第弐拾参話、伍日目
窓から差し込む日差しの弱さにまだ夜明け直後かと錯覚して二度寝しようとしたシンジは、枕元のデジタル時計を見て危うかったと胸を撫で下ろした。欠伸して目を擦ったあと隣ですやすやと寝息を立てるレイをじっくり堪能する。片腕を抱きかかえるようにし左脚も絡めている体勢は甘えなのか。タオルケットは足元に丸まっており白い肌がわずかな光で輝いているように見えた。背中から脇腹、腰骨から太ももにかけての起伏がまたなんとも美しく、すこぶるエロスだ。横向き寝のため乳房が寄っていつもより大きく見える。腕が邪魔して先端が隠れているところにチラリズムを覚えた。なだらかな腹のさきも微妙に窺えない。真の芸術は見るたびに発見があって飽きないというが、彼女こそまさにそうなのかもしれないと感心した。
さりとてこのまま愛でていては早起きした意味がないし、なにより邪な気配を察知してアンテナが反応しきってしまう。男性の元気な生理現象も手伝えばポジトロンスナイパーライフルが黙っていない。心の中で六根清浄と唱えて眠りの浅い彼女を起こさないよう、そっとベッドを離れた。彼の朝は男の戰いである。
いくら全裸で寝たとはいえ起きればべつだ。ふたり揃って仲良く風を感じるわけにもいかないので脱ぎ散らかしたトレーナーを着ると台所へ立つ。目覚ましを鳴らさずとも起床できたのは、ひとえに新しい炊飯器を試したくてしかたがなかったからである。本部で米も購入済みだ。昨夜のうちに仕込んでしまうと浸水が飽和して味が落ちるためこの時間を選んでいた。彼はべつに料理に並々ならぬ情熱を持っているわけではないし、決して主夫になれるほど上手なわけでもない。ただ恋人においしいと言ってもらいたい一心で米を研いだ。
手早く丁寧に、研ぎすぎない。始めちょろちょろ中ぱっぱ、焼き肉焼いても家焼くな。そう念じつつ炊飯器にセットするとちょうどレイがもぞもぞと動きを開始する。音を隔てる扉がないためどうしても起こしてしまうが、そこは勘弁してもらいたい。もちろん、目覚めて最初に見るのが無人の枕とするわけにはいかないから素早く彼女の許へゆく。目を擦って欠伸する姿はまだまだ新鮮な光景だ。頭は寝癖で昨夜のブローは痕跡を残していない。いつもキリリとしている彼女なのに、こうしてアホ毛を立てながらぼうっとする表情がとても可愛い。だから彼は、最高の笑顔と声で挨拶するのだ。
「おはよう、綾波」
こんなにも素晴らしい恋人と同棲しているなんて、夢ではないだろうか。中学生と言えばほとんどが家族と同居なのにとんでもない贅沢だと朝を迎えるたびに思う。シャワーを浴びたレイの髪をふたたびブローで整えた彼は、ちょうど炊きあがった白米による渾身の握り飯を振る舞った。
「おいしいわ」
「おおっ、それはよかった。魚は平気だった?」
「ええ。まったく問題ないみたい」
「鶏そぼろとかいいかもね。あとはなにかなぁ……ツナマヨも必須だし……」
塩加減や握り具合など、事前にネットで調べた甲斐があるというものである。残念ながら鮭は焼けずビンのフレークと塩昆布しか用意できなかったが、それでもレイのほころんだ表情を見れば喜びもひとしおだ。つぎは海苔にもこだわろうとか梅干しを買うならどこ産がいいかとか、夢は尽きない。
「碇くんは上手なのね」
「いや、それほどでも……」
「私もほかに作れたら嬉しい?」
「嬉しいけど急ぐことないよ」
「でもタマネギはもう切りたくないわ」
「はははっ。あのときのきみの反応がさぁ」
「そ、う……」
さて、家の中はとても明るい雰囲気に終始していたが、外へ出れば一転いまにも雨が降りそうな曇天である。肌に痛いほどの日差しがない代わりに湿気を含んだ風が吹く。平時なら気分を憂鬱とさせるシンジでも隣にレイがいるだけで払拭される。帰りは相合い傘かもしれないなどと考えながらネルフ本部へ向かった。
そして朝から実験である。早く到着して少々時間を持てあましたふたりは、私服のまま休憩所の椅子に座っていた。パーティションで通路と隔てられており、植木もたくさんだ。自販機の数は少ないが利用している職員もいないから穴場かもしれない。そんな安堵を覚えつつ四人用のテーブルで対面のレイと他愛もない会話をしていると、快活な声が響く。
「Hello, シンジ」
手をひらひらとさせたアスカだ。おとといよりずいぶんと肌艶がよくなった印象のあるアスカは黄色いワンピースを着ている。彼女はちらりと交互に見ながら挨拶を交わすと、しっしと手で払ってきた。席を奥に詰めろ、という意味だ。女子なんだからレイのほうへ座ればいいのにとは口に出さず無言で尻をスライドさせると、わざとらしく肩で押してくる。
「どーん」
「っとお」
「あら手が滑っちゃったわ」
間違っても重いとか言ってはいけない。ふざけているだけだ。アスカはたまにこういう悪戯をしてくる。同居しているときも食卓の椅子へ座る際に同じことをしてきたし、醤油が届く距離にあるのに取ってと言うときもあった。甘えているのかじゃれているのか、微妙に怒っているのか違いがわからない。新しい髪留めに気づかないと文句を言われたのを学んで、あるとき偶然にも褒めたら顔を赤くして二の腕というか肩を叩かれたこともある。これが女心なのか、それとも単なる気まぐれなのか。公園で彼女に言われた台詞が思い返される。レイと同棲しててもそのあたりはさっぱりだ。
「なんか懐かしいね、その服。アスカらしいや」
「たまにはいいかなぁってね」
「こんな天気だし余計に映えると思うよ」
「ああ、外ね。あたし、ずっと屋内だからよくわからなかったわ。ってゆーかアンタたちなんでそんな地味なワケ? 学校ないのに制服なんて着ちゃってさ」
言われてみればそうだとシンジは自分とレイの服装を見た。ミサトの家から持ち出したのは数着なのでローテーション的にも代わり映えがしないのはたしかだ。ふたりで買いに行こうと思いつつあとまわしになっていた。もともとファッションなんて気にしたことなかったが新調したほうがいいだろう。レイも同じように考えていたのか、席を立つとほどなくしてファッション雑誌を手に戻ってくる。休憩所に置いてあるものだ。彼女はぱらぱらとページを捲ってはアスカと紙面を交互に見ている。しだいにそれも少なくなり、やがては雑誌に没頭した。
「――なんでもマヤさんがエントリープラグを新しくするとかで」
「ああ、そんなことやってたわね。生き生きしてたわ、あのマッド……」
「はははっ。アスカはなんかの実験?」
「訓練よ。ミサトが過去の使徒をカスタマイズしてとかってゆーのを――」
