第弐拾参話、六日目
激しい雨音は聞こえずエアコンの風音もしない。それでも耳を澄ませば軒先からベランダへ滴る水音がある。じきに止むかもしれないし、また風雨が強まるかもしれない。科学が発達しても完全には予測できない天気。青い空はいつになったら見えるのだろうか。やはり雨の日は憂鬱だとレイは思った。
隣で眠るシンジの顔を見る。ただひたすら寒かった昨夜。シャワーを浴びても、暖房をつけても、タオルケットでも心が氷のように冷たく感じた。だからあの夜のように強く包んでもらいたかった。泣き声をあげ、彼に縋った。初めこそ性欲はなかったものの肌に触れると一気に爆発した。
いまになって思えば度がすぎていたかもしれない。止まらないのは前からわかっていたが、いつも以上に彼を感じたかった。肉体という檻に閉じ込められた魂に少しでも近づきたくて口を割り、舌を伸ばした。より深く、より強烈に五感を研ぎ澄まし全身をひとつにする。形だけ備わっている子宮と膣が猛烈に疼き、もっとも深くまで彼の一部を飲み込んだ。自ら跨っては激しく腰を振り、精を吸い出した。
シンジに教わった〝逝く〟という言葉。それが性的な絶頂であるのは充分すぎるほど理解している。頭の中がまっ白で埋め尽くされ圧倒的な快感を得る瞬間。だが、それは死とどう違うのか。絶頂後に訪れる歓喜の吐息は死による開放とどう違うのか。わかっているはずなのに、たしかめたかった。快楽の果てに〝逝く〟ことと魂が還る場所へ〝逝く〟こと。同義に思えて明確に違う。絶頂のあとは必ず彼の許へ戻ってくる。しかし、死の向こうへ旅立てば二度と叶わない。恋した彼に触れて必要とされ帰還するのをあの夜に知ったからこそ、ここにいたいとより強く願ったのだ。
もう二度と死を願いはしない。けれど、想いとは逆に死を望まれている。昨夜ゲンドウに言われた意味も、なんとなく理解していた。それはあの巨人と関係あるのだろう。あれが本来の肉体であり還るべき〝家〟の玄関だ。ずっと求めていたはずなのに、いまは怖くてしかたがない。
シンジの頬に手を添える。目蓋がぴくぴくと動いてやがて目を開けた。黒くて輝く彼の瞳。ほどなくして意識がはっきりしてくると柔らかく微笑んでくれる。それだけで胸にじんわりと血が通う。髪を撫でられ、肩に手を添えられると生きている自分が感じられた。
「おはよう、綾波」
「う……ん……」
嬉しいのに温かいのに自分の言葉に力がないと思った。笑顔を向けたいのに眉は寄ってしまう。唇が震えて歯を食い縛った。そんな表情をしては彼の心に痛みを与えてしまう、哀しませてしまう。だから、なにか言われる前に肩口へ顔を埋めてごまかした。
「ゆうべは、ごめんなさい。だから、なにも言わないで……」
淫らだと思うのか、それともやはり変な女だと思うのか。心の中を口にすればきっと彼を苦しめる。死にたくない、無へと還りたくない。お願いだから、ここにいてと言って欲しい。それだけで強くなれる、振り払うことができる。
「大丈夫だよ、綾波。僕はここにいる。だから、きみもここにいて」
はっとなった。息が止まって目の奥が熱くなる。もっと束縛して欲しい、もっと自由を奪って欲しい。心のままに腕が彼を抱き寄せれば大好きな唇が優しく重なってくる。生を感じるために逝きたい。肉体が快感を得るために触れられたい。この部屋から一歩も出ないでずっと抱かれ続けるのは無理なのか。朝なのに、不道徳なのに、すぐさま全身は燃えあがってしまう。
「はぁっ……駄目……よ、碇く……ん……」
唇を離せば今度は首筋から耳へと愛撫が這った。背中にまわされた右手がうなじを、尻を、太ももを熱くする。拒んだように言ってても欺瞞だ。結局は片脚を絡めてしまう。ゆうべあんなにも身体を重ねたのに、たくさん受け止めたのに、偽りの子宮にいくら注がれても流れてしまうだけなのにすぐさま滾々と喜びが溢れてくる。
「身体、痛くない?」
「少しっ……だけ……でも……っくぅ……」
平気だと言い切る前に乳房を口で含まれる。痛みなんてどうでもいい。いや、痛みがあれば生を実感できる。彼から受けるものは痛みでも快楽でも平等だ。子宮口や乳首が少し痛んでもすべてが歓喜に変わってしまう。
「じゃあ、口でしてあげるね」
熱い顔をわずかに逸らして小さく頷いた。カーテンの裏から漏れる光が白い裸体を照らす。さんざん見られているのに恥ずかしいと思った。他人との比較か、もしくは女性としての本能か。それなのに鼓動は高鳴り目線に期待してしまう。彼の両手が丁寧に胸を包み、唇は徐々に下へと向かう。波打つ腹、血を流さない子宮、ほかの女性が嫉妬するという毛のない陰部。意地悪にも性器を飛び越して太ももへ着地した。だがそれだけでも危険な前戯だ。
促されたのか、淫らなだけか、股を大きく開いて喘ぐ。やがてじりじりと中心へ移動すると鋭い快感が脳髄を貫き、悲鳴のような嬌声を発した。何度も経験しているのに身体はあの夜と変わらないどころかどんどん敏感になっている。もっといっぱい感じていたいのに堪えるなんてとても無理だ。他人の情事はわからないけれど、彼を基準に考えれば絶頂までの時間はかなり短く回数もとても多いのだろう。生きていたいのに〝逝きたい〟と身体が渇求するのはどこかで死を願っている証拠なのか。
それでも、声や身体を抑えはしない。それは彼に知ってもらいたいからだ。あなたの行為がこんなにも快感を与えてくれる、身体中が喜んでいるのだと全身を使って表現する。彼の喜ぶ反応にいっそう性感が高まった。自ら股間を上下にくねらせシーツをきつく掴む。胸を反らして愛撫をせがんだ。どうしようもないほど気持ちいいのに顔も身体も苦しみのように暴れる。四肢をぴんと張ってベッドから落ちないようにする力だけが唯一の抗いだ。
「ああっ!! 逝くっ!! 逝っっく!!!!」
とき放たれる感覚、拡散する意識。これは死とは違う昇天。肉体という不自由な枷を精一杯に伸ばして広がる自由に涙が流れた。十秒か、二十秒か、もっとあるかもしれない。掴んで離し、また掴む。彼の許へ帰っても、また高く飛ばされる。こうして悶えるたび、レイは生への喜びと執着を感涙とともに覚えるのであった。
広いダブルベッドに投げ出された両脚は肩幅に広がっている。ほどよく鍛えられており、健康的な太さだ。クラスメイトから長いと褒められているのは本人もそれなりに自覚があった。容姿端麗、スポーツ万能などと言われている自分が朝からこんな秘めごとをしているなど誰が想像しただろうか。アスカは下半身丸出しで天井を仰ぎながら思った。左の前腕で目元を隠すようにしているのは常夜灯が目に痛いからだ。力なく放られた右手の指先は艶やかに濡れている。Tシャツの裾が捲くれて右の乳房が出たままでも構わず、彼女はゆっくりと呼吸を整えた。肌には情事のあとが生々しく汗となって浮いている。
「精神の安定……か……」
自慰は医学的に見てなんら不健康なものではなく、むしろ鬱病などを改善させる効果があるとされている。自分を肯定する行為で、単に快楽だけのものではない。己を愛し褒めるものであり不道徳とされたのは昔の話だ。したがって彼女も背徳的な気分にはなってないし、自虐的な思考にもならない。むしろ感じるたびに自らの身体に感謝したくらいだ。ただ、こうも頻繁にするのはそれだけ精神が不安定なのか。誰でも最初はこんなものだと聞くものの、基準がわからない。
