どうしてこの手から離れていったのだろう。
 なぜこの手から離してしまったのだろう。
 これがあればどんな辛いことにも耐えられると信じられた、私が“あの人”と共にいる
ことの証し、絆そのものだった、あの人の眼鏡を。

 エントリープラグの生命維持システムも間に合わないほどの高エネルギーの直撃を受け、
零号機の機能を維持するために熱の一部が自動的にLCLに回された。乗員の保護よりも機
体の保持を優先する、あまりにも非人間的なシステム。どんなことがあろうとも自動的に
――あるいは乗員の意思のみによって――エントリープラグがイジェクトされることはな
い。そんなことはもとより承知のうえだった。でも必ずあの人は助けに来てくれる。だか
ら私はあの人のために生きて行ける。眼鏡はその証しだった。

 私を助けてくれたのは碇くんだった。

 眼鏡が離れていったのは、ただ身体から力が抜けてしまったからだろう。
 それは恐らく正しい。
 ではなぜ私は、拾わなかったのだろう。碇くんの手を借りてプラグから出る時に。

 私は碇くんの手にすがった。
 眼鏡を握っていたその手で、碇くんの手にすがった。
 どうしてなのか、ずっとわからなかった。
 考えることすらしなかったという方が正しいかもしれない。
 でも、今ならわかる気がする。
 碇くんの笑顔が心にある、今なら。




歩き続けよう

written by tamb   


 ゴミ屋敷だ。

 ミサトの部屋に初めて足を踏み入れたとき、シンジはそう思った。ミサトは引っ越しの
片付けがまだ終わっていないのだと言ったが、それがこのゴミ屋敷を形成している理由に
ならないのは部屋の中を濃密に支配している生活の匂いからも明らかだった。

 インスタント食品とお総菜を並べた食事を済ませ、風呂を出た彼は部屋の片付けを始め
た。ここが自分の家で、帰って来たらただいまを言わなければならないという理由を差し
引いたとしても、この状況には耐えられない。ミサトは風呂上がりに再び数本のビールを
飲み、寝てしまった。彼女に家事負担能力のないことはまず間違いがなく、明日からは自
分がありとあらゆる家事をこなすことになるだろう。仮に形ばかりの当番など決めても状
況は変わるまい。よく考えてみるとこれでは単なる下男ではないかという気もするが、そ
んなのはよく考えなければ済む。とにかく早いうちに自分のやりやすいようにしてしまう
べきだ。まずはキッチンを使えるような状況に整えなければならない。つまりゴミを片付
けるのだ。
 だが最初にしなければならないのがコンビニにゴミ袋を買いに行くことであると判明し
たときには、さすがに彼も激しい虚脱感に見舞われたのだった。
 ゴミ袋を入手したのはいいが、今度は分別の仕方がわからなかった。一般に、ゴミの分
別の基準はその自治体によって大きく異なる。この規模のマンションであれば専用のゴミ
捨て場があり、分別の仕方その他についても自治会なり管理組合なりから何らかのお知ら
せがあってしかるべきであるが、何も見当たらなかった。これでは何曜日にどんなゴミを
出していいのかすらわからない。
 シンジは無表情にミサトを叩き起こしたが、彼女の回答は「知らない」というものだっ
た。驚くべきことに、ミサトはこのマンションでゴミを出したことがないようだった。酔
っ払ったミサトから聞き出した断片的な情報を統合すると、どうやらこの巨大マンション
にはミサト(とシンジ)の他に住人はおらず、当然ながら自治会も管理組合もないらしか
った。つまりゴミは第3新東京市の回収に出すということだ。もっとも、市の回収といっ
ても民間業者に委託しているはずで、マンションの自治会が独自に回収を依頼するとして
も結局は同じ業者に依頼することになるような気がして、それではいったい何の意味があ
るのか疑問だ。もしかすると契約内容――払う費用だ――によって毎日回収に来るとか分
別は業者がやってくれるとかそういうことがあるのかもしれないが。

