第弐拾参話、参日目

環境の急な変化に、ひとは誰でも戸惑うものである。このふたりの場合、唐突すぎただろう。とくにレイはなにもかもが初めての経験ゆえ対処ができずにいた。寄せては返す波のごとき感情の奔流、すぐさま主張する肉体の変化。どうにかしたいと考えても抗えない。結局、彼女が選んだのはシンジとほんの少しだけ距離を空けるというものだった。

それに不思議を覚えたのが彼だ。目覚めたときレイはすでにシャワーを浴び終え制服に着替えていた。昨日の朝は微笑みあって甘い時間をすごしただけに落差を感じる。夜だってとても満足そうにしていたのになにか失敗したのかと問うても、べつに、平気、とかしか返されない。どこかそっけなく、さりとて立腹しているわけでもなさそうである。時折じっと見てきたかと思えばさっと目を逸らし、またちらちらと窺うような素振り繰り返す。なんとも掴みどころがないと思いながらシャワーを浴びて浴室を出ればマグカップに熱々のストレートティーが用意され、固形の栄養食品を渡される。テーブルがないのでベッドに腰かけてそれらを食べている間、レイは椅子に座って読書に夢中だ。背表紙を見るとフランスの童話作家が書いた詩集らしい。しかし上下逆さまでは読みづらいだろうに、速読術的なものだろうか。シンジが面白いのかと尋ねても返ってくる言葉は、そう、よかったわね、と噛みあわない。きっと疲れているのだろうと察して買いものはまたにしようかと言えば強く否定された。

やがて、しっかり施錠して家を出ると痛さを覚えるほどではないにせよ暑い日差しがある。レイは初めシンジのシャツの裾を掴みしばらくそうしていたが、つぎに袖に手をやり、そのあと小指を摘んだ。最終的に指を絡めるようになるまで電柱五本分の距離だった。

「綾波は暑いの平気?」
「平気よ」
「今日は家電も買えたらいいなって」
「どんな家電?」

シンジが手の感触に安堵して話を振るとレイはちゃんと応じてくれる。興も乗って電化製品についてあれこれ説明すれば彼女は興味深く頷いた。ただ、相変わらず目線はあまり向けてくれない。バスに乗って隣へ座っても拳ふたつほどの隙間だ。

「今朝の電話なんだけど、女の勘みたいなものとかないかな」
「ごめんなさい。私よくわからないから」
「いや、いいんだ。ミサトさんもアバウトだよなぁ……どこ探せばいいのかわからないよ」
「そう、ね……」

ただひとつだけ明確なのは、アスカについて口を開くとじっと顔を窺ってくることだ。手を握る力もどことなく強く感じる。もちろん彼とて、ほかの女性をわざわざ話題の俎上(そじょう)に載せたわけではない。出かける直前になってミサトから連絡があったのだ。曰く、検査入院していたアスカが退院後に姿を消し、昨日から足取りがまったく掴めないと。苛立ちを隠さずに荒い口調で話しているのを聞けばかなりのあせりが窺えた。保安部の人間を大勢投入しているが、状況は芳しくないから町へ出たついでに気にかけてくれとのことである。

「僕は一緒に住んでたのに、最近あまり仲よくなかったから」
「そうなの?」
「うん。話しかけても怒ってばっかりだったし……でも、違うんだと思う」
「なにが違うの?」

シンジは車窓から町をぼうっと眺めた。たとえばこのバスの座席にしても、カップルなら女性を窓側へ座らせるひとが多いだろう。逆に長距離の電車ならば通路側が好まれる。そんな配慮がすぐに出てこないでまっさきに窓側へ座ってしまった。買いものの荷物は男が持つとか、デートのお会計は多く払うとか、アスカはいろいろ言ってたから彼女に対してきっと多くの失敗があると思われる。では、レイはどうだろうか。姿勢ただしく正面を向く彼女の横顔を窺った。

「僕は……あまりきみのことを理解してあげられてないかもしれない。だけど、もう目を逸らしたくないから。だから、なにかあったら言って欲しい」
「なにかって?」
「思ってること、嫌なこと、好きなこと、なんでもいいんだ。ゆうべも同じようなこと言ったけど、でも……なにも知らないで離れられるのが一番怖いから」

レイは黙考した。彼女の心の内側はシンジで埋め尽くされている。それは自爆する前も変わらなかったが、いまや爪のさきに至るまで彼一色だ。甘美な侵食と言い換えてもいい。恋をし、愛を知ってひとつになれた歓喜が記憶や経験として蓄積されても適応に時間がかかるのは彼女の出自に起因する。虚ろだったかつてにもはや決して戻れないからこそ、喪失への不安が高まった。ひとでない自分を受け入れてくれた彼。だが、この内面をどこまで許容してくれるのか。目線があうだけで顔は熱くなり、手を絡めると途端に胸もときめく。いままで外界のあらゆることに対していっさいなにも感じなかった五感が彼といるだけで研ぎ澄まされる。少しでも律しようと距離を空けても心はすぐさま彼を求めてしまう。昔に戻りたいわけではない。ただ、生を受けて十四年の渇求の反動が拒絶を極端に恐れさせた。

「私は、あなたがいてくれればいいから」

レイの答えとは、このひと言に尽きていた。そしてシンジが嬉しそうに微笑むから彼女はますます溺れるのだ。たとえ世界中から人間がいなくなっても、彼さえいてくれればいい。あるいは、彼の望みが彼女の望みであった。

さて、市内へ繰り出したシンジたちがまず目指す場所は家具屋だが途中にはいくつかの店がまだ営業している。ちょうどアイスクリーム屋を見つけた彼はレイに食べるかと問うた。するとシンジが食べるなら、と返ってくる。彼はそこまで好きなわけではないが、カップルと言えば一緒にアイスを食べる図式があったのでひとつだけ購入だ。毎日食べても飽きないくらいフレーバーが豊富な店だがあまり詳しくない彼は無難なストロベリー味にした。チョコチップが乗っているのはどうにも使徒に見えて受けつけない。コーンはいらないのでカップのタイプにしてもらい、レイとスプーンでつつきながら感想を窺う。

「どう、かな?」
「甘いわね。苺の味がするわ」
「う、うん……苺ってさ、薔薇の一種なんだって」
「そう」

ベンチに並んで座り、向かいあうようにしているがレイはカップに目線を落としたままだ。もともと喜怒哀楽が豊かな彼女ではないが今朝からどうも元気のようなものがないとシンジは感じる。バスの中で伝えた言葉が脳内で繰り返され不安が少しずつ大きくなった。

離れたベンチにひと組のカップルが座っている。大学生くらいでともに笑顔を浮かべながらコーンつきのアイスを分けあってる姿だ。彼らは交際して何日くらいなのか。一週間、一年、もっとかもしれない。食べ終えると甘そうな顔をした男性に女性がペットボトルの水を差し出している。きっと甘いものが苦手な彼で、彼女はそれを知っているから用意していたのだろう。彼が飲んでそのまま彼女に渡せばひと口含んで立ちあがる。意識せず手を繋いでいるようで、とても自然な動作だった。

ああなりたい、と遠ざかるカップルの背中を見てシンジは思う。肩の距離、歩く速度、たまに横を窺って頷いている。男性は女性の荷物を持ってないし、どちらかがリードしているような感じもしない。対等な関係だ。

「綾波も水飲む?」
「碇くんがさきに飲んで」

暑いからペットボトル入りの水は用意してある。なんの気もなしに一本しか購入しなかったが、レイは二本別々がよかったのだろうか。そう思いながらぐびりと飲んで彼女に渡す。レイはしばらく飲み口を見詰めたあとに喉を鳴らした。やっぱり嫌だったのか。間接キスとなってしまったが事前に尋ねる配慮をすべきだったのかもしれない。いましがたのカップルはどこまで共有しているのだろうかと想像する。コップ、枕、歯ブラシまでというのはなさそうだ。

