2005年8月〜10月の日記
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10月19日

 国内に、しかもまともな一泊以上の出張は久しぶりだった。大抵はメールか日帰り強行、あるいはせいぜい朝一の帰京で済む。しかし今回の仕事は丸二日の予定だ。つまり、最終電車で帰る予定だった。

 初日の仕事は滞りなく終わった。飯を食ってホテルに戻り、パソコンを持ってこなかったことを後悔した。パソコンがあれば、メールの返事やら掲示板に書き込んだりして時間が潰せるのだが。小説の続きも書ける。
 だがないものは仕方がない。酒でも飲みに出ることにした。
 ここは典型的な地方都市で、こういう街はどこでも大体同じだ。
 思ったとおりの場所に思ったとおりの店があった。
 扉を開くと、女性の声が飛び込んできた。

「お久しぶり」

 この店に来るのは初めてだ。そもそもこの街に来るのが初めてなのだから。どこかの店で会った女の子が移籍してきたのかと思いながら声のした方を見ると、あの女性がいた(7/23と6/15の日記参照)。いや、今は女性というよりも少女の姿だった。
 彼女は俺の隣に座り、こう言った。

「会いたかったわ。元気だった?」

 その日本語は流暢で、とてもここ数ヶ月の間にマスターしたとは思えなかった。しかもあの時は女性だったのに、今は少女ではないか。
 その少女は俺のためにバーボンを注文し、そして言った。

「ストーンズ、歌ってよ」

 ここはどこだ?


 てなことで、またもこのネタ(笑)。今回も嘘な上、某D氏のパクリまでしてしまいました。パクリと言うからには無許可です。問題です(^^;)。

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10月9日

 各種文学賞受賞者の低年齢化が著しいらしい。そういや堀田あけみが話題になったことがあったわな。もうずいぶん前の話だ。調べてみた。81年だ。堀田氏は当時高校生。今や三児の母だ。時の流れるのは早いな(^^;)。まだ現役で頑張っておられる模様です。

 それはそれとして、今の少年少女たちは携帯メールの普及で読み書きには長けてるんだそうだ。ちょっと前の芥川賞は確か19歳と20歳だったと思ったが、何とか賞は15歳で、何とか奨励賞は13歳だそうだ。ローティーンの美少女が受賞すると話題になっていいという理由は(その13歳と15歳が女の子かどうかは忘れたが)、もしかするとあるのかしれないけど(爆)、単にローティーンの美少女だというだけの理由で受賞するという話でもないだろうし、最終的にはビジネスだし、作品が面白ければ別に文句はない。将来性に対して賞を出すのはちょっと違うと思うけどね。将来性に対して出す賞だというコンセプトがあるならいいけど。
 それにしても、受賞者の担当国語教師はやりにくいことおびただしいわな(笑)。

 で、綾幸に目を向けるわけだが(笑)、投稿時の年齢で最も下なのは、もちろん推定だけど14歳。何でも自由に書けるオリジナルと強い拘束のある二次創作では難しい部分に違いがあると思うけど(どっちが楽かはともかくとして)、とりあえず頑張って下さい。若い時にしか書けないことはあります。
 もちろんお年を召した方にもその年齢でないと書けないことがあるわけですから、豊富な経験に裏打ちされた老獪なあれこれを駆使して頑張って下さい。
 さして若くもなく、かといってさほどお年も召してらっしゃらない方は、双方のバランスを取りつつ頑張って下さい。
 とにかく頑張って下さい(笑)。


 少女関連の話題をもう一つ。とある神社の前に「急募 巫女」という張り紙が貼ってあった(笑)。高校生の頃、巫女さんのバイトをやってた女の子も知り合いにいたし(その子はクリスチャンだったんだが)、それ自体は別に驚くことではないんだが、さすがに「急募」されるとどうなんかなという気もする(笑)。コミケ会場で募集するのがいいんじゃないかというのは偏見だろうか。あなたもプロの巫女になってみませんか、とか言いながら(爆)。


 急に文章技術の話なんだが、上に書いた「高校生の頃、巫女さんの〜」というのは、

1.私は高校生だった。
2.その当時の知り合いの女の子(同じく高校生)が巫女さんのバイトをしていた。

 という意味で書いたんだが、今現在の知り合い、例えば会社の同僚が高校生だった頃に巫女さんのバイトをしていたと書きたい場合はどうするのだろうか。「高校生の頃、巫女さんのバイトをやってた女の子も知り合いにいるし」と「いたし」「いるし」だけで書き分けるのであろうか。それとも私が高校生だった頃の場合で書くなら「私が高校生だった頃」と主語を付けるべきなのか、あるいは語順を変えて「巫女さんのバイトをやってた女の子が高校の頃の知り合いにいた」とするべきなのだろうか。もしかすると「巫女さんのバイトをやってる」なのかな。「やってた」じゃなくて。

