ねぇ……
ここはどこなんだろう
僕はどうしてここにいるんだろう
僕は何を願ったんだろう
……大事なものを、見つけたような気がしたんだ
見つけたって、思ったんだ
会いたいって、思ったんだ
でも
それは見せかけなんだ
いつかは裏切られるんだ……
どうして……そう思うの?
僕は――
シンジは変わった、とミサトは思う。
サードインパクトと呼ばれた出来事があって、彼はその中心にいた。もし今までと変わらずにいることができるのなら、その方が不思議だとは思う。
それは良くわかっている。それでも彼女は、シンジに不安を感じずにはいられなかった。
今までと同じように食事の支度をし、ペンペンの世話をし、音楽を聞いて、眠る。相変わらずガサツでズボラなミサトに文句を言う。それは変わらない。
あるいは、その変化はミサトにしかわからないのかもしれない。加持もアスカも、そしてレイもこの世にいない今では。
でも多分、こんなことがなければ彼女も何も気づかなかっただろう。それはミサト自身にも良くわかっていた。
「ミサトさん……」
きちんとノックをしてからミサトの部屋を開けたシンジは、思い詰めたような表情をしていた。
「どうしたの?」
「あ、あの……。今日、隣で眠ってもいいですか……」
ミサトは息を飲んだ。冗談を言っているわけではないのは、その表情を見ればわかる。
「だめ、ですよね…やっぱり……」
「いいわよ」
ミサトはショックから立ち直ると、努めて明るく答えた。
「お風呂、まだでしょ?」
「はい」
「きれいにしてらっしゃい。臭かったりしたら、叩き出すからね」
シンジは気弱な微笑を浮かべた。
「あたし、先に寝てると思うから。ノックしないで入ってきていいわ」
「わかりました」
微笑を消し、彼が出て行く。
もしも彼があたしの身体を求めるのなら――。
それでもかまわない。だって彼は、帰って来たのだから。
自分はきちんと身体を洗ったことを思い出し、入念に歯を磨いた。バスルームからは湯を浴びている音が聞こえる。
どんな格好でいればいいか迷う。裸でいるべきなのだろうか。
迷った末、いつもの姿でいることにした。服を脱がしたいと思うかもしれない。
明かりを消して横になる。眠れるものではない。いっそ一緒に風呂に入ろうかと思い始めた頃、シンジが部屋に戻って来た。
「ずいぶん長湯だったわね」
眠った振りをするべきか。わずかな逡巡の後に、そう声をかけた。
「すいません……」
彼は小さな声でそう謝り、一瞬だけためらってから、そっとミサトの布団の中にもぐり込んだ。
暗闇の中、彼女にその表情を見ることはできない。言われた通りにしっかりと洗ってきたのだろう、ほのかに石鹸の香りがした。髪の毛もまだ乾いてはいない。
かわいそう――。
ミサトは唐突にそう思った。
いいのよ。
そう告げるべく、彼を抱きしめようとした。しかしそれよりも早く、シンジがミサトの手を握った。頬が彼女の腕に触れ、ぽつ、と何か熱い物が腕に落ちた。
泣いてる?
身じろぎもせず、シンジは泣いていた。ただミサトの腕にすがるようにして、声も出さずに涙をこぼしていた。
ミサトはそっとシンジを抱きしめて言った。
「泣きなさい、思いっきり。我慢しないで」
「……」
「その方が人間らしいわ。大丈夫、明日になったら忘れてあげるから……」
その言葉にシンジは身を震わせ、それでも声は出さずに泣き続けた。
やがて彼の寝息が静かなものに変わる。シンジの頭を撫で続けていた手を離し、ミサトもまた自分の涙をぬぐった。
さびしいのは、あたしもシンジ君も同じ、か……。
大人になりきれない自分を恨んだ。それでも、彼に対してだけは大人でありたいと思う。そして、自分にできること、しなければならないことを考える。
翌朝、ミサトが目を覚ました時、隣にシンジの姿はなかった。まさかと思い、部屋を飛び出す。
「おは…どうしたんですか? そんなに慌てて」
シンジは一瞬ミサトをまぶしそうに見つめ、それから不思議そうな顔になった。いつもと同じように、朝食の支度をしている。
「あ、お、おはよう」
ごまかし笑いを浮かべてミサトが答える。家出、あるいは自殺を想像した自分が恥ずかしかった。彼は自分が考えているよりもずっと強いのかもしれないと、ミサトは思った。
「早くちゃんとした格好して来て下さい。遅刻しますよ」
「はいはい」
自分にできること、しなければならないこと。それはまず自分が強くなることかもしれない。ミサトは鏡に向かい、髪を解かしながらそう思う。
しかしシンジは、彼女が思っているほど強くはなかった。