レイはどう思っているのだろうか。たとえば手を繋ぐとき、指を絡めるひとと握手のようなひとがいる。腕を抱えるようにしているカップルとだらりと添えているだけの女性も見た。暑いからあまり長時間密着しているのは不快に感じるだろうが、適切とされる基準がわからない。手を離すまでの発汗具合、キスをしたとき唇を離すまでの時間、見詰めあったときに視線を外すタイミング。昨日は無意識にしたけれど考え出したらキリがなくなる。それでも思考はさらに進み、セックスの内容にまで至った。そして頭に浮かぶとつい言葉に出してしまうのは不安ゆえだ。

「あ、あのさ。エッチしたときに……その、逝くときは言って欲しいなって」

レイは俯いたまま首を左右に動かした。赤い瞳が揺れて、口元はまごついてる。ペットボトルを持つ両手の指先はもじもじと落ち着きない。紡がれる声はいつになく小さかった。

「どう、して?」
「きみのこと、もっと知りたいから、かな。僕あまり自信がなくて……そのデートとか、エッチも、いいのかなって」

言い終わったあとに失敗した、とシンジは思った。白昼こんな場所でとんでもないことを尋ねてしまった。素早く周囲を窺えば自分たちのほかにひとはいない。それでもさすがにこれはデリカシーに欠ける話題だ。発言を取り消そうと口を開くがレイはさきに言う。

「私のこと、もっと知りたいの?」
「うん。知りたい」
「わかった……こ、今度から、そうするわ」

かろうじてあげたまっ赤な顔が可愛くて、シンジの頭はかっと燃える。レイに身構える余裕はなかったようだ。彼はぶつけるような口づけをした。彼女は最初こそ身を硬くしていたが、一秒もしないうちに口腔を開くと舌を伸ばしてくる。両腕が首のうしろにまわされ汗ばんだ彼女の肌が彼の首筋にじっとりと触れた。

何度目かのキスは苺の味がする。鼻息さえも甘くフルーティだ。レイはだんだんと押しつける力を増し、舌の動きも活発にする。漏れる吐息はいよいよ荒くなりがくがくと肩を落とすように震えていた。もちろんこのままここで行為におよびはしないがシンジはもう少しだけ彼女を感じたくて背中に腕をまわす。しかし、それを察知したレイはぐっと身体を離した。

「ご、ごめん。ちょっと調子に乗りすぎちゃった……」
「はぁ、はぁ、はぁ……いいえ、違うの」
「でも僕、こんな場所で……嬉しくて、つい」

レイはもう一度周囲を窺ってからそっと肩に頭を預ける。表情は見えないが、きっと恥ずかしいのだろうとシンジは思った。実際、彼女の返事は羞恥に満ちている。

「私、止まらなくなるから……ごめんなさい」
「そんな……謝らないでよ」
「身体だけでなく、心まで止まらないの……あなたのことがとても好きだから、胸の奥が苦しい」

シンジははっとなる。レイは特殊な体質だ。記憶はあっても感情がなかなか符合しない。詳しくはわからないがいまだってきっと内面でさまざまな想いが渦巻いているはずだ。がっつきすぎていたのかもしれない、と自身を戒める。溢れる心がレイという受け皿を知ってどんどん流れてゆこうとしてしまう。彼女を知りたいのは間違いないが、それは自分を知ってもらいたい裏返しでもある。シンジはレイの背中を撫でると自分に言い聞かせた。

「ゆっくり、進もう。僕もきっと止まれないから……」
「それでいいの?」
「たぶん、僕たちにはそれが正解なんだ」
「うん……」

少しだけ距離のある長い抱擁は、互いの心を落ち着かせるための儀式だ。二回、三回と深い呼吸を繰り返し、ゆっくりと立ちあがる。ふたたび繋がれた手は、さきほどよりずっと強く結ばれていた。


本部内にある自分の執務室へ所用で入ったミサトは乱雑に詰みあがった書類の束を見て思わず崩したくなる衝動に駆られた。整理しなければいけないとわかっていながらどんどん紙は増え、もう手がつけられない状態だ。デジタル化が進んだネルフなのにいまだ判子と紙文化がなくならない業務へ苛立ちが募る。

「ったく、なんなのよ保安部の連中は!」

なぜジオフロントの病院にいながらアスカをロストしたのか。しかも町へ出てしまっている上に昨日の朝の話がいま届けばありえないどころの騒ぎではない。すべては自分の責任だとミサトは痛感していた。おとといの深夜一時だったか二時だったか、帰宅したら室内がとても荒れていたのを知っている。コーヒーメーカーは床へ落ち、割れたまま放置されていた。壁のカレンダーまでびりびりに破れて日付は数ヶ月さきだ。アスカの服が脱ぎ散らかされ、床は入浴後の水が乾かずに水溜りとなるほどだった。

「シンジ君がいなくて正解だったかしら」

まるで無関係であるかのように呟いた。この程度の気遣いしかできない姿勢が今回の件に繋がっている。とんだ偽善者だ。家族として引き入れておきながら、手に負えなくなると心の距離を離してしまう汚い大人だと思った。レイとは対極的で、感情の振れ幅が大きいアスカならいずれこうなるのはわかっていたのに上辺だけの保護者を気取ったツケである。

「でも……どうなのかしらね」

自分の粗漏はさておき、いまになってアスカの心理を分析しようした。彼女の生理周期からして荒れているのは弐号機とのシンクロだけでなく月経後の精神も関係あるのかもしれないが、なぜシンジの部屋で寝ていたのか。しかも、布団に全裸でだ。バスタオルが近くに落ちていたから入浴後だろう。彼に抱かれたかった、と考えるのは早計か、正解か。そんな自棄を起こすとも思えないが、さりとて彼へ向ける視線や態度を見ていると否定できない。

「私と同じ、か」

寝言で〝シンジ〟と口にしていたアスカの顔が頭から離れない。泣き腫らした目元、うつ伏せで枕を抱き締める姿。赤いインターフェイスヘッドセットは部屋の隅に放られていた。もし、レイと交際せずふたりがそうなっていたとして彼らは本当にしあわせだろうか。激しい愛と憎しみは表裏一体だ。友人然り、自分然り、である。

「人類の命運懸けてる組織で昼ドラとはね……」

少しでも一緒にいる時間を与えてあげようと昨日今日を休みにしたが、シンジたちは楽しんでいるだろうか。勢いに任せてアスカの失踪を口にした電話を悔やむ。万が一にも鉢あわせしようものならどうなるかなど目に見えてる。水と油、氷と炎。三人が流血沙汰にならないことを願うばかりだ。そこもひとごとのように考えてしまったミサトは、書類の山を破壊した。


普段あまり気に留めない景色でもデートとなればべつだ。恋人と手を繋いで歩くだけで商店街は幻想の世界のような輝きを見せる。シャッターが目立ってても閑散としてても心が浮き立っていると空いてて歩きやすい、くらいにしか思わない。街灯が不思議な形をしているだとか、漬け物屋のオバサンが優しそうだとか、あのカップルはまだ交際してないのかなとか、じつにどうでもいいことが刺激的だ。隣を歩くレイも同じようで、意外にも周囲をよく見ていた。そんな中にゲームセンターなどという派手な店があればつい立ち寄ってみたくなるものだ。

