当面の使徒を倒し、ネルフは束の間の平穏をむさぼっていた。警戒態勢が解かれること
はなかったが、緊張感の低下は隠しようもなかった。子供たちは毎日学校に通い、変わら
ない日常を楽しみ、遅れた勉強を取り戻すためのいつ果てるともない補習に苦しみ、淡い
恋心――初恋の味に胸をときめかせていた。綾波レイでさえ、乳酸菌配合のサプリメント
を選択した。

 そんな平穏を破った“それ”は唐突に出現した。
 光速の20%に迫るという驚くべき速度を持ったその物体がアマチュア天文家によって発
見された時、それはすでに木星軌道を突破しつつあり、ドップラーシフトによって反射光
を青方偏移させながら地球に向かっていた。
 連絡を受けたNASAは、即座にあらゆる観測機関に対しその物体の観測を要請した。
 国内外の、電波天文台を含む全ての天文台や宇宙望遠鏡――運用を休止していたハッブ
ルまで――が、一斉にその物体に焦点を合わせた。

 得られた結果は、文字通り絶望だった。




WITH YOU

written by tamb   


「どうやら地球への衝突軌道に乗っているようです」緊急呼び出しに応じて来たミサトと
リツコに向かって日向が言った。「合衆国大統領はデフコン1を宣言しました」
「情報源はどこなの?」

 まだ半分眠っているのかそれとも事態の重要性を理解しきれていないのか、ミサトがの
んびりとした口調で聞いた。

「ネルフアメリカ支部です。支部はNASAとペンタゴンから非公式に情報を得ているようで
す。……というより、事実上垂れ流しですね。マル秘コードはついているようですが。そ
っちで出来ることがあったら独自に何とかしてくれってことみたいです。ほとんどパニッ
ク状態ですね」
「使徒の可能性は?」
「MAGIは回答を保留しています。情報が少なすぎますよ」

 ミサトの当然の疑問に、日向はそう答えた。

「高さ約5000mに半径1000mの円柱状と推定。で、コンマ2C弱か……。よく見つけたわね」
生データが表示されている画面をスクロールさせながらリツコが呟く。「非常識な隕石っ
てことで、ほぼ確定なのかしら? 形が変だけど?」
「NASAはその方向で動いています。ただ、光線の反射率はほぼ100%と推定されているよう
です。形状については観測誤差と見ているようです。外惑星近傍の観測網は薄いですし、
角度的に地球上から物体の長軸方向の観測は不可能ですから。もう少し時間が経てばデー
タも集まると思います」
「いずれにしても」リツコは椅子にどっかりと腰をおろし、天を仰いで言った。「よっぽ
ど軽ければともかく、この速度で地球に衝突されたら人類皆殺しね、間違いなく」
「エヴァで受け止められないかしら。A.T.フィールド全開にして」
「恐竜を絶滅させた隕石は直径11kmで秒速40kmと考えられてるわ。この物体は秒速6万km
として1500倍。エネルギーはその二乗で225万倍よ。仮に形状が報告通りだとして、体積
は……だいたい45分の1。あとは自分で考えて。それだけの運動エネルギーをどうするつ
もり? 確かにA.T.フィールドにはある種の相転移、つまりエネルギー保存則の破れる現
象が観測されてるけど……」

 ミサトは黙り込んだ。比重が同じとすれば、エネルギー差はざっと5万倍……。

「ま、どっちにしても人類皆殺しならやってみてもいいとは思うけれど。失うものは何も
ないんだし。……時間はどれくらいあるの? 衝突まで」

 最後は日向に向かって聞いた。

「2時間と少しです」
「子供たちを呼ぶわ」ミサトが少し緊張した声で言った。「何かするかどうかはともかく、
使徒の可能性はあるんだしね」
「それがいいと思うわ」

※※※

 米国を始めとする核ミサイル保有国は、照準をその物体に向けるべくプログラムの変更
を大車輪で開始した。同時に、持てる全てのASAT――対衛星攻撃衛星を物体軌道上に遷移
させた。光速の20%もの速度で衛星に激突すれば木っ端みじんになる。うまく行けば大気
圏突入時に燃え尽きてくれる程度の大きさになるかもしれない。

「当たるの? ミサイルなんて」

 とりあえずプラグスーツに着替えてはみたものの、事態を掴めないアスカが聞く。

「当たるかどうかだけなら、まぁ当たるでしょうね。軌道予測が正確なら。プログラムの
変更も間に合うでしょう。でも、あれを蒸発させようって話なんだから数が足りないと思
うわ。宇宙空間での核爆発の威力って、意外と小さいものよ」
「……無駄ってこと?」
「そうとも言うわね」
「なんなのよ」
「あの物体が紙のように軽ければ効果はあるわよ。中身がからっぽだったりね。ミサイル
は同時に着弾するのが最も効果的だから、その方向で動いてるみたいよ。
 ……それにしてもこの各国協調、素晴らしいデタントだわ」
「ASATの方はどうなの?」

