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piece to Peace
件名 | : Re: piece to Peace |
投稿日 | : 2016/04/16 00:11 |
投稿者 | : calu |
参照先 | : |
▲▽▲▽ ▲▽▲▽
地底からの変調を訴えかけるように、今や広大な空間一帯が低い鳴動に覆われている。第13号機の起動
まで数時間を残すだけとなった今、ドグマからの呼応によるものか、地響きにも似た鳴動が空間全体を揺さぶり
続けているのだ。
(……レアセールが開く)
かの地底に張り巡らされた溝渠を前に、祈りを捧げるように瞑目するレイ。しばらくして決然と顔を上げると
溝渠の狭間の通路とは言い難い道に足を踏み出した。一歩一歩噛みしめるように足を進める。
ふと何かに気付いたかのように溝渠へと視線を向けた。
(…わたしはわたしの役割を終えた時、ここに)
(…でも、まだだめ。ソコには行けない)
(…碇くんと一緒に成し遂げなければならないことがある)
(…そして、碇くんには……)
(…だから)
(……)
(…碇くん…ありがとう。そしてごめんなさい。今度こそ…)
ふたたび歩き始めたレイ。いまだ見えない行く末に定めし道標を追うように。その胸に微かに掠った哀しげな
影を振り切るように。レイはラップトップと楽譜をその胸に抱き直した。
弾かれたようにドアが開け放たれるや、息せききったシンジが廃棄場へと飛び込んできた。肩で息をするシンジ
が顔を上げた前方に広がる溝渠の海。その遥か前方にレイの後ろ姿を見た。その姿は既に豆粒ほどに小さく
なっている。
綾波、ここはダメだよ! 立ち入っちゃいけない場所なんだよ―!
シンジは声の限り叫んだつもりだったが、今や空間全体を木霊する鳴動に掻き消され、この距離ではレイに
届かないと理解すると、廃棄場へと足を踏み入れた。駆けだすこと数メートル。直ぐに異変は起こった。何かに
足を取られたシンジは体勢を崩すと、通路にしたたか身体を叩きつける。直ぐには事情を理解できずに強打した
肘の痛みにひたすら耐えていると、すぐ傍で何かの気配を感じた。ああ、また高雄さんだ、何度言ったら解るんだい
…なんて怒らえちゃうのかな、でも高雄さん、ほらあそこ綾波が、綾波があんなとこまで入っちゃって、だから僕は―。
辛うじて上半身を起こしたシンジは目の前にいるその気配の正体に目を見張った。
「…あ、綾波?」
シンジの目前にいるのは、まごうこと無きレイ、だった。深紅の眸を瞬かせ、微笑を浮かべている。
ぼ、僕が呼んだから、急いで戻ってきてくれたの? 転んじゃった僕を心配して戻ってきてくれたの? ご、ごめん。
ホントに僕ってそそっかしくて、さ。 綾波に、ココに入っちゃダメだよって、知らせに行こうって。ただ、それだけ―!
シンジがその思考を停止したのは、先ほどから湧き立っている違和感の正体をその視界の中に認識できたから
に他ならない。いまシンジの焦点は、目の前にいるレイではなく、その肩越しにさっきまでシンジが追いかけていた
レイ――それは米粒ほどの大きさまでになっていた――に合っている。
「…き、君は」
「……」
「…君は、いったい?」
「……」
本能的な恐怖がシンジの体躯を駆けあがった。辛うじて腰を上げたその足に纏わりつく何かの感触に、恐怖の
塊が喉元にせり上がる。その場から一歩たりとも動くことができない。いや指一本たりとも動かすことさえ出来ない。
何か何かがシンジの下半身を締め上げている。ズボン越しに徐々に感じ始めた何かを確認する為に、精一杯の
勇気を奮い、視線を落としたシンジの目に映ったモノ。
「あ、綾波……レイ?」
「・・・ い か り ・・・ く ん」
シンジの視界の中に拡散する違和感。シンジに纏わりついている幼い少女は、あの日シンジがここまで追いかけて
きた幼女だった。直感でその幼女がレイだと理解したシンジ。そして、視線を其処彼処に泳がせていたシンジは次の瞬間、
その恐怖の根幹を理解した。
その幼女に足は無かった。その下半身は溝渠の底から尾のように伸びていた。
「ひ と つ に な り た い」
地底からの変調を訴えかけるように、今や広大な空間一帯が低い鳴動に覆われている。第13号機の起動
まで数時間を残すだけとなった今、ドグマからの呼応によるものか、地響きにも似た鳴動が空間全体を揺さぶり
続けているのだ。
(……レアセールが開く)
かの地底に張り巡らされた溝渠を前に、祈りを捧げるように瞑目するレイ。しばらくして決然と顔を上げると
溝渠の狭間の通路とは言い難い道に足を踏み出した。一歩一歩噛みしめるように足を進める。
ふと何かに気付いたかのように溝渠へと視線を向けた。
(…わたしはわたしの役割を終えた時、ここに)
(…でも、まだだめ。ソコには行けない)
(…碇くんと一緒に成し遂げなければならないことがある)
(…そして、碇くんには……)
(…だから)
(……)
(…碇くん…ありがとう。そしてごめんなさい。今度こそ…)
ふたたび歩き始めたレイ。いまだ見えない行く末に定めし道標を追うように。その胸に微かに掠った哀しげな
影を振り切るように。レイはラップトップと楽譜をその胸に抱き直した。
弾かれたようにドアが開け放たれるや、息せききったシンジが廃棄場へと飛び込んできた。肩で息をするシンジ
が顔を上げた前方に広がる溝渠の海。その遥か前方にレイの後ろ姿を見た。その姿は既に豆粒ほどに小さく
なっている。
綾波、ここはダメだよ! 立ち入っちゃいけない場所なんだよ―!
シンジは声の限り叫んだつもりだったが、今や空間全体を木霊する鳴動に掻き消され、この距離ではレイに
届かないと理解すると、廃棄場へと足を踏み入れた。駆けだすこと数メートル。直ぐに異変は起こった。何かに
足を取られたシンジは体勢を崩すと、通路にしたたか身体を叩きつける。直ぐには事情を理解できずに強打した
肘の痛みにひたすら耐えていると、すぐ傍で何かの気配を感じた。ああ、また高雄さんだ、何度言ったら解るんだい
…なんて怒らえちゃうのかな、でも高雄さん、ほらあそこ綾波が、綾波があんなとこまで入っちゃって、だから僕は―。
辛うじて上半身を起こしたシンジは目の前にいるその気配の正体に目を見張った。
「…あ、綾波?」
シンジの目前にいるのは、まごうこと無きレイ、だった。深紅の眸を瞬かせ、微笑を浮かべている。
ぼ、僕が呼んだから、急いで戻ってきてくれたの? 転んじゃった僕を心配して戻ってきてくれたの? ご、ごめん。
ホントに僕ってそそっかしくて、さ。 綾波に、ココに入っちゃダメだよって、知らせに行こうって。ただ、それだけ―!
