2012年の日記

12月31日

 そういえば去年の今頃も「年末年始」というタイトルで日記を書いたような気がする。こういうときにどうだったかなーと困ることになるのだが、逆に言えばこういう時にしか困らない。まあでも、来年は日記の最初にタイトルを書いていこうかなと思う。どれくらい書けるかはともかく。あと日記タイトル四文字縛りもそろそろやめよっかなー。

 とにかく今年はtambの中の人的にいろんな事がありすぎた。それは必ずしも忙しいということを意味しないのだが、精神的にテンパっていると忙しさを許容する水準が著しく低下する。なので主観的には異常に忙しかった。今年のこの忙しさは去年の暮れの段階である程度覚悟していたわけだけれど、そう考えると今年は本当にあっという間だった。
 この余波は来年前半までは続く見込みで、ということは来年も恐らくあっという間に過ぎてしまうであろう。まあでも何とか時間を作ってカウントダウン企画の続きも書きたいし、他にも感想メール含めて色々書きたいことはある。書きたいことがある限りは、それこそ急死でもしない限りたとえ誰もいなくなってもこのサイトが消えてなくなることはないので、いましばらくはお付き合いいただきたくよろしくお願いします。

 あと今年はQだった。ネタバレ掲示板以外でのネタバレをいつ解禁するかは悩ましいのだけれど、まあ新年には解禁でいいかな。
 二回見に行って、一回目と二回目ではかなり印象が変わった。これについても書きたいのだけれど、年明けには何とか三回目を見に行って、それから書ければと思う。
 率直に言えば、これはもう書いたかな、エヴァって元々こういう話なんだったと思う。映画がこれからどうなるのかはわからないけれど、制作者が救わないならこっちで救ってしまおう、というのはこのサイトの重要な柱の一つなのですよ。


 今回は実はスマホのことを書きたいと思っていたのだけれど、それは来年に先送りにするとして、まずは選挙の総括などをせねばならぬ。ならぬということはないか。総括をした方がいいかなと(笑)。
 ご存知の通り自民党の大勝となったわけだ。投票率がどうとか自民党の獲得票数そのものはどうとか第三極の潰し合いがどうとか様々な分析が行われているが、選挙なんてものは結果が全て。国民は自民党を支持したのだ。投票に行かない、あるいは白票を入れるという選択肢も含めて。
 ざっくり言えば、原発の是非とか財政赤字をどうするとかいうことよりもとにかく景気を良くしてくれ、ということだったのだろう。それはとても良く理解できる。大嫌いな言葉をあえて使えば、大衆迎合、ということになるのだろうけれど。熱さは喉元を過ぎた。あるいは、大丈夫って偉い人が言ってるから。責任は偉い人を信じた人にもある。それを自己責任という。
 なんとなく、何としても消費税を上げたいがために目先の景気をむりやり良くする、みたいな感じがして気に入らんといえば気にいらんのだけれど、消費税を上げる上げないにかかわらず景気が良くなって税収が増えて財政赤字も解消し、我々の給料も上がっていろんなものがうはうはと買えて当然ながら会社も増収増益雇用しまくり、となれば特に問題はない。それだけ見れば。そして、そう上手く行けば。
 原発とか憲法とかいう部分を除いて、気に入らんことをいくつか。
 参院選までは余計なことはできない、と誰かが言ったとか言わなかったとか。余計なことというのが何かは微妙だけれど、参院選で勝ったらむりやりいろんな余計なことをやるつもりなのか、と。あと、どこぞの落選議員が、我々のために一致団結を、と言ったとか言わなかったとか。我々はあなたのために投票するわけではない。その事実には自覚的であって貰わないと困る。政治をやるつもりであるならば。

 来年もよろしくお願いします。


12月13日

 Qが公開されたりしてるが、それはちょっと置いといて。

 選挙である。
 この日記では「政治の話はタブー」などと言わず、それなりに触れることにしている。6/26にも書いた。ただし、特定の政策あるいは政党に誘導する気はないので、選挙前には「とにかく投票に行かないと何も変わらないし投票行動で変えることができる」とだけ書いてきたつもりだ。だがしかし。
 投票で変わる、という民主主義の原則は信じたいと思うが、6/26に書いた理由でそれが崩れつつある。私自身がどうすべきかまだ迷いがあるという面もあって、今回は政党名を出しつつとっちらかったことを書く。読んでる人は誘導されないようにお願いしたい。

