暗闇。そこには何も存在しない。
存在しないはずだった。
何も存在しないようで、その実、一人の少年と思しき者が闇に浮いている。
ポケットに手を突っ込み、目を閉じるその姿はまるで存在感が無い。
銀髪も、端正な顔立ちも、華奢な体も闇に飲まれるかの如く佇むのみ。
どの位の時が流れたのだろうか。
一瞬にも近く、そして永久とも取れる時を経て空間に音が響きだす。
その音は例えるなら、空洞を吹くような音。
音は続く。
そして、現れたモノリスの数は、十三。
「やっと、来たのかい。待ちくたびれたよ」
少年の鈴の鳴るような声はこの空間に不自然なほどに響き渡った。
「何のつもりだ、タブリス。いや、何故ここに存在する」
次に響くのは重々しい老人の嗄れ声。
「何のつもり?今さらだね」
後半の質問には全く反応せず、そして、その老人の質問はまるで見当違いだと言わんばかりに少
年は呆れた声を隠そうともせずに紡いだ。
「貴方達が気にしているのは、補完計画の事かい?」
ほんの少しだけ、声に出して笑う少年に老人は苛立つ。
「何が可笑しい!?」
老人の荒げる声に臆する事もなく、少年は一しきり笑い続けた後に、ようやくその眼を開いた。
赤い、赤いその瞳。
憎悪とも執念とも取れる、炎がその奥で揺らめいた。
それは今までの彼にはあり得なかった物。
「可能性の世界」
「何?」
「彼は答えを見つけたんだ。貴方達の計画は…いや、失敗や成功と表現するのは的確じゃないね」
「貴様、何をするつもりだ」
ドスの利いたそれを、少年は微笑で一蹴してみせた。
そして、その闇に浮かぶ異様な集団に背を向け、一歩を踏み出す。
虚空を踏みしめ、歩く事など不可能と思える場所を歩き去ろうとする。
「待て、タブリス」
果たして呼びかけに応えたのかどうか。だが、少年は立ち止まった。
「興味があるのさ。彼が思い描いた世界。そして、その先にあるべき本当の決着を」
上、と言う概念がこの場所に在るのかは定かではなかったが、僅かな感慨に耽るように一度だけ
上方を見上げる。
「貴方達には感謝していますよ。ある意味、そのきっかけを作ったのは貴方達ですから」
再び、一歩、進む。
「ああ、そうだ。僕が何故ここに居るのかとの質問でしたね」
声は場にそぐわない程、明るく楽しげだった。
「今回は、彼が望んだからですよ」
微笑みと共に零した言葉。
「もう居なかったね」
少年の背後にはどこまでも闇が広がるだけで、先程までそこにいた筈のモノリス達は最早姿を消
していた。
振り返ることも無く、その実、言葉を発する前からそれを察していた少年は歩き始めた。
次は止まることなく。
「そう、世界は廻る」
渚カヲルは呟いていた。





そして、物語は     

『破』へ、始まりの扉は開かれる    





息が上がる。
それはそうだ。今はまだ、朝の八時過ぎ。
起きたのは遂、十五分程前に過ぎない。そんな頭も体も覚醒してない内から限りなく全力疾走に
近いランニングだ。
碇シンジではなくとも、勘弁願いたいに違いない。
いや、実際にご勘弁を、だ。
今が遅刻寸前でなければの話だが。
「本当に、文字通り叩き起してやればよかったわ」
夏故に既に強烈な暑さを振り撒く朝の陽光。
その光に照らされ、より一層赤く見える髪を揺らしながら、シンジと並走する少女。
否、美少女と書くべきであろうか。
兎にも角にも彼女は男であるシンジと変わらないスピードで走っていながら、表情にはシンジの
数倍は余裕が伺える。
起床してからの時間差、以上にその運動神経の違いが顕著に表れている。
「嫌だよ、アスカってば、手加減って、言葉を知らないんだから」
乱れる呼吸で途切れ途切れになりながらも抗議の声を上げるシンジ。
とは言っても、その抗議が彼女に通用しない事はこれまでの幾重もの事実が示している。
過去に、シンジを起こしにきた彼女が偶然にも朝の男性特有の癖を目撃してしまった事がある。
その次の日から、叩き起し方が激しくなっただけだった。
では、そうやって朝に起こしに来てくれる可愛い幼馴染がいるので碇シンジは遅刻とは無縁なの
か。
そうでは無い事は今この瞬間の現状が証明していた。
「それにアスカだって起こしに来るのっていつもギリギリの時間じゃないか」
起こしに来てもらっている者に言える事かどうかは分からないが、更に抗議の声を上げ続けるシ
ンジに対してアスカは僅かに口籠った。
「お、女の子には身嗜みにかける時間が必要なのよ」
「学校に行くだけなのに」
アスカがほんのり頬を染めて、瞳を逸らしながら言う様をシンジが認識する事はなかった。
蹴りが飛んだからである。
「この、馬鹿…」
蹴りを放ち、お得意の罵倒を口にしかけた時。
シンジの吹っ飛んだ方向。所謂T字路の合流地点。
「うわっ」
アスカの位置からは曲がり角が死角になり、シンジが誰かとぶつかった事しか分からない。
そう。誰とぶつかったかは全くもって分からない。
シンジはぶつかって尻もちをついている。どうやら、相手方も同じようだ。
だが、唐突に嫌な予感がした。ただの直感だったが、その感覚はあまりにもはっきりし過ぎて。
確か、一年ほど前にもこの辺りでシンジは衝突事故を起こしていた。
あれから約一年。シンジとぶつかった彼女は今も元気に、あまりにも元気にシンジに纏わりつい
ている。
あくまで惣流アスカの主観での話だったが。
自分の不吉な予感を断ち切るために一体誰と衝突してしまったのか確かめようとして、一歩踏み
出す。
だが、その必要はなくなった。一呼吸遅かったようだ。
「カヲル君!」
「朝から偶然だね、シンジ君。大丈夫かい?」
曲がり角の向こうに居た少年を確認してしまった。聞き間違いでも無ければ、当然見間違いでも
無く、確かにあの男だ。
先に立ち上がると優雅に服を掃い、未だに地に座り込むシンジに手を差し伸べる姿が目に入って
くる。
シンジに纏わりつくと言う意味で、爽やかな青髪の美少女と双璧を成す、容姿端麗な美少年。
自分達と出会ったのは中学入学の時だったように思える。
そんなどうでも良い事を考えながら、アスカは朝からのこの出会いに盛大に溜息を吐いていた。
「おはようアスカちゃん。どうかしたかい?顔色が優れないようだけど」
シンジとの挨拶を済ますと、当然のようにアスカに挨拶をしてみせる。
厭味さは皆無の完璧な笑顔に、逆にアスカが嫌気を覚えるのはいつもの事。
「おはよう、カヲル。で、朝からあんたに心配されるような事は何一つないわよ!」
彼女の担任の言葉を借りて表現してみよう。
果たして、アスカの嫌な予感はパーペキに的中していた。