いつもと同じ数日が過ぎ、一週間が経った頃、シンジは再びミサトと共に眠ることをねだった。それははっきりと甘えた口調だった。ミサトはそれを受け入れる。その夜、彼は泣くことなく、ミサトの腕につかまってぐっすりと眠った。
シンジはその日から一日おきにミサトと眠り、すぐに毎日になった。
女の身体を求めていてきっかけが掴めないのではないことが、既にミサトにははっきりとわかっていた。ただ甘えたいだけだ。母親が幼子に与えるような無償の愛を欲しがっているだけだ。そのことを恐らく彼自身は意識していないだろう。そして、その相手がミサトである必然性などないということも、彼女にはわかっていた。
それでもこのまま彼を甘えさせていていいのか。自分は彼の母親になることができるのか。
もしなれたとして、それは正しいことなのか――。
彼女にはわからなかった。
まだアスカがいた頃、ミサトはシンジの手に触れ、母親が我が子にするように抱きしめようとして拒絶された。温もりを求めていたのは自分の方だったことを思い知らされた。
ならば恋人になりたいと願った。母親とは違う形で大人の世界を見せ、そしてそこから守る、偽りの恋人に。そう思った時、結局自分は母親にはなれなかったんだと、思い知らされた。
今なら母親になれるのか。
そうは思えなかった。
彼はミサトの腕に掴まって、寝言も言わず、寝返りも打たず、ただ静かに、まるで死んでいるように眠る。夢も見ていないのだろう。
ここに帰って来てから、彼は夢を見ただろうか。見たとしたら、どんな夢を見たのだろう。
今までの人生で、いい事など何もなかったかもしれない。帰って来る前も、帰って来てからも。しかしそれは、これからもいい事などないという理由にはならない。
今、生きているのならば、しっかりと生きなければならない。幸せになるために。
それが今の彼にとって、説得力のある言葉だとは思えなかった。
人間は弱い生き物だと思う。何かにすがっていなければ、生きて行くことなどできはしない。
彼に死んで欲しくない。生きていて欲しい。
しかし、彼はどんな希望を持って、何にすがればいいというのだろうか。
それは彼女自身にも言えることだった。
「シンジ君、最近どうしたんですか?」
「え、ど、どうって何が?」
マヤの言葉に、ミサトは動揺を隠して答える。
「最近、毎日本部に来て、遅くまであたしたちの手伝いしてくれて」
「邪魔かしら」
「いえ、それはすごく助かってますけど……」
「寂しいのかもしれないし、他にすることがないのかもしれないわ。それは良くわからないけど、でもしばらくは彼のしたいようにさせてあげようと思ってるの」
「……」
「それが正しいことなのかどうか、自信は持てないけれど」
「でも……」
「大丈夫。彼はああみえてしっかりした子よ」
彼女は自分に言い聞かせるように言った。
「案外、早く残務処理を終わらせて、ネルフが解体になって欲しくて手伝ってるのかもよ」
ミサトの冗談に、マヤはくすりと笑った。
「シンちゃん、彼女でも作ってくれるといいんだけど……」
「……アスカちゃんやレイちゃんのこと、忘れられないでしょうね」
二人は一転して沈んだ声になった。
「忘れろって言うのは、無理な相談よね。それに……」
「……」
「忘れる必要も、ないわ」
沈黙が流れる。
「どう、マヤ。今度の休み、デートにでも誘ってみたら? あ、青葉君に怒られるか」
「やめて下さいよ」
マヤはそう言って、頬をかすかに染めた。かまが当たったのかなと、ミサトは思う。
「なに話してるんですか。ひそひそと」
振り向くと、いつもの気弱な笑みを浮かべたシンジが、書類をかかえて立っていた。
「え、あ、どうやってシンちゃんをデートに誘おうかって」
「やだなぁ。からかわないで下さいよ」
彼は微笑を絶やさずに続けた。
「でも、お二人なら大歓迎ですよ。いつでも誘って下さい。僕からは誘いにくいですから」
「そ、そう……」
「じゃ、リツコさんが待ってますから」
そう言ってシンジは歩いて行った。
「変わりましたよね、シンジ君……」
「そうね……」
その後ろ姿を黙って見送るしかない。大声で叫び、何もかもを呪いたかった。
適当な所で仕事を切り上げ、ミサトは駐車場に向かう。
シンジは自分の仕事を終えると、車の中で待っているとミサトに告げる。いつものことだ。車の中なら横になって待っていられるからと言う。
シンジは疲れて眠っているのか、目を閉じていた。
車のドアをあけると、彼も目を開いた。
「あ、お疲れさまです」
「お疲れさま」
深呼吸してからキーを差し込む。
車が走りだしてからしばらくの間、二人は黙っていた。