シンジは失踪していたとは思えないほどの軽口を見せるアスカの表情に目を細めた。虚勢には見えないし、前のような張り詰めた顔もしていない。これが本来の彼女なのかもしれないと隣に笑顔を向ける。ただ、らしくないというか、少しだけよそよそしい感じがした。目線が微妙に肩やテーブルを往復している。照れているような、くすぐったいようななんとも掴みどころがない。肘が当たるほどの距離なら話しづらいだろうくらいにしか考えなかったが、彼女は違う。
「そうなんだ。僕たちは複座って言って――」
この男はわざとなのか、とアスカは努めて平静を装った。シンジの両手はテーブルに乗っている。左手はカップの緑茶を、右手はテーブルに貼られたシールの上だ。とくになんらおかしな姿勢をしているわけではないのだが、想像力の逞しい彼女には違っていた。さっきから彼の指先が気になってしかたがない。テーブルに貼ってある飲料メーカーの広告シールの上を中指が撫でている。つるつるとして気持ちいいからついやってしまうしぐさなのは理解してても中に含まれた小豆大の気泡を捏ねるように前後左右へ優しく動かしているのがどうしてもべつの行為を意識させた。
「ふ、ふうん。そう……」
ちらちら窺うと顔がどんどん熱くなってくる。さっとレイを見ても雑誌に視線を落としたまま気づかれていない。シンジはたまに横を向いてくるくらいで、話に夢中だ。自分がどれだけ嫌らしい動きをしているかなど意識の埒外だろう。いや、嫌らしいのは自分だとアスカは座りなおす。彼の自室で自慰を覚えてからというもの、抑え込んでいた反動か、どうにも思考がそんなことばかり向かってしまう。シンジはああしてレイを気持ちよくさせているのかと考えたくない光景まで浮かんだ。
「昨日なんて、ちょっとふざけて、その、胸を触ろうとしてね」
「む、胸を……」
シンジが茶をひと口含めば唇に艶が生まれる。それが見てられなくてアスカはわずかに顔を背けた。ゆうべは二回、今朝も一回。彼も前はこんな感じだったのか。いまならわかる気がする。そう考える自分が嫌で、深呼吸を繰り返す。なんで彼のことばかり頭に浮かぶのか。前からそうだった。この男はいつだって心を乱す。トラウマのせいもあって異性に触れられるのを苦手とするアスカは、加持とすら腕が組めるようになったのは日本へ来てからだ。すべてはあの日、太平洋上でまさにいまシンジとレイがやっている同時シンクロのときである。同じエントリープラグに入るだけでもありえないのに、LCLまで共有した。使徒の口をこじ開けるため操縦桿に手を重ねたのだ。トラウマを忘れていたわけではない。戦いに必死だっただけ、見せつけてやろうと思っただけ。ただ、弐号機のシンクロ率が拒絶とは違う値を示していたのは否定できない事実だ。転校した初日、教室で自己紹介を終えたあと彼へ向けた表情はどんなものだったか。
「って、どうしたの?」
「べ、べつになんでもないわよ。このバカシンジ」
「ええっ。この流れでそれ?」
「うっさいわね。いちいち細かいこと言って……」
そんなのだからレイくらいしかつきあえないのだと喉元まで出かかって止めた。その言葉になんの意味がある。シンジが楽しそうな表情で話しているのが気に入らなかった。服装を褒めたのはもっと気に入らない。恋人がいるのにほかの女にそんなことを言うなと叱りつけたくなる。この男の部屋であんな淫事をしたなどと、どんな拷問を受けたって白状してやらない。
「綾波はなにかいいのがあった?」
「よくわからない」
「おしゃれって難しいよね」
「そうね」
そう、この男はレイだけを見ていればいい。なにが失いたくないだ、ありがとうだ。いて欲しいなどとよくもぬけぬけと言えたものだ。アスカはシンジが弄る広告シールを引き剥がしたい衝動に駆られた。意味のない行動、意味のない思考。いつも出るのは憎まれ口。ゆうべも今朝も、あんなにも甘い声で彼の名を呼んだのが一番気に入らない。今度からネットでその手の漫画やアニメを検索しようと決めた。あくまでもリハビリ目的なのでしっかりと集中できる環境が必要だ。
「あ、アラームが鳴ったね。そろそろ実験だ」
「ええそうね。行きましょ」
椅子を鳴らして向かいのレイと隣のシンジが同時に立ちあがった。彼は壁際で、うしろの席との隙間を横歩きで出ようとしているところだ。アスカはそこも気に入らなくなって椅子をうしろへさげながら立ちあがる。
「いてっ」
シンジの声にちらりと見れば、背もたれの角が彼の股間に直撃していた。べつにその場所を狙ったわけではないし事故なのだが、なんだかやり返したような気がして鼻を鳴らすとほくそ笑む。赤い顔をした彼が少し、可愛いと思った。
それからふたりのうしろを歩いて更衣室へ向かう。並んだ距離、触れあいそうな肩。これから訓練するのにずいぶんと緊張感のないシンジの顔。だらしなくて、苛々させる。もしあそこの隙間に割って入ったら彼らはどんな反応をするのか。邪魔だ目障りだと言っても表情ひとつ変えないで会話を続けそうだ。
更衣室は無駄に広い。野球やサッカーをするわけでもないのになぜロッカーが複数あるのかアスカは常々疑問だった。ネルフには十機以上でエヴァ戦隊とか組む予定でもあるのか。残りのカラーリングは緑色、黄色、白……などと馬鹿を考えながら下着を脱げば糸を引いていた。顔が一気に熱くなってふたつ隣のレイをさっと窺うが彼女はブラジャーを外したところで気づいてない。素早くショーツを丸めて隠しつつ横からじっと観察する。
「ウエスト細っ。アンタちゃんと食べてんの?」
「食事のこと? 食べてるわ」
これまでは無視するか前を向いたまま返事したレイだが、わずかに首を向けて答えてきた。白い裸体を見てもやはり人外には思えない。それよりも遥かに気になるのはスタイルだ。以前は興味を持たなかったのに急に意識したのは間違いなく同性であると認識したからかもしれない。レイは病的なほど痩せているわけではないが丸みのあるクラスメイトたちと比べてすらりとしている。そのわりに胸だって尻だってそこそこあるのだ。この身体にシンジが夢中なのかと思うと舌打ちしたくなった。それでも、まだまだ自分のほうが乳房も尻もある。とはいえ油断できない。西洋の血が多く入っている我が身なれども哀しいかな、成長を促すために食事を増やせばほかの場所も太ってしまいがちなのだ。さりとて筋トレの量をもっと増やせばムキムキの筋肉女になってしまう。だが、誤算はほかにもあった。
「チッ、剃ってたか……」
見た限り上も下も無駄毛がない。そんなところは女らしいのか、それともシンジの要望か。自身を見下ろし某所も剃るかどうか少しだけ考えて否定する。あほらしい、グラビアアイドルでもあるまいし見せる機会もないのに危ないだけだ。そうこうしている内にレイは奥のシャワー室へ向かっている。アスカは綺麗な卵型を眺めながら雑念を振り払う。
