− あなたのために生きてます −
まるで、そんなことを言っているような彼らに、私は共感を覚えた
私も、あなたのために生きているから
あなたがいるから、私は生きる
だから私はここにいる
でも私は、それがすべてじゃない
それがすべてであって欲しい、そう想うけれど、私の中には、私の始めを求めるものがある
それはずっと昔から、ずっと深くから根付くもの
私はそれに抗えない
でも、それでも、私は願う
私の心も、象も、そのすべてで、あなたのために生きたいと
だから私は、その心でも象でも、そのすべてで生きている彼らを感じて思うのだ
− あなたのために生きてます −
そんな彼らに
ラクトバシラスに
私も倣いたい、と
Lactobacillus / Ayanami aba-m.a-kkv
銀色のスプーンに乗った一口のヨーグルトが、レイの口の中に滑り込まれていく
幾らかの咀嚼の後に、喉を滑り降り、お腹の中を巡って落ち着き、定着していく
そして、外から来た彼らは、レイの中にあって身体の一部、大切な身体の一部になっていく
それは、ある日の朝食の風景だった
人の計画と月のシナリオとが混在する劇場に縛られていた頃、レイの食事といえばとても味気ない、食事とも呼べないようなものが多かった
サプリメントや栄養バランスを整えた補助食品、そんなものばかり
本部でも食堂の一番簡単な部類の食べ物を選ぶことが多かったし、ゲンドウとの会食でもあまり手を付けることはなかった
学校の給食にはそもそも、巡り会う回数自体がほとんど無い
その頃のレイには食事というものへの関心が無かったから、それを気にすることなどなかった
否、食事というものに関心を持つ必要など無かった、故に気にする必要もなかったというのが正しいかもしれない
全ては劇場で踊り、幕を下ろすためだけに生きていたから
脆い身体をそう遠くない終焉まで維持できさえすればよかった
いまも、必要かどうか、と極論に焦点を絞ってしまえば、あの劇場に縛られていた頃よりも必要ないかもしれない
レイの身体は普通ではないから
覚醒したこの身体、S2機関と使徒構造体で再構築されたこの身体なら、やろうと思えば食事を取らなくても永遠のような時を統べることが出来る
もともと単独生命体として存続するように創られたのだから、共存微生物の力を借りずともやっていけるし、善玉にしろ悪玉にしろ、入り込んでくるそれらを排除することだって出来る
光子や重力子さえ操作し拒絶出来る絶対領域があるのだから難しい話ではあり得ない
レイに食事というものは必要ない
でも、レイは欠かさず三食豊かな食物を取り入れることを常としていた
そしてそれを楽しみにしていた
それは、ヒトとして生きると決めたから、ヒトとして生きてほしいと望まれたから
食事という形から入るのは悪いことではない
人が子供から大人になっていく過程も全て形から入っているのだから
それに、レイは人に近い機能を持ち、ヒトの心を持っているのだから
そして、ヒトとして生きることをこの上なく喜んでいることも、もう一つの理由
空の青さも、街の雰囲気も、自然の移り変わりも、早足で過ぎてしまえば気づかないようなことでも、見つめればヒトはそれを愉しめる
食事の味や色彩、香りや雰囲気、冷たさや温かさ、そういったものもまた然り
ヒトであることを選んだレイには、その一つ一つが喜ぶべき楽しいことなのだ
「うん、特売のヨーグルトだったけど、美味しかったわ
今日、帰りにもう少し買い置きしておこうかな」
空になったヨーグルトのプラスチック容器をテーブルの上に静かに置いて、レイはそう呟く
こぢんまりとした明るい木調のテーブルに置かれた朝食は、多くはないものの昔に比べれば遥かに彩りがあるようになった
小麦色に焼けたトーストを乗せた白磁の皿、色鮮やかなサラダが入っていたガラスの器、紅茶が入っているお気に入りの草色のマグカップ
ジャムやバターの入っている彩ある瓶も幾つか
いまはもう食べ終えて空になっているそれらの食器は水色のチェックのテーブルクロスの上に載っている
そんな朝食を終えようとして、レイはふとお腹に手を当てた
赤い光が、レイの掌にぼんやりと輝く
「うん、今日も私のために生きてくれてるみたいね」
そうやって、レイは共存者たちを感じていた
ヨーグルトやチーズなどの乳酸発酵食品を作り出すものたち、広く乳酸菌として知られているものたちを
ヒトの身体の中にも多くいて健全な環境を整えている彼らは、肉眼には見えないほど小さな菌たちだ
でも、彼らも生命体である以上、その存在と形を保つために絶対領域を持っている
強力な絶対領域を統御出来るレイは、そんな微弱な絶対領域の群れに触れられる
普段生活しているときには関知することの出来ないくらいの規模だけれど、自らの領域を探索に特化した形で強化すればその存在の雰囲気くらいは分かるのだ
「あなたたちは、少し私に似ているような気がする
あなた達も自分が存在するために、私のために生きてくれているんだものね」
窓から差しこむ朝の陽光に照らされながら、レイは瞼を閉じ、はにかんだように笑顔を溢す
日に照らされて生まれた影が重なるように、レイの中で折り重なる想いがあった
その感慨に浸っていたいとも思う
朝の柔らかくほのかに暖かい雰囲気の中にいるのはとても心地いいものだから
でも、今は時間がない
「ごちそうさまでした
うん、ちょうどいい時間」
テーブルの上の携帯が表示する時刻を確かめ、朝食の片付けを始める
隣の椅子の上にはもう整った鞄が置いてあるし、玄関にはコートもかけてある
ゆっくり片付けて準備をして出掛ければ、ちょうどよく大学に着く、そんな頃合いだった
ベージュに白のラインがついたヘルメットを被り、薄いグレーの色が入ったゴーグルをつける
