12月27日
いよいよ今年も終わりである。私は今年何を書いてきたのか。
『Running On Empty』
『あなたの望んだ世界で』
『明日の風』
『Shutdown』
『彼女の想い』
『I'm here』―A part―
『離れていても、どこにいても』第拾壱話〜第拾参話
あとボツとか非公開とかが2本だか3本だか。
……もうちょっと何とかなりそうな気がするなぁ。
まぁそんなこんなで、旧年中は大変お世話になりました。新年もよろしくお願いいたします。
見捨てないで……。
12月17日
14日の記述の中で、「ravenさん/なぜか烏と呼ばれている。」と書きましたが、正しくは「化け烏」だそうです。でも、お詫びも訂正もしません(爆)。
12月15日
昨日の記述中、出席者にトモヨ氏を忘れていた上、まっこう氏とトモヨ氏を完全に混同しておりました。両氏及び閲覧者の方々には深くお詫びいたします。訂正させていただきました。
12月14日
これは昨日行われた、いわゆる綾波展における忘年会オフに関する雑感である。レポートではない。umaさんによるオフィシャル(と言っていいかどうか)なレポートは綾波展にて公開されるはずである。雑感なので文はまとまっていない。思い付いたままに書くだけで話があっちこっち飛ぶのだが、酔っぱらいの話というのは得てしてそういう物である(^^;)。
出席者は以下の通り(順不同)。
まーべるさん/『綾波展』の重鎮で技術部長。秋日和で崩壊したのはこの方です。
ravenさん/なぜか烏と呼ばれている。『Piece of Dream』にイラストがあります。
Hoffnungさん/綾波展にて「Frame by Frame」を連載中。
PasterKeatonさん/『PASTER KEATON world』主催。うちにもイラストの投稿を頂いています。
ベアキャットさん/林原めぐみ萌えの人(笑)。
横着星さん/綾波展の重鎮。通称脂狸。皆さんご存知ですな。
umaさん/はるばる関西からやってくる、同じく綾波展の重鎮。エヴァの歴史はこの人に聞け。
BMMさん/イラストを頂いています。家元と呼ばれたりもしてますな。
まっこうさん/泣く子も黙る海洋性哺乳類(笑)。「ザザーンシンジ君」の作者としても知られる。
トモヨさん/あんまり話をしたことがないような気がする(^^;)。代表作に「EVAザクラ」。近年では「畳」「風」あたりが有名。
tamb/私です。
綾波展というのは、私にとっては一種の聖域である。tambという人物がこの世に初めて姿を現したのは、綾波展から派生した綾波メーリングリストへの投稿である。初めてtambとしてオフ会に出たのも、綾波展の花見オフであった。あるいは迷惑なのかもしれないが、私の意識としては、私は綾波展の子供でXXXsさんの弟子だと思っている(余談だが、つまりまーべるさんは私の兄弟子だということになる)。
初めてオフに出たときから、なぜオフ会レポートがないのか不思議だった。そういう習慣なのかなと思っていたのだが、過去においては何かしらのレポートはあったらしい。つまり私がこの世界に足を踏み入れたのは、めんどくさいからレポートなんて書かなくてもいいか、という雰囲気が支配的になった時期、別の言い方をすれば、ある種の魔法、あるいは熱病から醒めてしまっていた時期であった。
過ぎ去った時代は決して戻らない。だが、エヴァンゲリオンという物語の持つ魔力を信じるならば、状況さえ適切に設定されれば、あたかも自動機械のごとく盛り上がって行くはずである。It's magic. そして私は、エヴァンゲリオンの持つ魔力を信じている。だが状況を作るのは人間である。
新作の出ることはまずあり得ないであろう作品に対して向き合う場合、ファンフィクションという形であり得た可能性を描くのは、確かに安易かもしれないが有効な方法ではあると思う。しかし、例えば掲示板が作家(という単語をあえて使うが)の交流の場として閉じてしまうのは本意ではない。無論、交流の場としての機能も重要ではあると思うが。
当たり前だが、単にエヴァが好きな人とFFを書く人の間に優劣はない。しかし現状として、掲示板が作家のサロンと化しているのは事実かもしれない。原因は分からないし、だからといって作家諸氏に書き込みを控えられるのはすごく嫌なのだが(だから気にしないで書いてね)、書き込みにプライドが見え隠れしているという指摘は受けた。もしかするとそうなのかもしれないが、そう言われても如何ともし難いものがある。
今とりあえず言えるのは、何だかんだ言ってもみんな同じエヴァ好きなんだから、何か適当に気楽に書いてみるときっと面白いですよ、ということである。人はコミュニケーションを取らないと生きて行くことは出来ないのだから。
語りたいと思うなら語るしかない。そして語るのは思った以上に面白い。それがFFを通そうが通すまいが、それは方法論なのでそんなのは何でもいいのである。憶せず語って欲しいと思う。が、現状創作サイトしか生き残っていないのは事実かも知れず、FFを通さずに語りたい人の受け皿としてどういう形がいいのかは、考えていかなければなるまい。
私は石橋を叩いて渡るタイプである。ただし、叩いても判然としなければ一気に突っ走る。その他、石橋をコンクリートで固めてから渡るという奴、川に降りて泳いで渡ると主張する奴などがいたが、こうなるともはや意味不明である(笑)。
秋日和の話が出た。これで大ダメージを喰らったまーべるさんは、さしてダメージを負わなかったと言う私を不可解な目で見た。まーべるさんには「太陽とブルードール」を推薦しておいた(爆)。
前述のように、綾波展は私にとって聖域であり、私ごときが何かせずともそのままの姿で盛り上がってくれるのが最も望ましい。これはレイに対する気持ちとほぼ同等である。彼女にも幸せになる権利はあり、私が何かすることなく彼女が幸せになってくれるなら、それが一番いいのだ。だがそうもいかないので、こうしてじたばたしている。綾波展に対しても同様で、私のような者でも何かできることがあるというのなら、微力ながら尽くしたいと思う。