「これはね。ぬいぐるみをクレーンで持ちあげるんだ」
「ぬいぐるみ、なにに使うの?」
「とくに意味はないさ。単なるオブジェってやつかな。なんとなく可愛いからとか、キャラクターが好きだとか」
「碇くんは欲しい?」

店頭でそんな会話をする彼らの前には動物をデフォルメしたぬいぐるみが景品のクレーンゲームが設置されていた。ライオン、クマ、キリンと子供が好きそうな定番と、コアラ、アザラシ、ペンギンなど女性が好みそうなものが見える。そして一番難しそうな位置にひとつだけ白いウサギのぬいぐるみだ。

「あれとか綾波っぽいよね」
「ウサギ?」
「自分で言ってて安直すぎたね。はははっ」
「私、挑戦してみるわ」

シンジはべつにやるつもりはなかったものの、なにがレイの琴線に触れたのか彼女は闘志を燃やした。だが、普段ネルフのカードで買いものしている彼女は小銭を持っていない。彼はすぐさま気を利かせて両替すると百円を十枚用意した。

「このボタンで右に動かして、このボタンで奥に行くから。一度しか押せないからね」
「ええ」

二回ほどチャレンジしてすぐさまコツを掴んだレイではあるが、残念ながらぬいぐるみは掴めない。クレーンのアームは虚しく空を切り、ウサギの耳を捉えるのが関の山である。それから千円を使い切るが、レイは納得できないようで仏頂面して口を尖らせた。こんな顔もするのかと眼福な彼はほかの表情も気になってもう千円を両替する。

「もう難しいんじゃないの?」
「そんなことないわ。いま動いたもの」

ここで欲しくないなどと言うほど彼も愚かではない。ガラスに額をくっつけて眉間に皺を寄せるレイが面白いから見守るが、しかし予算と言うものがある。三千円を消費しきって取れないのを理解した彼女は落胆してシンジの手を取ると素早く退散した。

「ははっ。綾波が負けず嫌いなんて意外だったよ」
「そう? そうかもしれない」
「でもぬいぐるみより、綾波のほうが……その、か、か、可愛いから、さ」
「可愛い?」
「うん。しぐさとか、見たことない表情が凄く女の子っぽいって言うか。前からそれはちょっと思ってて、実はさっきも横顔ずっと見てたんだけど、恋人っていいなって……ははっ」

自分がそんな反応や表情をしていると知らなかったレイは、彼に指摘されて動揺した。昨日もヒカリからそんなことを言われたけれど、シンジに言われると羞恥どころではない。自身の変化だけでも混乱するのに極めつけは〝恋人〟という単語だ。交際しているのは事実だけれども、改めて彼から聞かされると息が止まってしまう。何組かすれ違ったカップルを回想し、繋がれた手の感触に見る見る顔を熱くした。

「な、なにを言うのよ……」
「その表情がたまらないって言うか。なに言ってるんだろうね、僕。は、ははっ……」
「そんなこと、ないから……」

顔を背けて髪で隠そうとするが、それがまたシンジを喜ばせるものだからレイはもうどうしていいのかわからない。そして同時に気づくのだ。今朝まさにこのような心境であったと。ゆうべの営みでさんざん暴れたから目をあわせづらかった。いまも自分の変化を見られて羞恥したのだ。

「そ、そんなに強く手を握らなくても。悪気はなかったんだよ」
「そう? でも、私も悪気はないもの」

それからレイは喉の渇きを覚え、自販機でシンジが水を購入している間にハンカチでこっそりと額や首の汗を拭く。すぐに顔や耳が熱くなるのはどうにかしたい。二人目のときもあったこの変化について、彼に指摘される前に治療できないものか。そんな悶々とした悩みを抱えたレイは、気づくと家具屋の前に連れ立っていた。

「よかった。営業してたみたいだ」
「間にあったようね」

店じまいと書かれた(のぼり)が立ち、セールの赤いポップが至るところに貼ってある。疎開もだいぶ進みこの店もいよいよ畳むことになっていた。ましてや家具ともなれば運搬だけでもたいへんなのだから、叩き売りして身軽にしてしまおうというわけである。

二階まで店舗、三階が事務所の路面店というのもあって敷地はそれほど広くないが寝具までひととおり揃っており、格安だ。ほうほうと納得しながらシンジが繰り返し頷いていると店主が声をかけてくる。

出荷作業の合間らしく、接客というよりいくつか冗談交じりに説明してきた。仲のいい兄妹だとからかわれてシンジがまっ赤になりながら恋人だと主張すれば、隣のレイもまっ赤になって頷く。それならお詫びにさらに安くしておくからと商売人にうまいこと乗せられ、あれやこれやと見てまわった。

パジャマに使う半袖ハーフパンツのトレーナーを数着とスリッパをお揃いで選び、サイズに見当をつけてクリーム色の遮光カーテン、バスマットからタオル類を数点、天井の照明やテーブルと考えつく限り言われるがまま決定して最後に〝よく弾む〟とダブルベッド用のマットを勧められる。

「よ、よく弾むってなんだろうね。ははっ」
「そう……ね……」

店主がいなくなったとき、シンジはぽつりと口にする。意味は察するが、なんとなくレイに振ってみた。そんな彼女は赤い顔を伏せている。二日間ともたいへんな夜になったが、さらに弾んだら自分はどうなってしまうのだろうかと妄想していた。そこへシンジの不用意な気遣いが炸裂するから彼女の羞恥は爆発だ。

「ダブルなら少しぐらい平気だね。うん……」
「し、知らないわ。私、べつに、知らないから」

またしてもギリリと手の力が強まる。失言を悟ったシンジが謝り倒してその場は納まったが、動揺すると言葉を噛む彼女が知れただけでも大収穫である。組み立て式だからマンションのドアも問題ないとの説明を受けてベッドやシーツなどと一緒に購入だ。ちょうどトラックも用意できるから今日中に届くと言う。最後にとても嬉しそうな店主の声を背に受けて退店した。

少し遅めの昼食をまだ営業していた屋台のタコ焼きをぱくついて済ませたふたりは、充実した買いものに笑顔を交えて道をゆく。時刻は三時をまわり、途中で食材を買いにスーパーへ寄るという段取りも決めた。ほかにもいろいろと必要なものを買わないといけない。あれこれとレイ宅にあるものないものを話しあっているとき、彼女は唐突に言う。

「碇くん。あそこにいるの、弐号……惣流さんではないの?」

シンジがレイの視線を追うと、小さくて寂しい公園がある。打ち捨てられたように錆の目立つ遊具と手入れされていない雑草が繁っており、ベンチにぽつんと座るアスカの背中だ。ほかにひとはいない。

「本当だ……どうしてこんなところに……」

幹線道路ではなく、二本ほど裏路地を歩いて帰ったことが功を奏していた。ミサトが失踪したと伝えてきた少女が俯いている。ここでシンジは電話ですぐさま連絡する、という選択をしなかった。かつて自身が保安部の世話になったときの光景がどうしても重なる。あれはまさに連行される気分だった。なにか暴力を受けたり詰問されたりしたわけではないものの、ダークスーツにサングラスという風体は威圧感があり、反社会的なイメージだ。自分が悪いとはいえ、えらく緊張したのを覚えている。

「私、待ってるから行ってきて」

仲がよいとはお世辞にも言えないレイと一緒ではアスカの心情が悪いだろう。いくら恋人と片時も離れたくなくてもシンジとてそれくらいの配慮はある。無言で頷くと、彼は足早にアスカへ向かった。

「アスカ。僕だけど……」

彼女の前にまわり、わずかに身を屈めて語りかける。こういうときの距離感は大切だと思った。周囲は静かだがあまり遠くては相手の言葉を聞き逃す恐れがあるし、さりとて近すぎても萎縮させてしまう。どれくらいが最適なのか道徳の授業でやっていたのを思い出すが内容を失念していた。ゆえに、なんとなく1メートルほどの位置を選ぶ。触れられるほどでないが小さな呟きでも耳にできる。

