教室の扉を開けると、廊下から冷気が沁み込んでくる。

 チェロケースを背負い直すと、冷たさにため息が漏れる。

 かすかに曇る吐息は、すぐに拡散して消えたけど。

 気づけば冬が近い。

 地球が温暖化してるなんて前世紀から言われているみたいだけど、それでもやってくる冬は鬱陶しくて待ち遠しい。

 先日冬服に替えたばかりかと思っていたら、もう夏服を着ていた頃が懐かしい。

 

 廊下にはもう誰も残っていなかった。

 ひとつだけ開けっ放しの窓が風に揺れて神経質な音を立てている。

 真っ直ぐ帰る気にはなれず、立ち止まる。

 かたかた、かたかたと風が吹くのと一呼吸置いた音は、風切り音が聞こえるここでは更に心に障る。

 西向きの窓には真っ直ぐに陽射しが届き、視界一面を紅くする。

 遠くから聞こえる部活動の声が、BGMにもならないくらい別世界の音になる。

 

 「あれ、シンちゃんどうしたの?」

 「ん?

 何となく外見てただけ」

 後ろから声をかけられて、振り返りもせずに応える。

 窓の桟にかけた手は徐々に温もりを奪われて、耐え切れずに放した。

 「もうアスカと帰ったのかと思ったけど」

 「アスカは委員長と甘いもの食べに行ったよ

 僕にはあれに付きあうだけの根性がないから」

 甘いものは別腹っていうけど、モノの例えじゃなくて本当なんだと思い知らされる。

 いくら幼なじみと言っても、そこまで付きあう義務もない。

 「んじゃ、わたしと帰ろうか」

 彼女、綾波レイはそう言って髪を揺らした。

 

 

 

 

 「アスカと一緒に行かなかったって事は、シンちゃんは甘いもの嫌い?」

 プラチナブルーの髪が陽の光を浴びてアメジストの紫色に輝く。

 乾いた足音にアルトの声が映える。

 「そんなことはないよ

 むしろ好きなくらい

 だけど、アスカの『甘いものが好き』っていうのは、僕のと次元が違うから」

 僕が苦笑するのを見たのか、綾波は可笑しそうに笑う。

 「なんか、アスカとシンちゃんって仲良くて羨ましいな

 ……付きあってたりはしないんだよね?」

 思わず呼吸するタイミングを間違えてしまって、咳き込む。

 笑いながら彼女は背中を摩ってくれたけど、目は笑ってない。

 そのまま、僕の回答を待っている。

 「付きあってるってわけじゃないけど……

 でも、今更変わったりしない程度には永い付合いだよね」

 「シンちゃん、それ答えになってない」

 綾波が呟くのが聞こえたけど、あえて聞こえない振りをした。

 長い影は、僕らが歩き出すのを待っていた。

 

 「じゃぁ、付きあってるかどうかは今度にしてあげる

 その代わり、ちょっと付きあって欲しいことがあるんだけど」

 歩き出した僕の手を取って、綾波が言った。

 「無茶なことじゃなければ良いよ」

 この答えはアスカとの付合いのなかで学んだ。

 手段が目的になってる人だと、途中で手段自体を楽しむ為に結構無茶なことをする。

 特にアスカは。

 綾波にも似たような匂いを感じる。

 「まぁ、そこまで無茶じゃないわよ

 シンちゃんにだってきちんとメリットのある話だから」

 だから、ね? と目で訴える彼女に、ため息を交えながら僕は頷いた。

 きっと、頬は緩んでいたと思うけど。

 

 

 「あがって

 荷物とか、適当にリビングに置いてくれて良いから」

 そう言われても、初めて入る家で何処に何があるか判らないのに。

 案内されたリビングは文字通り『リビング』といった感じで、テーブルにソファ、それにテレビなんかが並んでる。

 ソファに座っていいのか考えているところに綾波が戻ってくる。

 「まだ鞄も持ったまま?

 これは適当に置いて、それから……付いてきてね?」

 僕の鞄をソファの横に置いた彼女は、部屋の入り口で僕を待っている。

 どうやっても逃がさないつもりらしい。

 チェロのケースをそっと置いて、僕は彼女を追う。

 素直についてきた僕に満足したように頷いて、手を引いた。

 

 

 


 

甘いものはお好き?