「変な朝ね……」
以前は同居人のシンジが起こしにくることが多かった。立ち入り禁止の表示を自室のドアに掲げてはいても朝寝坊してしまうのだからしかたがない。まれに彼が入室する前に目覚めているときもあって、Tシャツの裾を少しめくって挑発したものだ。彼がどんな表情をしているのかと薄目で窺えば赤い顔をちらちらと向けては臍や脇腹を見ていたのが懐かしい。起こそうとしていた手を止めてごくりと唾を飲み込んでいた姿が昨日のことのように目に浮かぶ。
「あんなに見てたくせに……なによ、ばかシンジ」
枕元にあるティッシュを二枚取って指先を拭くと、そのまま股間にあてがう。両脚を閉じて隙間を埋めた。とても豊富に出るのとはいいとしてもシーツまで汚したくない。ただ、濡らすたび、達するたび、切ない気持ちが込みあげた。昨夜は参考までにとアダルト動画を見てみたものの、やはりいまひとつだった。悪くはないし昂奮もするが、なにかが足りない。出演者をドイツ人から日本人にしてみても同じだ。結局それで自慰をするほどのモチベーションにはならずいつもの脳内再生だけで終わらせた。想い出ならいっぱいあるし画面の向こう側とは違って本人にも毎日逢っているのだ。これに優るものはない。
「さんざんオカズにしといてさ。キスくらいしなさいよ、ばぁか」
右手の指先で左の腋を撫でる。面倒なので今夜でいいかもしれないと妥協した。思春期とは厄介だ。心も身体も勝手に育ってしまう。どんなに頭から刈り取ってもより強固に復活する。それも無駄毛のように少しずつではなく、ぐんぐん成長するのだ。必死になって顔を逸らそうとしているのに目は勝手に追ってしまう。無口を貫こうにもいつだってさきに話を振ってしまう。一緒にいる時間が楽しくて心がボールのように弾む。加持のほうがつきあいは長いのに、大人なのに、戦いという極限状況と同居が一気に引き寄せた。
「吊り橋効果ならよかったのに……」
そんな一時的なものでないのは誰よりも理解している。だからこの町のようにさんざん心に武装してきたし中心に近づけないため無数の銃弾を放ち、ナイフを突き立ててきた。たぶんあのままならかなり酷い状態になっていただろう。けれど、公園で抱き締めたあの腕がすべての防御を突破した。いまあるのはこれまでの勢いだけだ。最後のひとりになっても戦うのだと震える足をごまかしている。
「もう、限界かも……」
行き場のない激情。ひとりで暮らし、ふと視線を外したから生まれてくるものがある。いつだったらよかったのだろうかと、ありえない〝もしも〟を考えた。太平洋で弐号機に乗せなければよかったか、それともユニゾン訓練をレイに任せればよかったか。いや、逆だ。あの夜にあんなこと言わなければよかっただけだ。気取って、さも経験済みのような態度なんて出さないで……そう思うのに切り出しかたがわからない。夜景の綺麗なタワー、学校の裏手、少しおしゃれな公園、もしくは遊園地の観覧車の中、彼の部屋でもいい。場所はすらすらと出てくるのに肝心の言葉がないのだ。
「本当のキス、か……」
いつもこの思考のループに囚われる。そして逃避するようにべつのことばかり考えてしまう。昨夜の食堂での会話は驚くほど素直に話せた。気負わずに、以前のように。周囲の音が消え去って、ふたりだけの空間ができあがった。目線を交わして笑顔を向け、高揚する心地よさ。自分にはそれができるのだ。だけどそう帰結するとやはりまた振り出しに戻ってしまう。どうして選ばれなかったのか。どうして間違えたのかと。
「ママに相談したら教えてくれるかな」
さっと拭いてティッシュを丸めると、ゴミ箱へ放った。さわさわと手慰みに陰毛を弄びながら彼の裸体を妄想する。まさかまだ生えてないなどということはあるまい。いや、女顔だから充分ありえるか。初めての夜、必死に隠すか言いわけしてそうだ。レイに頼み込んで剃らせている姿が目蓋に浮かんで笑みが零れた。だったら逆に自分は処理しないほうが正解だろう。違いを見せつけてやるのだ。
「シャワー浴びよ」
そんな馬鹿な思考を朝の活力にすると立ちあがって浴室へ向かう。LCLに浸かるとわかってても髪の手入れは抜からないし、服装だっておしゃれにする。どんな顔をするのか見たいから、そっち方面も疎い彼に教えてやるのだ。レイにはないものをいっぱい教えて、後悔させてやる。やはり白旗には早い。泣くのはもっとさきだ。せいぜい模擬戦を楽しんでいればいい。本当の戦いはこれからなのだ。常に無駄なく美しく。アスカはそう唱えて剃刀を手に浴室へ入った。
朝食が必要だ、と学校や世間は言う。脳の活動に必要なブドウ糖が供給されないと集中力を欠き、勉強や仕事が身に入らない。だからしっかり起きてよく食べることが大切だ。あと五分が至高の時間でもパンひと切れ、おにぎり一個を頬張るだけでかなり違う。
とはいえ、相手が愛しい恋人となると起こして無理やり食べさせていいものかと躊躇がさきに立つ。レイのお陰で早く起床したというのもあって、連続して三回も果てさせたが負担ではないだろうか。要望どおりに性技をゆっくりしても反応がいいからやりすぎてる気がしてならない。シンジはちらりと寝室を窺った。
いま心地よさそうにベッドの上で寝息を立てている。さすがに仰向けで大の字の彼女を放置はできないのでタオルケットをかけてあげた。目元が腫れぼったいから今朝に加えゆうべもかなり泣いたのだろう。なにがあったのかいまも聞けてないが、いずれ時期がくれば話してもらえるだろうと納得した。
ただ、どんどん感情表現を豊かにしている彼女の一番よく目にする表情が泣き顔かもしれないと思うとやるせない。すべて自分に関係あると考えるほどうぬぼれてはいないが、それでもやはりレイは笑顔が似合う。なのにしてあげられることと言えば会話をする、デートをする、スキンシップする、セックスする、そしていまのように料理や掃除しかない。それが普通だと誰かに言われたらそうだろうと頷く程度の憂いだが、もう一歩だけさきへ進みたいと思う。自信が持てるようななにか、彼女が離れてしまわないくらいの価値。そう考えるといま作っているタマゴサンドも結局は自分のためなのか。大切にしたいと行動しても、自己陶酔しているだけなのか。またこうやって頭の中でぐるぐる追いかけっこのような思考をしてしまう。やはりブドウ糖が足りないのかもしれない。
しばらくしてレイを起こしたシンジは朝食を取ると本部へ向かう。今日も複座によるシンクロテストが予定されている。昨日のうちになんとか射撃や基本的な動作がおこなえるまでになったので、シミュレーションによるアスカとの合同訓練だ。しとしととした雨の中、保安部の車の後部座席で繋いだ手を抱えるレイの力は強い。外の景色に目は向けず、ひたすら手を捏ねてくる。親指を摘み、人差し指を撫でていた。
