『綾波レイの幸せ』20周年特別競作企画

 この企画は2021年7月1日、突如として発動され、pixivにて公開された。
 これはその記録である。

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 pixiv
 
 特設感想掲示板

雑感

 繰り返しになるが、この企画は2021年7月1日、突如として発動された。少なくとも私にとっては突如である。そのいきさつや意図については発起人の一人であるのの氏の【御礼・振り返り日誌】に譲りたいが、私としては「なんの話?」と言うしかなかった。全く状況が掴めなかったのである。
 TwitterのTLを追っていくにつれ、なるほど企画をやるのねと理解し、基本は見てればいいんだなと思ったのも束の間、リレー小説の執筆者に指名されていてのけぞる。ま、祭りは見てるだけって手はないんだけど、公開まで十日しかないではないか。締切までは一週間か?

 概要がティザー広告的に徐々に明らかになるにつれ、規模の大きさにまたものけぞる。発表の仕方の妙。まさにフェス。素晴らしいアイディア、発想能力。後で聞くところによると、とんでもない方にまで声をかけていたようで。その熱量、頭が下がります。
 懐かしいあの方この方の参加が徐々に明らかになり、またものけぞりまくる。腰を痛める。
 そしてリレー小説は企画発動と同時に、本編たる企画作品は8月1日から公開が開始された。

 というわけで、私はここ「綾波レイの幸せ」というサイトの編集人であるが、わかりやすく言えば管理人でもある。これは綾幸の住人たちが管理人に内緒で企画・発動したお祭りである。
 発起人であるのの氏、史燕氏、あまりの盛況によりサポートに入って頂いたアールグレイ氏、びっくりするくらい沢山の素晴らしい作家の皆さん、読んで、見てくれた皆さん、そして掲示板に感想を書いてくれたあなた! 本当にありがとうございます!
 感想は永遠に募集中、いつでもいつまでも歓迎します。タイミングを逸したとか、ありません。臆せずどうぞ。作者の皆様もお返事をよろしくお願いします。私も書きます。



戯言

 なぜTwitterを始めたのかはもう忘れた。アカウントそのものはかなり前から持っていた。更新チェック絡みだったはずである。
 例の匿名掲示板――5ちゃんねるで、のの氏と誰か(後にアールグレイ氏とわかる)が絡んでるのを見て、Pixivを見に行き、そこからTwitterに入ったのかもしれない。そもそもPixivは絵を描く所だと思っていた。小説も置けると知ったのはこの時だ。

 Twitterの難しさは、私の見ているTLは私のTLであってあなたのTLではない、という部分にあると思う。そこが旧来の掲示板とは決定的に異なる。いわゆる「巻き込み」という問題も含め、文化が決定的に異なるように思える。話題の全てを把握しようとすると情報量が多すぎる。何百人とフォローしている人はどうしているんだろうと本当に思うが、リストを作るとか、何らかのテクニックがあるはずだ。そうでなければ一日中張り付いている事になりかねない。私にはついていけない部分もある。引っ掛からなかった話題には縁がなかったと思うしかない。
 みんなはお喋りをしているのにお前は文章を書いている、と別の所で言われたことがある。間違いない。そういう個人的な問題はある。
 そういう感覚の違いを差し引いても、やはり面白さはある。若者言葉に対する違和感もそうだ。違和感なので取り入れたりはしないが、言葉は生き物なんだなと思う。

 かっこいいとか素敵という感覚に「渋い」という単語を使い出したのは私より少し上の世代だが(今でも使う?)、ある人が喫茶店に行って確か紅茶を頼み、あまりに美味しかったので思わず「渋い!」と言ったらウエイトレスが気分を害した顔でお茶を下げた、なんて笑い話もあった。まぁそういう違和感である。気分は害さないけど。

 そういう違和感だったり、最近で言えば性に奔放だったりの色々な話題の中で、ヨシヲ氏という絵師の方がtwitter上に書いていた漫画を発見した。のの氏、史燕氏、アールグレイ氏、その他数人の方が、いわば三次創作とも言うべきストーリーを付けていた。
 私も書いてみよう、と思った。
 後に、押し掛け女房か、と言われた事態である。
 そこそこまとまった話を書くのはいつ以来だろうか。「まとまった話」の定義は難しいが、掲示板投下ではなくサイトに上げた話ということなら13年以来になる。掲示板投下でも16年が最後。
 アイディアがあってその気になればいつでも書ける。そう思っていた。問題は「その気」だった。

 のの氏の呼びかけにより、史燕氏、みれちー氏、じゃないや柳井ミレア氏、そして私でオンラインオフ会があったのは4月24日だった。前提条件なしに楽しかった。
 庵野氏は卒業した。私は取り残された。卒論を書かなければ卒業は出来ない。私はそう感じた。多少の違いはあっても、みんなそう感じたのではないか。卒論。アイディアがあってその気になればいつでも書ける。その時もそう思った。いつでも書ける。
 シンエヴァは一定の意味で優れた映像作品だったと思う。だが私は優れた作品を提示されただけで成長し離脱できる程度の、それこそ薄っぺらい人生を歩んだきたわけではない。虚構から離脱し現実に帰る。エヴァとはそれを強く意識せざるを得ない物語だった。それはいい。だが帰って来た現実が20年以上前に立っていたあの場所と同じでは意味がない。前に進んでいない。それは受け入れ難い回答だ。社会と接続されるべきだと言うなら、どう接続されるかを問題にしなければならない。そして、あえてこれは書かなければならないが、20年以上も拘泥し続けた綾波レイという「存在」を放置することはできない。その行く末を見届けなければならない。
 これでは永久に卒業などできない。だが卒業とは離脱と同義なのか。自分の中のエヴァに、自分の中の綾波レイにケリをつけるということは、離脱するということなのか。

 問題は「その気」だった。あるいは熱量と言ってもいい。

 Twitterに、ひとつの答えがあった。
 誤解を恐れずに書くが、屈託なく、あるいは血みどろになりながらも綾波レイの幸せを願い、LRSというカップリングを愛し、解像度を上げ、尊いと叫び、先鋭化した仲間たちが、そこにいた。熱があった。私もかつてはここにいた。心からそう思った。考えるだけで動かないのでは考えていないのと同じだ。とにかく動く。そうしなければ話は始まらない。

 ヨシヲ氏も綾幸の住人であると判明し、戦慄した。その後もそういう住人がわらわらと判明し、レジェンドだのなんだのと呼ばれて困惑するのであるが、つまり20年というのはそういう時間だ。まだ産まれてなかった人だっている。正直、勘弁してくれと思わないでもないが。

 何とか評論家のブログの文章がイタイ、という話が少し前にあった。その内容はともかく、文章スタイルについては大きなお世話である。後書きとか解説とかでキャラと作者、あるいはキャラと管理人が会話するとかって、やったことあるでしょ? そういう時代だったんだよ。忘れてしまえばそれでいいの。過去は過去。消せはしないけど必要なら決別はできる。そういうこと。

いずれにしても

 結論を出す――提示するのはもう少し先の話になる。