                かいたひと:てらだたかし@illusion laboratory

 


 

 

 

 「はいこれ」

 渡されたのはエプロン。

 すでに彼女は制服の上に身に付けていて、つまり僕に付けろと言うことなんだと思う。

 「汚れちゃうよ?」

 そりゃぁ、そうだろう。

 もし僕がこれから料理するならば。

 でもここは自分の家ではない。

 たまに使うことになる、アスカの家のキッチンでもない。

 そもそも、料理をする理由がない。

 最近判ってきたことだけど、綾波って結構唐突に話が切り替わったりする。

 それについていくのは、大変。

 本屋で手当たり次第にとった小説の、適当に開いたページから読み始めるようなものだ。

 手がかりを求めて、彼女の次の言葉を待つ。

 「そのままでも良いけど……

 お菓子作るのって粉立つから、付けた方が良いと思う」

 そこまで聞いて、何となく話が読めてきた。

 「つまり、これからお菓子作りをすると。

 僕は綾波の手伝いをすれば良いわけ?」

 言葉と態度の断片を繋ぎ合わせて、浮かび上がってきたパズルの様。

 「そういうこと」

 満足げに頷く綾波に、僕はため息をついた。

 

 「そうため息なんか付かないでよ。

 良いもの見せてあげるから」

 ごそごそと冷蔵庫の奥から取り出したのは、ガラスの瓶。

 中に入っているのは、ヨーグルト?

 「私の特製ヨーグルトの素

 言ってみれば、私の乳酸菌ってところね」

 「綾波の……乳酸菌?」

 何か変な感じ。

 「何よ、その顔は

 私しか持っていないヨーグルトの種だから、私でなきゃ出せない味が出せるってものでしょう?」

 その点は納得できる。

 「だから、今回は使いたかったの」

 「ところで……」

 得意そうにまとめる綾波を伺いながら、問う。

 「何を作るの?」

 「ん〜ケーキかな、やっぱり」

 何がやっぱりか判らないけど、楽しそうな彼女に茶々を入れる気にはならなかった。

 明るく開放的なキッチンに風が吹込む。

 季節を感じさせないくらいに明るく、暖かい風。

 

 

 時間が過ぎるのは早かった。

 外はもう暗く、空気はひんやりと温度以外に湿度すら感じさせるようになって。

 ま、まぁ、いろいろあった。

 塩と砂糖を間違えるくらいは普通にやって、タマゴの黄身と白身を分ける前に丸ごと潰してみたり、電動泡立て器が暴れて慌てて放してしまったり。

 苦笑しか漏れない。

 いっそ、粉塵爆発がなかっただけ良かったとするべきなんだろうか。

 文字通り彼女のエプロンは粉だらけになって、水色のエプロンは元々水玉模様だったかと思うくらいだ。

 鼻の頭に生クリームが付いているのはお約束かな。

 む〜って感じに難しい顔をして味見している彼女の肩をポンとたたく。

 「今日はこれくらいにしない?」

 「そうね……

 うん、練習すれば、私だって美味しくケーキ焼けるようになるかな?」

 さっきまでの奮闘ぶりから一転して、こちらを伺うように呟く綾波の頭をそっと撫でる。

 「大丈夫

 誰だって、最初は出来ないんだから

 だから、誰だってやれば出来るよ」

 小猫のように手に頭をすり付けてくるのを感じながら、このキッチン誰が片付けるんだろうと心の中で呟いた。

 

 

 

 前日にどんなアクシデントがあったって、誰にでも平等に朝がやってくる。

 当然僕らは学校に行かなければならない。

 夜更かししたわけではないけど、神経をすり減らしたおかげで随分と疲れた感じ。

 燦々と輝く太陽が恨めしい。

 いっそのこと、曇ってたり雨だったら良かったのに。

 「おはよ、シンちゃん、アスカ」

 「おはよう、綾波」

 「おはよう レイ」

 昨日の別れ際の綾波の言葉を思い出すと、何と声をかけていいのか判らない。

 曰く「アスカにだけは、このことを話しちゃダメ」らしい。

 綾波の家に行ったことは話しても構わないけど、そこで何をしたかは絶対秘密とか。

 「どうして秘密なのか、聞かないの?」

 「それが秘密なんでしょ?

