる、わかってるよ、僕が不注意だったのは。
でも、だからってそれはないだろう。
雨に濡れて、すれ違った自転車と、それを漕ぐ人が着ていたレインコートの銀色はより一層ぬらりと光っていた。
ナイフの色に似てたな…
初号機の肩に収納されている、鉄を豆腐のように切り裂くプログレッシブナイフに似た、鈍い銀色だった。嫌いな色だ。特に、使徒の真っ赤な血とのコントラストを嫌でも思い出させられて、吐き気を催すほどに。
どうしてあんなものを見てしまったんだろう。どうしてたまたまゆっくり帰るために各駅停車の電車が止まるホームに下りてしまったんだろうか。あんなこと思わないでさっさといつものホームのいつもの場所にいれば、あんなものを見る必要はなかった。あの青い髪。よく晴れた空のようなあの色。間抜けなほど白い肌。
そしてなによりも、どれよりもあの笑顔。あの女に向ける、アイツの笑顔。なによ、バカシンジのくせに、あの女と一緒に帰るなんて、まったく冗談じゃない。どうしてあんな人形みたいな女にそんな顔作れんのよ。そんなにいい?あんなのがいいわけ。それだったらあたしにはあんたの趣味は理解できないわ。あたしはあんなのと違ってもっと自分の意志で生きていくもの。だからあたしの方が輝いているのに。あたしの方が絶対いいに決まってるのに。どうして、どうして。
どうして、あたしには見せないような笑顔を見せるの。
嬉しそうな、照れ臭そうな。どうして。
どうしてあんな人形に見せるの。どうして…あたしに見せてくれないの。
何度も何度もリダイアルを繰り返した。普通なら諦めるような回数では飽き足らず、普通では考えられないほどリダイアルを繰り返した。電話の発信履歴は全て一つの番号で埋め尽くされ、「加持」という男の名前が無機質に並んでいた。もう絶対に会えるはずのない相手にかけつづけていることも知らず、ただただリダイアルのボタンを押しつづけた。
ねえどうして出てくれないの。ねえどうして慰めてくれないの。
シンジじゃダメなの。シンジじゃわかってくれないのよ。
下腹部の痛み。自分が女性であることの証。別にそんなものなくたっていいのに。男でいたいなんて思わない。けど、こんなの、今のあたしにとって邪魔以外の何だって言うの。子供なんて絶対にいらないのに。子供なんて大嫌いなのに。
部屋の明かりをつけた。いくらなんでも暗すぎた。午前中は晴れていたのに、すっかり土砂降りの雨のせいでつけたくもない電気をつけるハメになることが気に食わなかった。どうして明かり一つ思い通りにならないのよ。
蛍光灯が部屋を照らした。自分の身体も。机の上にある深紅のインターフェースも。
それは確かに証のはずだった。女でも子供でもない、単純に純粋に呆れるほど「選ばれたこと」の証明。わざわざ頼み込んで日常でも使わせてもらっている、エヴァと繋がるためのもの。
シンクロ率12.2%――
それが今の状態。まるで御荷物。それを証明するかのような赤に変わっていた。
「ッ、こんなの!」
掴み、壁に叩きつけた。大した音も立てずにぶつかり、跳ねて、足下に転がった。
何とかしたくても状況を打破出来ない自分を表すような赤に変わっていた。
晴れる。
きっと、明日は晴れる。
そうでなくてはあまりに可哀想だと思った。嬉しそうに話していたのに、それなのにまるで裏切るようなこの空は、一体どういう都合でこんな雨模様にしてしまったのだろう。黒いノースリーブのシャツの肌触りを寝返りをうつことで感じた。背中からぐるりと脇を通って大きく「Sound Track」という文字が白と水色で蛇のように刻まれている。そんな恰好をしていることを彼女以外知らないし、また、知らせるつもりもなかった。どうせすぐに監視者から報告されて、あの人の耳には届くだろう。この変化をどういうふうにとられるか、気にならないではなかったが、やめた。気にしても仕方のないことだ。
こんな恰好をするのは、「似合ってるよ」と言ってくれたからだ。別に何かを気にして買ったわけでもない紺色のシャツ姿の自分を、彼がそう言ってくれた。それはその後もどこかで頭の中に残っていて、離れない。離したくない、嬉しい言葉。
その直後、これまでとは違ったタイプの使徒の襲来、フォースチルドレンの負傷、彼の消失…色々あった。そしてそれらが一段落したつい先日、店に買いに行った。
右も左もわからない状態というのをはじめて体験した気がする。どういうものが似合って、どういうものが合わないのか。赤い色は嫌いだったから、それを除いて一着ずつ見ていく。薄い笑顔で近づいてくるスタッフ。ただ用件だけ伝える。「似合う服」とだけ。
本当に、これでいいの…?