 考え込んでいても始まらない。とりあえずゴミの分別方法を調べよう。携帯を使って第
3新東京市役所のサイトにアクセスすればわかるだろう。ゴミをどこに出すのかがわかれ
ばそこに何らかの情報が書かれた看板でもあるのかもしれないが、それすらも不明なのだ。
 携帯を手に持って、ふと考えた。携帯の料金は乏しい小遣いから払っている。今までシ
ンジは携帯でウェブにアクセスしようと思ったことがほとんどなかった。従ってパケほー
だいとかその手のプランには入っていない。ということは、これからゴミの捨て方を調べ
るために要する通信料も自腹を切って小遣いから払うことになる。今後、誰からいくらく
らい小遣いをもらえるのか、そもそも貰えるのかどうかすらわからないという状況下でそ
んなことはできない。
 シンジは携帯を閉じ、再びミサトを叩き起こす。ゴミの出し方を調べたいんでパソコン
を貸してください。ミサトは寝ぼけた声でいいわよと言ったすぐ後にやっぱりダメと言っ
た。あたしがプリントしてあげるからちょっと待ってて――。
 どうやらブラウザのブックマークを見られたくないらしい。どんなサイトを巡回してる
んだと思うが、後ろで見ていると、「アル中寸前」とか「ダイエット」とか「リバウンド
防止」とか「結婚」とかいうフォルダが見えた。すぐにブックマークは隠されたが、大人
の女の人って大変だなとシンジは思った。
 プリントしたら電源は落としておいてやり方はわかるわね他のところは触っちゃダメよ
と言って再びミサトは倒れ込んだ。
 長い時間をかけてプリントした後、シンジは正直に電源を落とし、プリントされた紙の
束を持ってリビングに戻る。判明したゴミの分別方法は実に複雑怪奇なものであった。
 分別方法は、簡単に言えばリサイクルできるかそうでないかで決まっているようだった。
リサイクルできないものは全て燃やすゴミである。燃えるゴミではない。燃えるとは思え
ないものでも強引に燃やすのだ。埋め立てる場所がないという理屈はわかるが、温室効果
ガスの削減が至上命題となっている昨今、そういう姿勢はどうかと思う。だが詳しく読ん
でいるうちにわかった。燃やすゴミなどそうそうないのだ。缶ビンペットボトルの類はも
とより、紙くずは紙資源としてリサイクル、生ゴミは発酵させてエネルギーとするためリ
サイクル――。ほとんどありとあらゆる物がリサイクルの対象となるのだ。
 リサイクルを主眼としている以上、分別が異様に細かくなるのは必然である。
 担当者も分別の困難さに気づいたのか、幸いにして詳細な索引があった。
 ここまではまだいい。問題は分別の基準が異様に細かすぎることなのだ。
 詳細な索引によれば、例えばラップの箱は金属の刃と紙でできた箱部分を分けねばなら
ぬし、ビデオテープは分解してネジ部分は小さな金属、テープは燃やすゴミ、箱部分はプ
ラスチックゴミとなる。分解しなければならないのだ。プリンタは燃やすゴミだが、なぜ
か50cm以上のプリンタは粗大ごみである。サイズ50cm以下であるプラスチックのバケツは
プラスチックゴミだが、シャンプーのボトルはプラスチック包装容器だそうだ。「プラ」
という表示があればプラスチック包装容器らしいが、表示がなければプラスチックゴミか
というと必ずしもそうではないらしい。プラスチック包装容器とプラスチックゴミの違い
はなんなのか。なぜプリンタを燃やすのか?
 こうなってくると一貫性のかけらも感じられず、分別基準は担当者の気分なのかとすら
思え、シンジはため息をつきそうになった。
 さらに読み進めて行くと、〇〇は家庭ゴミなどという記述があるが、そもそも家庭ゴミ
などという分類はなかったりするのだ。これはサイト更新のミスなのか、表記の揺れなの
か、はたまた担当者のやる気のなさなのか。
 やがて「燃やすごみ」という表記が「燃や凄み」と脳内変換されるようになり、シンジ
は頭を振った。

 だがとりあえず今はプリンタをゴミに出す気遣いはないし、いまさらビデオテープもな
いであろうし捨てるべきバケツがあるとは思えないから気にしないことにする。そういっ
たものは引っ越しのときに捨てているはずだという希望的観測をしても罰はあたるまい。
 とはいえ、この分別基準に合わせるとしたらいったいゴミ箱を何個用意すればいいのか
と思わず天を仰いだシンジは、天を仰いだ拍子に目に飛び込んで来たゴミの山に、今度こ
そ本当にため息をつくことになった。とびきり巨大なため息を。
 このゴミの山を攻略するには朝までかかるだろう。

 実際に朝までかかった。その間シンジは二回ほどゴミ袋を買い足した。二回で済んだの
はシンジの好判断によるもので、すなわち二回目の買い増しの際には近所のコンビニを三
軒ほど回り、店頭にあるゴミ袋を全て買い占めたのである。
 マンションの廊下にずらりと並んだ壮大なゴミ袋の列を見て、シンジは朝陽を浴びなが
ら快い達成感に浸っていた。収集が二週間に一回の品目があるため、これらが全て消える
のは二週間先になるが、他に住人はいないのだからこのように並べてもどこからか文句を
言われることはないだろう。
 一眠りしたら今日は全ての部屋に掃除機をかけ、明日は細かい部分の雑巾掛けをしよう。
バスルームは奇麗だったから問題ないとして、日曜日にはキッチン回りを徹底的に掃除し
よう。換気扇を分解して油汚れ――油汚れが付くほど使っているとは思えないが――を落
とし、換気扇フードを取り付け、シンクやレンジにこびりついた食べ物のかすやぬめりも
完璧に落とすのだ。見違えるほどピカピカにしてやるのだ。

 シンジは明らかに燃えていた。青春の無駄な燃焼である。

※※※

 リツコは戦闘指揮車からヘリの手配をし、担当医師に対してレイを集中監視下に置くこ
と、絶対安静にすること、必要があれば蘇生術を行い、自分の指示があるまでは絶対に止
めないことを命じた。