 悟りを開きつつあるリツコに向かってミサトが聞く。

「ミサイルと同じ。当たるには当たるでしょう。でも、うまく破壊できたとしても破片は
全て地球上に降りそそぐわ。軌道要素はほぼそのままにね。何か意味がある?」

 司令室を虚無的な空気が支配した。

「あの、それで僕たちは?」

 いつになく緊張した表情のレイを視界の隅に見ながらシンジが言う。

「エヴァに乗って待機。いつでも出撃できる状態でいて」
「エヴァで……何をするんですか?」
「間に合うようなら――エヴァの稼動範囲に落ちて来るようなら、受け止めてもらうわ」
「そんな無茶な」
「エントリープラグの中が一番安全だから」ミサトは言葉を切った。「衝突後にもし私た
ちが生きてるようなら、助けてくれる?」
「……わかりました」

 シンジはミサトの決意を知る。つまりシェルターに避難していろということなのだ。

「あーあ。まさかこんなので死ぬことになるなんてねー。使徒もびっくりだわ」

 そう言いながらアスカがすたすたと歩き出し、シンジとレイもそれに従った。

「ねえ綾波……」
「なに?」
「ぼくたち……みんなも、死んじゃうかもしれないんだね」
「……」
「綾波に伝えたいことがあるんだ。もし生き残れたら……聞いてくれるかな」
「いま」
「……え?」
「いますぐ、聞かせて欲しい。死んでしまったら聞けなくなる。それは嫌だから」

 シンジはしばらく考え、それからゆっくり首を振った。

「やっぱり後にするよ。そのほうが生き残れるような気がするんだ。何かやりたいことを
残しておいた方がね」
「……」
「だから、綾波も生き残れるよ。ぼくらが大丈夫なら、きっとみんなも大丈夫だと思うし」
「わかった」

 根拠がない、ということはレイにもわかっていた。それでも彼女はうなずいた。彼の言
葉は信じられる。そんな気がした。

※※※

 衝突予想時刻の約1時間前。各国ミサイルの発射ボタンが押された直後、その物体は突
如として減速を開始した。
 ほぼ同時に物体の形状が確定した。半径1000m、高さ5000mに間違いはなかった。

 地球外生命体の可能性がある――。
 NASAのSETI――地球外知的生命体探査――部門は色めきたった。ミサイルには自爆命令
が、ASATには移動命令が出され、それらは即座に実行された。

 想像を絶する凄まじい減速――当初は観測エラーとすら思われたそれは、2500G近いも
のだった。地球上の2500倍の重力。体重50kgの人間は125トンとなる――にもかかわらず、
それに伴う発光は観測されなかった。もし発光を伴う減速を行ったのであれば、太陽より
も明るく輝いたはずだ。
 重力そのものをコントロールしていることに間違いはないと思われた。光速の20%に迫
る速度をこの距離でゼロにするためには通常の――例えば核パルスエンジンでは推進剤が
決定的に不足している。物体全てを核融合の炎にくべたとしても到底不可能な数字なのだ。
 そもそも、重力のコントロールなしにこの減速を行ったのでは物体そのものが崩壊しか
ねない。

 ここに至って、ようやくマスコミ向けの発表がなされた。隠していたわけではない。そ
れどころではなかったのだ。

「宇宙人襲来!!」
「敵か? それとも味方か?」


 そんなヘッドラインが世界中を駆け巡った。だが、航空宇宙評論家と呼ばれる人々の困
惑気味――あるいは破れかぶれ気味の浮かれたコメントが載った以外、内容はほぼ皆無だ
った。誰にも、何もわかっていないのだ。

※※※

 その物体は数度に渡る軌道修正と速度のコントロールを行い、約2時間後、高度400km、
秒速7.7kmで地球の周回軌道上に乗った。このまま加減速を行わなければ、約1時間30分で
地球を一周することになる。

「映像、出ます」

 日向の声と同時に、監視衛星からの画像がスクリーンに映し出された。
 そこには太陽光と地球からの照り返しを受けて純白に輝くカプセル状の物体があった。

「円筒というより楕円柱ね」
「昔ながらの葉巻型UFOといったところかしら?」

 とりあえず当面の危機は去ったとばかりにリツコとミサトが軽口をたたく。
 もちろん異星人が攻撃を仕掛けてくる可能性は排除できないが、闘って負けるのなら隕
石衝突で絶滅する理不尽さよりもまだ納得が行く。

