2003年7月〜9月の日記
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9月23日

 いい話を読みたいという欲望と、いい話を書きたいという欲望は、少なくとも私にとってはほぼ等価である。

 細かい経緯は省略するが、エヴァンゲリオンという作品を見て、これはもうちょっと何とかならんものかと思い、何とかなってる二次創作を探しはじめた(そもそもこれが間違いの始まりのような気もするが)。言うまでもなく、これは私にとって何とかなってるということであって、一般的に言う優れた作品とは若干意味合いが事なる。基準は私である。その意味での何とかなってる作品には意外と巡り会うことはできず、こりゃあ自分で書くしかないかなと思いはじめた頃、とある作品に出会った。これは一般的に言う優れた作品でもあったと思う。あとはリンクをたどって、芋づる式に何とかなっててかつ優れた作品に出会うことができた。もちろん何とかなってるんだけどいまいちとか、優れてるのかもしれないけど何とかなってない作品にも出会った。

 まあそれはいい。

 何とかなってて優れた作品に出会い、それで補完されてしまえば良かったものを、じゃあ俺も書こうと思ってしまったのが運の尽き。間違いその二(笑)。

 ということは、いい話を読みたいという欲望といい話を書きたいという欲望はほぼ等価、なんて言いながら、もしかすると書く方がやや優先なのかもしれない。しかし、書いてもいいけど読んじゃいかんというのと、読んでもいいが書いてはいかんというのとどちらか選べと言われたら、ためらわず後者を選ぶ。かように私の作家としての欲は低い。
 そんなんだったら書かない方がいいんじゃないのかと言われればその通りなのかもしれないが、だから書いてはいかんということにはなるまい。

 時間は有限である。自分の執筆時間を削って投稿作品を読み、ある種の作品には赤ペンを入れ、誤字訂正その他の作業をするのは書くのと同じくらい楽しいからであって、だから自分のを書く時間がないんだよという言い訳は――この時点でしてるような気もするが(苦笑)――しない。沈黙するのみである。
 こういうことをするのは、何かの作品の内容(あるいは魂)を正しく読み手に伝えるための手助けは私にも出来るのではないかと思っているからで、その作者がいつか内容的にも私の望む作品を書くようなことがあれば非常に嬉しい話であり、つまり全部自分のためである。楽しくなければやらないよ。
 ただし、私の処理能力を超え全く書く時間が取れなくなったら新規受付は停止である。
 たとえ微力であっても、少しでもこの世界全体が盛り上がって、色々な意味でいい作品が一つでも二つでも増えれば、という高尚な気持ちも多少はある。結果的に自分のサイトが相対的に凋落するのは何ら問題ないが、閉鎖に追い込まれるのは勘弁願いたい。そういうことがあるとは思わないが、かように私は勝手である。


 私は「何とかなってる」作品が読みたく、かつ書きたいのであって、無論作品として優れているに越したことはないが、何とかなってることが前提である。何ともなってない作品は全く読みたくないということではないのだが。
 何とかなってるかどうかを判断するのは、当たり前だが読み手であり、つまりこの場合は私である。私はいい意味でも悪い意味でもアマチュアであって、自分の読みたい作品以外は書きたくないし、書かない。評価する人がいようがいまいが関係ない。基準は私である。私は私の道を歩く。実はここに落とし穴がある。



 突然色の話をするのだが、最近投稿作品インデックスのデザイン――と言うほどの物でもないが、他に言葉がない――を変えた。こんな日記などを読んでる人は見てると思う。恐らくほとんどの人は気づいていないか、あるいは大勢に影響ないと思っているのだろうが、小説一覧とCGと作家名のバックの色を変えたのである。当初は、こんな感じでいいんじゃないのーと非常に適当に決めた。私は色彩に対するセンスは皆無に近い。別に違和感はなかった。違和感があれば最初から使わないのだが。
 とある方からメールで、たぶんこういう色の方がいい、という指摘を受けた。そうかいなと思って試しに変えて見ると、なるほどこっちの方がいいように思える。適当に決めただけでこだわりなどあるはずもなく、かっこいい方がいいので、変えた。