シャワーなどを終えてプラグスーツに着替えると、更衣室を出るのがレイと同時になった。さきに廊下で待ってたシンジは相変わらず間抜けな顔だ。なぜか顔をあわせづらくて背けぎみにしていると体調を心配したのか尋ねてきた。放っておいて欲しいのに、いちいち気にかけてくる。
「アスカ熱あるの?」
「あ、あ、アンタのせいよっ!」
「僕?」
「なんでもないわ。ふんっ、さき行くから」
結局そう返してしまう。体調も精神も問題ない。むしろ前より具合はいいと感じている。なのに、鼓動だけがおかしい。ここのところ暗い顔ばかりだったシンジの表情がどうにも眩しすぎる。学校の行き帰りだって、エヴァでの戦いだって、弱虫な彼をせっかくリードしてあげようと意気込んでたのにいつもおいしいところをさらわれた。先日だってすぐ近くに恋人がいるのに抱き締めてきたのだ。なにからなにまで気に入らない。虫唾が走る。
『アスカ、始めるわよ』
いつの間にかエントリープラグの座席にいた。ミサトの通信が聞こえてシンクロを開始する。LCLの注入が終わってシンクロ率が告げられると少し低かった。あせりはない。母のことを考えていなかったせいだと意識を切り替えれば上昇した。シンジのことを強く浮かべるとさがり、振り払うとあがる。なにをやっているのかとミサトから問われても知らないと返した。内心で彼を罵倒しておきながら自分も緊張感がない。
「そういやさ、ミサト。前にやった実験の効果ってどうだったの?」
とくに意味もなく口にした。いまミサトは戦闘シミュレータの設定をしている。かなり難しくしてやろうと息巻いていたからとんでもない怪獣が出てくるのかもしれない。いまやシンジに代わってエースと目されるようになったのは喜ばしいが、彼らと違う訓練をしているのがどうにも引っかかる。
『前の実験ってなによ。いろいろありすぎてわからないじゃない』
「だからその……垢を十回以上落とされてやったやつ。トラブルがあったとかなかったとか」
『ああ、あれね。マヤちゃん、そこんところどうなの? えっ、聞こえてない?』
プラグ内に映し出されたシンジとレイの実験を眺める。弐号機とはべつの場所でふたりだけがおこなう複座のシンクロ。自分も参加しなくていいのかと問うたら、シンクロ率が高いから不要といましがた返された。
「いいなぁ……」
自らの呟きに気づかず、ほどなくしてミサトからの返答がある。実験の結果は決して悪くはなかったのだけれども、諸々のデメリットが大きいという説明だった。聞き終えたアスカは普通に返答したのだが、変なところで察しのいいミサトは微妙な感情の漏れを聞き逃さない。
『おやおやん? アスカってば、もしかして……』
「ちっ、違うわよ! あたしは効果的な運用を考えて言っただけで、べつに変な意味なんてないんだからっ」
『なにも言ってないじゃない。変な意味ってなにかしらん?』
「くっ! もう切るわ」
藪の蛇を突いてしまったと後悔する。切り損ねたモニタにはニヤついたミサトの顔だ。思わず回線を開いて抗議しようかとも考えたが、それこそが相手の思う壺である。腐っても作戦本部長の肩書きは伊達ではないだろう。確実にボロを出される。悔しさに唇を噛んで操縦桿を強く握った。ちょうどシミュレータの映像が表示されたときだった。
エヴァのシミュレータはとてもリアルに作られている。表示されるCGは実写さながらで、爆発から弾幕、光の反射などあらゆる点で正確だ。基本的な骨格はリツコがプログラムし、あとは技術部のスタッフが完成させたのだがマギに実行させるとあって市販されているゲームなど比ではない。戦いがすべて終われば商用とするロードマップもあるそうだが、第三新東京市内と周辺しかモデリングされてないものに使い道はなかろう。せいぜい使徒の形を置き換えた格闘ゲームくらいか。モナコを彷彿とさせるレースゲームならやってみたいとミサトは思った。タバコ屋コーナーがあればなおいい。
『どっせぇぇい!』
管制室のスピーカーにアスカの雄叫びが響いて音量を少しさげた。初期の頃は射撃訓練しかできなかったシミュレータも、いまやあらゆる戦闘がこなせるよう改修されている。搭乗しているパイロットが加速や質量を感じてもエヴァそのものは比例するほど大きく動いていない。フライトシミュレータと同じしくみである。これだけの巨体を街で訓練させるわけにはいかないため完成は切望されていた。
「アスカ。つぎは第五使徒よ」
血気盛んなアスカとは対照的にミサトは冷静なアナウンスを告げる。つぎの使徒がどのような形態を取ってくるか不明なため、過去の使徒をカスタマイズさせた相手との戦闘だ。たとえばいま戦っている正八面体の使徒はかつてドリルで本部に侵攻し、強力なビームを放ってくる攻守ともに完璧な存在だったが今回は分裂するよう設定されている。もちろん、弐号機だけでユニゾン攻撃はできないためべつの弱点が用意されているのだがそれを探るのも訓練だ。
『本体は……こっちィ!』
勘がいいのか、それとも本来の力なのか、中学校に設置したコアを見抜いたアスカは槍を投擲していた。初めこそ精細さに欠けていたが、なんら不調は見られない。見守るほかの職員が感嘆の声を漏らすほど華麗に舞っては蜂のように刺している。
「つぎは牛柄よ」
土偶のような難敵の出現にアスカは果たしてどう対処するのか。かなり尻込みするのは間違いなしだろう。だが、今回の戦闘は友軍機としてAIの初号機と零号機を用意してある。弐号機の行動しだいではさきに倒されてしまう可能性もある設定だ。得点も景品も出ないし以前の彼女であれば迷わず先行するところだが、どうだろうか。
『負けてらんないのよぉ! アンタたちにぃぃ!』
そこは変わらなかった。ただどうにも私情が入りすぎている感がある。バイタルを見れば脈拍が少し高い。繰り出す攻撃は大振りが多く、正確性に欠けている。あまつさえ零号機を転倒させ、やたら初号機と並びたがっていた。使徒が初号機と零号機に向けて同時に攻撃を放てば弐号機は迷わず初号機を庇う。地面をもつれるように転がった二機とプラグ内のアスカの表情が印象的だ。
「アスカ、鼻の穴広がってるわよ」
冷静にさせるためわざと言ったが本人はまるで聞く耳を持たない。連携しないと勝てないことに気づくまで二回の敗北を喫していた。しかし毎回、零号機を邪魔しようとするのはどうにかならないものか。ケーブルを掴んだり脚を引っかけたりと首をかしげたくなる。どうにも子供じみた行動で、なかなかわかりやすい。