シンジがその思考を停止したのは、先ほどから湧き立っている違和感の正体をその視界の中に認識できたから
に他ならない。いまシンジの焦点は、目の前にいるレイではなく、その肩越しにさっきまでシンジが追いかけていた
レイ――それは米粒ほどの大きさまでになっていた――に合っている。
「…き、君は」
「……」
「…君は、いったい?」
「……」
本能的な恐怖がシンジの体躯を駆けあがった。辛うじて腰を上げたその足に纏わりつく何かの感触に、恐怖の
塊が喉元にせり上がる。その場から一歩たりとも動くことができない。いや指一本たりとも動かすことさえ出来ない。
何か何かがシンジの下半身を締め上げている。ズボン越しに徐々に感じ始めた何かを確認する為に、精一杯の
勇気を奮い、視線を落としたシンジの目に映ったモノ。
「あ、綾波……レイ?」
「・・・ い か り ・・・ く ん」
シンジの視界の中に拡散する違和感。シンジに纏わりついている幼い少女は、あの日シンジがここまで追いかけて
きた幼女だった。直感でその幼女がレイだと理解したシンジ。そして、視線を其処彼処に泳がせていたシンジは次の瞬間、
その恐怖の根幹を理解した。
その幼女に足は無かった。その下半身は溝渠の底から尾のように伸びていた。
「ひ と つ に な り た い」
件名 | : Re: piece to Peace |
投稿日 | : 2016/04/16 00:01 |
投稿者 | : calu |
参照先 | : |
tambさん
読んでいただき有難うございますm(_ _)m
完結しましたら、校正を入れてHTML化させていただこうかなと思います。
読んでいただき有難うございますm(_ _)m
完結しましたら、校正を入れてHTML化させていただこうかなと思います。
件名 | : Re: piece to Peace |
投稿日 | : 2016/04/10 20:33 |
投稿者 | : tamb |
参照先 | : |
話が難解を極める上にフラグがダーク。
レアセールって何だ?
続きに期待なんだが、恐らく次やその次を読んだところで欲求不満は解消されないであろう(笑)。連休中にでもまとめ作って一番に私が読む(笑)。
レアセールって何だ?
続きに期待なんだが、恐らく次やその次を読んだところで欲求不満は解消されないであろう(笑)。連休中にでもまとめ作って一番に私が読む(笑)。
件名 | : Re: piece to Peace |
投稿日 | : 2016/04/10 15:10 |
投稿者 | : calu |
参照先 | : |
■□■□ ■□■□
「ゼーレの少年が第3の少年と接触。外界の様を見せたようだ」
「………」
「果たしてどう受け止めるのか…いいのか、碇?」
「ゼーレのシナリオを我々の手で書き換える。あらゆる存在はそのための道具に過ぎん」
冬月がその視線を机上のゲンドウに送ったが、その表情は微動だにしない。
「お前の生き様を見せても息子のためにはならんとするか。私はそうは思わんがな」
「………」
「いずれにしても、ゼーレの少年と第3の少年とのピアノの連弾は完成した」
「…ああ」
「全てはお前のシナリオ通りだ。あとはゼーレの少年が、さてどのように第3の少年を説得するかだな」
「………」
「ふっ。まあそれについても心配は無いか。それほどの絆は既に構築されている。そう考えるか…」
「………」
「それでも第3の少年は、レイをあの『綾波レイ』だと信じているのだぞ。全てとは言わないが、そろそろ
真実を伝えてはどうかと思うがな…」
「………」
アンビリカルブリッジを鈍く光らせていた斜陽が夜に追いやられると、断崖の底にも思えるケージの
様相はその姿を変える。一切の生気を陽光とともに取り上げられたように、沈黙だけが支配する
ケージの底。そこに日に日に存在感を膨張させているのは得体の知れない澱み。そして、浮遊する
澱みはいつしか体感できるまでになった地底からの鳴動とともに今やネルフ本部全体を包み込んで
いるのだ。
夜で満たされたケージの底。累々と横たわる瘴気を消し薄めるように、数日ぶりにピアノの音階が
響いた。ノクターン第20番。鍵盤の上で稀有の解釈を醸し出すカヲルの白い指が黒鏡面の中で踊る。
渚カヲルの魂から絞られた旋律が、今やケージから本部全体を包み込む。
第13号機の完成を目前に控えた今、自らの目的を成就する為に残されたことは、時が満ちるのを
待つ事のみ。その為のシンジとの準備は既に整えている。すべてはカヲルの計画通りに進んでいる、
筈だった。
「やあ、来たね」
「…ピアノが聞こえたから」
暗闇から現れたレイは、黒いプラグスーツにその身を包んでいる。顔と手の白さがケージの底で
際立った。微笑を浮かべラタンチェアを勧めるカヲル。
「今日、シンジ君に外界の様子を見てもらったよ」
「……外界…街の?」
「そう、その必要があった…いや、出来てしまったからね」
「………」
「そしてその結果、僕の進むべき道、選択肢は一つに絞られる事となった」
「………」
「予想されたこととはいえ、シンジ君が受けたダメージは相当大きなものだからね。そしてそれを
唯一打ち消す事ができるものは、希望」
「…希望」
「そう希望。彼にとっての希望は、14年前の戦いの末に起こったサードインパクトで消えた『綾波レイ』
そのもの、なんだ」
「…綾波レイ」
「恐らく、シンジ君は君に会いに行くだろう」
「…碇くんが」
「……『綾波レイ』ならどうするの?」
「それを考える必要はないさ。どんな事を聞かれても自分自身に正直に応えるべきなんだ」
「…うん」
そう。そして、シンジ君の最後の望みは木端微塵に打ち砕かれる。地の底まで落とされた彼の魂が
救済される唯一のもの。それが、新たな希望と贖罪。そして、それを得ることのできる手段。その準備
は最終プロセスに到達している。それがダブルエントリーの第13号機。あつらえたように準備された
ダブルエントリーのエヴァ。そして、僕自身それを選択するしかない状況に既に追い込まれている。
そして、その先で僕に与えられるものは、死。
ネルフ究極の最終目的。そこへの次なる手順としてのフォースインパクトとゼーレの子供たちの排除
という目的を同時に成し遂げる積りなんだ。そしてそれは僕のみではなく、この目前の少女も含まれて
いるのだ。カヲルが視線を向けた先で、レイは心細げに顔を俯かせている。
(…それはダメだ。彼女はまだ明確には気付いてはいない。自分の気持ち、そしてその先に訪れる希望に)
「そう、眼を瞑って君の胸の中に意識を集中してごらん。そして、その気持ちのままに応えればいいんだよ」
(…しかし、その覚醒の日は近い)
「…そして、安心していいよ。僕に考えがあるからね」
(…彼女のその芽生え、それだけは潰えることがあってはならないんだ)
これまでに聞いたことが無い程の鳴動が充満している。地の底にも思えるそのエリア。エヴァ素体の廃棄場。
広大な空間一面に張り巡らされた溝渠の狭間をカヲルは歩いていた。この世の終わりそのものの空間を、まるで
黄泉の国に通じる道ならぬ道を更に奥へとカヲルは足を進めた。
(…日に日に激しくなるこの鳴動……第13号機、最後の執行者の完成が近い…)
溝渠に張られたLCLが身を震わせるようにさざ波を立てている。
これまで踏み入れた事の無い深部を更に奥へと進むカヲルは、両手をポケットにつっこんだままのいつもの
リラックスした姿に見える。だが、その顔に常時湛えられている微笑は今は見られない。微塵の躊躇もない
足取りで歩を進めるカヲルの前に、ようやく目的の場所はその姿を現した。
(…あった…これだ)
カヲルが行きついた場所は、溝渠が途絶えた先、円錐型の低い土手の裏手に隠れるように存在する地底湖だった。
(…次元の結節点で現れるという…これが…)
目前に広がったのは、人工的な水辺。そのから階段のような道が湖へと延びている。そして、その階段が水没した先
で、水の中の一部が白く光っているのが見える。
(…レアセール)
自らに課したもう一つの目的。その為に全うすべきシナリオ。ゼーレの子供たち、その最後の生き残りとして存在する
自分、そしてアヤナミレイ。仕組まれた自分たちは、第13号機との出撃で排除される運命にある。
そうはさせない。
彼女は、その運命の歯車でシンジ君とこの時この世界で出会った。
引き継いだ記憶は覚醒し、やがて彼女にとっての――!?
