第弐拾参話、七日目

天井はもとより四方を打ちっぱなしのコンクリートで囲まれた一室には多数の機器が備えつけれており、いくつもの光と音を放っていた。機器からコンピュータにコードが伸び、詳細な分析データが送られる。コンピュータのキーボードを叩くのは過剰労働に目の下の隈を濃くするマヤだ。彼女の隣には栄養ドリンクの瓶が転がっており、かじりかけの固形食糧が乾いている。普段は飲まないブラックのコーヒーまで用意しているが砂糖を入れすぎてあまり手をつけていない。

「DNAに変異はなし……脳の活動領域が広まっているけれど、誤差の可能性か」

ひとりごつて複数のモニタを確認する。細かい数字が踊るように見えるから視力の低下が著しい。慢性的な目眩(めまい)と肩こりがあるものの、それでも敬愛する上司より作業量は少ないのだから泣き言は口にできない。さりとて聞かれる心配のない本部の最深部であれば愚痴のひとつも出るというものである。

「だいたい、新しくなったばかりなのに変化なんてあるわけないじゃないの」

ふうっとひと息ついて椅子の背もたれに寄りかかった。マグカップに手を伸ばして逡巡するが、結局コーヒーを口に含む。牛乳を用意しなかった迂闊さに何度目かの後悔をした。

「先輩、まだ帰らないのかな……」

もし隣にリツコがいたなら疲労なんて感じることなく作業に没頭できたかもしれないのに。そんな百合(ゆり)色の想いとともにまた息を吐いた。凛とした居住まいながら醸し出される大人の色気。童顔で十代に見られるときもあるマヤにとって白衣の上司は羨望の(まと)だ。逆に言えば、同年代の男にはまったく興味が湧かなかった。オペレータのふたりは言うにおよばず、同期に入ったイケメンと言われる同僚からの誘いにも喜びを感じない。

彼女は決して不女(ぶおんな)というわけではないのだが、学生時代の友人たちが派手な容姿をしていたというのもありあまり異性の目を惹かなかった。どこか地味で影が薄いと噂されれば、ただでさえ勉学にストイックだったマヤはますます恋愛と距離を置くようになる。成人してもメリハリに乏しい身体というのも余計に彼女を拗らせる要因だった。本来であればリツコに対しても嫉妬を向けていたかもしれない。しかし天才とさえ言わしめるほどの明晰な頭脳と端麗な容姿、あらゆる所作がマヤを魅了した。自分にはないからこそ投影し、ともにいれば同じ高みへ至れると錯覚する。羨望は憧憬に変わり、やがて恋慕となった。一時期はそんな自分を否定したが使徒の襲来という極限状況がさらに彼女の背中を後押しする。リツコにこそ自分の初めてを捧げたい、とまで妄想するようになった。

「駄目よ、私。もっとしっかりしないと。手が止まってるわ」

リツコの口調をまねて作業を再開する。彼女が背を向けているベッドの上には下着姿のレイの姿があった。目を閉じて、いくつもの電極がつけられた状態のままじっと横になっている。午前中にアスカとの模擬戦をおこない、昼食を挟んでの検査だ。レイのシンクロ率が定まらないため振幅が非常に大きく調整に難儀していたところゲンドウから検査の指示があった。過去のデータと比較して些細な変化でも報告せよとのことだったが、マヤはあるはずがないと決めてかかっている。二人目のときもそのような事例はなかったし、三人目の移行にしても問題がないのを何度も確認しているのだ。先日は気の迷い、疲れであると自分に納得して封じたのに至上命令とあっては断れない。複座と初号機の調整はほかのスタッフに任せてレイの検診に当たった。

「レイちゃん、なにか身体に違和感とか不調はない?」

マヤはレイに対して〝ちゃん〟づけで呼ぶようにしている。これはレイの秘密を知る彼女が自身の心を守るための防壁だ。少しでも女の子らしく、ひとらしく接したいと努めて明るい口調を用いるし表情も和ませるようにしている。実験動物のような扱い、およそひとでは考えられないような特異な肉体の構造、感情の片鱗さえ窺えない。司令はおろか、リツコでさえなんの罪悪感も慈悲もないかのような接しかた。人道などという言葉がまったくの無価値である組織において自分だけはという良心である。

だが、マヤは自分こそがもっともレイを〝そういった〟目で見ている事実に気づいていない。ひとではない、ひとに似せた精巧な人形であると認識しているがゆえに人形遊びよろしくことさら親しげに接しているのを。名前をただしく呼ばない態度こそ、彼女の心の距離感そのものだった。

