2007年の日記
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12月27日

 永遠に存続するものというのは恐らくこの世にはなくて、ある一定の期間の後、あらゆるものは消滅する。
 というわけのわからん書き出しから消滅したサイトについて書くわけだが(笑)、先日atu氏の「red moon」が自然消滅した。掲示板で見ている限りではオフィシャルな仕事の方がかなり悲惨だったようなので、やむを得ないかなと思う。お疲れ様ですと申し上げたい。掲示板にはリアルで繋がりのある友人もいたようなので、とりあえず生きているとは思われ、その点では安心である。
 再会者氏の「パウラ最高 〜おかえりなさい。綾波レイ〜」――しかし改めて見ると凄いサイト名だよな(笑)。まぁうちのサイトも相当凄い名前だとは思うが――も「実生活上の環境の変化」により無に帰すことにしたそうだ。これも仕方がないことだと思う。このサイトは未リンクだったのだが、思うところあって「失われた絆」に記述しておいた。
 覚えていらっしゃる方もおられると思うが、デパストM氏のサイトも消えている。氏の親友であった方のサイトも消えている。あのあたりはちょっとシャレにならん。こういう時は掲示板など見ると情報が得られたりするものなのだが、スパムに埋め尽くされていて役に立たない。殺意すら覚える。気になりだすとどうしようもなくなるので、ちょっと気合入れて調べてみた。デパストM氏はブログに移行した模様で、今月の書き込みは確認。とりあえず良かった。親友氏の消息は不明だけど、遠くから見守りたいと思う。いつまでもお元気で、幸せになってください。

 新しく出来たサイトもある。ここからも二つのサイトにリンクした。両方ともLAK傾向なのがなんともあれだがw、なるべく長く続けていただきたいと切に願う。

 もちろん私も頑張ります。

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9月1日

 中川昭一という政治家がいる。といっても、今回はややこしい話は一切抜き。
 こないだまでは政調会長で――これは政務調査会の会長ということらしいが、そもそも何をする会なのかよくわからん(^^;)――内閣改造でお役御免となったわけだが、改造当日、当然のように自宅前で記者に取り囲まれるわけだ。だが記者はマイクは向けるもののみんな無言。で、中川氏がひとこと「なんか聞いてよ……」(テロップでは「なんか聞けよ……」)。これはなかなか面白かった(笑)。
 郵政民営化法案が参院で否決された時、確か官邸だか国会だかを歩く小泉総理(当時)に向かって記者が「総理、解散ですか!?」と聞き、小泉氏が大きくうなずいて、画面に「オオー」という漫画風手書き文字が出た時くらい面白かった。まぁそんだけなんだが。

 話は変わって、いわゆる「ゆとり教育」というのを止めるらしい。要するに学力低下が問題だということになったみたいなんだけど、そもそもゆとり教育というのは、やたらと詰め込むのはいかがなものか、というのが議論の発端だったはずで、その辺の反省はどうなっているんだろう。そして学力低下が本当に問題なのであれば、その期間内に育った人たちへの責任は誰がどう取るのだろうか。狭義のゆとり教育は平成10年度から11年度にかけて始まったらしいけど、そんな短期間で結果が出るもんなのかね。ゆとり教育は受験産業を利するだけで結果的に格差が広がるという見方はあるけど、それは最初からわかっていた話で、あまりにも腰がふらつきすぎてるよなぁ。

 今日はヱヴァンゲリヲンの公開初日だが、その手の話題がないのが悲しい(^^;)。いつ見に行けるのかもまだわからんし。気付いたら公開終了してたなんてことにならんように気をつけたい。