 分かってる人は分かっているのだろうが、私のような分からない人にとって、背景色と文字色の彩度やら明度やらがどうであるからこう、という理屈と、じゃあ実際にどういう色を使えばいいか、という実践の間には果てしなく高い壁がある。

 どんな世界でも理論なんて後付けである。感覚あるいは事実を系統立てたものが理論なのであって、理論を知らなければ作品が作れないというのは話が逆である。音楽理論を知り尽くし、各種スケールをマスターしたからと言って素晴らしい音楽が作れるわけではない。しかし、感覚が薄い人にとって、理論は強力な手助けになる。

 ある種の人々にとって黒バックに白文字は全く読めないとか、青バックに白文字はいかんとか、クリックすると赤くなるのには怒りすら覚えるとか、ページによってリンククリック時の色が違うのは許し難いとか、そういう事実あるいは感覚というのは想像の範囲外であった。学習というのは大事である(しかし青バックに白文字がダメとなると、投稿作品インデックスもダメなんだが、あれも青に入るのだろうか)。

 自作の小説については、メインの話はこのバックという考えはあって――当然それも何となく決めただけなのだが――二次創作インデックスの背景色はそれに合わせた。
 個人的には白バックに黒文字よりも黒バックに白文字の方が好きで、心はマックユーザーとか言いながらもMS-DOSで育ち空きメモリをいかに640kに近づけるかに喜びを感じていた過去を露呈してしまうのだが、実際に黒バック白文字だとアングラっぽくなりすぎるような気がして避けた。なので基本は暗い背景に白い文字であるが、その程度の話である。

 幸いにも多くの方から多くの作品を投稿していただいている。作者によってスタイルや雰囲気はそれぞれであるし、同じ作者であっても作品によって雰囲気は異なる。
 雰囲気のことを「色」などと言ったりするが、ややこしくなるので以下「色」といったら色のことであって雰囲気のことではないと解釈していただきたい。
 投稿していただいた作品がhtmlになっていれば、たいていは背景色文字色の指定はしてある。その指定が読みにくいものでなければそのまま使う。それも作者のメッセージであると思う。一応256色環境でのチェックもする(256環境の人も無視できるほど少なくはない)。テキストで投稿された作品については、それらしい色を適当に選んで(ある程度デフォルトの組み合わせがある。無論私が勝手に決めたもの)、これでいかがでしょうと聞いてみる。これダメと言われた覚えはない。これダメと言えるような人は最初から指定してきてるのだと思うが。

 結果的に、作品ごとに多種多様な色が使われていることになり、トータルで見てサイトとしての統一感はない。私自身は全く感じないが、全体として派手であるという指摘もある。これを派手と感じないようではお前の色彩感覚はどうかしてると言われれば、そうですねと言うしかない。恐らく事実であろう。
 多様な作品群に統一感がないのであるから、色彩に統一感を持たせるのは、無理とは言わないが非常に困難であると思う。作品にあった色で、かつサイトとしての統一感のある色を選ばねばならない。私にそんな能力はない。が、こだわりがあるわけでもないので、こういうのはどうでしょうと言われてそっちの方がいいと思えばそうする。トップページにこういう色使いをすれば個々の作品の色がバラバラでも全体的な統一感が出るでしょうと言われれば、とりあえずやってみる。が、現時点ではトップがみっともないとは思わないし、そもそもサイト全体としての色の統一感が取れているというのがどれほど素晴らしい状態なのか良く分からんので、あんまり積極的にはなれない。
 いいですか。各作品の内容そのものには全く統一感がなくて、でも色彩を工夫することによってサイト全体としては統一感があるんですよ。そんなことが私にできるとは思えないんですけど。
 ま、とりあえず色の本は買ってみようかなと思っている。