真っ黒いシャツに、ぴったりした水色のジーンズ。ふくらはぎまでしかない、中途半端な長さ。他人の服なんて気にしたことがないから、これでいいのかどうかわからない。
「すごくお似合いですよ。お客様、とても細いですし」
「お選びになった服にはこういうものも合いますよ」
と、鎖のようなものを見せられた。どこにつけるのかもわからないから、それは無視して会計を済ませる。ほんの数種類の服と靴。それでも、少しだけ「なにか」に近づけたように思うのは気のせいだろうか。
わたし、なにを…
願ってるの。答えのわかりきったことを問う。わかりきっているくせに、いや、だからこそ訊いてしまう。決して手に入るはずのないものを望んでいる。それでも、何よりもどれよりも得たいと思った。
前はこんなはずじゃなかった。いずれ訪れる「刻」をヒトと同じ形に行き着いたこの身体で迎え、あの人の礎となって、誰もいない、誰にも辿り着けない真の「無」へと向かうはずだった。そして、それしか道はない。生きつづけることは選択肢の外にあった。
でも、今は。
今はそれを望んでいる。
雨が止み、カーテンに光が射し込んだ。朝からずっと降っていた。そしてそれをずっと呪っていた。どうして碇くんがあんな話をした次の日に雨が降らなければならないのだろう。まるで彼の心を読み取ったみたいに、狙い澄ましたように雨を降らせて。碇くんが何をしたというのだろう。
「最近、雨もイヤなことも多いから、明日は晴れるといいね。暑いのは、イヤだけど…」
昨日の電車の中で、窓を覗き込みながら、喋っていた彼の声は疲れを見せていた。最近までエヴァの中にいた彼は別の時間帯か、別の場所で実験を行うことが多くて、顔を合わせる回数も以前に比べれば激変していた。
ホームで電車を待っていると、彼が階段を下りてくるのが見えた。
ベンチに座って本を読んでいるときだった。今まで誰かが来て振り返ることはしたことがなかったし、なぜか、胸が熱くなって、立ち上がるのをためらった。心臓が急ぎ足で鳴り、どうすればいいのか迷った。
結果、気づいてくれて、一緒に帰ることになった。
もし、気づいてくれなかったら、どうしていただろうか。
「碇くん」
会いたい。
玄関に出て、買ったばかりの、今まで使ってきたものよりよりずっと洒落たサンダルを履いて、外に出た。
晴れてる今なら、会えるかもしれない。
ざざん、ざざん、ざざん。ひどい風と雨だった。まるで何かを切り裂くために用意されたような暴風雨のせいでとっくに家から持ってきた二本目の傘は昇天して、途中で捨ててきた。もっとも、ここまで荒れると横からも雨が打ちつけてくるから、傘はあってもなくてもそれほど変わらない。ただもう呆れるしかないような雨だった。
雨に濡れながらもなんとか帰ってきたのだが、アレも足りないコレも足りないと文句を言われてもう一度買い物に行くはめになったのだ。幸い大きなスーパーにまで行く必要のないこまごましたものだから、商店街にある店を少し回れば事足りた。
ただ、雨は帰ってきたときより更に激しく激しくなっていた。まるでドラマで使われる偽物の雨のように大粒の、シャワーの様な雨。それに加えて風も強く、ロクに正面を向いていることもかなわない。
家に帰ってたらすぐに夕飯の支度をしなきゃいけない時間になっていた。一番最初にもっと早く出ていればよかったが、泥のように眠ってしまったせいで出かけるのも遅くなった。自分の迂闊さを呪うが、買い物まで一人でやらなきゃいけないのは、正直厳しい。ただでさえ学校に行かなくなったぶんネルフに行って訓練を行っているというのに。
一向に弱まる気配のない雨に白旗を振ることにした。家まで後十分弱だが、公園のベンチに避難することにした。雨が小ぶりになるまでいればいい。それがたとえ八時を過ぎようが九時になろうがかまわない。同居人二人もいざとなったらどうせ自分たちでなんとかできるだろう。ほんの少しの「休暇」だ。
買い物袋を置いて、いいかげんな作りのベンチに腰かけた。ぎち、と微かに軋む。屋根がどういう素材で出来ているか知らないが、雨の打ちつける音はそれほど変わらない。雨も風も強いけど、気温は決して低くない。生ぬるく、まとわりつくような湿った空気が、ただでさえ晴れない頭の中をさらに曇らせる。
「ぼくは…」
なにか、しなけりゃならないんだろうに、なにやってんだ。
「でも…」
いいか。いいよね?これくらい。
この雨が夜とともに過ぎれば、黄金の太陽に否が応でも悶えて、動き出すんだろう。だったら、雨の時くらい何もしなくたって、それが罪になるとでもいうのか。
びしょ濡れの顔をびしょ濡れのオレンジ色のシャツで拭いた。ちっとも意味がないから手で拭って、背もたれに体重を預ける。めきっ。さっきより少し木の音がした。整備された街のくせに、どうしてこんなに古い椅子があるのかわからなかった。ペンキが剥げてるわけでもないし、一見わからないが、ひどく雑な作りだ。
大きくため息をついてみた。長椅子に座っているだけで昨日の光景が自然に目に浮かぶ。揺れる車体と、クーラーの風向きが変わるタイミングまで克明に。
昨日、たまたまホームのベンチに座っている綾波レイを見かけた。一緒に帰る、というのはとても魅力的な考えに思えたが、同時に疲れることでもあった。同居人と比べて、レイと話すのは勇気が要った。重い話になることが多いからかもしれないし、彼女のことを、想っているからかもしれない。
結局、声をかけた。もし、声をかけなかったら気づいてくれなかっただろうな…それは当たり前の話だが、理屈とは別に、淋しさを感じる。
足下に視線を落とすと、砂利のほかに花びらが何枚か落ちていた。小さい花びらだ。見たことがない、薄いピンク色。回りを見渡すと、かなりの量の花びらが落ちていた。それも、まったく同じものだ。
立ち上がって、花びらの色を探した。
すぐに見つかり、目を見開いた。
いつの間に、こんなに?