「最悪も最悪、本当に最悪よっ!」
イライラと机を忙しげに人差し指で叩きながら、席を寄せるヒカリに愚痴る。
「そんなに渚君の事、嫌いなの?」
基本的には女子に絶大な人気を誇る渚カヲルについて、盛大に嫌悪感を表すアスカに苦笑するヒ
カリ。
親友であるヒカリもアスカが何故そこまで彼を毛嫌いするのか理由はイマイチ分からない。
シンジが彼と仲が良いと言う事実も、もちろん癪に障るのだろうが、それだけでこうも嫌うもの
だろうか。
「嫌い…?あんな奴にそんな言葉は生温いわ」
アスカの眼光が鋭さを増す。
一体どんな言葉が相応しいのかヒカリに追及する勇気はない。
とりあえず、相変わらずの苦笑いで親友の怒りが収まるのを待つしかない事を悟った。
「おっはよう、アスカ!」
そんな空気を切り裂くように、突然アスカの背中をバンと勢いよく平手打つ音。
そして、天まで突き抜けるように底抜けに明るい声。
そこに颯爽と登場したのはアスカ曰くの「双璧」の片割れ、彼女の名は綾波レイ。
普通ならば大嫌いなカヲルと双璧を成す、などと評するからにはレイに対しても同じように拒絶
全開だと思われがちだが、何故か。
彼女のレイに対する態度はまた少し違っていた。
「ふん。この能天気おしゃべりマシーンがっ、おはよう!」
椅子から振り向きながら、瞬時に立ち上がる。
そして、そのまま横薙ぎにチョップをかますアスカ。
そのアスカ流の挨拶を、レイは身を一歩引く事で華麗にかわしてみせる。
無駄の無かったアスカの一撃は、同じく隙の無いレイの反応には通用しない。
「何、何!?アスカってば、朝から超不機嫌じゃない?」
いつもより気合の入った挨拶に大袈裟なほど目を白黒させて驚くレイ。
ついでに何故かぴょこぴょこと跳ねている。
結構いつもの事だ。そして、いつものように理由は不明だ。
「あー、朝から渚君に会ったの」
ふんとそっぽを向いてしまったアスカのフォローとして代わりにヒカリが説明する。
「E組の渚カヲル…?」
レイは彼女特有の勢いが急に引いたようだ、その証拠に一瞬表情が消えた。


だが、すぐに元通りの彼女に戻っていた。
「あいつは私もあんまり好きじゃないんだよねー」
顔を顰める事も、既に表情に何かを表わす事も無かったが、その言葉通りに受け取れる捨て台詞
と共にアスカの席を去る。
行先は当然のようにシンジのところだった。
「シンちゃーん!街でスイーツの美味しい喫茶店見つけたの、いちごショートが特にやばくって、
今日一緒に行こ?」
「また、食べ物の店?」
にこにこと、更にはべらべらといつもの綾波レイ。そして、その怒涛の勢いをやんわりと受け止
めるのが最近、板に付いてきたシンジ。
「ちょ、あんた待ちなさい!私も当然行くわよ!」
アスカも今までの不機嫌の嵐は何処へやら。レイの独断専行、許すまじの精神でシンジの席へ飛
んでいく。
「碇君が絡むと、それどころじゃないって…ね」
相変わらずの親友への苦笑いに溜息を混ぜて、言う。
もちろんアスカに聞こえる訳もなく、聞かせられる訳もなく。
どうせ彼女の耳に入ったところで顔を真っ赤にして否定しまくるのが惣流アスカのデフォルトだ。
騒ぐ三人を見ながら、ヒカリはふと思った。
「レイも渚君の事嫌いだったっけ?」
と言うかそれ以前にアスカと渚カヲルも、アスカがああ言う状態なのであまり会話している場面
は見かけないが、それ以上にレイと彼が一緒にいるところなど彼女が転校してきて以来、一度も
見た事がないように思えた。
クラスが違うので当然の事のようだが、レイの場合は性格上、転校して以来凄まじい勢いで人と
の繋がりを広げているので、他のクラスとは言え、あれだけ目立つ存在である渚カヲルと接点が
無いと言うのは不思議なことだった。
だが、今その理由が判明したと言う事になる。
誰に対しても底抜けに明るく接し、例え彼女の事が苦手な人はいようとも、彼女自身が苦手な人
間などいないと思えるレイまでもが嫌いだと言う渚カヲル。
だが、彼女達二人を除けば、やはりどう考えても女子に対する人気は絶大と言う他無いのも事実。
ヒカリ自身も何度か喋った事があるが、別段悪い印象は受けていない。
丁寧だし、礼儀正しいし、優しい上に超がつく美少年。
とは言ってもヒカリは彼に対してどうこう思う訳でもないが。
「そんなに二人とも碇君の事しか眼中に無いのかな」
考えても正解は欠片も見えてこない。








