2004年1月〜3月の日記
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3月30日

 誕生日おめでとう。

 今、僕がここで生きていられることを感謝したいと思う。
 生きているということがどういうことなのか、正しく表現するのは難しい。例えば僕の友人や知り合い、あるいはそれ以上の関係にある人たちも僕の心の中では生きている。みんなで集まってどこかに移動しようとする時、見渡して誰かが足りないなと思う。すぐに、彼は(あるいは彼女は)ここにはいないんだと気づく。
 誰かの分まで俺が生きよう、という重さには耐えられない。ただ、一緒に生きたいと思う。死んでしまった者、ここにはいない者、もう会えない者と一緒に生きたいという感覚は、うまく言葉にできない。死んでしまった者の魂がそこにあっていつも僕の側にいる、という感覚とは明確に異なる。塵から生まれたものは塵に還る。魂というものがあって、それは遍在しているのかもしれないが、それがいつも僕の側にいるという感覚はない。
 レイは、そしてアスカもシンジも、僕の(あるいはtambの)心の中では生きていると言えるのかもしれない。でも彼らは恐らく、生きているとか死んでいるとか、そういう世界にはいないのだろう。ただ、間違いなくここに「いる」んだとは思う。

 まぁそんなことだ(笑)。やりにくなぁ、まったく(^^;)。


3月29日

 どこかの掲示板で予告をしたと思うが、対決企画の発表を受けて、作品に対する私なりの雑感を。これを書くために感想メールは出さなかったのよ(笑)。文句があればメールなり掲示板なりでよろしくお願いします。あれだったらここ(日記)に載せますんで。

 あ、ネタバレしてますんで、その辺はご注意を。



「空の色」/柳井ミレア

 作者も書いているように「そのまま、エヴァに埋め込める」というコンセプトであれば、かなり良く書けていると思う。それだけにインパクトの点では弱いとも言える。
 このあたりの話は、一度は乗らないと決めたシンジがなぜ再び乗ろうと決断したかにかかっているのだと思う。コミックでもアニメでもその辺は色々苦心していて、しかもここでは乗ると決断した(自分にできることはやらなければならない)にもかかわらず、映画では「どうしようもないんだ」とか言ってダメダメに戻ってしまっているのが凄いのだが(コミックではどうなるか分からないが)。
 「空の色」では、そこに絆がある、ということに理由を求めている。エヴァに乗るということは、友人をも含む人間を殺してしまうかもしれないという可能性があるということでもあり、だから一度は拒否したはずなのだが、それでも自分にとっては絆が大切であり、必要だとシンジは気づいた。その気づきに至る理由が、「使徒が来た」ということと「レイとアスカだけでは勝てないという第六感」だけでは、やや弱いように思える。そんなのは最初から分かっていたことで、でも実際に使徒が来て、エヴァに乗らないという立場でレイとアスカの闘いを見なければならないという状況を想像すると耐えられない、というのはわかる。ならばそのあたりの心の動きを書き込んで欲しい、と思う。ひとつ頑張って下さい。


「月と狗、あるいはこの星」/のの

 のの氏の描くEOE後のシンジは、すごく「カッコつけ」のように思える。あの頃の出来事を通して、自分はこのままではいけないと思い、必死に背伸びをして、周囲に溶け込んで「普通に」生きて行きたいと思っている。で、懸命に背伸びをしているのが凄く良く分かる。スーパー化していないのである。これはレイにも言えることで、アクセサリーや化粧で自分を飾ることを覚え、普通に恋愛もして、本当に普通に生きていたいと願い、必死になっているように思う。
 レイもそうだが、このシンジの姿は私としては非常に好ましく感じる。私には、こういうレイやシンジの姿を描く力はない。
 ストーリー自体は、めちゃめちゃに要約すると、「好きあっていた二人が何らかの理由ではぐれてしまい、再会して互いの気持ちを確認する」というもので、そういう風に要約してしまえば、ある意味では良くあるストーリーだと言える。私の「NO END SUMMER」もそうだし、何年か(あるいは十何年か)前にそういうオリジナルストーリーを書いたこともある。とある草の根系BBSに投稿したのだが、どんな話だったか細かいところまでは覚えていない。最後が女の子のセリフで「約束通りのキスなんて、しないのよ」だったということは覚えているが(ちなみに井上陽水の詞からのパクリ)、まさか読んだことのある人はここにはいないだろう。ちなみにファイルは現存していない。