猛烈な眩暈がカヲルを襲った。
「…まただ。何だ、この既視感は!?」
土手に手をついて身体を支えるカヲル。
何かが、めまぐるしく、膨大な何かがカヲルの頭の中に入り込んでいく。
制御できない圧倒的な情報がカヲルの中を通り抜けたとき、見開かれた深紅の眸に深い光が宿った。
「違う…僕は、はじめてここに来たんじゃない……」
「ボ ク は 前 に も コ コ に こ う し て 立 っ て い た 」
件名 | : Re: piece to Peace |
投稿日 | : 2016/04/03 01:13 |
投稿者 | : calu |
参照先 | : |
▲▽▲▽ ▲▽▲▽
地の底とも思えるそのエリアは、見る者全てにこの世の終着点を連想させるだろう。広大な空間
一面に広がるのは、地底を割って造られたような溝渠。そこに無数の遺骸が遺棄され得体の知れ
ない墓場を構成しているのだ。地底からは正体不明の鳴動が、この遠大な空間全体を揺さぶり続
けている。そんなエヴァ素体の廃棄場にレイはいた。
(…………)
タイムリミットの通告そのままにケージで鳴り響いた非常招集着信の内容は、明朝0900に開始
される作戦の下命だった。第13号機によるターミナルドグマ最下層における作戦執行、そして
その第13号機に同伴するMARK9への乗車命令に加え、付け加えられた重要な指示。その下達
だった。
(…この世界でもダメだった)
(…………)
(………)
(…)
(……碇くん)
カヲルと二人、非常招集で呼び出された出撃下命を受けてから後、シンジは部屋には戻らずに
購買部に隣接する嘗ての食堂跡に足を向けた。あの部屋に戻る気がしなかったからだ。あの無機質
な部屋にいると、あまりに外的要因が少ないせいか、どうしても余計な思考をリフレインさせてしまう。
S-DATを聞いている時でさえ。それなら必要最低限、ベッドを使う就寝時だけでいいじゃないかとシンジ
は思った。しかし、ここ最近はその夜でさえ睡眠を諦めるほどにシンジはその心を疲弊させていた。
でも、もうすぐだ。この夜が明けるとエヴァに乗って、取り戻せるんだ。カヲル君と一緒に、あの世界
を取り戻すんだ。あの街に学校。みんなに、そして…綾波。そうだ……綾波。
シンジの意識がここネルフに連れてこられたその日に浮遊する。以前とどこか違うレイが気になって、
図書館で崩れた本をずっと漁ってたっけ。綾波にお願いされたのはいいけどパソコンがなかなか直んなくて、
結局ケーブルが取れてただけだったんだけど、ネルフネットを辿って購買部にまで楽譜を探しに行ったんだ。
そこで無事に楽譜を見つけることが出来て、綾波…喜んでた。それで、その後のお鍋を囲んでの晩御飯も
楽しかったんだ。水炊きを食べるのって初めてだって言ってたっけ…そうなんだ、綾波には温かい食事が
必要なんだ。温かさの本当の意味を知ってる。そんな女の子なんだ…。あと、そう、ピアノを一緒に弾いたんだ。
僕にはとても弾けないって思ったけど、ふたりだと弾くことが出来たんだ。あのノクターンを。
シンジの記憶の中で甦るレイは、最初からずっとシンジの知ってるレイだった。
(…それでも…それでも、違ったんだ)
(…あのとき、僕が助けようとした、14年前一緒にいた、あの綾波じゃないんだ…)
購買部の冷たいテーブルの上で、シンジは組んだ腕に顔を埋める。
「ぼうず、どうした? 気分、悪いのか?」
「…あ、いえ」
「そりゃ出撃までもうすぐだからな…無理もねえ。ほら、これ喰って元気だしな」
俺の特製お夜食よ、とシンジの前に出されたのは、バゲットのサンドイッチだった。豪勢な生ハムがパンの
両脇から顔を覗かせている。人造生ハムだろうけど、そんなことはどうだっていい。とても美味しそうだ。ここ
しばらくまともに食事が喉を通らないシンジのお腹が正直にクーとなった。
「高雄さん。あ、有難うございます。いただきます」
「はっは、ようやく元気になったな。いいことだ。しっかり食べなきゃいい仕事は出来ゃしねえ」
「は、はい」
「ホントはよ、ネルフ本部食堂謹製の『とろろ定食』を馳走したいとこだが、材料がどうにも揃わねぇ。ま、それで
我慢してくれや」
結局シンジは食事をとった後で食堂から直接待機場所に向かうことにした。時間は早いが待機所で仮眠でもして
時間をつぶせばいい。少なくともあの部屋でひとりネガティブな思考に苛まされるよりは遥かにマシだ。それに、
なによりカヲルが来れば会話もできる。
それにしても……作戦の時間が近づくに従って気持ちがどんどん沈んでいくのはどうしてなのだろう。この作戦
で破壊された世界を再生し取り戻した時点で、この思考の反芻から解放される筈なのだ。カヲルは今の世界の
有様を肯定も否定もすることなく、リリンにとってシンジの罪だと言い放った。それでも償えない罪なんてものは
無い。今度の第13号機を使っての計画は、シンジのリリンに対しての贖罪そのものであるとも。
それにもかかわらず、刻一刻と膨らんでいく不安感―まるで視界が利かない濃霧の中、断崖を手探りで進んで
いるような―を肌身で感じる。
そして、シンジの中にいるもう一人の自分はこの漠とした不安の正体を理解している。父ゲンドウだ。ゲンドウ
は今回の作戦内容を具体的に述べることはなかった。ただ一言、第13号機でドグマの爆心地に向かえとの命令
下達のみだったのだ。そして、その下命をシンジはただ言葉の羅列としてのみ受け入れた。その一方で、シンジの
中にはそんなゲンドウと必死になって向き合おうとするもう一人の自分もいる。
(…そうなんだ。自分でも分かってるんだ。この不安な気持ちはソコから来てるんだ)
(…でも、今の僕にとっては、父さんの計画なんてどうだっていいんだ)
(…カヲル君が言ってたっけ…ネルフが父さんがフォースインパクトを起こすんだって)
(…でも、そんなことはどうでもいい)
(…僕は僕は、あの街を皆を綾波を取り戻すん――!?)
