夢かまぼろし0 ヱヴァンゲリヲン? と僕は思った。 何かの間違いじゃないかと思って一度目をつむり、深呼吸をして、それからまぶたを油の切れた鉄の扉を押し開くように広げた。 僕の手には、間違いなく『ヱヴァンゲリヲン新劇場版 序』と書かれた紙の束が握られていた。 「あのぉ、監督?」と僕はアンノさんに目を向ける。「これは何ですか?」 「よく聞いてくれたね、シンジ君。それはね、台本だよ」とアンノさんは答えてくれた。夢を見ている鳥みたいな目つきだった。 僕はアンノさんから視線を外し、手の中に握られている台本と呼ばれた紙の束をもう一度良く見てみた。 表紙には、大きく明朝体で『ヱヴァンゲリヲン新劇場版 序』と書かれている。 もう一度良く見る。 『ヱヴァンゲリヲン新劇場版 序』 オーケー。認めよう。僕が握っている台本と呼ばれた紙の束は、間違いなく『ヱヴァンゲリヲン新劇場版 序』の台本だ。 「さぁ、忙しくなるぞぉ」と夢を見る鳥が喋った。ほがらかに笑っていた。 1 「新劇場版?」とイシダさんは言った。 「そうです。新劇場版です」と僕は答えた。 イシダさんは、相変わらずの銀髪を触りながら目玉をクルクルと動かした。 「アンノさんから連絡は来ていませんか?」と僕はたずねた。 「電話で少し話したよ。罪のない冗談だと思っていた」 華奢で大きな右手を伸ばして、イシダさんは机の上に置いてあるティーカップを取った。指輪とカップが触れて音をたてる。脚を組み、左腕はソファの背に乗せ、そこから伸びた左手が頭を支えている。黒いカッターシャツを着て、ネクタイは無い。襟のボタンを二つ開けて、白い肌と鎖骨が見えていた。銀色のネックレスが光る。 「すいません、おかわりを下さい」通路を通りかかったウェイトレスを呼び止めて、イシダさんは紅茶のおかわりを頼んだ。「オガタくん、君は何か飲むか?」 「いえ、僕のはまだ残っています」 「そうか、君は猫舌だったね。久しぶりなので忘れてた」イシダさんは少し笑ってそう言った。 その表情が、シンジだった僕が恋をした、あの彼とそっくりだったので少しだけ照れた。 「どんな話になるんだろうね」とイシダさんは言った。 僕はカバンから台本を取り出して、イシダさんに渡した。 「これか。確か郵便が来てたなぁ。まだ開けてなかった」 「カヲル君のシーンは、最後の方みたい。新劇場版は、テレビシリーズを最初から撮るみたいだね。でも、ところどころ変わって――」 イシダさんが僕を見ていた。カヲル君みたいな表情だった。 「久しぶりだね、シンジ君。君にまた逢えて、うれしいよ」 「あっ」とシンジが声を出した。「あの、その、僕も、……うれしい」 少し、クラクラと、頭が揺れるのを認識した。 紅茶のおかわりが来て、それを飲み干すとイシダさんは席をたった。 「これから撮影なんだ。上のスタジオ」とイシダさんは言った。 「例の、ロボットのパイロットですか?」 「モビルスーツだよ」とイシダさんは笑った。 「実は毎週見てます」と僕も笑って言った。 「ありがとう」 僕も立ち上がって、一緒に店を出た。 「では、また」とイシダさんが言った。 「はい。ではまた」と僕も言った。 2 秋の空は高い。空気が澄んでいるせいだろうか、夏に比べて空の遠くまで視線が届く感覚を覚える。 少し風が冷える。夏が終わるのと、朝が早いのが理由だろう。 川原を走っていた。来月からヱヴァンゲリヲンの撮影が始まるので――本当に撮るみたいだ。正式にオファが来た――体力を付けるためのトレーニングをしている。 碇シンジは細いシルエットが必須なので、筋力トレーニングはあまりやらない。ひたすら走り込みをして体を絞り、さらに持久力もつける。 ゆっくりと三時間ほど走り、家に帰ってシャワーを浴びる。午前十時。それから遅い朝食、あるいは早い昼食をすませ、エヴァのDVDを第六話まで見直し、台本を読んだ。