綾波レイの幸せ、というこのサイトは、私が自分で思っているよりも影響力があるということを自覚せねばならん、という指摘を受けた。正直な話、ここに影響力があるなどというと世も末かという気がするし、サイトの影響力というのを想像するのも難しいが、一定の意味で評価されている(と解釈するが)ことを嬉しく思う反面、辺境で地味にやってるのも好きなので、複雑な心境である。しかし自覚を持って急にやり方を変えるのもどうかという気がするし、今までだって真剣にやって来たので、スタンスは変わらない。というより、変えられない。持続は力であると信じている。無理をして潰れる愚は犯さない。
あえて名を秘すが、某氏は体脂肪率400パーセントらしい(激爆)。
とりあえず、綾波展というサイトは意味不明である(^^;)。何となく凄そうな感じはするが、何をやっているのかさっぱり分からない。不意にリンクが増えたり古のサイトがサルベージされたりするので、地下に潜伏しつつなにやらでかいことを企んでいるような気もする。今はそんなことはないようだが、前にメールを出したらuser unknownで返ってきたこともあった(爆)。こういう小さなことの積み重ねが、不気味な恐怖を生むのである。
某氏は「何にも怖くないよ、こんなに優しいじゃん」と叫び、「綾展は周囲に恐れられていることを自覚するべきである」などとたしなめられていた(笑)。
現在何をやっているのかは私も良く知らないが――なんて書くから恐怖をあおるんだよな。実際には何もしていないらしいです(^^;)――盛り上げたいという気持ちはそこにいた全員が持っていた。では何をするか。批評をするとか色々とアイディアは出たが、考えたまま止まっていても仕方がない。もやは失う物などないのだ。
ということで、とりあえずやたらと掲示板に書き込むのはどーだということになった(爆)。批評するなら何を批評するかとか、どうやるかとか、そういうことは全て掲示板で話をする。原則としてスタッフ間のメールのやり取りは禁止である(爆)。密室で決めることはしないのである。結果的に単にスタッフが打ち合わせたり雑談する場と化し、内輪の雰囲気が高まって敷居が上がるのかもしれないが、何もないよりはマシだと思われるし、そうなったらそうなったでまたその時に考えればいい。とりあえず橋は渡りはじめる。渡ってる最中に壊れたら、泳ぐなり再構築するなりコンクリ打つなりすればいいのである。命まで取られることはない。
12月7日
アスカ様、誕生日を失念しておりました…… m(_ _)m
11月25日
例えば私が東京から沖縄に行くという話を書く時、大阪と博多は経由しよう、という決め方をして書く。途中、熱海で温泉につかったり、箱根で一泊したり、京都で哲学の径を散策したりするかどうかは書いているときの気分次第である。
書いたものを読み返していて、どうにも面白くないなと思う。自分で読んで面白くないものを、人が読んで面白いとは思えない。かどうかは微妙なんだが、少なくとも一定の意味で納得できないものを公開する気にはなれない。
なんで面白くないんだろうと思いつつ読んでいると、焼津でマグロの刺し身を食ってるつもりだったのに、実際は北海道にいたりするのである(笑)。来てしまったものはしょうがないので、これ幸いとばかりにウニ丼でも食ってみるのだが、食いながらよくよく辺りを見回して見ると、実はテルアビブで地中海産のなんとかいう魚を食ってたりするわけだな、これが(爆)。シュールだ。テルアビブという街に対してどうこう言うつもりは毛頭ないが(一度は行ってみたい街である)、熱海にいるつもりが実際はテルアビブだったんじゃあまずいよな、やっぱり。逆でも同じことなんだけど。
手としては二つある。一つは思い切って書き直す。正当である。
もう一つは、パリ経由で関西空港か成田に戻って来るという方法である。テルアビブも捨てたもんじゃないと思えばこれしかない(今はどうか良く知らないが、ちょっと前まではイスラエルから日本に帰ってくるならパリ経由が最も現実的だったはず)。
で、後者の方法を取った。テルアビブでのエピソードも捨て難かったのである。で、何とか飛行機に乗って一安心と思いきや、パリに着くはずがふと気づくとなぜかチベットはラサにいたと。ラサには空港などないはずだが、着いてしまったものは仕方がない。実際チベットが中国領なのはいかがなものかと思われ、アメリカはもっと積極的に介入すべきだと思うのだが、やはり石油が出ないからダメなのかなと思いつつ、とりあえず北京には行きたくないので陸路ネパールに越境しようと歩いていたらインドはダラムサラに着いてしまったと。ま、こんな感じですな(意味が分からない)。
まぁ地名に意味はないのだが、つまり行きたいと思っているところにさっぱり行けないのである。
どうするか悩みながらぼちぼちと書きつつ、関空に着ければいいが、成田に戻ったんじゃ出発点に戻っただけではないかとも思うのである。
こんなことだから話が進まないのだよ。
11月20日
世の中どいつもこいつもエヴァ2エヴァ2だが、ふらりと本屋など行ってみると鋼鉄2のアンソロ本があったので買ってしまった。この手の本を新刊で買うのは初めて。まだ読んでない(笑)。さらに、なんと初代鋼鉄のアンソロ本も新刊で(!)あったので、これも買ってしまった。無駄遣いだ。これはちょっと読んだ。鋼鉄系でシリアスな話ってのは新鮮だった。
シックスボルト2ってのも見た。さすがに絶対読まないと分かってる本は買わない(笑)。1だってまだ読んでないのに(苦笑)。
11月17日
はい、充分に歳を食ってますが、芸術なんぞについて斜め後方からとはいえ真剣に考えている性格破綻者です(笑)。生活も思いっきり破綻してますが、それが何か?
