朝ごはん、ちゃんと食べてる?



目を開くと、そこには見慣れぬ天井があった。

『ここは…?』
レイは、身を起こそうとしたが、頭が異様に重く、身じろぎさえできなかった。

頭ばかりではない。
手足も自分の体でないように重く、力が入らなかった。

「あ、気がついたみたいよ。」
「綾波、大丈夫?」

声がする方に視線を向けると、そこには見知った顔があった。
そばかすの浮いた少女と、心配そうに自分を見守る黒髪の少年が。

「洞木さん…。碇君…。」
レイが続けて何か言おうとしたが、ヒカリはすぐにその場で振り返る様にして、レイから視線を外した。

「なにやってるの、アスカ。 綾波さんに言うことがあるでしょ!」
「わかってるわよ。」

声のみが聞こえたあと、狭い視野の中で、ヒカリの背後からアスカが近づいてくるのが見えた。

「その、悪かったわね。」
きまりが悪そうにアスカは言った。

「まさか、避けられないとは思わなかったのよ。」

ああ、そうか。
レイは合点した。やっと状況が呑み込めたのだ。
保健室のベッドの上に、自分は横たわっているらしい。

目の前に、唸りを立てて迫りくるボールの記憶が蘇った。
ドッジボール。
体育の時間に、『今日は好きなことをしていい』ということになり、多数決でそれに決まったのだった。

今日は見学にしておこうと思ったが、それは許されなかった。
人数が足りなくなるから、ということだった。

ボールを受けるのが苦手なら、避けるだけでいいという話だった。
避けられるだけ避けて、それでも当たってしまったら仕方がないのだからと。

レイにとって不運なことに、相手方のチームにアスカがいた。

「行くわよ!」
そう叫んで投げたアスカの一投目が、レイの頭部を直撃したのだった。




ベッドから身を起こすと、
「あ、無理しなくていいから。脳震盪を起こしているみたいだから。」
ヒカリがあわてて言う。

「だい、じょうぶ。」
そういうレイだったが、どこかろれつが回らない感じがする。

「あんまり、大丈夫じゃなさそうなふうに見えるけど。
 とりあえず、ネルフに行ってリツコに診てもらいましょ。」

アスカの提案に、シンジが賛同する。
「そうだね。それがいいかも知れない。」

「じゃあ、シンジ。 ファーストをおぶってあげて。」
「え、ぼくが?」
「他にだれがいるっていうのよ。」

「ちょっと! 大丈夫なの?」
ヒカリがシンジを気遣って言う。

「大丈夫よ、ヒカリ。 シンジが変な気を起こさないよう、あたしが付いていくから。」
「え、ええ…。」
実のところ、ヒカリが心配していたのは、シンジのスタミナの方だった。