「でも、年中夏なのに…」
今の日本では北海道にしか咲くことの出来ない貴重な木だった。
「あんな所に?」
今まであんな木があっただろうか。どうして公園に入ったときに気づかなかったのか、不思議なほど見事に咲き乱れ、風雨にさらされ弾け飛ぶ花びらは、それだけでひとつの絵になるような風景だった。
「すごいな…」
天気は変わらないが、気が変わった。屋根から出て、公園の脇に立つ桜に歩み寄ろうとしたとき、視界の端に人を捉えた。
「綾波?」
見間違えるはずなかった。自分と同じように桜吹雪を眺める赤い目も、ばさばさと揺れる空色の髪も、他の誰かが持っていていいものではない。間違いない。
だが、まったくの別人ではないかと思わせるには十分な要素があった。
他人の空似じゃないよな…
名前を呼ばれてすぐ、彼女は振り返った。ベンチのすぐそばにテントウムシのような形をした遊具が壁になってお互いが見づらくなっていた。レイは一歩、前に出た。
「碇くん」
桜とともに散り散りになりそうな声と、細い身体。急いで駆けよって、しかし、それからどうするかはまったくわからず、ただ立ち尽くした。
「なにやってんだよ、こんなとこで!?」
「…晴れてたから、外に出て」
「碇くんがいるかもしれないと思って」
「すぐ雨が降って…でも、帰りたくなかったから」
「どうして、そんな…風邪ひいちゃうよ」
とにかく避難しよう、と言い、手を伸ばした。そうしないと、いつまでたっても事は進まないような気がした。
伸ばした手は、確かに、白い手を捉える。これで掴み損ねたら、途方に暮れてしまうと思った。
随分遠くに感じる、数メートル。
屋根に入って、座ることはせずに、屋根のギリギリのところから桜を眺めた。このぶんでは明日にはほとんどが散ってしまうのだろう。
(花見ってわけにはいかないけど…)
嵐が止むころには、美しいものも全て消える。
それは、これから自分の身にしても充分あり得る話だった。もし次の使徒が果てしなく強ければ、ただ死ぬだけだ。何も残さず、何も遺せず、普通ではあり得ないような死に方をするのだろう。
だったら、精一杯、少なくとも今は強がろう。精一杯強がって舵を取れば、その強がりがいつか本当の「強さ」になるかもしれない。
「桜…散っちゃうね」
振り返って、ようやく手をつないだままだったことに気がついた。慌てて離そうとするが、離れない。
「綾波?」
レイは応えない。ただ、俯いたまま手を離さず、佇んでいるだけ。
「あの、綾波」
「…会いたかった」
「会いたかったから」
だから、帰りたくなかった。
今発している言葉は、いけないことだ。
望んではいけないこと。
「手…また、握って、いい?」
悩んだ。
決定的な言葉。
はじめて自分から欲したもの。
それは、最も望んではいけないものなのに。
でも、
それでも
「うん…」
桜が舞う、今だけ。
ずっと続いてほしい、「イマ」だけは。
碇くんと、一緒になりたい
あとがき
はい、ののです。
実はこれ、第四稿です。
書き始めが八日の午後八時四十分。
今は十一日の夜十時。
お花見企画発動後なんですから、始末に終えません。
やっぱ安請け合いってのが一番よろしくありません。
ちなみに、当初は「桜を見て気づく」というSSを二つ書く、というコンセプトでした。
実際、「花言葉」はシンジくんの望んだ世界は確かにあるよ、という話。
で、二つ目は逆に「綾波はもう居ないんだ」ということに気づく話。
さらに言えばつまり「そこにある」ことと「もうない」ことに気づくという、まったく正反対でありながら同じ性質のSSを書くつもりでした。
ところがやっぱり書いてることが反対なだけで構成がそっくりになって、書いてる方が面白くないという自体に陥ってしまってですね、頓挫しました。
最初に「失っていたことに気づくシンジくん」ネタを書きはじめてからちょうど一ヶ月たちました。一つの短編のためにひと月かけたのも、これほどまで話を変えたのも初めてです。
長い道のりでした。大遅刻ですね。
タイトル「utterance」は「発話」という意味です。
「綾波さんがはじめて自分から望んだことを桜吹雪の中で言う」というのがメインディッシュなSSだから。
ほんとは「ふれていたい」にしようかと思ったんですが。
では、長々失礼しました……色んな意味で。