それらが入っていたスペースに、授業で使うノートや筆記具などを詰め込んだレザーショルダーを仕舞い込んだ
閉じたシートの上に跨がって、足の間のスペースにランチボックスを入れたトートを挟むように置く
わすれものはないわね、そう一通り巡らせ、それからレイは幾つもある鍵をより分けて愛車であるスクーターに火を入れた
レイの暮らす家から大学まではだいたい十五分程度
山々に囲まれた自然豊かな道を走っていく
回復した日本の四季折り折りを感じ取れるこの道を、自らが作る緩やかな風に乗って走るのはレイのお気に入りの時間だった
短すぎると浸れないし、長すぎると何処かに寄り道していってしまいたくなる、だからこのちょうどいい長さの運転はいつも心地よかった
今日も調子のいいエンジンの回転振動を感じながら、でもレイの眸からはいつの間にか周りの景色が薄れていく
ただ真っ直ぐ前を見つめ、思考のスクリーンは別のものを映す
そう、いつの間にか考えを巡らす時に移り変わっていった
この通学の道は、そうやって考えて前に進むのにも適した時間だった
車の往来も人の行き交いも少ない静かな道だし、毎日通うレイの身体はもう道を覚えていて思考の半分を持っていっても問題はない
それに、急いでいるときでない限りレイはゆっくり走るのを常としている
ゆったりと走る感覚、エンジンの一定な振動、そういうものが誘う思慮もまたレイの切り取ろうと思う時間だった
けれど、今日のレイの思慮に現れたのはそういう前向きな考えとは違った
考えるというよりも、覆われる、それが正しいかもしれない
もっと深くから、もっと根底から湧き上がり、滲み出てくるようなもの
そして、慣れ親しみすぎたものでもある
きっかけはやはり、朝のヨーグルトだろう、レイはそう感じていた
それは、使徒の声だ
始まりの場所、始まりの象に帰りたいという、使徒本来の切望がまるで声のように内奥で木霊する
レイの身体が使徒のそれである以上、その帰還が果たされることのない限り収まることのないざわめき
レイは前を見つめていた視線を少し落として、自分の足元にあるランチボックス、その中に添えたヨーグルトのカップを視界に入れた
「私は、あなたたちに似ている、って言ったけれど
すべて、じゃ、ない」
レイは真っ直ぐ前を、走っていく道に視線を戻し、アクセルを握る手の力を意識して緩めた
無意識に身を委ねると、限界までそれを引き絞ってしまいそうな感じがしたから
スクーターのエンジンが低回転で唸り、振動の伝わりが緩くなる
「あなたたちはそのすべてで生きるけれど
私はまだ、私のすべてであの人を求められていない
私の欠けた心は使徒の身体をも支配して、彼のために生きることに存在を付した
でも、使徒の身体の、その中にある象はあの人以外のものを求め続けて止まない
前の私が捜し求めていたものを、いまでも捜している
私は、私のすべてであの人のために生きたいと願うのにね
あなたたち乳酸菌のようでありたいと願うのにね」
独白が風に溶けて後ろへ後ろへと零れていく
そんな言葉を紡ぐ口唇を噛んでレイはその流れを潰した
俯きかけた顔を戻すために大きく息を吸い込み、澄んだ森の空気で閉じかけた瞼を開いた
「使徒である私にはしかたのないこと
それでも生きると、この心に刻んだんだ
乳酸菌のようにすべては無理でも、私の欠けた心で出来うる限り、私は生きる
あの人の隣で」
レイは笑みを浮かべて道の先を見つめた
青く澄み渡った空と色づき始めた自然の中に白い人工物がぽつりぽつり見えてくる
それは一つの街のように聳え並ぶ大学や研究機関の建物群
レイの目的地であり、今日は待ち合わせの場所でもある
そんな景色を紅い眸に映して、レイはゆったりだったエンジンの火炎を強くした
景色の映り行きが早くなり、風を切る音が高くなり、エンジンの高回転の振動が身体を揺する
それらが、レイの意識を、今日もまた一生懸命ヒトとして生きると決めた心に塗り替えていく
でも、乳酸菌がヨーグルトを作り出すようにレイの中で何かが醗酵しだした音は、それらの中に掻き消され、それでも着実に広がり始めていた
青色の奥行き高い空の下
広大な大学の敷地内を走るレイの眸に、かつての戦友、そしていまは親友として近くにいる亜麻色の髪の人が大きく手を振っているのが見えた
そんな親友の姿に、レイは微笑んで小さく掌を挙げると共に、昨日約束した時間に遅れていないかと腕時計を確認する
時計の針はいつものレイらしくぴったりの時刻を示していた
自分が遅れたわけではないようだと、レイは少し息をつく
その吐息が白くなるほど季節は冬に傾いてはいないが、夏らしさも消えて久しい
大学の周辺を囲む山々は段々と色づき始めていた
秋真っ盛り、それでも肌寒さはまだなく秋晴れの空気は温かみのある柔らかさを漂わせている
太陽が大学の校舎にくっきりとした影をつけ始めて、今日も暖かくなりそうだった
「グーテンモーゲン、レイ!!」
威風堂々としたお決まりのポーズで惣流アスカは元気な声を響かせた
レイは校舎横の乗り物置き場にスクーターを停め、ヘルメットとゴーグルを外す
蒼銀の、昔より少し長くなった髪が大学の建物群を抜ける風に揺れた
「おはよう、アスカ
今日は早いのね……髪も、綺麗に整えてあるし」
そう言ってレイはアスカの髪を触る
アスカの誇る亜麻色の髪は綺麗な光沢を帯びていた
今日のように比較的早い時間帯の集合のときは、アスカは決まって遅れてくる
中高時代も朝が弱い彼女は定時ギリギリのことがしばしばだった
そして、そんな朝にはあまり髪を整える時間もないから、ここまで綺麗に手入れしてくることは無い
だから、今日はだいぶ余裕があったのだろう
自慢の長い髪を綺麗に整えることが出来るくらい、早く起きれた、ということだ
「えっ、あー、いつものことじゃない?