 別に手配したヘリで病院に向かいながら、レイが生きていれば奇跡だ、とリツコは思う。
 エントリープラグ内の環境は、レイ自身のことも含めリアルタイムでモニターされてい
た。
 LCLの温度は、瞬間的には80度を越えた。盾がほとんど融解してからシンジがエントリ
ープラグを強制排出するまでの平均温度で60度以上。強制排出以降、LCLが排水されてから
のことはエントリープラグ内のテレメータに保存されたデータを解析しないと詳しいこと
はわからないが――プラグがイジェクトされればデータは送信されない――プラグ内の温
度が70度を越えた状態は、少なくとも数分以上は続いたはずだ。
 およそ人間が生命を維持できる環境ではない。プラグスーツの補助があったにしてもだ。
 事実、レイの体温は50度を越え、センサーは更に上昇傾向を示しつつエラーを表示した。
そしてそれとほぼ同時に、心音も呼吸も、更には脳波までもが微弱方向にスケールアウト
していた。事実上これは死を意味する。
 だがリツコは遠隔操作による心肺蘇生システムの作動をためらった。なぜなら零号機は
立っていたからだ。通常、パイロットが死亡した場合はもとより、意識を失った場合でも
ヱヴァンゲリヲンは動作しない。ただし、正常ではない動作の場合はその限りではない。
すなわち、暴走。
 しかしそうではない、暴走はしていないとリツコは判断した。プラグ外のセンサーは正
常に作動していたし、神経接続系統にも問題は見られなかった。機能している心臓に対し
て電気ショックを与えることの危険性を考えればうかつなことはできない。リツコは、レ
イの生命反応をモニタするセンサー群が故障したと判断した。センサーはヱヴァンゲリヲ
ン全体で数万以上にも及ぶ。常にいくつかは異常な値を示しているものだ。微弱方向への
スケールアウトはもちろん、赤外線計測による単純な温度センサーであってもエラーは十
分にあり得る。故障しかない。高エネルギービームの直撃に耐えながら暴走もなくヱヴァ
が立っているなら、レイは生きているということだ。

 使徒が殲滅され零号機が倒れたとき、リツコは一瞬だけ迷った。
 レイが意識を失っていることは間違いないだろう。だがセンサー群の故障が疑われる状
況下で電気ショックを与えるリスクを冒せるのかどうか。目も耳もふさがれ、手の感触す
ら失われた状態で、果たして心臓マッサージができるのか。もし心臓がかろうじて動いて
いる状態だとすれば、電気ショックがそれを止めてしまうかもしれないのだ。
 だがもしセンサーの故障ではなく、本当に心肺停止状態にあるのなら。今ならまだ間に
合う。助けられる。
 迷っていたのは一秒にも満たない時間だった。結局リツコは、エネルギーを最弱にして
一度だけ作動させた。
 センサーは反応しなかった。つまり心肺蘇生システムか生体モニタのいずれかが故障し
ているということだ。
 もう他にできることはない。初号機が――シンジがレイのもとに駆け寄るのを見ながら、
ただレイが生きていることを信じ、システムが作動することを信じ、全エネルギーをLCL
の冷却に回した。

 それはギリギリの願いだったが、病院に到着したリツコはその賭けに勝ったことを知っ
た。しかも完勝と言って良かった。
 レイは氷を浮かべたジュースを手に持ち、ベッドに腰掛けてシンジと話をしていたのだ。
信じ難いことに、かすかに微笑みさえ浮かべていた。奇跡は起きたのだ。

「絶対安静、面会謝絶」リツコは安堵のあまり無表情になっているのを自覚しながら言っ
た。「そう指示しておいたはずだけど、聞いてない?」
「あ、聞いてましたけど、その……綾波、元気そうだし、大丈夫かなって思って……」
「そのジュースは?」
「僕が買って来ました。熱かっただろうから、冷たいものでもと思って……。良くなかっ
たですか?」

 能天気にも程がある。熱湯コマーシャルではないのだ。リツコは呆れ返りつつレイに聞
いた。

「レイ、調子はどうなの?」
「冷たくておいしいです」

 あまりにもピントがずれてる。だがとにかく当面の問題はなさそうだった。

「シンジ君、あたしにも一杯くれるかしら?」
「あ、はい」

 シンジは冷蔵庫から100%のアップルジュースを出し、氷を入れたグラスに注いだ。

「おいしいわね、これ」

 一口飲んだリツコが思わず言った。

「でしょう? このあいだ偶然見つけたんですよ」
「このおいしさに免じて今回だけは許してあげるけど」リツコは意識して冷たい声を出し
た。「絶対安静、面会謝絶、しかも集中処置室にいる患者に対する差し入れは、食べ物や
飲み物以外でも原則禁止。花束でもね。常識よ」
「は、はい。すいません」
「レイ、その一杯だけにしておきなさい。あとは検査が終わってからよ」
「わかりました」
「検査の準備が終わったらまた来るわ。シンジ君はレイの様子に注意して、変化があった
らすぐにコールすること。レイはちゃんと横になって、少しでも変だと思ったら我慢した
り無理したりしないでシンジ君に伝える。いいわね?」