果たして、アスカは肩をぴくりと動かすが顔をあげない。ひと目見てシンジは危険な雰囲気を察知する。よもやこれほどまでとは思っていなかった。デートで浮かれていた気持ちが瞬時に凍りつく。日陰になっているからか、全体的に覇気がなく頬もやつれているようだ。いつも丁寧に整えていた栗色の頭髪はぼさぼさで、髪留め代わりに使っているインターフェイス用のヘッドセットも着けていなかった。だらりと肩をさげ、両手はベンチの上に、両脚も開いて投げ出されている。学校の制服は(しわ)ばかりが目立ち、靴と靴下には泥が付着していた。

そんな彼女に二の句が告げられない。なんと言うべきか。ここで言葉の選択を誤れば決定的な破滅を招くのは容易に想像がつく。まさか自殺まではするまいが、だからといって楽観できない。本人にその気はなくても勢いで、ということもありうるのだ。もしくはこの場からアスカが脱兎のごとく逃げ出したとき間違って車に撥ねられる可能性だってある。助けたかったのに目の前で悲惨な姿になった彼女を想像して拳を作った。

「僕は……嫌だ。そんなのは……嫌だ」

勝手に想像して哀しくなる自分が滑稽だとは考えなった。あんなにも華麗な姿をしていた彼女と同一人物には見えないからこそ余計に痛ましく、胸が苦しい。高いところが好きで、喜怒哀楽が激しくて、なにをするにもオーバーリアクションで我侭ばかりだったのに、いまはこんなにも小さく弱々しい。少し小突いただけでそのまま動かなくなりそうに思えて哀哭(あいこく)のように声が漏れた。

「僕は、きみを失いたく……ない」

彼女の心へ届けようとして言ったわけではない。かつてレイに抱いた気持ちがただひたすらに去来していた。なぜこうなってしまったのだろう。もっと早く、もっとしっかりと向きあっていればレイのように見つけてあげられたかもしれないのに。出逢って、一緒に生活して、しばらくは決して険悪な関係ではなかった。子供の頃からやたらと静かな場所で生活していたというのもあって賑やかな環境や声の大きな人間は苦手でも、彼女とのかけあいに楽しい部分もあったのだ。いまになって思えば、自身も笑うことや怒ることが増えたかもしれない。勝手な評価をするならば、アスカはシンジを引っ張ってくれる存在だった。

「いつもありがとう、アスカ。それなのに、なにもしてあげられなくて、ごめん……」

いつの間にか泣いてる自分に気づいて涙をぬぐうと鼻を啜った。だが、一度溢れた感情は止まらず膝を屈してしまう。両手を大地に突き、滴る汗と涙が土の色を変えた。アスカがなにを考え求めていたのか、いまでもわからない。けれど、レイのときのように一歩踏み出す勇気があればもっと違う結果になっていたかもしれないのだ。シンジはそんな自分が悔しくて睨んだ地面を掴む。

「くそっ……」

ざわりと風がふたりを撫でる。蝉の鳴き声に混じって噛み殺した彼の嗚咽(おえつ)が漏れた。アスカの目に、俯いたシンジの表情が映る。顔をまっ赤にして唇と手を震わせている姿が彼女の瞳に青さを灯す。けれども、ひび割れた口から出るのは強い拒絶だ。

「なにしに来たの。どうせ無様なあたしを見届けろって、リツコに言われたんでしょ」
「違う……違うよ」

アスカの明確な挑発に、しかしシンジは自分でも驚くほど冷静にいなした。以前であればせっかく気にかけてるのにと反論するところだが彼は力なく首を振るだけだ。顔はあげず、手の甲で何度も涙をぬぐう。逆に掠れてても彼女の声を聞けたのが少しばかりの安堵になった。

「心配しなくったって、そのうち誰かがくるわ。すぐに連れ戻されるから放っておいて」
「嫌だ。アスカは僕と一緒に行くんだ」

顔をあげてアスカをまっすぐ見詰める。目の下の隈が濃く、肌にも張りがない。それどころか汗と皮脂で照りを放っていた。日焼けによって肌の色も少し赤く、綺麗な形の眉毛は微動だにしない。なにより棒読みのような彼女の声が彼の胸を刺す。まわりの音や存在が煩わしいと感じているのかもしれない。食事も睡眠も死なない程度にこなす。あとのことは、たとえば入浴とか身だしなみとか、学校や友達に関心が払えない。いつが朝で夜なのかさえどうでもいいのだろう。

「ホテルに連れ込んでセックスしようって? いいわよ、べつに。好きなだけやれば?」
「違うよ……そうじゃない」
「アンタの位置ならあたしのパンツよく見えるでしょ。ほら、見なさいよ。なんだったらここでシてもいいわ。脱げばいい? アソコ見せたらその気になる?」

恥じらいもなくアスカは大きく股を開く。視線を彼女へしっかりと向けてても周辺視野によって白い下着の情報は入ってくる。平時であればシンジは凝視したか、照れて顔を背けただろう。だがいまの彼に挑発は通じない。アスカにそんな気もないのは考えるまでもないが、もっと大事なことがある。

「そんなことしなくても、アスカはアスカだから」

なぜそう答えたのかわからなかった。どこか自棄に感じたからだろうか。慎重に言葉を選びたいと思っているのに思考するよりさきに口が動く。彼の涙は止まり、手でぬぐいもしない。青い瞳をじっと見詰めて続く言葉へ真摯に返した。

「よく言うわよ。あたしをオカズにしてたくせに……アンタにそんな度胸もないか」
「いや……そういうわけじゃないよ」
「あたしにそれだけの価値がないんでしょ」
「それこそ意味がわからない。アスカのこといらないなんて、僕は一度も思ったことないよ」
「じゃあなんで抱かないのよ」
「アスカのことが大切だから」
「いいからさっさと抱けって言ってんの。ゴムなんていらないから、好きなだけ出しなさいよ」
「これ以上きみを傷つけたくない」
「汚い女は抱きたくないって素直に言えばいいじゃない」
「アスカは汚くなんてない」
「じゃあ身体中舐めてよ。このいくじなしが……アンタ去勢されてんの?」
「そうじゃない」
「エヴァは乗れない、女としても終わってる……あたしに価値なんてないでしょ。アンタとヤれば少しは価値が生まれるのよ。だからさっさと突っ込みなさいよ」
「あるよ。僕はきみにいて欲しい」
「いいわシンジ、アンタの女になってやるわよ。ほら、早くヤれって言ってんの。それともあたしがシてあげようか? ねぇ、アンタのしごいてあげるわよ」
「その前にさ、ご飯食べようよ。僕また頑張って作るからさ」

シンジにアスカをこの場から引き離したいという意図は微塵もなかった。純粋にいま必要な提案を口にしたまでだ。食事も満足に取っていなかったように見えるし、入浴なんてほど遠いだろう。彼女は湯船に浸かるのが好きだったから帰ったら掃除したほうがいい。夕食はスーパーでなにを買おうか。そうやって脳裏でプランを組み立てていれば自然と頬も緩んだ。

そんなシンジの表情にアスカの瞳が輝きを増す。それは同時に感情も激しく爆発させる。もし彼がもう少し距離を詰めていたら馬乗りになっていたかもしれない。それほどの憤怒だ。虚ろだった眼差しを燃えあがらせ眉間に深い(しわ)を寄せて吠える。