まーいいじゃないの! 早く行って、いい席取らなきゃ、さっ、行こう行こう」
ワザとらしく笑うアスカはどこかすました様な、照れたような、そんな雰囲気を隠そうとして隠しきれていなかった
そんな彼女を見て、ほとんど察しがついたレイはクスクスと笑顔が零れてしまう
「な、何よ、なんか言いたそうね」
眉間に皺を寄せて、でも微かに頬を染めて、言っていることと反対のことを顔に書いているアスカを、レイは可愛いと思う
それは幸せな困惑に見えた
そして、そんな幸せを感じられる自分も嬉しかった
それから、どう返せばいいかと一瞬視線を上に向ける
たぶん、具体的に出さない方がいいのだろう、だからこう返すことにした
「いいの、聞いても?」
ぴたっ、とアスカが目を見開いて止まる
それから何かをいろいろと紡ごうと試みてはうまく行かないようで、ついには崩れるように俯いた
「ごめん、やっぱり聞かないで……」
降参、といった感じで両掌を小さく挙げるアスカの姿を見て、レイは再び小さく笑った
恐らく、確実に、今日アスカはカヲルの所からここに来たんだろう
起きれたじゃなく、起こしてもらった、が正解だと思う
渚カヲルは何か意図がない限り自分に対しても人に対しても約束や時間に正確なヒトだし、アスカをなんとか出来る唯一のヒトでもあるから
そして、繊細な仕事が得意なヒトでもある
「でも……幸せなことよね」
アスカの姿を見て、そこに結ばれるカヲルとの絆に触れる
こんな風に会話できるアスカと自分との、ここにある絆を感じる
そして自分と自分の生きる意義である人との絆を想い起こして、レイは無意識にそう言葉を紡ぎ出していた
言葉が先に出て、思考がその後についてくる、でも、零れ落ちたその言葉はとてもすんなり染み渡っていった
水が土に染み込むように、日の光が緑に染み渡るように
そして、それはアスカも同じだったらしい
「そうね……考えられないくらい、幸せよね
いままでも、これからも、どこまでも
あなたのために生きてます、って言えて
あなたのために生きてます、って言ってもらえるなんて」
アスカが太陽のように明るく笑った
その笑顔と言葉にレイは魅入る
重なった影と影に光が注いだような気がした
アスカが放った言葉が、朝食の時の考えにリンクする
共存者である乳酸菌たちの関係と自分について考えたことに
そして、何故か、いままで考えなかった領域への扉が開いたような、そんな思考がレイに中にぱっと浮かんだ
リリンがリリスから分離して、群体としての使徒として生き始めてから今に至るまで形成されてきた身体の中のシステム
乳酸菌をはじめとする共存微生物たちと人との関係はまさに、「あなたのために生きてます」という形と成り続けている
自分が生きるために相手のために生きる
相手のために生きているから自分も生きていける
乳酸菌達も人も、それぞれの存続のためにそれぞれの環境を整えている
互いが互いのために生きる、けれど乳酸菌と人とのそれは、生物的なシステムに過ぎない
そこにヒトの心と交わるような感覚的なものは無いかもしれない
でも、それはいままでずっとずっと続いてきた
変わることなく、廃れることなく、行き詰まることなく
人の身体の中で、いつでも、どこでも
それは違えようの無い事実
そして、乳酸菌と人との繋がりは、アスカやカヲルの、自分と彼の人のとの相互依存というものと似ている
そこから一つの考えが芽を出した
双葉を広げたそれは、レイの中で見る見るうちに成長し、枝葉を伸ばしていく
もし、そうであるなら……私は……
「れ……い……レイ!」
アスカの声が意識を貫き、レイは顔を上げた
目の前には怪訝そうなアスカの青い眸がある
どうやら数旬の間、考え込んでしまったらしい
「アスカ……」
「いきなり潜り込まないでよ、レイの悪い癖ね
幸せな私たちは忙しいんだから、一生懸命今日も生きないといけないんでしょう?」
アスカがレイの蒼銀の髪を撫でて笑顔を向ける
快活なその笑顔は朝の覚醒にぴったりだと思いながらレイは頷いた
「ええ、今日も頑張りましょう」
レイもアスカも互いに顔を合わせて笑い合う
胸の奥が泡立つように酵しだされる感覚が心地よかった
「ん! じゃあ、一限までまだ少しあるし、何か飲み物でも買っていかない?」
アスカがそう言って、近くの校舎横に何台かある自販機へと歩き出した
キャッシュ機能のある認証カードをセンサーにかざして飲み物を選んでいく
アスカはあれこれと迷いながら結局最初に指差したボタンを押した
小気味いい音をたてて缶が落ちてくる
「うん、朝は、やっぱりコーヒーかな」
アスカが引き上げた缶コーヒーを見て、レイがすこし首を傾げる
てっきり、その隣を選ぶと思っていたから
「渚君に合わせて紅茶にするのかと思った」
「あー、それも考えたけど、紅茶はだいたい夜なのよ
レイはなにするの?
やっぱりいつもながらのミルクティー?」
アスカは軽く笑って取り出した缶コーヒーを手の中で振りながら、場所をレイに譲った
レイが自分のカードをかざす
電子音が響いて、自販機のLEDが全部点った
「私は――」
頤に指を当てて見回して、一つのラベルに目が止まる
レイは見つめたまま暫くのあいだ固まって、そしてそのままボタンを押していた
小気味いい音がして、レイの選んだ缶が転がり落ちてくる
「私は、今日はこれにする」
レイが手に取ったのは、白い缶のカルピスだった
埋もれていた意識を釣り針で引きずりあげるような、授業の終わりを知らせる鐘が頭上で響く
紅い眸を真っ直ぐ前に向け、見開いたまま思慮の底に潜っていたレイは、この鐘の音に少し驚きながら慌てて意識を整えた
周りを見渡すと学生たちがわらわらと席を立って講義室を出ていく姿が見える
そういえば、午前中の最後の授業だったっけ、そう思い出して隣を見ると、今日は一日同じ講義を取ったアスカがトントンとノートや教科書を纏めて片付けているところだった
レイが半ば呆けたようにアスカの顔を見つめていると、気が付いた彼女に額を優しく小突かれた
「どーしたのよ、レイ
ぼーとしちゃって、あんたらしくない
ちゃっちゃと片してさ、早くお昼食べに行こ
カヲルもシンジも近場の広場まで来るって言ってたから」
「あ、うん、そうね……」
促されてレイは机の荷物を鞄に仕舞う
講義内容を写していたノートは途切れ途切れで補完が必要だった
あとでアスカに見せてもらわなくちゃいけないわね、そんな風に頭の隅で考えながら、レイは先に席を立って手を差し伸べるアスカを追いかけた
結局、午前中の半分ほどの思考を潰し込んで考えを巡らせたものの、朝に芽吹いた思慮の樹はぼやけたまま確信的なところにはたどり着かなかった
レイはぼやけた思考を纏められずに抱えたまま
それでも、乳酸菌と人の関係、乳酸菌と自分との関連、そこから倣うもの、考えるもの、触れるもの、それ自体は大きく確かになっていく
まだ不鮮明なだけで
そして、レイはその霧をどうしても晴らして見たかった
そこにあるのは、自分にとって、そしてあの人との絆にとって、とても重要なものだと思えてならなかったから
それは、自分の何か、深い場所、根底にあるものを別のものに変えるような、例えば牛乳をヨーグルトに変えるような、そんな変革のキッカケになる感じがする
でも、その思慮考察はいったん途切れることになる
本質的な兄妹と大切な絆を迎えた昼食の時間になったから
ひとときの間、レイはその考えを自分の頭の箱の中に整え入れた
舌の上にも豊かで楽しく明るい時間が過ぎていく
そして、それぞれお弁当を持ち寄っての昼食会が終盤を迎え、午後の講義まであと幾許という頃合いの時だった
いままでニコニコとアルカイックスマイルを浮かべて話を聞く側に徹していた銀髪の青年、渚カヲルが唐突に口を開く
「ねえ、アスカ、なにか飲み物が飲みたいな
出来れば甘いものが」
嬉しそうな表情と赤い真っ直ぐな瞳で見つめるカヲルにアスカは頭を抱えた
いつものこと、という呆れた感じでアスカが口を開く
「ったく、あんたがそういう時にはテコでも動かないんだから
で、何がいいわけ?」
セリフによってカヲルの行動パターンはだいたい決まっているらしい
そして、それによってはアスカはカヲルの意に沿うしかないらしい
レイにはよく分からないが、そういうものでも相手を察し理解できるというのは素敵なことだと思う
それからカヲルは、自販機にある幾つかの種類の飲み物をリクエストした
一人では持ちきれない本数を
「あんた、バカじゃないの!?