 わけわかんね(笑)。

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10月2日

 このファイルを開くまで、9月は全く日記を書かなかったとは気づきませんでした。いや、諸々あれでして。8/26には「しばらくごみ拾い日記が続く」とか書いていながら、それもしていません。ごみ日記はPDAで書いていたので、それを拾うためには、1.PDAからCFカードを抜く。2.パソコンに挿す。3.改行コードを付ける。4.このファイルに貼る。という手順が必要なわけで、これはなかなかハードルが高いのです(苦笑)。まぁぼちぼちと。

 去る9/18日あたりに50万ヒットを達成したようです。まことにありがとうございます。アンケートの回答とかでも「このまま長く続けて下さい」という声が多く、心強い限りです。私としても閉鎖条件(というのがある)が満たされない限りは続けていく所存です。が、ふと思ったのですが、

 みなさん、ちゃんとついて来ていただけるんでしょうね?

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8月29日

 例の高校野球の暴力事件の話なんだけど。

 真相は良くわかんないし、誰かに文句を言うつもりもないんだけど、そもそも高校野球ってのは部活であって、それは基本的に教育の一環なんだよな。だから部員が部長に殴られたから出場停止ってのはおかしいと思うし、先輩が後輩を殴ったから出場停止ってのも変だと思うんだよね。それが何の教育になるのかわからんよ。問題を起こした生徒なり部長なりを謹慎とかにすればいいんじゃないかと。一人の問題行動がみんなに迷惑をかけるということを教えるっていう説もあるのかもしれんけど、私とかが高校生の頃は、普通に先輩とかコーチとかに殴られてたよな(笑)。野球部じゃなかったけど。今はどうなのか知らないけど、暴力事件即出場停止っていうのを全部活に適用したら、大会に出られる高校ってなくなるんじゃないのかな。
 いっそのこと全然関係ない華道部とかの生徒がタバコ吸ったら野球部もバスケット部もなんでもかんでも全部出場停止にするとか(笑)。そこまでやるなら一人の問題行動云々も説得力あるけどね。
 まぁでも、学校側が隠してたってのは(それが本当なら)、それこそ教育上良くないわな。

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8月26日

 楽しいことや面白いこと、気持ちのいいことは基本的にいいことであるというのは、前提としていいと思う。人は幸せになるために生きているし、幸せになる権利がある。幸せですと言えるのは気持ちのいいことだ。

 ちなみにまとまったことを書くつもりはないので、その辺はご承知置き下さい(笑)。

 80年代の狂騒の中、面白くなければテレビじゃない、みたいなことを言っていたメディアが、急に報道機関としての公平性がなどと言い出すと違和感を覚える。もっと言えば笑ってしまう(この場合の笑ってしまうというのは面白いという意味じゃないよ。まぁ面白いんだけどさ)。だがあの時代、面白いという方向付けをしたことは、少なくとも差別化を図るという意味では間違いではなかったし、報道機関としての公平性に自覚的であることも、当然ながら正しい。ただしひとつ書いておきたいのは、ニュースでヘッドラインの後にいちいちジングルを入れることに対しては激しい違和感を感じた。今でもそう感じる。
 余談になるが、全く公平で客観的な報道などというのは、実はあり得ない。これは、誰がどのようにしてそれが公平で客観的であるのかを判断するのかを考えれば至極当然な話だ。ある程度偏向しているのは、受け手の側がそれに対して自覚的であれば必ずしも悪いことではない。これが公平な正しい報道である、などと称して一つの言論しか認められないよりは遙かに健全だろう。名前を出すが、朝日と読売(あるいは産経)の社説での論争など読んでいると、物の見方は複数あるのだということが良くわかる。論争は絶えることがない。インターネット普及の遥か以前、パソコン通信で漢字とかが使えなかった時代でも、半角カナのみを駆使しつつ先祖までさかのぼって罵倒し合っていたそうだし(笑)。まぁこれが論争と言えるのかどうかはあれだが。なんにしても、論争があるというのは健全なことだ。