「調子いいこと言ってんじゃないわよ! だいたいさっきから黙って聞いてれば、アンタなに好き勝手言ってんの? なにもしてあげられないですって? ハンっ。よくそんなことが言えたわね。あたしのことなにも知らないくせに、うぬぼれるんじゃないわよ! アンタごときがあたしになにができるってぇ言うのよ!!」

立ちあがって激しく見下ろす。肩を怒らせて唾が飛ぶのも構わず捲くし立てた。ともすれば殴りかかってたかもしれないし、蹴りを放っていた可能性もある。彼がもし得意の謝罪を口にしたら確実にそうであった。だが、シンジは自らの弱さを認めつつも目を逸らさないし跪いたままでもない。

「そうだよ。僕はなにもできなかった。きみが苦しんでるとき、傷ついてるとき、僕はいつだって自分のことばっかりだった。いまだってそうかもしれない。でも……やっぱり一緒にいたいから、いて欲しいから」

ゆっくりと立ちあがりわずかに高いアスカの目線を受け止めた。それが彼女はますます気に入らない。いま言ったシンジの台詞も表情も、想定とは違う。だから負けじと啖呵を切る。どうせミサトあたりに言われて無理やり口にしているだけだと、虚勢を張っていますぐにでも逃げ出す算段をつけてるだけだと。

「どの口がいまさらそんなこと言ってるワケ。いっつもびくびくして、おどおどして、顔色ばっかり窺ってるくせに!」
「うん。僕はいまでもきっとそうだと思う。でも少しだけ歩み寄れば、そこにいるんだって知ったから」

そう言ったシンジの目に偽りは見えなかった。だからアスカは動揺する。なんなのだ、この男は。本当にあの彼なのかと。よほど入念な会話のシミュレーションでもしたのか、脅されるほどきつく言い含められているのか。強力な暗示かもしれない。

「なにが歩み寄るよ! アンタに女心なんて一生わかんないわよ。触れたことすらないヤツに、自分を慰めてるようなヤツなんかに!!」

アスカは一歩、身体を寄せた。シンジとの距離は50センチもない。彼女は内心を叱咤するように胸を反らし、牙を剥く。この男なら確実に後退する近さだ。これで邪魔者は排除できる。早く向こうへ行ってしまえと威嚇した。そして彼は案の定、困った顔を浮かべる。だからアスカは最後のトドメとばかりに胸をぶつけた。あたかも自分の心からシンジを追い出すかのような、決別の言葉を添えて。

「さっさと行きなさいよ! 二度とあたしの前に顔を……っ!」

しかし、言い切る前に封じられた。灼熱の両腕がアスカを抱き締めていたのだ。それも背中にしっかりと両手をまわし、肩口に顔を埋めている。唖然とする彼女に彼はとても落ち着いた声で紡ぐ。

「大丈夫だよ、アスカ。もう、大丈夫……」

少し身じろぎしたアスカを逃がさないよう、さらに腕の力を強めて胸を密着させる。なぜこの言葉を選んだのか自分でもわからない。ただ彼女の姿を見たとき、どこか迷子のような気がしたからかもしれない。指摘されたとおり、うぬぼれだと思う。いまこうするのがただしいとも思えない。寒いわけではないし、雨に打たれていたわけでもない。それでも彼は多くの言葉より前に身体を動かしていたのだ。

「なにが、大丈夫なのよ」
「僕もよくわからない」
「あたしにこんなことしてタダで済むと思ってんの?」
「あとで叩いてもいいよ。でもその前に、帰ろう」

冷静な彼の言葉にアスカの拳が屈辱に握られる。どれほど凄みのある低い声を出してもシンジは岩さながらにびくともしない。格闘技術を会得してる彼女ならここから振りほどく方法はある。ただ、その前に警告だ。

「そんなんで釣ろうとしてもムダよ。いいからさっさと離しなさい」
「嫌だよ。だって、こうすると落ち着くから……きっと落ち着くから……」
「離せって言ってんのよ、このバカシンジっ!」
「嫌だっ。きみを絶対に離すもんか! ひとりにさせるもんか!!」

咆哮とともに息苦しいほどの力がアスカを締めあげた。五本の指まで背中に食い込む。耳元で叫ばれて鼓膜がじんじんとした。こんなシンジ、彼女は知らない。ともすれば参号機に乗る友人を傷つけたときを上回るほどだ。普段は頼りないくせに、いまだって泣いてたくせに、彼にはこういう瞬間がある。どんなに殴っても怒鳴っても決して折れない不屈の精神だ。だから彼女も根負けした。もとより暴力を振るう気力もない。シンジの行動すべてが予想を超えたときからアスカは敗北していたのだ。

「わかった。わかったわよ……だから離して」
「約束してくれないと駄目だ」
「ちゃんと、約束するから」
「いや、アスカはまだ落ち着いてない。だからまだ、駄目だよ」

シンジはそう言って腕の力を緩めると、あろうことか背中を優しく撫で首筋に顔を擦りつけてくる。これにはさしものアスカも驚愕した。握られていた拳は緩み目を丸くすると、はっと息も止まる。ついいまの瞬間まで気色ばんでいた心は音を立てるようにしてしぼんだ。

「もう……大丈夫だから離して」
「本当に? 怒鳴ったり怒ったりしない?」
「今度こそ本当……嘘、つかないわ……」

そっと離されるシンジの身体。熱っぽかったふたりの身体から汗がどっと吹き出る。すると、気が抜けたのと疲れもあってアスカはその場にへたり込んでしまう。頭がくらくらして息も荒い。自分ではもう少し頑張りが利くと思っていただけに情けなくて溜息を漏らす。

「アスカっ。ごめん、僕……そんなに……」
「平気よ……ちょっとふらついただけだから」

割り座で顔を伏せたアスカに対し、シンジの行動はここでも迅速だった。彼女の腋を抱えるとすぐさまベンチへ横に寝かせる。熱中症かもしれないと額に手を当てて様子を窺うが気温が高くてよくわからない。とにかく体温をさげるのが先決だが、うちわを持ってない。それならばとYシャツを素早く脱いで、ばさばさと音を立てながらあおぐ。

「綾波っ。綾波ぃ!」

近くのレイに向かって首をめぐらせながら声を張るが、しかし彼女の姿は見えない。携帯で救急車なり本部なりに電話しようと尻のポケットをまさぐるもののさきほどタコ焼きを買った際に落としてレイに預けたままだ。

「なんでそこでファースト呼んでんのよ。それに、単なる貧血だから」
「えっなに? なんのこと?」

あおぐのに夢中なシンジは聞こえてても頭がまわらないようだった。女子の貧血と言えばだいたい察するのが普通だろうに、どうしてこうなのかとアスカは呆れた表情をしつつ口を尖らせる。あんなにも男らしいことをしておきながらやはり頼りない。

「だぁからぁ。生理直後に三日も食べてないし炎天下でふらついただけだって言ってんの」
「えっ、えっ? あ、ああ、そうなの、か……」
「ったく、アンタバッカじゃないの? しかもファーストのこと呼んじゃってさ。迷子の子供かってぇのよ。ハンっ、あの女ならアンタの声受信しそうだけど」
「いや、そうじゃなくてね……」
「風だってぬるいし、ぜんっぜん意味ないから」
「大丈夫、大丈夫だよ。きっとよくなるから……」

体調を理解してもシンジはシャツの手を止めない。たしかに彼女の顔色は少し赤いくらいにしか見えないが、さりとて貧血の対処もわからないので放置も無理である。そこへ、彼を一番安心させる声がかかった。アスカは目を丸くして驚く。