期待どおりレイは問いに対して無言で頷く。いままで何度も繰り返されてきた業務。それこそマギに自己診断をさせて〝問題なし〟と表示されるのと変わらない。そこに私見などというものはいっさい挟まれないのだ。あくまでもデジタルに、端的に、是か非か、それだけである。だからマヤはこのときも相手からそれ以上の言葉が来ないとばかり思っていた。入力を促すカーソルが点滅しても端末からの質問などありえないのだ。ゆえに、レイの口が開かれ飛び出した言葉は激しく動揺させた。

「ただ……心が重苦しくなります。結果はわかっているのに原因がわからない……どうすればいいのかも」

嘘だ、ありえないと否定する。どんなときでも沈着冷静に命令をこなし、感情などほとんど不動なはずのレイに限ってそんなロジカルな思考をするわけがないと。さきの模擬戦の際に見せた不審な挙動に関しても記憶の定着に時間がかかっているだけだとばかり思っていた。前の身体のときにどこかで見聞きしたことを混同しているだけだと。

「心って……記憶の間違いではなくて?」

内心を押し殺して、それこそリツコのようにクールな声を装った。もうこれ以上、人間的な反応を見せて欲しくないという願望に近かった。レイは目蓋を開くと、首を向けてくる。形の綺麗な眉が少し寄り、焦点は微妙にあっていない。

「いいえ。惣流さんにも言われました」
「アスカに?」

レイの赤い瞳を見て動揺した。アスカの名前を苗字で呼んだのもそうだが、なにより彼女の表情は明らかに憂いを帯びているのだ。心なしか呼吸も浅く、下唇まで噛んでいる。

「碇くんは肯定してくれましたが、惣流さんには勘違いではないかと問われました。私は自分の気持ちがわからない……間違いないと確信していたはずなのに、自信が持てないんです」
「あの、それは……」
「伊吹二尉は、誰かを好きになったことがありますか?」
「私は……」

言葉を濁してレイから目を逸らした。マヤの中の倫理観が、防壁が攻撃される。ありえない、あってはいけないと言い聞かせて心に武装を施す。けれど、モニタに映し出されているレイの心理グラフははっきりと乱れを表していた。複座のときも見られたものだが本来想定されていないシンジとの同時シンクロがおよぼしているだけで、むしろ彼の心理がノイズとして混じっていると推察していた。だがいまは違う。電極はレイにしかついていないのだ。質問の内容とグラフというふたつの情報だけでも冷静さを欠くのに、あろうことかレイはとんでもないことまで訊いてくる。

「誰かの身体を求めてしまうことは、ありますか?」
「嘘よっ!」

悲鳴をあげていた。両目をきつく閉じ、レイもモニタも見まいとする。もうやめて、これ以上は聞きたくないと心に蓋をしようとするが、レイから気遣うような言葉が加われば閉じることは叶わない。

「済みません、失礼な質問でした」

他人に関心を示したことなどないとマヤは述懐する。せいぜいあるとすればヤシマ作戦以降にシンジへ向ける視線が増えたくらいだろうか。それがまさか恋慕に繋がるなどありえない、あってはいけない。レイはあくまでも人形でいてもらわなければ困るのだ。ひととして認めてしまえば自身がおこなってきた実験の数々に心が到底耐えられないのだ。ダミープラグ、複数の身体、健康診断ではなくメンテナンス。

「私を、私を罰するつもり? あなたは私たちのやってきたことを……」

レイに深くかかわるようになってリツコから教えられた機密がある。神にも等しい白い巨人より彼女は造られた、と。外見が碇ユイの形質を模しててもその本質は人類の始祖であるとも。信心深くないマヤであってもこれだけのものに携わっていればリツコが決して比喩や法螺(ほら)を言っていないのはわかる。だから自身に暗示をかけてきた。レイは神の分身ではなくひとの姿をした人形であり、なんら罰を受ける恐れはないと。

「罰、ですか? 質問の意味がわからないのですが……」
「嘘っ、嘘っ! そうやって試してるんだわ。ええそうよ、私はあなたを弄んだ。だから罰を受けるのは当然よ……」

目に涙を溜める。両手を握り締めてなんとか堪えようとした。だが身体はガタガタと音が鳴りそうなほどに震え、なにを言っていいのかわからない。ここから逃げたいと必死になって経路を脳内検索する。いや、ここでレイを殺せばもう新しい身体はないから罰せられるはずもないと考えて白い巨人の姿が浮かぶ。さっと血の気が引いて膝から崩れ落ちると嗚咽(おえつ)を漏らした。