アスカとレイに引っぱりまわされた放課後が過ぎた。
シンジはケーキと紅茶で既に夕食の侵入する隙間の無い甘ったるい満腹感に悩む。
「母さんに何て言うんだよ…」
事実を言うしか選択肢は無い事は分かっていたが。
折角夕食を作って待ってくれているであろう母親にそれは気が引ける事この上ない。
商店街の夕暮れの賑わいの中を歩いていく。
第三新東京市でもそれなりに大規模な、それでもしっかりと商店街と呼べるその街並み。
どれだけ都市化が進んでもこういう場所があるのは何だかほっとする。
あ、そういえば…。
学生鞄の中の財布を探る。
お札の中に紛れ込む一枚の紙切れ。そこには派手な文字で「夏の大還元セールお客様大感謝祭・
特別福引券」と書かれている。
有効期限は丁度今日の日付。
思い出して良かった。えっと、確かこの近くに対象の店があったはず。
父親から貰った覚えのある券を引っ張り出して、辺りを見渡しながら捜し歩く。
そして、十分もしないうちに目的の店は見つかる。
全国チェーンで展開している大型電気店の店先でそれは行われていた。
見るに中々の人だかりだが、まだまだ上位の景品も残っているようだ。
これは…!
そして、シンジはとある景品に息を飲むと、俄然やる気が出てきた。もちろん福引にやる気が関
係あるかどうかは何とも言えないが、何事も無いよりかはあった方がマシ、と言う事だ。
「すいません、これ」
福引券を渡すと豊富で長い髪の毛を後ろで一つに纏めた受付のお姉さんはにっこりと笑って言っ
た。
「はーい、一回回してくださいねえ」
やけに薄い半被をTシャツの上から羽織っているためか大きめな胸元が存在感を示している。
「は、はい」
所詮は営業スマイルだと分かっているのに、ちょっとだけドキマギしながら福引特有のガラガラ
に手をかける。
駄目だ、ダメだ、こんなんじゃ当たるものも当たらない。
首をぶんぶんと勢いよく振って邪念退散。もともと一回きりしか引けない上に、普段からこうい
う運を試す的な物にはとことん弱いシンジなので、初めは残念賞のポケットティッシュを貰いに
行く、程度の感覚だったのは確かだ。
だが、一等賞の景品「当店お買い物クーポン10万円分」と言う魅力的な餌を見た後では何が何で
もそれを引き当てたくなっていた。
と言うのも、シンジは最新のポータブル音楽プレイヤーが欲しかったのだ。
現在愛用している五年物は最近になり、音が飛んだり、電源が急に落ちたりと壊れかけの電化製
品よろしくな傾向が見え始めている。
どうせ買い換えるなら最新型を、と思っていたが、その値段は容易に手の出せない価格でもあっ
た。
大丈夫、まだあと四本も残っているんだ。当たる、当たるハズだ、一等賞、一等賞、一等賞…。
誰も知らない、大事な場面では同じ言葉を頭の中で繰り返し呟くと言う癖を遺憾無く発揮しなが
ら念を送ってみる。
たかがそんな事をしたぐらいで当てられるのならば、シンジの今までの運の無さはあり得ない。
そんな事は分かっていて、尚、一縷の望みに掛けてシンジはくじを回す。
重そうな、その上で大袈裟な音が周りに響き渡る。
それは夕暮れの店先を往く人々の喧騒にも負けない大きく力強い音だった。
からん、という乾いた音と共に零れ落ちたその玉の色は、赤。
「赤…?っ!」
「おめでとー、三等賞出ました!」
大きなハンドベルで鐘音を鳴らしながら、それに負けないぐらいの音声を張り上げた係員から手
渡される景品。
一等ではなく、三等のそれを。
「はい、これが景品ね」
一等のみしか眼中に無かったシンジが三等の景品など知る訳もない。
テントに張られた景品一覧の三等の部分は「当店厳選電気製品」と何故か曖昧な表記。
それは、ちょっと小さめの箱が包装紙に包まれている。
一等を引けなかった残念な気持ちと中身は何だろうと言う期待の気持ちに頭の中を二分割されな
がら箱を上から、下から眺めてみる。
「何だろ、これ」
人波から遠ざかりながら、中身にあれこれと想像を巡らせていると、ある考えが脳裏を過った。
「もしかして、音楽プレイヤーだったりして」
都合が良すぎる気がしないでもないが、大きさ、重さと言いそれほど大きな商品ではないのは一
目瞭然故にその発想もあり得ないとは言い切れない。
「ビンゴ。音楽プレイヤーだよ、それは」
背後より、不意にかかる声。
この夏のじっとりした暑さの中でいても涼しげな響き。
たった今まで気配を全く感じなかった割には、一度声を聞いてしまうとあまりにもリアルに彼の
存在を感じてしまう。
「カヲル君、どうしてここに」
振り返ったシンジの背後に佇むは渚カヲル。
夏服の学生服、ポケットに片手を突っ込み、もう片方の手を気楽に上げる姿。
その手はそのままカヲル自身の背後を指し示す形へと変わる。
「どうしてって…、君と同じさ」
「福引…」
「そ、たまたま券を貰ってね。ちなみに僕は五等の電池詰め合わせが当たったよ」
意外と使えそうな商品だな、とシンジは思った。
こうして、偶然出会ったシンジとカヲルは自然と帰り道へと足を向けながら何となく会話を続け
る。
「あ、そういえばこれの中身が音楽プレイヤーって本当なの?」
突然のカヲルの登場に驚き、その前に彼より告げられた事実の確認を忘れていたシンジ。
カヲルが無駄に嘘をつくはずがないと思っているシンジは既にその高揚感を隠し切れていない。
表情が嬉しさに輝いて見える程だ。
「本当だよ」
そんなシンジを見ながら、そして、己の発言が嘘では無い事を告げた上でカヲルが笑う。
但し、苦笑だと表現するに相応しい笑みで。
「っ!!やった…」
ガッツポーズを作らんばかりの勢いで今にも踊りだしそうなシンジがそれに気付くはずも無く。
「シンジ君、あのね…」
「でも、何で知ってるの?あの福引のテントにあった景品一覧にはそんな事書いてなかったのに」
シンジは何かを喋りかけたカヲルを遮って、彼にとって今では些細な事でもある疑問を投げかけ
る。
「それは、君と同じ三等を引いた人があの場で景品を開けるのを見ていたからなんだけど…」
自分が言うべき事よりも、とりあえず、聞かれた事に律儀に答える。
だから、顔はやはり苦笑のまま。シンジはまだ気付かない。
やった、三等でも十分じゃないか。
だが次の瞬間、大満足のシンジに真実の、本当の真実が降りかかる。
「シンジ君」
「え、何?」
この後に及んでシンジは初めて、カヲルが笑みの中に実に残念そうな表情を浮かべている事を確
認した。
遂に、確認してしまったのだ。
「僕としては、君のその喜びを壊すのは全くもって本意では無いんだけどね」
「え?」
カヲルが何を言い出すのか気付かない。よって、口から洩れた音は返事の体など成してはいなか
った。
「先に君に期待させるような事を伝えてしまった事をまず、謝るよ」
まるで自分にも大変残念な事があったと言わんばかりの表情をして謝罪の意を述べる。
シンジは心臓がぎゅっと縮まるように感じた。
今までの喜びが大きかっただけに、それを引っくり返しかねないカヲルの言動に覚える不安も大
きい。
「もしかして、これの中身は音楽プレイヤーじゃない、とか」
カヲルが嘘を吐くはずは無いと信じてはいても、それ以外に考えられない程カヲルは申し訳なさ
そうなのだ。
「いや、その中身は音楽プレイヤーさ。但し、二世代型落ちの、ね」