「ねぇ、シンジ君」
沈黙を裂いて、ミサトが口を開く。
「はい」
「今日はどっかでご飯食べていきましょうか」
話すべきこととは全く違うことを口にしてしまう。
「たまにはそういうのもいいですね。でも、そういう事は朝のうちに言ってもらわないと。もう用意してありますよ」
「そっか。……そうよね」
「明日は外食にしましょうか」
「……ね、シンジ君」
「はい」
ミサトは大きく息をついた。
「毎日、本部に来なくても、いいのよ」
「……僕、邪魔ですか」
「そんなことないわ。マヤだって助かってるって言ってたし」
「……」
「ただ、あなたは疲れてると思うの。無理して……身体でも壊したらつまんないでしょ」
身体まで、と言いそうになり、危うくその言葉を飲み込む。
「他にすることないんです。学校も始まらないし。それに……」
「……」
「決めたんです。無理するって」
思わずシンジを見る。その横顔には、落ち着いた、静かな微笑が浮かんでいた。
「ミ、ミサトさん、前向いて運転してくださいよ」
慌てて前を向く。ミサトは涙をこらえるのに必死だった。いっそ狂ってしまえれば、どんなに楽かとさえ思う。
「残酷な話かもしれないけど」
リツコは煙草をふかしながら、どこか諦めたような口調で言った。
「たぶん、あたしたちにできることは何もないわ」
「何もないって……じゃあどうすればいいのよ……」
「時間が経って、思い出になるのを待つしかないと思うの。それができるのかどうかは、シンジ君次第だけど」
「そんな……」
「ねぇミサト。あたしにはね……」
「……」
「彼が今、ここにこうしているだけで、それが奇跡のように思えるの」
「……」
「あんなことがあって……それを語り合える友達もいないのよ」
ミサトは絶望した。自分は彼の母親にも恋人にもなれず、そして友人ですらない……。
「酷い話、よね……」
ぽつりと呟くミサトを、リツコは醒めた目で見た。
「早く残務処理を終えて」
煙草を灰皿にもみ消し、リツコは天を仰ぐ。
「何もかもやめて、どこか遠くの国にでも行きたいわ。あたしのことを知っている人のいないところ。できれば季節のある国がいいわね……」
季節、か――。
もし季節というものがあるのなら、今は春だ。しかしそれがどんな季節であったのか、ミサトには思い出すことができなかった。シンジは知りもしないだろう。彼が生まれた時、もうこの国には季節などなかったのだから。
――桜が咲いたらしいわよ。こういうのも狂い咲きって言うのかしらね。……ちょっとミサト、聞いてるの?
リツコの言葉を聞き流し、ミサトは部屋を後にした。外の空気が吸いたかった。
ジオフロントから地上に出る。いつもと変わらない陽差しと、セミの声。
暑い――。
ここには、もう春なんて来ない。ずっと夏のまま変わることがない……。
「ミサト……」
後を追って来たのか、リツコの声が聞こえた。
「思い詰めても身体に毒よ」
「……」
「大丈夫よ。シンジ君はあなたが考えてるほど弱くはないわ。ちゃんと見ていてあげれば心配ないわよ」
ミサトはゆっくりと振り返り、リツコの目を見つめた。
「……本当にそう思う?」
「ええ、思うわよ。どうして?」
毎晩、一緒の布団で眠っていることを話したら、彼女はどう思うだろう。それを考えて、ミサトは淋しく笑った。
「そうだといいわね……」
「ねぇ、ミサト」
リツコが口調を変えた。
「今日あたり、久しぶりに飲みに行かない?」
「ありがとう。でも、ごめん。シンジ君のこと、しばらくは一人にしておきたくないの」
「そう……」
リツコの気持ちが嬉しいと思う。しかし彼女は、飲んで気分を変える気にはなれなかった。
「桜が咲いたんですよ。一本だけらしいんですけど」
「へぇ、どこに?」
リツコも同じようなことを言っていたのを思い出しながら、ミサトは言う。
「学校のそばの公園です。マヤさんが教えてくれたんです」
「マヤがね……」
デートでもしていたのかなと思う。こんな時代でも、何か楽しめることを見つけられるなら、それは素敵なことだ。しかしミサトには、それが何か遠い他人事にしか感じられなかった。
「みんなで花見でもしませんか。僕、花見ってしたことないんですよ。ビールでも飲んで、ぱーっと」
「いいわねぇ……」
さりげなく答えながら、ミサトは悲しくなった。どうしてこの子は、こうして周りに気を遣うのだろう。みんなで騒ぐのは得意じゃないはずなのに。
「じゃあさ、みんなで行く前に」
ミサトは、なるべく明るく聞こえるように、元気に言った。
「今度の土曜日にでも、下見に行きましょう。ビール持って」