午後一時。 僕は碇シンジなんだ、と思う。役になるときはいつもそう思う。作るのではなく、なるのだと、いつも強く思う。僕は僕では無くなり、碇シンジになる。 台本と読み比べて、微調整を試みる。 エヴァの碇シンジと、ヱヴァの碇シンジの違いを洗い出していく。ほとんど同じ。でも、少し違う。物の考え方、行動の違い、他者との距離。それらに多少の違いがあるように思える。 新しい碇シンジを作っていく。新しい碇シンジになっていく。新しい碇シンジを産む。 少しだけタフになり、少しだけ行動力が増え、表情には微量の色気が含まれる。 新しい碇シンジが産み出されつつある。 午後八時。そろそろ夕飯にしようと思ったところで、携帯電話が鳴った。ミヤムラさんからだった。 「なんでアタシの出番は無いわけ?」といきなりアスカが言った。 「そ、そんなの、僕に言われたって分からないよ」とシンジは答えた。 「冗談すよ〜。アスカは次の『破』から出るらしいっす」とミヤムラさんは笑って言った。 「あ、そうなんですか」と僕も笑って答えた。「いきなりアスカが出るからびっくりしました」 「のわりには、スッとシンジになってるやん。もう役作り? あ、もう来月から撮影か。真面目やの〜。ええこっちゃ」とミヤムラさんは言った。酔っ払っているときの喋り方だと思った。 「え、あれ、飲んでるんですか?」と僕は聞いた。 「そっすよ〜。飲んでるっすよ〜。オガちゃんも来なよ」とミヤムラさんは言った。 「いえ、僕は、そろそろ寝ようかと思って」 「え〜? 飲もうよ〜。一人はいや〜。一人はいや、一人はいや!」と電話の向こうで彼女が喋りだす。 「でも、駄目だよ。もう寝ないと」 「いいから、早く来なさいよ!」と叫びだして、いつものセリフが飛び出すのだろう。 3 「馬鹿シンジ!」 4 セミの鳴き声が聞こえる。目を開くと、いつもと同じ病院の天井が見えた。 電灯は消えて、あたりは薄暗い。窓の外は強い日の光で緑と白とにぼやけている。静かだ。遠くの方でセミの鳴き声だけが聞こえる。 「……ゆめ?」とシンジは呟いた。 夢を見ていた。不思議な夢だったが、何も思い出せなかった。不思議な、という手触りだけが残る種類の夢だった。全てが夢のような夢だった、ように思う。 ベッドに横たわりながら、右手を持ち上げる。顔の前で仔細に観察する。掌を見つめて、手相を視線でなぞる。生命線やら運命線やらがあるらしいが、シンジにはどれがどの線だか分からなかった。 手をひっくり返し、甲の部分を見る。細くて小さくて白い、少女のような手でありながら、やはりそれは男の手だった。線の角度が荒く、ゴツゴツとしている。 まぶたを閉じ、その上に手の甲をひっつける。視界が遮断され、音だけが残る。シャワシャワと鳴く虫の声が聞こえる。 音の波は伝わるが、空気は停滞している。窓は大きく開いているが、風が無い。 じっとりと汗をかきながら、シンジは夢について考える。目を閉じ、目蓋の上に腕を置き、虫の声を聞きながら、一人で考える。 もし僕が、とまずシンジは思った。もし僕が誰かの見ている夢ならば。 それは少しだけ恐ろしい考え方だとシンジは思う。 5 もし僕が誰かの見ている夢ならば、僕の夢を見ている誰かはどんな気分なんだろう。その人も同じように思うのだろうか。俺も誰かの夢なのかもしれないと疑って、背筋を伸ばして辺りを見回すだろうか。 僕はたまにそう思う。これは全部夢なんじゃないか、と。どこかの誰かの妄想なんじゃないかとすら思う。ペンギンか蝶々かが、ふとした拍子に思いついただけの物語なのかもしれない。 その誰かは、あるいは僕自身なのかもしれない。こうあれば良い、と願って望んで逃げた、僕の願望なのかもしれない。 もしそれが本当の事だったら、僕はきっとこう言うのだろうか。 逃避したとして、それのどこが悪い? 6 結局、僕はミヤムラさんに押し切られて飲みに行った。 