シンジがへろへろになりながら、レイをおぶってリツコのもとに届けたころには、
レイの体調は完全に回復していた。

「特に、問題はないようね。」
レイを診断した後、リツコは言った。

「でもまあ、脳震盪を起こしたのは間違いないようだから、今日一日は安静にしていなさい。」
「はい、ありがとうございます。」

レイが答えると、リツコは
「それよりも…。」
アスカに向き直って言った。

「シンジ君の方が重傷というのは、いったいどういうことかしら。」
当のシンジは、青い顔をして、息も絶え絶えのありさまで、部屋の入口でへたり込んでいる。

「えーっと、それは…。」

「パイロットが、使徒が来る前から戦闘不能では困るのよ。
 連絡をくれれば、レイを車で運ぶこともできたのに、何を考えているの。」

アスカは、たんまりとお小言を頂戴することになった。




「あーあ、ひどい目にあった。」

ネルフから帰る車中で、アスカはさも運が悪かったかの様に言った。
車は、リツコがレイのために手配した、職員用のマイクロバスである。

「ひどい目にあったのは、こっちだよ。」
シンジが言う。

「いや、一番の被害者は、あやな…。」
「なによ、文句あるの?」

「あ。いや、別に。」
アスカに睨まれて、シンジは沈黙する。

「ところで、ファースト。」
アスカは、レイに向き直って言った。

「なに?」

「あんたさ、ちゃんとご飯食べてる?」
「どうして、そういうことを聞くの。」

「あんなボールも避けられないようじゃ、これからのことが思いやられるからよ。
 もし、あれが使徒の攻撃だったら、どうするのよ!」

「いや、あれは男のぼくでもそう簡単には…。」

「運動オンチのあんたは黙ってなさいっ!」

「う…。」
「問題ないわ。」

シンジが落ち込む前に、レイが応えた。

「栄養剤ももらっているし、夕食はちゃんと摂ってる。」

「夕食は…って、朝と昼はどうしてるのよ!」

「そういや、綾波がお弁当食べてるところ、見たことないな。
 たまに、購買部のパンを一個くらい食べてるみたいだけど。」

「やっぱりね。あんた、薬ばっかりじゃ、体がもたないわよ!」
「別に、不自由はしていないわ。」

「そういう問題じゃないわよ!
 まあ、あんたは一人暮らしだというし、うちみたいに食事係がいないのは分かるけど。」

「だれだよ、食事係って。食事当番制じゃなかったっけ。」

「いいのよ、食事係で。話の腰を折るんじゃないわよ!
 …いいわ、このアスカ様が、あんたに健康増進のための、ありがたいお告げをしてあげるわ。」

そう言うと、アスカは目を閉じて、精神を集中している様なそぶりを見せた。
どうせ、ろくでもないことを言うに決まっている、シンジはそう思った。

アスカは、かっと目を見開くと、

「牛乳を…飲みなさ〜い…。」
意外と、まともなことを言った。 




「ほら、このあたしが買ってあげたんだから。これから毎朝、ちゃんと飲むのよ。」

レイの住んでいるマンションの近くのコンビニで、二本の牛乳パックを買い与えると、
アスカは恩着せがましく言った。

「わかってると思うけど、綾波。
 飲んだ残りの牛乳は、ちゃんと冷蔵庫にしまっておくんだよ。
 それから、賞味期限には気をつけて。」

「わかったわ。ありがとう、碇君、惣流さん。」

「それじゃ、あたしたちは帰るから。」
「また、明日ね。綾波。」
「ええ、また明日。」

レイが自宅に戻っていくのを見届けると、

「…あいつ。」
アスカは、ぼそりとつぶやいた。

「何?」
シンジがたずねる。

「あたしより先に、あんたにお礼を言ったわね。買ってあげたのは、あたしなのに。」
「た、たまたまだよ。」

「まあ、いいけどね。ボールぶつけたのも、あたしだし。」
「そんなこと、気にしちゃだめだよ。綾波は、そんなことにこだわったりしないよ。」

「…でしょうね。」
「ほかに、何か気になることでも?」

「なんでもないわ。行くわよ。」
「あ、うん。」

先に歩き始めたアスカを、シンジはあわてて追った。




翌朝。

レイは、登校してこなかった。

「どうしたんだろうね、綾波。」
いぶかるシンジに、アスカは、

「知るわけないわよ。ヒカリ、何か聞いてる?」

「さあ。何も、連絡は入ってないけど。」



そして、そのまた翌朝。

その日は、レイが登校してきた。
顔色が悪く、ひどくやつれた感じに見えた。

「ど、どうしたの綾波。」
尋ねるシンジに、

「体調が悪いの。」
力なく、レイは言う。

「そんなの、見れば分かるわよ。昨日も休んでたし。
 いったい、何があったの。」
アスカが尋ねると、

「昨日の朝、買ってもらった牛乳を飲んだの。
 そうしたら、急にお腹がごろごろいって、調子が悪くなって。」

「どういうこと? ちゃんと冷蔵庫にしまってたんでしょ。」
「ええ。」

「じゃあ、はじめから傷んでたのかしら。」

「たぶん、違うと思うわ。」
ヒカリが、横から口を出した。

「そういう人っているのよ。
 冷たい牛乳を飲むと、必ずお腹をこわす人って。
 綾波さんが、そうだったのね。」

「…そんな!
 じゃあ、あたしがしたことって、完全によけいなことだったってこと?」

シンジは、アスカが落ち込むところを初めて目の当たりにした。

