企画立ち上げの経緯
企画概要――実はこれ、お題の提示の仕方が変である。作品公開後、数日して気づいたのだが、今さら直すのも妙なので自戒の念を込めて放置してある――にもあるように、当初これは
新世紀ヤナイの巣における企画であった。同サイトの企画概要(08年春競作)を読んでいただければおわかりの通り、私が開催をそそのかしたことになっている。
これは事実である。その意図はどこにあったかといえば、長く沈黙を続けてきた柳井氏がちょこちょこ顔を出すようになったので、完全復活のきっかけになればいいなと思ったという、それだけのことである。
同サイトの掲示板によると、数名の参加表明を受けて正式に企画が立ち上がったのが5月25日。お題は「新世紀ヱヴァンゲリヲン」であった。
主催の柳井氏は6月8日の書き込みを最後に、7月30日まで姿が見えなくなった。この間に私は場繋ぎ企画として「綾波レイの乳酸菌」という掲示板用のお題を提唱した。7月12日のことである。
8月7日、柳井氏は「乳酸菌の流れが全く理解できないわけですg…ちゅどーん」という書き込みを残し、再び姿を消した。
私が事実上企画を引き受ける覚悟をしたのは9月中旬だったと思う。概要公開は10月11日。
なぜ引き受ける覚悟を決めたのかと言えば、前述のように柳井氏をそそのかしたのが私であるということがひとつ、数名の参加表明者の中には久々に書くという方もおり、その方の復活のきっかけになるといいと思ったことがひとつである。
12月は忙しいということは最初からわかっていた。恐らくは使い物にならない。となれば、1月を編集作業に当てて公開は2月というスケジュールになる。これではあまりに遅すぎる。ならば12月初旬公開しかない。柳井氏の復活を限界まで待ち、かつ自分の執筆速度を考慮すれば、10月初旬企画開始、11月中旬締め、12月初旬公開というのはギリギリのスケジュールだったのである。
締め切りは厳密じゃないよと最初から宣言していたし、予想通りだったのだが私を含め締め切りはほとんど守られる事はなかった。当初の予定では、できれば10月中、最悪でも11月初旬には自作を書き終え、後は校正と参加作品の編集作業にあてるつもりだった。
だが自作が書けなかったばかりでなく、予想に反して11月中旬から仕事が多忙になった。結果として企画の進行はかなりぐだぐだになったが、前述のように、仮に11月中旬から多忙になる事が予想できていたとしても企画をやるならこのタイミングしかなかったし、そうでなければやらないという選択をするしかなかった。
だからこうなった。他に選択肢はなかった。限界までやった。
傍目から見れば失敗企画にしか見えないかもしれないし、それは事実なのかもしれないし、もしかするとしばらく経てばやらない方が良かったと思うのかもしれないし、他にも選択肢があったということに気づくのかもしれない。
でもそんなことを問題にしても仕方がない。わずかな可能性があれば、結果が失敗でもそれを恐れてやらないよりはやるべきだと思うし、ベストな選択だったと思っている。
今はただ、柳井氏の無事と帰還を願うばかりである。いじめたり泣かせたりしないから帰って来なさい。できれば取材旅行の成果を見せていただきたいところではあるけれども。
この企画は何だったのか
私は自分のことを作家と言ったり自分の書いたものを作品と呼ぶのがあまり好きではない。作家とか作品というのはそんなちゃちなものではないと思う。だから書き手とか小説めいたもの等と書くことが多いのだが、それも逆に嫌らしいので、ここでは作家とか小説とか作品とか書かせていただく。
企画引継ぎを決意した段階で、拡大路線は取らず採点もしないということは私の中で決定していた。これは、ぶっちゃけた話が身の丈にあった実現可能な企画にしようという理由が主なものであったりする(実際問題として、あと数人参加者が増えていたら破綻していたはずだ)。
もちろん理由はそれだけではない。そうではない部分について、これから書く。