映画の話になるが、『戦争や貧困、民族、宗教など世界を揺るがす深刻なテーマを骨太に問う作品』が時代の趨勢だそうである。『しかし衣食足りた人間の物語は、死と隣り合わせの人々には「甘い」と映っても不思議はない。』らしい。なるほど、おもしれえ話だな(冷笑)。
ちなみに『』内は某新聞からの引用。センテンスを丸々引用すると、
『今の趨勢(すうせい)は、戦争や貧困、民族、宗教など世界を揺るがす深刻なテーマを骨太に問う作品が優遇されている。』
『今の趨勢』ってのはどこにかかるの?
限度を超えて忙しいと気分が好戦的である(笑)。
11月5日
プログレッシヴさんのサイトが自然消滅である。そのサーバは一定期間ログインしないとアカウントが消されるようで、それに引っ掛かった模様である。あくまでも憶測である。メールにも返事はなく、携帯のアドレスは変更になっている(らしい)。
事情は分からないが、元気で生きていてくれればいいと思う。気が向いたらまた帰ってくればいい。なんだったら名前を変えれば、誰にもばれなくて済む(^^;)。
それはそれとして、プログレッシヴさんのサイトには一本投稿をさせて頂いている。携帯がテーマの話なので、本来はプログレッシヴさんのサイトにあってこそ意味があった。このまま放置という手もあったが、挿絵も頂いているし、それなりに愛着のある作品なので、サルベージすることにした。
サルベージとは言っても、そのままアップすればいいという訳には行かず、リンク等は付け直しである。ちなみに携帯文以外のフォントの指定は外してあるが、これがオリジナルである。
投稿した作品がこうやって手元に帰ってくるのはあまり嬉しいことではないが、文句を言ってもはじまらない。せっかくなので軽く読み返してみる。じっくり読み直すのは精神衛生上よろしくない。
たかが一年前の作品ということもあるが、あんまり書き直したいという衝動には駆られなかった。ここはこうしたほうがいいかな、というのはあるが、それで良くなるかどうかは別問題である。少なくとも許し難いほどダメとは思わないので、そのまま公開した。
約24時間後、なんとなくもう一度読んでいると、致命的な脱字を発見した(爆)。あわてて直した。そんなことなんで、ここに上がっているバージョンで、かつ脱字のあるファイルを保存されている方(つまりサルベージの当日と翌日に落とした方です)、それは貴重なので、即刻削除して落とし直してください。自分の持っているファイルが誤字ありかどうか判然としない場合も、念のため落とし直して頂けるとよろしいでしょう。わはは。つーか、落として保存しなくてもいいかと思うんですが(^^;)。
本当はプログレッシヴさんとこに上がってたファイルをお持ちの方もこっちから落とし直して頂きたいのだが、残念なことにそれはそれで本当に貴重なので、キープしておいた方がよろしいでしょう。読むときはうちのバージョンでお願いします(苦笑)。
で、連載も上がった。今ここを読んでる方で、連載を読む気のある方はもう読んでおられるであろうし、読んでない方は読まないと思うので書いてしまうが、当初の予定では今回分でパジャマまで買ってしまう予定であった。が、解説にも軽く書いたが、某作品の反動で(さして痛くないとは言え、嫌なものは嫌)、ゲロ甘になってしまっている。この調子でパジャマまで書き切ると――途中まで書いたのだが――あまりにも冗長かつ不必要に甘く(今でもそうなんだが)、いかな私でも全身を掻き毟りながら転げ回らざるを得なくなるので(^^;)、先送りにしたのである。
この連載もそろそろ佳境に入れると思うが、去年の今頃は今年中に終わるとか言ってたような気もして、それは恐らく気のせいだと思うのだが、なんにせよ予断を許さないのである。だから、来年中には終わる、などとは書かないのである(笑)。笑ってる場合じゃない。
10月25日
ふらふらと本屋に行くと、「総特集 阿佐田哲也vs色川武大」という本(ムック)があって、ついつい買ってしまう。御存じない方もいらっしゃるかと思うので書いておくと、阿佐田哲也と色川武大とは同一人物で、私の敬愛する作家の一人である。
すごく乱暴な書き方をすれば、娯楽小説というか、麻雀小説に代表されるギャンブル小説を書くのが阿佐田哲也である。麻雀放浪記という作品はご存じの方も多いかと思うが、氏の代表作である。西原理恵子の作品よりはずっと前である(笑)。