 シンジのわかりましたという返事とレイがうなずくのを見て、リツコは病室を出た。本
来なら鎮静剤を投与して眠らせ、検査はその後にするべきなのかもしれない。だがそうは
しなかった。肉体は精神に従属する。検査の準備が整うまでの十数分。二人に他愛もない
話でもさせておき、シンジに形だけでも役割を与えること――シンジに守られているとい
う実感をレイに与えることが回復に繋がると、彼女は信じた。

 あの時――零号機が立っていながらセンサーは異常な値を示し、レイの生存が疑われた
あの時、心肺蘇生システムを作動させなかったのは、結果としては正しい判断だった。だ
がそれは、最悪の状況下にあればパイロットの生命は優先されない――つまり使徒を殲滅
するためにはパイロットをすり潰すという決意のもとに下した判断だった。パイロットに
対し、使徒殲滅のために死んでくれと告げているのに等しい。
 リツコは立ち止まり、目を閉じて首を振った。今さら何を迷っているのか。そんな段階
はとうに過ぎたはずだ。計画の全貌を知り、それでも協力すると決断したあの時に。罪の
意識が拭えないなら、計画の完遂が決定的になったとき、もう自分の手が必要なくなった
ときに死ねばいいだけの話だ。自らの手で。
 リツコは顔を上げ、再び歩き出した。もう立ち止まることはできなかった。

※※※

 レイはほとんどの時間を眠りのうちに過ごしていた。昏睡状態にあるのではなく、ただ
眠っているのだ。
 リツコは、高熱にさらされたレイの肉体がやはりダメージを負っているということ、そ
して眠りはダメージからの回復プロセスであると説明した。投薬をはじめとする治療行為
は自己治癒能力の手助けをするに過ぎない。あとは、レイがレイ自身の身体を治すのを待
てばいい、と。

 シンジは足繁くレイの病室に通った。自分でもなぜなのか良くわからなかった。
 レイは目覚めているときもあったが、ほとんどは眠っていた。その寝顔を見てから学校
に行き、放課後また病室に来る。レイの寝顔を見つめ、傍らで本を読み、うたた寝をし、
部屋に帰る。ミサトと食事をし、あるいは用意だけしてまた病室に戻る。休みの日はほぼ
一日中病室で過ごした。
 眠っているレイは顔色も良く呼吸も安らかで、ここが病室でさえなければ、単に昼寝で
もしているようにしか思えなかっただろう。
 早く元気になって退院できるといい、とシンジは思う。リツコも心配ないと言っている。
食事ができるようになるまで、もう数日もかからないはずだ。
 だがレイが退院したあと、彼女とどう接したらいいのか、シンジにはわからなかった。
 レイのことが好きなのかどうか、良くわからない。二人でどこかに遊びに行きたいとも、
あまり思わない。
 ただ、あの笑顔をもう一度見たいと思った。

※※※

 彼女は夢を見た。
 夢の中にはいつも、笑顔のシンジがいた。

 自分はシンジを守った。だが自分が守るべきは初号機のはずで、シンジは結果として守
られたに過ぎない。そのはずだった。
 だが守られ助けられたのはレイ自身であり、彼女を助けたのはシンジだった。少なくと
も彼女にとってはそうだった。

 レイが目を覚ますと、シンジがいた。
 まるで夢の続きのようだった。

 最初の戦闘――それは戦闘とも言えない一方的なものだったが――で、シンジは死の淵
を彷徨った。彼が病室で集中処置を受けている間、レイはほとんど付きっきりだった。そ
れはゲンドウの命令だったからだ。他に理由はない。碇シンジという人物に興味はなかっ
た。
 そのときの自分と同じように、もしシンジが誰かの命令を受けてここにいるのなら、彼
が居眠りをしているのは事実上の命令違反だ。
 彼女がシンジを見つめていると、彼はゆっくり目を開いた。

「あ……」シンジは目をこすった。「起きた? 調子はどう?」

 彼は笑顔でそう言った。その笑顔は、自分を助けてくれたときの笑顔とも、夢の中で見
た笑顔とも違うように思えた。穏やかな、朝の陽差しのような笑顔だった。彼はいろいろ
な表情を見せてくれる。あのときの自分はどんな顔をしたのだろう。笑えばいいと言われ
た、あのときの自分は。

「……綾波?」

 シンジの不安そうな声に、自分が彼をじっと見つめていたことに気づいた。

「ごめんなさい」彼女は目を逸らしてそう言った。あなたに見とれていました、とは言え
なかった。「もう……大丈夫だと思うわ」
「そう、良かった」

 彼は笑顔でそう言った。屈託のない、安心したような笑顔だった。また別の表情、と彼
女は思う。

※※※

「もうそろそろ、食事を始めてもいいわね」リツコがカルテを見ながら言った。隣には様
子を見に来たミサトもいる。「もちろん重湯からだけど、すぐに普通の食事に戻せるでし
ょう」