さて、つぎの球体使徒にはどう出る。こちらも難敵で初号機が内側から殲滅したシマウマ柄の相手だ。今回も友軍は存在するが、基本なにもしないで逃げるだけにしてある。ただし、どちらかが失われるかディラックの海と呼ばれる地面の黒い染みが広がりきると敗北する設定になっていた。仲間を守りつつ素早く戦う決断が求められる。
『シンジっ、前に出るんじゃない!』
彼は実際に搭乗していないのにもかかわらず呼んでしまうのは癖だろう。しかしアスカの表情は必死だ。見ているだけでは勝てないし、さりとて時間制限も存在する。あの黒い染みの中を知らない彼女にはさぞ戦いづらいだろう。空に浮かぶ球体は幻影、影こそが本体。恐れていては前に進めない。ときには飛び込む勇気も必要である。もしかしたらそこにこそ、希望と活路があるかもしれないのだ。
「アスカ、休憩しましょ」
最終的に手をこまねいたまま時間はすぎ、敗北となってしまう。アスカは悔しそうに唇を噛み、震えていた。友軍機は失われてはおらず弐号機も無事だ。またやり直せばいいだけなのに彼女は納得しない。かつての戦いの再現が余計に過去を諦めさせているように見える。戦いの勝ち負けではなく、自らの行動を悔いていると。
『まだよ、ミサト。あたし、諦めないから』
「いい心構えね。続けるわ」
それでこそのアスカだとミサトは微笑む。再開されたシミュレーションを見ながら自らも追憶した。南極でのセカンドインパクトの真相、ネルフの目的、裏で見え隠れする謎の結社。真相を暴き、白日の下に晒したいという気持ちはいまでもくすぶっているしアスカ復活の直前まで漁っていた。レイの役目、ゲンドウの真意も不明である。こうして軽口でなにかに打ち込んでいないとよからぬことばかり考えてしまう。耳にはいまでも加持の遺した留守録の言葉がこだましている。それでも、前に進まなければならない。そのための訓練だ。
『待ってなさいよぉ、バカシンジぃ!』
使える戦力が二機に戻ったことでミサトは考えられる限りの戦闘状況を想定した。マギの中の極秘ファイルに記されていた使徒の名前はあと一体。レイの証言の裏も取れたとあれば使徒との戦いもやがては終わる。だがそのさきはどうなるか。核攻撃にも耐えうるエヴァが役目を終えたからといって解体されるとは思えない。だいたいあれはそのような存在でもないのだ。利用し続けると考えるのが自然であろう。人類共通の敵が倒れれば待っているのはつぎなる覇権を懸けたべつの戦いである。
いっぽうこちらは、アスカの隣の棟で訓練するシンジたちである。彼女との回線は開かれておらず、代わりに聞こえるのは複座が成果を見せつつあるのに喜ぶどころかあせりを滲ませるマヤの声だ。
「どう? シンジ君。違和感とか動かしにくさみたいなものはない?」
『ぼんやりとした感覚はありますが、それほどでもないですね』
「レイ……ちゃんは?」
『私はとくに問題ありません』
「プラグ深度を少し深くしてみるね。ふたりとも変だなと感じたら言って」
コンソールを操作するとモニタされているエントリープラグの位置がさがる。シンジたちにはエヴァのコアへ近づくのと同義だ。心理的な負担が増え、脳内を圧迫されるような感覚になる。これによりシンクロ率を物理的に向上させるのだが、調整を間違えればたちまちパイロットを気絶させてしまうから慎重に操作する必要があった。けれどもマヤは躊躇しない。
『くっ……これは。でも僕はまだいけそう……綾波は?』
『私もまだ平気』
ふたりの眉間に少し皺が寄るものの、そこまで深刻には見えない。万が一暴走してもいいようにと外部電源のみの供給にしているが、いまのところその兆候は見られず心理グラフも安定している。複座による負担の分担効果は大きい。いままでで一番深いプラグ深度でもシンクロに乱れはないし、ハーモニクスも正常位置だ。だからこそマヤの心にさざ波が立つ。
「引き続き射撃訓練に移行してみるけどいいかしら?」
冷たい口調になってもシンジとレイは気にせず返事をする。声の高さも長さも計ったように同時だ。事実だけを淡々と受け止められず、さざ波の上に風が吹く。昨日は装備を掴むのにも難儀していたが飲み込みが早いのかふたりが操る初号機は歩き、銃を構える動作までをこなすようになっていた。どのようなシンクロなのか残念ながらリツコでもないと詳細はわからない。
『綾波、蟹股ぎみなようだけど?』
『そっ……それは……少し、筋肉痛で……』
聞こえてきた私語とプラグ内の表情を無視して思考する。まだまだ実用には遠い。街中を歩く動作は遅いし銃を構えるのにもタイムラグがある。射撃は正確だが、目標は単純な動きしかしない上に攻撃もしてこないのであれば参考程度にしかならない。太平洋上のときはシンクロの大部分をアスカが担っていたからこそ可能なのであって、いまのシンジたちとは大きく違う。
『やっぱり射撃はきみに任せたほうがよさそうだね』
『そう?』
またよくわからない会話をしている。意気揚々と複座の実験をおこなったが、蓋を開けてみればわからないことだらけだった。なによりレイの様子がおかしい。感情らしきものは窺えず、いつも淡々とした受け答えに終始していたはずの彼女が変化していた。生得的行動は当然あるしリツコからはある程度、人間を模した表情を見せるとも言われている。だが、本当にそうなのだろうか。
「私語は慎んでもらえる?」
モニタを切り、会話も封じた。レイに変化が現れたのはシンジがネルフに来てからだ。学校へ通っても不変だったのに、それがただしいのに、ここ数日はとくに大きい。忙しさを言いわけにして本人から聴取もしなかった。そこはリツコの領分だと勝手にルールを作りそれに従うことで心の均衡を保ってきたのだ。
「ないわ……絶対に……」
新しい身体と前の身体ではなにが違うのか。魂や記憶が同じでも〝成長〟などありえない。せいぜい外的な経験が少ない〝新品〟ゆえに反応しているだけだ。下ろしたての衣類が色落ちするのと同じ、新車の塗装が落ち着かないのと同じである。
「きっとそうよ……」
マヤは訓練の様子など見ていない。今朝たまたま本部内でレイとシンジを見かけたが、あれも気のせいだ。整えられた頭髪、隣の彼に微笑む表情。精巧に作られた、人形同然の人造人間。模してるだけ、影響を受けただけ。それだけなのだ。ここにいないリツコの否定的な言葉を耳にしたような気がして無表情になると、新しい指示を出す。訓練が終わるまで、人形さながらの動きだった。
山岳地帯が多くを占める日本なら山菜はよく採れると思われがちだが、実際には輸入品が多い。収穫量が天候に左右されやすく、天然ものは少なかった。そこへセカンドインパクトという劇的な環境の変化が加わればさらに流通量は減る。