そんなに買ってどーすんのよ」
「いやいや、アスカ
幾つかは僕が、残りはみんなにと思ってね
だからすまないけどシンジ君、ちょっと手伝ってきて貰えるかい」
突然の指名に彼はきょとんとしていたけれど、すぐに頷いて席を引いた
カヲルの笑顔と言葉にアスカも渋々頷いてカードを受けとる
そして手を振りながら、自販機へと向かっていく二人の背中をカヲルは見送った
自販機は少し離れたところにあるから、五分くらいかかるだろう
レイは少し息をついて椅子に深く寄りかかろうとしたときだった
「綾波レイ」
凛とした声だった
渚カヲルの赤い瞳が、アルカイックスマイルを浮かべながらも真摯で真っ直ぐな瞳がレイを見つめる
レイは刹那身構えた、出来るだけゆったりと見えるようにはして
こんな風に二人の時、そしてカヲルがレイのことをフルネームで呼ぶ時、それは大概世界に二つしかない存在の深いところに根差す話だ
もしかしたら、否、もしかしなくても、あの無茶な注文はこの場を設けるためだったのだろう
「なにかしら、渚カヲル」
レイはカヲルに問いを返す、ただ普段通りの口調で、ただいつもは呼ばないフルネームで
そんなレイの言葉にカヲルは嬉しそうにくつくつと笑った
「いやいや、そんなに気構えないでくれ、綾波レイ
ただ……」
一呼吸ほどの沈黙、カヲルの赤い瞳が鋭利になった、そんな気がした
「面白く興味深いことを考えているんだな、と思ってね」
レイの眸が見開かれる
突然のこと、いままで和やかな昼食の雰囲気に呑まれていたせいもあるだろう
それに、おくびにも出したつもりはないほどに自分には繊細な考えだ
レイは目を細め、自然と低い声でカヲルに問うた
頭の中に光の鳥の姿がちらついた
「思考を読んだの?」
再び一瞬の間を置いてカヲルの角が消える
笑みを重ねたカヲルは降参といったように両手を挙げた
それから、おどけたような口調で言葉を紡ぐ
「いやいや、僕はその領域は持ち合わせていない
僕の兄にして弟の一人はそれに近い領域を持っていたがね
なに、そう複雑なことじゃない
君の態度や仕草、たまに見せる表情、纏う雰囲気、そして青い血を分かつ存在
そう考えるとそれなりに行き着くものだよ
僕もまた、同じモノだから
だが、不快にさせてしまったなら、済まない」
レイは頭を振る
末尾は本当に謝意を含んでいて、一瞬熱した思考は冷めていた
やはり、自分の種を分かつ兄妹、青の血族なのだとレイは思う
そして、同じ血の流れるものなら、その身に響くものも同じかもしれないと、術と答えを知っているかもしれないと、心内で絡まる疑問の塊を舌に載せてみることにした
「……貴方も、聞こえるんでしょう?
貴方も、すべて従えたわけじゃないんでしょう?」
ざわめき一つ、漣ひとつない赤い瞳が幾許か閉じられた
そして、既に何回も巡らしたものを掬い上げるようにカヲルは微かに頷き、瞼を開いた
静かな、とびきり穏やかな声で零れる
「使徒の声、だね
うん……確かに、僕の場合は脈々受け継いだ十四の兄弟たちの叫びがある
使徒の身体でここに在る以上、使徒の象からの影響を否むことは出来ない」
「そう……」
カヲルは青空を仰ぎ、レイの視線は地に注ぐ
でも、すぐにカヲルはテーブルへと身体を戻し、顔の前で手を組んだ
その動作にレイも顔をあげる
カヲルは明るく、かつ含んだように微笑んでいた。
「だがね、綾波レイ
使徒の象というものも、一定ではないんだよ
それはどのような象にも変えることの出来るものだと僕は思っている
そして、いま君が考えていることは、たぶんそこに繋がるものだろう」
「どうしたらいいと思う?」
どこまでも見透かしたような瞳だ、そう思いながらレイは首を傾げて苦笑いを浮かべる
カヲルも同じように軽く首を傾げながら笑みで返した
「それは君が考えることさ、綾波レイ
リリンがそれぞれにそれぞれで違う欠けた心を持っているように、たった二つしかいない使徒でもまた、選びうる象はそれぞれだ
僕には僕の心と象があり、君には君の心と象がある
使徒の象をどうするか、なにか他のものを使うのか、それ自体を変革するか、あるいはそれ以外の方法か
どうであるにしても、使徒は使徒の象に何らかの答えを付さねばならない
そして僕個人としては、君がその先にあるそれを見出すことを望んでいる」
カヲルが組んでいた手を解いてテーブルに置く
一つ大きく溢れる秋の空気で深呼吸をして、それから穏やかすぎるほどの雰囲気で言葉を零した
「君がそれを見つけ出したとき、僕はもう二度と、君をリリスとは呼ばない
まあ、君は僕のことをタブリスと呼んでも構わないがね」
柔らかいアルカイックスマイルが眩しかった
レイは思う、たぶん、この人はもうその名では呼べない、と
カヲルが目を遠くに向ける
レイが倣って振り返ると、そこには幾つかの缶ジュースを抱えて手を振る亜麻色の髪の戦友と黒髪の大切な絆が歩いてくるところだった
「さて、レイさん
すまなかった、長話になってしまったね
せめてものお詫びに、ジュースを一本、午後の講義のために持っていってくれ
本日二本目になるかもしれないけれど、僕としてはあの缶を選んでくれたらと望んで止まない」
悪戯っぽくも優しく笑いかける兄妹に、時間を切り取って言葉をくれたカヲルに、レイは深くに思う言葉を向けた
「ありがとう……渚君」
講義場の前面に垂らされた白いスクリーンに様々なデーターや写真が映し出されていく
そこにポインターの赤い点が行ったり来たりして教授が内容を説明している
午後の最後の講義は、遺伝子改良種バクテリアによる環境改善法と次期戦略について
生物工学と農学とを合わせた授業が進んでいく
主に南半球の再建に主眼を置いたものだ
スクリーンが見やすいようにと軽く照明が落とされた講義場の真ん中のほうに、レイとアスカは座っていた