 僕は自分が秘密を守るのに向かない人間だって、知ってるからね」

 僕は肩を竦めた。

 

 「ところで」

 アスカが綾波に問いかける。

 「昨日、シンジが何してたか知らない?

 コイツ、遅い時間に帰ってきた癖に何してたのか言おうとしないのよ」

 横目で僕を睨みながら、アスカが綾波に聞いた。

 そりゃもう、僕にはプライバシィの権利なんかないと言いたげに昨晩は尋問されたんだから。

 「さぁ?

 シンちゃんにだって秘密のひとつやふたつ、あるんじゃない?

 アスカにだってあるでしょう?」

 綾波のとぼけ方は堂に入っている。

 わずか数ヶ月の付合いだけど、アスカが何度もやり込められたのを見ている。

 それに秘密の無い人間なんか、いない。

 親しいから知っていることもあるけれど、親しいから隠しておきたいこともある。

 アスカ自身にもそういうところがあるのを判って、そう言ったんだろう。

 悪戯っぽく微笑む綾波の表情にアスカは頷いた。

 苦々しく。

 「そりゃぁ、そうだけど……」

 そして見せるのは寂しげな表情。

 俯き加減の顔がそう見えたのは、陰影のせいだけじゃない筈。

 「じゃぁさ……いつか、教えてくれると嬉しいな」

 アスカに向かって差し伸べかけた手を、開いて握り締める。

 こんなこと言われてしまっては、ホントに心が痛む。

 ちらりと綾波を見ると、釘を刺すように僕を見てる。

 「そうだね、そのうち教えるね」

 角を折れたところで綾波が「合格点」と言いたげに頷いていた。

 

 

 

 お菓子作り教室は、毎日続いた。

 雨の日も風の日も。

 最初はクッキーかな?ってくらい膨らまなかったスポンジも、今ではふっくらと柔らかくできる。

 お菓子、特にケーキは1人で食べるには多い。

 だから自分で楽しむ為だけだったら、クッキーとか日保ちのするものを選ぶんだけど。

 どうして綾波が『ケーキを作りたい』って言ったのかは知らないけど……

 泡立て器と格闘する彼女を見ると、そんなことはどうでも良くなる。

 彼女が額から汗を流しながら何かしている表情なんて、中々ないよね。

 

 「どうかな?」

 暗くなった外を気にし始めた頃、綾波が声をかける。

 エプロンの胸にお盆を押しつけて、落ち着かない視線が僕の顔と手元を往復する。

 ヨーグルトケーキと普通のスポンジを交互に重ねて、酸味と甘味を演出。

 トップはドライフルーツとソースでシンプルに仕上げて、ぱっと見た感じはタルトに近い。

 「良いんじゃない?

 少なくとも見た目は」

 ポイントをチェックしながらコメント。

 味も物理的にも重量感のあるヨーグルトケーキを薄くスライスするのとか、練習あるのみだし。

 自分だったらこうするかなっていうポイントは幾つか見つかるけど、今はそれを口にするようなときじゃない。

 数週間前には想像もできなかったくらい、綺麗に出来ている。

 「んじゃ、ちょっと味見しましょ?」

 てきぱきと片付けて、紅茶のカップと作ったばかりのケーキが2皿。

 流しに積まれた調理用具の山と片づいたダイニングテーブルのコントラストが微笑ましい。

 

 「召し上がれ」と言ったものの、綾波は自分のフォークに手をつけようとしない。

 そもそもエプロンを外していないって事は、慌てているのか自分が作ったことを忘れない為か。

 紅茶のカップを口につけたままフリーズしたようにこちらを見つめ続けている。

 「いただきます」

 フォークで簡単に切れるくらい柔らかくて、でも刺して持ち上げても形が崩れない。

 口に含むと先に甘酸っぱさが広がって、遅れて甘味がやってくる。

 甘味の方はちょっと重いけど、甘酸っぱさが良い感じにバランスをとっている。

 「良い出来だね、美味しいよ」

 主に、綾波の努力と僕のアイディアに乾杯。

 「ホント?」

 嬉しそうにフォークを取って、ようやく自分の分に口を付け始める彼女を見ていると、ここ数週間の苦労が全部報われたような気がした。

 

 「私もそうだけど、『手作り』って問答無用に美味しいっていうイメージがあるじゃない?

