彼女が残した手紙。

僕はその言葉の意味を考える。

たった十文字の問い掛け。

もしかしたら、答えなど存在しないのかもしれない。

けれど、僕と彼女を繋ぐものであるならばそれでも良かった。

解読不明な細い糸、その先に彼女が居ればそれだけで良かった。




――――  胸騒ぎの乳酸菌  ――――




常夏の日本がいっそう暑さを迎えた八月のある日、僕は一人で下駄箱へ向かっていた。
放課後、教員に呼ばれ職員室で頼まれごとをしていたが、作業が終わる頃には夕方を迎えていた。
いつも一緒に下校しているアスカは、委員長との約束がありとっくに学校を出ていた。
誰も居ない校舎、窓に映る夕日、辺りには乾いた靴音だけが大きく響いている。

玄関の手前で何の気なしに下駄箱に手をかけた瞬間、どこか違和感を覚えた。
今、何か、白いものを見たような気がする。
僕は下駄箱の周辺をくまなく見渡す。
普段と変わらない緑のマット、いつもと変わらない名札。
下のほうから順に確認していくうち、下駄箱の隅に白い紙きれが挟まっていることに気づく。
破れないよう静かに下駄箱を開け、それを慎重に手に取る。
白い何かの正体とは、B5サイズのレポート用紙がきれいに四つ折りされたものだった。
恐る恐る開けてみると、中には几帳面な字でこう書かれていた。


――碇君へ

  私の乳酸菌。
  これは何?

       綾波レイ――


日本語で書かれているはずなのに暗号としか思えないその文を読んだ瞬間、僕の思考は停止した。
どこからともなく聞こえてくるカラスの鳴き声だけが現実との懸け橋に思えた。



僕は混乱した頭を抱えながら夜道を歩く。
綾波の乳酸菌とはいったい何なのだろう。
乳酸菌といえばヨーグルト。
ヨーグルトといえばブルガリア。
ブルガリアといえばヨーロッパ。

”私のヨーロッパ。これは何?”

分からないなりにも、決して正しい回答とは思えない。
そもそも、どうして綾波は僕に聞くのだろう。
何らかのヒントを持っていると思ったのだろうか。
どれだけ考えても答えなど見つかりそうにない。
切れかかった街灯の点滅が僕を嘲笑っているような気がした。

夜も更け、すっかり静まり返った第三新東京市。
連想に連想を重ね、これが男からの手紙だったら何となく分かるのにと思った時、
前にも何度か使用したことのある公衆電話を見つけた。
そうだ、誰かに聞けば何か分かるかもしれない。
僕は手当たり次第に電話を掛けてみることにした。

「はい、赤木です。あら珍しいわね、シンジ君」
「こんばんは。あの……リツコさん、綾波の乳酸菌って心当たりあります?」
「……シンジ君」
「はい?」
「レイの乳酸菌は……ネルフにおいても最重要機密なの」
「えっ」
「話してもいいけれど……あなたには聞く勇気があるのかしら?」
「そっ、それは……」
「その様子じゃ駄目ね。いい? このことは忘れて」 
「えっ、でも……」
「どこでその情報を手に入れたかは聞かないでおくわ。じゃあね、シンジ君」
「え……ちょっ」
一方的に切られてしまった。

「もしもし、アスカ?」
「なによ、携帯にまでかけてきて。もしかしてストーカー?」
「何言ってるんだよ。ねえ、それよりも、綾波の乳酸菌って知らない?」
「はあ? 何でアタシにファーストのことなんか聞くのよ!」
「だって分からないから……手がかりが欲しくて」
「知らないわよそんなこと! 直接ファーストに聞けばいいでしょ、このバカシンジ!」
「そうは言ってもさ、アス……あ」
半ば予想通りの反応だった。

「どしたの? シンジ君。まだ帰れないの? お腹が空いて死にそうよ」
「もうすぐ帰りますよ。それよりミサトさん、綾波の乳酸菌って知ってます?」
「あーら、何? レイのことが気になるわけ? シンちゃん」
「い、いや、その……ちょっと気になる……いや、かなり……って何言わせるんですか!」
「あれー? やっぱりそうなの? 薄々そうじゃないかと思ってたのよね」
「ミサトさん! 違うんですよ! 今は乳酸菌の話ですよ! 乳酸菌!」 
「そんなこと言ってー。レイに会ったら言っとくから。シンちゃんが惚れちゃったみたいよーって」
「もういいです!」
思わず自分から切ってしまった。  

「なんだ」
「あ、あの、父さん……」
「私は忙しい。用が無いなら切るぞ」
「そ、その……綾波の乳酸菌って……知ってる?」
「……ユイの乳酸菌なら欲しい」
「………はい?」
「臆病者は帰れ」
「ええっ? 何それ、ちゃんと話を聞い……って、ええ!?」
さっぱり訳が分からなかった。

僕は心の底から深い溜息を吐いた。
誰に電話を掛けても、まったく話にならない。
いったい何だというのだろう。
最近はいつも頭の中が綾波に占拠されていたが、今日はそれに乳酸菌の文字がつく。
またひとつ大きく溜息を吐き、近くのガードレールにもたれ掛かる。