 現政権が消費税は上げませんと言っていたのかどうかについてはやや微妙な面があるのだが(参院選があったので)、とりあえず消費税は上げない、と言って政権を取ったことは間違いない。個人的には増税はやむを得ないと思っているが、この点において現政権は民主主義に対する重大な裏切り行為を働いたと思っている。これは許しがたい。
 では自民党に回帰するかと言われると、それもどうかという気がする。安倍晋三はキラキラネームがお気に召さないとかいうのは政権公約でも何でもないのでどうでもいいと言えばどうでもいいのだけれど、名前が妙だからいじめるってのはやはり明確にいじめる側が悪いと思うし、政治家に自分の子供の名前であれこれ言われたくない。大きなお世話という奴だ。
 二つ書く。まずは原発の話。
 原発を動かしたい理由は色々あるんだろうけれど、推進派が事故のリスクをどう考えているのかが本当にわからない。何年も立ち止まって考えてる場合じゃないと思うんだが。もちろん今すぐ全て廃止にするというのが現実的だとは思わない。だが方向性に議論の余地はないと思うのだ。もう一度事故が起きて、その時に奇跡が起きなければ終了ではないのか。それこそ奇跡を待つより捨て身の努力であろう。言葉遊びがうんたらとか言ってるようだけれど、こういう問題を言葉遊びと思うセンスは信じ難い。
 次、国防軍の話。
 名前を変えてどうにかなるもんでもないので(個人的には抵抗があるけれど)構わないと言えば構わないし、集団的自衛権についても議論の余地はあると思う。ただし、誰かを助けるために誰かが死ぬという現実から目を逸らしてはいけない。その死ぬ人は私かもしれないしあなたかもしれないし、あなたや私の恋人や子供かもしれない。その事実には自覚的である必要がある。逆に言えば、あなたや私を助けるために誰かの命が失われ、それは誰かの恋人であり子供であるという事実も忘れてはならない。
 問題にしたいのは憲法改正の話である。前にも書いたような気がするが、現行の九条をストレートに読んで自衛隊が合憲であると解釈する人はそう多くないと思う。拡大解釈やら曲解の末にこうなってる。そうであるからこそ、実態に合わせて矛盾を解消、という話になるわけだ。筋は通っているし問題はない。だが私は基本的に政治家を信用できない。現行九条を曲解に曲解を重ねてこうした政治家である。現状に合わせた憲法をさらに曲解し、とんでもない行動に走らないという保証はどこにあるのか。そんなものはありはしない。政治家を信用できるかどうかだけだ。勇ましいことを言ってると今に取り返しがつかなくなる、というのは歴史から学べるのではないだろうか。

 というわけで民主も自民もダメとなるといわゆる第三極になるわけだが、維新はほぼ自民だ。橋下氏の言うことは筋が通っているしそれなりに正しいと思うが、それを支持できるかどうかはまた別問題になる。未来は以前の民主ほぼそのままで、具体的にはどんな手法で? ということになる。みんなはよくわからん。改革とか大地とかもよくわからん。というか、第三極期待なら自民か民主を中心とした連立政権期待ということになるわけで(よもや第三極がいきなり単独政権は無理であろう)、この政党は自民側か民主側か、ということを考えねばならぬ。

 結果的に選択肢がなくなってしまったわけだが(笑)、どうすっかな。笑ってる場合じゃないんだが。


8月1日

 本を置くスペースが尽きつつある。いわゆる本好きの人に比べて蔵書量に遜色ない、というほど膨大な本があるわけではないが(あの手の人たちは数万冊がデフォでしょ?)、いずれにせよスペースには限りがあるのでいずれは限界に達する。
 古本屋に売ることは、できれば避けたいと思っている。なぜならば、学生時代にも同様にスペースがないという理由と、もっと大きな理由として金欠のために古本屋に売り飛ばし、結局は後になってどうしても読み返したくなって買い直したりしてるからだ。書い直せた本はまだいい。事実上入手不能になっている本もあるのだ。売る時に、これほどの名作は絶対に絶版になどならずいつでも入手できるであろうという判断をしたにもかかわらずだ。オンラインの古本屋で検索しても品切れである。要するに判断ミスだ。嗜好の偏向とも言うかもしれん。
 で、たまたま街の古本屋で見つけると狂喜して買い求めることになる。こうして本は増えてゆく。減ることはない。
 読書は私の重要なストレス解消手段であるので、本の購入をやめるわけにはいかない。だが、繰り返すがスペースには限界がある。