企画概要の蛇足にも書いたように、これはエヴァFFを通して何かを語ろうという企画であった。そのような企画である以上、唐突だが例えばホモコミュニティと交流を持つことは不可能である。ここには越え難い壁があるように思える。だが、ホモコミュニティの構成員がエヴァおたであったとしても何の不思議もない。これはホモだろうがレズだろうがパンクスだろうがハードロッカーだろうが同じことである。つまりコミュニティ全体としては困難かもしれないが、個人の中では容易に越え得る程度の壁しか存在しないことになる。
だがこれはある種のトリックで、例えばホモコミュニティを構成するのが実際に男しか愛せない男に限定されており、かつレズコミュニティも同様であるなら、ホモコミュニティの構成員が同時にレズコミュニティの構成員であることは原理的に不可能である。
同様に、シンレイ至上主義サイトのガチガチの構成員がLAS以外は認めないというサイトの構成員となることも、また不可能であるように思われる。
これは宗教に近いもので、お互いの存在を認めて批難はしないというレベルで共存するしかないように思う。
だから、大々的な宣伝をしなかったという理由は、最初に書いた身の丈にあった云々の他に、このサイトを認める者同士が仮に少人数でも濃厚なコミュニケーションをと考えたからである。結果として、常連の人から初めて書く人、綾幸タコツボ外の人までバランスが取れていて、かつ参加人数も寂しいほど少なくなく、破綻するほど多くなかった。これはある種の奇跡に近い。私の力では絶対にない。
採点をしないというのはもっと簡単な理由で、いい作品は求めないけど話はしてみましょう、という企画にしたかったからだ。そういう企画に採点は馴染まないと思う。
※※※
繰り返し書くが、この企画の意図は「いい作品を書こう」ということではなく「コミュニケーションを取ろう」ということにあった。
ではコミュニケーションとは何か。
人の話を聞けとか企画概要くらい読めとかそういう部分はあるのだが(笑)、例えば投稿するという行為もコミュニケーションのひとつであると思う。初めて投稿した時の、筆舌に尽くしがたい緊張感と高揚感を覚えている人も多いだろう。一日に何回もメールチェックをしたはずだ。別に人生を左右するわけでもない、たかだか二次創作作品を個人運営のサイトに送るだけなのにである。
うまいこと掲載されれば感想が欲しくなる。最近はあまり見ないような気がするが、続きが読みたければ感想を送れとかいう異様に上から目線の作家のコメントとか、かつてはあった。感想くれれば執筆速度が上がりますよという話は今でも珍しくない。これらはすべてコミュニケーションを欲しているのだと解釈できる。あなたの声を聞かせて欲しいと叫んでいるのだ。
ちょっと先走るが、これ(あなたの声)が一定の密度を持てばそれはタコツボと呼んでもいいと思う。密度がある程度に達すれば――あるいは達しないからこそ――更なる量を求めるのは必然であり、拡大志向に走ることになる。人間の欲望には限りがない。
ある程度拡大すれば密度は低くても外見上の量は上がる。これは要するに、例えば読者の1割が感想を書くとして、タコツボ構成員が10人なら1通だが100人なら10通になるという、そういう単純な話だ。
この方向の拡大路線を取り続けると、これはいわゆる番長漫画になる。私は番長漫画に明るいわけではない、というよりほとんど知らないので、一般的に言われている話になるのだが、番長漫画はある生徒がクラスに転校してくる事から始まる。その生徒はまず実力でクラスを制覇し、次に学年を制覇し、学校全体を制覇する。続けて隣の学校を制覇し、学区を制覇し、県全体を制覇する。以下これを無限に繰り返し、最終的には世界征服に成功したり総統になったりする(のかもしれない)。このプロセスで倒すべき敵は順次強大なものとなり、身長5メートルとか謎の拳法をマスターしているとかいうエメリヤーエンコ・ヒョードルも秒殺かというような人物が立ちふさがる。これでふと振り返ると、主人公も敵も中学生かせいぜい高校生だったりするのだ。
私が何を言いたいのかわからないと思うが、つまり人類最強クラスの人物から腕立て伏せ初めて10回できましたクラスの人物まで100人ずらりと並ばれても管理しきれませんということだ。私だって強くなりたいんだし。