なにも言葉を交わさないままネルフに到着し、待機時間を休憩所ですごす。いつもの四人がけに並んで座っているとほどなくしてアスカもやってきた。
「Guten Morgen, シンジ。ってか、朝っぱらからベッタベタと見せつけてくれるわねぇ」
そう言われてシンジは隣のレイとの距離を見るが、たしかに少しばかり椅子の距離が近いかもしれない。レイはちらりと顔を向けてきたあと膝の上に乗せていた手をどかし、テーブルに置かれたままだった家具の雑誌を手に取っていた。
「やあ、アスカ。おはよう。今日はまたカジュアルだね」
アスカはデニム地の膝丈パンツにゆとりのある薄いベージュのサマーニットといういでたちだ。足元のレザーサンダルに加え肩から小さなレザーのポーチを提げていればまるで近所を散歩するようなスタイルだとシンジは思った。すぐプラグスーツへ着替えるのに本部に住んでいてもおしゃれは気を抜かない彼女に感心だ。
「アンタたちが地味すぎなのよ。それよりも聞いた? 司令が倒れたって」
「えっ? 父さんが……倒れたの?」
シンジはまさに青天の霹靂だと言わんばかりに口を開け、両目を見開いた。鉄人などと思ってはいなかったが普段の様子を考えればにわかには信じられない。ネルフの総司令ともなれば重圧は計り知れないのであろうが、それにしても父もひとの子だったということか。
「まぁ、そこまで重態ってほどじゃなくて過労らしいけど、上に下に? の大騒ぎらしいわ」
「うん……そう、なんだ。大丈夫かな……父さん」
行ったところでなにができるわけでもないし医療スタッフがついていれば問題ないだろうが、万が一を想像して気を重くする。会話すらまともにしたことがなくても唯一の親だ。テーブルに貼られたシールを弄る指先は止まり、じっと見詰める。
「テストまでまだ時間あるんだし、顔ぐらい見てきたら?」
「そうだね。そうしたい……綾波は……」
そこで隣のレイに水を向ける。彼女は関心がないような表情でパラパラとページを捲っては端を折っていた。購入するための目星をつけているようだ。顔さえ向けず、冷めた声で返してくる。
「私はいい。碇くん、行ってきて」
食事をするほどの仲であってもあまり気にしないのかもしれない。考えてみれば総司令と一介のパイロットという立場の違いなら無理はないのか。社長と気に入られている平社員を思い浮かべた。
「ああ、うん……じゃあ行ってくるよ」
シンジはそそくさと立ちあがると専用の医務室へ向かってゆく。レイはそんな彼の背中を見送り、アスカは頬杖をついて眺めていた。残ったふたりに会話はなく、ただ自販機のモーター音だけが低く唸っている。
エレベータに乗ったシンジは目的の階のボタンを連打した。重篤ではないと聞いてても彼の脳裏には葬儀の光景が出てしまう。町を歩いたとき、いくつかの家で弔われているのを見たのが影響していた。戦端が開かれている最中というのもあって、とてもしめやかな参列者の涙が去来する。セカンドインパクト以降それこそ世界中でおこなわれた儀礼ゆえ彼も見慣れたものではあった。しかし自分の父が、とはまったく頭になかった。どこかひとごとで、日常の一部とさえ感じていた。だから心の備えはないし、喪主姿の自分など考えたことすらない。服装、香典、神式か仏式か。出棺、四十数日、納骨と、知っている単語が浅い呼吸とともに目の前を横切った。
「あ、あの……父さ、司令はこちらに?」
ほどなくして医務室に到着したシンジは護衛らしき黒服の男に声をかけて病室へと案内される。十帖ほどの広さに打ちっぱなしのコンクリートの壁で囲まれた、総司令の病室にしてはいささか地味な部屋だ。あるのはベッドと小さなチェストがひとつ、そしてなにかの医療器具。点滴のチューブが繋がれたさきは壁の絵画へ顔を向けて横になったゲンドウだ。黒い制服は着ておらず白い肌着が見えている。色の着いたメガネも外され、いつもの威厳はまるでない。
「なにをしに来た」
顔を背けたままのゲンドウが言う。声は変わらず低音だが、姿勢のためか張りはなく心なしか弱っているようにシンジは思えた。あれほど萎縮していた対象なのに彼の目に映るのは疲れ切ったただの中年である。
「なにって、倒れたって聞いたから見舞いだよ」
「必要ない。たまたまふらついただけだ。じきに復帰する」
「そうらしいけど、でも……」
「お前の気遣いなど不要だと言ったのだ。戻ってテストを続けろ」
彼らの距離は2メートルほど離れている。立ったままのシンジは無言で父を眺めて眉を寄せた。布団から左腕だけが出ており針とテープが血管に乗っている。胸は規則的に上下しているし、バイタルを知らせる機械の音も一定だ。なんの問題もないと言われたとおりで、やっぱりできることはない。
「うん……」
でも、と戸口に向かおうとした足を止める。一脚だけパイプ椅子が畳まれているのが目についた。誰かくる予定があるのだろうか。相手は副司令かレイか、リツコかもしれない。甲斐甲斐しく世話を焼いている看護師や医者の姿を想像していただけに、ひとり治療に専念する父の姿がとても孤独に思えた。
「なにをしている。お前と話すことはない」
パイプ椅子を広げる音を聞いたのだろう、ゲンドウから言われてもシンジは止めなかった。ベッドまで1メートルの距離に腰かけて、ただじっと父の横顔を見詰める。最初に思ったのは老けたな、という労しさだった。この近さで見たことがないからかもしれないが、記憶にある父よりもずっと皺が深い。もみあげや生え際には少し白髪がある。父が目を閉じているためどんな瞳をしているのかわからない。けれど、目尻や目の下の年輪を見れば年齢以上の苦労を背負っているのが窺えた。腕にしてもそうだ。十四歳の自分と比べるべくもないが、艶や張りは見られない。少し地黒で大人の男の無骨な腕だ。
「父さん、老けたね……前に見たときよりも、ずっと」
ゲンドウからの返事はない。期待して口にしたわけではなく、ただ思ったことを述べただけだ。シンジは目を伏せて言う。まるで墓碑に向かって語りかけるように、独白した。
「司令って、僕が思っている以上にたいへんなんだと思う。あんなのが攻めてくるんだから、きっと総理大臣よりもさ……」
政府や各国が具体的にどのような対応をしているのか、父がどれだけかかわっているのかはわからない。しかし相手はあの使徒なのだ。ただ命じるだけでは勝てないし、命じるからには責任が伴う。人類を守るための大役が双肩にのしかかっているのだ。
「ここへ来たばかりの頃、僕は父さんが苦手だった。恨んでいたのかもしれない。トウジのときだって、停電のときだって……でも、いまは違うのかなって思う。父さんなりにやらなきゃならないこととかあって、優先順位とか、責任とか……」
世界に三人しかいないチルドレンのうち、ネルフ来たとき本部にいたのはレイだけだ。使徒の侵攻を目前に、親子の再会に浸っている場合ではないだろう。ダミーシステムを起動したときにしても息子を守ろうとしたと見ることもできる。停電のときだって、進路相談と使徒の出現どちらが大事かなど考えることすら馬鹿げている。ぶっきらぼうな電話の裏では切羽詰まった事態だったのだ。