「碇くん。これ、お水……」
「あ、綾波。ありがとう。助かったよ……」
「ごめんなさい。体調悪そうにしてたから、自販機に向かってた」
「謝らないでよ。ああそうか、この手があったか」
「ええ。使いかた、わかる?」
「う、うん。たしか、こう……」

レイはペットボトル入りの水を三本用意していた。シンジは二本受け取ると一本をハンカチで包みアスカの首筋へ、もう一本を腋の下へあてがう。貧血はともかく熱中症なら太い動脈のある場所を冷やすとよい、と習った気がする。なされるがままにしていた彼女は、思い出したかのように口を開く。

「なんでここにファーストがいるワケ?」
「あ、うん。一緒に出かけたから」
「だから、なんで一緒なのかって訊いてんのよ」
「つ、つきあってるから、かな?」
「ハア? 誰と誰がよ」
「僕と、綾波が……ね」

シンジが表情をまごつかせているのを見て彼女は目を数回またたいた。前髪が目に入りそうだと思った彼は、他意もなく額を少し広げてあげる。そんなことをするのもされるのも初めてのふたりだが、アスカは意に介さずがばりと起きあがって声を張った。極限まで大きく開かれた目が血走っている。

「な、な、なんですってぇ!!」

あまりの剣幕とたくさん飛んだ唾に中腰だったシンジはうしろへ仰け反り、尻餅をつく。ボトルの一本が落ちそうになったのを慌ててキャッチした。そこへ彼の隣に立つレイが冷静な言葉を返せばアスカはますます声を大きくする。

「惣流さん、寝てたほうがいいと思う」
「うっさい!!」
「そう。でも、水分を補給したほうがいいわ」

シンジは困った顔をしながら立ちあがり、キャッチしたボトルをどうしようかと悩んで最終的に自分が飲むことにした。レイも隣で白い喉を鳴らしている。アスカは無言なまま視線を左右に動かして睨むように観察中だ。しばらくしてベンチに落ちたボトルを手に取ると、ぐびりと勢いよく煽る。手の甲で口をぬぐい、これまた勢いよくボトルをベンチへ叩きつけるように置く。

「どういうことよ? シンジ……あたし聞いてないわ」
「あの、深い事情って言うか。あとでしっかり説明するからさ」
「いま言いなさいよ!」
「怒らないって言ったじゃないか。それに、体調をさきに……」
「平気だって言ってんの」
「さっき倒れただろう……?」
「アンタに甘えただけでしょうが!」
「そ、そう……だったらいいんだけど、でも、ここじゃ話せないことだから」

シンジの心底困った顔を見てアスカも追及の矛をさげる。だが、それだけでは腹の虫が収まらない。ボトルを大きくパキりと鳴らして彼をじろりと射抜く。

「で、アンタはあたしがこんな状況だってぇのにこの女とよろしくやってたってワケ?」
「アスカのことを知ったのは今朝なんだよ。その、保安部のひとが見失ったって……」
「ハンっ。それで哀れなあたしを見つけて介錯して恩を売ろうって?」
「そうじゃないだろう? さっきも話したじゃないか……あと、介抱ね」

アスカの頑なな態度を見て、シンジは力のおよばない自分を悔やんだ。嘘偽りは微塵もなく本心からの言葉だったのに彼女の心まで届かない。だが見捨てるなどありえないのだ。どうしたらいい、なにができると思案しているとアスカは大地を蹴るように立ちあがった。

「まぁいいわ。で、どこへ行けばいいのよ」
「ああ、うん……」

意外な反応にシンジは心の底から安堵して破顔する。余計な言葉で心変わりさせるわけにはいかないのでレイと並んで帰路へとつく。途中のスーパーで買いものしているときも終始無言なままのアスカだったが、レイのマンションを見るなり眉を顰めて胡乱げに口を開いた。応じるのはレイだ。

「アンタ、本当にここ住んでんの?」
「ええそうよ」
「どう見たって廃墟じゃない」
「そう? そうかも」
「あたしを担ごうってぇんじゃないでしょうね」
「いいえ。一年以上ここに住んでるわ」

建物は補修されておらず至るところにヒビが入っている。窓は何枚か割れておりベランダの手すりは錆びていた。幽霊屋敷さながらだろうとアスカは身震いする。それでも前を歩くシンジとレイの足取りには迷いがまったくないから彼女も渋々ながらあとに続くしかない。

風雨に長く晒されたと窺える廊下や階段、天井には照明もないから夜の訪問は断固拒否したいと思った彼女だがレイの部屋へ入れば一転、生活の気配があればひと心地もつけるというものだ。平然を装ってても声にほっとした空気が漏れてしまう。

「本当なんだ……」
「そう言ったわ」
「でも家具とか全然ないじゃん。それに壁紙もないし」
「碇くんと買い揃えたのが今日だから」

テレビっ子なアスカは、生活感のなさに少しばかりドッキリ企画を疑うもののレイが買ったものを冷蔵庫へ収納し、シンジも早々と風呂場へ向かって掃除しているのを見れば納得せざるをえない。加えて、タイミングがいいことに家具屋が購入したもの一式を届けに来たのだ。前のベッドと椅子を引き取り新しいものを手際よく組み立てると、あっと言う間に去ってゆく。ちょうど風呂場の掃除を終えたシンジが一変した部屋に驚きの声をあげている。

「なんか音がしてると思ったらもう終わってたの?」
「ええ。組み立てもしてくれたわ」
「サービスってこと? 早くない? プロって凄いなぁ」
「そうね。でも碇くんの楽しみが減ってしまったわ」
「ああそうだ。枕も……」
「必要だった?」

そんなやり取りを耳にしてアスカはレイに促されるまま綺麗な椅子へ座り、出された麦茶を飲みながら借りてきた猫のように部屋を窺う。クローゼットを開ければたしかに学校の制服が何着かかかってるし、小さい箪笥(たんす)の中には下着もある。業者まで来たとなればやはり一年以上住んでいたと言うのは本当だ。

さて、そうこうしているうちに今度は台所からまな板を叩く音が聞こえた。振り返ると、なんとあのレイが泣きながらタマネギを切ってるではないか。シンジが隣に立って優しく見守っている。

「アンタがそんな家庭的だなんて知らなかったわ」
「いま彼に教わったもの」

不慣れな様子ではあるものの、アスカとてたいして変わらないから文句はない。やがてシンジも加わって下ごしらえを始めた。仲良く並んで調理する姿に公園で見せた怒りやどきりとした胸の内はもう沸き起こらない。癒えない古傷がただ痛むだけだ。

そのうちに風呂も沸いたと言われて浴室へ行けば真新しいタオルとボディソープが置かれ、シャンプーやコンディショナーも好んで使っていたやつが用意されている。シンジと同居しているときは我侭をよく口にしたアスカだが、細かい気遣いを見ればさすがに胸も痛んだ。丸一日ぶりに身体をさっぱりさせると心の汚れまで洗い落とされた気分になる。ちょうどいい温度で湯船に浸かりながら天井を見あげ、溜息混じりの声を漏らした。

「なんかなぁ……」

前はそこまで手入れがされてなかったのかもしれない。トイレと一緒の浴室は隅々まで綺麗で、洗剤の匂いも残っている。見得を張ったのではなく来客に対する礼儀か。どこかの廃墟で風呂に入ってる自分を想像した。シャンプーや温かいお湯はなく、浴室の壁すら存在しないかもしれない。あのまま公園にいることはないにせよどれくらいさまよっていただろうか。

「あたし、汚かったな……」

少し赤くなった肌を見下ろす。さきほど制服を脱いだとき酷い悪臭がした。たった一日でもそれだけ汚れていたことになる。水面下の裸体がゆらゆらと揺れた。隅々まで丁寧に洗ったから湯船は濁っていない。飲めるほど綺麗な水はシンジが用意してくれたものだ。