見間違えではない。
シンジが横切ろうとした通路の先を歩いているのはレイだった。
制服に身を包み、ラップトップと楽譜を大切そうに胸に抱え、俯き加減に歩を進めている。
そして、シンジの視界の中で突き当りにある階段の踊り場に通じるドアの向こうにその背を消した。
しばらくの間、そのドアに視線を留めていたシンジ。反対側に歩を進めようとしたが、ふと何かを思いついたように
顔を上げると、レイが姿を消したドアに向かって駆けだした。
レイが吸い込まれたドアは、先日シンジが迷い込んだ大深度地下施設のさらに底、廃棄場のような場所に
通じる階段だったからだ。
地の底とも思えるそのエリアは、見る者全てにこの世の終着点を連想させるだろう。広大な空間
一面に広がるのは、地底を割って造られたような溝渠。そこに無数の遺骸が遺棄され得体の知れ
ない墓場を構成しているのだ。地底からは正体不明の鳴動が、この遠大な空間全体を揺さぶり続
けている。そんなエヴァ素体の廃棄場にレイはいた。
(…………)
タイムリミットの通告そのままにケージで鳴り響いた非常招集着信の内容は、明朝0900に開始
される作戦の下命だった。第13号機によるターミナルドグマ最下層における作戦執行、そして
その第13号機に同伴するMARK9への乗車命令に加え、付け加えられた重要な指示。その下達
だった。
(…この世界でもダメだった)
(…………)
(………)
(…)
(……碇くん)
カヲルと二人、非常招集で呼び出された出撃下命を受けてから後、シンジは部屋には戻らずに
購買部に隣接する嘗ての食堂跡に足を向けた。あの部屋に戻る気がしなかったからだ。あの無機質
な部屋にいると、あまりに外的要因が少ないせいか、どうしても余計な思考をリフレインさせてしまう。
S-DATを聞いている時でさえ。それなら必要最低限、ベッドを使う就寝時だけでいいじゃないかとシンジ
は思った。しかし、ここ最近はその夜でさえ睡眠を諦めるほどにシンジはその心を疲弊させていた。
でも、もうすぐだ。この夜が明けるとエヴァに乗って、取り戻せるんだ。カヲル君と一緒に、あの世界
を取り戻すんだ。あの街に学校。みんなに、そして…綾波。そうだ……綾波。
シンジの意識がここネルフに連れてこられたその日に浮遊する。以前とどこか違うレイが気になって、
図書館で崩れた本をずっと漁ってたっけ。綾波にお願いされたのはいいけどパソコンがなかなか直んなくて、
結局ケーブルが取れてただけだったんだけど、ネルフネットを辿って購買部にまで楽譜を探しに行ったんだ。
そこで無事に楽譜を見つけることが出来て、綾波…喜んでた。それで、その後のお鍋を囲んでの晩御飯も
楽しかったんだ。水炊きを食べるのって初めてだって言ってたっけ…そうなんだ、綾波には温かい食事が
必要なんだ。温かさの本当の意味を知ってる。そんな女の子なんだ…。あと、そう、ピアノを一緒に弾いたんだ。
僕にはとても弾けないって思ったけど、ふたりだと弾くことが出来たんだ。あのノクターンを。
シンジの記憶の中で甦るレイは、最初からずっとシンジの知ってるレイだった。
(…それでも…それでも、違ったんだ)
(…あのとき、僕が助けようとした、14年前一緒にいた、あの綾波じゃないんだ…)
購買部の冷たいテーブルの上で、シンジは組んだ腕に顔を埋める。
「ぼうず、どうした? 気分、悪いのか?」
「…あ、いえ」
「そりゃ出撃までもうすぐだからな…無理もねえ。ほら、これ喰って元気だしな」
俺の特製お夜食よ、とシンジの前に出されたのは、バゲットのサンドイッチだった。豪勢な生ハムがパンの
両脇から顔を覗かせている。人造生ハムだろうけど、そんなことはどうだっていい。とても美味しそうだ。ここ
しばらくまともに食事が喉を通らないシンジのお腹が正直にクーとなった。
「高雄さん。あ、有難うございます。いただきます」
「はっは、ようやく元気になったな。いいことだ。しっかり食べなきゃいい仕事は出来ゃしねえ」
「は、はい」
「ホントはよ、ネルフ本部食堂謹製の『とろろ定食』を馳走したいとこだが、材料がどうにも揃わねぇ。ま、それで
我慢してくれや」
結局シンジは食事をとった後で食堂から直接待機場所に向かうことにした。時間は早いが待機所で仮眠でもして
時間をつぶせばいい。少なくともあの部屋でひとりネガティブな思考に苛まされるよりは遥かにマシだ。それに、
なによりカヲルが来れば会話もできる。
それにしても……作戦の時間が近づくに従って気持ちがどんどん沈んでいくのはどうしてなのだろう。この作戦
で破壊された世界を再生し取り戻した時点で、この思考の反芻から解放される筈なのだ。カヲルは今の世界の
有様を肯定も否定もすることなく、リリンにとってシンジの罪だと言い放った。それでも償えない罪なんてものは
無い。今度の第13号機を使っての計画は、シンジのリリンに対しての贖罪そのものであるとも。
それにもかかわらず、刻一刻と膨らんでいく不安感―まるで視界が利かない濃霧の中、断崖を手探りで進んで
いるような―を肌身で感じる。
そして、シンジの中にいるもう一人の自分はこの漠とした不安の正体を理解している。父ゲンドウだ。ゲンドウ
は今回の作戦内容を具体的に述べることはなかった。ただ一言、第13号機でドグマの爆心地に向かえとの命令
下達のみだったのだ。そして、その下命をシンジはただ言葉の羅列としてのみ受け入れた。その一方で、シンジの
中にはそんなゲンドウと必死になって向き合おうとするもう一人の自分もいる。
(…そうなんだ。自分でも分かってるんだ。この不安な気持ちはソコから来てるんだ)
(…でも、今の僕にとっては、父さんの計画なんてどうだっていいんだ)
(…カヲル君が言ってたっけ…ネルフが父さんがフォースインパクトを起こすんだって)
(…でも、そんなことはどうでもいい)
(…僕は僕は、あの街を皆を綾波を取り戻すん――!?)
見間違えではない。
シンジが横切ろうとした通路の先を歩いているのはレイだった。
制服に身を包み、ラップトップと楽譜を大切そうに胸に抱え、俯き加減に歩を進めている。
そして、シンジの視界の中で突き当りにある階段の踊り場に通じるドアの向こうにその背を消した。
しばらくの間、そのドアに視線を留めていたシンジ。反対側に歩を進めようとしたが、ふと何かを思いついたように
顔を上げると、レイが姿を消したドアに向かって駆けだした。
レイが吸い込まれたドアは、先日シンジが迷い込んだ大深度地下施設のさらに底、廃棄場のような場所に
通じる階段だったからだ。
件名 | : Re: piece to Peace |
投稿日 | : 2016/04/03 01:10 |
投稿者 | : calu |
参照先 | : |
tambさん
コメントを有難うございます。
>その人をその人であると決定づける理由は何か。
>その人をその人たらしめる要素とは何なのか。
完結まではお話しできないのですが、まさしく作中で問いたかった点です。
そして…
>だが恐ろしいことに連休まで週末は予定がぎっしりだ! そして連休中は暇だというわけではなく未定なだけだ!うおお。
お疲れさまでございますm(_ _)m
コメントを有難うございます。
>その人をその人であると決定づける理由は何か。
>その人をその人たらしめる要素とは何なのか。
完結まではお話しできないのですが、まさしく作中で問いたかった点です。
そして…
>だが恐ろしいことに連休まで週末は予定がぎっしりだ! そして連休中は暇だというわけではなく未定なだけだ!うおお。
お疲れさまでございますm(_ _)m
件名 | : Re: piece to Peace |
投稿日 | : 2016/04/03 00:20 |
投稿者 | : tamb |
参照先 | : |
もし私がシンジなら、という意味のないことを考えてしまう。何ができるのか。
きっと何もできないだろう。でもシンジなら。私ではなくシンジなら。
そして何度となく繰り返された問い。その人をその人であると決定づける理由は何か。
その人をその人たらしめる要素とは何なのか。