 実際、エヴァ関連に限らずいろんなサイトを見ているが、これは色彩的に素晴らしいと思うサイトにはほとんど巡り会ったことがない。つまり、多少色彩的に優れていなくても、優れているところと比較すれば優れているほうがいいとは思うのかもしれないが、別にいいんじゃない? くらいにしか感じないということである。

 ここは原則としてはテキストサイトであって、内容で勝負である。かっこいい(爆)。とはいうものの、内容で勝負と言う以上は読んでいただいてなんぼであって、内容以前にこんな色使いのサイトの作品など読んでいられるかという話になれば、あ、ちょっと待って下さい今すぐ直します、ということになるのである(笑)。繰り返すが、ここは原則としてテキストサイトである。つまり背景色文字色はテキストを引き立たせるためにあるのである。色彩をアピールしたいわけではない。こんな色じゃ読めねえとなれば虚しいので、だからテキストを読んでもらうために色彩を学ぼうと思うのである。
 美しいに越したことはないが、優れた色彩でユーザーを引き付けようとは思わない(これはユーザビリティの話ではない)。見せたいのはテキストであって色ではない。

 が、しょせん基準は私であって、数冊の本を読んだくらいで優れた色彩感覚が身につくとは思えない。当たり前である。現時点で何がダメなのか全く分かっていないのである。道は長い。



 読者の環境は多種多様である。今この文章はザウルスで書いているが、ブラウザで表示できるのは横18文字である。文字サイズを小にすると22文字。エディタでは18文字と27文字であるが、書きやすさの点で、文字サイズ小の27文字は実用的ではない。
 あらゆる環境で見やすくするというのは不可能に近く、どこかで無理が生じる。PDAや携帯はやむを得ないにしても、デザインを考えるとき、横幅640でも横スクロールは発生しないようにと考えていた。が、今回のデザイン変更で、横640の方は一部のページで若干の横スクロールが発生することになった。html技術的及びデザインセンス的にどうにもならなくなって、横を700に規定したのである。何かいいアイディアが浮かべばいいのだが、当面はこれでいくつもりである。

 小説本文では整形をしていない。テ
キストで横スクロールが発生するのは
論外にしても、
整形くらいはしてもいいような気がす
る。想定よりも低い環境で読むと、例
えば横40文字で整形された文章を横
17文字環境で読むとこのように表示
される。これ
を看過するかどうかなのだが、個人的
には却下である。つまり俺が俺の作品
をザウルスで最終チェックするときに
見苦しいのはストレスがたまるという
ことなのでや
らないのだが、私とて整形することに
よって得られるメリットは認識してお
り、つまり怠慢なのである。まぁしか
し、高解像度
環境でブラウザを最大化して見るメリッ
トもないと思うし、実際にそういう人
も少ないような気がするので、今しば
らくは適宜見
やすいようにサイズを変更してご覧い
ただきたい。

 話が拡散しているように思えるかもしれず、実際に拡散気味ではあるが、色の問題もテキスト整形の問題も、どうやったらより多くの人により読みやすく快適に読んでいただけるかという話なので、一貫しているのである。
 しかし、テキストが主題であることには間違いないので、整形はともかく、色彩に力を注ぐあまり文章を書く暇が無いというのではアホだし、前述のような理由で、サイト全体に統一間を出すことは、少なくとも当分の間は無理である。なので、こんな色使いのサイトは見たくないと言う方には、残念ながら当面はお引き取り頂くしかない。これは、こんな下手くそな文章読んでられっかと言う方に対して、そんなこと言わないで読んで下さいよと言わないのと同じである。残念だが力が足りないのでしょうがない。