「あんなこと言って……」

まともな食事は三日くらいしていないが、それだけで胸が小さくなったように見える。腹はぺこりとつぶれて空腹を知らせた。食欲なんてなかったが、こうして〝家〟にいると不思議と音が何度も鳴るのだ。

「ヴァージンのくせに……」

陰毛が海草のようにそよぐ。鼻を摘むほど汚い身体だったにもかかわらずシンジはあんなにも密着してくれた。首筋なんて最悪だろうに、息を止めるどころか呼吸がとても大きかったのはそれだけ必死だったのか。あまつさえ、何度も顔を擦りつけて……背中に食い込んだ指先がいまでも思い出せる。さぞ安い女だと思われただろう。

「このあとどうしよっか……」

ざばりと湯からあがって湯船を見る。そこに濁った水はない。一番風呂までもらって、このお湯をどうしたものかと少しだけ考えるが結局は栓を抜いた。

またあの制服を着るとばかり思っていたアスカだが、脱衣所を窺えばトレーナー上下が用意されている。袋に入ったままでタグもついてるから、あえて手をつけていないのを証明したのかもしれない。そんなことまでしなくてもいいのにと思いながら下着を探すもののそれも見当たらなかった。閉じられたアコーディオンカーテンの裏で料理しているらしいレイから声がかかる。

「惣流さんの服は洗濯機に入れたから」
「制服も?」
「ええそうよ。汚れてたもの」
「あ、そう……」

夏服とはいえ、制服を洗濯機とは驚くが同時に今夜はここへの止宿が決定してどこか安堵した。幽霊屋敷などと思ったマンションなのに調子がいいと自嘲して鼻を鳴らすと、新品のバスタオルで身体を拭いて素肌にトレーナーを着る。

「今度はドライヤーとか……どんだけよ」

シンジとレイの邪魔にならないよう寝室へ戻ればテーブルの上にはドライヤーと櫛、小さい鏡が置かれていた。どちらも値札がついたままなので帰りのスーパーで買ったものだとわかる。金額の問題ではないし彼らも使うのだろうが、あまりのタイミングのよさにすべて自分へ向けられていると感じてしまう。

「頭が軽い……」

腰近くまである頭髪だから汚れがあるのとないのでは大きく違う。指のとおりもさることながらドライヤーのブローによって艶が雲泥の差だ。さすがにここまでしてもらってと振り返るもののレイは浴室へ行っており、シンジも料理に夢中である。だったらいいかと肩を竦めると髪留めもないので三つ編みにして暇をつぶした。

しばらくしてレイが風呂から同じトレーナー姿で現れ、使い終わったバスタオルや下着をベランダの洗濯機に投入している。会話もないまま彼女はまた台所へ消えた。

「いい匂い……」

ドライヤーを束ねていた輪ゴムで髪を留めると、ちょうど台所から肉の焼ける香ばしい香りがした。失踪し続けていたとしてもIDカードで買いものをすれば追跡されるからと使わなかっただろう。胃袋からしつこいくらいにガス欠のサインが送られてくると目の前においしそうなハンバーグが置かれる。好物のミネストローネも添えられて、気づいたときにはふたりを待たずに箸をつけていた。

「なんでアンタたちメニュー違うの?」
「これは綾波が肉まだ苦手だからさ」

シンジとレイの主食が自分と違うのを指摘する。見た目はハンバーグだが、色が少し白い。豆腐を使ったやつかもしれない。そう言えば前に屋台のラーメンを食べたとき、レイはチャーシュー抜きにしていたのを思い出した。自分には関係ないしどうでもいい情報だと、ミネストローネを啜る。

「アンタそこなの?」

シンジがベッドを椅子代わりにして食事していることすら知らずに黙々と食べていたアスカだが、彼はとくに気にした様子もなく器用に咀嚼している。

「ああ。うん、まあ椅子がふたつしかないからね」
「ふうん。ま、いいけど」

だんだんと自分に腹が立ってきたアスカはなにも言わずさきに食事を終え、そのあと洗濯物を室内へ干すレイの姿をぼうっと眺めた。(しわ)だらけの制服、白い自分の下着とレイとシンジの下着が丸出しだ。洗濯ネットを買ってなかったからと言われてもなにも答えなかった。そもそもシンジとはおとといまで同居していたのだからいまさらである。ただ、もう少しましな下着を穿いていればよかったと強く思う。

「ホント、一緒に住んでんだ……」

どちらに言うでもなく、ひとりごつた。たった一日と少しでこんなにも変化したふたりの姿に悪い夢でも見ているかのような錯覚を覚える。時間を止めていたのは自分だけだと考えそうになって、内心で首を振った。

ややあって家事も終わり茶を啜るようになると本題はここからだと言わんばかりにアスカは腕と脚を組んだ。骨盤が歪むから普段はそうしないもののどうにも座り心地が悪い。対面にレイが、ベッドは変わらずシンジが腰かけている。

「それで? 話ってなによ」

ひと前では言えない重大な機密と前置きされてもアスカはたいした話ではないと思っている。だが、シンジの口から語られたレイの出生の秘密は想像の遥か上をいっていた。時折、本人が淡々と補足するのが余計に生々しい。なぜあれだけの自爆をしておきながら無傷なのか。自身の命に価値を持たなかったいままでと崩れた予備の身体。本部の地下で監禁のような生活を送っていた毎日と白い巨人の話。記憶のバックアップやダミープラグなど、レイは最高機密すらも簡単に開示した。これは、シンジにも知ってもらいたいという理由でアスカの入浴中に彼と決めたことだ。アスカはなんの質問も交えずに、ただ息を飲む。

「――以上よ。なにか質問はある?」

学校の教師のように締めくくったレイへアスカは返す言葉を持たない。人形のように薄気味悪い女だと思っていた。肌は雪のように白いし虹彩も赤い。髪は青みがかった銀色だし、なにを考えているのかわからなかった。しかし、だからといっていくらなんでもそれは、ない。たしかにおいそれと口にはできないだろう。ネルフの中で知ってるのはごく少数と言うのも頷ける。

「なんでそんなこと、あたしに、教えるのよ……」
「だって、経緯を説明するためには必要でしょ?」
「だからって……」

馴れ初め程度の話のつもりが、とんでもない秘密を聞かされて怒りなど沸くわけがない。テーブルに片肘を突いて頭を抱えた。レイを見れば話したことに不安があるのか、目線を少しさげている。片手はしっかりとシンジに繋がれており彼は顔を歪めて大粒の涙を落としていた。そしてそれはアスカも同じだ。

「あなた、泣いてるわ」
「当たり前じゃないっ。こんな、こんなの聞いて普通でいられるほうがどうかしてるわよ!」
「そう……そうなのね」

レイに対する恐怖が生まれようはずもなかった。人道というものが希薄な組織だと感じてはいたが、よもやこれほどとは思いも寄らないことだ。精神的に弱っていたというのはあるし、食事や入浴が沁みたというのもある。だが、それを差し引いても衝撃の独白がアスカの胸を抉った。ほかに住人のいない廃墟のような部屋。シンジが訪れるまでひとり寂しく暮らしていた姿が目蓋に浮かぶ。生活感がないのは当然だった。レイ自身が生きる意味を持っていなかったのだ。これだけの悲惨な扱いを受けているにもかかわらず、哀しみすら知らなかったレイがただただ痛ましい。

溜息と嗚咽(おえつ)を繰り返し、何枚ものティッシュを消費してシンジとアスカは涙をぬぐった。彼は立ちあがってレイの頭を抱き、彼女もシンジの腰に腕をまわす。目を細め、安らぎに満ちた表情も初めて目にするものだがそれでもアスカはあえて尋ねた。