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8月16日

 日付が変わってしまった。昨日は終戦の日であった。

 「終戦の日」という言い方をするようになったのはいつからなのであろうか、とふと思う。かつては「終戦記念日」あるいは「敗戦記念日」と言っていたはずで、この両者間でどう呼ぶべきかというような論争もあったと記憶している。つまり、敗戦を記念するとは何事か、みたいな話ね。
 個人的には敗戦を記念して何が悪いのかよくわからんのだけど、「終戦」の「戦」を先の戦争に限定せず「全ての戦いの終わり」という願いを込めて「終戦記念」と呼ぶという意見には賛同できると思った。だがそれも今日の世界を見渡すと虚しい。
 「〜の日」と「〜日」という言い方には、その日が何かの日と特定し得るかどうかという違いがあるのだが、こんな説明ではわかるわけがないので(^^;)例を出すと、「建国記念の日」というのがある。「建国記念日」というと建国した日のことになるが、「建国記念の日」だと建国されたことを記念する日ということになる(Wikipediaで「建国記念の日」の項を見ると詳しく書いてある)。
 で、「終戦の日」であるが、これもWikipediaから引用するが、「天皇が御前会議での聖断によってポツダム宣言の受諾を決定し中立国を通して連合国に通告したのが8月10日、ポツダム宣言受諾が確定し受諾の詔勅が発せられたのは8月14日、軍隊への停戦命令が出されたのは8月16日、日本政府が降伏文書に調印したのは9月2日、ソ連との戦闘終結は9月4日」ということだそうなので、15日に何もかもがズバっと終わったわけではない、ということで「終戦の日」にしたのではないかと想像する。特に文句はないです。

 こういう日なので、やはり戦争について考えるわけだ。一部政治家には、こいつは気に入らん奴をぶん殴りたくてしょうがないんだろうな、と感じざるを得ない奴もいて、そういうのは客観的に見ると「戦争したくてたまらん奴」に見えるんだが、そういう奴らには「戦争すると人が死ぬんだよ」という基本的な事実を、こういう日に再確認していただきたいものである。

 前にも書いたと思うが、私はガチガチの反戦論者ではなく、理論的には「正しい戦争」というのはあり得ると考えている。理論的にはね。ただ、こういう日に改めて考え直すと、「正しい戦争」という言い方はやはり正しくないような気がしてくる。ではどう言えばいいのかというとなかなか難しい。「避けられない戦争」とでも言えばいいのだろうか。
 ただし、その時点では避けられないものであったとしても、後になって考えれば避ける手段はあったはずで、その意味では絶対に避けられない戦争は存在しえない、とまでは言わないが、避ける手段をギリギリまで模索し、その手段を選択することが戦争という手段に訴えて人命を喪うこととどちらが重いのか、ということは考えなければならない。戦争をするという選択は、人命を喪うという選択に他ならないのだから。歴史から学ぶというのはそういうことのはずだ。戦争を支持するという選択と戦争をするという選択には基本的に変わりがない。

 自爆というテロの手段があるが、恐らく多くの自爆テロリスト達は「命にかえても守りたいものがある」という想いの元に自爆しているのだと思う。これは先の戦争における特攻隊員たちの想いと大きくは変わらないと思う。末端の兵士あるいは民間人において「命にかえても守りたいもの」を侵害するものは間違いなく敵であって、正義も悪も関係ない。だから戦争を止めるには、命にかえても守りたいものがあるのは分かるがちょっと待ってくれ、と言わなければならない。これは簡単なようで難しい。

 実感として、今の日本の経済状態は、戦争がどうのこうのといっているような状況ではないと思う。都会と地方の格差は良く言われているが、新聞のアンケートではお盆の帰省の旅費が負担になると回答した人も多かった。一方で年収何千万を超えた人が何パーセント増えた、みたいなニュースも聞く。更に一方では、非正規雇用者の時給を何円だか十何円だか上げたいが地方の中小企業の経営は依然苦しく、というニュースもある。ネットカフェ難民なんていう存在もある。本当に景気が回復してるのかどうか知らんが、もししているとしてもそれは彼らによって支えられているのは間違いない。これじゃマジでブルジョアジーとプロレタリアートだよ。冗談じゃ済まされないぜ。その年収何千万を超えた人たちの下に、何百人か何千人かのその日暮らしの人たちがいるんだよ。これは間違ってるだろ。
 そういう人たちの不満はいずれ爆発するはずで、その方向が「あの国が悪いんだよ制裁を加えるべきだ!」という、あまりにもありがちな方向に向かわないためにも、戦争については考え続けないといけないと思う。

 まとまったかな?