 基準は私である、というのは実は微妙な話であって、私というのは日々変化するものであり、変化するべきだと思う。
 私が自分の作品に対して「これダメ」という判断を下すのは自由だと思うが、「これはいいんだオレがいいって言ってんだからいいんだ」っていうのはちょっと違うかなとは思う。文章的に、これはこうするといいんじゃない、と言われてそうかいなと思えば変える。思わなければ変えない。色使いと同じ事で、青バックに白文字はダメだからこういう色はどうだと言われて、おーいいと思えば変えるが、読みにくいとかかっちょ悪いとか作品にあってねぇだろと思えば変えない。

 これはで基準は俺だとか言いながら実は基準もくそもないのではないかと思う。ただ何となく決めているだけでは基準じゃなくてカンである。他に方法がないので仕方がないという側面もあるが。

 例えば。

「大きな栗の、木の下で」

 という文章を示された場合、ほとんどの人は「大きな」「栗の木」を連想するはずである。もう一度冷静に良く読んで欲しい。それでも「大きな」「栗の木」しか連想できないあなたも、無理にでも他の解釈を捻り出して欲しい。

「小さなレイの、翼で」

 これを読んで「小さな」「レイの翼」を連想する人はほとんどいないと思う。無論それが正解であって、これはちびレイの翼である。「小さな」はレイにかかる(必然的に翼も小さいと思われるが)。

 この二つの例文の構造は同じである。つまり先の例文は「巨大な栗」の「木」と解釈するのが、一応は正しい。「大きな」「栗の木」であるなら、

「大きな、栗の木の下で」

である。普通のレイ(笑)に小さな翼がついているなら、

「小さな、レイの翼で」

である。レイの小さな翼と書けと思うだろうが、そういう話をしているわけではない。

「大きな栗の、木の下で」

 は、「巨大な栗」の「木の下」であると解釈すべきであるのに、多くの人が「大きな」「栗の木」と感じるのは、ふたつ理由があると思われる。まず童謡の解釈が身体に染み付いているということ。もうひとつは「栗」と「木」の言葉同士の結び付きが強いためだろう。つまり「栗の木」という単語だと解釈するのである。「大きな栗の木」と言われて「巨大な栗」を想像する人は少数だと思うが、「大きな鎖鎌付きマヤ」と言われて大きなマヤを連想する人はいないと思う(例が悪いという気はする)。

 文節は直後の文節にかかりやすいと言われている。なので、普通は「大きな」「鎖鎌」と解釈するだろう。「大きな栗の木」なら「大きな」「栗の木」である。しかし上の例文、童謡の影響を排除するために一部を削除すると、「大きな栗の、木」であって、これで「栗の木」と解釈するのはまずい。なんでわざわざ「、」を入れているのかを考えなければなるまい。

 もうちょっと普通の例を出そう。

「シンジは泣きながら立ちすくむレイに駆け寄った」

 泣いているのはシンジなのかレイなのかという話である。たぶんシンジでいいと思う。

「シンジは、泣きながら立ちすくむレイに駆け寄った」

 これならレイだろう。

「シンジは泣きながら、立ちすくむレイに駆け寄った」

 これならシンジ。

 まぁこの辺の話は後日まとめて「文章はこう書くんじゃオラ」とか題して書くつもりであるので、しばしお待ちいただくか、適当な本を読んで勉強していただきたいのだが、何が言いたいのかというと、泣きながら立ちすくむレイにシンジが駆け寄るというシーンを書きたいのにもかかわらず、

「シンジは泣きながら、立ちすくむレイに駆け寄った」

と書いてしまう場合があるであろうということである。書いてる本人は意味が分かって書いているので誤読などあり得ない。なので、「シンジは泣きながら、立ちすくむレイに駆け寄った」を読んでもレイが泣いていると解釈してしまうのである。推敲というのは誤字脱字の修正だけじゃなくてこういう所を直すんだよと強く言いたい。