 解決策としては電子化しかないと思われる。

 まず端末の問題がある。
 小説限定なら数々の問題が炸裂したkoboでもいいかと思っていた。安いし。そもそも問題の出た人は問題だと言うが問題のなかった人は問題ないとは言わないものだ。恐らく致命的欠陥は、少なくとも今はないと思われる。カラーでないのが問題といえば問題だが、そもそもそういう仕様だし、割り切ることもできる。小説目的ならカラーは不要だし。だが完全に買う気をなくした。理由については想像にお任せしたい。
 iPadは読書目的には高いような気がするが、Kindleの新しいのも出てくるみたいだし、適当なAndroid端末でもいいので、これはまあ何とでもなるような気がする。

 最大の問題は電子化した後にある。

 電子化の目的がスペースを作るということにあるのならば、電子化した後の本は処分するということだ。
 自分でスキャン――いわゆる自炊をする場合のイニシャルコストの高さや代行業者に頼む場合の法的問題、クオリティの問題はとりあえず忘れるにしても、スキャンしようとすればその本は基本的には裁断しなければならない。
 スキャンしたらあとはゴミである。
 これはどうなのか。
 裁断本の再流通という動きもあるようだが、裁断された本なんてスキャン以外に使えるとは思えず、これはこれで別の問題がある。非破壊スキャンという手もあるようだが、これも同様の問題がある。これについては後述する。

 新刊にしろ古本にしろ、買った人がスキャンして捨てるとすれば、その本は再流通することなくそこで止まる。
 みんなが本はいずれ捨てるということになった場合、古本屋業界は壊滅するだろう。古書というマーケットは恐らく出版社や著作者にはメリットをもたらしていないので、電子書籍あるいは自炊が普及しまくるのは、長い目で見れば出版業界に恩恵をもたらす可能性はある。読みたい人は出版社から買うしかなく、そうなれば著作者にも印税が入るからだ。本として流通させるほど売れず絶版にせざるを得ない場合でも、そういう本は出版社が電子化して売るとなれば全く入手不可能になるという事態は避けられる。
 これはこれでいいような気がする。古書マーケットがどの程度の規模で出版社にどの程度の影響を及ぼしているのかはわからないが、出版業界も活性化するかもしれない。本当にそうなればの話だが。
 そうなると、私のように古本屋に行って百円コーナーを端から端までチェックして書い倒す、というような楽しみはなくなる。それはそれで仕方がないことなのかもしれない。
 絶版本を入手しようとした場合、古書マーケットはほとんど唯一の手段である。出版社が電子化といっても、絶版になっているだけならまだしも出版社そのものが倒産してしまっている場合はどうなのか。
 例えば倒産はしていないがサンリオSF文庫。フィリップ・K・ディックの作品でさえも全てが他の出版社から再刊されてはいない(と思う)。これを今持っている人全員が自分の所で止めてしまえば、あるいは古書マーケットが消失すれば、他の人が読むことはもうできなくなるのだ。サンリオは出版事業そのものは継続しているようなのでサンリオが電子化してくれれば万事OKなのだが、これはサンリオに限った問題ではない。

 ただ個人的な話をすれば、前述のような理由によって持っている本を再流通させる気はないので、そうなると市場的には捨てようがどうしようが等価である。私が死んだりすると遺族が古本屋に売るという可能性はあるが、そこまで考えている余裕はないし、いずれにせよこりゃいくらなんでも裁断したくねえなというサンリオSF文庫のような本はそのまま残すことになるので、いずれは誰かの手に渡るかもしれない。

 なんにしても本は買い続けるが置き場所はないぜとなった場合、どっかに倉庫を借りて死蔵するか電子化して捨てる以外に方法はない。死蔵しても読めないんじゃ意味はないし(恐らく図書館に借りに行ったほうが早い)、その倉庫もいずれは満杯になるので際限なく倉庫を借り増し続けることになる。これは明らかに無駄だ。