それに対し、私小説風の純文学を書くのが色川武大である。ご存じの方でなおかつコアな方は、「私小説風」という書き方から、私小説とは何か、という議論を期待されるかもしれないが、それはしない(^^;)。
例によって話は変わるが、パソコン買って絵を描こうと思うのは間違いである、という話がある。実際の話、紙に描けない人でもパソコンを買えば描けるというものではないとは思う。逆に、紙に描ける人は、多少の努力をすれば(つまりソフトの使い方を覚えれば)パソコンでも描けると思う。パソコンなど道具に過ぎず、要は何を使って描くかという問題に過ぎない。描ける人なら、道具が変わると全く描けないということはないと思う。
逆に言えば、例えばパソコンで描けるなら(道具の使い方を覚えれば)紙にも描けると思う。
高価な油絵具など買わなくてもパソコンでそれっぽく描けるというのは大変なメリットであるが、油絵が油絵風のCGに置き換わる時代が来るとは思いたくないな。
普通に絵の描ける人がCG(以下面倒なので、細かいことは抜きにして、パソコンで描いたか加工した物は全部CGと書くことにする)を作ろうと思った場合、やっぱり紙に描いたものをスキャンするところから始めるのだと思う。結局、その方が楽なのだろう。これは単に、マウスなりタブレットなりで一から描くよりも、紙に描いてスキャンした方が早くていいものが描ける場合が多いということだと思う。これは優劣ではないので、スキャンなんかしないでマウスとかで描いた方が早いって人もいるだろう。
小説をはじめとする文章を書く時、まず原稿用紙に書いてそれをスキャナで取り込んでOCRにかけて、なんて話は聞いたことがない(出版物にする場合はまた違う話)。これは、基本的に文章というのは文字という記号の羅列によって成立しているのであり、実際に書くのは文字という記号だからであって、それが絵とは大きく異なる部分であろうと思う。単に記号を書くだけなら方法もくそもない。
ただ、文章にするときのインターフェイスとしてIMEが入っているかどうかの差は大きいと思う。誤変換を修正するのに思考を妨げられるのは嫌だという人がいても不思議じゃない。脳と作品の間は極力ダイレクトであるべきで、妙なバッファは入れたくないという話である。これはこれで分かるが、こっちは漢字がわからんばかりに辞書を引いていて思考を妨げられるのが嫌というクチである(バカ)。仮名で書いてあとで清書という手もあるが。
バイリンガルな人は、同じことを考えていても、例えば英語で考えるのと日本語で考えるのでは、達する結論が違うという話がある。本当かどうかは知らない。
同じプロットを同じ人が作品にするとき、原稿用紙に書くのとエディタで書くのでは違う話になるだろうか。あるいはプロットを起こすとき、紙に書くのとエディタとかアイディアプロセッサを使うのでは異なるプロットになるだろうか。こうなってくると人が書いてるのかパソコンが書いてるのかわからん。神林長平ワールドである。
この世の中にエディタがなかったら、果たして私は文章を書いていただろうか。これは微妙な話だが、中学生の頃はノートに何やら文章めいたものを書いていたからやっぱり書いてるかもしれないし、高校生の頃は書いていた記憶がないから書いてないかもしれない。
しかしはっきり言えるのは、FFは書いていないだろうということである。エディタすら存在しないなら、恐らくインターネットが現在のように普及していることはないであろうから、二次創作なるものの存在が目に触れることはなかったと思われるからである。私が自ら二次創作という発想そのものを出せるとは考えにくい。コミケとかに行けば話は別かもしれないが、多分それもないだろう。
パソコンを使って書く場合、修正が容易であるというメリットは大きい。なんとなく書き始めても何とかなる(ならない場合もあるが)。展開に詰まったらそこはいったん飛ばして先を書いてもいい。勢いで書いて、後で自分の字が読めず困惑するなどということもない(爆)。プロセスは異なっても、結果的に文字となってディスプレイあるいは紙媒体に印字されているものを読むのであるから、何でも同じである。結果が全てであって、読者はプロセスを気にする必要はない。原稿用紙に書いたから偉いということもない。
絵の場合も、例えば油絵だから凄いということはないと思うが、盛り上がった油絵具がどーんとそこにあるのと、ディスプレイあるいはプリンタで印刷されたものとは違うと思う。結果が違うのである。これも優劣ではないが、好みはあるかもしれない。ここが文章との決定的な違いであると思う。