「知らなくていいこと、知られたくないこと。たぶん、そういうことなんだって。全部が納得できるわけじゃないけど、でも立場が違うから……ミサトさんとかもそうなんだなって。僕を置いていったことも、きっと……」
なにも語ってくれない父だが各家庭でも親が子に伝えない話はあるだろう。たとえば家計の収支や、進学の費用、親の介護や墓の問題。職を失ったとき子供に言えないというのも耳にした。親の心子知らずという言葉もある。
「いまでも正直、父さんと話すのは怖いよ。でも……やっぱり僕の父さんだから。こうして倒れたって聞いて、無視なんてできなくて……もしなにかあったらって、考えたら……」
ついに肩は震え、涙がぽつりと落ちる。それを呼び水としたかのように彼は嗚咽を漏らした。おおげさだ、気にしすぎだと頭ではわかってても弱った父の姿がどうしても死を強く連想させてしまう。もし目覚めることなく満足な会話もないまま旅立たれてしまったらと胸が苦しくてしかたがなかった。
「ごめん、父さん。僕、ひとりで勝手に考えすぎちゃって。なんのためのお見舞いなんだかわからないよね……」
気丈にしようとしても溢れる涙が抑えられない。レイがいる、アスカや友達がいるからという話ではないのだ。目の前の現実が、たったひとりの〝家族〟を失ってしまう恐怖を与える。
「僕が苦労かけちゃってるけど、でも、早く元気になって欲しい……父さんには……元気に……」
シンジは本心からそう言うと何度も涙をぬぐって立ちあがる。父の手を握るのはまだ難しいけれど、心は同じだった。
「もう、行くね……じゃあ、また……」
もう一度ゲンドウの横顔を見て、戸口へ向かう。椅子はそのままにしておいた。振り返らず、ドアをくぐった。また父をひとりにしてしまったと思いながらも誰か来てくれることを願って医務室をあとにする。
休憩所へ戻った頃、ちょうどテストの開始を告げるアナウンスがあった。レイもアスカもさきに向かっており、彼は急いで着替えると更衣室を出た。すると、通路で壁に寄りかかって腕を組むアスカの姿がある。むすっとした顔をしているが、口調はどこか優しい。
「シンジ、行くわよ」
「ああ、うん……」
ただそれだけのやり取りのために待っていたのか。シンジは赤いプラグスーツ姿に手を引かれるような想いでエヴァの格納庫へ向かった。その間、彼女は振り返ることも言葉を発することもない。
エントリープラグのタラップで中に搭乗しようとしていたレイを見つけて声をかける。彼女は小走りに駆け寄ってきた。目元が赤いから心配させたのかもしれないと思って彼は口角をあげる。
「碇くん……平気?」
「大丈夫だよ。ちょっと感傷的になっちゃっただけだし……父さんもすぐによくなるみたいだから」
とくに返事もないので中へ入ろうとすればレイが片手を軽く握ってくる。プラグスーツ越しでは互いの体温はほとんどわからない。彼女がなにか言うのかと彼は待つが、すぐに手は離された。
「なんでもないわ。行きましょ」
「そうだね」
エントリープラグ内に設置されている前後に並んだ座席。ふたりが腰かけるとLCLの注入がおこなわれ足元からオレンジ色の液体が迫りあがる。肺を液体で満たすという感覚は何度経験しても慣れず、シンジを緊張させた。
「行かないで……」
水面が耳を越えようとしたとき、彼はレイの呟きを聞いた気がしたが水音に阻まれてわからない。聞き返す前にすぐさまミサトから通信が開かれたため勘違いだったかと結論づけた。
エヴァ同士による初の模擬戦となったシミュレーションの結果しだいでは今後の作戦に大きくかかわる。ようやく歩いたり走ったりできるようになったばかりの初号機に勝てるべくもないが、戦力の見極めはとても大切だ。天候は快晴の昼に設定し、各施設は現在の市内をそのまま反映させてある。つまり、兵装ビルがほとんど使用できない状況であらかじめ所持している武器しか使えない。
「シンジ君、レイ。かなりの苦戦が予想されると思うけど、できるだけ操縦に慣れて」
ミサトはマイクを取ると告げた。弐号機は二子山から攻めてくる敵機の役目、初号機はジオフロントの直上を防衛する役目だ。それぞれ武器はスマッシュホークと拳銃、ライフルとナイフを選んでいた。
『はい』
シンジの声だけが返ってくる。レイは無言で集中しているように見えるがどこか覇気が感じられない。そこへアスカの陽気な挑発が飛ぶ。おそらく司令が倒れたことに対し鼓舞しようとしているのだろう。
『いらっしゃいシンジぃ。あたしを倒したら好きなことしていいわよ?』
『好きなことってなんだよ……』
『女に言わせるつもり? でも、あたしが勝ったらアンタを……って、ひとがしゃべってんのに狙撃すんじゃないわよ!』
『いや、いまのは綾波が……』
口上の途中に撃つとは、レイもなかなか掟破りなことをするものだとミサトは片方の眉をあげた。同時シンクロなはずなのにシンジに悟られないよう動いたのは不思議だが、マヤが調整のためのプログラミングで離席しているから詳しくはわからない。訓練に参加したくない口実なのだろうと察するが、あえて言わなかった。
『なぁにがアヤナミがぁ、よ。アンタが手綱をしっかり握んなさい』
『ああ、うん……』
『ファースト? そんなんじゃあたしに掠りも……って、危なっ。いい度胸してんじゃないのよ。足洗って待ってなさい』
『綾波、弾幕で見えないよ。もっと落ち着いて……あとアスカ、違うから』
『おだまり。天に二日なく地に二王なしよ』
『つまり、どういうこと……?』
『あたしが勝つ!』
軽快なやり取りをしているものの、レイはいささか冷静さを欠いてるようだ。見え透いた挑発に対するいなしかたをまだ理解していないのか、それとも本心に捉えて警戒しているのか。前々からシンジが絡むとその傾向はあったが一段と強まったようである。弐号機のすぐ脇に狙撃を着弾させてるあたり、本気が窺えた。声もどことなく剣呑だ。
『碇くん、あのひとが接近する前に移動するわ。私にあわせて』
『りょ、了解っ』
『ライフルを撒きながら電源ソケットの差し替えとP-12への移動、それから……』
『あうえっ、おっ、ちょっ、ちょっ……』
矢継ぎ早なレイの要請に、シンジはあわせるのが精一杯なようである。動きもぎこちなく、路上のバスに足を引っかけ電源ソケットを掴み損ねていた。そこへ弐号機の接近を知らせるアラームが鳴り響く。もちろんアスカの軽口も健在だ。
『へったくそぉ』
『早いっ』
『兵は神速を貴ぶよ』
『えっ、えっと……』
『あたしが勝つ!』
あっと言う間に距離を詰めた弐号機によって、初号機は格闘戦に持ち込まれる。こうなってはもう勝敗が決したも同然だ。シンジたちを翻弄し、いくつものフェイントを混ぜて瞬く間に首筋へ刃を当てていた。シンクロ率の高低差もさることながら、やはりアスカの戦闘能力は卓越している。いままでの戦いで初号機の後塵を拝したのはひとえに彼女の焦燥と慢心からだ。冷静に立ちまわりさえすればこれほどの圧倒的な戦力差を見せる。
「そこまでよ。つぎは場所を変えるわ」