 面白いことは良いことである。
 ただし、面白ければそれでいいというものでもない。

 政治的な極論を二つほど例として書こうと思ったけど、あまりに生臭いのでやっぱりやめた。結論だけ書くけれども、ある意見に賛成する場合、賛成する理由が、その意見を言っている人が弁舌さわやかで面白いから、とかいう理由であるのは危険であろうということだ。当たり前である。賛成するということは世論を形成するということであり、それは原則として投票行動に結び付く(はずだ)。つまり直接的に生活を変える可能性がある(はずだ)。面白いからと言ってほいほい乗る前に、反対意見にも耳を傾けて欲しい。たとえ耳障りでも。独裁者も選挙で選出されるのだ。いきなり徴兵かなんかされて「それはちょっと」とか言ってももう遅い。
 まぁこんなのは政治に限った話じゃないんだけどね。面白いと思ったけど実は面白くなかったってことになるってだけの話だから。良く考えて、後悔のないように。

 話を戻します(^^;)。

 しつこいが、基本的には面白いことはいいことだと思う。だがこれは、とにかく面白ければいいという方向に走ると若干の問題がある。つまり、モロに快楽主義になるのはいかがなものかということだ。これではシャブ中である。
 一定の面白さが続くと、人は飽きる。だが面白さは際限なくエスカレートさせることはできない。面白さにおいて重要なのは、その絶対値ではなく落差あるいは加速度だと思うので、供給する側はその辺に留意しないと泥沼である。

 相変わらずこういう話になって申し訳ないのだが、これはプロレスにも通ずる話なのである(!)。プロレス技が果てしなく大技化し、やたらと高いところから落下あるいは投げ捨てて頭部を強打させるという方向に走っていることに対しては、少し前から警鐘が鳴らされている。そんな技など使わなくとも人は感動させられるしいい試合ができるということは、ほんの20年ほど前のビデオを見ればわかる。プロレスは殺し合いではないのだ。

 念のために書いておくと、これはこのサイトがエンタテインメントとして構成されているので投稿作家の皆様におかれましても落差あるいは加速度に自覚的である必要がある、と言いたいわけではない。そもそもこのサイトはエンタテインメントとして在るのではない。綾波レイという少女の幸せを願い考えるために在る(知ってた?)。
 だがこのサイトが、新世紀エヴァンゲリオンというアニメーションの、誤解を恐れずに書けば娯楽作品の中のキャラクターを主軸に据えて構成されている以上、全くエンタテインメントと独立したところにあるわけでもない。表現は文章あるいは絵によるものであり、基本線である小説は娯楽の範疇にある(私は、純文学と呼ばれる小説も、小説というスタイルを取る以上は娯楽であるべきだと考えている。絵が娯楽かどうかは判断を保留するが)。だから自分の書いたものを作品として考えたときは、その中での落差については考えられるなら考えた方がいいでしょうね。ここで泣かしとくと最後盛り上がるぜーとか、そういうことね。私はまだそんな境地にはおりませんが。

 皆様がここを訪れる目的は、人それぞれ色々あると思う。例えば息抜きだったりコミュニケーションを求めたり、それこそ読んだり見たりという楽しみを求めたりと。なんにしても、ここを訪れることが何らかの意味で楽しくて、それで結果的により良く生きることができるのなら、それは素晴らしいことであるし、望外の喜びである。

 で、楽しいとか面白いとかっていうのはどんなことだって話だ。ずーっと同じ事をやってると飽きる。サイトの閉鎖とか更新停止というのも、この辺に原因があるだろう。苦情とかカミソリメールが来たということもあるのかもしれないけど。このサイトもいつかは閉鎖することになると思うんだが、でもサイトをやっていることが楽しくなくなるという状況は想像できないんだよな。ここが微妙にマイナーなサイトであるということも、大きな理由の一つではあるんだと思うけど。つまりありがたい意見を言ってくれる人はいるけど大きなお世話をしてくる奴はいないとか、そういうことね。まぁその分感想とかも少ないんだけどさ。

 まぁあれだ。少なくとも表面的には作品を見せるサイトであるからして、最近の小説は面白くないとか以前に比べてレベルが落ちてるとかそういうことはあるかもしれない。実際にそういう声が私に届いているわけじゃないけどね。以前からさして面白くないという説もあるわな。まぁ才能のある人ばかりが奇跡的に集まって書いてるわけじゃないんだから、ある程度はしょうがないんですよ。重要なのは何かを伝えるということ、あるいは伝えようという意志を持つことであって、それがたまたま小説とか絵とか掲示板の書き込みとかそういう形を取っているだけなのです。

 自分の思っていることをそんなにほいほい伝えていいのか、つまり内省の必要性は、なんて話や、みんなが伝え手になると受け手は、なんて話もあるんだけど、それはまたいずれ。