 それはともかく、こういう文章を書いて、「基準はオレだ、オレがこう書いてるんだからこうなんだ。文句あるか」と言われると、文句ありますと言うしかない。

 つまり「基準は私である」というのと「思い込み」を誤解してはいかんということなのだ。やっと話が戻ったぞ。

 私は私の書きたい話を書く。具体的にはレイが幸せな話で、これは好みの問題なので文句がどうとかいう次元の話ではないと思うが、こういう幸せはどうなんだとか、こういう展開にするともっと幸せとか、そういう部分に目を閉じているのはもったいない。ゲンレイだけは頼むから勘弁して欲しいのだが(^^;)。

 色彩の話も整形の話も同様であって、オレがいいって言ってんだからいいんだよじゃなくて、作品を読んでもらうために、より望ましい方向を模索するべきであろうということである。

 でもね。サイトの雰囲気はテキストに決定して欲しくて、色で印象づけたくはないのよ。テキストサイトだからね。じゃあ全部白バックに黒文字にせいと言われるかもしれないが、そこはひとつ程度問題ということでいかがなものでしょうか。

 それにしても異様に冗長な日記でしたな(爆)。何人くらい読んでるかなぁ。


9月3日

 掲示板の内容と若干かぶりますが、ご容赦を。

 とりあえずトップをいじるのは止めにして、話の発端である投稿作品インデックスをいじりました。
 これも別窓で開きます(ファイル削除済みにつき現在は開きません)。

 http://tamb.cube-web.net/cont/cont_index_test02.htm

 現時点で約一名の方から「良いんじゃないですか?」というコメントを頂いたので、これで行こうかなと。

 「最新」のリンクからは作品に直に飛びます。で、現時点では作品から「投稿作品に戻る」をクリックすると、投稿作品インデックスの作者ごとの部分に飛ぶんですが、これ、やっぱ分かりにくいですよね。やめる方向で検討中。作者ごとの一覧を最新の直下に作ったので、そこから飛んでもらおうと。で、一覧から作品に飛んだ人は、ブラウザのバックボタンで戻れと。
 更新履歴からはどうしようか悩みどころ。投稿作品の最新の部分に行くか、作品に直に行くか。今のところ、作品には飛ばないつもり。もう一回だけクリックしてもらえませんかね……。

 問題もいくつか。私のコメントがほとんど読まれなくなること(爆)。まぁこれはどうでもいい。
 コメントは目次にも書いておけという説もある。うーむ。

 ご意見、お待ちしてます。


8月31日

 迷子が続出している模様の投稿作品インデックス(^^;)。やはり下らんこだわりは捨ててトップに履歴を持ってくるべきか。ということでサンプルを二つ。

 別窓で開きます(ファイル削除済みにつき現在は開きません)。

http://tamb.cube-web.net/eva_index_test01.htm
 これが直に書いた奴。

http://tamb.cube-web.net/eva_index_test02.htm
 こっちがインラインフレームを使った奴。

 下の方は全体の幅を規定してあります。
 あくまでもサンプルなんで、クリックすると結局は投稿作品インデックスに飛ぶんですが(^^;)、まぁそれはそれということで。実際に使うとなったら、直接作品にリンクします。トップにある以上はショートカットになってるべきだと思ってまして、インデックスに飛ぶんじゃショートカットになってないですから。

 ちょっとはマシですか?

 つか、この方法で行くならトップページそのもののデザインを考え直さないといかんかもだなぁ。

 掲示板、あるいはメール にて、ご意見、お待ちしてます。この手のセンス、皆無なんです……。


8月29日

 本日は業務連絡。

 「投稿作品」をいじりました。要するに冒頭に更新履歴を付けたと(苦笑)。

 本日アップしたクロミツさんの「夏祭り」を例に取ると、「投稿作品」冒頭にある「夏祭り」をクリックすると、「投稿作品」内の「夏祭り」の所にいったん飛びます。そこで再び「夏祭り」をクリックすると作品に行けるんですが、作品内で「投稿作品に戻る」をクリックすると、「夏祭り」には戻らずにクロミツさんの先頭に戻るのですな、これが。ちなみに更新履歴から飛ぶ場合でも「投稿作品」内の「夏祭り」に行くので(冒頭ではない)、そこから再びクリックすることになります。

 とまぁこのように異様に難解になっておりまして、はっきり言ってユーザーは迷子になるような気がしてならないのですが、

いったいどうしたらいいんだー!!