「ご、ごめん。まさか、そんなことがあるなんて、知らなかったのよ。」
一昨日と違って、真剣に謝っているのも初めて見た。

「別に、気にしていないわ。
 わたしのことを、気遣ってしてくれたことだし。」

「そう、ありがとう。この前の牛乳はもう、捨てちゃって。
 ほんと、よけいなことして悪かったわ。」

レイは気にしていないと言ったが、アスカは自分がよかれと思ってしたことが、
完全に裏目に出たことが、よっぽどショックだったようだった。

その日は、アスカは一日中元気がなかった。
だれとも話すことなく、授業が終わると一人で帰っていった。




「あの、綾波。」
「なに?」

アスカが帰ってしまったあとで、シンジはレイに声をかけた。
レイも、帰り仕度をしているところだった。

「帰るんだよね。」
「ええ。」

「そうだね、まだ調子よくないみたいだし、早目に休んだ方がいいよ。
 あとで、ちょっとだけ、綾波の家に寄ってもいいかな。」

「別に、かまわないけど。」

「それじゃ、ちょっとだけ寄らせてもらうよ。
 あ、それから、あの牛乳は捨てないでおいてくれないかな。」

レイは少し訝しげにしていたが、

「わかった、そうする。それじゃ、またあとで。」
そう言って家路についた。




「綾波、いる?」
シンジが、レイの家を訪ねたのは、夕方になってからだった。

「どうぞ、入って。」
「おじゃまするよ。」

シンジが部屋に入ると、

「さっき、惣流さんが来たわ。」
そう、レイが告げた。

「アスカが? 何しに来たんだろう。」
シンジが訝ると、

「これを置いていったわ。」
レイは、キッチンに置いてあるいくつかのレトルトのパックを指さした。

「おかゆか…。アスカなりに、責任を感じてるのかな。」
「わたしは、気にしないでいいと言ったのに。」

「もらっておいたら?
 それで、アスカが少しでも気がはれるんだったら。」

「そうね。彼女、元気なかったみたいだし。」

「アスカにしてみたら、失敗した自分自身が許せないんじゃないかな。
 よかれと思ってしたことが、裏目に出たわけだから。
 でも、よかったよ。ぼくと同じものを買ったわけじゃなくて。」

そう言って、シンジは手にさげた袋をレイに見せた。

「それは、何?」
「ヨーグルトの素だよ。」

「ヨーグルト?」

「うん。牛乳は捨てていないよね。」
「碇君が、そう言ったから。」

「じゃあ、よかったらこれ、使ってくれないかな。」
「どうするの。」

「あの牛乳を、ヨーグルトに変えるものなんだ。」
「でも…。」

「大丈夫、ヨーグルトはお腹にやさしいものだから。」
「そう。碇君がそういうのなら。でも、どうすればいいの。」

「うん、これからやって見せるから、よく見てて。」

シンジは、袋からガラスの容器と、粉末らしきものを取り出した。

「牛乳を、持ってきてくれないかな。」
「ええ。」

シンジは説明書にしたがって、容器に牛乳を移し、『ヨーグルトの素』を加える。

「これで、しばらく置いておくと、牛乳が固まってヨーグルトになるんだ。
 でも、長いこと放っておくのはよくないから、寝る前には冷蔵庫にしまって。
 明日の朝には、食べられると思うよ。
 ジャムと蜂蜜も買ってきたから、食べるときに少し入れるといいよ。」

「ええ。ありがとう。」

「それじゃ、うまくできてるかどうか知りたいから、明日の朝、また来るよ。」




そして、次の日。

シンジはいつもより、20分も早く家を出ようとしていた。
そこを、アスカに呼び止められた。

「シンジ? あんた、こんな早くから、どこへ行くのよ。」

「うん、ちょっと、綾波の家に寄ろうと思って。」

「ファーストの? 
 ちょっと、待ちなさいよ。何の用事があるっていうのよ。」

「うん、ちょっとね。」

『別に隠してるわけじゃないけど…。』
と、シンジは思う。
『アスカがおかゆ買ってるのに、ぼくが勝手にヨーグルト作りを手伝ったなんて
 知られると…。アスカはいい気分しないだろうな。』

「なんか、怪しいわね。いいわ、あたしもついていく!」
「え…。」

「何か、やましいことでも?」
「そ、そんなことないよ。 わかった、じゃあ、一緒に行こう。」

レイのマンションに、二人が到着し、

「おはよう、碇だけど。」
扉をそっと開いて、シンジが声をかけた。

しかし、返事がない。

「あのう、綾波、いる?」

やはり、返事がない。

「留守かな。」
「あんた、見てきなさいよ。」

「うん…アスカは、入らないの?」
「あたしは、ここにいるわ。」

「どうして?」
「だって、またファーストに何かあって…。部屋で死んでたりしたら、いやだもの。」

「はは、そんなことないよ。じゃあ、ちょっと見てくるよ。」
シンジは、一人、中に入っていく。

…すぐに、出てきた。

顔色は、青くなくて、赤い。

「どうしたの?」
「な、なんでもないよ。すぐに行くから待っててってさ。」

「ふうん、いたんだ。何か、あったの?」
「ベ、別に。」

『まさか、着替えてただなんて言えないよなあ。』
シンジは、胸の内でそうつぶやいた。
『アスカのことだから、“ばか、エッチ! 変態!!”とか喚いて、
 ぼくをひっぱたくに決まってるし。』