阿佐田哲也と色川武大では、原稿用紙に書かれた字の形や大きさが、同じ人が書いたのかというくらい違うのだそうである。気分や内容によって字が変わるのはあり得る話だと言ってしまえばそれまでだが。色川の方は大きく、阿佐田は小さいのだそうだ。小さい字で書くと滑りが良すぎ、その滑りを止めるために大きい字で書くという、そういう感覚のようである。
そんなことにこだわっていられないくらい切羽詰まると小さくなるらしいが、つまり純文学はひたすら考え抜いて書き、娯楽小説なら勢いが大事、という感覚があったのかもしれない。
私は純文学など志していないし、娯楽小説と純文学に優劣があるとも思わない。
色川氏のとある作品では、書き出しの部分が原稿用紙二十枚に、たった一文字、句読点一つが、何度も書き直されていたそうである。
こっちはエディタで書いていて修正は容易なのだから、いくら無能なアマチュアとは言え、せめてそのくらいは真似してもいいのではないかと、そう思ったのであった。
10月20日
あれ、もう二十日なの? といった感じの昨今である。意味はない(^^;)。
最近更新がない。またこいつはダメ出しの嵐をかましてるのかと想像しておられる貴方、ハズレです。来ないんです(T_T)。それではさぞかし自作が進んでいるだろうと想像された貴方、それもハズレです(爆)。それとこれとは直接的な関連はありません(笑)。いや、笑ってる場合じゃない。
プログレッシヴ氏とはやはり連絡がつかない。やはりトップの、いつもUP !と書いてるところにDOWN !と書かねばならぬのであろうか。本当に閉鎖なら自作のサルベージもしないといかんし、いつまで様子を見るか難しいところだ。
10月15日
ずいぶん前から世の中リバイバルブームで、アニメにしてもそうだし、音楽でも古いバンドの再結成だとかカバーだとかが目立つ。CMでもやたらと懐かしい音楽が使われていたりする。まぁ古くてもいいものはいいのだが、新しいものが出てこないのは困る。最近のアニメは全くと言っていいほど知らないのだが、若い人たちは古いものを踏み台にして新しいものをばんばん創り出して頂きたいと思う。まぁ年寄りには新しい物は作れないなどとも思ってはいないんだけどね。古いものを守るという役割もあるとは思うけど。
だから、リニューアルは資金稼ぎとしてはいいにしても、エヴァの続編とか言ってないで(言ってないと思うけど)新しいものを作って頂きたい。それでキューティーハニーというのが何とも微妙ではある(^^;)。
ではお蔵だしシリーズのラスト。
いつだか忘れるくらい前に予告した、感想メールが来るの来ないのという話である。
私は日頃から、感想メールが欲しくて書いている訳ではない、と公言しているし、それに嘘偽りはない。感想が欲しいというそれだけの理由によっては、読者のニーズに応えることはない(読者のニーズが自分の欲求に転化されれば書く。これは「感想がほしい」というモチベーションとは異なる)。
それは間違いないのだが、では感想は要らないかと言えばそんなことは全くないのであって、はっきり言ってめちゃめちゃ欲しいし、たとえ一言メールでも、来たというだけで異様に嬉しい。
こんな私でも稀に感想をいただくことはあり、中には定期的に送ってくれる方もいらっしゃるのだが、新作を公開しても来なかったりすると今回はダメだったかとがっかりし、諦めたころに来たりすると舞い上がったりする。アホである。
本当に感想が要らないなんて人は、確かにいるが、やはり少数派だと思う。それ自体がどうとか言うつもりはない。私はどうしようもないリクエストや反応に窮するメールをもらったことはないので、その意味ではラッキーなのかもしれない。
感想というのは麻薬である。一回経験してしまうと、それなしではいられなくなる。それのあることが当たり前になると、切れた時の苦痛は筆舌に尽くし難い。快感を忘れられず、欲しくて欲しくて、のたうち回って脂汗を流す。だが、誰かに「下さい」と言うことはできない。そうやってもらった物ではあまり気持ち良くなれず、虚しさばかりが募る(身にはなるかもしれんが)。
とかなんとか言いながら、中毒になるほど日常的に感想メールが殺到しているわけではないので、上記は全て想像である。説得力のないことおびただしいのだが、これはもしかするとこの日記の信憑性そのものがゼロに等しいのではなかろうか?