何度も書いたことだが、もう一度最初から読まねばなるまい。だが恐ろしいことに連休まで週末は予定がぎっしりだ! そして連休中は暇だというわけではなく未定なだけだ! うおお。
個人用にテキストでまとめるかな。ログを直接ダウンロードして(笑)。
何はともあれ続きに期待。先は長いみたいだしゆっくり行こう。
きっと何もできないだろう。でもシンジなら。私ではなくシンジなら。
そして何度となく繰り返された問い。その人をその人であると決定づける理由は何か。
その人をその人たらしめる要素とは何なのか。
何度も書いたことだが、もう一度最初から読まねばなるまい。だが恐ろしいことに連休まで週末は予定がぎっしりだ! そして連休中は暇だというわけではなく未定なだけだ! うおお。
個人用にテキストでまとめるかな。ログを直接ダウンロードして(笑)。
何はともあれ続きに期待。先は長いみたいだしゆっくり行こう。
件名 | : Re: piece to Peace |
投稿日 | : 2016/04/02 10:10 |
投稿者 | : calu |
参照先 | : |
■□■□ ■□■□
ケージの底でひっそりと眠りにつく黒き筐体。その脇で闇に紛れていたラタンチェアは魔法をかけられた
ように空色の輪郭を露にした。凛とした旋律のはじまりとともに小さなステージに放たれた淡いライトは
プラチナシルバーの髪の少年を際立たせると、その音階を世界中に解き放った。
アラベスクそして月の光へと。星空の下、時間を喪いし漆黒の世界でめくるめく少年のひとりぼっちの解釈が
流れていく。漆黒に滲んだ水色のインクのようなラタンチェアで瞑想するように聞き入る制服の少女。
先の戦闘で少なからず負傷を負ったレイがベッドから起き上がれるようになったのはつい昨日のことだったが、
包帯が未だ取れない状態での大深度地下施設におけるテストを終えるや、待機場に戻る前にこの場所に足を
向けたのだった。シンジと入れ替わるように現れたレイにカヲルは少し意外そうな表情を浮かべたが、すぐに
いつもの笑顔でレイに椅子を勧めたのだった。
静から動に。弾けるように旋律が切りかわる。
「…Quatre Mains」
「そう。よく解ったね」
「以前も、弾いていたわ」
「そうだったね。…シンジ君がその気になってくれたからね」
「……」
「彼には幸せになって貰わないとダメだからね…そしてその為に僕がなすべきこと」
「……」
「だから、僕にとっては…この曲が必要だったんだ」
「……」
とてもカヲル一人の演奏とは思えない程に旋律が激しく優雅に荘厳に流れていく。
そして、その旋律は新たな音階に溶けこみ、いつしか夜想曲にその調べを変えていた。
ノクターン第20番。ここケージの底でカヲルがよく聴かせてくれた曲。
レイはこの曲が好きだった。
静かに瞑目すると、意識が体の内奥に沈み込んでいく。
信じられないまでにぽっかりと穴のあいた胸のなかで、これまでに無く旋律が響きわたる。
ふっと演奏が途絶えた。それはほんとうに蝋燭が潰えるように。
「?」
「……」
「…渚君?」
項垂れたカヲルは片手で顔を覆っていた。
「渚君!?」
「…いや。何でも無い」
そのままの姿勢でレイに向き直ったカヲルの顔は夜目にも白い。
「…ただの眩暈さ。大丈夫、問題無いから…それよりも」
「…?」
「君も…弾いてみないか?」
「…わたし、が?」
「そう」
空色のラタンチェアに腰をかけたままレイは項垂れてしまった。
蚊の鳴くような声で、わたしは、と言ったきり言葉の穂を継ぐことができない。
「そんな気になれない、かな?」
「……」
「…加賀さん、そして衣笠さんのこと、だね?」
「……」
「とても勇敢なお二人だった。君を守り切り、自らの役割に殉じ散っていかれた…」
そう、あのふたりに守られたわたしは、いまココにいることができる。でも…。
「でも…わたしに力があったなら……最後の最後に渚君が、碇くんとわたしを助けてくれた、
あんな力があったなら…」
「…A.T.フィールド、かい?」
「……」
「…解らないかい? あのA.T.フィールドは君が…君の想いが呼んだものなんだよ」
「……」
「そして、お二人の想いもまた君の中に生き続ける。そして、その分、君は強くなれるんだ」
「……」
「君が、そう…その望みを成就する為にね」
解らない。なぜ突然こんな気持ちになったのか。どうして彼女にピアノを弾かせようともちかけたのか。
…そして、眩暈の後で、突如として現れたあの既視感はなんだったのだろう。
(………)
ショパンのノクターン第20番。レイがここを辞してから何度か弾いてみた。しかし、同じような事象が
現れることは無かった。
(………)
自分がピアノの連弾を通して碇シンジとの関わり合いを深めていくのには、目的がある。だが、
彼女がそうする事に何の意味があるのか?
(…解らない)
リフレインしそうになる前にカヲルは意識を切り替えた。今は自らに課した目的を達成する為に
時間を使うべきなのだ。第13号機の完成は目前に迫っている。
そして、ゼーレの子供たち、その最後の生き残りとして存在する自分達。その末路を予見するが故に
成し遂げなければならないシナリオがある。
顔をあげたカヲルの目に飛び込んできたのはこぼれ落ちそうな満天の星。
ふたたびCFⅢに向かい合ったカヲルの上で、幾多の星が流れては儚げにその姿を消していった。
件名 | : Re: piece to Peace |
投稿日 | : 2016/03/30 22:38 |
投稿者 | : calu |
参照先 | : |
▲▽▲▽ ▲▽▲▽
白色蛍光灯が影を産まない無機質な部屋。そこに据えられた簡易ベッドの上で、シンジは凍えるように
その背を丸めている。両耳をS-DATから伸びたイヤホンと両手で塞ぎ、世界中の一切の情報を拒否する
ように。今シンジの中を大きく何度も何度も流れ巡っている『現実』、たった今目の当たりにしたばかりの
世界の状態と真実にシンジの魂は大きく揺さぶられていた。
ここに来てどれだけの日が経過したのだろう。僕はただ14年の間の変化にずっと戸惑っていて、訳が
わかんなくて、そうなんだ、何が何だか解んなかったんだ。それでも綾波がいてくれて、あの時、助け出して
いたことが嬉しくて、それで少しづつだけど昔の綾波を取り戻せているような気がして……それが嬉しくて。
でもずっと気になってたんだ。高雄さんのあの話を聞いた時から、ずっと気持ちの中に不安の影を作ってきた
んだ。でも、僕は他に本を探したりピアノをやったりやるべき事が色々とあったんで…それに目を向けることが
出来なかったんだ。そうなんだ、そんな余裕なんて無かったんだ。でも、あの日、新しいシャツが支給されて、
トウジの名前が入ってたんだ。それでその時、解ったんだ………綾波や渚君との楽しい時間の狭間でときおり
顔を出す不安が途轍もなく大きくなっていたってことに。
あそこにいた皆がどうなってしまったのか、それを知るのが、とても怖い。怖かったんだ。
『…な…なんだこれ?』
カヲルの導きにより初めてネルフ本部施設から足を踏み出したシンジは、雲の切れ間から眼前に広がった
外界の状況を目の当たりにし、言葉を喪った。
サードインパクトに見舞われた世界は、シンジの想像を遥かに凌駕し、その形状を異質なものに変えていた。
紅く変質した大地は嘗て科学の粋を集めて構築された文明社会もろともに引き裂かれている。遺骸として其処
彼処に散在する見たこともない巨人達に蹂躙の限りを尽くされたかのような眼前の世界。一面が緋色に沈んだ
外界の大地。そのどこにも生体の息吹は感じられない。まるで天空から突きおろされた巨大な十字架を見上げ
ようとしたシンジの視界に、不吉に血を滲ませる月が浮遊していた。
僕、僕が初号機と同化していたって? その間に起こったサードインパクトの結果だって?
サードインパクトのきっかけが僕だって…ただ綾波を助けようとした僕のせいでサードインパクトが起こったって!?
そ、そんなこと言われても! 突然そんなこと言われても!!
