悲しむ悪魔が出したパス。

 怠けた天使が打つシュート。

 どちらも同じ意外性。



佇む黒


Written By NONO  



 子供の笑顔のような青空だった。予想を裏切られて持て余すことになった傘を持っている自分
が馬鹿馬鹿しい。いっそ、さっき出たコンビニに置き忘れてしまっている方がずっと楽だった。
 第二東京の町は年輪のように地区が厳密に定められた町ということを教わったのは第三新東京
市に住んでいた――というよりも、生活の全てがターミナルドグマとネルフ本部で済んでいた頃
の事だった。
 第一区から八区までの各地区は、勿論中心部に行政や司法の重要機関があって、遠ざかれば遠
ざかるほど人間の数も所得も減り、反比例する様に人付き合いは深くなっている。自分の住処が
四区に定まってから(正確には、定められてから)三年になる。

 四区の学校に通っているわたしには、中心部は縁がない。幾つかの事情から、わたしは二区よ
り内側への『侵入』を許されていない。エヴァのパイロットであった事や、未だに国内外の諜報
活動員の監視対象になっている事が主な理由だった。勿論これらはそれぞれ根拠ある理由ではあ
るけれど、根本のところではもっと簡単な話ひとつで住むということをわたしは知っているし、
そのことに対して、何も感じない人間ではなくなっていた。それが幸か不幸かはまだわからない。
『人間ではない』という事。たったそれだけのことに、周囲だけでなくわたし自身怯え、恐れて
いる。

 何より辛いのは、人間ではないためにわたしが知っている数少ない昔からの知り合いのほとん
どと離れ離れになってしまったことだった。サードインパクトが起きてから一年後に決定した処
分は皆と離れて五年間の『保護』を受ける事。それは、わたしを育ててくれた碇司令の最大限の
努力の成果だった。冬月副司令曰く「あんなに書類と役人を相手に真面目な顔をしていた碇を初
めて見た」というくらいの努力。そのことはわたしだけなく碇くんも喜んでいたし、同時に、少
し意地悪そうにこの話をする副司令を見て誰もが「ああ、やっぱり雑用を押しつけられていたん
だ」と、少なからず同情していた。

 そんな司令の努力(もちろん、それに同調してくれた他の人たちの尽力も忘れてはいけない)
があるから、わたしは保護者を選ぶ権利が与えられた。碇司令と碇くんを除く人物を一人、保護
監察官に選べるという権利。その役割を買って出てくれたのが、赤木リツコ博士と、惣流=アス
カ=ラングレーの二人。アスカはパイロットだったことを理由に認められず、それどころかドイ
ツへの帰国を命じられ、とても残念がっていた。どうして保護者を買って出てくれたのか、思わ
ず訊ねると「野暮なこと訊かないでよね」と言い返されてしまった。「あんたを少しでもわかっ
てる同い年の女の子なんて、あたしっきゃいないでしょうが」
 赤木博士との同居を許されたこと、その努力と労力に感謝すると、司令が横から「当たり前の
ことをすることを努力とは言えない」と断言した。こっそり苦笑するリツコさんは、古木のよう
な佇まい。以前の様に、三人一緒に居る時に見せていた熱狂的な視線を見せることはなくなって
いた。

 今日はよくあの時のことを思い出す日だった。よく似た青空がそうさせるのかもしれない。乾
いた風がそうさせているのかも。髪を伸ばしたわたしが作り上げた土台を、風が乾かしている所
為かもしれない。
 歩調に合わせて傘の先で石畳を叩く。雨の匂いでもあれば、これだって少しは雰囲気のある行
為に違いないのに、こんなに乾いていては八つ当たりにしか映らないことが少し悲しい。

 わたしの住んでいる四区の北部には十軒近い温泉宿がある。源泉はさらに北部にあるけれど、
ここから北は山間部になるため、温泉目当てでここに来る人は多い。ただし住人自体は少なく、
旧街道の商店街は平日にも関わらずシャッターが下りている店が幾つもある。それでもここは第
二東京へ観光に来るお客さんが昔より増えているということもあって、商業地域としては淋しく
ても、住んでいる人や訪れる人の雰囲気は他よりずっと良いと思う。学校帰りの夕方には、浴衣
姿で宿の周辺を散歩する人たちとすれ違うことがある。特に多いのは、勿論男女の組み合わせ。
それに加えて静かに連なり町を見下ろす山、浴衣姿や乾いた下駄の音がこの町に彩りを加える。
同世代で賑わう服屋もクレープ屋もゲームセンターもないからこそ、ここは人間が直接町を彩っ
ている町だった。でも、浴衣姿で腕を組んだり手をつないだり、わたしが憧れる状態で容易く歩
く人たちを見るのは少し辛かった。