 そんな私の話はどうでもいいのだが、この作品は一部が先行して掲示板に公開されており、この話で行く、という宣言があった時、このありきたりとも言えるストーリーをどう消化するか、つまりいかにレイとシンジの物語にしていくかに関心があった。

 タイトルが「月と狗、あるいはこの星」。あぁやられたな、と正直に思った。突っぱって背伸びして、少しだけ「勝負を捨てかけ」て、でもカッコつけて、挙げ句に「ごめん、今のなし」。自分は変わってないって気づいていて、でも最後まで背伸びして、「今も僕は狗だ。狗でいい」なんて気障なセリフ。
 こういうシンジはすごくシンジらしいと思うし、一足のスニーカーを共用するような、「共にいる」姿は、ヒト(と、カタカナで書くが)としてのレイとシンジというこの二人にはよく似合うと思う。

 二人には「頑張って」。作者には、いちいちスランプにならないで継続して書け、というところかな(笑)。


 自分の作品も評論しようかと思ったけど、とりあえず今日は止めておこう(爆)。


3月13日

 どう考えても日記ではなく月記である(笑)。

 tambというネット上の仮想人格は、数年前にある人物によって産み落とされた。ある人物というのは、いうまでもなく私である。こう書き記す時、当然ながら私という人物とtambという人格は乖離していることになる。実際、例えば掲示板等で何か書いたりする時は、tambを演じているという意識が、ごく僅かだがある。だがそれは全く別の人格を演じているわけでは無論なく、例えば役者がシナリオを渡されて演技する時に、シナリオに人格に関する記述が乏しいがためにやむを得ず地で演技するケースや、そもそもその役者を想定してシナリオが書かれたケースに近いと思う。
 そもそも別人格を演じる必要はどこにもない。他の方々を見回しても、オフとかで会っても騒がしい奴は騒がしいし、静かな人は静かである。従って、私は実際には物静かで大人しい実直な人物であるといっても誰も信用しないことであろう。
 だが、tambという人格で物を書く時は、プライベートな部分はほとんど書かない。書く必要がないからである。必要という言葉は微妙だが、つまり書く気にならないということである。書く気にならないことは書かない。逆に言えば、プライベートなことでも書く必要があると思えば書く。それは気分の問題に過ぎない。しかしそういう部分は別ハンドルで書き散らかしているので、勢いtambの書くことはエヴァに特化することになる。
 ハンドルを設定するという意味は、実人格と乖離させたいという意識が、例えばそれが友人にバレたくないという意味であっても、あるんだと思う。こういうことをやってるのは私ではなくtambである、という意識。これがどういう意識なのかは、自分でも良く分からない。

 本当に子供の頃、私は大学に行って学生運動をやるんだと思っていた。やりたいと思っていたのではなく、やるんだと思っていた。順調に時は進んだのだが、その時は既に学生運動は下火だった。ついでに書くと、高校生の頃に思想的には完全に転向してしまったので、盛り上がっていてもノンポリだったかもしれない。盛り上がっていれば転向しなかったかもしれない。別大学の友人にはそういう活動をしていた人もいるし、何とも言えない。
 高校教師の中にはその時代に身を置いていた人も当然ながらいて、全開で左だったという人には巡り会わなかったが、例えば封鎖で何もすることがなかったからやたら旅行ばっかりしてたとか、右と左の(などと十把一絡げに書くが)話し合いの場を設定したとか言う人はいた。そういう話を聞いても喪失感はなかった。羨ましいという気は、多少はあったが。