「だから、そんなに謝らなくても良いって」
遂五分ほど前に告げられた事実はもちろんシンジを落胆させた。
それはそうだ。中身は最新型、だと思っていたのだから。
二世代前、即ちそれは壊れかけの自分の物と同じ世代と言う事に他ならない。
それでも、カヲルの告げた事実は確かにシンジを落胆させはしたが、最悪の展開と言う訳では無
かった。
この場合の最悪の展開は中身が音楽プレイヤーでは無いという事であり、その展開は逃れられた
のだ。
最新型がベストなのは間違いないが、福引の景品、無償で手に入れられた以上、文句は付けられ
ない。
それに、やはりカヲルは嘘を付いていなかった。むしろ、ちょっとでも疑った自分、一人で勝手
に勘違いした自分が恥ずかしかった。
「いや、十分に説明もせずに安易に発言した僕の責任だよ。それが君を落胆させてしまったのだ
からね」
カヲルはカヲル自身、落胆したと言うシンジ以上に沈んだ顔をしている。
シンジは前述の通り、自分を恥じてすらいるのだが、カヲルの様子からして今度は申し訳ない気
持ちになってきていた。
「カヲル君…」
だが、心配そうなシンジの顔を横目で見やるとカヲルは突然くすっと笑う。
悲しみから喜びへ。ころりと変わった表情に今までとは別の意味で困惑してしまう。
何か口を開きかけたシンジだったが、その前にカヲルの言葉と笑顔がそれを遮った。
「はは、そうだね、君が悲しんでいないのなら、僕も悲しむのは損かな」
学校の渚ファンが見れば卒倒しかねない程、美しく、そして悪戯っぽい満面の笑みでカヲルは告
げる。
男にしては異常なほど、透き通る白い肌が夕日に照らされ紅潮して見える。
いや、本当に頬を染めているのではないだろうか?
そんな風に勝手に訝しがると、何故かシンジまで赤くなってしまう。
何だろう、この気持ち…。
ほっとするような。
彼と喋っていると、昔から訳も分からず胸にある不透明な部分が澄んでいくような錯覚に捉われ
る。
そう。それはあくまで錯覚。
その「何か」が完全に晴れる事は、無い。
無意識のうちに掌を握る。そこにある「何か」の感触が消えないかの如く。
カヲルに視線を移したとき、彼のほんの少しだけ悲しそうな視線と交差した。
けど、見間違いだったのか。
瞬きの後に見たカヲルは、穏やかに笑みを浮かべているだけだ。
「そうだ、君にお願いがあるんだけど」
「え?」
意味の無い、錯綜する思考の海から涼しげな声で意識を引き戻された。
「どうかしたかい?鳩が豆鉄砲を受けたみたいな顔をして」
カヲルにしては珍しく、からかい混じりの冗談。
先程とは違う意味で顔が赤くなる。いや、潜在的には同じ意味だろうか。
僕、一体どんな顔をしてたんだ…。
シンジは恥ずかしくて、しどろもどろに反抗する。
「そ、そんな事ないよ!それより、お願いって何?」
慌ててカヲルの言葉を否定すると共に照れ隠しにカヲルのお願いとやらを聞き返す。
「あぁ、明日の朝の保健室の掃除当番の件なんだけどね」
記憶が正確ならば、確かに明日の朝の保健室の掃除当番はカヲルだったはずだ。
シンジとカヲルは偶然同じ保健委員に属する。それぞれがクラス代表の保健委員と言う事だ。
そして、ローテーションで回ってくる保健室の掃除当番は、皆よりも30分程早く登校して花瓶の
水を替えたり、室内を綺麗にしたりしなければいけない。
そして、明後日はシンジが当番である。
「明日の朝はちょっと用事があってね。シンジ君には申し訳ないんだけど、出来れば明後日の君
と代わってもらえないかな?」
「あ、うん。僕は全然構わないけど」
「本当かい?ありがとう、シンジ君」
困り顔から一気に輝く表情へと変わる。学校の男子からは、いつもスカしていると陰で毒づかれ
る事の多いカヲルだったが、こうしてみると意外にも表情がころころと変わる。
「あ…」
感謝の気持ちを表す為か、カヲルは何時の間にかシンジの両手を、彼の白くもすらっと長い指で
包み込むように握っている。
「あ、うん、ぼ、僕は大丈夫だから…」
「ふふ、本当にありがとう。どうしても外せない用事だったんだ」
屈み気味で上目づかいのカヲルに、どうしてもまともに視線が合わせられず目線が明後日の方向
を向いてしまう。
顔の距離も心なしか近い気がする。
「あれ、どうしたんだいシンジ君?顔が赤いみたいだけど」
「何でもないから、き、気にしないで」
そんなやり取りは帰り道が別れるまで続いたとか続かなかったとか、そんな何気ない夏の夕暮れ
だった。