人類補完計画…大量絶滅だって? 街の皆を、皆を…この、僕が…この手で!?
反芻される事実と外界の現実、そして受けとめきれない感情のせめぎ合いは、シンジの内奥でその魂を激しく
揺さぶりその情緒をずたずたに引き裂いた。呼吸は乱れ、辛うじて倒れ込んだベッドの上で、全てを遮断し体躯を
膠着させるほかなかった。
(…なんでだよ…)
(…こんなことになってるなんて…)
(……僕の罪、だなんて…)
(………)
(…そうだ、綾波を助けたんだ。…それでいいじゃないか)
永遠とも思える思考の反芻の中で唯一の出口を見出したシンジは、ベットから辛うじて身体を起こした。汗で
シャツが上半身に貼りついている。まるで夢遊病者のような足取りで部屋を抜けると、思わぬ人物をそこに見た。
「…冬月、副司令?」
「第3の少年。少し話したい事があるのだが、時間はあるか?」
「あ、はい」
「結構だ。それでは付き合いたまえ」
「…碇くん?」
実験を終えたレイが待機場に戻ってくると、シンジがいた。積み上げられた本の脇で膝を抱えながら
顔をうずめていた。レイが近づくと、ゆっくり上げられたシンジの顔はひどく憔悴している。
「…昨日はゴメン…ピアノの練習に行けなくて」
「…構わないわ」
積み上げられた何冊の本から一冊を手にしたシンジは薄く笑った。入口から覗いているレイの寝袋の
傍に、読みかけらしい本が置かれている。
「…綾波、少しづつ…本…読んでくれてるんだね」
「綾波レイなら…そうした、から」
「……」
「……」
「…ねぇ…君は…綾波だよね?」
「そう、アヤナミレイ」
「だったら…だったら、あの時助けたよね?」
レイに不安めいた表情がうまれた。しばしの逡巡の後、蚊の鳴くような声をレイは絞り出した。
「……知らない」
「!?」
「…知らないの…ごめんなさい」
シンジは腰を上げることも出来ずに頭を抱え込んでしまった。しばらくの間、肩で息をした後に
苦悶に顔を歪ませながら壁に手をつき辛うじて立ち上がる。
「碇くん」
レイと目を合わせようともせず打ちひしがれたようにその場を後にしたシンジ。その座っていた
床には、レイからもらった楽譜が残されていた。
不安の色を色濃く浮かべるレイは、立ち去って行くシンジの後ろ姿をただ見送る事しか出来なかった。
「…助けてなかったんだ……綾波…」
セントラルドグマ内大深度地下施設。仄暗い空間の中で、ある種異様な雰囲気を醸し出す施設は、
微かな振動と不整脈にも似た作動音を産みだし、そのエリアの中を漂わせている。そして、その中心部
に据えられた円錐状のガラスチューブ。そこに満たされたLCLの海でレイはたゆたう。
ここはわたしの存在の根拠。
わたしはここで構成されて、ここに還っていくの。
ここにいれば苦痛は無いの。
ここにいればどんな傷も癒されるの。
……でも。
「…ここでの措置も今日が最後だな、碇?」
「ああ…第13号機による執行はもう目前に迫っているからな」
「初期ロットもいよいよもって、その役目を終える、か」
「…その通りだ…ユイの情報だけが受け継がれれば、それでいい……後期ロットで事は足りる」
控えめなブザー音が鳴った後、そびえ立つ巨大な設備から断続的にデータが吐き出され始めた。
待ち侘びる冬月は苛立たしげにデータシートを手に取ると、とたんに眉間のしわを深くした。
少しの静寂の後、これは良くないな、と呻くような声が霧散する。
「……」
「ふむ…果たして、最期の任務までもつものか…」
「…レイの事なら心配は無い。命令は問題無く遂行される。その為に引き継がせてきたのだからな」
「確かに…ここに来てもなお生体維持に最低限必要なA.T.フィールドを維持できている…他の複製体と
相違するところか、だが、しかし…」
「どうした、まだ何かあるのか?」
「…うむ…いや、これまで見たこともないノイズが出てきているでな。…まあ、無視できるレベルと言えるか」
「………そうか」
ガラスチューブからLCLが排出されると、いつものようにゲンドウはバスローブをレイに手渡す。
「レイ」
「はい」
「この後の司令室への出頭は省略して構わん。待機場で休むがいい」
「はい」
勤務解除を言い渡されたレイは更衣室へと急いだ。歪んだロッカーを開け放つと、ごわついた
バスタオルで身体にふいた。手際良く、それでも丁寧に身体の隅々にまで纏わりついたLCLを
拭い取る。清楚な下着をつけたところで、斜め前方の鏡に向き直ってみる。
(………)
いつからだろう。自らの姿をこうして鏡に映しだしてみるようになったのは。何故、こんなことをして
いるのか。こんな意味の無いことをどうしてするようになったのか。
(……わからない)
その時だった。突然、レイは激しい頭痛と眩暈に襲われた。手をついたロッカーから金属が軋んだ
嫌な音が響いた。だが、そんな異音を聞き咎め、異変に気付く人間は、少なくともこの部屋には存在
しなかった。誰もいない薄暗い空間の中心で、冷たいロッカーにその身体を寄せるレイは、ただひたすら
に耐えた。
…行かなくてはダメ。もう時間が無い…だから行かなくてはダメ。
全身が分裂し、崩壊しそうなまでの苦痛に襲われながらも、やっとの思いで制服を身に付けたレイは、
楽譜を鞄から取り出すと、覚束ない足取りでケージへと足を向けた。
漆黒に覆われたケージの底では、まるで忘れ去られたようにピアノが佇んでいる。夜を薄める満天の
星空の下、毎日のように様々な旋律を産みだしてきたヤマハCFⅢは、その天板に蒼い光を溜め、息を
潜めている。
そのピアノの前で、恐らくはもう二度と音を通わせることの叶わない少年がやってくるのを、レイはただ
ひたすらに待ち続けた。おとなしく揃えられた手は膝の上に置かれた二冊の楽譜に添えられている。
(…そう。もう間に合わないのね)
おもむろにピアノを奏ではじめるレイ。荘厳なヴォイシングに切なげな旋律が絡んでは闇に溶けこんで
いく。それほど時間をかけることは出来なかったけれど、シンジと一緒に完成寸前にまで高めていった
ショパンの夜想曲。そのシンジとの連弾のイメージを、シンジのタッチをレイは追う。その解釈の一音
たりとも逃さないように。鍵盤に落ちた雫を見て、レイは自分が泣いていることに気がついた。
およそ属性を異にする音が、ふたりの旋律を引き裂いた。携帯端末からの非常招集だった。
白色蛍光灯が影を産まない無機質な部屋。そこに据えられた簡易ベッドの上で、シンジは凍えるように
その背を丸めている。両耳をS-DATから伸びたイヤホンと両手で塞ぎ、世界中の一切の情報を拒否する
ように。今シンジの中を大きく何度も何度も流れ巡っている『現実』、たった今目の当たりにしたばかりの
世界の状態と真実にシンジの魂は大きく揺さぶられていた。
ここに来てどれだけの日が経過したのだろう。僕はただ14年の間の変化にずっと戸惑っていて、訳が
わかんなくて、そうなんだ、何が何だか解んなかったんだ。それでも綾波がいてくれて、あの時、助け出して
いたことが嬉しくて、それで少しづつだけど昔の綾波を取り戻せているような気がして……それが嬉しくて。
でもずっと気になってたんだ。高雄さんのあの話を聞いた時から、ずっと気持ちの中に不安の影を作ってきた
んだ。でも、僕は他に本を探したりピアノをやったりやるべき事が色々とあったんで…それに目を向けることが
出来なかったんだ。そうなんだ、そんな余裕なんて無かったんだ。でも、あの日、新しいシャツが支給されて、
トウジの名前が入ってたんだ。それでその時、解ったんだ………綾波や渚君との楽しい時間の狭間でときおり
顔を出す不安が途轍もなく大きくなっていたってことに。
あそこにいた皆がどうなってしまったのか、それを知るのが、とても怖い。怖かったんだ。
『…な…なんだこれ?』
カヲルの導きにより初めてネルフ本部施設から足を踏み出したシンジは、雲の切れ間から眼前に広がった
外界の状況を目の当たりにし、言葉を喪った。
サードインパクトに見舞われた世界は、シンジの想像を遥かに凌駕し、その形状を異質なものに変えていた。
紅く変質した大地は嘗て科学の粋を集めて構築された文明社会もろともに引き裂かれている。遺骸として其処
彼処に散在する見たこともない巨人達に蹂躙の限りを尽くされたかのような眼前の世界。一面が緋色に沈んだ
外界の大地。そのどこにも生体の息吹は感じられない。まるで天空から突きおろされた巨大な十字架を見上げ
ようとしたシンジの視界に、不吉に血を滲ませる月が浮遊していた。
僕、僕が初号機と同化していたって? その間に起こったサードインパクトの結果だって?