 ある時代以降、世代の共通体験はメディアの中にしかなかったような気がする。だがメディアによってもたらされる情報というのは、否応なく体験せざるを得ないという性質のものではない。実際、私はあまりテレビを見ない子供だった。学生時代の大半はテレビなしで過ごした。単に貧乏だったからだが。漫画もほとんど読んでいない。同世代であればほとんどの人が通っているであろう経験をしていないことがある。しかし、だから悔しいとか、あの番組を見たかったとか思うことはない。疎外感も感じない。
 急に思い出したが、口裂け女ってのはメディアとはあまり関係ないかもしれない。少なくとも私は初期に何かのメディアでそれを見たり読んだりした記憶はない。私が知らないだけで、実はメディア主導だったのかもしれないが。私の近辺では、口裂け女っていうのは異様に足が速いことになっていた。高速道路を疾走してるとか、100メートルを5秒切ってるとか。オリンピックに出ろって話だよな。

 私は、自分探しとか、自分の居場所とか、そういうことには余り興味がなかった。今でもあまりない。本当の自分なんてどこにでもいるしどこにもいない、などという意味不明なことを書くつもりはないが、本当の自分はこれである、と規定する気がない。そもそも本当の自分って何だよ。規定できるような物なのか? 居場所なんて、そこにいたければいればいいし、いたくなければ行きたい所に行けばいいと思う。それは挫折感を味わったことがないからだ、と思うかもしれないが、本当に挫折したからこう思うようになったのかもしれませんよ(笑)。
 数年前、あるいは十数年前かもしれないが、名前も覚えていないある若い女性の映画監督がインタビューに答え、自分探しだの自分がここにいてもいい理由だのという言葉を連発していたのを聞いてびっくりしたことがある。もしかするとエヴァの影響下にあったのかもしれない(私自身はまだエヴァに出会っていない)。だとすれば十年は経っていないのかもしれない。最近はそんな小説もあったようだが、どっちにしてもぞっとしない話だなと思った。余談だが、「ぞっとする」というと普通は「背筋がぞっとする」ということだと思う。「ぞっとしない」というのは「それほど感心したり面白いと思ったりするほどでもない。」という意味だそうなので、両者の意味は近いというか、少なくとも逆の意味ではない。

 アスカやシンジは、ひたすら閉塞したり挫折したりしているが、少なくとももがいてはいると思う。だがレイは、もがいてすらいないように私には思える。
 解放、という言葉は微妙な言葉である。中国はチベットを解放したらしい。なんとか解放戦線、なんてのもあったような気がする。それを承知で書くが、私はレイを解放する物語を書いているつもりである。なぜそんなことをするのか。書きたいから。ではなぜ解放したいと思うのか。
 いうまでもなく、綾波レイというのはアニメーション上のキャラクターである。実在しない、とは敢えて書かないが、何か小説を書いたからといって実際に何かなるという物ではない(実際に、というのも微妙な言葉ではある)。だが、魂を吹き込むことは可能であると思っている。しかしこれは「なぜ解放したいと思うのか」という問いに対する回答ではない。
 困っている人に対して何とかしてあげたいと思う気持ちは、あるいは普遍的なのかもしれない。それは自己満足でも何でも良くて、感謝されないならしないというものではないだろう、というのは年頭に書いた通り。だからレイが何も答えなくても、それは書きたいと思う気持ちとは関連がない。まぁ私の脳内ではあれこれ答えたりするわけだが(爆)。しかし彼女は別に困ってはいない。こういうのはどうなの、と提示しても、恐らく「あなたには関係ない」と言われるであろう。まるで雪風(神林長平著)の深井零のようだが、実際に関係がないといえば関係がない。こっちが一方的に関係したいと「思う」だけである。話は袋小路でさっぱり進まない。身の毛のよだつような話だが、こういうことを書き記すということは、つまり自分を見つめ直すという作業に他ならない。あーやだやだ。