 NASAはこの宇宙船と思しき物体にどんなメッセージを送るかで大激論を交わしていた。
 既にSETI研究者による草案はあった。それは「充分に追認して地球外文明の存在を確か
め」「国連を始めとする関係機関とマスコミに通達し」「観測結果を広く共有し」「信号
のある帯域を保護し」「勝手に返信しない」というものだった。
 しかしそれは、この時点ではほぼ無意味だった。異星船はすでに衛星軌道上を周回して
いるのだ。「充分に追認して地球外文明の存在を確かめ」る段階などとうに過ぎている。
今この段階で「我々は知的生命体である」などというメッセージを発信したとして、どん
な意味があるのか?

※※※

「まさか生きてるうちに宇宙人に会えるとは思わなかったわ」コーヒーを飲みながらリツ
コが言う。
「タコみたいなのが出てくるのかしら?」とミサト。
「進入方向に有力な恒星は無いみたいだから何もわからないけど、炭素系生物とは限らな
いわ。タコならまだマシかもしれないわよ。ガス状生物とかね」
「そんなのとコミュニケーションが取れるんでしょうか?」

 マヤは少しはしゃいだ感じだ。

「どうかしらね。地球上のテレビ電波とかは受信してるでしょうし、コミュニケーション
を取るに値すると思ってくれるかどうかがポイントになるでしょうね」
「素敵な宇宙人だといいなぁ。優しくって、背が高くて……」
「星の王子様じゃないのよ」
「可能性は否定できませんよ、先輩」
「美少年が降りてきたら逆に怖いわ」


「ねぇ、アタシたち、まだ降りちゃいけないの?」
「退屈だね」
「……忘れられているような気がするわ」

※※※

 ネルフ内の無駄口が佳境に入り、チルドレンが暇を持て余し、SETI研究者たちの論争が
殴り合いの様相を呈しはじめた頃。既に地球を数周していたその物体は、あたかも待ち切
れなくなったかのように緩い減速を開始した。ブラジルのやや東側、大西洋上空である。

「いよいよ大気圏突入ね。……どうしたの、リツコ?」
「このタイミング……」リツコは食い入るようにディスプレイを見つめた。「シャトルの
降下を参考にするのは無意味かもしれないけど、日本に着陸する可能性があるわ」
「大気ブレーキ、ですか?」とマヤ。
「そう。この減速パターンはシャトルの突入に酷似しているわ。まるでコピーしたみたい
にね」
「あんな凄い減速ができるのに、どうして大気ブレーキなんでしょうか?」
「さあ?」

 プラズマ炎に包まれオレンジ色に光り始めた物体を、リツコは憑かれたように見つめて
いた。

「JAXA有志グループが動き始めたようです。NASAのSETIグループもSSTOで日本に向かうよ
うです。在日UN軍に総員戦闘配置が発令されました」

 スタジオに籠もり爆音でギターを弾きまくっていたため緊急呼び出しに対する対応の遅
れた青葉が真面目な口調で言う。

「このご時世にSETI部門が機能してるっていうのが驚きだけど……妥当な対応ね。間に合
わないとは思うけど」

※※※

 その物体は順調に降下と減速を行い、約40分後、あろうことか第3新東京市上空約3万m
の地点で静止した。

「ちょっとぉ! なんでここなのよ!」
「落ち着きなさい」うろたえるミサトにリツコが諭すように言う。「異星文明との邂逅よ。
この世紀のスペクタクル、楽しむ余裕を持ちなさい。恐らくあたしたちの出番はないんだ
し。見てればいいのよ、見てれば」
「そりゃそうだけど……」

 物体は静々と垂直に降下を開始し、15分ほどで音もなく着地した。

「むちゃくちゃね……」

 高さ5000mものカプセル状の物体がどーんと聳え立つ。その圧倒的な威容に、さすがの
リツコも息を飲んだ。
 緊急召集されたUN軍地上部隊が展開を開始する。刺激を与えないため、空軍は待機状態
にあるようだが、地上をレーザー狙撃するための衛星は次々と打ち上げられているはずだ。
緊急展開衛星なら発射から軌道投入まで数分しかかからない。

「待機を解除して、見に行くってわけにはいかないかしら? 別にすることないでしょ?」

 リツコがささやき、沈黙を守っている後方のゲンドウを伺う。沈黙を守っているのか、
どうしたらいいのかわからない状態なのかは謎だが。

「物体から信号です!」日向が突如として叫んだ。「ネルフの秘匿回線! 明らかに有意
信号です! MAGIにアクセスしようとしています!」
「回線切断! 急い――」
「訂正します! ネゴシエーションです! 暗号コード一致! 回線開きます!」
『あー、もしもし。ネルフの皆さん、聞こえますかぁ?』