「え、シンジもう出ちゃったんですか?」
翌朝、碇家の玄関先でアスカは拍子抜けを食らっていた。
惣流家は碇家と同じマンションの同階にある。ついでに付け加えるとお隣さんでもある。
「ごめんね、折角来てくれたのに」
シンジの母、ユイはエプロン姿のままバツが悪そうに息子の不徳を謝る。
「掃除当番がどうとか言ってたけど…」
「分かりました、朝からお邪魔してすいません」
ぺこりと頭を下げて、顔を上げると目の前にはユイの姿ではなく、髭面サングラスが。
「お、おじ様」
「あなた」
前後から驚きの声。ユイすら驚く、この上なく無駄の無い身のこなしでこの男は二人の間に割っ
て入ってきたようだ。
い、いつの間に…。
アスカとユイの心情は、瞬間、シンクロした。
「アスカ君。毎朝、あの馬鹿息子を迎えに来てもらってすまない」
たった今、お辞儀をしたアスカよりも深く、そして、大袈裟に頭を下げるシンジの父、ゲンドウ。
「頭を上げてください、おじ様。私が好きでやっている事ですか…らっ、きゃっ」
今度は唐突に、下げた時よりも数倍のスピードで頭が上がる。
「い、い、い、今、何と。す、すすすすす、好きで、あの馬鹿息子を好きで毎朝、迎えに来てい
ると」
「ち、違います!そういう意味の好きじゃありません!!」
片方は、息子への突然の告白にパニックになってあたふたと。
もう片方は、言葉の意味を誤解されて…、一応は誤解であると仮定して、あたふたと慌てる。
「ち、違うのか…」
今度は目に見えて、落胆するグラサン髭親父。
その人相で、先程からの行動は全くもって滑稽な事極まりないが、本人はきっと至って真面目な
のだろう。
そんなに言葉通り受け取らなくても…。
アスカはそんな面白くも、息子が大好きなこの父親が嫌いではなかった。
自分も幼少よりよく可愛がってもらっている。
故に、目の前で肩を落としてしまった碇ゲンドウを不憫に思い、ちょっとだけ譲る事にする。
今から言う事は断じて本心ではない。あくまで、「譲る」のだ。
「ま、まぁ。シンジの事は、その、嫌いじゃないですよ。どちらかと言うと、その好きじゃない
けど、学校の、いや、クラスの男子の中じゃ、まぁ、ちょっとくらいは好きな方かなぁって位で」
ぼかしまくりの、全くはっきりしないあやふやな表現だったが、これが彼女の最大限の譲歩であ
った。
これ以上は譲れない。今でさえ、顔が真っ赤なのだ。これ以上は熱が出て、倒れかねない自覚が
ある。
「ユイ、シンジは良いお嫁さんをもらうな。くっ、あの幸せ者め…」
サングラスの奥より溢れ出る涙を隠そうともせずに、ユイに泣きつくゲンドウ。
これで、超巨大企業の社長らしいのだから、世も末である。
「はいはい。分かったから、あなたは早く出勤してください。遅刻しますよ」
ユイは慣れたもので、そんなゲンドウの一連の行動にも溜息を吐くだけである。
「う、うむ」
ゲンドウもユイにそう言われれば、従うしかない辺り、碇家のヒエラルキーが見えるようだ。