「お待たせ。」
ほどなくして、レイが出てきた。

「碇君、どうもごちそうさま。おいしかったわ。」
そう言うレイを見て、二人は固まった。

「あ、綾波…。」
「シ、シンジ、あんた…!」

レイの口元には、何やら白濁した液体がこびりついている。

「シンジぃ! ファーストに、何したのよ!!」
次の瞬間、シンジはアスカに絞めあげられていた。

「ち、違うこれは…。」
「何が違うっていうのよ!」

「だから、これは、ヨーグルト…。」
「なんですって?」

「にゅ、乳酸菌の、ヨーグルト…。
 綾波の…乳酸菌…アスカがあげた…牛乳から作った…。」

「どういうことよ。」
アスカが手を放し、シンジは解放された。

シンジは、ぜいぜい言いながら、ことの経緯を説明した。

「なんだ、そうだったの。早合点して、悪かったわね。」
「いくらぼくでも、そんなに早くないよ。」

「ばか、どさくさにまぎれて何言ってるのよ!」
「あ…。」

「何の話?」
レイが、不審そうな顔をして口を挟んだ。

「な、なんでもないわよ。」
「アスカが、とんでもない勘違いをしただけだよ。」

「あんた、もう一回絞めてもらいたいわけ?」
「いや、そういうわけでは…。」
「だったら、そんなこと言わない! 十分に恥ずかしいんだから。」
「わかった、悪かったよ。」

なんでぼくが怒られなきゃいけないいんだ…?
理不尽だと思いながらシンジは、

「それはそうと、綾波。残りのヨーグルトは?」
レイに尋ねる。

レイは平然とした顔をして、
「ないわ。」

「え? あれだけの量を、全部食べちゃったの?」
「ええ。」

「そ、それはちょっと食べすぎじゃないかな。
 半分くらいは残しておいてもよかったのに。」

「だって、おいしかったもの。」

シンジとアスカは顔を見合わせた。
レイが、『だって』などという言葉を使うとは、思わなかったからだ。

「それに今、とても調子がいいの。碇君、ありがとう。」
「…い、いや、どういたしまして。」

「何? わたしの顔に、何かついてる?」
「うん、口の周りを拭いた方がいいと思うよ。」




それから、数日が過ぎた。

「綾波さん、最近少し、変わったと思わない?」
ヒカリが、授業が終わった後で、シンジとアスカに声をかけてきた。

「うん、以前と比べて、元気になったよね。」
「そう? あれを、元気というのなら、そうかも知れないけど。」

シンジが全面的に肯定するのに対して、アスカは少し懐疑的のようだ。

「ぼくは、いい傾向だと思うけどな。健康的で。」
「肉体的にはそうかも知れないけど、何かこのところ、ひねくれてきていない?」

「わたしも、活発になってきたのはいいことだと思うわ。」
「そんなこと言ってるから… うぐっ!」

ヒカリと話していたアスカが、突然言葉を詰まらせて、振り返った。

地面の上で、はずんでいるボールが見えた。
誰かが、アスカの背中にボールをぶつけたのだ。

「だめじゃない。」
声のする方向を見ると、悪戯っぽくほほ笑むレイの姿があった。

「これが、使徒の攻撃だったらどうするの。
 惣流さん、あなた、ちゃんと朝ごはん食べてるの?」

「ふぁーすとぉぉぉぉ!」
アスカは両手で、ボールを引っ掴むと叫んだ。

「このあたしに不意打ちでボールをぶつけるたあ、上等じゃない!
 こら、待ちなさい、ファースト!」

ボールを抱えたまま、アスカは逃げるレイを追って、シンジたちの前から走り去っていく。
シンジとヒカリは、茫然とそれを見送った。

「碇君のヨーグルトのおかげね。」
ヒカリが、くすっと笑って言った。

「そ、そうなのかな。」

「綾波さん、毎日食べてるんでしょ。」
「そうらしいけど…。」

「碇君の言うとおり、『元気』そうね。」
「うん、まあ。」

そう言いながら二人は、運動場の中を逃げるレイと追うアスカを眺めた。
レイのスピードが上がった。
みるみるうちに、アスカを引き離していく。

「すごい…。」
ヒカリが感嘆する。

「ヨーグルトの効果って、こんなにすごかったっけ。」

もしかしたら、綾波って、普通の人にはない酵素を持っているのかも知れない、
シンジはそう思った。
『これが、綾波の乳酸菌パワー…。』

うらやましいと思うと同時に、シンジはわが身を案じていた。

このあと、確実にアスカの八つ当たりが、自分に向けられるのだろうと。



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