 ご意見お待ちしております。
 どーしたもんすかねぇ。


8月20日

 二周年である。それは間違いなく有り難いことではあるが、ある意味では二周年なんてだらだら続けていれば勝手にやってくることであるとも言える。生きてさえいれば。だから大事なのはその二年間の間に何をしてきたかであって、二年間という月日そのものに意味はない。生きて来れたことには価値があるとは思う。そしてこの二年間、生きて何をしてきたか、と振り返るには、二年という歳月は余りにも短すぎると思う。まだ二年。先は長い。特に何もしてこなかったことに対する言い訳と受け取って頂いても構わない。

 しかし、去年の今ごろはもうすぐ二万ヒットなんて言ってたことを考えると、すごく長い時間が過ぎたような気がする。人間の持っている時間は無限ではない。大事に、かつ大胆に使いたいなと思う。

 おかげさまで投稿作品が順調に増えてきている。はっきり言って投稿作品の目次はボロボロ状態で、私もそれは認識している。近い内になんとかしたいとは思うが、どうすればいいのか良く分からん。良く分からん時は適当にいじってると、こんな感じ〜みたいなアイディアが出たりもするが、適当にいじってる時間がなかなか取れない。適当にいじるってのは、こうしようって目的がある場合と違って、異様に時間がかかるのですよ。


8月19日

 君の喜ぶ姿を見たいと思う。君の笑顔を見たいと思う。
 でも、それは僕の願いでしかなく、君の想いとは無関係であることも、僕は知っている。
 だから僕は苦しむ。苦しむのならして欲しくないと、君は言うかもしれない。
 苦しんでまで、なぜそんなことをするのかと。
 だとすれば、僕はどうしたらいいのだろう。

 なんちて(爆)。


7月25日

――――

「久しぶり!」

 かつて聞き慣れた、元気で、それでも記憶より少し大人びた声が、僕の背中越しに聞こえた。
 振り向くと彼女の笑顔があって、僕は軽く手を上げてその声に応えた。

「変わんないね」
「やだ、変わったわよ。もうおばさんだもん」

 彼女はそう言って僕の腹をぽんぽんと叩いた。

「このたるんだお腹と同じくらい、あたしも歳をとったのよ」

 僕は苦笑するしかない。確かに彼女の言うとおりだった。僕も彼女ももう十四歳ではなくて、若さと引き換えに得た経験や苦労が顔に表れていた。

「いこ。コンサート、はじまっちゃうよ」

 彼女はそう言って僕の腕をとった。十四歳の頃こんな風に出来なかったのは、お互いに意識し過ぎていたからなんだろうか。
 あの頃、こんな風に自然にいられたら、僕たちはどんな風になっていたのだろう。
 僕は彼女に引っ張られ、歩きだした。


 ステージの上の、僕たちよりはるかに年上の彼らは、まだ充分に不良少年だった。


 コンサートが終わって食事を済ませ、僕たちはホテルのバールームにいた。

「急に電話なんかくれるから、びっくりしたわ」

 彼女は、何とかというよく分からない名前のカクテルを一口飲んで、そう言った。

「チケットが手に入ったんでね。プラチナだぜ」

 僕はバーボンのロック。今日の音楽にはふさわしいような気がした。

「一人で行く気にはなれなかったし、無駄にもしたくなかった。相変わらず友達は少ないからね。それに……」
「それに?」
「いや、なんでもない」

 会いたいと思った、とは言えなかった。

「あなたは、クラシックしか聞かないのかと思ってた」
「どうして?」
「……なんとなく」

 沈黙が流れ、僕は何を言ったらいいのか分からなかった。
 彼女と会うのは何年ぶりだろうか。十五になった時には、もう一緒にいなかったような気がする。

「何を見てるの?」

 僕はじっとグラスを見てる自分に気づいた。こういう時は何か気の利いた、少し面白いことを言わないといけない。もういい大人なんだから。僕は前に読んだ本の中のセリフを記憶の中から手繰り寄せた。