秋が始まったばかりの気持ちの良い夜だった。特に風が気持ち良い。夏にはけして吹かない、サラサラとした感触の風だった。 僕の家から一番近い駅にある居酒屋に居る、という事だったので自転車に乗って行く。最初から僕を誘うつもりだったのだろうか。もし僕が断わっていたらどうするつもりだったのだろう。家に押しかけてくるつもりだったのかもしれない。そこまで想像をして、思わず背筋を伸ばした。 フライミートゥーザムーンを鼻歌で三回半リピートした所で居酒屋に着く。 店の前に自転車を止めて、店内に入った。あまり広くないお店だ。三十人も入ればいっぱいになるだろう。カウンターが八席。カウンターの後ろに四人がけのボックス席が三。少し離れた所に掘り炬燵式の座敷席が十人分くらい。 カウンターとその後ろのボックス席は埋まっているようだった。座敷を覗くと、見知った顔がいくつか見えたのでそちらへ向かった。 「あ、オガタ君だ」僕の知る中で、世界一ビールが似合うミツイシさんが言った。「おひさー」 「お久しぶりです」と僕はあいさつをした。 「ほら、言ったっしょ? アタシが呼べば、オガっちは来るんすよ」とミヤムラさんがベロンベロンになりながら言った。 「本当ね」とハヤシバラさんが言った。 久しぶりに淡いブルーのショートカット姿を見た。あまりの懐かしさと恋しさに涙が出そうになったけれど我慢した。ハヤシバラさんも相当飲んでいそうな雰囲気だ。少なくとも僕にはそう見えた。 「……」 僕は座敷の奥に、イシダさんが倒れているのを見つける。銀髪は遠くから見ると、羊の毛と同じ色に見えると思った。 「まあまあ、座りなさいよ」とミツイシさんが言った。さりげなく、僕の視界からイシダさんの屍を隠した。 僕は何も言わずに大人しく座った。ミツイシさんは相変わらず美しく、胸が大きかった。顔を見るとキスシーンの事を思い出すので、さりげなく目をそらした。 「まあまあ、まあまずは飲みなさいよ。生一つおねがいします!」とミツイシさんが叫んだ。凛々しい声だ。 ほどなくしてビールが運ばれる。ミツイシさんがグラスを持つと、ミヤムラさんとハヤシバラさんもグラスを手に取った。 「では御唱和ください。新劇場版に乾杯!」 「乾杯」と僕は言った。 ミツイシさんは一気にグラスをあおった。 7 「くぅ〜! この一杯のために生きてるぅ!」 8 ミサトさんは勢い良くビールの入った缶を机に置いた。まさにカンッ! と高い音を立てて、中のビールが少しこぼれた。大きく胸の部分が開いたタンクトップ、短く切ったジーンズ。それらはあまりにも目の保養かつ猛毒だった。 そのために僕は、うつむいてインスタントの食事を口に運んでいる。懐かしい記憶だった。 今日見た景色を思い出す。 海は変わらず紅かった。 でも空は久しぶりに青かった。 僕は何も気付かないふりをしている。これが誰かの夢だということに。僕の夢なのだろうか。もう一度逢いたいと思った僕の夢なのか。 9 「はい、オガタ君」とハヤシバラさんがサラダをよそったお皿をくれた。 「ありがとうございます」と僕はお礼を言った。 ハヤシバラさんはじっと黙って僕の目を見た。僕もハヤシバラさんの目を見た。 「あれ? 瞳の色が」と僕は口に出して言った。 「瞳の色?」と紅い瞳をしたハヤシバラさんが言った。 「あ、いえ、なんでも」と僕は笑って誤魔化した。 「……そう」と綾波は短く答えた。 僕の頭はクラクラと揺れている。こちらが夢なのかとも疑う。それとも酔っぱらっているだけなのだろうか。 「オガタ君」と綾波は言った。「オガタ君も、何も変わらないのね」 「いえ、僕だって変わっているはずです」と僕は答える。 「少し身長が伸びたような気がします。五センチくらい」と僕は冗談を言う。 「……」 綾波は何も言わずに、少しだけ笑った気がした。そして口を開く。 