「私はただ知りたかっただけです。自分の心と身体のことを……」
「もう……もう、やめて……お願い。許して、ください……神さま……」

恐ろしさのあまりレイを見られない。宗派など考えずひたすら両手をあわせて懺悔した。唇は力なく震え、顔面はまっ青だ。もう彼女に防壁は存在せず虚勢を張る力も残されていなかった。だが、レイの独白にも似た質問は止まらない。

「私は、まがいものなのでしょうか? ひとのまねをする、人形なのでしょうか?」
「そんなの……私が……答えられるわけ……」
「ユイ……と、司令は私に言ってました。私はユイというひとの、ダミーなのでしょうか?」
「違うっ……そんな、存在ではないのよ……」

面貌こそひとの形を継承しているが、身体は違う。穀物が主食の日本人らしからぬ短くくびれた胴と長い手脚。虫歯のない綺麗な歯並び。乳房の大きさから骨格、外性器までほとんど左右対称な二次性徴。フェロモンの放散に関連するとされる腋や陰部に発毛がないのは(つが)う相手を必要としないからか。円筒形のバックアップ容器でLCLにたゆたう彼女の肢体を初めて目にしたとき官能と芸術を覚えたほどの美形だ。神の手による作品を彷彿とさせながら、女の性を有しているのはなにを意味するのか。

「だから私は碇くんを求めるのでしょうか?」
「関係ないって、言ってるじゃない!」

レイ本人に教えていない出生でもゲンドウと交流するうちに気づいたのかもしれない。シンジの母であるユイの記憶のバックアップなど取られていないし、レイの〝心〟になんら影響を与えていないのはとうの昔に確定している。だが、それを告げてどうなるというのか。いまさら自分たちの罪が許されるわけがないのだ。

「機能しないのに……まがいものなのに……私の心と身体は碇くんを求めてしまいます。いけないことだってわかってても、抑えられないんです。やはり、私にひとのしあわせは望めないのでしょうか?」

耳を塞ぎたいのにレイの言葉が侵食してくる。そして科学者としての思考が検診の最初におこなった検査結果を思い起こさせた。あまりにも信じられなくて、繰り返し採取したレイの膣分泌液の成分だ。膣も子宮も内外性器はすべて正常に備わっているのに排卵だけが起こらないのは実証されているし、誘発剤などで効果が見られないのも知っている。月経はもとより、妊娠が不可能なのはレイの構造というより起源に由来するものだとリツコから聞いた。生殖を目的とした性行為も無意味であると。なにかとこだわりを見せるゲンドウでさえ神に触れず、レイの処女膜は神性を保つようにずっと健在だった。ところが今日、分泌液に精液が混じっていたのだ。遺伝子解析でそれがシンジのものだとすぐに判明し、愕然とした。レイには問えなかった。訊いてしまえば彼女をひとりの女として認めてしまう。ゆえに、シンジが人形遊びに興じただけだと無理に納得した。彼がレイの家を訪問したのは保安部の報告にもあったから、おおかた劣情に駆られて押し倒したのだと。

だが、いま耳にした言葉はそれを覆している。求めたのはレイのほうだったと、彼女は言っているのだ。事実、膣は繰り返しの性行為を証明していた。あまつさえ、交際しているという噂まで耳にしたのだ。これは果たして涜神(とくしん)なのか、それとも寛恕(かんじょ)なのか。いや、全人類で唯一シンジにだけ寵愛(ちょうあい)を授けたとはいえまいか。もはやマヤはひとの身である自分がなにを口にすればいいのかまったく見当もつかない。レイは罰を与えるのではなく助言を求めた。だからといって、なにを献言しろというのか。

「わ、私には……なにも……わからない。わからないから……」

震える声でそれだけを口にするのが精一杯だった。レイからも言葉はなく、ただ機器の音だけが室内に響く。彼女の検診をするようになって何度も耳にしたのに、いまは静寂に恐怖した。だからすべての検査結果を知らせるビープ音に救われる。内容の報告をゲンドウにどうあげるのか、という考えまではおよばない。レイが早く着替えて出ていってくれることだけをただ願った。