それぞれ時たまに、カヲルが贈った紅茶とカルピスを口に含みながら
ぼんやりと明るい照明の中でアスカは、やはり朝が早かったせいか時節欠伸をしながら資料の端にドイツ語で走り書きをしている
それでも講義の内容には興味があるみたいでなんとか聞き続けているようだった
レイのほうはレポート用紙に必要だと思う部分を丁寧に書き綴りながら、思考の半分を朝からの思案に割いていた
そして、すこし考えがまとまるとカルピスに手を伸ばす
口の中に含むそれは乳酸飲料特有の酸味と甘さを広げていく
それと共に、微少の絶対領域を纏う集合が降りて広がっていくのがわかった
朝欠かさないヨーグルトでもそうだが、乳酸食品や飲料を高感度の絶対領域で知覚すると赤い光点がキラキラ光るような感じがする
それは飲食の時の違和感にはならないけれど、外から取り込んだ乳酸菌が自らの中に広がり溶け入るように定着していくのは不思議な感じだった
融合しているようで、それでも彼らは確固としたレゾンデートルを持つ存在として独立している
そんな乳酸菌たちを体内に入れて、レイはレポート用紙に講義を写していく
が、やがてそのスピードが段々と落ちて、ついには止まってしまう
そして、いつの間にか思考は乳酸菌に派生する思慮に埋まっていった
ただ、午前中の思慮と違うのは、青い血の兄妹から授かった言葉があるということ
使徒の象は一つではない
このキーワードを中心に、レイは考えを組み立てていく
人と乳酸菌との間にあるいままで続き、今もなお存続する相互共存のシステム
アスカとカヲルの間にある絆
自分の彼との間にある絆
使徒としての自分
欠けた心、始めからの使徒の象
始まりの姿、始まりの象、無に還ることを望んだかつての自分
無へ帰ることへの継続された内なる願望
新しいレゾンデートル
いま、新しい欠けた心が望む願い
使徒の象は一つではない
もし、そうであるなら、私は何を望み、何を成すだろう
情報がものすごい勢いで駆け巡り、結びついては離れるを繰り返し、そして形を築いていく
様々に分かれた思考が一つに収束して、一つの樹を形作っていく
そして、レイは現実の世界へと浮き上がっていく
そして何もかもが澄み切ったような感覚の中でレイは顔を上げた
目の前に広がり、全身で触れ、絶対領域で感じるそこは、自分が生きる世界
いまここでは生命工学の講義が佳境に入り、隣ではアスカがシャーペンをクルクル回しながら話を聞いている
自分の目の前には書き綴りの途中で途絶えたレポート用紙があり、左手には残り少なくなったカルピスの缶がある
ここは自分の生きていられる世界だと感じる
それでも、この世界で自分独りでは生きられない
自分の欠けた心が求め、もしかしたら自分の本来の象でも求められるもの、その存在がなければここに留め置かれていることなど叶わない
あなたのために生きてます、そう言えて、言ってもらえる存在
人と乳酸菌のような存在
「碇くん……」
レイが誰も聞き取れないような声で呟き、同時に心の中で叫んだ
あなたのために生きてます、あなたがいるから生きてます、そう呼びたい掛け代えない存在の名を
人と乳酸菌から生まれた新しく、かつ限りなく古い考えが纏まった今、どうしようもなく彼に会いたかった
自分の考えを聞いて欲しい、そしてそれに答えて欲しい
互いのために生きる、その絆を結んだヒトだから
レイは左手に持っていたカルピスの缶を両の手で握りしめる
静かに、高密度に収束した絶対領域のせいで、残り少ないカルピスが赤く強くキラキラ輝いているように感じた
そんな小さい存在を、乳酸菌たちのレゾンデートルを感じながら、レイは最後の一口を飲み干した
彼らのような象でありたい、そう欠けた心に刻み込むように
その刹那、授業の終わりを告げる鐘が大学全体に響き渡った
自然とスピードが早まっていくのがわかる
そうしたところで幾許の差があるだろう
早く着いてしまうかもしれない
でも、そうなっていくのを抑えることは出来ないし、しようとも思わなかった
乳酸菌たちがそれぞれ自分達に適した場所へと離散し定着していくように、レイも待ち合わせた場所へとスクーターを飛ばした
講義が終わった後、レイはアスカに謝って先に校舎を出た
後でそれなりに報告するようにと釘を刺されながら
それから、今は別の棟で授業を受けているはずのシンジにメールを打った
時間と場所を決めて、会いたい、と言葉を添えて
いきなりに無茶なメールを送るものだとレイ自身苦笑いを零したが、それでも会いたいという気持ちが、確かめたいという気持ちがその全てを覆う
まだ終わっていないかもしれない、なかなか出てこれないかもしれない、メールに気がつくのも幾らか掛かるかもしれない
そんな風に考えていたとき携帯が振動した
[すぐ会いに行くよ]
まるで見つめられていたような文字の羅列にレイの心が揺れた
欠けた心が沸き立つような酵し出されるようなそんな感触
そんな内奥の想いに突き動かされて、レイはヘルメットとゴーグルを身に付けるとスクーターに飛び乗って走り出したのだった
レイが向かうシンジとの待ち合わせの場所は、大学の敷地内にある実験庭園の一つだった
環境再構築のための緑化技術を試験するために、この大学の広大な敷地内には幾つもの実験庭園がある
保水力を増したものや作物や果実を豊富に実らせるもの、増加速度の早いもの、環境耐性を特化させたもの等々
そうしたところから生まれた庭園は、実験が終わると一般に解放される
緑鮮やかなその場所は憩いの場所や食事の場所として、学生や教員、隣接する研究機関の職員たちの人気の場所になっていた
そんな数々の庭園の中でレイが指定したのは、大学の隅のほうにある設立初期の頃に造られた庭園だった
いまでは周囲の森と半ば融合しているその庭園は、人工的に造られた場所なのにもうそれを感じさせないくらい落ち着いていている