三人に伝えてシミュレーションの地形を市内からジオフロント内へ移した。牛柄の最強使徒が侵入した過去に照らしあわせて充分考えられる状況だ。それに、憂慮すべきことはもうひとつある。量産を開始した各国のエヴァシリーズの用途だ。残り一体と思われる使徒に対し、あまりにも過剰な戦力だろう。非公式におこなわれているとなれば余計に胡散臭い。
「九体を相手に……難しいわね」
考えたくないがもしそうなった場合、絶望的な戦力差だ。いまのままでは確実に負ける。突破口となるような案が欲しい。正攻法ではなく、奇策がないものかと顎の下に手を当てた。通常兵器は役に立たない。エヴァに対抗しえるのはエヴァのみである。たった二機の戦力を限界まで引きあげる方法、それはなにか。パンチをロケットにして飛ばす、エヴァの背中にロケットをつける、足の裏にタイヤを装着する……完成するまで十年はかかりそうだ。
『アンタたち、プラグん中でヤラシイことしてんじゃないでしょーね』
『し、してないよっ。いまもう必死なんだから』
『モニタ切っちゃってさぁ。なにに必死なんだか』
『これは集中するためだって、さっき話したじゃないか』
だんだんと遊びのような声になってくる子供たちの会話を聞いてミサトはマイクに口を近づけた。あれだけギスギスしていたシンジとアスカが仲良くなれたのはとても嬉しいのだが、もう少し緊張感を持ってもらいたい。そう思ったが、ひとつまだ試していない方法が頭に浮かんだ。初号機内のプラグ映像を見て、ニヤリと口角をあげる。マヤは間違いなく嫌悪感を露にするだろう。
「アスカ。あなたの発想に感謝するわ」
きょとんとした顔を返すアスカを見てミサトは緩む頬を抑えきれない。もしシンジとアスカが恋仲だったらさぞかし面白い光景が見られたのだろうが、残念ながら彼女は発案者止まりだ。果たしてどれだけの効果が見込めるのか。これでレイの憂いも減ってくれればいいのだが。そう決めるや否や、強い口調でマヤを呼びつけた。
あるひとは生きものだと恐れた。またあるひとは麓に財宝が眠っていると喜んだ。ほかのひとは神との契約を表すものだと説いた。光の屈折現象は、時代と地域でさまざまな逸話を誕生させる。ただ、どこの世界であっても色は必ず同じだ。紫と赤がもっとも離れた位置に輝くのである。そして間にあるのも水色と決まっていた。
昨晩からあれだけ降っていた雨もあがり、いまは蒸し暑さが戻りつつある。エヴァにさらなる改造を施すとの理由で開放されたチルドレンらはアスカの提案を受けて買いものに向かっていた。
「くぅううっ! やっぱ地上はいいわねぇ」
地上の通用口をくぐり、両腕をまっすぐ天へ伸ばしたアスカが開口一番に言う。シャワーを浴びて生乾きの髪を手櫛で梳いていた。鼻歌交じりで、快活だ。片や、彼女のうしろ2メートルほどを着いて歩くシンジとレイの表情はどこか晴れない。
三人のチルドレンは昼食も取らず訓練に打ち込み十三時をすぎて本部を出ていた。エヴァ同士の対戦は合計五回おこなわれ、そのうち四回をアスカが勝ち取る好成績だ。唯一の敗北は格闘戦へ持ち込んだ際に隙を突かれたことのみである。マウントポジションを取ったあとの見下ろす体勢に彼女は酷く動揺し、シンクロ率を著しく低下させた。原因を知るのは本人とニヤけたミサトだけだ。
かくして、シンジたちは一方的に負けたことを引き摺っていた。そんなふたりを振り返ったアスカは茶化す。彼らはどうして気持ちまで湿度とシンクロするのか。
「アンタたち顔暗すぎよ。こんな天気いいのに……あ、虹だ」
虹と言えば、とアスカは七十数年前のミュージカル映画で歌われた劇中歌を口ずさむ。曲名はシンジと初めて逢った空母の艦名でもある。青い鳥は飛んでゆけたのに、自分にはできなかった。知恵はあっても勇気や優しさがなかったのだ。だが彼女は悲観的にならず、くるりと前を向くと力強く三歩踏み出した。
そんな彼女のうしろ姿にシンジは目を細める。栗色の頭髪がまるで麦藁のようだ。流れてくる歌声に耳を傾ければとても優しい。少し鼻にかかってるけれど、それが逆に可愛らしかった。
「僕のほうからでいいんだよね?」
アスカが見繕うと言ったことに多少の不安はあるもののちょうどいい機会だ。レイと買い揃えて生活に彩りを添えたい。男性用の服は女子ほど多様でもないのですぐに終わるだろう。
「あらシンジ、女装してみる?」
頭のてっぺんから足の爪先までじっと見たあとアスカはケタケタと笑った。そうくると思っていたとシンジは膨れっ面になる。ここへ来たばかりの頃、マヤにも女の子みたいと言われたのを気にしていた。カツラとかスカートとか本当に勘弁して欲しい。
「綾波もいろいろあったらいいよ」
「ええそうね」
家を出たときから元気のないレイに話を振った。アスカの手前、繋いだ手を胸に抱きはしないものの手の力は今朝より強い。やはり寝起きの行為で疲れているのか、それとも模擬戦の結果に落ち込んでいるのだろうか。悩みをしっかり聞いてあげたいと思う反面、どこか躊躇してまう自分がいた。
徒歩で町の中心地へ向かう。疎開が進んでいても営業しているところはある。先日の家具屋と同じく身軽になるため売り尽してしまおうと考える店は多い。商店街にはトラックが何台も横づけされ、せわしなく出荷作業に追われている光景がそこかしこで見られた。
ファストフードで軽い食事を取って、参考までにとスーパーを覗くが物流が滞りがちな第三新東京市では生鮮食料品の数が目に見えて少なくなっており、日持ちするものくらいしか手に入らない。せっかく炊飯器を買ったのに自炊もままならなくなってきたかとシンジは落胆した。
「ここのお店はやってるじゃない」
アスカが躊躇なく入ったのは有名ブランドの路面店だ。こんな店がどうして箱根なんぞにあるのかとシンジは訝しがったが、この町を作るときに結構な額の金とひとが動いたから出店したのだろうと言う彼女の説明に納得した。動きのある場所を選ぶのは商売の鉄則だ。ましてや昼夜を問わず至るところで無数の工事をおこなっているこの町では金を稼ぐ手段が多い反面、忙殺されて使う機会は少ない。たまの休日に散財したいと思うのはひとの常であった。
「ええっ、そんなに買うの?」
「いいから、さっさと試着室行きなさい」
あらかじめプランを決めてあったのか、アスカは光の速さでシンジの服を選ぶ。カーゴパンツは膝下丈、腰パンは最悪、買いもの帰りの主婦みたいな男のトートバッグはありえないなどと息巻いて気づいたら配送するほどの量だ。しかも支払いまで済ませてシンジがなにか言おうものなら舌打ちが返ってくる。単品買いは愚の骨頂と力説され、トータルコディネイトに着替えさせられた彼は満面の笑顔で深々と頭をさげる店員に見送られながら退店した。
「あの、アスカ……ありがとう」
「いいってことよ。ま、お返しは車の一台で勘弁してあげるわ」
やはり裏があったようだとシンジは困り顔である。支給されているネルフのIDカードによる買いものがどこまで使えるのか知らない彼は、出世払いか手料理でごまかそうかと考えていた。