 今日もそんな人たちと一度だけ擦れ違い(その人たちの常として、わたしの容姿を訝しんで
「なんだあの娘は」という顔をする。見た目を指しているのか、その人たちの魂にわたしが記憶
されているのかどうか、どちらなのかはわからない)、狭い川に架かる泪橋の袂にダンボールが
置かれているのが目に入った。妙に凛とした佇まいの黒猫が一匹、段ボールの中で立っていた。
 思わず立ち止まると、黒猫も黄色い眼をわたしに向けた。わたしが思ったのは、どうして箱か
ら出ないでそこに佇んでいるのだろう、ということ。捨て猫にしては大きな身体だった。箱の側
まで寄ると、少ししゃがれた低い声で一度だけ鳴いた。けれど見せた素振りはそれだけで、後は
警戒するどころか関心を失ったという風にそっぽを向いてしまった。
 人には慣れているし警戒心も薄いのに、決して媚びる様子を見せない、不思議な猫だった。わ
たしはこの猫を抱えていく自分と、困った顔は一瞬しか見せないリツコさんと、我が家でくつろ
ぐこの猫のことを想像してみた。最後のところだけは具体性に乏しかったけど、そうした方がこ
の猫にとっても幸せに違いない、と連れて帰ることの正当性を考えている自分の思考の単純さに
驚き、呆れ、悲しくなった。わたしは、淋しくなくとも一人きりであることは間違いないこの猫
と自分を重ねている、自分の意思に関係なく切り離されてしまった自分と。そんなわたしのため
に、この猫の行動と選択を奪うことは間違いの様な気がして、わたしは足早にそこから立ち去っ
た。

 橋を渡って最初の角の路地から小柄なお婆さんがこちらに歩を進め、目が合った。お婆さんは
買い物籠と緑色のビニール傘を持っていた。ペイズリー柄のシャツと緞帳のように光沢のない安
物のスカートは、個人商店の服屋の軒先でよく見かける、誰が着るのか想像できない類の服その
ものだった。
  深海魚を思わせる、ひび割れた分厚い唇とぎょろりとした眼。深い皺を無数に切り刻み、重
力に逆らう体力を失った皮膚を無理矢理奮い立たせ、わたしを見るなり露骨に不愉快そうに皺を
寄せた時の顔つきは、客観的に見ても美しさを著しく欠いていた。わたしもまた不愉快な気分が
心臓から滲み出し、眉をしかめた。どうやって生きてきたら、こんな顔つきができるようになる
のだろう。見かけ通り、人目をはばかる様な人生でなければ、とてもあんな顔にはならないと思
う。
 すれ違ってからも後ろで聞こえる、引きずるような打ちつけるような足音が突然、不規則で大
人しくなった。振り返ると、お婆さんは段ボールの黒猫の目の前に立っていた。彼女がしゃがむ
と同時に唇の端を上げたのを見つけて、わたしは慌てて振り返り、自身のアクセルを踏み込んだ。