 日本語である。妙に甲高い声であった。あまりの異常事態に司令室は静まり返った。

「とんだファーストコンタクトね……」

 リツコの独り言がやけに大きく響く。

『あれ、変だな。もしもし? 聞こえますかぁ? もしもーし! ネルフのみなさーん!』

 一同はゆっくりと振り返り、ゲンドウを見つめた。ゲンドウはうろたえ、すがるように
冬月を見上げる。

「おまえの仕事だ……」

 ゲンドウはがっくりとうなだれ、準備万端外部回線と接続済みであったマイクのスイッ
チを入れた。

「こちらはネルフ本部。私は最高司令官の碇ゲンドウである……」
『あ、良かった。繋がってますねー』
「うむ。まずは要求を……いや、なぜネルフを知っているのかを聞きたいのだが」

 そんなことを聞く前に、友好のメッセージ等の最初に言うべき言葉があるような気もす
るが、当然の疑問ではある。
 だがその物体は――あるいは物体内部の生物は、ゲンドウの言葉を無視して言った。

『あの、そちらに綾波レイさん、いますよね? お会いしたいんですけど……』

 再び本部内に緊張が走った。

「プラグ排出、急いで。チルドレンを全員ブリッジに、いえ、大浴場に呼んで」

 リツコが小声でマヤに言う。ゲンドウを見上げ、腕を開く仕草で引き伸ばすよう合図し
た。ゲンドウがうなずく。

「あー、それはそれとしてだな。最近何か面白いアニメは――」

 リツコはミサトと視線を交わし、大浴場に向かって走り出した。

「なんで大浴場なの?」
「彼らのテクノロジーは高すぎるわ。既にMAGIは支配下にあって、内部の会話は筒抜けか
もしれない。大浴場ならカメラもマイクもないから」

 大浴場にはすでに三人が待機していた。何か言いたげな子供たちを無言で静止し、巨大
な湯船に湯を追加し始める。浴場内に水音が響く。

「たぶんこれで集音マイクも効力を失うはず。自信はないけど。……話は聞いてたわね?」

 三人は無言でうなずいた。

「意見を聞きたいの。GOか、それともNOGOか」
「NOGOです」シンジが一歩前に出て、レイを守るようにして言った。「意味がわかりませ
ん。なんでネルフや綾波のことを知っているのか……。危険すぎます」
「アスカは?」
「NOGOね。理由はシンジと同じ。GOの理由が見当たらないわ。適当なこと言って断ればい
いのよ」
「ミサトは?」
「条件付でGO。カメラの前に立つだけならリスクは低いわ。それに、現時点で彼らに逆ら
いたくない」
「レイ?」
「命令に従います。ただ、意見をと言われるなら、GOです」
「綾波!」
「彼らに侵略の意図があるとは思えません」

 レイはシンジを、そしてアスカを順番に見た。

 何かあればあなたたちが守ってくれる。それに、私には代わりがいる――。

 リツコは、レイのそんな声を聞いたような気がした。しばしの沈黙の後、顔を上げて言
った。

「結論を言うわ。GOよ」
「リツコさん!」
「とりあえずカメラの前に立つだけ。シンジ君とアスカは出撃。物体を射程距離内におい
て待機。いいわね?」
「……わかりました」
「ミサトは第3新東京市を戦闘形態に移行。戦闘指揮は頼むわよ」
「了解」
「綾波、気をつけて」
「大丈夫」

 レイはシンジに微笑んで見せた。

「レイ、行くわよ」
「了解」

 二人はケージへ、三人は司令室に向かって走り出す。

※※※

『ファーストガンダムは良かったですねー。リュウが死んだ時とか、泣きましたよ』
「あれは永遠のアニメだ。ガンダムに比べれば、某アニメ映画などロリコン映画に過ぎん
と私は思うね」
『ただガンダムは著作権管理がうるさくてねー』

 三人が司令塔に到着すると、ゲンドウは脂汗を流しながら雑談を交わしていた。引き伸
ばしも限界に近い。
 リツコはもう少し伸ばしてと合図した。ゲンドウは天を仰ぐ。

「Zガンダムはどう思うかね?」
『あれも悪くないですよね。ただ新訳は見てないんですよ。賛否両論みたいですけど、ど
うなんでしょうねー』
「私も見ておらんのだ。見たいと思ってはいるのだが……」
『ゼータの場合、社会や組織と個人との軋轢が――』