 食事に興味はない。だからレイは、ただ黙ってうなずいた。

「シンちゃんがね、お弁当作って持って行きたいって、言ってたわよ」
「碇くんが?」

 ミサトのからかうようなセリフに、レイは顔を上げた。

「レイってば、シンちゃんの話になると反応が早いわねぇ」

 耳のあたりが熱くなった。

「シンちゃんもね、レイの話すると、反応が変わるのよ。黙りこんだり、怒ってみたり。
かと思うと妙に嬉しそうだったりね」

 シンジがどうだろうと自分には関係がないはずだった。だから彼女はミサトの言葉を無
視した。無視しようとした。だが、ミサトが自分の知らないシンジの表情を知っているこ
とに気づき、不思議な焦りを感じた。

 この不思議な気持ち――。

「病院食は、患者の身体の状態を考慮して作っているから……」リツコがカルテから顔を
上げる。「そう簡単にお弁当の差し入れってわけにもいかないけれどね」
「……はい」
「あなた、シンジ君の作ったご飯、食べたことあるのかしら?」
「いえ、ありません」
「そう。……早く退院できるといいわね」

 そう言ったリツコの笑顔は優しかった。
 この人もわたしの知らない碇くんを知っている――。
 彼女の焦りは募った。だがその気持ちをどうしたらいいのか、彼女にはわからなかった。

※※※

 真夜中、不意に目が覚める。シンジはいない。明かりは当然のように消され、時計を見
て時間を確認することも、天井を見ることもできない。自分に繋がったモニタ類の発する
かすかな光で、ここが現実であることがわかる。
 目を閉じると、まるで夢のようにシンジの笑顔が浮かんでくる。目を開くとそれは消え
る。まるで夢と現実が逆転したみたいだと彼女は思った。
 メールを出せば返事をくれるだろうか、と彼女は不意に思った。
 自分の携帯はどこにあるだろう。
 彼女は起き上がり、センサーが外れないように気をつけながら読書灯をつけ、枕元に置
いてあるバッグを探った。リツコが持って来てくれた着替えと一緒に、彼女の携帯は入っ
ていた。
 電源は入ったままだったが、バッテリー残量は僅かだった。そして、思った通り圏外と
表示されていた。ここは集中処置室なのだ。機器に影響を与えないよう、電磁シールドが
施されている。リツコやミサトが持っているような技術部が開発した携帯――衛星を経由
した通話すら可能だ――ならば、自動的にPHSモードに移行するだろう。ここはネルフの
病院だ。24時間、常に所在を明らかにしておかねばならないスタッフのために、精密機器
に影響を与えないような微弱な電波は張り巡らされている。
 だがレイの携帯にそのような機能はなかった。市販の携帯にソフトウェアでスクランブ
ラーを組み込んだだけだからだ。
 レイはメールボックスを開いた。既読ボックスにネルフからの細かいスケジュール変更
の連絡が入っているだけだった。そこにシンジの面影はない。
 彼のアドレスはわかっている。3rd-c@nerv.go.orgだ。彼のオフィシャルなアドレス。
携帯にも転送される。出したことももらったこともなかったが。
 彼に限らず、彼女は誰にもメールをしたことはなかった。必要がなかったからだ。スケ
ジュール変更の連絡に対する受信確認は自動的になされる。
 もしシンジに眠れないというメールを出したら、今すぐにでも忍び込んで来てくれない
だろうか。
 そんな想像をすると、少し心臓が高鳴った。
 だがここは圏外だ。ロビーにでも行けばいいのだろうが、センサーが異常値を示せば即
座に職員が駆けつけて来るだろう。24時間の監視体制というのは不便なものだ。個室内に
あるトイレにすら、センサーを引きずって行かなければならない。

 彼女はため息をついてメールボックスを閉じる。自動的にメニュー画面になった。「カ
メラ」の文字がある。この携帯にカメラが付いていることを、彼女は今まで意識したこと
がなかった。写真撮影モードに入ると補助ライトが点灯し、同時に機械の僅かな作動音が
して、毛布に覆われた下半身が小さなディスプレイに映った。
 携帯の画面を見ながら毛布をはぐると、パジャマに包まれた自分の足と、足首について
いるセンサーから延びているケーブルが見えた。
 足を動かすと、画面の中の足も動いた。
 レンズを自分に向け、ディスプレイを反転させる。自分の顔が映し出された。ライトが
眩しい。目を細めながら、自分はこんな顔をしているんだ、と彼女は思う。無表情で、愛想
のない顔――。
 笑えばいいと彼に言われて、自分は確かに笑顔になったはずだ。彼も微笑んでくれた。
あのとき自分は、どんな風に笑ったのだろう。どんな笑顔だったのだろう。彼の声を思い
出し、笑ってみた。そのとき、携帯の電源が落ちた。