「いいですね。じゃあ僕、お弁当作ります。でも、お酒飲むなら車はダメですよ」
「歩いて行くわよ」
ビールなんてもうずいぶん飲んでいないことを、急に思い出した。
その日は薄曇りで、陽差しの柔らかな日だった。
ビールと弁当を持った二人は、広い公園の中の桜並木で、一本だけ花を咲かせた樹のそばのベンチに腰をおろした。
「どうして一本だけ咲いてるんでしょうね……」
「どうしてかしらね……」
何を話していいのかわからない。花を楽しむ気分でもない。二人は黙ったまま、静かに桜を見上げていた。
「ねぇ、ミサトさん……」
長い沈黙の後、桜を見つめたままシンジがポツリと口を開いた。
「……綾波やアスカのこと……忘れられないんです」
「忘れなくていい」
思わず大声になったミサトを、シンジは驚いたように見つめた。
「忘れる必要なんてない。辛いかもしれないけど――」
「辛くはないです」
彼はミサトの言葉を遮り、再び桜を見上げて言う。
「辛くはないんです。……ただ、自分が許せないだけで」
「シンジ君……」
「ミサトさん、僕に言ってくれましたよね。今は生きてるんだから、しっかり生きて、それから死になさいって」
「……」
「僕は今、生きてるんですか? 綾波やアスカは、しっかり生きたんですか?」
答えられるはずもない。ミサトは黙ったまま、シンジと同じように桜を見上げた。
「ミサトさん……」
シンジが静かに言う。
「しっかり生きるって、どうすればいいんですか」
「シンジ君……」
「教えてください。ミサトさん」
「……」
「わからないんですよ。……教えてくれませんか」
「……」
「このままじゃ……死ぬこともできない……」
ミサトはシンジを見つめ続ける。
それはただ、目を逸らすことができなかっただけなのかもしれない。
「あの二人のために、僕は何が――」
シンジは唐突に言葉を切った。ミサトが彼の目線を追うと、そこには蝶が舞っていた。少し黄金色がかっているのと、微かに空色の、二匹の蝶。
お互いをいたわり合うように、寄り添って舞っている。ゆっくりと二人に近づき、しばらくまとわりつくようにして、それから桜の花に向かって飛んでいった。
それがレイとアスカの魂だったとは思わない。シンジと、それにもしかしたらミサトのことを慰めに来たとは思いたくない。
それでもミサトには、そこに二人がいるような気がしてならなかった。
「綾波……アスカも……」
「……シンジ君?」
「良かった……元気そうだね……」
彼は穏やかな表情で、ゆっくりと舞う蝶を見ていた。飛び去って、見えなくなるまで。
「ビールを」
目線を落としたシンジは、そう言って缶ビールをクーラーボックスから出し、プルトップを開けてミサトに差し出した。
「飲みませんか」
「あ、ありがとう……」
「僕も飲んでいいですか」
「いいわよ」
シンジもプルトップを開けた。一口飲んで、顔をしかめる。
「美味しくないですね……」
「……もう少ししたら、わかるようになるかもね」
「早く大人になりたいです。もう……子供なんて……」
風が吹き、花びらが舞う。
それは目を覆い隠し、何も見えなくなる。真実も、偽りも。夢も、現実も。
――希望も、絶望も。
そして、風がやんだ時――。
来年の今頃、また花は咲くのだろうか。
桜の花がこんなにきれいだなんて、知らなかったな……
……
ねぇ、綾波
……なに?
綾波は、知ってた?
いいえ。……知らなかったわ
……どうして、こんなにきれいな花が咲くんだろう
生きようとしているから。自分のことを、見て欲しいから
そうか。……そうだよね
……
来年もさ、こうして桜が咲いたら、花見をしたいよね
……
アスカも、来れるといいよね
僕も……来てもいいかな
夢は現実の続きで
現実は夢の終わり
僕の記憶の中に君たちがいて
僕は君たちの心の中にいて
僕たちには未来が必要で――
自分が動かなければ何度も気づくだけ、なんだな……
何も変わらないんだ
いつまでも
甘えてはいられないんだ
たとえ夢の終わりにでも
現実があるのなら
自分の想いは……
それだけは信じても、いいよね
いつか、きっとわかりあえるから
来月から第二東京市で学校が始まることになったわ。急で悪いけど、あなたにも転校してもらうから、引っ越しの準備をして。
あたしも行くわ。もうここには、あたしじゃなくちゃいけない仕事なんて残ってないし。向こうで何か新しい仕事を探すわ。あたしだって生きて行かないといけないからね。
そうそう。あなたの他にも、転校生が二人いるみたいよ。
向こうでも桜が咲いてると、いいわね。
……シンジ君、聞いてるの?
ここにいても、いいのかな……