「……永遠を見ていたんだ」

 彼女は僕の顔をまじまじと見て、それから吹き出した。

「イタリア人かしら?」

 その言葉で、彼女も同じ本を読んでいることが分かった。僕は苦笑いを浮かべてバーボンを飲み干し、同じものを頼んだ。彼女にからかって欲しかったのかもしれないと、ふと思った。

「結婚は?」

 彼女の左手の薬指を視界の隅に入れ、僕はさりげなくそう聞いた。

「したわよ。一回」
「別れたの?」
「うん。一年と持たなかったわ」
「そうか……」
「つまんない話よ。一緒に暮らし始めると、付き合ってた頃とは別人のように思える。お互いにね」
「……」
「あなたは?」
「俺は独りだよ。ずっとね。ま、気楽なもんさ」

 彼女は少し驚いた顔をした。

「あなたも自分のこと、おれ、なんて言うのね」
「普通だと思うけどな」

 僕はポケットから煙草を出して、火をつけた。

「いいおっさんだからね」
「煙草なんか吸っちゃって」
「想像もつかない、か」
「そうね。……でも」

 彼女は言葉を切った。

「いい年の取り方をしているような気がするわ」

 僕はまた苦笑いで応えた。

「あの頃のあたしが今のあなたに会ったら、きっといちころよ。素敵なおじさまって」
「からかうなよ」
「ほんとよ」

 僕は不意に、一人になりたいと思った。

 手洗いに立つ振りをして取って来た部屋のキーを、ポケットの中で握り締める。彼女も気づいているだろう。もう子供じゃないのだから。

 そして、そのキーが無駄になることにも気づいている。僕も、そして彼女も。


7月18日

 割といい調子で日記を書いているような気がしていたのだが、もう七月も半ば過ぎである。こんな風にぼーっとしてたら、あっという間に寿命が尽きる。

 一般論として、格闘技では目潰しと金的攻撃は禁止である。失明してはしゃれにならないし、金的がつぶれてもしゃれにならん。現在は日本における柔術の第一人者である修斗の中井氏は、相手の反則攻撃によって片目が失明状態だったと思う。あれがなければヒクソンにも勝てたのではないか?
 ただ、この反則というは競技として捉えた場合の話であって、例えば街中で後ろからチョークスリーパーを食らった場合(そんな場合があるとは思えんが)は目潰し(サミング)で脱出するのがベストであると思う。これが可能なのはプロレスだけだ。ヴァーリトゥードといえども、街の喧嘩とは異なるのである。
 これはどっかで聞いた話で、調べる気もないのでいい加減なのだが、なんとかという格闘技では、選手間に一定の体重差があった場合、金的への攻撃を認めているそうだ。無論、ファールカップは付けていると思うが。この形式で試合をする場合、選手の腰は異様に引けているそうだ。ルールによって戦い方も変わるといういい例である。


 注目度の低いこの日記ではあるが、読んで下さっている方もおられる。予想だにしなかった方から日記の内容について語られると驚愕する。もしかすると読んでるかもしれない、というような方ですらなく、過去においてはともかく、今は日記はおろかサイトそのものにも来ていないと思っていた。つーか、考えてもいなかったのだが。

 ということで、腰が引けた感じで日記を書いているのである。つまり延々と金的だの目潰しだのと書いたのは、この「腰が引ける」というフレーズを使いたいがためだったのだ(^^;)。
 つかいたいがため、と入力して変換すると「使い体固め」と出してくるのはいかがなものかねザウルス君。

