他にはなにも聞こえなくても、それだけはわかる。

耳を塞げば塞ぐほどそれはそれは際立ってゆく。

そう、この音、こんこん脈打つここのこの音。


DOKI DOKI

written by NONO   


「碇くん」
 綾波レイの声は彼女自身にも聞こえなかった。真上で急行列車と各駅停車がすれちがっているせいだっ
た。それに加えて、高架を通り抜けた反対側の通りで第五次都市再生計画という、頓挫を重ねつづけてい
る工事が思い出したように動いており、鈍くて重い音を何やら我が物顔で列車に重ね合わせていた。
 それなのに、彼女の横を歩く少年は目顔で呼びかけに答える。

「なんでもない」
 彼女は一応声にも出して首を振った。高架をくぐりぬけると、蝉の音が戻ってくる。街路樹もあまりな
いこの通りで、一体どこに止まっているのかわからない。後ろでまだ電車の音がするので振り返ると、先
程とは別に貨物列車が通過していた。こうもひっきりなしに列車が通過するのは、少年やレイと使徒との
戦いの度に街が壊されるからだった。だからこの喧噪の責任の一端も彼女たちにあると言えなくもない。
だから声が聞こえないことをどうこうのと言う資格がないことをレイはわかっていた。おそらく自分が思
う以上に傍らの少年はそう思っているにちがいないと彼女は考えていたし、実際にそうだった。
 その証拠とでも言うように、少年――碇シンジが泣き笑いのような顔で、すごい音だね、と呟くように
言った。

 シンクロテストが終わったばかりの、二人の足取りは、軽さと危うさを併せ持っていた。浮遊感が残る
身体で今日のような湿度の高い夕方と夜の境界線を歩くのは実は不向きだということを、二人は経験的に
知っていた。
今日のテストでは珍しく、レイが最も高い成績を残した。そのせいで赤い髪の少女は早々に帰ってしま
ったのだ。それは彼や彼女には、どうすることもできない。彼女は彼女の意志でエヴァに乗っている。
それだけでなく、一番でなければ気が済まないのだから、少女の怒りはごく自然であるゆえに、二人に
は宥めようのない怒りだった。こうなって理由にはもちろん、使徒に飲み込まれた少年の深層意識に残
る傷と、先の戦闘で赤い髪の少女が味わった無力感が二人の数値を下げたためだ。しかし、だから仕方
がないという結論に達しないのが彼女の脆さであり、危うさであると同時に、確かな強さでもある。
 退院明けだからと少年は少し早く終わったのだが、二十分ほど終わるのが遅れたレイとアスカが戻って
きた時も、更衣室から出たときも更衣室前の椅子にずっと座っていた。レイがシャワーを浴びて出たとき
に、彼の左頬はレイもつけた記憶のある色に染まっていた。だから、何をされたのかは彼女にもすぐにわ
かった。
帰ろう。
レイはただ頷いて、ただ一緒に歩いている。帰ろう、と声をかけられたことは今までなかった。訓練の
後は自然と一緒に帰るようになっていたので、改めて言われると、彼女はなぜか落ち着かなかった。返
事をしたくても声がうまく出なかったのは、エアコンのききすぎた廊下のせいだけではないような。