アマチュアバンドのライブを見ることがある。広い意味での演奏力はバンドによって全くピンキリで、本当に素晴らしくてCD出たら間違いなく買うから早くプロになれって奴らもいれば、技術は稚拙だが魂はガンガンに伝わってくる奴らもいる。逆に、技術的にはめちゃめちゃ上手いのだが、超絶技巧大博覧会状態で全く何も伝わってこない奴らもいる。そして当然のように、何だかさっぱり分からない奴らもいる。上手いか下手かすら分からない、何か伝わって来るような気がしないでもない、みたいな。まぁそういう奴らにも一定の固定ファンはついていたりする。もちろんプロと呼ばれる連中の演奏でも――演奏技術そのものが未熟な人はさすがに少ないが――何も伝わってこない場合も少なくないので、人の好みは千差万別である。
ほとんどプロみたいな連中には当然なのだが、何だかさっぱり分からない奴らに対しても一応拍手はする(しないときもあるけど)。意味はないのだが、まぁ習慣というか、とりあえず頑張ったねとか、これからも頑張れとか、そういうメッセージである。まぁ心の中では早く終われとか思ってるので、おざなりな拍手である。
演奏者の立場として言うと、おざなりな拍手っていうのはやはり分かって、失敗したな的な演奏をしてしまった時は、やはり薄い。そういう時は、ライブ終了後、いかんねーとか言いつつ打ち上げと称する酒を飲むのである。
今日の演奏は良かったなと思うときは、いやぁ良かったでもこうするともっとかっこいいぜとか言いながら打ち上げと称する酒を飲む。何にせよ飲む。
アマチュアバンドがライブをやるモチベーションは、当たり前だがバンドによってそれぞれである。何としてもプロになるって奴から単に楽しいって奴まで。とにかく自分が楽しくなければ客も楽しくないだろうという奴もいるし、客が楽しんでなければ自分も楽しめないという奴もいる。ま、いい音楽をやりたいという想い的な観点から言えば同じようなものだ。しかし、拍手がもらえないから音楽やめるとか、より盛大な拍手をもらうためにバンドの傾向を変えるという話は、少なくともアマチュアミュージシャンでは聞いたことがない。自分の好きな音楽をやり、その上でよりかっこいい音楽、より好みな音楽になるにはどうするか考えながら練習するのである。
何としてもプロになるんだって奴の中には、少数だがちょっと違う奴もいる。ひたすらうけそうな音楽をやり、例えば25歳までにプロになれなければ音楽をやめると公言し、実際にやめてしまうのである。別にそれが間違ってるとは思わないが、本当には好きなんじゃなかったんだなとは思う。プロだって趣味のバンドやってたりするじゃん。まぁ演奏だけが音楽に接する方法ではないから、演奏するしないと音楽そのものが好きかそうでないかとは、あんまり関連がない。
拍手にしろ感想にしろ、何かを創って人前にさらしている以上、反応があれば嬉しいし、なければがっかりする。反応があればあったで、誉められれば喜ぶし、批判されれば落ち込む。それは人としてナチュラルだと思うし、誉められるように努力はするべきだと思う。
しかし私は、誉められたくて書いているわけではない。だから、例えば逆行断罪物を書けば反応があると分かっていても(本当にそうかは知らないが)、少なくとも現時点では書く気はない。自分が書きたいものを書きたいように書くだけである。誰かを感動させるつもりもない。結果として誉めてもらえたり感動してもらえれば嬉しいが、それは結果である。
拍手をもらう為の演奏するのではなく、選挙に当選するための政治をするのではなく、感想をもらうための作品を書くのではない。
努力が必要ないなんて言ってるんじゃないよ。結果として感想がもらえるように努力はするべき。例えばテーマは素晴らしいのに筆力が伴わないばかりに伝わらないのなら、伝わるような努力はしないとだめでしょう。そのために、今は敢えて書きたくないテーマに取り組むということが必要なケースもあるかもしれませんぜ。習作としてね。それでも目的は「感想をもらうこと」ではないのよ。
書きたいテーマに対するニーズが全くないならば、あえて孤高の道を歩むのもいいでしょう。しかし、読者を教育するという手もあります。周辺の分かりやすいテーマから順番に責めて行くとか、混ぜて見るとかね。ミステリの衣をまとった本格SF、みたいな。こういう話になると圧倒的な筆力が必要なので、私ごときの出る幕はないです。頑張って下さい。
これは手法についても言えることで、どうしてもこういう手法で書きたいんだが受け入れられるとは思えん、なんて場合は、極力受け入れられやすいテーマを選ぶというのも手かもしれません。まぁこうなってくると、はっきり言って良くわからんのですがね。
早い話が感想下さいってことなんだが(爆)、そんなこと言ってる間に新作を書けって話やね。反省だけならサルにもできると。
10月14日
ふらふらと本屋など行ってみると、野火ノビタ批評集成「大人は判ってくれない」が積んであったのでついつい買ってしまう。これ、古い人は当然のように知ってると思うし、最近エヴァに出会った人でも知ってる人もいるかもしれない。知らなくても不思議はないけど。この本、エヴァ評論(あるいは批評)と庵野氏との対談で、全体の半分弱を占めている。
ちなみに野火氏は、私の知る限りでは「そういった類いの良く分からない人物」ではない。