「ねぇ……いま、しあわせ?」
「ええ、しあわせよ。胸の奥が温かいわ」

あれほど嫌っていたレイなのに、いま目の前でシンジと抱擁している姿がとても美しいと感じる。さながらルネサンス期の宗教画のようだ。レイはまさしく自爆を通じて再生し、復活したのであろう。けれども、いっぽうで馬鹿なことを訊いたと思った。恍惚とした顔をする彼女と慈しむ彼の腕を見て耽美を覚えれば、胸は激しく痛む。顔を伏せて唇を噛むとテーブルの下で拳を握った。そしてそんな自分を払拭するように軽口を叩くのだ。

「あたしの見てる前でおっぱじめないでよね」

これからキスでもしようとかというくらい見詰めあっていたシンジとレイは、アスカの言葉を受けて存在を思い出したかのように身体を離した。錯乱していたわけではなのだろうが求める心が強すぎるあまり少々現実から乖離しかかっていたようである。彼は顔を赤くし気まずそうに頭を掻き、彼女も瞳を潤ませ赤面していた。それが余計に初々しい恋人たちを意識させればアスカは面白くない。シンジが聞き慣れた台詞を口にするとそれを突破口とした。

「あ、ごめん……つい」
「アンタさっさとお風呂入ってきなさいよ」
「そう言えばそうだった」

来客を優先して料理やら風呂の支度やらと忙しくしていたシンジはタオルと着替えを持つとすぐさま浴室へ消える。アスカは公園で抱擁した彼に複雑な想いを向けた。そうやって目で追っているとレイから声がかかる。

「もう体調は平気?」
「さっきも言ったでしょ。生理は何日も前に終わってんの。食べてなかったし、暑かったし、ちょっと貧血になっただけよ」
「そう……私、月経ないから」
「あ、ごめん……ごめんなさい」
「べつに」

聞いた傍からデリカシーのないことを言ってしまい、また溜息をついた。あればあったで面倒なものだが女性としてこんなにも哀しい話はないだろうに、レイは気にしてないようでちらちらと浴室の水音に目を向けている。早く戻って来て欲しいと思っているのかもしれない。アスカも同じように思っていた。いくら知ったところでいきなり友好的に接するのは無理だ。とはいえ、沈黙が耐えられない性分ゆえに思いつくまま話を振る。

「あのさ、痛かった?」
「なにが?」
「だから……その、えっちよ。アイツのが入るときメリメリするのかなって」
「気にするほどではないわ」
「ふうん。やっぱひとによって違うのかしらね」

その言葉を受けてレイが顔を向けてきた。赤い瞳をじっと固定してなにかを探ろうとしている。負けん気の強いアスカが逸らさずに受け止めているとレイは呟くように言う。

「惣流さんは、私のこと怖くないの?」
「なんでよ」
「だって、ひとは自分と違う相手を怖がるから」
「前は不気味と言うか怪しいって思ってたけど、いまのアンタ見て怪物だなんて思わないわよ。あたしやシンジと同じ人間でしょ。詳しく見てないからなんて関係ないわ。言っとくけど、あたしそこまで心が狭かないわよ」
「そう……」

レイは下を向いて小さくありがとう、と言った。浴室の水音に阻まれそうなくらいの、聞き違いと思えるほどだ。それがまたなんともいたたまれなくてアスカは明るく振る舞う。

「で、実際どうなのよ?」
「なにが?」
「だからぁ、えっちの内容よ。シンジはどうだったの?」

なんでこんな話題しかないのかとアスカも内心首をかしげるが、ほとんどまともな会話がなかったので聞いたばかりのネタから広げるしかない。そう思ってのことだったが、レイはさきにも増して見る見る頬を赤らめると耳まで羞恥に染める。対するアスカも同じくらい赤面して口をまごつかせた。

「きっ、気持ちがよかった……わ」
「へ、へぇ。どんな感じよ。イクって感覚あった?」
「う……ん……あった」
「ちゃんとアソコ濡れた?」
「あの……そういうことは、あまり……口にするのは、よくないと、思うの」

あからさまな動揺で言葉を区切るレイの姿にアスカは頭がくらくらする想いだ。赤い瞳は左右に揺れて両肩を小さく窄めている。下唇まで震わせているのだから、自分と同じ女の子にしか見えない。

「シンジのさ、どんなところが……す、好き、なの?」
「それは、内緒……」
「なんでよ。教えなさいよ」
「だって、顔が熱いもの。鼓動も激しいから……言えない」

不覚にも可愛いと思ってしまった。いったいいつからレイはシンジに恋をしていたのか。ふたりでいるところはよく見かけたが、あの澄まし顔の裏にはこんな恋慕を抱いていた。レイは居心地が悪くなったようで立ちあがると冷蔵庫から麦茶を取り出し、ふたつのグラスに注いでまた着席する。ひとつをアスカの前に置き、自身はぐびぐびと煽っていた。と、そこへ入浴を終えたシンジがTシャツにハーフパンツ姿で頭を拭きながら出てくる。レイは飲みかけのグラスを彼に手渡して、さっと背を向けていた。

「いやぁ、気持ちよかったなぁ……命の洗濯ってやつかな」

それから結局、盛りあがるような話題や恋愛話にも発展せず、ほどなくして就寝となった。まだ時間は九時前なのだがアスカの体調を考慮してと言うシンジに押し切られてしまう。予備の布団もないのでシンジを真ん中にしてベッドへ川の字だ。

アスカは暗闇に慣れた視界でクローゼットを見詰める。消灯して一時間くらい経過してても眠りは訪れない。疲れてる中でとても癒されるもてなしを受けたが慣れない家に慣れないベッド、そして背中に感じるシンジの気配がさまざまな思考を呼び起こす。

「ねぇ、シンジ……いま、しあわせ?」

彼がまだ寝てないのは気配で察していた。レイも起きてるだろう。本来ならこの時間、ふたりは睦みあっているのかもしれない。とても意外だが、疑えない雰囲気がある。

「うん、しあわせだよ」
「そっか……」
「うん……」

弐号機とシンクロできなくなった自分。恋仲になったシンジとレイ。廃墟のような家で育まれる幸福な空間に明らかな異物。これからどうしたらいいのだろうかと考えれば心がどんどん寒くなる。だが、意地悪なシンジは放っておいてくれなかった。

「うしろにカノジョがいるのに、なんでそんなこと……すんのよ」
「だって、震えてるから」
「そんなことない、わよ……」
「でも、きっと落ち着くから」

ぎゅっと背中から抱き締められて目の奥が熱い。片手で頭を撫でられ、片腕は鳩尾(みぞおち)にしっかりとまわされている。普段からレイにもこうしているのかもしれない……そう思うのに振りほどけなかった。エアコンの風音が微かにする中、つい鼻を啜る。

「だったら、もっと強くしてよ」
「うん」
「そんなんじゃ、寒いから」
「こう、かな」
「あっ……」

うなじに顔を埋められ、背中には彼の胸が当たる。太ももの裏側までぴったりと密着し臀部にも象徴が当たった。シンジの腕が乳房を押しつぶしててもアスカは性的な意味に捉えない。癒される、と素直に感じた。無言な彼に心は開かれ溢れる想いが唇から紡がれる。

「シンジ……あったかいね」
「もう平気だよ、アスカ」
「うん。うんっ……う、ん……」

限界だった。シンジの腕を胸に強く抱くと、声をあげて泣く。彼はひたすら慰撫し、大丈夫だよと繰り返す。とても長い夜の間、優しい鼓動を背中に感じながら久方ぶりとなる夢路を辿った。