乳酸菌、乳酸菌。
どれだけ考えても混乱が増すばかり。
やっぱり、直接聞くしかないか。
一回背中を反らし、反動で身体を起こしてから公衆電話に戻る。
受話器に耳を当て、少しだけ震える指で暗記してしまった番号を押す。
コール音が一回、二回。
風呂場で何度も諳んじた番号、実際に掛けるとかなりの緊張。
コール音が五回、六回。
どれだけ待っても綾波は電話に出ない。
緊張が解け、脱力しながら受話器を戻す。

僕は夜空を見上げた。
目に入るのは、古ぼけたマンションがある方角へと真っ直ぐに伸びていく流れ星。
右の手のひらが汗をかく、何度も閉じたり開いたりする。
……そう、元はといえば彼女が僕に問い掛けたこと。
たった十文字の手紙が引き起こした混乱。
だから僕は彼女にその意図を聞かなければいけない、そして僕は彼女に答えなければならない。
決してやましい気持ちなどない、本当に完全に純粋に絶対に謎を解明するためだけに。
僕は電話の前から離れ、彼女の部屋へと向かう。

知らず小走りになる足。
きっかけを作ってくれた乳酸菌に、心から感謝した。



402号室。
僕はこの部屋の前に立つと、緊張のあまり逃げ出したい気持ちに駆られてしまう。
乳酸菌、乳酸菌。
僕は縋るようにして文字を頭に思い描き、ノックする。
錆びた鉄製のドア、その向こうから誰? と問う声が聞こえる。
「ぼ、僕だよ、碇だよ」
しばらくしてから、ゆっくりと開かれる扉。
「…入って」
僕は気持ちを落ち着かせるため、ひとつ大きく深呼吸をした。
新鮮な外気の中に綾波の匂いが混じっていた。

部屋に入ると彼女は真っ直ぐベッドへ向かい、腰をかけた。
僕はどうすればいいか分からなかったが、とりあえず簡素なパイプ椅子に座った。
向かい合ったまま、いつまでも続く沈黙。
これは僕のほうから口を開かないと話が始まらない。
乳酸菌。
思い切って綾波に尋ねてみた。

「あの……綾波?」
「なに?」
「これ……下駄箱に入ってたけど」
僕は彼女にレポート用紙を見せた。
「ええ」
「なんで僕に直接聞かなかったの?」
「聞こうとしたけど……見当たらなかったから、碇君」
「ああ……職員室に行ってたからね。でもさ、この乳酸菌ってなに?」
彼女の紅が僕の目を射抜く。
「碇君」
「……ど、どうしたの?」
「私……おかしいの」
「なにが?」
「胸の辺りが……苦しいの」
そう言って彼女は両手を重ねて胸を押さえた。
きつく、手から零れたその形がはっきりと浮き上がるくらい、きつく。
「ちょっ、ちょっと綾波、いったい何をして……」
「何故か……息も苦しい」
彼女は右手を胸から離し、軽く喉元をさする。
前屈みになりながら見つめてくる彼女、膝が触れ合いそうな位置で向かい合う僕。
顔が、近い。
「あ、あ、あやっ、あやなみ!? そっそれが乳酸菌とどんな関係があるんだよ!」
次々と繰り出される、あまりにも刺激的なその仕草。
思わず椅子ごと後ずさる、そして離れた二十センチの後悔。
「胸の奥から苦しさが出てくる……すなわち、乳から増殖する菌」
「はっ、はい?!」
「この苦しさ……どことなく酸味と似てる」
「そっ、それが……綾波の言う乳酸菌?」
「そう……あなたなら知ってるかと思って。教えて、碇君……」
震える睫毛、潤んでいる紅。
「それって……もしかして」
思わず喉を鳴らしてしまうのは、思春期まっただ中にある僕が正常である証拠。
これは大いなるチャンスなのでは?
期待を激しく膨らませ、高鳴る鼓動と共に彼女へ問い掛ける。
「あ……綾波? 僕……思い当たることがひとつあるんだけど」
「なに? 碇君……」
ほんのわずかに上擦ったその声が、僕の心を大きく揺さぶる。
「その前に……他に何かない? その……むっ、胸が苦しい以外に……」
僕のことが何故か気になる、とか。
「他に……そうね」
「な、なんでもいいんだけど、たとえば――」
「背中が寒いわ」
「………へっ?」
「それに……額も熱い」
そう言いながら、苦しそうに咳き込む綾波。
良く見れば熱を出しているのか、頬もうっすらと赤みを帯びている。
「………………それ、乳酸菌じゃなくて風邪菌だから」
三たび、心の底からの大きな溜息。
何かを期待した僕はやっぱりバカシンジなのかもしれない。
いっそこのまま椅子ごと倒れてしまいたいという衝動に駆られたが、何とかそう答えた。
「…そう、これが風邪菌というもの」
さらに咳を繰り返し、気管支炎でも起こしているのかひゅうひゅうと音が鳴る。
「……おかゆでも作るよ」
僕はパイプ椅子から立ち上がる。
実際のところ、一方的な勘違いとはいえ萎えた心はすぐに復活しそうにない。
だが、あまりにも辛そうな彼女の姿を見て、何とかしてあげたいという気持ちが強く湧いたのだ。
ほとんど使った形跡がないキッチン、底が抜けそうな鍋。
果たしてこの部屋に米は存在するのだろうかと考えながら、手際良く準備していく。
「……でも、何故?」
ベッドで横になった彼女が息苦しそうな声でそう呟く。
「なに? どうしたの綾波?」
流しの棚からようやく米を見つけ、鍋に火をかける。

「あなたの夢を見ても胸が苦しくなるのは、何故?」
「……えっ?」



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