ある時期から、欲しいと思う本は基本的に全て買っている(金があれば)。新刊ならすぐ絶版になるし、もし古本なら、見逃したが最後二度と発見できない。しかし読む時間が増えるわけでもなく、はっきり言えば減少傾向にあるので、必然的に未読の本が増える。未読FFも増える。うっかりするとサイトが閉鎖になったりするので(絶版だわな)、ローカルに保存する。すぐにわけが判らなくなる。未読フォルダには怒濤のようにファイルが入っている。本棚も圧迫するしディスク容量も圧迫する。こんなことで威張るな(爆)。
では、お蔵だし日記シリーズです(^^;)。
投稿作品に呼吸がある、などと書くと、ついにこいつも狂ったかと思われるかもしれず、実際それは今に始まった話ではないのだが、まぁここではそういうディープな狂気について書くつもりではなくて、つまり投稿が来るときはどっと来るが来ないときは来ない、というような意味での呼吸である。
ちなみにこの日記、センテンスが長すぎるように思っておられる方も多いと思うが、単に短くする努力をしていないのである。
傾向としては週末に集中することが多い。これはやはり皆さん週末に書いたり推敲したりしておられるのであろう。しかし、それだけでは説明しきれないものがあるように思える。
六本とか同時に来ると、さすがに全部読むのは時間がかかる。基本的にはメールの先着順に読むようにしているが、やはり編集人としての立場から見て時間のかかる作品とかからない作品はあり、はっきり言えば手のかからない作品を長々とお待たせするのもどうかと思うので、そういう場合はそういう作品を先に公開してしまうこともある。そうでないと、投稿作品を「次々と処理する」という感じになってしまい、それはちょっと嫌なのである。手をかけるべきだと思われる作品に対しては、じっくり手をかけたい。
単にスペースを提供するというのは、こんなに簡単にサイトが開ける今ではほぼ意味がないと思う。いきなりサイト開いても誰も読まないという問題は確かにあって、それには同意するが、それならもっとメジャーなサイトに投稿したほうが有効である。更新チェックサイトに登録してしまうという手もある。まぁうちでもいいって言うならそれはそれで構わんけど、手を入れるなそのまま載せろって言い切られるとちょっと困る。そういうケースには遭遇したことがないので、その場になってみないとどうするか分からんけど。まぁ手を入れるというより書き直せと言う方が多いんだが。
投稿作品はあくまでもその作家の方の作品であって、私の作品ではない。当たり前である。色々意見を書いたり手を加えたりしているうちに、これじゃあほとんど俺の文章だわな、と思う時もあり、どうしたらいいものか困惑しつつ、これをこのままOKにするとモロに私の文章なんで書き直してください、などと書いたりする。なので、直接手を入れることはほとんどしない。
どこまで指摘するかというのは常に難しい問題で、モロに私の文章になるのは論外としても、その人の個性が失われるのは困る。これをオーバープロデュースという、てな話も前に書いたような気がするな。痴呆がはじまってるのか? しゃれにならんぞ。
名前は出さないが、私の敬愛するとあるプロ作家であまり文章の上手くない人がいる(別の作家との対談で、あなたはこんなに長いこと文章書いてるのにちっとも上手くならないのがすごい、などと妙な誉められ方をしていた)。ストーリーも含め、晩年は増々酷くなっていたのだが、数冊ほど異様にこなれた文章の作品がある。それでいてその作家のテイストは失われていない。これはもしかして編集者が有能だったのかなとも思うのだが、押しも押されもせぬ地位を築き上げ、その人の前にも後ろにも誰もいないという孤高の作家であるその人の原稿に手を入れるのは、ものすごい勇気がいるのではないだろうか。それとも単なるノーフィアー野郎か。文芸評論などには目を通さないし、その方面の裏話は全く知らないので、もしかすると賛否両論なのかもしれないが、本当に編集者の成果なのだとすれば、私的にはいい仕事だと思う。
この手の仕事(お仕事に非ず)は、自分では書かない人の方が本当は向いているのではないかと思う。有効な意見は言えるが自分では書けないというケースは間違いなくあって、有効な意見が言えるのだからそれ自体には何の問題もない。じゃあお前が書いてみろと言うのは間違いである。しかし私の場合は自分でも書いているのであって、投稿作品に意見など書きつつ、この人は間違いなく俺より上手いんだよな、などと思い始めると虚無的になる。そもそも自分の意見が有効なのかどうかも良くわからん。勝手に思ったことを書いているだけである。
だから、もし疑問を感じたら、そのようにおっしゃって頂きたい。意見を聞く素直な耳は持っているつもりである。最終的に決裂すれば、お互いに握手して別の道を歩んで行けると思う。言いたいことを言っておけば、いずれ向上して再び交わるときが来るかもしれないではないか。なんちて(爆)。
つまり指摘されたからと言って唯々諾々と従わないで下さいと言うことです(ちゃんと考えて欲しいけど)。結果的にボツにするかもしれんけど(爆)、またどこかで会いましょうと。
ま、そんなことだ。
10月13日
日記なんてのは、本来は人に見せる物ではなく、なんて話は前にも書いたな。まぁここに書いてるのはそういう類の日記ではないのだが、一日分の日記を数日間に渡って書くのはどうかなと思う。その日に書いた分はその日にアップして、翌日また続きを書いてアップすればいいのではないかと。