 戦闘形態への移行が完了し、エヴァも展開を完了した。
 リツコはそれを確認し、ゲンドウにうなずいてみせる。
 ゲンドウはほっとした表情で言った。

「ああ、話の途中だがちょっとすまん」
『あ、はい』
「技術開発部技術局、赤木リツコといいます」
『あ、リツコさん。お噂はかねがね。ファンです』

 リツコは度肝を抜かれたが、なんとか立ち直った。

「あなたに聞きたいことが――」
『そんなことより、綾波レイさんに会わせてもらえませんか? エヴァの展開も済んでま
すし、都市は戦闘形態に移行済み。おじさんの雑談にも付き合った。もう準備は済んでる
んでしょう?』

 お見通しってわけか――。

 リツコはゲンドウを振り向く。おじさんと言われて冷静さを失っているのは一目瞭然だ
った。中二の息子がいるのだし、誰がどう見ても間違いなくおじさんだ。それで立腹して
いるのでは世話はない。
 カメラの死角に立つレイを見る。何も言わずとも彼女はうなずき、リツコの隣に立った。

「映像回線、開いて」

 リツコの指示に従い、マヤが震える手でコマンドを打ち込んだ。回線は双方向には開か
れなかった――つまりこちらの映像が伝わるだけの状態にしかならならず、相手の姿は見
えなかったが、レイはためらうことなく言った。

「綾波レイです」
『おお……』

 感極まった声だった。

『あなたはまさしく、夢にまで見た綾波レイ……』

 ミサトが素早くレイの前にしゃがみ、紙になにやら書いてレイに示した。レイはそれを
棒読みする。

「あなたはいったい何者ですか?」
『ぼくたちは、あなたの乳酸菌です』
「私の……乳酸菌?」


「綾波の乳酸菌? これって……綾波の乳酸菌?」

 シンジはエントリープラグの中で茫然と呟く。
 長さ5kmの乳酸菌? でかい。あまりにもでか過ぎる。
 そうじゃない――。
 シンジは思い直した。このでっかい物体はあくまで乳酸菌の乗り物であって、中には乳
酸菌そのものがぎっしり詰まっているに違いない。
 乳酸菌の乗り物? 中に乳酸菌がぎっしり? 綾波の乳酸菌が? 頭がくらくらする。

「なんなのよ! ファーストの乳酸菌ってーのは!」

 あまりのことにアスカが激昂している。

「わからないよ、僕に聞かれても」
「ファーストの管理はあんたの仕事でしょうが!」
「いや、別に管理はしてないし」


 ミサトも頭は真っ白だったが、とりあえずレイの乳酸菌問題は先送りにして紙を示す。

「あなたたちはどこから、何のために来たのですか?」
『未来と過去から、あなたにひと目、会うために』


「意味わかんないわよ! ストーカー? 変質者?」
「僕だってわかんないよ」
「ねぇ、やっつけたらダメ? レイに気をとられてるし、今なら楽勝よ」
「ちょっと待ってよ。勝手にはできないよ」


『それともうひとつ。あなたに乳酸菌の摂取を勧めるために』
「……?」
『あなたにぜひ乳酸菌を摂っていただきたいのです。ぼくたちと、あなたの未来のために』
「サプリメントでなら、摂ってるけど……」
『え?』乳酸菌は絶句した。『摂ってる?』


「わかった! 営業よ! 乳酸菌方面の食べ物だか飲み物だか作ってる会社!」
「違うと思うけどな……」
「ブルガリアあたりから来たのよ! 手の込んだロケットまで作って!」
「乳酸菌だからヨーグルトでブルガリアって発想がストレートすぎるような気が」


『摂ってる? 本当に?』
「ええ。せめてサプリメントでもいいからって、碇くんに勧められて」
『碇シンジさん、聞こえてますか?』

 いきなりフルネームで呼びかけられたシンジは動揺した。

「え? は、はい。あの……」
『綾波さんに乳酸菌を勧めたんですか? 本当に? 間違いないですか?』

 詰問口調である。シンジは動揺から立ち直り、次いで腹を立てた。素晴らしいテクノロ
ジーを持っているとはいえ、たかが乳酸菌である。なぜ乳酸菌ごときに詰問されねばなら
ないのか?