しかも初期の頃のものだから訪れる人も少なくて、とにかく穏やかで静かな場所だ
故にシンジやレイ、アスカやカヲルは時たまに昼食などをそこで食べたりと利用していた
その間に他の人の姿を見たことはほとんどない
今日もこの時間帯なら誰もいないはず、そう考えてレイはそこを選んだ
ただただシンジに会いたい、聞いて欲しい、答えて欲しい、そんな思いがあった
スクーターを飛ばして幾許かを走ると大学の建物群が途切れていき、大学を囲む自然の姿が増えてくる
やがて、目的の実験庭園の入り口を示す、いまはだいぶ緑の蔦に覆われた二本の白い柱が見えてきた
人の背丈の倍ほどある柱の中央には、くすんでいるものの実験開始年度を頭につけた庭園の名称プレートが見てとれた
レイはそこになってスクーターのスピードを落とす
そして、入り口の近くに植えられた木の幹にスクーターを停めると、ヘルメットとゴーグルを脱ぎ捨てるように放り投げて実験庭園の中に入っていく
庭園の中は背の低い木や草で満ちていて、区画を分ける作業用の通路の名残が獣道のように残っている
時の流れに庭園が草木に埋もれてしまっていないのは、この庭園に植えられた草木たちが成長の遅い代わりに環境変動に強いものが選ばれたからだそうだ
無闇に増え続けるのではなく個体個体そのものがしっかりと生きている
そんな草木たちの道を通り抜け、レイは庭園中央の広場に出た
実験が稼働していた時には管理棟が設置されていた広場
今それは撤去され、代わりにいくつかのベンチやテーブルが置かれている
そんな広場の真ん中まで歩を進めて、レイは庭園を見回した
青と緑に二分した世界で、穏やかな風に揺れる緑の群れは静穏を纏い、青の中に存在を示すのは暖かい太陽くらい
それが地に刻む人影はすぐ隣の一つしかなかった
やっぱり早く着きすぎたんだ、そう息をつこうとした瞬間
「綾波? 早かったんだね」
背後から声が伝わった、現実だと証を付す草の道を踏みしめる足音と共に
そして、声の主が姿を現す
碇シンジ、レイがその為に生き、それ故に生きると刻んだその人が
レイの眸に映り込んだその姿は、耳に届いたその声は、張り詰めたレイの心を弾いて音を生み出すのに十二分だった
「……碇、くん」
レイの口唇から名が零れ落ちた
それが呼び水となり、水撃となって想いの堰を打ち砕く
レイを待たせたと思ったシンジが謝ろうと口を開きかけた時、レイの身体がふわりと宙を浮くように動いた
そして、吸い込まれるようにシンジの胸へと飛び込む
それから、その背中に手を回し満身の力で抱き締めた
「碇くん……!」
突然の出来事にシンジは、一瞬レイを受け止めきれずにふらつくが、すぐに建て直してその身体を支えた
シンジが見下ろすと顔を埋めたレイの蒼銀の髪が微かに震えているように見えた
「あ、綾波? どうか――」
「碇くん!」
何が起きたのか、いったいどうしたのか、と慌て始めたシンジの言葉を遮ってレイが弾けたように顔を上げた
シンジの漆黒の瞳とレイの紅い眸が交差して、それが口唇の箍の解放になった
「聞いて、私考えたの……!
乳酸菌が、絆が、前からの、最初からのものなら
人がいて乳酸菌がいて、私と碇くんがいて
互いに互いのために生きる象なら
私の心だけじゃなくて象も、それを、それを――」
レイがその紅い眸に射抜くような力をまっすぐ込めて捲し立てるが、逸る気持ちは考えを空回りさせて纏まっていかない
いきなり聞いたら訳の分からない単語や文脈だとレイ自身が感じながら、早く伝えたいという思いと、ちゃんと伝えたいという想いの狭間で揺れる
「綾波、落ち着いて、落ち着いて」
とりあえず抑えなければとシンジはレイに優しく、でも強くそう放った
その声にレイの空回りした言葉が止まる
紅い眸がいつもの落ち着きの色を取り戻していった
「ゆっくりでいいから、ちゃんと聞くから」
「……うん」
そうしてシンジはレイを抱き締める
優しくしっかり包み込むように
レイはその包容に再び顔を埋め小さく小さく頷いた
旧実験庭園の木製のベンチの上にレイは横になっていた
蒼銀の髪を纏うその頭をシンジの膝の上に横たえて
目を真っ直ぐに向けると、遠くには秋晴れの高い青空と燦々輝く太陽が
そして近くにはシンジの漆黒の瞳と優しい笑顔があった
蒼銀の髪を梳くように撫でられる度に、レイの心は穏やかに澄み渡っていく
瞼を閉じ、幾許かの時をその上に過ぎさせる
耳や鼻孔に自然の流れを感じ、撫でられる頭にぬくもりを感じ、それに助けられてレイの中の思いが纏まっていく
そして、レイはその紅い眸をあらわした
「何処から話したらいいか、いまでもよくわからない
私自身、指先で触れるような深い話になるかもしれない
けど、それでもいい?」
シンジがレイの眸を覗き込む
そして、優しい微笑みを浮かべて頷いた
「綾波が話すままでいいよ
僕はずっと聞いているから」
「……ありがとう」
レイは頬を微かに染めながら、小さな声でそう呟いた
それから大きく一つ深呼吸をして、朝からいままでの間に考えたことをゆっくり紐解いていく
「私がここにいれるのは、貴方が隣にいてくれるから
貴方のために生きれるから、私はここに在ることが出来ている
碇くんはあの時、サードインパクトの時に私を求めてくれた、私を望んでくれた
だから私の欠けた心は、失った存在意義の上に新しいレゾンデートルを書き加えて私を形造ることができた
貴方のために生きる、と
それは私の心、私の欠けた心が望んだこと」
レイが片方の掌を伸ばす
それに合わせて、シンジはレイの髪を梳いていないもう片方の手を伸べた
川と海が混じりあうように自然に、指が絡められる
そして、レイは繋ぎあった手を自らの上に置いた
「そんな私は、乳酸菌たちの象に、私を重ねたわ
彼らは、自らの存在のために人の身体の中で、その人のために生きる