そして、つぎにやってくるのは女性用のブランド店だ。アスカ曰く、高級品が欲しいのではなくセンスがよくてレアなものが大事だと言う。街中でばったり同じ服装と遭遇するなどあってはいけないらしい。もちろん、一点ものなんて普通は存在しないからある程度はしかたがないが、なるべく自分の個性を出したいとのことだった。そんな高説を耳にしながらシンジは恋人の服を選ぶという一大イベントに、あれこれと商品を手に取る。
「綾波、これなんかどう?」
「ごめんなさい。私そういうのわからないから碇くんが選んで」
ファッション雑誌を熱心に読んでいたのにとシンジは思うものの、さりとて彼もまだ疎いから偉そうなことは口にできない。それでも自信がないなりにハンガーにかかった服をレイへあてがっては唸り、唸ってはまたあてがった。
「Tシャツって感じしないしなぁ。綾波のイメージってやっぱりYシャツとスカートかな……」
「私の、イメージ?」
「まぁなんとなくだよ。たぶんいま着てる制服しか見たことないからかもしれないね。案外、アスカみたいな短パンとかいいのかな……ってかアスカ、試着しすぎじゃない?」
「さっきたくさん手に持ってたわ」
次々と試着しているアスカを横目にシンジはレイの服を選ぶ。彼女は鏡に映る自身よりも彼の表情にこそ注目していた。眉を寄せる、首を捻る、少し遠くに身体を引いて目線で全身を撫でる。鼻の穴を広げてごくりと唾を飲み込む、目を細めるといった百面相を見ていると胸が温かい。胸元と尻、太ももへの視線はとくに熱心だから顔も熱くなってくるし鼓動も高鳴った。恥ずかしさと嬉しさが同居してもじもじしてしまう。
「もう少し横を向いてもらえる?」
「こう?」
「ほほう……」
「どうしたの?」
そう返されてもシンジは詳細に伝えられない。男性の嗜好はひとによりけりだが彼は極端な露出よりも着衣と姿勢に重点を置いていた。アキレス腱から脹脛にかけてのS字カーブ、太ももを横から見たときの曲線である大腿四等筋、タイトなスカートが形作る卵のような尻と下着の線。襟から覗く鎖骨、狭い袖口から溢れる柔らかそうな二の腕など、口に出してしまえばきっと意識するだろう。それは不自然な動きに繋がるのだ。落ちたものを拾うとき、高いものを取ろうとするとき、座る動作ひとつ取っても女性は美しさの塊である。アスカもそうだが、レイはさらに輪をかけてあらゆる瞬間が写真集のひとコマを彷彿とさせた。
「ちょっとこう、片脚重心になってみて。コントラポストって言うんだけどね」
「こう?」
「おおう……あ、ごめん。変な声が出ちゃった」
「とても嬉しそうね」
「スカートがいいよね。チェック柄で膝丈で……うん、靴も欲しいな。あ、ワンピースもあるみたいだから試着とかどうかな?」
「ええ、試してみるわ」
裸体を見てても服のシルエットはべつものだ。とりわけレイはあまりにも美形なためズボンの丈がしばしば足りない。制服姿だとわかりづらいが、脚を出せば明白だった。そして彼女のラインをもっとも豊かに見せるのはプラグスーツだと彼は感じている。
「プラグスーツって、エロいよね……うん」
「それは、性的な魅力を覚えているということ?」
「前々から感じてて、きみのことをね……いや、うん。ごめん……」
「そう……なの? でも謝らないで」
「うん、ごめん……」
だいたいあの素材がいけないと思う。ぴちっとしてて艶があって、それでいてそこまで分厚くないから裸とあまり変わらない。子宮のあたりの膨らみとか、太ももの内側の膨らみとか、尻から背中にかけての曲線とかがやたらと強調される。細身な彼女だが生地の厚みによって薄皮何枚分かむっちりとするのがまたたまらない。いつか暴走して触ってしまいそうだ。
そんなレイは結局、どのような服を選んでもらったのか頭にないまま試着をし、シンジへ披露する。彼は驚きと照れを浮かべて平凡な賞賛を送り、彼女も自身の変化に納得した。そこへかかるのは試着を終えたアスカの声だ。
「これ、シンジが選んだの?」
「僕も自信ないんだけど、どうかなって……」
「悪くないんじゃない? アンタにしては上出来だけど、シャツとスカートばっかじゃない」
「やっぱそっかぁ……偏っちゃうよね」
困ったように頬を掻くシンジへアスカの高説が始まる。ファッションとは変化を楽しむものなのだから、もっと突き抜けたほうがいい。レイの肌が白くて髪が青いからとなんでもそこばかりにあわせるのは短絡だし面白みがまるでないと言う。
「いい? シンジ。オシャレってぇのはね、鮮度が大事なのよ。あとは拡張性ね。いかに組みあわせられんのかも考えないと際限なく買うハメになるわ」
「際限なく、ねぇ……あんなに持ってたけど?」
「あれの半分は部屋着よ。それに、越したとき古着屋に売ったからかなり減ったわ」
そんなアドバイスのもと、レイの服がまた選ばれては着せ替えする。かれこれ二時間もそうしているうちに数点の服が決まり会計となるのだが、驚いたことにアスカはまたもや配送するほど買ったと言う。いつの間にか隣の店で下着までまとめ買いだ。かなりの散財っぷりにシンジは心配そうに眉を顰めた。
「アスカはそんなに買って、お金って平気なの?」
「ハア? 使い切れないわよ。知らなかったの? あたしたち、この町どころか国内でも有数の資産家よ?」
「きっと多いだろうってことはわかってたけど、そんなに?」
「あったり前じゃない。誰が人類守ってんのよ。総理大臣なんかメじゃないわ」
エヴァのパイロットであるシンジたちの給料は月給ではない。買いものの支払いは原則として専用のカードと生体認証でおこなわれ、パイロットの職務を降りた際にそこから使用分が天引きされるしくみだ。そして世界的にも極めて希少な彼らの満額報酬はとんでもないほどの高額である。保安上の理由と健全な心身のため詳細な金額は伏せられ大金を持たせないようにしているが、よほど高価な品物を購入しない限り事前の申請は必要なかった。
「そうなのか……でも僕こんな高い店に来たことないから尻ごみしちゃうよ」
堂々と入店していたアスカと比べ、シンジは萎縮していた。取って食われるのではないかというほど店員の視線に怯え、なにか声をかけられたらどうしようかと通路の真ん中さえ歩けなかったほどだ。いまだって深々と頭をさげる店員に恐縮しきりである。そんな彼へアスカは店を出るなりくるりと振り向いては人差し指を突きつける。片手を腰に当てて、よく見るしぐさだ。
「アンタバカぁ? お金持ちが使わないでどーすんのよ。いい? この国も世界中もいまだセカンドインパクトの復興中なワケ。経済だってボロボロよ。だったら持ってる人間が使うのが世の中のためになるってぇもんじゃない」
「経済……ああ、お店に貢献するって意味か」
「そーゆーこと。溜め込んでもらってちゃ逆に困るのよ。だからスーパーでせこせこ特売品を買うんじゃなくて、どーんと特上の食材を選びなさい。戦いが終わったら豪邸建てて、優雅に暮らすの。それが象徴にもなるのよ? 平和になったんだ、ってね」
「考えたこともなかったよ」