 仮に学園エヴァを庵野氏が「君たちの欲しているのはこういう物か」と提示した物だとして、安易に「はいそうです」と答えるわけにはいかない。だが、違いますと断言することも私にはできない。ごく普通に生きていけることが彼らに対する私の望みであり、学園エヴァは余りにも普通であるからだ。では、私が学園エヴァに興味を持たないのは、それが到達地点だからなのか。

 ループ。続くかもしれない。


2月25日

 義務ではなく趣味でやっているのだから、書くことがなければ書かなければいいし、やりたくなければやらなければいい。やりたくなったらやればいいだけだ。
 しかし一ヶ月も日記を書いていないとは思わなかったわけだ(^^;)。

 今は日記のファイルに直接書いているので問題ないが、別ファイルに日記らしきものを書いた場合、書くということと公開するということの間にハードルができる。まぁハードルって言っても単にめんどくさいだけだが。特に何かを示唆したかったり訴えたかったりするわけではないので、書いたということで満足してしまい、公開なんてしなくてもいいよな、と思ってしまうのである。そして、事実として別に公開などしなくてもいいのである。
 何かを訴えたかったり示唆したかった場合、これは何としても公開しようという気になる、かと思えばあにはからんや、別にこんなこと訴えなくてもいいよな、などと思ってしまうのである。どっちにしても日記は更新されない。大事なのは勢いだけである(苦笑)。
 ある意味では小説の公開でも同じことで、別に絶賛されたいわけでもなく、公開などしなくても構わないのだが、まぁやりたいからやってるのであって、などと書くと繰り返しすぎるので以下は省略。

 ある素材があって、その料理を食すとする。これがなかなか素晴らしい。で、別の料理法を考えてみたりする。最初に食べた料理が素晴らしければ素晴らしいほど、別の料理法を考えるのは難しい。得てして奇をてらったものになりがちで、往々にして失敗作になる。だが失敗作だと料理人が判断したとしても、客は素晴らしいと思うかもしれない。無論逆もあり得る。このあたりの冷静な判断は難しい。何回か食しているうちに真の素晴らしさが理解できるというケースもある。料理法を変えてみたら素材の良さが際だったというケースもある。ただし、素材の良さを強調すればそれでいいという物でもない。

 以上、林原めぐみの「center color」を聞いた率直な感想。いい曲もあったし、良くわからない曲もあった。このアレンジはすごくいいなってのもあったし、これはどうなの? っていうのもあった。ただ、唄は凄まじく上手い。歌唱力もあると思うが、それとは別の次元で。

 今日は25日である。だが、上の文章は、実は23日に書いたものである。アップするのを忘れてたのである(爆)。つまり、「ファイルに直接書いているので問題ない」などというのは大嘘ということになる。脳が軟化しているのである。ああああ。