 となれば、電子化して処分するしかないではないか。

 本当ににこれでいいのか。電子化するとはいえ、その本を破壊して捨てるというのが正しい行為なのか。本好きであればあるほどこのメンタルブロックは高く分厚いと思われる。まあ最初っから電子化された本を買えば悩む必要なんかないんだけど。

 というようなわけで、他に方法がない以上電子化の道を突き進むわけだが、初めて裁断するとき、あるいはダンボールに詰めて代行業者に送る時は泣くかもしれん(笑)。


 やや立場を変えて話は続く。

 代行業者について調べてみた。自炊代行というのは言葉として論理矛盾だと書いてあった。確かに自炊というのは自らスキャンするということなので、自らスキャンを代行というのでは意味が通らない。まあそれは置いておく。
 結論として、スキャン代行は違法ということであるらしい。嫌なら買うな的な話を除けば、法律解釈的には納得できる話だと思った。
 付随した危機感の表明として、例えばAという大ベストセラーが大量に代行業者に持ち込まれたとして、それをいちいち裁断してスキャンしたりせずに最初にスキャンしたデータを依頼者全員に送るとすると(その方がコストがかからない)、残った本は古本屋に売られてしまう、というのがあった。それなりに説得力のある話だが、残念ながらこれは代行の是非の問題ではなく業者のモラルの問題である。
 ちなみに自分で裁断してスキャンするのは合法である。裁断した本を売るのも問題ない。その裁断された本を買った人がまたスキャンするのも問題ない。そしてまた売るのも全く問題ない。以下、これを無限に繰り返すことが可能である。とまでは言わないが、軽く十数回は繰り返せると思われる。

 話が混乱している、と読んでいる人は思っているだろう。書いている私が混乱しながら書いているので話が混乱するのは当然である。

 本を裁断して捨てるという行為に対する抵抗感と古書が再流通することが出版業界にもたらすデメリットを同一の視線で論じているから話が混乱するのだ。

 整理してみたい。

 つまり、本を電子化するしないに関わらず、再流通させずに捨てる(あるいは所有し続ける)という行為は、出版社および著作者にはメリットがあるが、読者にはデメリットであるということに問題があるのだと思われる。デメリットというのは心理的抵抗と絶版本の入手問題である。古本なら安く買えるという観点もある。だが読者は著作者にメリットをもたらさなければ新たな本を入手することができなくなる。マーケットとして成立しなくなるのだから当然である。
 再流通させるかどうかと電子化という行為には、基本的に関連がない。

 根本的な問題として、私が本を電子化したいと思うのはもっと本を買いたいからである。代行を頼もうと思うのは、イニシャルコストの問題とその方がクオリティが高いと思うからだ。
 著作者側が代行に難色を示すのは、それによって本が売れなくなることを危惧するからだ。個人が細々とスキャンするのと業者が大規模にやるのでは意味合いが全く異なると彼らは言う。

 私は本を買いたい。著作者及び出版社は本を売りたい。目的は同じなのに代行に対しては立場を異にする。
 スキャンしたデータを流すという行為については論じる必要すらないので割愛するが、つまり古書というマーケットそのものに問題があるということになる。再流通がなければ電子化するしないに関わらず一人の読者に対して印税は一度支払われる。そういえば古本屋業界が印税を払おうとかいう動きがあったように記憶しているが、あれはどうなったのだろうか。勘違いだったかな?

 つまり、再流通であっても読者一人に対して著作者及び出版社が何らかの形で金銭を受け取れるようにすればいいのだ。そこで権利がどうこうとか面倒くさいことを言い出すから、じゃあ勝手にやるよってことになってしまうのだ。

 繰り返すが、電子化そのものと本の売上には直接的な関連はない。自炊でも代行でも。
 だが代行は恐らく違法、自炊は合法である。

 なんで本を置く場所がないから電子化でもするかって話がこんなことになるのだw

 まあでも、正直なところ古本屋がなくなると困るんだよな……。


6月26日

 この日記が憂国日記であるということを皆さんは覚えていたであろうか。ぶっちゃけ私は忘れてました(笑)。

 折りに触れ、この日記では政治に関心を持とうと呼びかけてきた。関心を持ち、投票という形でそれを行動に移す。多くの人が諦めずにそれを行えば、この国が、ひいては我々の生活そのものが変わると信じていたからだ。どんな思想を持とうが、とりあえずそれはここでは問題にしない。ここではない他の場所で議論を展開すればいいと思う。議論は大事だ。とにかく関心をもつこと、考えること、諦めないことが大事だと、そう思っていた。