まだ途中だし載せるのは今度にしようとか言ってるから、書き上がった時には載せる気を無くすのだ。そもそもこんなもん載せんでもという気もあるし(笑)。
なので、オフ会なるものに顔を出して数日たつと日記があがるという傾向を感じられる方がおられるかもしれませんが、以下はそれとは全然関係のない話題です。
はい、そうぞ(笑)。
若い頃に比べるとずいぶん丸くなったなぁと自分では思うのだが、なんとなく怖い人だという印象があるらしい。だからどうだということもないのだが。
現在に至るまで、私にはいわゆる愛国心というものがほとんど無い。国という体制にあまり興味がないのである。本来はここで真の愛国心とは何かという議論をするべきなのだろうが、私は浅いのでそういう議論はできない。じゃあ書くなということになって、はいすいませんとなるのだが、ここではそういう話をしたいのではないので軽く流していただいて、つまり私は自分には愛国心などないと思っているということがポイントである。
こういう私もにわかナショナリストになる時がある。ナショナリズムと愛国心は異なるような気がするが、ここでも軽く目をつぶって、おおむね同じものだと捉えて下さい。お願いします。
えーと、それはどういう場合かというと、オリンピックとかワールドカップとかの場合である。こういう時は日本ガンバレ鬼畜米英状態である(笑)。ただ、世界陸上も世界柔道もあんまり燃えなかったし、ほとんどの人はわからんと思うが、寝技世界一決定戦と言われたノゲイラvs菊田だとノゲイラがんばれだったりしたので、まぁ基準はない。ちなみに菊田は確かスタンドからの打撃で失神KO負けでした。後で「打撃でくるんだもんなぁ」とぼやいていたらしいが(嘘かもしれん)、菊田さん、あなたもローリングソバット気味の後ろ廻し蹴りで牽制してましたよ(笑)。
中国で日本人300人が集団買春とかいう話を聞くと、バカやるなら日本でやれこの恥さらしがとか思うのだが、この場合の恥というのは日本の恥という意味であるので、これもある種のナショナリズムであるかもしれない。しかし300人てのはすごい数字だよな。バカすぎないか?
「愛」というのは便利な言葉で、便利な言葉にはありがちなことだが、実態がいまいち不明である。意味が多岐に渡り過ぎているというか。例えば愛国心の「愛」と、男が女を愛するの「愛」とはやっぱり違うと思う。ただ、私は自分で愛国心がないと思っているので、愛国心の「愛」を理解しているとは言えず、もしかすると同じかもしれない(男が女を愛するの「愛」を理解しているかどうかも疑問ではあるが)。もし同じだとすると、自分は愛国心がないと思っているという事実には興味深いものがあるのだが、まぁそれはおいておこう。急に思ったのだが、男が女を愛する「愛」と女が男を愛する「愛」は同じだろうか。これは永久に答えの出ない問であろう。彼女というのは彼方の女と書く。以下略(笑)。
エヴァという物語を愛しているか、と問われると、言葉に詰まる。言葉にできない複雑な想いはあるが、それが愛かと言われると良く分からない。便利な言葉を使えば、愛憎相半ばと言ったところか。しかし単純に愛があるかないかと言われると、やっぱりあるのかなと思う。全くなければこういうことにはなってないような気がするし(苦笑)。
綾波レイについてもほぼ同様であるが、彼女についてはシンジ君が一生懸命愛してあげられればそれでいいと思う。誰かを愛するっていうのは実は大変なことなんだけど、頼むぜシンジ。
最近、リニューアルプロジェクトやら鋼鉄2やらエヴァ2やらで、その手の雑誌以外の雑誌にもそれらしい記事が載っていたりする。大抵は単なる紹介記事だが、中には文化人だか評論家だかライターだか、まぁそういった類いの良く分からない人物が何やら文章を書いている場合がある。かつて何らかの形でエヴァに取り憑かれた人々である。いわゆるブームの頃に既に分析的な文章を書いていた人達の文章は、最近の雑誌では、少なくとも私は見たことがない。
「かつて」取り憑かれていた人々である。読んでいて腹が立ったりする。エヴァにはまっていた事や、その頃は小説など書いていた事が恥ずかしい過去のように語られ、それを勇気を持ってカミングアウトしているつもりなのである。バカじゃないかと思う。恥ずかしいなら黙ってろ。若かっただと? 悪かったな。俺はあんたより年上だよ。
まぁ、恥ずかしいかどうかはともかく、たかだかアニメである。いつまでもこだわり続けて卒業できない方がどうかしているというのが一般的な認識だと思う。私もそれには同意するが、仮にどうかしているとして、だからどうなんだよという気持ちもある。
小説など書いたり何かを語っていたりしたのだから、何らかの形での愛はあったのだろう。男女間の愛と同様に、愛が失われることはあり得る。それ自体をとやかく言うつもりはない。しかし、恥ずべき過去だと思っているのなら、その人はエヴァを愛していた事から何も得なかったのだろう。その期間は時間の無駄だったと。エヴァに限った話ではないが、何かを愛していたという事実を恥ずかしいとしか思えないような人は、すごくかわいそうな人だなと思う。同情なんてしないけどね。
実際のところ、その頃に書いていた小説めいたものを読み返して赤面した、なんて文章を読まされても、なーんにも伝わってこないのよね。エヴァから卒業したとか解脱したんだって本人は思ってるんだろうけど、逃げたんだよ。たぶんね。
長い言い訳だ(苦笑)。