「そう、ですか……」

さいわい、相手からの質問も独白もないままほどなくして願いは叶えられる。少しの布ずれのあとベッドに姿はなく、白いワンピースを着た背中が部屋から去るところだった。


レイがマヤの検査を受けているいっぽうその頃、アスカはシンジと自室にいた。三人で昼食をともにしてレイが抜けたあと、訓練の再開やテストの連絡もない。本部から離れるわけにはいかないし、さりとて月並み程度に置かれている遊戯設備では暇を凌げない。ふたりでぶらぶらとあてもなく散策しているうちにいつしか家具やら家事に話題がおよび、せっかくならアドバイスが欲しいと言うアスカに彼も快く応じた。

このときの彼女になんら他意はなく、またシンジも深く考えての行動ではないように見えた。まるで市役所や図書館のように落ち着かないほかの場所よりはくつろげると思ってのことだ。

「へぇ、いつの間にこんな揃えたの? すごいや」

シンジが話の流れに沿って台所の調理器具をたしかめる。アスカは物色している彼をよそに脱衣所で室内着へ着替えた。グレーのキャミソールに黒いショートパンツ姿だ。なかなか涼しい風の来ないエアコンに文句を言いながら手でぱたぱたと顔をあおぐ。すっかり日本のスタイルに馴染んだため靴を履かず素足である。

「まずは形からってね。ミサトの家にあったのを参考にしたんだけど、そんなに長く住むんじゃないし最低限よ」
「そのわりには孫六とかあるし銅の鍋だし」
「こーぼー筆を選ばずね」
「いやいや。厳選されてるよ?」
「あははっ」

笑顔でそう返して冷蔵庫から烏龍茶を取り出すとコップに入れる。もちろん彼と自分のぶんだ。シンジは想い出に浸るようにフライパンや包丁などを取っては軽口を述べている。前に台所へ立ったとき、料理なんてお茶の子さいさいと見栄を張ったんだったか。アスカは懐かしいと思った。

「――ジャガイモの芽はちゃんと取らないと駄目だよ?」
「ふふっ……あんときのシンジの顔がいまでも忘れられないわ」
「よくお腹壊さなかったよね」

肩を竦めてグラスを手渡すと、屈む彼の横で同じように腰を落とす。肉ジャガにチャレンジしたのはいいがダシも効いてなくて人参が半生だったなどと笑いあう。かつて同居していたから互いにとてもリラックスした雰囲気だ。肩肘張る必要もないし、ついこの前まで流血沙汰になりそうなくらい険悪だったとは思えないほどの自然体である。

「問題はレシピよ、レシピ。あと、調理方法?」
「それって全部って意味じゃないか」

だが、肩越しに振り返った彼の苦笑を受けてどきりとした。いつもおどおどしてて、どことなく目線を逸らしがちだったシンジとはまるで違うことに気づく。あのときと同じだ。グラスを傾け、烏龍茶を嚥下する彼の喉が艶かしい。ここにはふたりだけ……ちらりと考えて目線を逸らしそうになる。

「な、なんだっけ、魚のエキス……イリコ? ニボシ?」
「そんな本格的にやるつもり? アスカ飽きっぽいでしょ?」
「だってシンジやってなかった?」
「ないない。ちょっと足すくらいで、基本は濃縮なんとかってボトルを使ってたよ?」

それほど逐一見ていたわけではないが、いま明かされるシンジの手抜き加減に口を尖らせて抗議した。あの味はメーカーの味だったのか、騙されたとわざとらしく拗ねながら水分を含んだ唇を見てしまう。

「でもそのわりには本とか読んでたじゃない? 結構マメなんだなって、あたし感心してたのよ?」
「いかにごまかしてそれっぽくするかっていうのが大事なんだよ。微妙に変えて、手作り感を増すんだ」

なんともずるい話だと思うが、エヴァの訓練や学校があればそんなものだと納得する。それからいくつかシンジ流の調理について尋ねてふと彼女は思いついた。弾む心を冷静にしなければいけないと自分もグラスを一気に煽る。

「ねぇ、せっかくならなんか作ってみてよ。シンジの本気ってやつ?」
「僕の本気? ずいぶん難しいこと言うけど豚の角煮とか? うわぁ、考えただけで面倒だ」
「それもそうか。だったらさ、さっき買ったリンゴ食べない? デザートよ、デザート」