シンジはいまや貴重な食材となりつつあるワラビやゼンマイの切れ端を熱心に箸で追っていた。一番困難なナメコを二分前に捕捉し終えたところだ。栽培する農家の苦労など浮かべることなく冷やし山菜そばのツユを金魚掬いさながらに見詰めていた。そこへ後頭部にポコンと軽快な音とわずかな衝撃があれば、せっかく掴んだ緑色も驚きとともに離してしまう。
「あっ……」
「なぁに地味なことやってんのよ」
隣の椅子にどっかりと腰を落としたのは声と衝撃の主であるアスカだ。手には空になったペットボトルを持っており、野球の応援団よろしくパコパコと鳴らしている。今朝と同じワンピース姿を見れば訓練が終わったのだとわかった。
「いや、残りの山菜をね……」
「ったく、しょうもないわね。ご飯で遊ぶなっつうの」
むしろ残さないために頑張っていたのだがこの際どうでもいいだろう。アスカは横向きに座り、両膝を閉じたり開いたりと揺らしている。片肘をテーブルに突きながら食堂の受取カウンターを見てなんのメニューにしようか迷っているようだ。
「オムライス売り切れだって」
「ふーん。あたしも麺にしよっかな」
「冷やし中華とか?」
アスカは首をかしげてカウンターへ向かった。ほとんど日本人しかいない本部内でトレーを持ってほかの職員と並んでいるうしろ姿はとても映えると思う。黄色いワンピース姿だからか、それとも雰囲気が明るいからか。しばらくすると彼女は食事を持ってテーブルの正面に腰かけた。
「なぁんだ。まだいたの」
「だってひとりで食事するのは寂しいじゃないか」
ほかにも職員は大勢いるから完全に孤独というわけでもないだろうが、それでも大人たちと同席しなければひとりと変わらない。シンジは肩を竦めるとまた丼に視線を移す。じっと見てては食べづらいだろう。ちなみにアスカは中華丼にしていた。
「で、アンタのカノジョはどこ行ったのよ」
「ああ、うん。父さんと食事だってさ」
「そう言えばそんな話あったわね。それでファースト取られたからこんなとこでショゲてたってワケ?」
「しょげてるわけじゃないさ。ただ考えごとしてただけだよ」
「ない頭で考えごとなんてしてたらハゲるわよ?」
はははとシンジは力なく笑う。父の頭髪を見る限り大丈夫だと思いたいが、母をほとんど知らないのでありうるかもしれない。ただ、彼は自身の毛根について考えていたわけではなかった。
「綾波は昔こうだったのかなって。そう考えてたら家族ってなんだろうって、思ったんだ……」
「家族ねぇ。ま、アンタの言いたいことはわかるわ。あの子いままでがああだったしね」
ほとんど自炊をしなかったレイなので食事は食堂や弁当で済ませていたのだろう。いまの自分たちにすら職員は誰も声をかけてこないところを見れば、きっとひとりで黙々と食べであのマンションへ帰っていたに違いない。そこまで賑やかな食堂ではないものの周囲の声は耳に入る。それをどう捉えていたのか。あれが好き、これが嫌い、それが欲しい。それでね、でもさ。関心がなければ記号が飛び交っていると感じていたのかもしれない。
「綾波と暮らして思ったんだ。ミサトさんの家にいたときって、本当に家族だったのかなって」
「まぁ……そうね」
顔をあげればアスカはジャスミン茶を飲んでいた。ウズラの卵は最初に食べる派らしい。ぷりっとしたエビを見ながらシンジは追憶する。べつに居心地が悪かったわけではないし友達に家族だと指摘されたときもなるほどと納得する部分はあった。ただ、いま思うと距離があった気がしてならない。家族とは思えないほどの辛辣な言葉はあったし、どこか冷めた目をされるときもあった。所詮は他人なのに期待しすぎていたのだろうか。
「現金だよね、僕。それなりに楽しかったはずなのに、ってさ」
「あたしも同じようなこと思ったから出たのよ。それだけじゃないけど」
「でも……僕はアスカといて、楽しかった。それは本当だよ」
見詰めていたエビが消えたので今度はタケノコに視線を固定する。彼女から返事はない。喧嘩が七割くらいだったかもしれないが、残りの三割はとても楽しかった。レイを除けばあそこまで女の子と会話をしたのは初めてだったのだ。
「きみとは……友達よりもっと上って言うか、戦友なのは当然だけど、でも家族、なんだと思う」
アスカが胸を叩いているのでふたたび顔をあげると赤面しながらジャスミン茶を飲んでいる。一気に食べで喉に詰まらせたようだ。二回頷いて、つぎはキクラゲを眺めた。よくここまで生き残れたと思う。有頂天になった時期もあったけど、ひとりでは絶対に今日という日は訪れなかった。食事している彼女に構わず独白を続ける。
「だから、アスカが元気になってくれて、本当に嬉しいんだ。いろいろあったけど、でも大事だから、家族だったから。僕がなにかしたなんて少しも思ってないよ。僕はただきみを失いたくなかった、それだけなんだから」
「ごほっ、ごほっ、ごほっ……」
今度はお茶を飲みすぎてむせたようだ。見れば涙目で赤い顔をしている。それがなんだか可愛くて、つい笑顔を向けた。目の下に隈はないし、肌も綺麗だ。髪だって整ってる。食欲もあるようだし本当によかったとしみじみ感じた。
「ただ、綾波はどう想ってるのかなって……」
「こ、恋人でしょーが」
まだ多少の苦しさがあるようで、赤い顔を背けながら返してくる。アスカとは家族、ミサトとは家族に似た他人、ならばレイはどうだろうか。そもそもこの思考の出発点は孤独だった彼女に対して始まったことだ。
「うん、そうなんだけど。恋人と家族、って違いはなにかなって」
「同棲してる恋人じゃダメなワケ?」
ううむと唸りながらアスカを見る。彼女は中華丼の食事を再開していた。エビはすべて食べてしまったようだ。レイとの同棲になにか不満があるわけではないものの、ここ数日の急な変化にためらいが生まれたのかもしれないと思った。
「家具買ったり、髪の毛ブローしたり、僕のひとりよがりなのかなって。まるで自分の色に染めてるって言うか……好きだって言ってくれるし、満足だって言ってくれるんだけど、僕、どんどん我侭になりそうだから」
「ああ、そういうこと」
アスカは少し俯いて蓮華の先端で残った米粒を追っている。ぺろりと平らげたようで、とてもいい傾向だ。豚バラ肉の脂身だけを残す器用なことをしていた。
「当たり前なんだけど、アスカとは違うから。もしアスカが恋人だったら、どうなのかなってことまで考えてて」
「な、な、なに言ってんのよ、アンタはっ」
「変な意味じゃなくてさ。きっといまみたく怒るんだろうなって。僕が突っ走りすぎないように止めてくれるのかなって……僕、どうしても求めすぎちゃうから。いけないってわかってるんだけど……その、エッチとかも……」