 帰宅する頃には、ようやく天気予報の言うことを渋々聞いてあげた空が雲を分厚くしはじめて
いた。
 わたしたちの家は、この時代には珍しい典型的な日本家屋だった。敷地の四方を木の塀で囲ん
であり、そこをくぐった先に、小さな庭と大きな家。そこに二人と四匹で住んでいる。部屋の数
は住人の数に比べて少し多すぎるくらいで、空き部屋がいくつもある。と言っても、次々とやっ
てくる専門書でひとつは既に狭くなっていっている事もあって、引っ越した当初より家全体の生
活感は増してきていた。最近、リツコさんも「人が住むと、本当に家も活き活きとするのね」と、
引っ越した当初の古びた様子を思い出しながらしみじみとした面持ちで言っていた。
 遅くなると聞いていたので、家の鍵が開いていたのは意外だった。
「ただいま」
 靴を棚にしまううちにリツコさんが長身を廊下に覗かせ、「おかえりなさい」
「中本屋のバウムクーヘン貰ってきちゃったから、帰ってきたわ」
「本当?」
「ええ、教授には気を遣わせたみたい」
 半年前に二番街にできた洋菓子屋さんの一番人気がこのバウムクーヘンだった。わたしの学校
にその店の従業員の一人息子がいて、彼は狐の様に細い眼をさらに細めてその店を『ケーキが売
れ残る、悲しい洋菓子屋』と評していた。わたしもリツコさんも、わざわざお菓子を行列に並ん
でまで買おうという気合を持つ人間ではなかったので、これまで一度も口にしていない。話題に
だけなら何度も出た。ただ、場所が場所なのでわたしにはそもそも縁がなかったのだけど。
「前も似たような事があった気がする。その先生、リツコさんのことが好きなのかも」
「周りが自分と同年代の事務のおばさんばかりだからでしょ」
「環境が人を変えるって、リツコさんがいつも言ってるわ」
「それはそうね……でも、私にだって選ぶ権利があるわよ」
 わたしは自室に入り、制服を脱ぎ、ハンガーに掛けた。リツコさんは開けっ放しの襖の淵に軽
く体重を掛け、話をつづけた。
「レイにだってあるみたいにね」
「……それなら、リツコさんの中では、その先生はどういう扱い?」
「バウムクーヘンひとつ買うために45分並ぶ手間を省いてくれる、大変有り難い方よ」
 笑わずに言うあたりが、「さすが赤木博士」
「扱い上手」
「あなたに言われると、意味深ねえ……」
「……そう言えば、そうですね」
 お互いの苦笑いが、まるで鏡の様だった。
「すぐ食べる?」
「うん、お腹空いた」
「レイも成長期かしらね、遅めの」
 肩を上下させて快活に笑うリツコさんは、精神的な成長期かなと、生意気な事をわたしは考え
る。
「それならもう少し身長が伸びてもいいのに」
 いつまでたってもリツコさんに追いつかないわたしの背丈は、第三新東京市に居た頃とほとん
ど変わらない。サードインパクトから処分が決まるまでの一年間だけで、わたしと碇くんの差は
どんどん開いていったのは今でも忘れられない。
 でも、聞いたところによると、碇くんの背がいくら伸びたと言っても司令よりはずっと低いら
しい。碇司令くらい背の高い碇くんは想像しにくいし、申し訳ないけれど似合っているとも思え
ないのでちょうどいいと思う。想像できる範囲で十分。そんなに身長差ができてしまっても、困
るような気がする。なんていうくだらない、勝手な言い分。