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7月7日

 七夕とは全く関係の無い話。

 サッカー日本代表監督は、現時点ではイビチャ・オシム氏である。氏は祖国で内戦を経験した。戦争から学んだ事もあったのではないか、という質問に対し、こう答えたんだそうだ。たとえあってもあったとは言わない。何かを学べた意義を認めれば、戦争が必要なものになってしまう。

 チルドレンも戦争がなければ別の人生があったんだろうと思う。レイは生まれてこなかったのかもしれけど、学園みたいな可能性はいつでもあり得るんだし。

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6月24日

 来てる人のところには来てると思うけど、私のところにもスパムメールが山のように来る。自動的にスパムフォルダに移動するので、誤判定がないかどうかざっとチェックしてごみ箱行きになる。ごみ箱を空にする時にもチェックしてるから、大事なメールを間違って捨ててしまうことはたぶんない。と思う。
 さっき来たスパムのタイトルは「tambさんが完全無料」だった。そうか俺って無料だったんだな、と思ったら妙に納得したw
 世の中には金に換算できないことがたくさんあって、そのひとつが「愛」だなんていまさら言うつもりはあんまりないんだけど(^^;)、「誰も、なにも信じられない世界で、それがあるから生きていける」ものがひとつあるとして、それを希望と呼ぶならば、それは恐らく金では買えない。でもさ、金があればいいってもんじゃないよ、なんてセリフは金持ちの吐くセリフだよな。人はパンだけでは生きて行けないけど、パンがなければまた生きて行けないことも事実なんだかから。
 絶望をきれいに描ける人って幸せなんだなって、だから思う。泣かせる映画を見てわんわん泣いてすっきりして出て来る人っていうのもきっと幸せな人たちで、それはとても素敵なことだ。私は自分が絶望のどん底にいるとは思わないけど、でもやっぱり希望を描きたいと思う。望みは希求しなければ手に入らないものだから。
 しかしだ。「希む」と書いて「のぞむ」と読ませるのは一般的にありなのかどうか辞書を引いてみて、「希」というのは「少ないこと。めずらしいこと。まれ。」という意味だということを思い出して激しく凹んだのであった(爆)。
 エヴァ関連でも色々思うことはあるんだけど、まぁいいや。
 ちなみに上の「誰も、なにも信じられない世界で〜」は福井晴敏の「Twelve Y.O.」からの恣意的な引用です。

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6月6日

 今日はシンジ君の誕生日ということで、なんともめでたいわけであるが、残念ながら今の私には何かして祝ってあげる余裕はないので、とりあえず言葉だけで。「おめでとう」
 本格的には綾波さんに祝ってもらえばいいと思うが、彼女にならそれこそ「おめでとう」とひとこと言ってもらえればそれで充分だよな。

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5月31日

 目の前には巨大な壁があって、これは絶対に乗り越えられない(と思う)。
 撤退しようかと思っても、後ろには道がない。
 では私はどうやってここに来たのかという話になるわけだが、実はヘリコプターで降下してきたのだ。ヘリが去ってしまえば引き返すことはできない。
 さてどうするか。まぁ右に行くか左に行くかしかないわな。どっちがいいかね?

 というわけで、今回は意味不明な愚痴でしたが、とりあえず生きてます。
 生きてるだけで丸儲け。と言い聞かせつつ。無理矢理にでも。

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5月3日

 今日は憲法記念日なので憲法の問題について書こうと思う。

 言うまでもないことだがこれは非常に難しい話であって、「いやぁちょっと考えれば誰にでもわかるよねこれが正解」などと結論が出ることはない。
 ちょっとややこしいことを書くときはいつも書いてると思うが、様々な意見に耳を傾けつつ自分で考えるということが大事である。以下に書くことは「様々な意見」の中の一つに過ぎない。


 まず、憲法というのは基本的に国家を律する法であると考えている。これは立憲主義といって、この考え方そのものが正しいのかどうかは憲法学者に委ねたいが、国家が国民に積極的に自由を保障せよという考え方まで含めれば現状では主流な考え方のはずだし、もしそれが私の勘違いだとしても極端な少数意見ではないはずである。一応これを前提としておきたい。つまり、そういうことじゃなければ法律でやれという話である。