「アンタの……かっ、カノジョとか、勘弁、してよね」
「そうだよね。不快にさせちゃったね、ごめん」
結局のところなにが言いたかったのかわからなくなってきたとシンジは首を振る。自分に対する不安を吐露したかっただけなのか、しあわせすぎて怖いのか、ここ数日いつも一緒にいたレイが隣にいないだけでこんなにも臆病になってしまうのか。益体もないことを口にした気がする。
「ようは、アンタがベタボレって話じゃない。ったくビビらせんじゃないわよ」
「あははっ。まったくそのとおりかもね。なに言ってるんだろう、僕」
「はいはい。ごちそうさまでした」
米粒をひとつ残さず取り切ったアスカは手をあわせて言った。彼女は事情がない限り食事を残さない。同居しているときもあらかじめ苦手な食材は訊いていたのもあるが、いつも皿を綺麗にする。そんな食べっぷりがシンジはとても好きだった。だから面倒な料理が少しだけ自信になり、レシピを考えるくらいになったのだ。
「それにしても、綾波って父さんとどんな話するのかなぁ」
「アンタのパパってさ、ちょっとアレよね」
「ま、まぁ……ね。きっといろいろあるんだろうけど、うん」
「そう……ね。うん、そうよ」
お互い言葉は濁したが同じことを考えていると思っていた。じつの息子を放っておいて、なぜレイに構うのか、と。嫉妬とまではいかないものの、なんともやるせない。よもやロリコンなどとは思うまいが疑問である。このままだと暗くなりそうだと思ったシンジは訓練の内容に話題を変えた。
「ところでさ、訓練の調子どう?」
「ああ、あたしね。それがまたミサトのシゴキがキツくってさぁ」
「ミサトさん、本気で怪獣出すつもりらしいよ?」
「やっぱそっかぁ。なーんかヤな予感してたのよねぇ」
今夜は遅くなるとレイから聞いていたのもあって、シンジはアスカとの談笑を楽しんだ。午前中は少し苛々していたように見えたけど、こうして話に花が咲けばそんな憂いも忘れてしまう。デザートにゴマ団子を追加して、ふたりは笑い声を響かせるのであった。
かつての日本であれば冬の嵐と呼ばれるほどの激しい風雨が路面を叩く。数の減った街灯では周囲を照らすのに心許ない。さりとて代わりとなるような民家や商業ビルも照明は少なく、路地裏ともなれば漆黒の闇が支配した。耳に聞こえるのはびゅうびゅうとした風の悲鳴と、恨みのような雨の叱責だけだ。自らが発する啼泣さえ、阻まれる。青みのある銀色の髪はぺたりとつぶれ、制服が水を吸って重い。進む足は怯えるように遅く、それでいながら池のような水溜りは構わず踏んだ。
自宅から離れた場所で保安部の車を降ろしてもらい無駄な行動を取っている。常夏と言えども冷たい雨は体調を崩しかねないのに、まるでかつての彼女さながらに健康を省みない。右手に持つ傘を使わないのは強い風の前に意味がないと思っているのか。大自然の摂理に個人で抗うのが愚かだと、流れに身を任せるのがただしい決めごとであると。
見慣れたマンション群が見えてもどこが自分の部屋なのか判別できないほど暗い。かつて廃墟と形容されたとおりだとレイは思った。捨てられたような無人の住居。けれども、最終的に処分されるモノにはこれで充分なのかもしれない。
虚ろな彼女の瞳に白いビニール袋が映る。それが今朝シンジと出るときに捨てたゴミだと気づき、自宅前の階段であるのを理解した。ゴミが回収されてないのは清掃業者に住人がいないと思われている証拠だろうか。
汚らしい階段と廊下を歩き402と書かれた自室のドアノブに手をかけるものの開かない。二回引いて鍵をかけていたのを思い出した。ポケットをまさぐりシンジと共通の鍵を取り出す。今朝、彼が売店で買ったウサギのマスコットがキーホルダーになっている。なんとなく可愛いから、好きだから。その言葉だけが彼女の心の拠りどころだ。赤い目に白い肌。それなのに彼は愛していると言ってくれた。バケモノのようなおぞましい正体を知っても抱き締めてくれたのだ。
玄関へ入り、すぐに靴と制服を脱ぐ。この部屋を穢したくなくて裸になろうとするが、さきに鍵をかけた。心配だから、なにかあったらいけないから。そう言われて施錠するようにしたドア。どうせ消える命なのに、彼はいつだって案じてくれる。
「いけない……お風呂……」
下着姿のままでは風邪を引いてしまう。シャワーをすぐに浴びるべきなのに、しかし廊下の床へ座り込んで動けなくなってしまった。彼がまだ帰っていないのは知っている。食事をしてくる、と伝えてあるからきっと食堂にいるだろう。放心して合流するという頭はなかった。とにかく自分たちの領域に戻りたい一心だったのだ。
「碇くん……私、寒いの……」
身体ではなく心がとても寒かった。髪と瞳からいくつもの水を落とし、レイはすすり泣く。シンジを想って両腕で肩を包むが少しも温かくならない。
「お願い。早く帰って来て……お願い、お願いよ」
冷たい金属のドアを見詰めながらひたすらシンジの帰りを待った。芯まで冷えたすべてを彼という篝火で熱して欲しい。いっそ、骨まで焼き尽くして欲しかった。
興が乗ってくれば箸も進むというものである。ゴマ団子だけでは飽き足らなくなって杏仁豆腐を追加すると、シンジとアスカは喫茶店さながらに会話を弾ませた。いつしか話題はミサトの生活能力にまでおよび、あれこれとふたりして論う。
「――ほんっと、ミサトってイカモノ食いよね」
「いかもの?」
「草履でも食べるって意味よ」
「さすがにそれはないんじゃないかなぁ」
簡単な日本語は間違えるわりに小難しいことをよく知っているアスカだが、話を聞いているのはなにもシンジだけではない。つい声も大きくなれば周囲の耳目を刺激するのは当然だ。その中には夕食を取りに来た当人も含まれている。片方の眉毛を大きくあげたミサトはアスカの背後に立つと、すっと隣へ現れた。
「へぇ。なかなか面白そうな話をしてるじゃないの、アスカ」
うどんの乗ったトレーをテーブルへ置き、どかりと腰を落としてアスカを睥睨する。鼻の穴まで広げて腕を組んだ。されど、その程度で動じるアスカではなかった。
「ふんっ、出たわね。この食欲魔神が」
「なぁによ、失礼しちゃうわね。私の悪評広げないでもらえる?」
「あたしは本当のことしか言ってないじゃない。だいたいなによ、その貧乏臭いメニューは」
「私がなに食べようが勝手でしょ?」
「どーせ金欠だからって一番安いヤツにしたんでしょ、お見通しよ。揚げ玉とネギそんなにしちゃってさぁ」
ミサトの丼には麺が見えないほど揚げ玉とネギが山になっていた。七味、ショウガ、わさびとマヨネーズまでふんだんにかかっており、なにを注文したのかわからないくらいだ。無料のトッピングで少しでも嵩増ししようとしているのが明白である。