サードインパクトのきっかけが僕だって…ただ綾波を助けようとした僕のせいでサードインパクトが起こったって!?
そ、そんなこと言われても! 突然そんなこと言われても!!
人類補完計画…大量絶滅だって? 街の皆を、皆を…この、僕が…この手で!?
反芻される事実と外界の現実、そして受けとめきれない感情のせめぎ合いは、シンジの内奥でその魂を激しく
揺さぶりその情緒をずたずたに引き裂いた。呼吸は乱れ、辛うじて倒れ込んだベッドの上で、全てを遮断し体躯を
膠着させるほかなかった。
(…なんでだよ…)
(…こんなことになってるなんて…)
(……僕の罪、だなんて…)
(………)
(…そうだ、綾波を助けたんだ。…それでいいじゃないか)
永遠とも思える思考の反芻の中で唯一の出口を見出したシンジは、ベットから辛うじて身体を起こした。汗で
シャツが上半身に貼りついている。まるで夢遊病者のような足取りで部屋を抜けると、思わぬ人物をそこに見た。
「…冬月、副司令?」
「第3の少年。少し話したい事があるのだが、時間はあるか?」
「あ、はい」
「結構だ。それでは付き合いたまえ」
「…碇くん?」
実験を終えたレイが待機場に戻ってくると、シンジがいた。積み上げられた本の脇で膝を抱えながら
顔をうずめていた。レイが近づくと、ゆっくり上げられたシンジの顔はひどく憔悴している。
「…昨日はゴメン…ピアノの練習に行けなくて」
「…構わないわ」
積み上げられた何冊の本から一冊を手にしたシンジは薄く笑った。入口から覗いているレイの寝袋の
傍に、読みかけらしい本が置かれている。
「…綾波、少しづつ…本…読んでくれてるんだね」
「綾波レイなら…そうした、から」
「……」
「……」
「…ねぇ…君は…綾波だよね?」
「そう、アヤナミレイ」
「だったら…だったら、あの時助けたよね?」
レイに不安めいた表情がうまれた。しばしの逡巡の後、蚊の鳴くような声をレイは絞り出した。
「……知らない」
「!?」
「…知らないの…ごめんなさい」
シンジは腰を上げることも出来ずに頭を抱え込んでしまった。しばらくの間、肩で息をした後に
苦悶に顔を歪ませながら壁に手をつき辛うじて立ち上がる。
「碇くん」
レイと目を合わせようともせず打ちひしがれたようにその場を後にしたシンジ。その座っていた
床には、レイからもらった楽譜が残されていた。
不安の色を色濃く浮かべるレイは、立ち去って行くシンジの後ろ姿をただ見送る事しか出来なかった。
「…助けてなかったんだ……綾波…」
セントラルドグマ内大深度地下施設。仄暗い空間の中で、ある種異様な雰囲気を醸し出す施設は、
微かな振動と不整脈にも似た作動音を産みだし、そのエリアの中を漂わせている。そして、その中心部
に据えられた円錐状のガラスチューブ。そこに満たされたLCLの海でレイはたゆたう。
ここはわたしの存在の根拠。
わたしはここで構成されて、ここに還っていくの。
ここにいれば苦痛は無いの。
ここにいればどんな傷も癒されるの。
……でも。
「…ここでの措置も今日が最後だな、碇?」
「ああ…第13号機による執行はもう目前に迫っているからな」
「初期ロットもいよいよもって、その役目を終える、か」
「…その通りだ…ユイの情報だけが受け継がれれば、それでいい……後期ロットで事は足りる」
控えめなブザー音が鳴った後、そびえ立つ巨大な設備から断続的にデータが吐き出され始めた。
待ち侘びる冬月は苛立たしげにデータシートを手に取ると、とたんに眉間のしわを深くした。
少しの静寂の後、これは良くないな、と呻くような声が霧散する。
「……」
「ふむ…果たして、最期の任務までもつものか…」
「…レイの事なら心配は無い。命令は問題無く遂行される。その為に引き継がせてきたのだからな」
「確かに…ここに来てもなお生体維持に最低限必要なA.T.フィールドを維持できている…他の複製体と
相違するところか、だが、しかし…」
「どうした、まだ何かあるのか?」
「…うむ…いや、これまで見たこともないノイズが出てきているでな。…まあ、無視できるレベルと言えるか」
「………そうか」
ガラスチューブからLCLが排出されると、いつものようにゲンドウはバスローブをレイに手渡す。
「レイ」
「はい」
「この後の司令室への出頭は省略して構わん。待機場で休むがいい」
「はい」
勤務解除を言い渡されたレイは更衣室へと急いだ。歪んだロッカーを開け放つと、ごわついた
バスタオルで身体にふいた。手際良く、それでも丁寧に身体の隅々にまで纏わりついたLCLを
拭い取る。清楚な下着をつけたところで、斜め前方の鏡に向き直ってみる。
(………)
いつからだろう。自らの姿をこうして鏡に映しだしてみるようになったのは。何故、こんなことをして
いるのか。こんな意味の無いことをどうしてするようになったのか。
(……わからない)
その時だった。突然、レイは激しい頭痛と眩暈に襲われた。手をついたロッカーから金属が軋んだ
嫌な音が響いた。だが、そんな異音を聞き咎め、異変に気付く人間は、少なくともこの部屋には存在
しなかった。誰もいない薄暗い空間の中心で、冷たいロッカーにその身体を寄せるレイは、ただひたすら
に耐えた。
…行かなくてはダメ。もう時間が無い…だから行かなくてはダメ。
全身が分裂し、崩壊しそうなまでの苦痛に襲われながらも、やっとの思いで制服を身に付けたレイは、
楽譜を鞄から取り出すと、覚束ない足取りでケージへと足を向けた。
漆黒に覆われたケージの底では、まるで忘れ去られたようにピアノが佇んでいる。夜を薄める満天の
星空の下、毎日のように様々な旋律を産みだしてきたヤマハCFⅢは、その天板に蒼い光を溜め、息を
潜めている。
そのピアノの前で、恐らくはもう二度と音を通わせることの叶わない少年がやってくるのを、レイはただ
ひたすらに待ち続けた。おとなしく揃えられた手は膝の上に置かれた二冊の楽譜に添えられている。
(…そう。もう間に合わないのね)
おもむろにピアノを奏ではじめるレイ。荘厳なヴォイシングに切なげな旋律が絡んでは闇に溶けこんで
いく。それほど時間をかけることは出来なかったけれど、シンジと一緒に完成寸前にまで高めていった
ショパンの夜想曲。そのシンジとの連弾のイメージを、シンジのタッチをレイは追う。その解釈の一音
たりとも逃さないように。鍵盤に落ちた雫を見て、レイは自分が泣いていることに気がついた。
およそ属性を異にする音が、ふたりの旋律を引き裂いた。携帯端末からの非常招集だった。
件名 | : Re: piece to Peace |
投稿日 | : 2016/03/27 22:15 |
投稿者 | : calu |
参照先 | : |
■□■□ ■□■□
遥か彼方で流れている旋律。
浮いては沈み、またしばらくして顔をだす。
ピアノの調べ。 これは何? これは何?