 まず憲法改正そのものだが、絶対にやってはならんということはないと思われる。当たり前だが。千年や二千年前の憲法が通用するのかどうかってことだ。
 ついでに書いておくと、いわゆる押し付け憲法論だが、成立過程において何らかの押し付けがあったからというのが改正理由になるとは思われない。結果として成立した憲法に問題がなければ問題ない。何か問題があるから変えようと思うのだ。

 とりあえず、どう変えるか(あるいは変えないか)はともかく、改正そのものは問題ないと思うので、ここからは憲法問題の核心である9条の話になる。

 まず理想論から書こうと思う。
 これは恐らく誰にも異論はないと思うが、最終的にはこの世から戦争なるものが一切なくなるのが理想である。そうなれば軍備などは一切必要なく、自衛(のための軍備)の必要もない。自衛権がどうのという論議すら不要である。攻めて来る相手がいないのだから自衛の必要性が発生しない。
 まぁこれは相当難しい。理想は捨ててはならないが、百年二百年でできることではなかろう。

 ではまず私の結論を書く。
 将来的に憲法は改正すべきである。専守防衛を明記、集団的自衛権を認め、自衛隊の目的(国際貢献等)も明記する。
 ただし、最低でも五十年以上先の話で、現時点での改正には反対する。

 おわと思った人もいるかもしれないので解説します。

 まず専守防衛だが、これはいいでしょ。こっちから攻め込んだりしないということです。
 しかし、例えば複数の国が集団で一つの国に対して経済封鎖などを行えば、それは武力を伴わないだけで実質的な開戦状態ではないかという考え方もある。これは非常に難しい話なんだが、それでも武力には訴えない、という話だと思っていただきたい。逆に言えば経済制裁にはそれなりの慎重さが求められるべきだと思うが、これは別の機会に。

 集団的自衛権。これを認めないというのは、例えば隣を歩いている人が急に暴漢に襲いかかられたとしてもナイフを振りかざして止めてはならんという話だと思われる。つまり、ここで下手に止めに入るとこっちも襲われて怪我する危険があるからナイフなんか振りかざさないで警察を呼べということだと思う。
 これは一つの見識であり検討に値するが、圧倒的に強力かつ公正な警察力が必要である。ほとんど漫画「沈黙の艦隊」の様相を呈して来たが(^^;)、もしかすると上に書いた理想論の前段階としてはあり得るかもしれない。だが理想論と同様に現実的ではないと考えざるを得ない。誰がその「圧倒的に強力かつ公正な警察力」を提供し構成するのか?
 というわけで、今しばらくは集団自衛権を認めるべきであろうと考える。

 国際貢献だが、これはやはりするべきであろう。近所の家が強盗に押し入られて、町内会で「助けに行くぞ」という時に「いや、うちはちょっと」というのは人の道にもとると思われる(「うち」が老人や子供ばかりでなければ)。ここで「町内会で」と書いてあることには留意して欲しい。隣や向かいが「行くぜ!」と言っても町内会で「いやあれは強盗というよりセールスだ。とりあえず様子を見に行くということでどうだ?」となれば、いきなり突入しないで様子を見に行くべきなのだ。もちろん警察がいるなら任せればいいんだが。

 実際問題として、現状で単に集団的自衛権といった場合にそれが問題になるのは米軍と共同行動をしている時に米軍が攻撃された場合だと思われる。私としては集団的自衛権というより集団的安全保障の方向で考えるべきだと思う。即ち日米安保条約は破棄する方向に向かい、安全保障は多国間で相互に行うべきだと思うが、これも別の機会にでも。