「お子さまにはわからないのね、この味が」
「ンなもんわかりたくないわよ。シンジもなんか言ってやんなさい」
「あら、シンちゃんはそんなにお口悪くないわよん?」
ぐちゃぐちゃに丼の中を混ぜながら向かいのシンジへ顔を向けるミサトだが、彼は渋面を浮かべて首筋を掻くとそっと覗くような眼差しで答える。
「でもミサトさん、前にビーフジャーキーの袋食べてましたよね」
「ちょ、ちょっと!? シンジ君、それはないわよ? ねぇ、それはないわよね!?」
「朝起きてこないからって見に行ったら……ええ、食べてました」
「シンジ君……私にも心はあるのよ?」
「本当ですよ。寝ぼけてただけだと思うんですが、少し心配になりました」
アスカは手を叩いて大笑いだ。シンジの哀れんだ瞳がいっそう胸に来る。周囲から視線が向けられてミサトはぐるりと睨み返した。腐っても作戦本部長だ。ここは威厳を保たねばならない。
「あれはギャグでしょ? い、嫌だわぁ、本気に捉えちゃって」
「あっ、そうなんですか? よかったです。僕もアスカもいないから、食事どうしてるのか心配で。あと部屋がゴミで埋まってないかとか……たまに行ったほうがいいのかなって」
シンジの気遣いが嬉しいと思いつつ、倍の年齢の大人が中学生に伏せ目がちな表情で心配されては素直に受け取れない。悪気のない彼に強くも言い返せず困りものだ。
「大丈夫よ、時間がないだけ。休日にぱぱっとやれば……って、アスカ、いつまで笑ってんのよ」
眉を寄せるミサトだが、しかしいっぽうで彼女の笑顔を見るのはいつ以来だろうかと思った。肩を震わせ赤い顔を俯かせている姿に表情がふと緩んでしまう。
「いやぁ、シンジも言うじゃない。あたしおなか痛いわ」
「そう言えばさぁ、アスカ。シンジ君の部屋にヘッドセット落ちてたわよ?」
「ハア? なに言ってんの?」
「本当ですよ。寝ぼけてただけだと思うんですが、少し心配になりました」
「シンジのマネすんじゃないわよ」
「ねぇシンちゃん。アスカがねぇ……」
「ちょ、ちょ、ちょっと黙んなさいミサト!」
テーブルを叩くように勢いよく立ちあがったアスカへニヤけ顔を返す。これ以上は口にしないものの、相手を動揺させるのには充分な効果があったようだ。察しの悪いシンジはきょとんとしてまるで理解してない。三人で住んでいたときのような楽しい空間に目を細めると、ミサトはうどんを啜った。
少し時間を遡り、シンジが食事を開始しているいっぽうこちらは暗い一室だ。地上から採光していればジオフロント内の明るさも比例する。雨足を強める町に引き摺られるように、ひときわ重々しかった。笑顔はもとより、あらゆる配色を排して輝くものは皆無だ。いわんや、希望の光であるシンジも、である。
総司令の執務室でゲンドウは両肘を机に突き、口の前で手を組む。色のついたメガネがわずかな光を反射しているため彼の真意は読み取れない。ゲンドウと、対するレイの距離は5メートル。彼らから少し離れたソファーに座り詰め将棋をしているのは冬月だ。
「シンジと同居したそうだな。なにを考えている」
ゲンドウの声に抑揚はなく、部屋の雰囲気をいっそう窮屈にした。質問なのか独白なのかさえ窺えない。片やレイの声はとてもとおっていた。声量こそ決して大きいわけではないものの三人しかいない部屋では充分である。
「必要と判断したので、そうしました」
「必要、だと。お前がか」
「はい」
パチリと冬月が打つ駒の音が響いた。片手に教本を開き熱心に打ち込んでいるように見えてそのじつ、耳はしっかりと欹てている。
「あいつと寝たのか」
無言のままスカートの裾を握り、表情を変化させたレイをゲンドウは見逃さない。目を伏せ、口元を強く結んでいればなによりの肯定である。彼はほんのわずかな溜息をつくと、さらに声のトーンを落として言う。まるで恫喝するかのように剣呑な雰囲気を漂わせていた。
「くだらん。お前にひととしてのしあわせは望めん。そう申しつけていたはずだが」
「しあわせ、ですか?」
「そうだ。この世界に新しい命は芽吹かない。それはお前が一番よくわかっているだろう」
やはりそうなのか、とレイは思った。予備の肉体が破壊されたことは関係ない。もともとこの身体は仮初だがそれでもただ一点の機能を除いて不足はなかった。べつに彼女はいますぐシンジとの子供が欲しいわけではないし頭にもなかったが、望みが絶たれるのは喜ばしい話ではない。ただ、それが不幸かと問われれば違う。なにも子を作るために彼と恋仲になったわけではないのだ。
「子供を産むことだけがしあわせだとは思いません」
「お前がそれを言うか。ならばどうする。滅びが定められた世界を見捨てるつもりか」
ゲンドウはレイに伝えていない真実まで口に出した。言わば最後通牒である。それほどまで切羽詰っていたのだ。彼女は息を飲み、目を見開く。声を失ったレイに向かってゲンドウは退路を絶った。
「お前がひととしてあり続ければ、待っているのは緩やかな死だけだ」
レイの存在すべてを利用しての補完計画。ゲンドウは上位組織とは違う人類の新しい形を定義した。そのさきに妻との邂逅も含まれているし、彼女の願いも叶う。最大の障壁であった贖罪の槍も遺棄できたのだ。万事がうまく運んでいたのに肝心のレイがこれでは暗礁に乗りあげてしまう。
「それとも、シンジとふたりだけで世界に残るつもりか」
ゲンドウの声に悲壮さが滲んでいることに気づいたのは冬月だけである。本人さえ自覚がない。レイは顔を伏せ、両手を握り締めた。肩を落とし、ようやく言葉を漏らす。
「それでも私は……私は碇くんと、生きていたい……」
レイの目から涙が落ちるのを見てさしものゲンドウも驚いた。大きな溜息を漏らしながら首を振る。もう感情を抑えられないのは彼もレイも同じだった。
「もういい。行け……」
「失礼、します……」
こうしてレイはその場を逃げるように足早で去っていった。ゲンドウと冬月だけが残された空間に沈黙が支配する。駒が盤面を叩く音も聞こえない。
「碇、見事な反抗期だな」
「世界を巻き込んでのか……」
「お前のレイに対するこだわりがこの結果を招いたのだぞ」
ゲンドウは冬月の言葉に反論ができなかった。眉間に皺を寄せ、わずかに項垂れる。死への衝動を少しでも減らせればという口実でネルフの外へ出したのは消える運命にあるレイを哀れんだ自らの弱さだ。愛妻を彷彿とさせる容姿も関係あっただろう。だが、やはりどこかで全人類を同意もなく巻き込む計画に対して背負いきれない罪を感じていたのだ。間違ったことはしていない、生きるためだと言い聞かせて前に進んだこれまで。ひとりの少女を犠牲にさえすれば問題は解決すると楽観さえしたのにこのざまだ。