来る途中の売店でおいしそうだったのでひとつだけ買った青リンゴだ。シンジもそれならいいと同意して、ちょうどいい機会なので切りかたを教えるという話になった。まずは手本を見せると言って彼が台所に立つ。

「こういう感じで力を入れすぎないんだけど……どうかな?」
「なんでそんな器用なことできんのよ」

しゃりしゃりと音を立てて緑色の皮が少しずつ削れてゆく。手品のようにこなす彼の手元はそこそこに、横顔をちらちらと覗き見る。いくつか雑談を交えるが、ほとんど頭に入らず生返事を繰り返した。縞模様の使徒はプログレッシブナイフで捌いてしまえばよかったと、はにかむ顔が向けられるたびに頬が熱くなるのを感じては鼓動を早くする。

「とりあえずこんな……って、どうしたの?」
「えっ? う、ううん。なんでもないわ……上手だなって思っただけ」

ところどころ皮が残っているが、細かいことは言いっこなしだ。瞬く間、とはいかないもののシンジは照れながら半分ほど剥き終える。正直なところ、彼女はリンゴをほとんど見ていなかった。落下する溶岩の中で掴まれた手を想い出す。

「アスカやってみる?」
「う、うん。やってみる」
「ははっ。誰だって最初はうまくいかないから気負わなくて平気だよ」

そう言われてもなかなか冷静になれない。すぐ隣にシンジがいればなおさらだ。公園以外でこんなに距離が近いなんていままであっただろうか。せいぜいあの最悪なキスのときくらいだ。思えば本当に馬鹿なことをしたと、キスそのものではなくそのあとに取った態度を嫌悪する。

「こっ、こう?」

手元に集中しなければいけないのに、あれこれと考えてうまくいかない。シンジの手が危なっかしいと言わんばかりにそわそわと近くで動いている。ついにはぴたりと重ねられれば彼女はたまらない。なんの声も出さなかった自分を褒めてあげたいくらいだ。ふたりで弐号機に乗ったときとは逆だがまるでシンクロしているような感覚を受ける。

「こうやってね、包丁は動かさないでリンゴを当ててあげるんだ」
「う……ん……」
「そうそう、いいね」

どことなく女の子っぽいと思っていた彼だけど、手は少し大きいし関節も目立つ。前腕も細いながら逞しく腕にうっすらと体毛が見える。三年生になったら身長だって追い抜かれるだろうし声も低くなるのだろう。

「シンジの手って温かいね」
「あっ、ごめん。つい握っちゃった」
「べつに、いいわよ……」

そのさきを言えるわけがない。リンゴなんて放っておいて、あのときのように強くしっかりと繋いで欲しい。セクハラだ痴漢だなどと間違っても口にしないし思わない。距離があれば強気に出られるのに、うわ言みたく呟いてしまった。

「アスカが緊張してるなんて、新鮮だなぁ」
「あ、あたしだって、そういうときあるんだから」
「うん。だから自然なままがいいよ、アスカは」
「なによ、ばか……」

大人の男さながらに口説いているわけでないのはわかる。先日の失踪に絡んだことなのだろう。高いところから見下ろしているのでもない。同じ目線に立って、助言してくれているのだ。無理しないで一緒に成長しようと。そう言えるようになったシンジが羨ましい。

「それは否定できないね、ははっ」

そうなのか、と重なった手を感じながら得心した。レイと恋仲になったから心に余裕が生まれたのだ。前の彼ならこういうときいちいち確認しただろう。隣にいていいか、手に触れていいかと念を押すように訊くはずだ。自分だけさきに大人になって……そんな悔しさに似た想いが言葉になる。

「ずるいわよ、シンジ……」
「えっ、そう? そうかなぁ」

まだほんのわずかだけ彼のほうが低い身長なのに、とても高く感じた。自分はこんなにも意識しているのにシンジはどうして普通なのだろう。それはもう、異性として見られていないからなのか。やはり、レイを知ったことで〝卒業〟してしまったのか。

「そうよ。自分ばっかりさ……あたしだって……」

アスカはいまこそ自分の気持ちから目を逸らさなかった。こんな冴えない女々しい男にありえない。荷物持ちだ、召し使いだとずっとごまかしていた。あくまでも同居人で戦友だと。でも本当は違う。もっと強い絆を求めていたのだ。

「大丈夫だよ。アスカだったらすぐできるって」

しかし、なにもかもが遅すぎた。彼はレイの許へと向かい、もう手の届かない存在になってしまった。ほんの少しだけ歩み寄れば違っていたかもしれないのに意地を張って馬鹿にして、背伸びしていたのだ。素直になれば、この前やいまのような楽しい会話ができるのに。