 選挙で投票するとき、根拠となるのはその人あるいはその政党が何をしようとしているかだ。当たり前である。ほかに根拠などありはしない。つまり公約、今風に言えばマニフェストというやつだ。
 だが某大新聞の社説にこんなことが書いてあった。曰く、政権公約の呪縛を解くべきだ。マニフェストは、作成時点での方針や計画に過ぎない。政治家が、内外の政治・経済情勢の変化に応じて、政策を的確かつ柔軟に修正するのは当然だ。政治環境の変化も考慮せず、マニフェストを絶対視するのは無責任に過ぎる――。

 公約で言っていないことをやってはいけないとは思わない。公約で言ったことは全て実行しなければならないとも思わない。だが読みが浅かったがゆえに実現不可能であると判明したなら間違いを認めて解散すべきではないのか。公約を信じて投票したのに「作成時点での方針や計画に過ぎない」からと撤回されたのでは、これはもはや何でもアリになる。白紙委任をしろと言っているのに等しい。選挙の時は甘いことを言っておいて、やっぱ無理でしたで通ることになるのだ。
 某大新聞には某大新聞なりの思想があるのだろうが、そういう方向に持って行きたいがために、マニフェストなんて方針や計画に過ぎないんだから撤回してもOK、などと言い切ってしまうことが政治不信を招くということに気づいているのだろうか。民意なんてどうでもいいんだ。白紙委任しろってことなんだから。任せておけよ、悪いようにはしないからって言いたいんだろうな。素晴らしいエリート意識だよ、全く。


6月6日

 約一ヶ月間、訳あって潜行していた。潜行中も全く見ていなかったわけではなく、数日おきにチェックをして掲示板のスパムとかは消してた。気づいてる人はいるだろうか。二人目で雑談とかならともかく、四人目にまともに感想を書こうと思うと一時間くらいはすぐに使ってしまう。その時間は惜しかった。そのくらいの「訳」だと思っていただきたい。
 で、浮上してちょっとサイトを回ったりして読んだりしたんだけど、エヴァFFってやっぱり面白い。潜行期間中はエヴァFFなんて全く読まなかった。もちろん本そのものを読まなかったわけではなくて、移動中とかには再読ものを中心に、なるべく頭を使わなくていいようなのを選んで読んでた。再読しようという気になるくらいだからやっぱり面白いんだけど、それに比べても、というか、違った次元で面白い。囚われているんだな、と思ったりした。それはそれでも構わない。選ばれたって考えればいいんだから。
 ネタもいくつか浮かんだ。書けるかどうかはともかく、書いていこうとは思う。
 問題は、書いてる途中だったネタ、特にカウントダウンものがいったい何を書こうとしてたのかよくわからなくなっているということなのだが、これも何とかしよう。いつまでも引っ張ってるわけにもいかないし。

 というわけでシンジ君、誕生日おめでとう。abaさんは来るだろうか?


3月30日

 毎年書いてるような気もするけど、近年はいろいろややこしい話ばっかりでなかなか思うようにならない。これを書いてるのも実は明けて31日だけど、まあ感覚的には30日ということで勘弁していただきたい。超短いけど話も投下したし。
 ま、元気なうちはなんとかやっていきます。

 誕生日おめでとう。


3月17日

 吉本隆明が逝ってしまった。
 朝五時半くらいのニュースを朦朧とした頭で音だけ聞いていて、吉本隆明さんが、という声が耳に入って一気に覚醒した。繰り返しお伝えします、というアナウンサーの声に、やはり感慨深い物を感じた。小松左京が逝ってしまった時にも感じたけれど、こうして時代を築いた人が死んで行き、時代が変わって行く。
 亡くなった事が六時間以内に報道される人とはいえ、吉本隆明が今どの程度の知名度を持っているのか良くわからない。誰それって人は、NHKのこのあたりを見ておけばいいんじゃないかと思う。関連リンクの「吉本さん“サブカル”も積極評価」も。ま、よしもとばななの父親です。
 吉本隆明の思想というのは、私には良くわからなかった。友人とかと話をしても、なんかすごそうだけど良くわからないっていう評価が一般的だった。あの時代を共に生きていないとわからない部分っていうのは、やっぱりあるんだと思う。
 ただ、なんか面白いおじさんだなとは思った。異常に柔軟性が高いというか、確立された(されてしまった)イメージに固執しないというか下らないこだわりがないというか(そうじゃないと『わが「転向」 』なんてタイトルの本は出せないよな)。モデルやったりってのもそうだし、サブカル評論もそう。まあ正直言ってマス・イメージ論は良くわかんなかったけど。ハイ・イメージ論はもっとわかんなかった。もう一回読み直してみるかな。