 落差あるいは加速度を人に学ばせるのは社会でしかあり得ないだろうと思う。つまり面白いのはいいことだけど面白ければそれでいいってもんじゃないってのを教えるのは社会だろうって話だ。だが現代においてそのような「社会」は存在し得るのだろうか。この場合の社会とは、その人が所属している社会という意味だ。関係ない所に社会らしきものが存在してても関係なければ関係ない。いわゆる上流社会とかね。それがなんだかは知らんけど。
 学校に通っているうちは比較的明解で、ある意味では学校が社会そのものであると言ってもいい。
 では卒業、あるいは中退したらどうなるのか。かつては会社が社会の役割を担っていたんだと思う。だが今の状況、即ちいつリストラされたり倒産したりするかわからず、普通にヘッドハンティングされたり転職したりするようだと、自分が会社に「所属」しているという感覚は得にくいのではないか。そもそも就職することすら困難な時代である。
 これは延々と続くモラトリアムにもつながる話で、こんなところで私ごときに簡単に答えが出せる話ではなく、もしかすると高学歴化の一つの原因かもしれないとも思うわけだが、言っとくけど綾幸に所属してるなんて言うなよ(爆)。まぁ綾幸がどうとか言うのはあれだけど、ネット社会に所属ってのはある意味ではありなのかもしれん。年齢差を超えられるっていうメリットは、社会として捉えたときに意外と大きいような気がする。まぁ今はちょっとこの話はパスしておこう。

 何とか話を戻したい。快楽の話だ。
 楽しいというのがいい状態であるとして、その楽しさとは何なのかを立ち止まって考える必要もある。つまりアディクション、単なる中毒であるという可能性もあるわけだ。
 わかりやすい例を出せば、司令の命令に盲目的に従って最終的には無に還るのが楽しいのですと言われたとき、ちょっと待てよと言いたくなるでしょ?(笑) そういうこと。

 話が拡散しまくってるのでそろそろまとめに入りたいんだが、そもそもまとまったことを書いてないのでまとめるような事柄もない(爆)。

 エヴァのファンサイト的に言えば、書くのが楽しくなくなったら読むとか、読んでるだけじゃつまんなくなったら書くとか、あるいは絵を描くとか、そういうことの繰り返しで楽しさはキープできると思うんだよな。単にエスカレートするだけでない楽しみっていうのは自分で探さないといけないのよ。与えられるのを待ってるだけじゃダメだと。

 本質的には、直接的に快楽を求めるんじゃなく、結果的に楽しくなるような方向を目指すべきなんだろうと思う。
 だから、いくら書くのが楽しくても書くだけで全然読まないってのは、やっぱり間違ってると思うよ。たぶんね。

 ま、何やってもつまんなくなったら離脱するしかないんだろうな。やっぱり。


*****


 この日記は、6月22日から実に約一カ月にわたって書き続け、結局ぶん投げたものである(爆)。まぁこればっかり書いてたわけじゃないけど。ちなみにこれから何回かこういうごみ拾い日記が続く。
 書いた当時は当然ながら衆院解散など念頭にある訳がなく、本文中の政治的極論というのは郵政関連の話ではない。じゃあ何かというのを書いてしまうと、時の総理が靖国に参拝した場合、あるいはしない場合、どちらにしても日本は滅亡バッドエンドというシナリオを考えてみたのだった(爆)。あまりに無意味なので削除したんだけど、最初の方の稿には残っていたりする。
 ただでさえ注目度の低い日記、こんなぐだぐだした文章が続けばさすがにここまで読んでる人はごく小数であろう。それは読者を引き付ける文章が書けないという能力的な限界がある以上、現時点ではやむを得ない。面白い小説が書けないのと図式は同じである。
 歯を食いしばってここまで読んできたその少数の人の中には、tambは危ない橋を渡ってるなぁと感じている人もいると思われる。私もそう思う。その少数の人を相手にこっそり書くと、少なくともこの日記では、政治の話を避けるのはやめようかと思っている。政治の話はタブーだよねとか言って口をつぐむことが果たして正しいのかどうか、疑問に思うのだ。それほど重大な岐路に今の日本は、あるいは世界は立っているような気がする。
 綾波レイの幸せを考えるサイトに政治の話は必要がない。その通りである。だが必要のあるなしで言えば、そもそも綾波レイの幸せを考えるサイトなど必要ない(笑)。まぁそれはそれとしても、論争になりやすいというか先鋭的な対立を生みやすいとは思うので、慎重であるべきだとは思う。本線は綾波レイの幸せを考える場所だからね。音楽やハガレンについて話せるように政治のことも話せればいいと思うんだけど。
 で、慎重に書くけど(^^;)、つまり立ち止まって考えようということ。考えて出した結果については尊重する。とやかく言わない。もう一度書く。よく考えて、後悔のないように。
 もうすぐ選挙がある。選挙には戦術というものがあって、政党はそれぞれ勝つために工夫をこらす。ある党は改革するのかしないのかと二者択一を迫り、別のある党は問題は郵政だけじゃないという。それはそれでいい。だがどこに注目すべきかは国民がそれぞれに考えるべきだ。
 郵政の話をすれば、なぜ民営化しなければならないのか、民営化したらどうなるのか、あるいはなぜ民営化に反対なのか、民営化しなければどうなるのか。今からでもニュースや新聞を読んでいけばわかるはずだ。仮に郵政に注目するなら、単に改革するのかしないのかという選挙戦術的な部分以外に目を向けて考えて欲しいのだ。
 そして問題は郵政だけではない。郵政民営化が実現するならイラク派兵(という単語を使ってもいいよな)は問題ないのか、あるいは郵政民営化を阻止するためにイラクから撤退してもいいのかという観点もある。ここで民営化賛成イラク派兵反対という人は悩むことになるのだが(^^;)、それぞれ重要度を考えていただくしかない。