「ええ。そうですよ。いけませんか」
「シンジ君!」

 ミサトがあわてて秘匿回線でたしなめるが、シンジは聞いちゃいない。

「乳酸菌は身体にいいんです。それに、なかなか美味しいじゃないですか。美味しいもの
を楽しむということの入り口として、乳酸菌入りのサプリメントは悪くないと思うんです」

『素晴らしい……』乳酸菌は感動に打ち震えた声で言った。『本当に素晴らしいことです。
シンジさん、ぼくたちはあなたをみくびっていたようです』
「あ、それはどうも……」

 乳酸菌に褒められて、喜んでいいのかどうか良くわからない。

『あなたの言うようにサプリメントから、やがてはヨーグルトや乳酸菌飲料、何でも構い
ません、ステップアップをよろしくお願いします』
「え、ええ。それはもちろん……」
『綾波さん』
「はい」
『これからも乳酸菌のこと、よろしくお願いします。あなたあってのぼくたちです。ぼく
たちはあなたの乳酸菌なのですから』

 よろしくといわれても困る。レイはミサトを見たが、困ってるのはミサトも同じであり、
カンペには何も書かれていない。ミサトはレイに凝視され、あわててカンペを提示した。
レイはそれを素直に棒読みする。

「わかりました。まかせてください」
『ありがとう。本当にありがとうございます』
「アタシは?」

 突如としてアスカが割り込んだ。

『その声はアスカさん。憧れてます』
「アタシの乳酸菌は?」
『かつてぼくたちの世界では……』乳酸菌は静かに言った。『アスカさんの乳酸菌と、ぼ
くたち綾波レイさんの乳酸菌が覇権争いを繰り広げていました』
「覇権争い? 乳酸菌が?」
『そうです。戦いは拮抗し、やがて消耗戦になりました。その間に諸派乳酸菌が台頭し、
共にシェアを落として群雄が割拠する時代になりました』
「はあ……そうですか……」
『ぼくたちに限らず乳酸菌はみな疲弊し、厭戦思想が広がりました。ふと気づくと他の病
原性細菌から宿主生体を守ることもできず、恒常性の維持に役立つこともできず、それば
かりか乳酸すら生成できなくなっていたのです。これでは乳酸菌の名に恥じます。ここに
いたってようやくぼくたちは気づいたのです。同じ乳酸菌同士、戦ってどうなるのかと』

 人間の歴史と同じね、とリツコが呟く。

『ぼくたちは乳酸菌の復興に乗り出すべく、和平交渉に入りました。しかし悲しいかな、
ぼくたちにもエゴはあります。結局は、それぞれが直接戦うことなく、それぞれの勢力を
それぞれが非戦闘的な手段によって拡大することが乳酸菌の復興に寄与するであろうとい
う結論に達したのです。綾波さん』
「は、はい」
『この時空において最も劣勢を強いられているのはぼくたち、つまりあなたの乳酸菌です』
「……」
『繰り返します。くれぐれも乳酸菌をよろしくお願いしますよ』
「わかりました……」
『おみやげをお渡ししておきます』

 シームレスだった乳酸菌――あるいはその乗り物――の地面に設置している付近に線の
ようなものが入り、そこを境にしてあたかも自動ドアのようにういーんと開いた。そこか
らベルトコンベアのようなものが繰り出され、ダンボールがベルトに乗って流れてきた。

『ヨーグルトや乳酸飲料などの発酵乳製品をはじめ、ピクルス、ザワークラウトなどの発
酵植物製品、なれ寿司など、乳酸菌食品の詰め合わせです。これはある意味、ぼくたちそ
のものです。どうかお受け取りください』

 断るのも勇気がいる。というより大人気ない。ミサトは瞬時にそう判断し、困りきった
目を向けるレイにカンペを差し出す。

「ありがとうございます。喜んで受け取らせていただきます」

 根本的な疑問として、綾波レイの乳酸菌とは何か、という問題がある。リツコはレイと
乳酸菌のやり取りを聞きながら考えていた。レイが任意の乳酸菌を食せばレイの体内でそ
の乳酸菌がレイの乳酸菌に変化するというのか。仮にそうだとすると、レイの乳酸菌と他
の乳酸菌、例えばアスカの乳酸菌を区別する要素は何か。DNA配列が違うとでもいうのか。
レイの体内で乳酸菌のDNA配列が変化するのか。レイの乳酸菌をアスカが食べるとアスカ
の乳酸菌になるのか。

『じゃあ、ぼくたちはこれで』
「待って!」

 リツコは思わず叫んだ。レイの乳酸菌がどうとかいうより、科学者としてまず聞かねば
ならぬことがある。

「あなたは、未来と過去から来た、と言ったわね。意味を教えて欲しいの。時空を自由に
移動できるということ?」
『ある意味ではそうです』乳酸菌はそう答えた。『例えて言うなら、この世というのは時
間というレールの上を光の速度で走っている存在です。未来は前に、過去は後ろにありま
す』
「アインシュタインによる時空連続体の概念ね。それで?」
『ぼくたちがまだ争いを繰り広げている頃』乳酸菌は沈痛な声で言った。『とても悲しい
出来事があったのです。長い、とても長い話になります……』