 上の記事には『去年も東日本大震災後に、反原発の運動を「原発をやめる、という選択は考えられない。発達してしまった科学を後戻りさせるという選択は、人類をやめろというのと同じ」などと批判する論説を新聞で発表していました。」などと批判する論説を新聞で発表していました。』と書いてある。
 核関連の研究そのものをやめてしまうとガンダムができないのであれなんだけど(笑)、少なくとも地球上で原子力発電をやるのは止めた方がいいと、やっぱり私は思う。取るべきリスクが大きすぎる。前にも書いたと思うけど、宇宙空間とかなら話は別でいいんだけど。
 というようなことを、何のバックグラウンドもなくこういうサイトの日記に書いてしまえるというのは、ある意味では吉本隆明の思想の影響下にあるってことなんじゃないかなと思ったりもした。だから書いた。
 ご冥福をお祈りします。


2月17日

 岩波書店の縁故採用がどうとかいうのが話題になっている。なんでも募集要項に応募資格として「岩波書店著者の紹介状あるいは岩波書店社員の紹介があること」とか書かれてたんだそうだ。厚生労働相が事実関係の把握に乗り出すなんて騒ぎになっている。結局「誤解を招く可能性があるが、(法律に)違反しているわけではない」ということになったみたいだけど。
 そもそもなにが問題なのかが良くわからん。よくわからん風習だけどOB訪問なるものをみんなするだろうし、そこで紹介状書いてもらえばいい。著者に手紙書くなりして書いてもらってもいい。そんなこともできないなら出版社に就職するのはやめた方がいいって話にしかならんと思うのだけれど。機会平等に反するって話もあるけど、じゃあ大卒を条件にしてる会社はどうなんだろう。面接に行ってみたら「男はいらないんだよね」とか「若い人が欲しいんで」って言われるとか、良くある話。なら書類で落とせよw
 やる気を見てるだけなんだから別にいいんじゃないかと思うんだけど。

 話は全く変わって岡村靖幸と槇原敬之の天才性について論じようと思ったけど、考えるまでもなく異様に大変なのでやめて、私がtambであるとは知らないだろうし夢にも思ってないだろうしここを見てもいないであろう君に向けて届くはずのないメッセージを。
 冷静になって考えるまでもなく、君が結婚しようがどうしようが僕には何の影響もないし、要するに何の関係もない。でもどうしてだかすごく嬉しいんだ。不思議なくらい嬉しい。とっても不思議だ。ひとが幸せになっていくのを見ることができるというのが嬉しい。自分の中にこういう部分があったことに気づかせてくれた君に、ありがとうを言いたい。そしておめでとう。心から言います。幸せになって下さい。喧嘩くらいはしてもいいけど、離婚なんてなったら……奪いに行くか(爆)。


1月14日

 とりあえず明けました。

 今年も何とか。ペースは上がらないと思うけど、それにも限度はあるし。

 さて。

 消費税が上がるようだ。それ自体は、個人的財政的にはともかくトータルとして見ればまあ仕方がないかなと思っている。個人的財政的な話をすれば、税金が上がっても収入が増えるわけでは当然ないので支出を減らすしかない。これ以上何を減らせというのだw

 税率を上げなければいけない理由については、社会保障がどうとか財政赤字がどうとか言われている。それはそうなんだろうけどもっと根本的な問題を忘れているような気がしてならない。根本的な問題というのは政治そのものの目的のことだ。政治の目的というのは健全な財政を実現することではなくて国民を幸福にすることだ。将来に渡って国民を幸福にするために必要なのが健全な財政だったり適切な社会保障の実現だったりするわけだ。極端な話、みんながみんな大金持ちで社会保障なんかなくても裕福な老後を過ごすことができたり(みんながみんな大金持ちというのがどういう状態なのかは難しいけれど)、驚異的に景気が良くて黙っててもばんばん税金が入ってくるようなら消費税なんか上げなくてもいいわけだ。上げなくていいというかなくていい。