 オフ会なるものは、インターネット普及のはるか以前、パソコン通信時代から行われていた。それより前の話は知らん。
 オフ会のオフというのは確かオフラインの事であったはずなので、オンラインという状態がなければ理論的にオフ会というのは成立しない。だとすれば、パソコン通信以前にはオフ会などなかったと思うがどうだろうか。
 ただ、意味としては例えば文通相手とかと会うのと同じだと思うので、言葉そのものに大きな意味はない。仕事で特定の相手と長いことファックスでやり取りしていて、急に会うことになって「あ、ファックスではいつもどうも」みたいな妙な挨拶を交わしたことがあるが、これも一種のオフ会だと言えば言えなくもないような気がしないでもない。

 文通相手といつかは必ず会う、ということはないし、写真を送らねばならぬということもないだろう。文通は文通というコミュニケーションとして成立していて、会うという行為が文通の発展として存在しているわけでもないと思う。単に異なったコミュニケーション方法を取るというだけのことであって、視点を変えれば、例えば普通に会っている友人と手紙のやり取りをしたり電話をすることと同じである。

 しかし文通ってのも懐かしいというか凄いというか、まぁ寒い単語だよな。何で寒いんだろ。ペンパルとかいう単語もあったなぁ。これって、今で言うメル友だよな。これもそのうち極北な言葉になるんかな?

 オフ会なるものがドキドキするのは、顔も見たことがなければ声も聞いたことのない集団に突っ込んで行くからである。インターネット上でのコミュニケーションはそれ自体で完結していても良くて、閉じたものでもいいと思う。会わないと良く分からないということもないし、逆に言えば、会えばその人が良く分かるというものでもない。別の一面は見えるかもしれないが。
 というような話とは別に、会いたいという単純な衝動もある。無論、会うことに対する恐怖もある。これは損得勘定や理屈では解決出来ない。
 私がこういう場に顔を出すようになって、比較的すぐに花見オフなるものが企画された。どうするか一瞬迷ったが、私の性格からして最初の一発目で行かなければ永遠に行かないだろうし、こりゃあ俺には合わねえなと思ったら二度と行かなければそれでいい。幸いにもというか、まださほど深入りはしてなかったし、その集団がどうだからといって小説を書くこと自体に直接の影響はない。なんだったら別の投稿先を探せばいい。などという損得勘定(^^;)をして、行きますーというメールを出した。当日の細かい話は省くが、まぁ色々あって現在こうなっている訳なのだが、あれは私にとってどういう影響があったのか、プラスだったのかマイナスだったのかなど、まだまだ結論など出せない。一生出せないだろう。まぁでも楽しいのは事実なので、それはそれでいいんじゃないかなと思っている。ついて行けないときもあるけどね(爆)。

 なので、腰の引けている方も、ちょっとでも会いたいなと思ったら、臆せずに顔を出してもらえるとこっちも嬉しいです。まぁいきなりだとあれなんで、何かしら投稿してみるとか、掲示板あたりで無駄なお喋りでもしてからね。みんな気さくでいい人です。そんな気がします(爆)。優しくしますよ。はぁはぁ。

 ただし、地理的に会うのが難しい方やどうしても勇気の出ない方、その他個人的な事情で出られない方や出たくない方に疎外感を与えたりはしたくないので、無理に誘ったり、掲示板とかでオフ会に出た人にしか意味の通じない話題で無意味に盛り上がったりはしないつもりです。ただ、全く話題に出さないのも逆に変ですし、どうしても暴走してしまうことはあると思うので、意味わかんねーと思ったら、つまんないとか引かないで、話に加わって教えて教えてと言っていただければ、こっちも、あ、そうかわかんねーよなと気づいて解説しますんで、ひとつよろしくお願いしたいです。

 以上、本日は「腰が引けてる」をテーマにお送りいたしました(笑)。

 次回は「感想メール」についてを予定しております。あくまでも予定です。