 リツコは固唾を飲んで乳酸菌の言葉を待った。

『ぼくたちの体はとても小さく、寿命も短い。ある一群が考えたのです。まとまればいい
のではないか。ぼくたちの意思疎通は、あなたたちの細胞間反応と同じように化学物質に
頼っています。応答速度は決して速いとはいえない。個体間の距離が近ければ、それだけ
優位に立てます
 蝟集が始まりました。ぼくたちひとりひとりはとても小さいけれど、数はとても多いの
です。蝟集はいつ果てるともなく続き、中心部の圧力は上昇に上昇を重ねました』
「おしくらまんじゅうみたいなもんね」
「黙って。それで?」

 ミサトを一喝し、リツコは続きを促す。

『ぼくたちはあなたたちのように強固な皮膚組織を持っているわけではないのです。つい
に中心部では融合が始まりました。だが意識は失われる事がなかった。そして、個体の集
合としての群体ではなく、ひとつの個体としてひとつの意志を持てるということがわかっ
たのです』
「……補完計画!」

 リツコは思わず叫んだ。

『そのとき気づけばよかったのです。ひとつの個体としてひとつの意志を持つということ
は、一切の多様性が失われる事に他なりません。それが種にとってどんなに危険かという
ことに。でもぼくたちは気づきませんでした』

 乳酸菌の歩んできた道とは、補完計画の成功と挫折の歴史なのか。
 人類補完計画の全貌を知る者は激しい緊張感と共に、知らぬ者はあまりにも異常な歴史
に、呼吸さえも忘れ乳酸菌の言葉を聞いていた。

『完全な融合を果たし、ひとつの魂となったその一群は戦いを優位に進めました。それを
見た他の集団も蝟集を開始したのです。戦いは互角に戻りました。さらに優位に立つため
には、蝟集を続けるしかありませんでした。限界を超えて蝟集を続けた乳酸菌集団は、自
身の巨大質量に伴う重力によって崩壊をはじめました。重力崩壊です。そして、自己重力
が中性子の核の縮退圧を超え、ついにはシュバルツシルト半径より小さくなりました』
「ブラックホール!」
『そうです。それでもぼくたちはホーキング輻射によって魂と意思を保ちつつ、戦いをや
めませんでした。ブラックホールである以上、時空の他の領域と将来的に因果関係を持ち
得ません。ぼくたちは時間的な幅を持たない“今”という瞬間から抜け出し、過去や未来
に移動して互いに対する破壊工作を続けました。結果、時間というレールはずたずたに引
き裂かれてしまったのです』
「……」
『そんな状況になって、ようやくぼくたちは気づいたのです。ブラックホールに乳酸など
生成できるはずはありません。それで乳酸菌といえるのかと。ぼくたちの乳酸菌としての
アイデンティティはどこにいってしまったのかと。種の多様性も失われ、進化の道も閉ざ
されました。あとは最初にお話した通りです。ぼくたちは和平の道を選択しました』

 なんという悲しい物語なのだろうか。リツコも、そしてミサトまでもが涙を流していた。

『今のぼくたちの夢は』乳酸菌は心持ち明るい声で言った。『様々な時空で乳酸菌の重要
性を説き、正しい乳酸菌社会を復興することです。現時点では残念ながら必要悪な存在で
しかないブラックホール乳酸菌も、その時には意志の力で解消し、元の乳酸菌の姿に戻る
ことが可能になるでしょう。簡単なことです。それぞれが自分の魂を、自分の姿を想起す
ればいいのですから。そうすれば全ての乳酸菌が正しく乳酸を生成し、病原性細菌から宿
主生体を守ることができます。それがぼくたちの幸せです。その夢を実現するために、ぼ
くたちは戦っているのです』

 リツコが涙を拭いながら言った。

「応援してるわ。私たちには何もできないかもしれないけれど」
『いえ、それは違います。あなたたちには大切なお願いがあります。それは、乳酸菌を食
べることです。とてもとても、大切なことです』
「わかった。必ず食べるから、たくさん食べるから、心配しないで」
『ありがとう、本当にありがとう。どれだけ言葉を並べても感謝し切れません』
「いいのよ。私たちのためにもなることなんだから」
『そう言っていただけるとぼくたちも嬉しいです。……長くなりました。じゃあ、ぼくた
ちはこれで』
「ちょっと待ちなさいよ!」

 長い話にじっと耐えていたアスカが叫んだ。

「アタシの乳酸菌はどうなったのよ!」
『ぼくたちはそれぞれがそれぞれの意思で独自に行動しています』

 乳酸菌は静かに上昇を始めた。

『アスカさんの乳酸菌はアスカさんの乳酸菌で、独自の判断で行動していると思います。
いずれはここに来ることもあるかもしれません。いえ、もう来ているのかもしれませんね。
それはぼくたちにはわかりませんけれど……』
「ふうん……」
『あなたたちに会えて本当に良かった。もう、ぼくたちとあなたたちがこうして話をする
ことはないでしょう。でも、いつでも会えます。ぼくたちは、いつでもあなたたちと共に
在ります。あなたたちの中にいるぼくたちを、時々は思い出して下さい』
「わかってる! 忘れないわ! 絶対に忘れないから!」