 よく知っている人には突っ込んで欲しいというか教えて欲しいのだけど、景気のいい状態というのは要するにお金が回っている状態のことを指すのだと思う。お金がたくさん入ってくれば(そして老後に心配がなければ)たくさん使うし、入ってこなければ使いようがない。このたくさんというのはやや問題で、一万円入ってきて五千円使うというのと十万円入ってきて五万円使うというのは物価が十倍なら等価なわけだ。ここでポイントになるのが借金で、五千円の物が欲しいけど手元にお金がないので借りて買って、物価が十倍になってから返すとすると実質的に借金は十分の一になる。利子を考えなければ。だからインフレターゲットとかいう話が出てくる。額面が多いからといってそれが「たくさん」ということには必ずしもならない。だから金持ちというのは単に大金を持っているというよりは物価に対して資産が多いということだと思うのだが、物(サービスを含む)が売れなければお金は誰にも入ってこないわけで、つまり収入と支出はどこかで均衡するはず。それを打ち破るのが借金なわけだ。借金で無理矢理というか余計にお金を回してるわけね。それがいいかどうかはともかく。でもそうじゃないと家なんか買えない。まあもちろん家の値段が高すぎるんだよって話はあるんだけれども。

 いつものならこのあたりでエディタを閉じてファイルをゴミ箱に捨てるペースだったりする。つまり書きたいことを書くための前提条件が長すぎて挫折するのよね。なので今回はばっさりとすっとばさせていただきます(笑)。

 そんなわけで今回書きたいことは二つ。
 ひとつは、なぜ財政再建を実現するための手段が消費税率アップなのかということ。
 もうひとつは、なぜ法案を通す前に選挙をやらないのかということ。

 まずは前者だが、そもそも増税すると本当に税収が上がるのかという問題がある。消費税を増税すると当然物価が上がるわけで、私のような貧乏人はやむを得ず支出を減らすし、そうでない人も主にマインド的な理由から支出を減らす。増税直前には今しかないとばかりに買う物は買ってしまうだろうからその反動もあるはず。結果として消費は冷え込み財政再建には貢献しないかもしれないのだ(97年の増税の時に本当に消費が冷え込んだのかどうかは議論がある)。ちなみに増税で財政再建を果たした国というのは歴史上ないらしい。
 ついでに書いておくと消費税を福祉目的税にすることにも疑問がある。必要な額をその都度要求するのではなぜいけないのかわからない。そうじゃないとまた税金でマッサージ椅子を買いましたなんて話が出てくるぞ。あれは年金だったかな?
 要するに税収が増えればそれでいいわけだから、それなら景気が良くなればその方がいいじゃんという議論は当然出てくる。これは前にも書いた話だけれど、どうやって景気を良くするのかといえば財政出動である。当然財政赤字はさらに拡大し、マーケットの支持を得られず日本国債は暴落する。円相場も暴落するだろう。それはヨーロッパの現状を見れば明らかだ。だが今の不況の原因の一端が円高にあるとすれば、これで景気は回復しないか?
 恐らく暴論なんだと思う。これがなぜ暴論なのか、なぜ消費税率アップでなければならないかの説明を政治家にはして欲しい。これが後者の、選挙をやれよという話。やっぱり増税しかないんだよと納得すればきっちり投票するよ。
 ただ税金というのは必ず使うわけで、基本的には貯金なんかしない。だからその分だけお金は回るわけで、国民から無理矢理お金をふんだくって強引に回していけばそれは景気回復になるという話はあるのかもしれない。ちゃんと使えばね。これは財政出動と同じなんだけど。まあよくわからんけど。

 大藪春彦という作家がいる。中期というのか、エージェント物を良く書いていた時期、登場人物が主人公に向かい、政治家は国の金をこれこれこうして自分の懐に入れ、みたいな説明をすると、主人公が「国民の血税だ」と吐き捨てるように言う、みたいなシーンが良くあった。消費税だろうがなんだろうが国民の血税なんだよ。