仕方なく一人での登校と相成ったアスカは歩く。
そして、気付く。電柱に寄りかかり、朝から見たくもない微笑みを見せる少年に。
「おはよう、アスカちゃん」
「おはよう。今日はバカシンジはいないわよ」
挨拶をされる以上は返す。
礼儀としてアスカは理解していても、その声色には嫌悪感が隠し切れていない。
「あぁ、そうなのかい?それは残念だね」
舌打ちをして、横を素通りしようとするアスカにカヲルは声をかける。
「でも、今日は君と話がしたくて待ってたんだ。つれないねぇ」
足を止める。言い方が、声が、その全てが癪に障る。
「あんたと話す事なんて、私にはこれっぽっちもないわよ」
振り向き、眼光鋭く睨みつける。
いかにアスカが超の付く可愛さを誇ろうとも、そこには並みの男ならさっさと退散しかねない程
の迫力があった。
「確かに君には、ね。けれど、僕にはある、と言ったら?」
怯むどころか、むしろ今までよりも挑戦的な響きが濃くなる。
「え?」
思わず、耳を疑った。
毒気が抜かれたように聞き返す。
「あんたが、私に?」
今までろくに会話した事も無い。カヲルが喋るのはシンジとだ。
シンジと一緒にいる事の多いアスカにもカヲルは喋りかけてきていたが、アスカがまともに取り
合わないので会話と言えるほどのやり取りを交わしたとは言い難い。
だから。
急に予想外の事を言われて、アスカは不審に思う前に不思議に思った。
今日だって、どうせシンジを待っていたと思ったのだ。
「何よ?」
今までよりも敵意の薄れをアスカ自身感じていたが、それでもぶっきらぼうに聞き返す。
「そうだな、あまり回りくどいのを君は嫌うだろうから単刀直入に聞く事にするよ」
嫌な予感がした。それは、温かい嫌な予感。
「君はシンジ君の事が好きなのかい?」
答える前に溜息を吐いた。
このホモ男の至って真面目な顔を蹴っ飛ばしてやりたい衝動に駆られる。
自分の顔が朝から数えて二度目の火照りを覚えるのは無視して。





顔が火照るのは分かった。
でも、何故か目線を逸らす事が出来ない。
碇家でのような誤魔化しはきかない。
黒いはずの渚カヲルの瞳。
当たり前だ。
自分のように異国の血が混じっている訳でもない渚カヲルの目は、当然のように黒い。
黒い、ハズだ。
交錯する視線の先。睨みつけるようにその瞳を見続けるアスカの目に映ったのは赤い、真紅の瞳。
息をのむ。
はっ。
渚カヲルの瞳は確かに黒い
いや、見間違え…?しっかりしなさい、惣流アスカ。こんな奴の雰囲気に飲まれてどうすんのよ!?
自分を叱咤する。
こんな、何を考えているか分からないような奴に気後れするなんてのは…私らしくない!
瞳と、全身に力が籠る。
恥ずかしいとか、そんな事ではない。
何時の間にか、否、ほんの僅かな時間が経っただけかもしれないが、アスカの顔から火照りは引
いていた。
鼻で笑う。
あんた、誰に物言ってんのよ。
そう笑い飛ばす代わりに、はっきりと言い切る。
こいつには誤魔化しは効かない。
違う。誤魔化したくない!

「好きよ、私はあいつの事が好き」

カヲルは一瞬だけ、驚いたような顔をした。
少なくともアスカにはそう見えた。
しかし、次の瞬間には口元に薄い笑みを浮かべる。
「何か文句でも…」
あるっての!?と続けようとして皆までは言わせてもらえない。
「変わらないな、君も」
くすっと笑いながら言ったにしては、その瞬間、空気が重くなったように感じた。
アスカは自覚していないが、それは今が夏だと言うのに、僅かに鳥肌が立つほど。
「…どういう意味よ」
「ふふ、分からないかいアスカちゃん」
次の笑いは心底愉快そうに。
「あんた、私をバカに…」
「相変わらず、素直だねって事さ」
「なっ!?」
そう言うとカヲルは振り向き、歩きだした。
「早く行かないと遅刻するよ」
手をひらひらさせながら呑気に歩き去ろうとするカヲルに呆気に取られる。
「誰のせいだと思ってるのよっ!!」
怒り狂うアスカの声は朝の空に虚しく吸い込まれた。







「はぁ」
「今日は朝からずっと、やけに疲れてるわね」
机に突っ伏すのはアスカ。声をかけたヒカリを一瞥する事も無くそのままくぐもった声を上げる。
「今日は、朝からどっかのホモ男の相手をしていて疲れたのよ」
また、渚カヲルとやりあったのか。
と内心は呆れるヒカリも声に出してそれを言う事はない。
「これも全部バカシンジが朝から勝手に行っちゃうから…」
と恨みがましく言うが、その問題の碇シンジには既に鉄槌が下った後である。
ただ、上記の理由でシンジに制裁を加えようとして、シンジの顔を見たアスカの顔が急に上気し
た事を付け加えておこう。
「ま、お昼食べちゃえばちょっとは元気も出るでしょ」
持参の弁当を掲げるヒカリにアスカはようやく目線を上げた。
そして、疑問に思う。
この時間帯になったらいつも一番最初に弁当を広げてる人物が見当たらない。
シンジの席の方に目をやるが、そこに居るのはトウジとケンスケと言ういつもの三バカトリオの
み。
「あれ、レイは…?」
アスカの言葉にヒカリもようやく気付く。
「え、本当、いないわね」
アスカもヒカリも、当然だがシンジも彼女の行方は知らなかった。