1月23日

 怯えた瞳をサングラスと鷹揚な笑顔に隠し、碇ゲンドウはゆっくりと彼らの方に向かって歩いてきた。

「久しぶりだな、冬月」
「碇……。久しぶり、ではない。一年も姿をくらましおって。今までどこにいたのだ?」
「ふ、問題ない」
「一年といえば、十四歳の子供たちが十五歳になる年月だぞ。問題ないではすまされまい」
「も、問題ない」
「碇。問題ないと言っておけば全て解決すると思っていないか?」
「司令! ううん、お父さん! 今までどこに行ってたのよぉ。あたし、心配してたんだからね!」
「誰だ」
「あたしのこと、忘れちゃったのぉ?」
「ま、まさか。レイか?」
「十四歳の子供たちが十五歳になる年月だ、と言っただろう? 一年という歳月は多感な少女を変えるには充分すぎる時間だ。お前がおらぬ間に、レイはすっかりリナ化してしまったのだぞ」
「おとうさぁん。お酌するわ(はぁと)」
「こ、こんなのは私のレイではない!」
「お父さん。人は変わっていくものだよ」
「シンジか」
「ふ、父さん。久しぶりだね」
「お前はちっとも変わらんな」
「大きなお世話だよ」
「あなた。私たちをほっておいて、今までいったいどこにいらしたのですか?」
「ゆ、ユイか!」
「ユイか、じゃありませんよ。まったく。私もりっちゃんも待ってたんですよ」
「司令。ご無沙汰しております」
「リ、リツ……赤木博士……」
「りっちゃんから話は聞きましたわ。あなた」
「ま、待て。待ってくれ。話せばわかる、話せば……」

ぱくっ



この話は実在の人物に実はほんの少しだけ関係がありますが、マジでほんの少しなので、事実上は全く無関係です(笑)。


1月4日

 新年明けましておめでとうございます。本年もひとつごひいきに。

 まぁ実際のところ、年が明けても特にめでたくなんかねぇぜという気もするのだが、とにもかくにも生きているということはめでたいことの一つではある(と信じている)し、新年を祝うという長らくの習慣をわざわざぶち壊すほどの動機もない。不思議なもので、めでたいめでたいと騒いでいると本当にめでたくなったりもするので、それはそれでよろしいのではないかと思う。おめでとうございます。

 何を書いたらいいのかよく分からなくなる瞬間がある。などと書き始めると、こんな話は前にも読んだな、と思われる方が何人かはおられるはずで、痴呆の初期症状のごとくであるが、まぁ気にせず書く。
 よく分からなかったり書くことがなかったりするのなら書かなければいいのである。とって食われるわけじゃなし、書けないものは書けない。別にスランプってわけじゃない。スランプという言葉は平均して好調だったり一定のレベルにある人が使う言葉であって、常に低調な人がまたかって感じで書けなくなっても、それは日常茶飯事なので、改めてスランプなどという言葉を使うまでもない。まぁ無理して書くと書けるようになったりするのだが、かように私の作家性は低いと何度も言っておろうが。

 ネタはいくらでもある。それを書きたいと思うかどうかは別問題であるし、更に言うと、書けるだけの筆力があるのかという大問題もあるが、まぁ書きたいネタはある(ついでに書くと、それが面白いネタなのかどうかもまた別問題である)。だが、私にはそれを次々とこなして行く力は、まだない。ばんばんネタを思いついてばんばん書ける筆力とスピードを持っている方々はうらやましい限りなのだが、うらやんでいても話は進まないのでひたすら書くだけである。書けなくても無理して書く。別に書けないんなら書かなきゃいいじゃんという気楽な気持ちで無理やり書く。楽しいからね。
 楽をして生きると楽なのだが、無理をしないと進めないと思っている。無理をすると後でもっと楽しくなる。何でもそうでしょ? まぁこれも程度問題で、無理し過ぎて嫌いになるってケースもあるので、ほどほどに無理をするのがいいと思う。そのうち無茶も出来るようになる。無理し過ぎて嫌いになるような奴は最初から芽がないと言えばそうなのかもしれないが、それは才能のある人の言葉であると思う。金は問題じゃないんだよ、なんてのは金持ちの言うセリフである。

 他に該当する作品はないと思うので「Running On Empty」だと思うのだが、たとえ流して読んだにしても、これを「俺」とアスカ様のラヴラヴな話と読まれると、これはなかなか厳しいものがある。さっぱり受け手に伝わっておらん。自分の余りの文才のなさに愕然とするばかりであるが、再読してもどうしてLAO(ラブラブ・アスカ・オレ)に読めるのかさっぱり分からぬ。自分で書いたのだから当たり前である。しかしこういう人間が投稿作家の方々に「これじゃ伝わらねぇ」だの「この日本語は変」だの言ってるのだから笑止千万である。やめてしまえバカモノ。