 写真に撮れば、その瞬間を切り取ることはできる。でもあのときの笑顔はもう戻らない。
鏡を見れば自分の顔は見える。でもあのときの笑顔を見ることはできない。

 でも碇くんがいれば――。

 暗い病室の中で彼女は思う。

 碇くんが傍にいてくれたら、笑顔になれるかもしれない。
 碇くんが傍にいてくれれば。
 碇くんが傍にいてくれれば、それだけで私は――。

※※※

 この部屋はゴミ屋敷とは違うなと、二度目にレイの部屋に足を踏み入れたときシンジは
思った。この部屋にゴミはさほど多くない。単に汚れているだけだ。それは生活による汚
れではなく、自然そのものが生活を侵食しようとする過程にある汚れだった。こんな人工
都市にも自然はあった。熱力学第二法則は常に成立する。
 生活の匂いはミサトの部屋とは正反対にそれとわからないほどごく微かだったが、それ
は自然によって覆い隠されているだけのように思えた。掃除をすればここはレイの部屋に
戻り、彼女の匂いが現れるのかもしれない。

 掃除をしたい――。
 凄まじい衝動が彼を襲った。だが彼は必死にそれと戦った。僕は掃除マニアなんかじゃ
ない。頭の中でそう繰り返したが、衝動は去らなかった。せめてゴミだけでも――。
 それならまだ許されるかもしれない。だがゴミを捨て始めればそれだけでは絶対に済ま
ないという妙な自信がシンジにはあった。
 掃除機をかけ、布団を干し、洗濯機を回し、キッチンを分解する――。
 自分を制御できず、必ずそこまでやってしまうだろう。途中では止められない。風呂に
入って片腕だけ洗って出てくるようなものだ。そして、いくらなんでも女の子の部屋を勝
手に大掃除することは許されない。彼にもその程度の思慮はあった。
 結局、掃除機が見つからなかったという事実が彼を葛藤から解放した。レイに頼まれた
物――携帯の充電器――はベッドの脇にあった。それをカバンに入れ、今度ここに来ると
きは彼女と一緒に大掃除をするときだと決意し、シンジは病院に戻った。

※※※

 写真を撮った。

 こっそり撮るつもりだったが、人工的なシャッター音はミュートすることができず、そ
れは諦めなければならなかった。

「碇くん、あの、写真、撮ってもいい?」
「写真? 別にいいけど……」

 シンジはそう言ってレイの持つ携帯にピースサインを向け、笑顔を作った。無理やり作
ったような、固くぎこちない笑顔だなとレイは思う。

「そうかな」とシンジは言った。「ちょっと緊張しちゃって」
「緊張?」
「うん。……そうだ、僕にも一枚撮らせてよ」そう言ってシンジは自分の携帯を出し、レ
イにレンズを向けた。「笑ってごらん」

 そう言われて笑えるものではなかった。シンジが自分の切り取られた表情を見るのだと
思うと、心臓が高鳴った。それでも無理に笑顔を作ると、シャッター音がした。

「こういうのもいいかも……」

 シンジがそう呟く。レイは彼の持っている携帯をもぎ取るようにしてその画面を見た。
 確かに自分が写っていた。笑ってはいる。だがこれは笑顔と呼べるのだろうか。それほ
どまでに固い笑顔だった。

 ――消そう。

「あーっ! だめだよ!」

 ボタンに手をかけたとき、シンジがそう言って携帯を奪い返した。

「もう一枚、撮ってみる?」

 シンジが再びレンズを向けた。何度やっても同じような笑顔しか作れない。そう思った
とき、シンジが携帯から目を離し、レイを直接見た。優しい笑顔だった。どきっとした。
「ピース」とシンジが言って、ピースサインを出した。レイはその真似をした。シンジが
ボタンを押し、カシャという音がした。
 シンジはディスプレイを一目見て、レイの隣に座った。「良く撮れてるよ」
 二人で並んで、同じ画面を見た。そこにも自分がいた。悪くないかもしれないと思った。

「病室でなにちちくりあってんのよ、あんたたちは」
「みみみミサトさん! いつからそこに?」

 シンジは動揺を隠せない。

「いいかもってとこから。黙って見てれば全く……。ひょっとしてシンちゃん――」
「ななななんですか?」
「なんでもないわ。おねいさんが一枚撮ってあげる。そこに並びなさい」
「い、いいですよ」
「いいから」

 シンジはためらいながらもレイの隣に座った。

「もっと近寄りなさいよ。世話が焼けるわね」
「いや、でも……」

 シンジは再び動揺するが、レイにためらいはなかった。

「はい、笑ってー」

 ミサトがそう言ってシャッターを切った。

「二人ともかわいいわよ」

 そう言って携帯を差し出す。シンジが受け取り、二人で見た。シンジは照れ臭そうな笑
顔だった。また自分の知らない表情――。
 その隣に写っている少女。レイは束の間、自分ではない誰かが写っていると思った。そ
れほどまでに、ディスプレイの中の彼女は柔らかく笑っていた。
 これはまるで――。彼女は記憶をたぐる。これはまるで、トウジを遠くから見ていると
きのヒカリのようだ。
 その意味は、彼女にはまだわからない。