話を戻そう。積極的な拡大路線を取らないとして、それでもタコツボ化しようとするなら、やはり密度を上げるしかない。
ここで大きな問題がある。私を除外するとして、そもそもタコツボ化を望んでいるのは誰なのかという問題だ。
ここまでは作家と読者を同一視して書いてきた。だが実際はそうではない。
まず、作家は感想がもらえればいいのであって、サイトがタコツボ化しようがしまいがそんなことはどうでもいい。そのサイトに自分のその作品がある必要すらない。どこかにありさえすれば。
作家は書かなければ作家ではない。
小説を書こうとしている時に落とし穴が二つあると、とあるプロ作家がどこかに書いていたと記憶している。ひとつは、書くことが自分にとってどういうことかと考え込んでしまうこと。もうひとつは、作品について批判し、評価し、評論し、語ることで満足してしまうことである。いずれも書かなく(書けなく)なる。
書かなければ作家ではない。ならば書くしかない。タコツボ化するかどうかなど問題にもならない。それは正しい道である。あえて書くが、それならば見返りを求めるのは間違いであろう。見返りは結果として得られるものであって求めるものではない。
読者の欲求はもっとストレートで、いい作品を読めればいい。特定のサイトにいい作品がある必要などどこにもない。タコツボ化など全く関係ない。読者が作者を育てるという視点は、残念ながらそこにはない。いい作品がないなら自分で書くという選択肢さえあるのだ。というより、読むより先に書くという欲求が来る場合も多いかもしれない。
そして作家と読者はイコールでは結ばれない。いい作家はいい読者ではなく、いい読者はいい作家にはなり得ない。書くしかないという結論から導かれる当然の帰結である。繰り返すが残念なことに、作者であろうとした瞬間にいい読者ではなくなるのだから。
そういったことをすべて踏まえた上で、つまりタコツボの強化に関心を持つ者は恐らくいないであろうと自覚した上で、私は企画概要にコミュニケーションと書いた。
では、私はこの企画で何を伝え、何を語り、何をしようとしたのか。
伝えることの困難さ
作家である以上、作品で何かを伝えなければならない。伝わらなければ話はできない。
矮小な話で申し訳ないのだが、私の作品に『Running On Empty』というのがある。これは、アヤナミストである「俺」がアスカ頑張れと応援するという話である。私はそのつもりで書いた。2003年1月公開の作品だが、公開したすぐ後にも「俺」とアスカのラヴラヴな話と言われたことがあるし、驚くべきことにごく最近も、はっきり書いてしまうが2ちゃんでLAOと書かれた。昔に書いた話だしはっきり言って良く出来てるとは全く思えず、従ってわざわざ読んでいただく必要はないので引用するが、物語の核心部分で「俺はレイを愛するようには彼女を愛していないし、それは彼女にしても同じ事だろう」「だが彼女にとって俺は取るに足らない存在でしかなく、俺の事を気にする必要はない。俺は彼女のライバルではなく、追い抜いたり蹴落としたりするような存在ではないのだから。ただそこにいるだけの、文字通りの単なる存在」と書いているにもかかわらずである。
要するに、核心部分に至るまでの「俺」とアスカが仲良くしすぎということなんだろうと思う。
作品というのは伝えるべく書かれているはずだ。才能のない我々がそれでも作品という手段で何かを伝えようとするなら、何度も何度も繰り返し読み、完成度を高めていくしかないと思う。私が執拗に誤変換や妙な日本語を指摘するのは、あなたは本当に作品の完成度を高めようとしていますか、という問いかけである。
だが、作品の完成度を高める努力に要する時間を次の作品を書くという行為に使った方がいいというケースも、間違いなくある。ひとつは、才能があって誤字があろうがなかろうが伝わってしまう作品を書ける人。もうひとつは、伝わるとかそういうことを言う前に、とにかく書くことに慣れることが必要な人である。そういう人はとにかく書いていただくしかない。
才能のある人はともかく、伝える努力をしなければ何も伝わらない。