 主権は我々にある。政治家は権力を付託されているだけであって、最終的な責任は国民が負わねばならない。それが本当のはずだ。そして、誰に権力を委ねるのかを選択するのが投票という行為だ。

 考えてわからなければ、棄権という手段はアリだ。よくわからないままに何となく投票するよりはいいと思う。ただしそれは白紙委任したということなので、投票に行かなかったから責任はないということにはならない。めんどくさいから遊びに行くというのも同じ。

 投票なんかしたって結局同じだから行かない、という考えもアリだ。それはそれで構わない。確かに政治屋ばっかでアホかと思う。どこに理念があるのかと。それでも責任はないということにはならない。というか、選挙で政治は変わる。みんなが変わらないと思えば変わらないが。

 でもってだな、いろいろ考えて投票に行くと、ビール飲みながら見る選挙速報が面白いんだよ(笑)。なーに言ってんだバカとか評論家に突っ込み入れながら(爆)。

 こんなオチですまぬ。ちょっとした短編くらいの量はあるな(^^;)

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8月22日

 四周年ですわ。

 掲示板でもそうだし、過去のこのあたりの日記を見ても、私はずっと通過点だって書いてきてるし、それは間違いじゃない。いつまで経ってもずーっと通過点。区切りがあろうがなかろうが通過点には違いない。やめないんだから、転換点があっても転向しても通過点。
 しかしふと考えると、よくもまぁこんなことを四年間もやってきたもんだなとは思ったりする。動機といえばただやりたいってだけなのに。やめないけどね。

 ということで、延べ485288名の皆様に感謝しつつ、五周年、十周年、百周年(笑)に向かってだらだらやっていきますので、ひとつ今後ともよろしくお願いします。

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8月5日

 間もなくサイト開設四周年を迎えることになります。傲慢な言い方をしますが、まぁ通過点です。まだまだやるよ。

 三周年の時は「ことばの綾」と共に競作企画をやりました。あのブリザードのような企画から一年も経ったとはとても思えません。ま、企画の公開が今年に入ってからだったから実際に一年経ってないんですが(爆)。

 四周年では特にイベントはありません。先に言っておきますが、50万ヒットでもないでしょう。そんなにしょちゅう企画ばっかりできませんて。チャット大会とかならアリかもしれませんが。

 しかし全く何もないかというと、そんなこともありません。すわ新連載開始か、と思われた方もおられるかもしれません。実は私もそのつもりだったんですが、見事に無理でした。まだ資料集めの段階です。構想も完全には固まってません。まだまだかかるでしょう。では短編か。いえ、短編の構想もないのです。
 イベントもない、何か書くわけでもない。じゃあ何があるのか。
 それは「このページについて」と「投稿規定」の書き換えです(爆)。すいません、こんなことで。でもこれは懸案事項だったんですよ。「このページについて」はサイト開設からいじってないんで実態からかけ離れてますし、「投稿規定」は加筆に加筆を重ねた結果、もはや意味不明になってます(^^;)。まぁ何とかしようと。
 「このページについて」では、以前に予告したようにアンケートを載せます。いくつか新しい項目も用意しましたが、大して目新しいことはありません。期待しないように。

 しかしこの書き換えでさえ四周年までには書き終わりそうもないのですよ。なんつーか、考えちゃってね。気楽にやればいいんだけど。結局はいい加減にやると思います(爆)。でないと一生書けん。

 この日記のネタ、随分たまってるんだけど、数多くのネタが書き上がる前に私の中では賞味期限切れになっているという罠(^^;)。

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