 書くのは純粋に楽しい。だから書いている。同時に読むのも楽しい。だから読む。どっちかを選ぶのは無理である。カレーかライスかどっちか選べと言われているようなものだ(そうか?)。こういうたとえを出すと好戦的な感じだが、こんなのは趣味の問題なので、ひたすら読者に徹しようが作家に徹しようがそんなのは自由である。エヴァFFなぞ読まなくとも良い。読みたければ読めばいい(逆に、何か書いてる人間がエヴァFF以外は読まないってのは相当問題があると思うが)。私はロックは好きだがフリージャズはほとんど聞かないし、パンクも好きじゃない。別にバンドやってるからって他のアマチュアバンドのライブを見に行かなあかんということもなかろう。それと同じである。

 後出しジャンケンはさらに続く。

 綾波レイに対する立ち位置というのも人それぞれなのだが、その余りの違いに驚愕する時がある。いつもは気にしていないだけに。共通項などないんじゃないかとさえ思う。だがここで「俺はみんなとはちょっと違って」などと言うと「誰でもそう言うんだよ」と嘲笑される。しかし考えてみるまでもなく、みんながみんな同じ立ち位置というのもいかがなものかという気もする。こうなると言葉遊びである。
 綾波レイは確かにかわいい。それは否定しない。というより、否定する気はさらさらない。私がここにいるのはそれも理由の一つであるのは事実だと思う。だがそれが主な理由ではない。アスカだってかわいいし、最初にエヴァを見たときに「あ、かわいいな」と思ったのはマヤぽんである。ミサトさんなんてかわいくってしょうがない。だからかわいいってのは前提としてあって、その上でなぜレイなのかという話だと思うのだが、これも純粋に私の問題で、レイが一番可愛いからここにいるってもの問題なくアリだ。

 私は妹萌えだと言われている。発端は私の「レイのことをグレた妹のごとく見ている」という発言で、私もそれに対する反応に悪乗りしたのだが、まぁ妹萌えでも十四歳萌えでも何でもよろしい。マジレスすれば、なんでもかんでも「〜萌え」と規定するのはいかがなものかと思うがどうか? 分かって書いてるんだとは思うけど。
 急に思ったのだが、娘のように思ってる人は娘萌えか? 母親のように思ってると母萌え? 女神だと思ってると女神萌えか? 恋人のごとくだと急にLROになるのは、恋人に萌えるのは当然という解釈がされているからではなかろうな。好きとか愛してると萌えとは違うぞ(違うよな?)。
 まぁなんでもいいんだけど。

 私が綾波レイを見るとき、悲しい、という感情を持つ。これは何とかしてあげたいという衝動に結び付く。具体的に何かするのはシンジだったりするのだが、まぁそれはちょっと置いておく。「悲しい」というのと「かわいそう」というのは異なる感情なのだが(当たり前だ)、この違いを文字にして示すのは難しい。どちらも何とかしたいという衝動に結び付くので、共通項はある。
 「かわいそう」あるいは「悲しい」から「何とかしてあげたい」に結び付く場合、これは見下していることにならないのか、という話がある。そんなことはないと思うのだが、明確な反論はしにくい。心の奥底で弱者を助ける快感を味わっているとすれば、それは見下していると言えるのかもしれない。
 私は偽善でも何でもOKと思っているクチで、すべて自己満足でいいんじゃないかと思う。災害ボランティアでも足の弱っているお年寄りをおぶって階段を上がるでも、感謝されている自分に酔っていようが、ここで何かしないと後で後悔するという強迫観念だろうが、何でもよろしい。結果オーライである。自分に酔うのが嫌だから何もしないよりはマシなんじゃないかと思う。やるにしてもやらないにしても自己満足には変わりがない。だから、仮に見下しているとして、それがどうした、という気もある。
 急に話があれだが、例えば自分の年老いた親を介護するとき、そこに見下しているという感情はあるだろうか。「かわいそう」で「なんとかしたい」と思うのは事実なんだと思うのだが。私は見下しているという感情はないと思う。従って、かわいそう=見下している、のようには一般化できないと考える。まぁだからどうだということもない。
 何とかしたいというのは、幸せになって欲しいということである。幸せの形は色々あるべきで、無論シンジといちゃつくだけが幸せではない。が、彼女の選んだ幸せをすべて無条件で受け入れる気にもなれない。例えばだよ、色々あれしてヤク中になって結局あれ、という形を彼女が選択して、これが私の幸せ、とか言われても、それは受け入れられない。ぶん殴ってよく考え直せと怒鳴りつけるって話になる。何とかしたいってのはそういうことだ。