これはノクターン。ショパンのノクターン。
誰が弾いているの? 解らない。でも良く知っている気がする。
いつも感じていたこの感じ。懐かしい感じ。
誰、あなた? 渚君? いつもの旋律。でも、少し違う気がする。
誰、あなた? 碇司令? 違う。この感じ。胸の中のこの感じ。
…碇くん? 碇くん、なの? どこで弾いているの?
あなたのこと、知ってる。ずっと知ってる気がする。
何かとても、とても大切な約束があった気がする。
わたし……とても大切なことを思い出せないでいるような気がする。
わたしにはそれほど時間は残されていないの。
でも…碇くん……あなただけは…。
検査機器がひしめき合うその部屋は、まるで旧世紀に見られた学校の保健室のようだった。
そこに押し込められた貧弱なパイプベッドの上ではレイが静かな寝息を立てている。
中央病院が先の戦闘によって半壊の憂き目に遭った状況下、大深度地下施設の更に地階
にあるこの医務室に負傷したレイは収容された。そして、そのベッドの傍らには千代田ユキが
付き添いかいがいしく看護している。
意識を集中しないと感じ得ない程に小さな寝息に、不安を感じるユキは時折り生体情報モニター
を凝視してはレイの手を握りなおしては、その柔かさに心を痛めた。
当然のことながら、ユキはこの部屋の存在を知識として持っていなかった。半壊した中央病院
から、駆けつけたカヲル率いる部隊員の手助けを得て入院患者と共に脱出したユキは、あまりの
変貌を遂げた一帯の状況に声を喪った。中央病院の正面玄関は原形を留めておらず、その前面
は丘陵へと伸びる道から駐車場にかけて大きく抉れ、なおもうもうと白煙を吐き続けている。辺り
一面にに散在する残骸を判別することは出来なかった。が、そこにいかなる生体反応も確認できない
ことだけは理解できた。
ここにきてユキは戦闘の終焉を知るに至ったのだが、レイの姿が見当たらない。戦闘の後処理に
奔走する顔見知りの保安部の隊員を捕え、やっとのことで本部に搬送された事実を掴んだが、
なぜか面会の許可が下りない。正確には高位のセキュリティパスが必要な大深度地下施設に侵入
する事が出来なかったのだが、そこでユキは婦長としての役職を最大限に活用し副司令に直談判
するという非常手段に出た。それもかなり強烈なレベルで。そんなかんなでやっと入手できたパスを
根拠に今ここにいるのだが、もしかすると踏み入れてはならないエリアに入り込んでしまったかもしれない。
しかしユキにはそんな事はどうでもいい事だった。それよりもレイが気がかりだった。負傷の程度にも
よるけれど、今のネルフで的確な治療を施すことが出来る人間は限られている。そして何よりレイの
ことを本当の意味で理解しているのは自分を含めた数名しかいないのだ。もう赤木博士はここには
いないのだから。
だからこそ、わたしがやらねばならない。総務局員に扮した二人が命を賭して守ったレイの命は
わたしが守り抜く。レイの役割の全うを自分だけが為し得る手段でサポートするという自らの矜持
のため。そしてそれは、あの仲間達との約束でもある。
…レイちゃん。あなたはほんとうに変わらない。今回も、シンジ君を守ったのね。
「どうなのだ、容態は?」
硬い靴音とともに低いトーンが室内に響いた。この旧式の部屋にはエアロックドアといったものは無い。
その声の主に挨拶を返したユキの表情は硬い。
「今は安定しています。幸いにして銃創による負傷は軽傷。ですが、それ以外の無数の負傷箇所に
ついては治癒にしばらくの時間を要しますわ」
そうか、と掠れた声を返したゲンドウの表情を盗み見る。照明の加減か、いつもより陰影を濃くした
ゲンドウは憔悴しているように見てとれた。
それでは、私はいったん中央病院に戻りますわ、と机からファイルを取り上げたユキの視界に一人
の少年が入った。戸口に背を預け腕を組んでいる。プラチナシルバーの髪の下で表情のない眸をベッド
のレイに向けている。その外観と第一印象を時に綾波レイと重複させるこの少年。口を開けばおよそ
14歳とは思えない滑らかな饒舌さは、その少年の印象を一変させる。そして、まるで真実を知りえる
者だけが許された老猾な微笑を浮かべると、緋色の炯眼が正対する人間にあらゆる策謀を諦めさせ
るのだ。
それにしても、いつからいたのか。この少年なりにレイを心配しているのか。
「…渚くん」
ユキに丁重なお辞儀を返したカヲルは、部屋を出るユキと入れ替わるようにベッド脇へと足を進める。
ゲンドウに肩を並べると、ふたたびその視線をレイに落とした。計測機器の作動音だけが空気を揺らし
続けている。
「…お解りだと思いますが、あのA.T.フィールドは僕のものではありません」
「………」
「わずか一閃の展開でしたが、敵主力部隊は瞬時にして蒸発。後方に控えた補給要員までがその衝撃波
で無力化されるほどの凄まじい拒絶エネルギー」
「………」
「これは、彼に危害を加えようとする如何なるものに対する絶対的な拒絶の意思表示」
「………」
「…彼女です。今でも彼女はシンジ君のそばにいて、彼を守っているんです」
目覚めたわたしに光は届かない。
わたしを待っているものは頭のなかの疼痛。
疲弊し切った胡乱な意識の底に打ち込まれた余韻のような鈍い痛み。
その根本を弄って、わたしはかすかな記憶の糸をたぐる。
色んな思考が交わっていたような気がする。
わたしは何かを見つけ、それを掴もうとして。…掴もうとして。
でもその瞬間、何かに追い立てられるように、覚醒が訪れる。
そして、いつものプロセスをただなぞっている自分にいつしか気付いている。
目覚めはわたしから全てを剥ぎ取り、手順に沿ってわたしを構成する。
そして残されるものは、空虚。遡及すべき記憶は残滓さえ見当たらない。
一切を切り取られた虚ろな思考だけが、わたしを支配している。
それが、わたしと言われるモノ。
簡易ベッドを澱みない動作で抜けだしたわたしは、いつもの手順でいつもの衣装を身に着ける。
小さなシンクで洗面を済ませると、ふたたび簡易ベッドに腰を下ろした。
いつもと変わらない午前7時の朝。
あとは所定の場所に行き、そこで発せられるであろう命令を待つだけだ。
時計の秒針の音だけが浮遊する空間に、遠くで響くピアノといわれる楽器の音が色をつけ始めた。
それに気付いたのは最近のこと。
ふたたび腰を上げたわたしは、おもむろにサインペンを手に取った。
壁に掛ったカレンダーの今日の日付を×印で塗りつぶすために。