屋上。
夏の抜けるような蒼い空。
巨大な入道雲が湧くその空を憂鬱な表情で見上げる少女が一人、手すりに寄りかかっている。
背後の扉が古臭く軋む音を残して開いた。
「…もう来てたんだね」
「何の用よ、渚カヲル。私はあんたと話す事なんて無いハズだけど」
普段のレイを知る者からは想像がつかないくらいの冷たい声。
しかし、その表情は無ではなく、むしろ感情がむき出しになっている。
その点については、普段の彼女らしいと言えるだろう。
「今朝も同じ事を言われたよ」
可笑しそうに喉を鳴らす。
「ま、僕にはもう時間が無い。その前に君とは接触しておきたくてね」
何の時間が無いのか、カヲルは明言しない。
当然レイには何を言っているのか皆目見当もつかない。
「僕と君は似ている」
ぽつりと呟いた言葉。遠い、どこかに目をやりながら彼は言う。
「はぁ?冗談でしょ、私とあんたが似ている?訳分かんない事言ってるんじゃないわよ」
「似ているさ。皆が変わらなかったこの世界で、僕と君だけは違っている」
独り言を呟くようだが、その声はレイの耳にもはっきりと響いていた。
蝉の鳴き声が不意に遠くなる。
「何故なら、この世界では僕も君もヒトじゃないか?」
「意味分からないんだけど」
怪訝な表情を全く隠そうともせずに感情の赴くままカヲルを睨み続ける。
渚カヲルという存在に感じる不快感。
ろくに関わり合う事も無ければ、言葉を交わした事もほぼ無い。
ただ、シンジと居る所を何度か見た事があるだけ。
ただ、それだけなのにレイは自分自身でも何故これほどまでに嫌悪感を抱くのか分からなかった。
「そうだね。今の君には分からないだろう」
初めてカヲルは正面を向いた。
紅に染まる瞳。
「君はヒトに成れた。そうして、今、シンジ君やアスカちゃん達と楽しく生きている」
10メートルほど離れていた距離を一歩詰める。
「けれど、それは決して君が望んだからではない」
レイの顔を嘲りの微笑みが彩る
「あんた頭おかしいんじゃないの?」
噛み合わない会話。それは当然だろう。
だが、そのお互いの表情と「噛み合わない会話」が噛み合っていないのも事実だった。
距離を詰めたのはレイ。飛ぶように疾駆するとカヲルの顔面目がけて左拳を放つ。
豪快でキレのある、下から突き上げるパンチ。
だが、カヲルは僅かに頭を後ろに逸らすだけで避けた。
「そんなに乱暴だとシンジ君に嫌われるよ」
拳は端正な顔を歪める事は無く、逆にレイが顔を憤怒に歪める。
「黙れっ!」
続けざまに、次は渾身の右ストレート。これを今の位置からかわすのは物理的に不可能だ。
レイにはその確信があった。
「少し落ち着いてくれないか。全く、本当に君は変わりすぎだよ、リリス」
届かなかった。一ミリだって動かす事の出来ないレイの右拳はカヲルの左手に受け止められてい
る。
カヲルの掌にすっぽりと納まったそれは、ビクともしない。
「リ、リりす?」
軽く往なされている悔しさと屈辱に歯を食いしばる中でカヲルの言ったある単語をぽつりと繰り
返す。
「…覚えがあるのかい?」
レイは思わず考え込んでしまう。
無論そのような可笑しな単語を聞いた覚えなどこれっぽっちもない。
だが、どこか心に引っかかる不思議な響きだった。
遠い遠い、もう手の届かない、大切だったヒト。
そして、そんな風に考え込むレイをカヲルは口の端に笑みを張り付かせたまま眺める。
「そうだね。後押しをしようか」
カヲルの言葉に視線を上げるレイ。
「シンジ君は本当に君が望む形では君を見てはくれない。その世界でもそうだったし、この世界
でもそうだ」
脳裏によぎるのは涙を流す綾波レイ自身。
最後に、見たものは何だったのか記憶の彼方に葬り去られた、自分に向けられた笑顔。
思わず、息をのむ。
「君の事を必要とはしてくれるだろう。けれども、君の望む形と、彼が望む形は違う」
俯く。
自分をいつも見てくれている彼の気持ちがどこにあるのかは、本当は薄々分かっていた。
自分がその位置に居ない事も。
けど。
「アスカちゃんが…」
「だから、どうしたのよ」
俯いたまま、カヲルの言葉を遮った。
無言のカヲル。
レイは続ける。
「あんたに私の何が分かるって?馬鹿にしないでよね」
視線を上げたレイの瞳に深紅は見えない。
深い、どこまでも澄んでいる漆黒の瞳。
「アスカは私の大切な友達よ。けど、だからってシンちゃんを諦めるつもりはこれっぽっちもな
いわ」
迷いの無い真っ直ぐな瞳。
強い、生きた感情がそこに宿る。
「私はシンちゃんが大好きなんだから!」
力強く言い切った宣言にカヲルは彼にしては珍しく驚いた顔をした後、嬉しそうに笑った。
「く、くく、はははは」
「な、何がおかしいのよ」
流石のレイも面食らったように驚く。
シンジへの気持ちを告白したからではなく、こんな風に渚カヲルが笑うとは思ってもいなかった
からだ。
「いや、すまないね、笑ったりして、綾波レイ」
既に冷え切った黒の瞳を改めてレイに向ける。
「じゃあ、僕はこれで失礼するよ」
今まで掴んでいたレイの手を解き放つとあっさり振り返り歩き去っていく。
「あんた、何がしたかったのよ」
殴る事も叶わず、その背中に思いっきり毒づくレイにカヲルはこう言った。
「あぁ、僕もシンジ君を諦めるつもりはないって事を伝えようとした、かな」
さらりと言ってのけたが中身は爆弾。
こ、こいつ本当にホモだったの…!
「冗談だよ、冗談」
カヲルはまた可笑しそうに笑った。









