書評:「ミルフィーユ」/史燕
2022.12.04

「マスターという生き方」

 史燕氏の手による、いわゆるマスターものである。ウェブサイト「松柳庵」にて公開済みの作品も多く、ご存知の方もいらっしゃると思う。既にこの舞台装置はスタンダードなものとなりつつあり、三次創作なども発表されている。設定そのものが時空を超え多くの世界線に馴染みやすい。かく言う私もこの店でかつてバイトをしていた女の子が出てくる話を書いたことがある(未完成未発表)。

 物語の中での行きつけの喫茶店(あるいはそれに類似する店)とそのマスターという存在は比較的普遍的で、今思いついただけでも仮面ライダーをはじめ750ライダーやワイルド7など枚挙に暇がない。だいたいそういう店では主人公が行くといつものメニューが出てくることになっている。そう、主人公が行くと、だ。つまりマスターを主軸に置いた作品というのは意外に少ないのではないか。

 マスターは出生に秘密があるわけでも特殊な能力があるわけでもなく、徹頭徹尾、完全にごく普通の市井の人間として描かれている。
 これは戦闘中、敵に「加速装置の他に何があるのか」と問われ、「あとは、勇気だけだ」と答え切ったサイボーグ009 ――島村ジョウ(ジョウだ)を想起させる。彼がこう答えられること、ここがアルフレッド・ベスターの「虎よ、虎よ!」との決定的な違いだと個人的には思う。つまり精神性である。

 物語の多くは、このフルネームすら明らかではないマスターの一人語りで淡々と進む。
 マスターの年齢は、概ねミサトの父親――葛城博士くらいだと類推できる。彼はその人生で得た経験と知識のみを武器に生き抜いている。作中の例えばシンジとレイのゲロ甘レベルはその天然さ純朴さとも相まって読者(常連)を発狂寸前に追い込むほどであるが、それさえもブラックコーヒーで乗り越えられる。

 これはどういうことか。

 つまり、生きる勇気、ということになるのだろう。妻子を失ってなお、誰かのためになりたいという想いは何なのか。つまるところ、周囲の人々が幸せでなければ自分も幸せにはなれない、満足できないと気づいてしまったということだ。だがその想いは社会を飛び越えて直接的に世界平和――あるいは破滅――に結びついたりはしない。マスターはあくまで市井の人物だからである。
 そうして生き抜く人生にどれほどの価値があるか、多くの人は理解できるだろう。世の中はそのような名も無き人々――何者にもなれなかった人々によって支えられている。マスターのフルネームも、喫茶店の店名すら明らかにされていない点に、もう一度留意して欲しい。

 さくらの花は散ったとしても、春はまた来る。少しずつ変わりながら、変わらぬものを残しながら、絶え間なく続くクリシェ。
 マスターは、マスターの店と共にこれからも生き抜き、続いていくことになるだろう。
 いらっしゃいませ、の声は移りゆく時と共に変わってゆくかもしれないけれど。
 カランカラン――とドアベルの音を響かせながら。

 本書籍は11/16に完売済となっている。ウェブ再録、または電子書籍化を待たれたい。

 23.1.12追記:電子書籍化されました。下記特報最下部からどうぞ。

「ミルフィーユ」特報

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