まるで私が、自分の存在のために、碇くんのために生きてるのと同じように
そして、もう一つのことも
乳酸菌がいるから人は存在を維持できて、人がいるから乳酸菌は存在を繋げられる
それぞれに依存し、寄り掛かったり寄り掛かられたり、そうやって生きている
そう、それは――」
レイは一区切りの沈黙を言葉に混じらせ、シンジを見つめた
自分では進まない沈黙、バトンを渡すための沈黙
シンジは小さく頷いて、レイの口唇から紡ぎ出されるはずだった言葉を繋ぐ
掌が今繋がっているように、考えていることも伝わっていく
「まるで、僕たちの絆のように」
「……うん」
レイは眩しいというような感じで瞼を閉じる
そして、微笑みを浮かべた
自分が理解し、シンジも共に理解している、その広がっていく安寧感を身体一杯に満たすように一つ大きく息を吸い、切り替えるように息を吐いた
それから、声を震わすことなく紡ぎだす
「でも、一つ、私と乳酸菌とには違いがあった
ただ一つ、でも大きな違いが」
レイの雰囲気が深くなる
ここからが、この邂逅の本題なんだろう、そう感じ取ったシンジの手が一瞬だけ動きを鈍らせた
それでも、続いたまま変わらないというように、促すように、シンジはレイの髪を梳く手を止めない
そんなシンジの気づかいに、レイはありがとうと繋いだ手に少し力を加えて答え、そして言葉を繋いでいく
「私の存在を定着させ形造り維持しているのは使徒の身体
人の遺伝子のそれとは0.11%の差違がある
そして、使徒である私の身体は、始まりの場所に還ること、始まりの象に還ることを望んで止まない
でも、私がこの身体を自らのものとしたことは、どうしようもないことだった
あの時、私にはこの選択肢しかなかったし、これは本来の姿でもあったから
それでも、碇くんはそれを赦してくれた、受け入れてくれた
嬉しかった
いまでも、覚えてる」
レイが目を細めて回顧する
全てが終わり、全てが始まった、新世紀の扉となったあの日あの時の出来事を
それはシンジも同じだった
そして、思い返した上で、同じ想いを放つ
「忘れないよ、変わらないよ
そんなの関係無い、綾波がここにいるなら、なんだっていい」
真摯なシンジの声に、想いの乗った言葉に、レイは頷く
それから、考えを深めるように数瞬逡巡して、言葉を組み立てていく
「身体は心に支配されるわ
使徒のこの身体も、私の欠けた心が支配している
そう、だいたい八割から九割、私は私の欠けた心で求めることが出来る、生きることが出来る
だから、私は、この欠けた心で、精一杯貴方のために生きよう、って
私の存在を繋ぎ止めて貴方を求めよう、って、そう決めた
私の中にはまだ微かに、始まりの姿を、象を望む声があるのは確か
それでも、それでも、って」
「綾波……」
もう十分だよ、そう言おうとしてシンジが開きかけた口唇に、いつの間にかレイの細くて綺麗な指が当てられていた
驚いたシンジがレイを見るとその頭は振られる
聞いてくれるんでしょう?そんな表情でレイは微笑んでいた
それを見てシンジは、レイの話をちゃんと聞く、という誓いを思い出して言葉を飲み込んだ
いま言ってはいけないと思う、ごめんというその言葉も一緒に
シンジの沈黙にレイは瞼を閉じ、感謝を伸せて小さく頷く
「私の使徒の身体、使徒の象
それが求めるものは自らの始まりの姿、あるいは始まりの日の象
そう言われていた、私の核に刻まれた記憶に
そう思っていた、私の欠けた心が
いままでの使徒たちは原始であるアダムやリリスを純粋に求め、最後のシ者、渚カヲルは生と死の狭間の根幹を求めていた
そして、私は無を求めた
始まりの時、そこにあるのは虚無だと、そう考えていたから
それしか私の選択の中にはなかったから
だから、私はそれを求めて生きてきた、そこに還ることを望んで歩いてきた
その残滓が、今もこの使徒の象に残っている
それが、私の使徒の象そのもの
始まりの象に還ろうと囁く
でも、使徒が切望するのは、始まりの姿、始まりの日の象だったの」
「それって、どういうこと?」
レイの繰り返し重ねる言葉にシンジは首を傾けた
その意味を探ろうと
でも、その言葉はレイ自身が自らに積み重ね形にしようとしているようだった
レイが息を吸い込む
そして眸を開いた
レイの中で樹々の枝葉の蕾が開く
「私はそれを、使徒の象を、ただ無だけだと思い込んでいた
けれど、それは一つじゃなかった」
レイが満面の笑みを浮かべてシンジを見つめた
自らの深い部分に触れてなお、綺麗すぎる笑みをたたえるレイの表情に、シンジの手が止まる
それは魅入るほどに嬉しそうなものだった
そんなシンジの膝の上でレイは繋ぐ掌を見つめながらゆっくりと解いていく
「あなたのために生きてます
そうやって存在する乳酸菌と人の関係
乳酸菌は自らの存続のために人のために生き
人は自らの維持のために乳酸菌が存在できる世界を造る
これは、互いが互いのために生きるという一つの象
互いが互いを存続させるもう一つの象
人と乳酸菌とのこの関係はずっとずっと昔から続いてきた
人という使徒、リリンが始祖であるリリスから分離し群体として存在し始めたその時から
そして、いままで続いてきた
人の自我は行き詰まっても、人とその内にある乳酸菌とは和を保ってきた
その象が存続可能と言うことを人は無意識の内に実証し続けている
始まりの時から、いままで変わることなく、この象は在る
これって、本来在るべき始まりの象じゃないかしら?」
シンジは目を見開いて息を呑んだ
レイが語り紡いた考えの纏まりに
その意味の大きさに
レイがゆっくりと身体を起こして、シンジに寄り添うようにその隣に座る
そして、覗き込むようにシンジを見つめた
「もし、人と人との絆が
互いのために生きるという絆が、本来在るべき始まりの日の姿だというのなら