 ケーキを食べ終え(噂通り美味しかったけれど、かと言って何十分も並ぶほどの価値があると
は思えない味だった)、そのまま居間で生物の勉強を始めた。先週休んだ分は補っておかないと、
期末テストで苦労する。
 二人で住んでいて居間やそれぞれの部屋で暖房や電気を点けているのも馬鹿馬鹿しいというの
がわたしたちの共通の考えで、特に理由がない限りは居間で生活している。わたしは家で誰かと
暮らす事自体が初めてなので苦痛ではなかったし、リツコさんも嫌ではないと言ってくれた。
「わざわざ離れるほど長く暮らしてるわけじゃないもの」と、独特の言い回しで。
 勉強を小休止してもう一度お茶を淹れた。お茶を渡すとき、さっきのお婆さんのことを思い出
した。
「そういえば、さっき、橋の袂でお婆さんとすれ違った」
 年寄りが多いのは今に始まったことじゃない、といった面持ちのリツコさんと目を合わせて、
わたしは最初から話すことを決めた。
「……その人、目つきも悪いし、わたしを見て嫌な顔するし、すごく嫌な感じの人だった」
「珍しいわね」
 どういう意味合いなのかは、予想はできたけど追求はしなかった。
「でもその人、橋の袂に捨てられていた猫の側に寄って、しゃがみこんだの。それも、笑いなが
ら。嫌な人だって、思った傍からそんな事……人って、見かけによらないのね」
 わたしは嫌な言い方をしていた。あの人がわたしを見るなり顔を歪め、ただでさえ皺だらけの
顔に皺を増やすようなことをした所為だ。
 わたしは想像がつかないものに対して受け流す手段を人より持っていなかった。意識に繋ぎと
めておく時間も人より長いかもしれない。でも、それを悪い癖だとするのも不自然に思えた。考
え込むこと自体が悪いことなら、そんなことしないで生きていくには人間が持つ思考能力は複雑
に出来すぎていると思う。
「見かけによらない、ね……それはそうよ。見た目が醜くても、中身やはたらきはそれとは無関
係でしょう?」
 たとえば、こんなのもそうじゃない? リツコさんが書棚の端にしまってあったモバイルPC
を立ち上げて、一枚の画像をわたしに見せた。
「……何の菌?」
 細胞やウイルスの画像というのは、どうしてこんなに気持ち悪いのだろう、いつも思う。リツ
コさんがわたしに見せる画像も例外ではなく、綺麗な丸い形というより、不気味な連続体にしか
見えなかった。
「あなたの好きなヨーグルト、キムチ、漬物類はこの乳酸菌による発酵で出来上がる食べ物よ」
「それが?」
「発酵食品は、当たり前のことだけど菌のはたらきで出来上がるけど、コレが作ってるなんて、
ちょっと気持ち悪いでしょう」
「それはそうだけど……それがどうしたの?」
「当たり前のことだって、一枚薄皮を剥がしたら、その仕組みまで気に入るかは別問題。逆もそ
う、この家がいい例よ。わたしたちにとっては居心地のいい空間でも、隙間だらけで無用心とし
か見られない人だって大勢いるわ。あなたの嫌いなお婆さんだって、そういった事と同じよ。オ
ートロックの部屋でなくちゃ駄目だとか、納豆を腐った豆としか思えない人の気分は、案外今の
あなたに近い心境じゃないかしら」
 早々、見た目どおりの事ばかりじゃない。世間で言われるそんな当たり前の事も納得できない、
わたしはそんな人間なんだろうか。赤い戦闘服の英雄が負けることを想像できない子供のように、
単純な経験と思考しか持たない、ただの子供ということ?
 もしもそれが本当なら、そうだとして、どうすればいいのだろう。納得いくようになるには、
どうすれば。わたしの顔も見ずにわたしのことを見透かしたリツコさんが気楽そうに座椅子に体
重を預けて笑うながら、PCを閉じた。
「まあ、今度会ったら会釈でもするようになさい。嫌いな相手だとしても、あなたから良くして
いった方がどんな結論が出ても納得しやすいわ。相手があなたを嫌いかどうかは、実はわからな
いんだから」