 では、なぜこれらの改正を現時点では行うべきではないと考えるか。
 上記の改正を行い軍事力による国際貢献を行おうとするならば、自衛隊は相当な強化をすることになる。専守防衛を明記したとして、それをどうやって担保するのかという問題がある。
 現行の9条には「武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」と書いてある。様々な解釈があることは承知しているが、私にはこの憲法下で自衛隊の海外派兵(あえて派兵と書く)が可能であるとは思えない。
 最初に書いたように、私は立憲主義の立場を取る。現行憲法下で海外派兵を行う政府に憲法を守る意思があるとは思われない。そのような政府に強力な軍事力は与えられない。軍事力で他国を侵略しないと信じられなければならない。軍事力によって国際貢献を行わなければならないと考えるならば、憲法を強引に解釈し直すのではなく改正すべきなのだ。
 この責任は、政府及びそのような政権を許してきた国民にある。自分の責任は自分で取らなければならぬ。しばらくの間は我々はまだ子供です国際貢献は出来ませんと土下座して回らなければならないのだ。

 最低でも五十年後と書いたのは、五十年もすれば今の政治家は全員引退しているであろうという予想である。

 とまぁここまでさんざん勇ましい事を並べ立てておいて全部ひっくり返すようなことを正直に書くが、いかに国際貢献であろうと、自分はともかく自分の子供や孫を戦場に送り出すという選択は重すぎる。国連軍がいかに圧倒的な軍事力を持とうとも、地下に潜ってゲリラ化する可能性はある。こっちにとってはゲリラだろうが、相手にとってはレジスタンスだ。世界平和の為に死を覚悟しろと自分の子供に言えるか? 
 こういうことを書くから平和ボケとか言われるんだと思うが、本当に言えるか。止めろお前が死ぬことはないと言わないか。
 だが誰かが行かなければその戦場では子供たちが死に続けるのだ。爆撃によって、あるいは爆弾を抱えて自爆して。

 現行憲法の精神は、武力によらず国際紛争を解決する、という部分にあるはずだ。
 それが具体的にどういうことなのか、私にはわからない。だがあくまでそれを追及しつづけるというのが日本の進むべき道なのかもしれないという気は、強くある。


 真面目なことを書くと疲れる(爆)。次はエヴァの話でも書きたいものだ。
 つか、物語を書けよ(N2爆)。

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4月27日

 一部では契約社員やパート労働者を正社員にするという動きがある。これは要するに労働に対する意識を高めようという会社側の意志らしい。求人も、正社員の求人は増え、パートのそれは減少傾向にあるらしい。
 とは言え、これは一次的かつ一部の動きであろうと思う。某経済団体会長の会社の偽装請負事件を巡る対応の迷走を見てもわかるように。従って、契約社員やパートという雇用形態が無くなることはないと思われる。雇用調整がしやすいからだ。

 バブル崩壊後の暗黒の時代に就職時期を迎えた世代を、ロストジェネレーションと呼ぶ動きがある。マスコミってのはなんてレッテルを貼るのが好きな人種なんだろうと思うが、なんにせよこの世代の人々がこの先他の世代の人々と同様に就職して行くのは、残念ながら難しいと思われる。それが企業側の論理だ。この世代の人々に責任は、ない。
 そしてこれからも、会社が傾けば、経営者はためらいなくリストラと称して首を切りまくるだろう。最初に切られるのは非正規雇用者である。

 このような雇用形態の違いによる格差を一気に解消する手段がある。それは、正規雇用という雇用形態を一切止めるということである。社員などというものは存在せず、労働者は全員パートである。労働者以外の人物は出資を伴う経営者である。ブルジョアジーとプロレタリアートが奇麗に分かれていて、非常にわかりやすい。

 当然ながらボーナスとかは一切なしである。出来高制か完全時給制になる。一部の超有能な、例えば営業等に驚異的な才能を発揮するパートは高給で引き抜かれて行くだろうし、会社はそれを阻止するために高額なギャラを用意するであろう。そしてこの層はやがて資本家になる。会社の業績が悪くなれば、さして有能でないごく普通のパートをばんばん切る。