放課後。
シンジは何となく音楽室に来ていた。
外は夕暮れに、僅か遠い。
委員会の招集の帰り。自然と足がこの場所に向いていた。
ここにはチェロがある。幼い頃、成り行きとは言えそのレッスンを受けていた彼が弾く事の出来
る楽器。
いつだったか。
渚カヲルと出会ったのはこの音楽室だった気がする。
気まぐれで音を奏でていたシンジの後ろにいつの間にか彼は居た。
演奏の終わったシンジを拍手で称えてこう言ったのだ。
「音楽は良いね」
今も忘れていない、その時の声が、再び背後よりかかる。
振り返った場所に、教室から数歩入ったところにカヲルは佇んでいた。
「いつの間に居たの?」
何故彼が再びその台詞を言ったのかを問うのではなく、シンジはこう聞き返していた。
彼がそう言った事を別段可笑しいとは思えなかったのだ。
「今、来たばかりさ。何となく、懐かしくてね。ほら、ここが僕と君が最初に出会った場所だろ」
すっと横に並ぶカヲルと共に窓の外を見やる。
カヲルとシンジは出会った時から不思議と気が合った。
仲良くなるのに時間をさほど必要としなかったのも、彼ら故だろう。
「あの日、君はチェロを弾いていた」
「うん、もう随分とレッスンを受けてなかったから弾けなくなってるかなって思ったけど、ちょ
っと下手になってただけで済んでて良かったよ」
恥ずかしそうに頬を掻くシンジ。
「今でも、弾けるかい?」
唐突に彼はそう言った。
今、再びこの場所で、弾いて欲しいと。



シンジは音楽準備室よりそれを持ち出してきて調弦している。
ここにあるチェロに触るのは久しぶりだったが、誰かが定期的に手入れをしていたのだろう。
状態は十分に良好と言えた。
そんな誰か、おそらくは音楽の先生に心の中で感謝しながら、椅子に腰掛け構える。
今でも、弾ける。
もう、家でチェロを手に取る事はなかったが、カヲルと出会った日から後は、気が向いた時にこ
の場所に来ては気の向くままにチェロに触れていた。
音楽の先生にはきちんと、偶にチェロを触っても良いかと許可を求めて、了承を得ている。
そして、碇シンジの演奏会は始まった。





拍手の音が音楽室を満たす。
ただ一人からの称賛。けれど、シンジにはそれで十分すぎるほどの喜びだった。
カヲルの満足げな表情が、ただ嬉しい。
「シンジ君」
ひとしきり拍手をした後、カヲルはぽつりと呟く。
遠く、見えない何かを見据えながら。
「世界はまた廻る」
「え?」
いつの間にか真っ赤に燃える夕日に照らされながら。
肩を竦めて、カヲルはシンジに笑いかける。
「君の物語はまだ終わっていない。決着は、付いていないからね」
「カヲル君?」
窓に寄りかかり、シンジと向かい合う彼は少しだけ寂しそうに見えた。
シンジの気の性だろうか。
「また会える時を楽しみにしてるよ、シンジ君」
「カヲル君、何を言っているの?」
疑問を口にしながらシンジは既に理解してしまっていた。
渚カヲルとの別れを。
「あぁ、そうだ。これだけは忘れないでほしい」
カヲルは何気ないいつもの軽い調子で、別れの言葉に付け加える。
「どの世界の君も、好きだよ」
「っ、カヲル君!」
シンジが叫んだとき、夕焼けの輝きに照らされる教室には彼自身以外、誰も居なかった。
あれ、誰と話していたんだろう?
たった今までチェロを弾いていた。
それは、中学に入学後、偶に気が向いた時に行ってきていたので不思議ではない。
だから、今日もそういう事なのだろう。
ただ、気が向いたから帰宅する前にここへ寄って何となくチェロを手に取った。
それだけの事。
今日、チェロを弾いたのはそれだけの理由に過ぎない。
誰かと話していた気がするが、この場に自分以外誰も居ないのだから、気のせいなんだろうと結
論付ける。
ふと遠くでアスカとレイの声がする。
あのバカシンジ、また音楽室に引き籠って、とか。
アスカがシンちゃんを苛めすぎだから逃げてんじゃないの、とか。
好き勝手に言ってこちらへ向かっているのだろう。
放課後の廊下は静かで、そんな彼女たちのやり取りは良く聞こえてきていた。
また日常に戻っていく。
何事もなかったかのように。
誰も居なかったかのように。
この世界は、続いていく。




棺より目を覚ました少年は、身を起し呟く。
遥か遠く、その地を見ながら。
「また三番目とはね。変わらないな、君は」
そう。どの世界でも彼は三番目と言う物に縁があるようだ。
「会える時が楽しみだよ、碇シンジ君」
物語は、再び終局へと向けて。
本当の決着へ向けて動き出していく。




2008/11/30 syota☆

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