「転送してあげる。赤外線でいいわよね?」
「……?」
「ちょっと貸して」

 シンジはレイから携帯を受け取り、受信モードに入れた。

 受信した画像を、彼女は見た。
 ここに自分の知らない自分がいて、自分の知らないシンジがいた。この画像を切り取っ
た瞬間、確かにいた。
 これは絆ではない。物ですらなく、数字の羅列に還元されるデータに過ぎない。
 では、これは何なのだろうか。見ただけで優しい気持ちになれる、この写真は。
 きっとそれは、想い出と呼ばれるのだろう。単なる過去の一瞬だが、それが想い出とい
う名前で呼ばれるとき、それは未来へと繋がる。

 なぜあのとき眼鏡を離してしまったのか、わかるような気がした。きっと自分は、未来
を見たくなったのだろう。
 司令との絆が消えることはないだろう。彼女はそれを理解している。だが同時に、それ
が未来へと繋がるものではないということを、彼女は悟った。

※※※

「ねえシンちゃん。ここにあったビールの空き缶、知らない?」
「捨てましたよ、そんなもの」
「……限定発売プレミアム付きの缶だったんだけど……飲んでないのがとってあるし、ま、
いっか……」

 ミサトは独り言のように呟き、それからはっと気づいたようにあたりを見回して叫んだ。

「ここにあった車雑誌は!?」
「あっちです」

 シンジはトイレを指さす。

「トイレに? なんで?」
「トイレットペーパーになりました」
「内燃機関特集号だったのにぃ……」

 ミサトはさめざめと涙を流した。

「そんな大事な本なら、なんで無くなったのに二週間も気づかないんですか? 部屋をき
ちんと整頓しておかないからでしょう?」
「だってぇ……」

 泣き崩れるミサトを見下ろし、部屋に隠した缶と本を出すのは来週にしようとシンジは
思った。

※※※

 退院前の最後の診察を終えた。ロビーにはシンジが待っているはずだ。
 落ち着かない様子のレイを見て、リツコは知らず笑顔になる。そして、聞くまでもない
が、という口調で言った。

「これ、エントリープラグの中にあったけど」リツコは熱で歪んだ眼鏡を出した。それが
レイにとってどんなに大事なものだったのか、彼女は知っていた。大事なものだった。か
つては、確かにそうだった。「どうする?」

 未来に繋がらない絆の象徴。
 ライナスの毛布。
 自分にはもう不要なものだ、とレイは思う。

「捨ててください」
「わかったわ。じゃあ、シンジ君によろしく――」

 シンジの名前を聞いて、レイは少し頬を赤らめた。なんてわかりやすい娘なんだろう。
リツコはレイの後ろ姿を見ながら思った。いつもの無表情さに変わりはない。問診をして
いるときも、表情には何の変化もなかった。だが、シンジの名前を出したら途端にこれだ。
 恋をしている――。
 それはイレギュラーな、想定外の事象かもしれない。彼女自身は気づいていないかもし
れない。だがリツコは静かに見守ろうと決意する。そこに未来はないかもしれない。それ
でも一人の女として、レイを見守りたかった。
 もし、計画遂行のためにレイやシンジを捨てる必要が生じたら――。
 その時は科学者と女の闘いになる。それはその時に考えればいい。

 今はただ顔を上げ、歩き続けよう。

※※※

 シンジはレイの荷物を持った。大した量ではないし自分で持てるとレイは言ったが、シ
ンジは「持ちたいんだ」と言って離さなかった。

 手配してあった専用車に乗り、二人はレイの部屋に向かう。荷物を置いたら、あのアッ
プルジュースを二人で買いに行きたい、とレイは思う。それから写真をたくさん撮ろう。
MAGIに確保してある自分の領域に転送しておけば、少なくとも自分の生命のあるうちは、
消えることはないだろう。

 未来へとつながる絆――。

 シンジが心の中にいれば、自分はこれからも生きていける。
 写真は絆そのものではない。絆を確認する手段に過ぎない。それでも、彼女にとっては
大事なものだった。



「あ、あのさ……」
「なに?」

 階段を昇りながらシンジが口ごもる。レイは不思議そうな顔で問い返した。

「実は、その……」
「……?」

 レイの部屋の前に、掃除機やスチーム洗浄機等の様々な掃除道具と、ウッドカーペット
や壁紙等のリフォーム資材一式が積み上げられていた。

「大掃除をしたいんだ。それから、その、できれば模様替えも……」
「……」
「僕がやるからさ。……ダメかな?」

 レイは忙しげな瞬きを繰り返す。
 よくわからない――。
 シンジの引きつった笑顔を見ながら、レイはそう思った。
 でも、わからないからいいのかもしれない。何もかもわかっているなら、これほどつま
らないことはない。一緒にいれば、少しずつわかるようになる。でもきっと、わからない
ことも同じくらい増える。
 それでいい。そうやって二人で、一歩ずつ歩いて行ければ――。

※※※

「A.T.フィールド?」
「断言はできないわ。でもそうとしか考えられない」

 絶句するミサトに向かって、リツコはそう言った。

「検査の結果、センサー群に異常はなかった。つまり、単にレイの生体反応を感知できな
くなったということなの。そして、一回だけ作動させた心肺蘇生システムは正常に作動し
ていた。にもかかわらず、センサー群はそれを感知できなかった」
「単に感知できないって……どういうこと?」
「レイは、少なくともセンサー的には不可視の状態にあった。存在しないものは感知でき
ない。そういうことよ」
「結界か……」