 それからの勉強はあまり手につかなかった。一通り眼を通したけれど、翌朝にはすべて片付け
られていた。物事を分割して思考を切り替えられた昔が懐かしい。碇くんと出会ってから、そん
な機能はすぐに壊されてしまったけれど。
(碇くんがこの話を聞いたら、何て言ってくれるだろう)
 お風呂に入ってからは、そればかり考えていた。夜の帳が下りて、闇が深くなればなるほど、
わたしの中の碇くんは反比例して存在感を大きくなる。『彼なら』という思考が『彼さえいてく
れれば』にすぐに変わってしまう。自分から行動すべし、とリツコさんに言われているのに、こ
れは良くない。
 けれど、三年。
(もうあと二年なんて、長すぎる)
 来年から定期的に会う機会を作ってもらえるように、司令がはたらきかけてくれている。段階
的に監視を解除していくという名目で。それでも、この三年が戻ってくるわけではない。魂の起
源が異なる以外、肉体も能力も人間のわたしには何の力もない――おそらく、エヴァに乗る能力
すらない――のに、どうして離れ離れにならなければいけないのだろう。熟成されて、琥珀色へ
と変わる皆と彼への思いをこうして寝かせておくしかない現状で、昨夜のような謂れのない悪意
を向けられて何も思わない様なわたしではない。
 第二東京大学で特別講義があるリツコさんがわたしより一足早く家を出た。田舎の温泉街には
不釣合いのハイブリッド車を見届けて、わたしは朝食の後片付けを済ませてから家を出た。玄関
先まで送り迎えをしてくれるのは猫の「つみれ」。全身灰色で足の先だけが足袋を履いているよ
うに白い。あとの三匹はそれぞれ好きなところで寝ている。
「いってきます」
 意味を理解しているかどうかは別にして、きちんと眼を見て言えばつみれは返事をしてくれる。
顎をあげて見つめるつみれの喉を撫で、わたしは家を出た。家と門の鍵をかける。それでも何時
もどこかから出て行ってしまう我が家の猫たちの自由さが、わたしはいつも羨ましかった。
 泪橋の袂が近づくにつれ、昨日の猫が気になりだした。あの猫は昨日と同様に、不思議なほど
凛々しく、それでいて猫らしい気ままな態度で箱の中で立っているだろうか。
 道を右、左と曲がって出た道の先に橋が見えた。秋晴れの空に照らされても、第三新東京市の
様にビルの窓や白い建物に光が反射して眩しいということはなく、キャベツの緑がいつもより綺
麗だったり、土が乾いている様子が見えるだけだった。ガードレールだけが白んでいた。
 時折通る車の音に紛れてしまいがちだったけれど、川の流れる音が近づくにつれ、緊張はいや
増していった。出来る限り段ボールのあった場所を見ないようにしようと思っても、小さな橋で
はそれも無意味だった。すぐに、段ボールがなくなっていることに気がついた。辺りを見回して
みたけれど当然猫は見当たらず、あの気ままな態度そのままに、どこかへ消えてしまっていた。
「馬鹿」
 そこに居て欲しかった期待や、どこかでこの状況を予想していた冷めた自分や、もしかしたら
あの後自分の家へ連れ帰ったかもしれないお婆さんの姿を思い浮かべた。それらのどこに向けた
のかわからない自分の言葉に呆れて振った首に太陽が降り注いで、鳥肌が立った。
 せめて元気でいてくれればいいな、と思う。
 ありえない話を敢えてするなら、碇くんによろしくとだけ伝えて欲しかった、なんて考えたり
した。あの猫だったら、わたしが目の前にいるのに無視する様なふてぶてしさでうまくやるに違
いなく、そして当然、それと同様にわたしの願いなんて、そよ風の中の枯れ葉同然、ひょいとそ
っぽを向いてしまうのだろう。
 時間ギリギリに教室に入って、何人かと話をして、今日は授業が午前中までだという事を思い
出した。わたしの通う高校は北部では一番学力のレベルの高い高校で、ここ数年は毎年第二東京
大学に十人前後が進学している。今日の午後はその第二東京大学から進学に関するアドバイザー
が講義を行う予定だった。
 冬月副司令が未だに籍を置く京都の大学への進学を志望するわたしにはあまり関係のない事だ
し、あるクラスメートは『現時点でそんなことを聞きたがる時点で第二東大は諦めたほうがいい』
と辛辣な事を言っていた。なので、その子は強制参加であることに不満を持っていて、今朝も自
由参加にすべしと喚いている。個人的には、その数時間を勉強にあてたから合格できるという事
でもないと思うので、そんなに焦るその子自身、合格に自信があるわけではない事を露呈してい
る様に思える。
 それは結局皆同じで、まだ試験まで四ヶ月もあるのに自信満々の筈がない。わたしだって自信
はない。でも、不合格だったから何から何まで全てご破算ではないことは知っている。
 生きている事が努力の末だという自覚があるので、そういう意味では、わたしはこの時期にし