エヴァFFは死のうとしているのか
正直に書けば、確実に生きていたという時代を実感としては体験していない。だから、これはもう何度も書いたことだが、あの熱気をもう一度という考えはない。
音楽の話をすると、死んだジャンルというのは間違いなくある。細かくジャンル名つけ過ぎなんだよという問題点を除いても、やはりある。だが死んで跡形もなく消えてしまうかといえばそんなことはない。モーニング娘。をしてファンクだと言う奴は恐らく誰一人いないだろうが、異様にファンキーなベースラインの楽曲があったりする。誰が弾いてるのかと思えば元爆風スランプの江川ほーじんだったりするのだが、こうして拡散しつつもしぶとく生き延びてゆく。
エヴァンゲリオンという作品がマイルストーンであったことはまず間違いなく、その影響下にある作品群はこれからも産み出されていくはずだ。ヱヴァンゲリヲンもそのひとつであろうと私は思う。エヴァを通して何かを語ろうと思うときに、手法が二次創作に限定されなければならないという理由はない。むしろそれは表現の範囲を狭めるものでしかない。
「Air / まごころを君に」という映画(あるいはエヴァンゲリオンという物語)は離脱というメッセージを内包しているらしい。すなわち、いかにして外部に到達すべきか、あるいは外部に到達することの困難さとその不可能性を描いた物語であるらしい(らしいらしいと書くのは、これが作品である以上、解釈は製作者の意図とは関係なく受け手個人に任されるべきだと思うからだ。どういう水準でどういうメッセージを込めて作品を作るのかは製作者の責任に他ならない。もちろん、これはどういう意味ですかと聞くのは有効である。だがそれが表現されているか否かを判断するのは受け手だ。表現されてるだろわかれよと言うのは――なぜわからないのかと自問するならともかく――製作者の甘えでしかない。ただし、君はわからなくても良いと突き放す権利もある)。
ならばそのメッセージを、困難さや不可能性まで丸ごと含めて正面から受け止め、エヴァンゲリオンという言葉が直接は通じない世界への脱却を、たとえ不可能であろうとも目指さなければならないのかもしれない。さっさとケリをつけ、卒業でも離脱でも解脱でもするべきだ。甘い空想の世界に別れを告げ、きっちり他者と向き合い、現実というあまりに生きにくい世界でそれでも生きていかなければならない。それが――かつて良く使っていた言葉を用いれば――エヴァという物語を選びエヴァという物語に選ばれてしまった者に対してエヴァが指し示す道なのかもしれない。
それでもなお、レイやシンジやアスカというキャラクターで、二次創作という直接的な手段で伝えたいことがある。そう思う人が一人でもいれば、エヴァFFは死んではいない。
それは閉塞とか引きこもりとか言われるのかもしれないが、幸いなことに我々はエヴァの世界そのものに生きているわけではない。あなたや私とレイやシンジの繋がりの向こうにいきなり世界の破滅があるわけではない。これは重要なことだ。現実と空想、どちらかを選択しどちらかを捨てなければならない局面というのが、私には想像できない。それは、生きているからだ。高校生(あるいは中学生)に○○は必要ない、従って不要である、だから手にしてはいけない的な不毛さしか、私には感じ取れない。
変化というのは何もかもを捨て去ることではない。殻を破って新しい世界に行こうとするのは大事なことだ。しかし新しい世界に行くためには今までの全てを捨てなければならない、あるいは今までの全てを捨てれば新しい世界に行けるというのは間違いだ。
だから書き続ける。伝えたいことがあるから書き続ける。
だが、そこに受け手は存在するのだろうか。伝えたいことを受け止めてくれる人は。稚拙な文を苦労して読んでまで受け止めようとしてくれる人は。あなたの伝えたいことをもっと聞きたいと言ってくれる人はそこにいるのか。一方的に叫んでもそれはノイズでしかない。コミュニケーションではないのだ。
あなたの、そして私の声は、いったい誰に届いているのか。あなたは誰の声を聞いているのか。
そして
あなたはどうしますか?