アスカはヘリコプターだの船だのと熱く語った。シンジとしては世界を救うヒーローの自覚なんてほとんどなかったが、周囲はそう見ない。平和になっても彼らが地味な生活をしていればネルフや国連が吊るしあげられてしまう。日陰の日常を歩いてきた彼は、エヴァや使徒などというおよそ空想の産物としか思えないようなできごとが矢継ぎ早に訪れたがいい加減自覚を持たなければいけないと思った。
「さて、と。ちょっと休憩しましょ。あそこにちょうど公園があるわ」
顎で指し示したアスカに促されてひと息つくことになったシンジたち。水瓶のひとつ増えた芦ノ湖が見渡せる、テラス状の美景な公園だ。時刻が十六時をまわっているから少しずつ空が茜色になっている。眼前に広がる戦いの跡。変わってしまったもの、変わらないものがそこにはあった。
「救世主、か……この景色見ても実感ないよ。むしろ罪悪感のほうが強い」
三人で並んでベンチに腰かけて夕日を浴びる。雨あがりの影響でそこまで暑くはない。シンジにとっては見知らぬ誰かのために戦うというよりも、やはりレイがいてアスカが元気であるほうがなによりも大切だ。
「アンタはそういうヤツよね。いまさらそこにとやかく言うつもりはないけどさ」
「怪獣映画でも正義の巨人が足元の住人を踏みつぶしたなんて描写、ないもんね。当たり前だけど、現実は違うんだなって……」
しばらくそうやってぼうっとしていた彼らだが、アスカは唐突に鞄を探るとデジカメを取り出した。じつのところ、今日は遊園地にでも行こうと思っていたのだ。ただやはりというべきか、大きな遊戯施設を抱えていればまっさきに休園するのは当然であった。
「天気もいいし、ちょっと写真撮りましょ」
「また急だね」
「べつにいいじゃない。日本に来たときかなり撮ったんだけど、まだメモリ残ってるからさ。さあ、細かいこと気にしてないで笑顔の準備しときなさい。ファーストも」
小鼻を膨らませたアスカは柵にカメラを置くと、タイマーをセットする。十秒の余裕があってもつい小走りになってしまうのは誰にでもあることだ。きゃっきゃと嬉しそうにはしゃいでは駆け戻り、勢いに乗じてシンジの腕を絡め取った。胸の高鳴りや顔の熱さを強気で封じる。
「あっ、ちょっ……アスカ、胸っ、胸っ!」
「この前触ったのにいまさら?」
「で、でもあれはその……」
「ヘンな距離があったら不自然でしょ。いいから、だらしない顔になる前にしゃんとなさい」
アスカは顔を並べるように身を寄せる。そんな様子を彼の隣で見ていたレイも、同じように彼の腕を絡めると身を寄せた。ただし胸を押しつけるところまでは考えがおよばず、IDカード以外で初めてになるカメラへ目線を送る。
「綾波まで、もうっ」
「私の身体いつも触ってるわ」
「くっ、ファースト……なんてこと言うの」
少女ふたりに抱えられればシンジも紳士ではいられない。シャンプーの香りが鼻先を掠めればどうしても頬は緩んでしまう。キリリとしなければいけないと顔に力を入れようとしたところでシャッターは落ちた。
「も、もうシャッター落ちたよ、ねぇ……ふたりとも」
「そう? よくわからないわ」
「あたしもわかんないわ~。ほれほれ、シンジぃ、この柔らかさどうよ、どうなのよ?」
アスカのデジカメにはシャッターが連続して落ちる機能がある。シンジはふたりの少女が引っ張りあうようにして身を寄せる姿に赤面し、顔を右にやるべきか左にやるべきかと泳がせ天を仰ぐ。口角はさがり、破顔した。両腕を抱きかかえられれば自然と手は彼女たちの太ももにゆくわけで、不可抗力と心に言いわけしつつも質感に喜んだ。
「むふっ」
「碇くん……」
「やんっ、えっちぃ」
「こ、これは違うよ? 違うからね?」
「もっと触ってもいいのに……」
「あ、あたしだって。ほれ、ほれ、ほれほれ」
アスカはシャッターが止まっているのを知ってもなお、シンジをからかい動揺する彼の姿にケタケタと笑い声をあげた。レイも彼女に釣られるようにして頬を緩ませ笑みを浮かべる。そうやって彼がおもちゃにされることしばし、ひと息ついたアスカが目尻の涙をぬぐって言う。
「あー、笑ったわ。あたし喉渇いたからシンジなんか買ってきて。それとデジカメの現像もね」
「ええっ、僕が?」
「当たり前じゃない。それにアンタだってクールダウンが必要なんじゃないの? シンジくぅん」
「そ、そんなことないから」
見透かされてしぶしぶベンチを立つと公園をあとにする。レイが彼のあとに続こうとするものの平気だよと返されて任せることにした。残されたのはふたりの少女で、彼が座っていた隙間をそのままに無言の時間が到来する。アスカは両脚をぶらつかせ、伸びをしてはちらちらと隣のレイを窺った。片やレイは少し俯きぎみにしており地面のタイルを眺めている。
「アンタさ、変わったって思ったけど……前とそんなに違わないわね」
たっぷり五分以上の時間をかけてからアスカは口を開く。シンジに現像を頼んだのも、この機会を作り出すための方便だった。写真ができあがるまで三十分、飲みものが売っているコンビニは写真屋から五分、往復を含めれば一時間近く帰って来ない。道中にそれらを計算した上でレイに問わねばならなかった。
「どういう意味?」
「そのまんまよ。自爆する前といまじゃ、たいして変わんないわ。少しは表情に変化あるけど、それくらいね」
アスカは落ち着いた口調で語りかけている。ふたりが恋人になったと聞いて驚いたしレイが頬を染めたのには面食らったものだが、前からシンジのことになると感情を露にしていたただけに延長線上でしかない。
「髪だって服だって変わったわ」
「それだってシンジに言われたからでしょ? いまボサボサじゃない。あたしが使ったコンディショナー勧められてブローしてもらって、服だってシンジがいいって言うから決めただけ。あたしが選んだのなんか見向きもしなかったじゃない。好みじゃないとは言わせないわよ」
咎めるような含みを持たせて隣を見るが、レイはタイルを見詰めて少しも顔を向けてこない。両脚を揃え、両手も膝の上に置かれて背筋よく座っている。いつもどおりと言えばそうだが、服も制服のままだった。
「よくわからないから……碇くんなら知ってると思って」
「雑誌読んでたのに? あたしの服だって観察してたじゃない。そんなの誰だって最初は適当よ。だんだんと覚えてゆくものなの。でもアンタは、せっかくアイツが選んだものだっていま着てないわ」
アスカは購入したうちの一着ぶんに着替えていた。ブラックデニムのショートパンツにぴったりとした赤いTシャツだ。胸元がゆったりしているのはわけあってのことである。
「それは……またべつの日に」
「ふんっ。いま着ないでいつ着るのよ。明日死ぬかもしれないのに」
なにも悲観的なことを言いたいのではない。ただレイを見ているとどうにも違和感を抱かずにはいられなかった。雑誌を読む姿、ページの端を折るしぐさ、整った髪形、シンジを見詰める視線など枚挙に暇がない。なにより彼も食堂で独白していたのだ。釈然としない想いを胸にして無言なレイへ畳みかけた。
「アンタさ、自分ってもんがないじゃない。全部アイツの言いなり。そりゃあネルフの地下にいたから外のことなんてわかんないでしょうよ。アンタの生まれに同情もするわ。世界中探したってアンタ以上のひとなんていないもんね」