 これにより、階級としての資本家と労働者に完全に分かれる。格差は広がり、富める層はより金持ちになり、この人々が日本経済を牽引して行くことになるであろう。しかし、労働者層は基本的に資本家層に搾取されているので購買力は低い。従って海外に市場を求める事になり、現状を見れば明らかなように労働力も海外に求める事になる。労働者のギャラは下がり続け、やがて安さに魅力のある労働力として注目されるようになり、海外からも安い労働力を求めて工場とか会社とかが作られるであろう。搾取は続く。歴史の必然として、立て万国の労働者ということになり、失うものは何も無いと叫びつつプロレタリア革命が起き、ソビエトと化す。
 品格があり、かつ美しい国であるところの日本はこうして実現するのであるw


 ついでと言ってはなんだが、これで解消するもう一つの問題がある。年金問題である。つか、ここからはマジだ。
 つまり厚生年金は不要なのだ。会社が半額負担とか言うから話がおかしくなる。こんなのは自己責任でいい。半額負担してた分は給料に回せ。議員に対する年金とかも全然いらん。年金完全民営化だ。郵政民営化よりよっぽど前向きだ。
 年金がないと困ると思う人もいるだろうが、国民年金は残す。というか、これは税金でやればOK。国民年金だけじゃ、と思う人は民間保険会社の年金に加入するべし。
 保険も国保だけでいい。言っておくが、その辺の八百屋のおっさんや魚屋のおっさんはみな国民年金に国民健康保険だ。なぜ勤め人が優遇されねばならぬのか。私は野菜とかは売ってないが国民年金で国保だ。三割負担だ。文句あるか。

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4月11日

 この憂国日記(になってしまったことを皆さん覚えてます?汗)だが、思ったことを書こうとして、まぁ書くんだが、それで事実関係をもうちょっととか思って調べたりすると、当然なんだが知らないことがわらわら出て来て、うーむとか思ってるうちに時間がなくなってお蔵入りになるわけだ。
 実際問題としてそんなことを調べてる暇があったら新作でも書けよと言われそうだし、自分でもそう思うんだが、こうやって何か別のことを考えたり調べたりするのは物語を書く際にも生きたりするのである。
 だが調べたりしてお蔵入りになるのもなんなので、思ったことをそのまま書くという暴挙に出ようかと思う。というわけで、間違いがあるかもしれんので、おわとか思った人は調べて下さい。で、教えて下さい。
 こういう方向で行くとなるとブログでコメントが付けられるっていうのはいいかなと思うが、どこのブログにしようかなとか考えたり色々設定したりするのがめんどくさいし、そもそもいつまで続くかもわからんので(今日だけかもしれんぞ)、このままで。なんかあったら雑談掲示板でよろしくです。

 というわけで、例の沖縄集団自決問題。

 大虐殺とか慰安婦の問題もそうなんだけど、たかだか六十年前に起きたことでなんで今になって新説とやらが出てくるのかがよくわからん。生きている当事者だっているのに。恐らく「今だから言えること」ということなんだとは思うけど。当事者同士の証言が異なったりするとまたややこしいし。
 で、裁判を起こしたその元軍人の方は、恐らく直接関与はしていないんだろうと思う。いかにあの時代とはいえ、軍人だから全員が同じことを考えていて同じ行動をとるわけでもないだろうし。
 だが例えば「わかってるよな?」とか言いながら(その元軍人の方がそう言ったのではないかと言いたいわけではないので念のため)手榴弾とか渡されて「わかって」しまった場合、それは軍の直接的な関与は無かったということになるのだろうが、それで軍なり国なりの責任がいくらかでも軽減されるとは思えないんだがどうであろうか。
 逆に言えば「これで自決せよ」と言って手榴弾を渡した軍人がいたとしても、その軍人個人の責任を問えるとは思えないのだ。
 従って、軍の直接的な関与があったかどうかというのは歴史問題として究明されるべきだと思うが、国としてはその結果にかかわらず「自らの意志で自決した」とか「勝手にやった」とか言うことは許されず(そういう発言は耳にしていないが)、つまり軍の直接的な関与そのものは本質的な問題ではないと思うのだ。

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3月30日

 綾波さん、誕生日おめでとうございます。
 そして皆様、あけましておめでとうございます(爆)。

 なんつーかその、あれですな。もうちょっと何とかしたいもんですな。いろいろと。

 で、誰がおじさんだって?(爆)

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