 アヤナミストと呼ばれる人達は理屈っぽいんだそうである。私はアヤナミスト属性以外の人はあんまり知らないので比較はできかねる。そうかいな、と思うだけである。
 私個人の話をするが、私は元々理屈っぽい方である。エヴァ関連の話になるとそれに拍車がかかる。これをもって理屈っぽい人間がアヤナミストになりやすいなどという傾向を読み取ることは、当たり前だが無理である。
 正常異常を多数決のみで決めるのなら、自分は正常な場所にはいないとは思う。ただこれは、正常異常を多数決のみで決めるという部分に問題があるのであって、そういう決め方をして細かい部分まで見て行けば、たいていの人は異常である。単にアニメファンということで言えばそうそう少数派でもあるまい。
 まぁしかし自分でもどうかなと思う瞬間はあるので、理屈をつけて安心したいのである。理屈が付くと安心するのが理屈っぽい人なのかもしれない。理屈が付いていかんということもなかろう。反面、理屈の付かない快感もあったりするのだが。そんな分類なんてどうでもいいんだけど。

 とまぁこのように――とはストレートに続かない脈絡のなさなのだが――ここ十年くらいの私は何かを否定することはほとんどなくなっている。何に対しても、それはそれでアリ、である(例外はある。CCCDなどは明確にナシだ)。
 ただ、自分を否定されると徹底的に争う。他人を否定はしないかわりに自分も否定されたくない。これは相当自閉的なのではあるまいか。

 今年は喧嘩を売って歩く年にしようかと思っている。弟子と称する人物も切りかかってくるようだし、防戦一方では面白くない。返り討ちにしたうえで再起不能なまでにずたぼろにし、返す刀で師匠筋に戦いを挑む。ざっと数えて、ターゲットは四人いる。もとい、四人いらっしゃる。マジでお世話になったA氏、度々実のある話を聞かせていただき、この人はほんとに凄いと思っているB氏、会ったこともなければメールを出したこともないC氏、この人がアマチュアなのは日本文学界の大いなる損失なのではないかと思われるD氏(もしかすると私が知らないだけでプロなのかもしれんが)である。
 だが、戦いを挑むと言っても、具体的に何をしたらいいのかさっぱり分からぬ。麻雀でもするか? 仮に作品で挑んで、例えば読者投票とかで勝てる可能性は万に一つもない。それほどまでに高い壁なのである。それに、読者投票で勝って何になるというのだ。結局、基準は自分にしかなく、俺が自分で勝ったなと思えば勝ちだ。ということは、一人でこっそりと人知れず孤独に戦いを挑むことになる。挑まれた方は挑まれていることすら知らないのである。不毛である。
 つーか、この方々は尊敬すべき対象であって、倒すべき敵ではないというのが偽らざる感情である。まぁなんでもいいか。

 ということで、今年もマイペースでだらだらとやっていくと思いますが、ひとつよろしくお願いします。

 あ、お待ちいただいている方のおられるかもしれない「離れて〜」の続きですが、今月は無理です。沖縄に行くのはやめて、北海道に行くことにしたので(いみふめ)。