 リツコの涙声が合図になったかのように乳酸菌は加速を開始した。見る間に小さくなり、
点となり、すぐにレーダーにも映らなくなった。

「SETIグループやJAXAから連絡が殺到しています。怒り狂ってます。おまえら勝手に秘匿
回線で何を話しているのかと。サイドローブを拾ったから暗号コードを教えろとか言って
ますが……」
「ほっときなさい。それより……」

 マヤの報告に構わずリツコが言う。

「レイ」
「は、はい」

 涙で化粧の崩れまくった、まさに鬼気迫るリツコの表情にレイは気圧される。

「いいこと? 乳酸菌を食べるのよ」
「わ、わかりました」
「日向君、乳酸菌食品詰め合わせの回収、急いで」ミサトが指示を飛ばす。
「了解。初号機を使いますか?」
「構わないわ。使って」

※※※

 その日からネルフスタッフは乳酸菌漬けの生活を送ることになった。特にレイに関して
は、他のスタッフの倍量摂取することを義務付けられた。リツコは乳酸菌食品の研究に没
頭し、乳酸菌学会に出入り始めた。

※※※

 数日後、光速の30%というレイの乳酸菌を上回る速度で、不必要なほど激しく赤外線を
放射し――ドップラーシフトで地球上からは深紅に輝いて見える――灯台のように目立ち
まくりつつ近づいてくるカプセル状の物体が発見された丁度その頃――。


「碇くん……」
「うん?」
「乳酸菌、飽きた」
「僕もだよ……」

 レイのうんざりした表情に、シンジも同意して答えた。

「物事には程度っていうものがあると思うんだよね」
「そういえば、碇くん」
「え、なに?」
「私に伝えたいことって、まだ聞いてないわ」
「あ、ああ……」

 好きだ。君を幸せにしたい。
 あの時はそう言おうとしていた。だがいくらなんでも、こんな重要なことをこんな意味
不明な状況下で言えるものではなかった。

「……口直しに、甘いものでも食べにいかない? チョコレートパフェとか」
「おっきいチョコレートパフェ、来たりしない?」

 レイの警戒の表情に、シンジは笑顔で答える。

「大丈夫だよ、微生物じゃないからね」
「じゃあ、行く」



 甘くて、冷たくて、美味しい。
 レイはパフェを食べながらそう思う。

「美味しい?」
「うん」

 レイは素直にそう答える。

「幸せ?」

 シンジの笑顔を見て、甘いものを食べて、自然と笑顔になれる。優しい気持ちになれる。
これが幸せというものなのだろうと、幸せの形のひとつなのだろうとレイは思う。だから
彼女はうなずいた。

「良かった」

 嬉しそうにそう言うシンジを見ると、もっと幸せな気持ちになった。
 乳酸菌でさえ、生き続けて幸せになろうとしている。自分が幸せになっていけないわけ
がない。

「碇くん」

 幸せになりたい。あなたと一緒に、幸せになりたい。幸せにして欲しい。
 彼女はそう言おうとした。だが、言葉にはしなかった。

「どうしたの?」
「ううん、なんでもない」レイは首を振った。「伝えたいことは、言わないで残しておく
の。そうすればきっと幸せになれ……生きていけるから」
「……それって、ちょっとずるくない?」
「碇くんが教えてくれたのよ」
「わかった。聞かないでおくよ。僕ももうひとつ綾波に伝えたいことがあるけど、それも
言わないでおくね」
「ずるい」
「ずるくないよ」

 夕陽が二人の頬を照らす。
 見つめあい、笑顔を交わし、互いの想いを心の中で繰り返す。
 思わず染めた頬は、夕陽に隠されて見えない。

end


 この作品は、谷甲州、堀晃、野尻抱介、その他のSF作家の方々の作品を参考にし、一部
をパクらせて頂きました。
 特に、地球外文明を発見した後の対応――ポスト・ディテクション・プロトコル――に
関するSETI研究者による草案は、野尻抱介氏の著作「太陽の簒奪者」からパクらせて頂き
ました。このプロトコルの日本語訳は
http://homepage3.nifty.com/iromono/kougi/ningen/node38.html
にあります。
 以上、記して感謝いたします。

 この作品はフィクションであり、あらゆる物理法則とは無関係です。


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