あなたにわたしの乳酸菌

written by CNG


 綾波レイの部屋にはテレビがある。
 ……と言っても、彼女が買った物ではない。マヤが新しいのを買うからあげると言って
置いていった物である。
 レイは必要ないからと断ったのだが、ちょうどその場に居合わせたミサトの「今時テレ
ビの一つや二つでも見ないと男の子にもてないわよ」という言葉に押し切られ、結局置く
ことになった。
 別にレイは不特定多数の男の子にもてたいとは思わなかったし、もてるわけもないと思
っていたのだが、その「男の子」の範疇には、かの碇シンジも含まれている。
『もし、変に思われたらどうしよう』
 そんなレイの乙女心が、部屋にテレビを置くという決断をさせるに至ったのだ。
 初めの内は、ただ単に音が出て画面が動くだけの退屈でうるさい物だとしか思えなかっ
たが、やがて何となく視線をそこへ寄越すようになり、暇があれば電源を点ける様になり、
気が付けばお気に入りの番組もできていた。
 ただ、一つだけ問題がある。
 しばらく点けていると、すぐに次の番組が始まってしまい、ついだらだらと見てしまう
のだ。自分の目の前で全く知らない世界が広がっている、それを考えるとなかなか見逃せ
るものではない。全く興味がない物ならともかく、料理番組や雑学番組など気になる物が
沢山あるから、結果として学校の宿題を完全に忘れてしまう。
 だが、それでもレイは一向に構わなかった。宿題が何だというのだ。この世界で碇くん
に好かれること以上に重要なことがあるとでもいうのか。

 番組が終わり、CMが流れ出す。予告が入るが、次の番組はあまり面白くなさそうだ。
いつもはそこで電源を落としてしまうのだが、今日は点けたままCMを見る。それという
のも、学校でアスカに「アンタは普通の人よりも物を知らないんだから、何となくでもい
いから色々見なさい!」と言われてしまったからである。よく考えてみれば別にCMを見
ろと言われたわけではないのだが、とりあえず身近なところから始めてみよう、と思った
結果の行動である。微妙にピントがずれているのはご愛嬌と言うところか。
 さて、しばらくテレビを見ていると、レイはあることに気が付いた。
 何の気なしに見ていてすぐには気付けなかったが、普段見ているCMとは別の物をやっ
ているのだ。
 種類が少ないから面白くないと思っていたはずなのに、実はこんなに沢山あったなんて。
 レイが興味を持って見始めると、某有名製薬会社のCMが始まった。
 一般の薬というのは、あまり知らない。ほんの少し前まではネルフで体の検査をしてい
たのだ。市販されているような普通の薬には全く縁がなかった。
 馴染み深いものではあるが、特に興味はない。レイが電源を落とそうとすると、不思議
なキャッチコピーが耳に飛び込んできた。
 この薬、『ヒト由来の乳酸菌』という物が入っているそうなのだ。
 乳酸菌の存在は知っていた。家庭科の教科書にも載っていたし、碇くんとの会話の中で
も一度だけ出てきたことがある。
 ヨーグルトに入っているということぐらいしか知らないが、どうもCMによると、人の
体の中にも存在しているらしい。
 果たして、自分のお腹の中にも乳酸菌は存在するのだろうか。一度考えてしまうと気に
なって気になってしょうがない。
 思い立ったが吉日。レイは早速電話を手に取った。



「全く、いきなり電話かけてくるから何事かと思ったら」
 リツコはため息をついて、机にコーヒーを置いた。目の前ではレイがそわそわした様子
で椅子に腰掛けている。
「まさか乳酸菌だとは思わなかったわ」
 それでも良い傾向ではあるんだけどね、とリツコは思う。色々なことに興味を持ち始め
ている証拠だ。これからはいつまでも何も知らないままではいられないのだから、多少面
倒臭かったとしても、それくらい助けてあげるべきだろう。
「それで、どうだったんですか」
 待ちきれなくなったのか、珍しくレイから先を促してきた。
「そうね……」
 普通に言おうとした口を、リツコの悪戯心が押し留めた。深刻な顔を装い、続ける。
「あるにはあったのだけど」
「はい」神妙な顔でレイが頷く。
「普通の乳酸菌じゃなかったの」
 レイの顔が強張ったのを見て、リツコは吹き出しそうになるのを必死で堪える。
「ああ、大丈夫大丈夫、珍しいタイプってだけで、れっきとした乳酸菌の一種だから」
「そう、ですか」
 気になってるんだな、とリツコは思う。百パーセントちゃんとした人間になったと言っ
たのに、どこか信じきれていない。だからこそ、今回こうして電話をかけてきたのだろう。
 まあ、そこはシンジくんに頑張ってもらえば解決する話だ。リツコは心の中でニヤリと
笑った。
「それで、どんな乳酸菌なんですか」
「私も実物で見るのは初めてだから驚いたんだけど、長期間摂取することで、その乳酸菌
の持ち主に好意を持つ作用がある乳酸菌だったの。ほら、昔話なんかに出てくる惚れ薬の
原料ね」
「……そうなんですか」
 大真面目な顔で感心するレイに耐えられなくなり、リツコは椅子を回転させて後ろを向
いた。これ以上冷静な顔を続けていられる自信がない。
「だけど、一つだけ条件があるの。摂取させる際、直接食べさせてあげないと効果が出な
いの。一番効果があるのはマウストゥマウス、つまり口移しなんだけど、いきなりそこま
でやるのは無理でしょうし、少しずつでいいわ。これだけに注意すれば大丈夫だから。あ、
ちなみに効果期間は一日だけ。惚れ薬の難しいところよね」
「一日……」
「乳酸菌といえばヨーグルトよね。これで作ってみる?」
 リツコは振り返り、悪戯っぽく笑った。答えは聞かなくても分かっていた。