 特に初めて作る人間にとって」

 半分以上減ったカップを指で弾いて、綾波が言った。

 こちらを見ているわけでもないし、独り言かも知れない。

 だけど僕が聞かないといけないことなんじゃないかと思った。

 「だからこそ、美味しく作りたかった。

 『美味しい』って言ってもらって、ホントに嬉しかった」

 幸せが溢れる笑顔は、僕が見た中でも一番可愛い綾波だった。

 

 

 数日間、それまでのことがなかったように、のんびりと帰る事が……できなかった。

 帰りはいつもアスカと一緒。

 トウジに冷やかされようと、ケンスケに写真を撮られようと、もう慣れた。

 今日も一緒に帰ろうかとアスカに声をかけようとしたところで、綾波が呼び止める。

 「シンちゃん、アスカ、ちょっと寄って行かない?」

 「寄って行くって、何処へ?」

 聞き返す僕に、綾波は不敵な笑みを浮かべた。

 「いいところ」

 

 「って、レイの家じゃないの」

 「まぁまぁ、そう言わずに上がってよ

 今お茶を用意するから」

 綾波が促して、僕とアスカはリビングへ。

 最初に来た時と同じ、夕陽が部屋を染め上げる。

 「アスカとこうして並んでソファに座るなんて、あんまりないよね」

 「そうね

 だけど、いつも一緒にいるから不自然さはないわ」

 ゆるく編んだ髪をかきあげて、アスカは微笑む。

 「シンジがこの前まで何してたか知らないけど

 なんだかんだと言っても、一緒にいてくれることは嬉しいな」

 気づいたら幼なじみの女の子ってだけじゃなくて、いろんな意味で一番近くにいてくれる女の子。

 

 「お待たせ」

 そう言って持ってきたのは、あの時一緒に作ったケーキ。

 また幾つか工夫が見られるけど、基盤になってるのは間違いない。

 「わ、美味しそう」

 フォークを探すアスカに、綾波が手渡す。

 「ちょっと遅れちゃったけど……」

 綾波がそう前置きして、アスカを見る。

 「誕生日、おめでとう アスカ」

 眼を見開いて、綾波を見つめ返す。

 「ありがとう レイ

 でも、どうして知ってたの?」

 悪戯がバレた子供のように、髪をかきながら綾波は言った。

 「洞木さんに聞いたから

 あと、当日はシンちゃんとラブラブしたいでしょ?」

 「ら、ラブラブって」

 「照れない照れない」

 ひらひらと手を振って、綾波がアスカをいなす。

 強い。

 「引っ越してきたばかりで、不安だった時に一番良くしてもらったのがアスカだったから

 だから、誕生日にはきちんとおめでとうって言おうって思ってたの 

 黙ってたけど、シンちゃんに教えてもらったし」

 「ふ〜ん……まぁ、美味しそうなケーキだし、その健は不問にしてあげるわ」

 ケーキを口にしながら、アスカは満足なのか不満なのか判らないような表情を見せる。

 

 「言っとくけど、シンジはあげないからね」

 フォークを口にいれたまま、アスカが綾波に言った。

 宣言する、というのに近い。

 「ん?

 お菓子作りとか手伝ってもらって、わたしたちの仲も前進したような気がするけど?

 ね、シンちゃん」

 いつの間にか僕を挟んでアスカの反対側に座る綾波が、そっと僕の手を握る。

 それを見たアスカの表情が険しくなるのを見たけど……綾波は放そうとしない。

 「シンジ、あーん」

 ケーキを一切れフォークにさして、僕の口元に寄せるアスカ。

 当然、さっきの綾波と立場が逆転する。

 「ほら、早くしないと落ちちゃうって」

 楽しそうにアスカは言って、綾波がそれを止めようとする。

 

 「僕って、誰の所有物でもないけど……」

 多分、僕の呟きが二人に届くことはなかった。

 年の瀬まであと少し。

 少なくとも不幸じゃない現状は、きっと暫く続くんだろうと思った。

 

 おしまい

 

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