「計画はどうする」
「もともと無理があったことだよ。いまさら驚かんさ」
「ひとの生きた証も残せんのか」
愚問だな、と冬月は呟いて駒を打った。ゲンドウは黙考する。シンジがレイに惹かれていたのは知っていた。色恋沙汰ではなくとも、なにかと気にかけているというのはリツコの報告にもあったことだ。幼き日の記憶も多少は影響しているかもしれない。引き離そうなどとは考えなかった。あまり心を開かない息子が他人に関心を寄せるのであればせめてもの償いだと。
しかし、レイの傾倒は想定外だった。あのマンションに盗聴器や隠しカメラなど設置されていないからどのような交流があったのかは不明だが、性行為以外にも死への希求を翻させるほどのなにかがあったのだ。自爆後の新しい身体で、感情を欠落させているにもかかわらず。
「老人たちの計画も頓挫だろうさ。もう機会は訪れんよ」
冬月の言葉がゲンドウの胸を打つ。どこで間違えたのか、とゲンドウは唇を噛んだ。レイもリツコも、リツコの母も思惑から外れてしまう。これもひとえに他人との接しかたがわからない臆病者の末路か。明るい未来をと望んだ妻の遺志は継げず、目の前にあるのは無責任な父親の姿である。
「あいつに背負わせるのか……地獄を……」
そんなことをさせるためにシンジをこの世に生み出したのではない。妻と祝福して胸に抱いたのだ。どれだけ後悔しても時計の針は戻らない。人類の、我が子のゆく末がどうなるのか見通せないのだ。願わくは、ふたりがただしい選択をしてくれることだけだった。
シンジは本部を出る前に携帯でレイへ連絡した。少し遅くなってしまったけれどちょうどいいかもしれない。そう思ったのだが応答はない。まだ父と一緒なのだと納得して保安部の車に乗ったのは、激しい雨の最中だった。傘は彼女が持っているため車を降りたら走ればいい。暗雲が立ち込める空の下、マンションへ帰宅する。
ペアの鍵でドアを開けると暖気がむわりと放たれる。食堂で盛りあがり、彼が帰宅したのはレイから遅れること二時間ほどだった。玄関と廊下は水浸しで、恋人がすでに帰っていたのだとわかる。しかし部屋は暗く、まるで気配がない。
「綾波?」
寝室へ入ればベッドの上でタオルケットに包まったレイの姿がある。膝を抱えるようにして座り、顔を伏せていた。バスタオルは干されておらず椅子にかかったままだ。どうしたのかとすぐ傍に立って、そこでようやく彼女は存在に気づいたかのように顔をあげる。暗くて表情まではわからない。具合が悪いのかもしれないと思い照明のスイッチに手を伸ばすが彼女は掴み、感情のない声で言う。
「つけないで。お風呂、行ってきて」
車を降りてわずかな距離なのに結構な濡れ鼠となったシンジは、言われるがままシャワーを浴びる。怒らせたとは思えないが、とても問えるような雰囲気でもなかった。もちろん放ってはおけないので手早く入浴を済ませると足早にベッドの脇へ戻る。部屋が暑く寝るだけだと考えていたからトレーナーは着ていない。
「あの……綾波……」
シルエットしかわからないレイの肩にゆっくりと触れる。すると彼女は待っていたかのように腰にしがみつき、ベッドへ乱暴に引き込んだ。まだ生乾きの髪と身体に両手を這わせてくる。とにかくあらゆる場所に触れたいと言わんばかりに全身を擦りつけるレイに、なにか様子がおかしいとシンジは思った。肩口に埋めた顔が濡れている。時折、鼻を啜る音もした。泣いている、と理解するのに時間はかからない。
「碇くん……碇くんっ……碇くん!」
涙声でレイが叫ぶ。愛撫と呼ぶには乱雑だ。湯あがりの身体から体温を奪おうとするかのように両手や両脚をせわしなく動かして背中や尻を撫でまわしてくる。彼女の顔が鎖骨、胸板、首筋と一箇所に留まらず押しつけられた。初めての夜を上回るほどの渇望だ。レイと交わるのが無上の喜びである彼でもさすがに異変を感じる。父になにか酷いことでもされたのかと不安が鎌首をもたげた。
「あの……綾波……どうしたの? 酷いことされたの?」
だがレイは首を振るばかりで無言だ。言葉よりいまは肌が欲しいと全身が語っていた。そして彼女の身体は小さく震えている。もしかして雨に打たれて寒いのかと思ったが乾いた髪からシャンプーの匂いがあれば違う。この室温の高さは暖房だろうと察したが、なにがここまで彼女を冷やしているのか。無数の涙がシンジの肌に冷たさを残す。
「なにも聞かないで……お願い」
「でも……」
「抱いて……たくさん抱いて。あなたで私を埋め尽くして……お願い……」
太ももを挟むようにしているレイの秘所を試しに触れてみるものの、とても乾いている。彼女を抱き返してもレイは冷たい息を漏らすばかりだ。迷っている場合ではない。シンジはすぐさま両手で背中を、太ももを撫でまわした。互いの頭が当たり痛みが生じても止まらずレイの首筋を舐め、耳朶を噛む。どれだけ震えていても雑にしてはいけない。
「綾波……」
「もっと……碇くん……」
シンジはいっさいの憂いを捨てて、ようやく唇を重ねる。するとレイはかつてないほど激しく舌を絡めた。彼女の鼻息は決して上品とはいえず、舌先は歯茎から唇のまわりまで無作法に動く。両手は髪を掴み、腕に爪を立てると陰茎を握った。半分ほどだった起立は彼女の拙いしごきによってすぐさま硬くなる。
「大丈夫だよ、綾波。大丈夫……」
シンジは思考しないし哀しみも封じた。レイに起こっていること、経緯、心にある見えない闇。それらを無視して乳房を撫でては乳首を弾く。舌先で腋を舐め、鎖骨から肩や二の腕を慰撫する。汗ばんできた太ももや背中を指先で奏でると荒い息とくねる身体があった。尻を掴み、性器に指を這わせればさきほどとは打って変わって濁流のような凄まじい量だ。熱い粘液は果たして愛液なのか、それとも涙なのか。途中、彼女から空腹を知らせる音がしても聞こえないふりをした。彼に焦らすつもりはなく、とにかく恋人を温めようと挿入を先延ばしにする。けれどもレイは違う。もはや彼女の脳裏にはリツコの教えなど微塵も浮かばず、ただひたすら彼にせがんだ。
「早く、早く来てっ。私、逝きたいっ……あなたでたくさん逝きたい!」
「うん、うんっ」
ふたりはベッドの上で縦横無尽に身体をくねらせる。天地を逆にして、嵐の大海原を全裸で泳いだ。レイはあっさりと絶頂し、そしてまた求める。もっと抱いて、もっと舐めて、もっと触ってと欲望を淫らに発した。逝くと愛してるの言葉を繰り返し全身を壊れたように痙攣させる。彼女の涙と熱い粘液も止まらない。外の雨よりも激しい交わりだった。