 かくして、ヨーグルトはできあがった。
 実際は市販のものを別の容器に詰め替えただけなのだが、そうと知らないレイは、それ
を持ってシンジの部屋の前に来ていた。正確にはミサトの家であり、アスカも(ついでに
ペンペンも)住んでいるのだが、そこはそれ、恋する乙女レイにはシンジしか見えていな
い。
 邪魔が入っては困るので、渡す時間帯は朝にした。ミサトもアスカも朝が強いとはお世
辞にも言えないので、シンジしか活動していないであろうこの時間が一番ベストだったの
だ。また、この時間に効き目が出てくれれば、学校でいちゃいちゃすることも夢ではない。
 呼び鈴を押す。ややあって、シンジが顔を出した。
「はい。……綾波?」
「上がってもいい?」
「あ、うん」
 困惑顔のシンジをよそに、玄関で靴を脱ぎ、ドアを閉める。
「あの、綾波、今日はどうして」
「……これ」
 机の上に容器を置く。
 レイは焦っていた。鮮度が落ちて効き目がなくなっては意味がない。乳酸菌がどのぐら
い持つのか分からない以上、できるだけ早く食べてもらいたかった。
「……ヨーグルト?」ふたを開けたシンジが、確認を求める。「どうしたの、これ」
「作ったの」
「作った?」
「CMで、ヒト由来の乳酸菌って言ってたから」
「ああ、うん、やってるね、CM」
 それがこれと何の関係があるのだろう、とシンジはますます困惑する。
「だから、リツコさんに頼んで作ってもらったの」
「リツコさんに……」
 また余計なことを。シンジは心の中で毒づいた。どうせまた変なことを吹き込んでいる
のだろう。どうしてCMを見たからといって、ヨーグルトを作るのか分からない。
「……私の」
「え?」
「私の体にも、乳酸菌があるのか気になったから。……ちゃんと、普通の人と、同じよう
に」
 思わずシンジはヨーグルトを覗き込んでしまう。ということは、この中に入っているの
は……
「……これって、綾波の乳酸菌?」
 レイはこくりと頷いた。
「食べて」
「食べるって……」
 シンジは困惑した。別にヨーグルトを食べることに抵抗はない。綾波の乳酸菌なら何と
なく綺麗そうだし大丈夫だろうとも思う。
 ただ一つ気がかりなのは、リツコが絡んでいるということだけだ。
 だがレイはそんなシンジの困惑には気付かず、スプーンでヨーグルトを一掬いすると、
「はい」
 シンジの顔の前に持っていった。
「え、えええええ?」
 完全に混乱しきった顔のシンジを見て、レイは、食べたくないのか、と心配になる。そ
ういえば、ヨーグルトが好きかどうかも聞いていない。
「……もしかして、嫌い?」
「いっ、いや、そういうわけじゃなくて……」
 ならば、どうして拒むのか。
 その時、レイの脳裏にミサトの言葉がよぎった。
『男の子にうんと言わせたい時は、こうすればいいのよ』
 やってみるしかない。レイは記憶を辿りながらポーズを作る。
「駄目……なの?」
 顔は吐息がかかるくらい近く、上目遣いで。腕は胸を強調するように。そして、声はで
きるだけ甘く。
「い、いや、そういうわけじゃ……」
 これをされて断ることができる男はそうはいない。増してや、それをしているのはレイ
であり、されているのはシンジなのだ。断れるはずもなかった。
「じゃあ、口、開けて。あーん」
「ちょっと待った。その、それは……」
「葛城三佐が、人に物を食べさせる時は、こういう風にって」
「いや、確かにそれはそうなんだけど、それをやるのは特殊な間柄だけで」
「あーん」
「……」
「あーん」
 ぱくっ。
「……じゃあ、次。あーん」
「あ、綾波、自分で食べられるから……」
「駄目」
 いつになく強気なレイに気圧されるシンジであった。

 結局最後の一口まで食べさせられたシンジは、やたらとくっついてくるレイに違和感を
覚えながらも、その日一日を過ごした。
 それが何日も続いて、やがて口移しで食べさせられそうになって、耐えかねたシンジが
リツコに直談判しにいったのは、また別のお話。


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