「私たちの姿かたちが変わらないのは何故だと思う? 十四歳の姿のまま、十年前と同じかたちのまま、年齢だけが眠れぬ夜に数える羊みたいに虚しくカウントされていくのは何故だと思う?」淡いブルーのショートカットヘアの女の子はそう言った。 「僕には、……僕には分からないよ」と僕は言った。それは嘘だと知りながらそう言った。 10 「もういいの?」と綾波は言った。 「もう少しだけ」と僕は答えた。 オレンジ色の海。僕と綾波は、その海底に沈んでいる。 長い夢を見ている。僕が僕じゃない夢。こうあれば良いのになと夢想した世界を見ていた。 「夢の中の僕が、僕の事に気付き始めてる。彼は、自分が誰かの夢なんだという事に気付き始めてる」 僕は一度目を閉じて、すぐに開いた。仰向けに寝転がっている僕と、僕の上に乗っている綾波。自分の胸を見ると、綾波の腕が突き刺さっている。 「きっともう、起きなくちゃいけないんだ」 胸から綾波の腕を抜いて、手を握った。 11 飲み終わったのが、夜中の二時半。もう電車は無いけれど、みんなどうやって帰るんだろう、と僕は思った。 「まだだ、まだ帰らんよ」とイシダさんが言った。「カラオケ行くぞー!」 「オー!」と女三人が応じた。 一度眠って、イシダさんはすっかり元気になった。女三人は、ずっと元気なままだ。 「なるほど。もとから帰るつもりは無かったのか」と僕は納得した。 居酒屋の隣にカラオケボックスがある。ここらへんで飲むと、大抵この黄金パターンが適用される。 カラオケでは、最初に『残酷な天使のテーゼ』を皆で歌った。オープニングに相応しい曲というのが理由だった。じゃあ最後は『フライミートゥーザムーン』を歌うのかなと想像した。 朝の六時。 カラオケボックスでも飲み続けた僕らは、ベロンベロンになっていた。既に空が明るい。 「んじゃ、帰るわー」とミツイシさんが言った。「お疲れ様でーす」 「お疲れっすー」とミヤムラさんが言った。「アタシも帰るんで、いっしょに行きまッス」 「みんな電車だよね?」とハヤシバラさんが聞いた。 「オガっち以外は電車ッス」とミヤムラさんが言った。ミツイシさんといっしょに、イシダさんを肩に担いでいる。 「あれ、イシダさんまた寝ちゃったんですか?」と僕は聞いた。 「コイツ酒弱いのに、酒好きなんだよね」とミヤムラさんが言った。「軽いから持てるけど」 「僕ん家そこなんで、イシダさん置いていってもいいですよ」と僕は言った。 「それはウホッ、的な意味で?」とハヤシバラさんが冷静な顔で聞いた。 「? ウホ?」と僕は聞き返した。 「なんでも無い」とハヤシバラさんは言った。「きっと酔っているんだわ」 「んじゃ、まかせちゃおうかな」とミツイシさんが言った。 イシダさんを肩で支えた。たしかに軽い。軽すぎないだろうかと心配になるくらい軽い。 「それじゃ、お疲れ様でしたー」 女三人は駅の方へと向かった。 僕は家の方向へ向かった。イシダさんは微かに残った意識を総動員して、かろうじて歩を進めてくれる。 毎朝走っている堤防を通る。東の空に、昇ったばかりの太陽が見える。 妙に清々しい気分だった。きっと、根を詰めて役作りをしていたので疲れていたのかもしれない。 もしかして、僕のための飲み会だったのだろうか。そう思ってしまうくらい、スッキリとした気持ちだった。肩の力が(比喩的な意味で)抜けている。 まるで、そう。まるで長い夢から醒めたときみたいな。 隣でイシダさんがムニャムニャ言う。 「ありがとう、シンジ君。君に逢えて、うねしかった――」 「あ、噛んだ」と僕は笑った。 家に帰ったら、まずイシダさんに水を飲ませよう。シャワーはどうしよう。昨日の朝にしたきりだから、サッと浴びてしまおうか。 いや、まずは、とにかくグッスリと寝よう。夢を見ないほど、深い眠りにつこう。 朝日と朝靄と、川面を反射する光を感じながら、家に向かって歩いた。 |