感情表現が希薄なのも彼女に接した大人が喜怒哀楽を示さなかったのだと想像がつく。絵本を読んだりアニメを見たり、遊戯をするような経験もなかっただろう。不幸だと思うし気の毒に違いはない。だが、いまのレイはどうだろうかとアスカは考える。ふたりは恋人になったしセックスもした。そこに本当の意味はあるのかと。
「なんでシンジと一緒にいるワケ? どこが好きになったの? あたし、そこがよくわかんない。セックスが気持ちよかったから? 自分を見てくれるから?」
「それは……」
「答えらんないでしょ? ええ、それも間違いじゃないわ、たぶんね。でももっと根本的なことがあんのよ、普通は。あたしもたしかにアンタと似た部分はあるけど、でも決して言いなりなんかじゃない」
思春期だから性欲が旺盛なのは認める。きっと彼と結ばれればもっと満たされるだろう。しかし、それだけではない。
「前にあたしが言ったこと覚えてる? 司令が死ねって言ったらって話。言葉は乱暴だったけど、でも意味は同じよ。いまのアンタはあんときと同じ、シンジに依存しきってる」
レイの白い手がぎゅっと握られているのを認めてさらに責める。なにも罵倒したくてこんな話を持ち出したのではない。同じ女として納得も許すこともできないのだ。
「持ち主が代わっただけの人形よ。アンタは司令よりシンジが心地よかったから乗り換えたってだけ」
「違うわ……」
「ならなんでお見舞いに行かなかったの? あんだけ気にかけてもらってさ、息子差し置いて食事するようなひとよ? それでも司令が倒れたって聞いて、アイツ血相変えてたわ。あんなに苦手だったのに、帰ってきたとき目が赤かったの気づいたでしょ? ゲンキンな女ね」
「そんなこと……ない」
レイの手はいよいよ震えている。横顔を見れば頬にかかる髪の間から下唇を噛む姿があった。アスカは自分の言葉がいかに残酷で暴力的なのかを知っている。それでも、シンジが言わないからこそ伝えなければならない。
「このまんまじゃシンジ、つぶれるわよ?」
「碇くん……が?」
「当たり前でしょうが。あたしだってそんな男はまっぴらよ。なにもかも決めてあげなきゃいけないなんて、誰が喜ぶのよ。着せ替え人形と変わらないじゃない」
「私……」
驚きの顔を向けてきたレイへ、蔑むような視線を投げる。初めのうちはいいだろう。控えめな彼女に守ってあげたい、世話を焼きたいと思うかもしれない。けれど、なにをするにもいちいち聞かれては自分で考えろと言いたくなるに決まっている。
「さっきも言ったけど、アンタには同情する。すぐにどうこうも難しいのは理解しているわ。でもね、アンタはなんでシンジを選んだの? どうしたいの?」
「私は碇くんと一緒に……」
「ンなこたぁわかってるわよ。そのさきよ。あたしだって好きなひとと一緒にいたいわ。セックスだけしてれば満足なのかってぇ聞いてんのよ」
レイの胸にアスカの言葉が無数の槍となって刺さる。身体だけ、温かさだけを欲していたのかと。好きと言った、愛していると言ったのは虚構だったのか。自分がなにを求めていたのかわからなくなってくる。考えが纏まらないところへ言葉は続いた。
「アンタはね、ひとのマネをしているだけなの。雑誌も服も、食べものも。そこにアンタ自身の欲が見えないのよ。だから人形だって言ったの、前もいまも」
「私は……人形、じゃない」
「自分さえごまかせない嘘はつくもんじゃないわ。それに、たとえだってことくらいわかるでしょ? アンタは人間よ、れっきとしたね。出自がどうのなんて正直あたしにはわかんないし、どうだっていいわ。でもね、たとえひとから産まれたとしても自分の意思がなければ、ひとのマネをする人形でしかないのよ」
「でも、私は彼と……」
「ふんっ。この国の結婚は何歳からで、あたしたちは何歳だっけ? あと四年もの間、アイツが耐えられるかしらね?」
「私は彼の、負担……」
自分の求める心がシンジを傷つけ、苦しめてしまう可能性にレイは恐怖した。さっと全身の血の気が引いて鼓動が早くなる。思考をしたくとも判断できる材料が足りない。
「せいぜい顔だか手だか洗って待ってなさい。いまは見逃すけど、戦いが終わったらあたしの本気ってヤツを見せてやるわ」
レイがかなり動揺しているのは揺れる赤い瞳を見ればわかる。言葉を失い、唇は言葉を紡ごうと震えていた。それでも返せないと悟り、目に涙が浮かぶ。そんな態度に声を大きくした。
「ハンっ。そうやってシンジに甘えるつもり? 女の涙ってぇのはね、使いどころが重要なのよ。赤ん坊じゃあるまいし、四六時中泣いてオシメでも交換してもらうつもりかしら?」
「くっ……」
レイは肩を震わせ、泣くまいと堪える。多くの感情が心に溢れ、どうすることもできない。シンジに早く逢いたいのに戻ってくるまでもう少しの時間が欲しかった。
結局、彼が戻ってきたのは彼女が落ち着いた頃だった。アスカはなにごともなかったかのように彼を遅いと罵倒し、ジュースが好みではないと愚痴る。せっかく現像した写真が一枚ずつしかないとぼやき、帰りに焼き増ししろと命じた。
「シンジ。クールダウンは済んだかしら?」
「べ、べつに平気だから」
「顔まっ赤にしちゃって。ぷくくっ」
「ちぇっ。ちょっとくらい可愛いからって調子に乗るなよな」
「な、な、なに言ってんの。アンタ、バッカじゃないの!」
「自分だって顔まっ赤にしてさぁ」
「こっ、これは夕日のせいでしょーが」
そんなふたりの応酬をレイは遠い眼差しで見詰める。彼と手は繋がっているのに、とても無機質な感じがした。アスカと本部の入り口で別れスーパーに寄る道すがらシンジから今夜のメニューについて問われるものの、答えの出ない自分に戦慄する。かろうじて栄養のバランス、と返すことでシンジが献立を考えた。ふたりで歩くのが楽しいはずなのに、顔が石膏のように強張ってしまう。
帰宅してシャワーを浴び、食事を取ってもゆうべのように心が寒かった。ベッドの上では着ないと思っていたトレーナーを上下に、レイはシンジへ背を向ける。心の中でさまざまな感情が渦巻いても彼に相談できない。
「ごめんなさい。今日は疲れてるから寝ようと思うの」
「いやいいんだよ。僕もその……手癖が悪いと言うか」
「そんな……」
「これならいい、かな……?」
彼はブローした髪を撫でながら腰元へ腕をまわしてくる。彼女に払いのける勇気はない。初めてついた嘘、心地いい体温、頬で受け止めた就寝のキス。頭の隅に浮かぶのはかつてゲンドウが小さく呟いた人名だ。一度湧きあがった不安という名の推察は瞬く間に拡大し、全身に冷たい汗が這う。呼吸は浅くなり、目を閉じられない。どんなに否定したくともアスカに言われたことが肯定となってしまう。
「碇くん……起きてる?」
助けを求めて背中の彼を呼ぶ。こんなにも包まれているのに声も身体も震えが止まらない。血の気が引いて、頭が混乱した。愛している、ここにいてとシンジの声が聞きたいのに返ってくるのは安らかな寝息だけだ。髪を撫でる手は、もうだいぶ前から止まっている。優しい声も、熱いキスも、抱かれることもできなかった。