 綾波レイが使徒であるという可能性――。

「あたしは――」ミサトは胸のペンダントを握り締める。「あたしは、使徒を倒すことだ
けを目的にしてあの時から十五年間、生きてきたわ。それは使徒が人類の敵だから。人類
が生き延びるためには使徒を殲滅するしかない。じゃあそのために、あの娘を殲滅すべき
だと言うの? 生き延びるためにはそれしかないの?」
「気づいてる? レイはシンジ君に恋をしているわ」

 ミサトは静かにうなずく。

「あたしたちは何も知らない。使徒が何なのか。どこから、何のためにやってくるのか」

 綾波レイの正体も。補完計画の成功が生き延びるといえることなのかどうかも――。

「生き延びる。今はそれしかないわ。そのために――たとえレイを殺すことになっても。
でもね」リツコは小さく笑った。「レイに殺されてもいいかなって、今は思ってる」
「……リツコ?」
「死にたくはないわ。でも純粋に客観的に見て、例えばあたしが神様だったとして、レイ
と人類のどちらが生き残るに値する生命体かを選ぶなら、レイを選ぶような気がする」
「レイを殺してまで生き延びようとする人類は生きるに値しない、か……」

 ミサトは黙り込む。

「……大丈夫よ」

 長い沈黙の後、リツコが笑って言った。

「さっきも言ったでしょう? あたしたちは何も知らない。ヱヴァのこともね。ヱヴァが
レイを守るためにA.T.フィールドを展開したのかもしれないのよ?」
「……気休めね」
「わかる?」
「長い付き合いだから」
「あなたと腐れ縁なんて、ぞっとしない話ね」
「その言葉、そっくりそのまま返すわ」
「今はただ――」リツコは明るい声のまま言った。「ただ歩き続ける。それしかないのよ。
使徒だから問答無用で殲滅すればいいってもんじゃないかもしれないってことを頭の中に
入れておけばいいだけ。私たちが降りても代わりの人材が入ってくるだけだしね。私には
マヤが、あなたには日向君っていう優秀な部下もいるんだし」
「いざとなれば、あたしたちで計画を止める、か」
「不穏な発言ね。クーデターでもやるつもり?」

 二人は顔を見合わせて笑った。

「さ、ミサト。まだちょっと明るいけど、飲みにでも行かない?」
「いいわね。何に乾杯する?」
「人類の栄光と、レイとシンジ君の輝ける未来に――」

 リツコは、人類の未来、とは言わなかった。あえて言わなかったということに、ミサト
は気づいていた。

「賛成。そうと決まったら早く行きましょ。喉が渇いたわ」
「……あなたが今なにを考えてるか、あててみましょうか?」
「どうぞ」
「早くいい男を見つけて、結婚して退職したい――」
「よくわかるわね」
「ミサトとは長い付き合いだから」

 二人は大きな声で笑った。

 綾波レイ。シンジに恋をしている綾波レイという存在が自分たちにとって何なのか、も
うわからない。
 それでも歩き続ける。顔を上げ、前を向いて歩き続ける。それしかない。たとえその先
にあるのが残酷な未来だったとしても、歩き続けなければそれすらも手に入らない。

 今はただ、前を向いて歩き続ければいい――。

※※※

「続きはまた今度にして、今日はこのくらいにしよう」

 掃除機で部屋のほこりを吸い、大雑把にゴミをまとめたところでシンジは言った。

「もういいの?」

 掃除を始めてから三十分もたってはいない。

「あんまり一気にやっても大変だからさ。少しずつやればいいよ」
「……わかった」

 レイは今日退院したばかりだ。無理はさせられない。いつでもできると思えば、掃除に
対する衝動はもうなかった。

「じゃ、じゃあ……」する事がなくなると、シンジは急に落ち着かない気持ちになった。
女の子の部屋で二人きりだ。あの時の事件が脳裏に甦る。「僕は、そろそろ……」
「……もう少し」
「……え?」

 ベッドに座ったレイは、小さな声で言った。

「もう少し、一緒にいて欲しい……」

 レイは顔を上げ、シンジに向かって微笑んで見せた。

 この笑顔だ――。

 少しはにかんだような、優しくて、頼りなげな微笑。エントリープラグの中で見せてく
れた微笑みとは違う。それでも、紛れもなくレイの笑顔だった。

 笑いあいたい。一緒にいたい。幸せにしたい。触れていたい――。

 沸き起こる様々な衝動を、シンジは押し殺した。
 望むものの何もかも全てを、一度に手にすることはできない。
 でも、望まなければ手には入らない。
 一歩ずつ、少しずつでも歩き続ければ、いつかは――。

「……あの時のアップルジュース、憶えてる?」
「憶えてるわ」
「今から買いに行こう。あの店、閉まるの早いんだ」
「うん」

 そう言って立ち上がり、レイは笑顔を見せた。
 その笑顔が嬉しそうに見えたのは、気のせいではないはずだ。

end

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