始まりの象が、使徒の始まりの象が、十七個の絶対の孤独だけじゃなく
一つの恐怖だけじゃなく
人と乳酸菌との間にあるような、互いのために生きそれ故に存在する象というものが、もう一つの使徒の象なら
それを選んだ私は、欠けた心だけでなく私の本来の象としても碇くんを求められる
いままで以上にここに居られる
私は私の全てで碇くんと生きられる」
レイが泣きそうな微笑みを浮かべた
それは、悲しさからくる雰囲気ではなく、嬉しさから溢れ出す雰囲気
いままでありえなかった選択肢に、いままで望めなかった願いに、ゼロだったものに一が加わった、それを握りしめるもの
レイの揺れる紅い眸がシンジの漆黒の瞳に映り込む
シンジはそこから視線を離さなかった
「私はこの考えに正解を見出せない、それは遥か昔に置いてきてしまったから
でも、いまここには人と乳酸菌という答えがある
私がいて碇くんいる
碇くんがいて私がいる
そういう存在がある
私は私の考えを信じてもいいような気がするの
いいえ、私はこの象を、信じたい」
レイが噛み締めるように囁く
精一杯の欠けた心を込めて
それから一瞬俯くと、揺れるものも、溢れるものも、滲み出るものも、その全てを飲み込んで、真っ直ぐシンジを見つめた
そこにある絆に意識を定める
「でも、この新しい使徒の象は、私だけでは在り得ない
貴方がいなければ、貴方が求めてくれなければ、私の象は成し得ない
これは、二つで一つの象だから
ねえ、碇くん
貴方はあの日私を求めてくれた、貴方は今まで私を求めてくれた
ねえ、碇くん
新しい象を築こうとする私を再び貴方は求めてくれる?
新しい象を持つ私を、貴方は愛してくれる?」
レイの問いに、世界が収束する
音も時間も、季節も気温も、空間も概念も、全てがこの瞬間に凝固して
一つの象の終わりと、一つの象の始まり、その狭間
永遠のような一瞬が二つの絆の上に過ぎる
そして、絆が動いた
それは刹那の内に
シンジの掌の一つがレイを引き寄せ、掌のもう一つがレイの頬に添えられる
一つになる絆
深いくちづけ
それは溶け合うような、深いところを結びつけるような、そんなくちづけ
そして、長い長い一瞬が紐を解き、くぐもった息が解かれると同じくして、瞼を閉じることもできなかったレイの紅い眸に、消えたシンジが戻ってくる
「これが、綾波の乳酸菌
互いのために生きるものたち、その象か」
突然のくちづけに目を見開いて固まったレイに、耳を赤くしたシンジは笑いかける
そんなシンジが映り込んで、レイの白磁が染まっていく
「僕は、ずっと思ってたんだ
僕がいまここにいられるのは、あの時綾波が答えてくれたから
綾波が全てを架けてくれたから
だから、僕は君のために生きようって
例え何があろうとも、そう思ってた
綾波が欠けた心以外の欠片で憂いているのを知っていた
でも、僕は綾波が何であろうと構わなかった
それを覆えるほど、君を愛していたいと思ってた
ただ、出来るなら、綾波がその存在すべてで綾波でいられるようにしてあげたいとも思ってた
だから、すごく嬉しいんだ、綾波が答えを見つけたことが
自分でその象に行き先を見つけられたことが
それでなお、僕を求めてくれたことが
こんな嬉しいことはないよ」
漆黒の瞳を揺らしてシンジはレイを抱き締める
ゆっくりと優しく、包み込むように
レイの背中に腕を回して強くしっかりと
そして、蒼銀の髪に半ば埋めるようにして頬を寄せ、囁くように刻むように誓いを紡ぐ
レイの新しい象への答えを、新しい絆の契約を
「綾波、僕は誓うよ
綾波のために、僕は生きる
君を求めて、君を愛して、君の隣で生きる
乳酸菌と人の間に在る象のように
綾波と、新しくて限りなく古い象を結ぶことを、僕も望むよ」
「……碇、くん」
いままで無という暗く冷たいものを求めていた部分に取って変わって、その分のぬくもりを新しい象が求め始める
そしてここにあるぬくもり、それがレイの欠けた心を包んで溢れ出す
その紅い双眸から、秋の葉が落ちるように零れていく
それは、心と象が融けあって臨界に達した熱い熱い想いの欠片
レイはシンジの背中を掻き抱いて想いを流し続けた
「ありがとう
ありがとう、碇くん
私は、私は、願いを叶えられた
叶わぬと思っていた願いを
貴方が繋いでくれたから、私は、私の心と象のすべてで、あなたのために生きてます、って言える」
「それは僕も同じだよ、綾波
それに、これからが始まりなんだ
ずっとずっと続き、続いていくラクトバシラスの絆と同じように」
想いを交わし、絆を交わし、抱き締めあう二人をきらきらと煌めく紅い光が包んでいく
それはレイが新しい使徒の象を自らとした証
シンジとレイが、欠けた心を、そして自らの象を交わした証
あなたがいるから生きてます
あなたのために生きてます
そう約した二人を祝福するように
その煌めく紅い光は乳酸菌たちが示す光に何処か似ていた
− あなたのために生きてます −
私は乳酸菌がそうしているように答えることが出来ずにいた
私の欠けた心は彼を求めて止まなくても、私の使徒の象は未だ無を切望していたから
でも、乳酸菌が私に示し、戦友と兄妹が私にキッカケを与えてくれた
そして、私は象を見つけ、彼は私を求めてくれた
私は、私の心と象、そのすべてで彼のために生き、彼の故に生きることが出来るようになった
私は、あなたのために生きてます、と私のすべてを乗せて言うことが出来るようになった
私が望んだままに、私が願ったままに
でも、私たちの新しい象は、新しい絆は、まだ始まったばかり
だから私は、その心でも象でも、そのすべてで生き続けている彼らを感じて思うのだ
− あなたのために生きてます −
そんな彼らに
ラクトバシラスに
倣っていきたい、と
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