ては他の子より緊張感や無意味な角がない。熟成されたワインや、食べごろの発酵食品の様に。
でも、この性格は皆にいつか会えると思っているから保っていられるだけで、もしも叶わないな
ら、腐っていくに違いなかった。
「こういう時期にさあ、カラスとか黒猫とか見たりしたらやばくねえ?」
 少し離れた席の男子が言っている。
「お前、そんなこと気にしてんだ。意味ねえよ」
「いや、でもマジで最近メンタルやばいんけど、俺」
 掴み所のない会話を聞きながら、わたしは少し急いで一時間目の準備をはじめた。今日は担任
の先生がホームルームから続けて授業を始める日だった。数学の教科書が机の中ではなくロッカ
ーに入れっぱなしだったことを思い出して、教壇を通って廊下に出た。
 廊下は外の寒さが生き残って呼吸をしていた。ブレザーを脱いでから数学の教科書の場所を思
い出した自分を悔やみながら教室の戸を閉めた。廊下の端までほんの数歩。歩く度に床が軋んで、
校舎は自分の歴史を一々主張する。その音に合うわせる様に、廊下の窓の外で動く物体を眼の端
で見つけた。伏せていた顔を上げた瞬間、黒っぽい物体が木から斜め下に素早く動いて窓から姿
を消した。木の枝が微かに揺れ動いている、そこから確かに何かが飛び下りたことを証明するた
めに。
「今の……」
 呟いた瞬間だった。呆ける私を狙ったかの様に甲高い音がすぐ外で鳴り響いた。映画の中でよ
く聞く様な、車が急ブレーキを踏んだ時の音にそっくりだった。最後に何かにぶつかってガラス
が割れる音がして止むところまで、何から何まで。
 呆気に取られるわたしより、教室にいた皆の方が敏感だった。すぐに廊下に飛び出して、廊下
の窓を開けて身を乗り出していた。廊下側は狭い通用口を隔ててすぐ路地になる。
「うわ、事故ってるよ!!」
「おい、アレ!人っぽくないか?」
「嘘、マジで!?」
 呆けるわたしに報告するように、クラスメートや他のクラスから飛び出してきた同級生の声が
冷たかった廊下で熱狂的に飛び交った。黒と事故。冗談の様なタイミング。
 わたしも遅れて窓から外を覗き込むと、路面にタイヤの跡をつけたワゴン車がガードレールに
ぶつかっているのを見つけた。
 そして、車がぶつかったのとは反対側のガードレールに、干した布団のようにのけぞる様に二
つ折りになった人間の身体が一つ。緞帳のようなスカートとずんぐりした体型には何故だろう、
見覚えがある。
 手の先が冷えていくことや、騒々しい声が消え、悲鳴へと変わっていくことが、目の前の景色
が嘘ではない事を告げている。あなたが見ているものに嘘はありません。そうそう、あなたが一
瞬見つけた黒い物体が勘違いではないことも、勿論。
 先生が慌ててやってきて、教室に戻る様に指示する。それを無視して窓の外を覗く生徒を、先
生は一人ずつ引き剥がしていった。死に慣れない皆、大人しく教室に戻っていった。わたしだけ
が先生に肩を掴まれても無視をした。反対側に折れて見えない顔を見るべき筈のわたしは、教室
に戻ってはいけない筈だった。それでも、意思に反して震える身体の所為で簡単に引き戻された。
「教室で待っていなさい!」
 先生がわたしの顔を覗き込むように見据えて叱りつけた。汚らわしい顔つきと、懸命な口調と
裏腹に出来る限りわたしを離すまいとする意識が見え見えの手つきに苛立って、わたしは手を振
りほどき、先生を突き飛ばした。わたしの抵抗を予想していなかった先生が驚き、苛立ちを露に
するのがひと目で解った。それを無視してもう一度だけ窓の外に顔を出す。
 何人かの人が撥ねられた人を抱えている姿が見えた。取り囲む人の頭で、顔はわからなかった。
昨日とは色の違うペイズリー柄の服だけ確認できた。元から色違いなのか、色違いに見えただけ
なのかは判断がつかなかった。
 学校の事務員の人と近くの十人らしき人たちで抱きかかえて道端に寝かせる光景を、わたしよ
りうんと小さい彼が、民家と民家の、頭ひとつ分の隙間から覗いているのが見えた。隠れてみて
いるのではなく、たまたまそこに居た時に起きた事をずっと見ている、という風な佇まいで、気
ままな顔つきで。
 その様子を見届けたかったけれど、再び引き剥がされ、今度は教室まで強引に連れ戻されてし
まってしまった。
「何を考えているんだ、お前は!」
 先生がその後職員室から連絡が来るまで生徒全員を見張っていたため、わたしは自分になす術
がない事を知った。遠くから救急車の音が聞こえる。それが止んで、そして再び鳴り響いた甲高
い音がやがて消えていく。最早会釈も叶わない事を嫌でも思い知らされ、わたしの視界は急速に
歪んでいった。

ぜひあなたの感想を までお送りください >

【競作企画「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」の目次】  /  【HOME】