 薄暗がりの道の街灯は明るさに欠けていた。使徒襲来以来、攻撃設備の修復や準備を最優先しているの
で、町全体で電力制限がかかっている。ネルフ職員が多い街なので、家でも自粛している人が多いのだと
いう。葛城ミサトは「パイロットはそんなこと考えなくてよろしい」と言っていて、赤木博士はそれを「自
分が好きにやるための方便ね」と分析していたことをレイは思い出した。セカンドインパクトの大津波に
より飲み込まれた沿岸部、大都市。それらを乗り越えた大人の冗句に含まれる重量感。自分が結局ちっと
もなんであろうと、まずはただの子供にすぎないのだったと、思い知らされた。
 街は少しずつ暗くなると同時に、夕陽がいよいよ最後の輝きを見せ始めていた。
レイは暗い街が嫌いではなかった。特別、良いとも思っていなかった。
「暗いと、怖いよね」
 赤信号で立ち止まった瞬間、少年が唐突に言った。頭を覗かれたようなタイミングに、珍しく驚きが彼
女の顔に出て、少年まで驚いてしまった。
「ど、どうしたかな」
「いえ。碇くんは、こわいの?」
 逡巡の後、彼は頷いた。よく憶えていないけれど、この間飲み込まれた闇を思い出すから嫌だと彼は言
った。
「何かを思い出せる訳じゃないけど、何もわからなくなるんだ、何もなくなると、何も見えなくなる気が
してしまうから」
 使徒に飲み込まれたビルの一部が、使徒殲滅により瓦礫となって戻ってきたその処理のために、大型ト
ラックが二人の目の前をひっきりなしに行きつ戻りつしていたが、ようやく止まった。二人が立ち止まっ
ていた横断歩道を渡るのにはその車の間を縫うように歩かなくてはならなかった。するりと抜けていく少
年の身体が半分見えなくなる。それを追いかける。それだけならいいとしても、レイは巨大な車や構造物
に囲まれる少年が、ふとしたきっかけでまたどこかへ飲み込まれてしまうのではないかという気がしてし
まうのだった。そんな想像、したことなかったのに。そんなこと思ったことはなかったのに、どうして彼
のことをこんなにも気にしてしまうのか、綾波レイは意図的なまばたきを挟みながら彼の後を追う。
「綾波、はやく」
 少年が振り返る。きちんと前を見て歩いて欲しかったレイは少し急いで彼につづいた。横断歩道
を渡りきるタイミングで、トラックに隠れて見えなくなっていた信号が赤になっていた。
 少年の提案で、表通りを避けて帰ることにした。別れ道まで遠くなるその提案に頷いて、次の交差点の
手前で路地に入る。急に胸を掻き立てられるような音が小さくなって、風が通る音が目立つようになった。
はためこうとするスカートを押さえながら歩いてレイが思うのは、髪が短くてよかったなということだっ
た。自分のような色の髪の毛が長くても仕方がない――脳裏に浮かぶはもちろん、赤い髪。
ビルに挟まれた路地は思っていた以上に暗いのに、突き当たりのビルは西日を浴びて赤々としているそ
の対照性があまりにも際立っていた。反射する夕陽に目を細める少年を脇目に見つけたレイは、半歩彼に
遅れた。静けさと騒々しさが同居する細道を出た少年が目を細める姿がはっきりと目に入る。聞こえない
はずの声に反応してくれた時にも勝る高揚感。身体ごと跳ね上がりそうな程に跳ねた心臓に、思わず咳き
込みたくなるのをどうにかこうにかこらえて、彼女は目を離せない彼を目で追った。
 遅れるレイを訝しそうに振り返ったシンジが、細めていた目を見開いて、また細めた。
「なに?」
 遅れを取り戻すべきところをそうはせず、少しだけ右に身体を傾けるレイに、シンジは屈託のない苦笑
という離れ業で応対した。
「なんでもないよ、ただ眩しかっただけだから」
「そう。なら、いい」
 自分の声は、こんなに低かったはずがない。それなのに、そんな声が彼の耳に届いてしまったかもしれ
ない、ではなく、間違いなく届いてしまった。だからどうしたというの、そんなことくらいで――どうし
てしまったんだろう。
 レイは自分から遠ざけてしまった少年との距離を縮める方法を考えながら、闇へと沈まんとする街を歩
いた。すぐ隣にいる少年の表情が少しずつ見えにくくなっていく。夜と溶け合う少年を、水の中で水を見
るよりは簡単に、しかし注視するにはにっちもさっちもいかず落ち着きのない心臓に四苦八苦しながら、
夜へと姿を変えつつある街を歩いた。
「じゃあ、僕、こっちだから」
 別れ道で立ち止まる。いつもなら立ち止まって、挨拶をして終わる。そんないつも通りの所作を思い出
しながら、レイは、いつもの言葉を探した。それなのに自己主張する心臓のせいで、言葉が出てこない。
自分を待つ少年が首にまとわりつく汗を拭う動作がまた、レイを困らせた。言葉を思い出す前に、彼の細
い首に目が動いてしまった。
 少年が口を開いた瞬間、すぐ側を中型トラックが荷台に軋む金属製の荷物を乗せて通りすぎた。少年は
既に言い終えた後だが、首に目を奪われかけたおかげでレイにはわかった。
「ええ、また、明日」
 レイの言葉を聞いた少年が、眼を細めて薄い顔で作った確かな笑顔に脈拍を狂わされながら振り返って、
歩き始めた。ぎこちない気がしてならない自分の身体の中でどうにもこうにも落ち着きのない心臓を、夜
へと姿を変えた街に紛れさせながら歩き始めた。そんな彼女の背中を見つめる少年の心臓がにっちもさっ
ちもいかず落ち着きがないことなどもちろん、どうにもこうにも知りようがないままに。





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あとがき

ま、短めに。
久々に書いてみました。
ええ、いつも通りです。
ゆえにゲロ甘ではないとはわかっております。
読み手に打ちに行く(積極果敢に萌える)姿勢を強要しているFFとも言えるかもしれませぬ。

ま、少し甘さ控えめでも許してください。
ぶっちゃけこれが限界っすよ(汗)