「無理よ。あたし……間違えちゃったから」

どうしてこうなのだろう。来日前は嬉しかったはずなのに。やっと友達ができるかもしれない、一緒に戦えるんだと。ところが、気弱そうな姿に反して高いシンクロ率と知って対抗心を抱き値踏みするような態度を取ってしまった。居丈高に鼻で笑うことでしか自分の価値を表現できなかったのだ。それがあの惨めな敗北へ繋がったのだから、いかに愚かであったか。上下にこだわらず切磋琢磨すればよかった。足りない部分を補えばよかったのだ。

「そう? まだ終わってないよ?」

会話がまったく噛みあってないと知りながら、シンジに肯定されている気がしてしまうのは弱さからなのだろうと自己分析した。どんなに気位高く見せてても弱いのだ、甘えたかったのだ。だから加持という手近な存在に恋している自分を演じ、その気もないくせに下手な誘惑だってした。

「そうやって、期待させるのよくないわ」

リンゴの皮は残り少ない。ほとんど力が入っていない指先を眺めてもう終わってしまうのかと哀しくなった。もっと触れあっていたい、もっとここにいて欲しい。いや……それだけでは、足りない。当たる肩、彼の顔はすぐそこにある。屈託のない横顔に胸がきゅんとなった。さきほどまでの和やかな雰囲気を急に翻すとついには押し黙る。この部屋に呼んだのも料理うんぬんの話も、(よこしま)な気持ちは微塵もなかった。それがいまやこんなにも高揚している。シンジが滑らせるリンゴの音だけが軽快に続く。息があがりそうなになるのをなんとか堪えている間に彼は無情にも作業を終えてしまった。

「ほら、できたよ」
「イヤ……」

まだ終わってないと言う声が脳内で繰り返される。果物も口実もないのにどうすればいい。包丁はゆっくりと置かれ、緑色がたくさん残ったリンゴも手放される。彼の手が甲からすっと離れて喪失感が一気に増した。彼女の頭に浮かぶのはレイとシンジが並んで歩く姿だ。レイの検査はいつ終わるのだろう。この部屋を出たらふたりでどこへ行き、なにをするのだろう。夜になれば一緒の家に帰って食事して、キスをすればセックスもする。恋人同士なのだから当たり前だ。彼らの営みを横で見ている自分を想像する。愛を語って嬌声をあげ、きっと〝アスカ〟という名前は一度も出てこない。順当にしていれば、心をほんの少し開いていれば手の中にあったかもしれないしあわせは霞のように消えており、自分の手だけが取り残されている。いまこんなにもシンジと密着しているのに、ほどなくして離れてしまうのだ。遠くへ、見えない場所へ、笑顔が消えてゆく。

「うん? どうし……っ」

いけない、と思ったつぎの瞬間には唇を打ちつけている自分がいた。ちょうど彼が振り向いたときだった。歯なんて磨いてないし、リップクリームも塗ってない。遊びじゃないのに、なんの備えもしていない。

ぴくりと跳ねたシンジの顔は驚きだ。誰だってこんな不意打ちをされたらそういった反応をするだろう。そして間違いなくすぐさま身体が離されるのだ。だから彼女はすかさず彼のYシャツを掴む。向き直って俯くと、なんとか裾だけを固定した。ほんの一秒くらいのできごとがさらに短く感じる。それほど気持ちがあせっていた。けれど、やっぱり言葉が出てこない。こんなにも想いがあるのに弱々しい声で発したのは、理由にならない言いわけだ。

「前にもしたじゃん……べつに、いいでしょ」
「そうだけど……でも……」

そのさきを言わないシンジがアスカには救いであり、同時に卑怯だとも思った。自分からしておいてなんて勝手なのだと頭の裏では理解しているのにさらに退路を絶つようなことを言ってしまう。

「あたしとするのは、イヤ?」
「そんなこと……」

彼の腹部は緊張と混乱で荒い動きをしている。シャツを掴む自分の手を見て、強い力と震えに気がついた。いまならまだ引き返せる。謝って、あのときのように暇つぶしと言えばいい。しばらくはぎくしゃくするかもしれないけれど、余計なことさえ言わなければ元通りになれる。なのに、口は勝手に心を吐き出してしまうのだ。

「じゃあアンタからも、しなさいよ……」

彼の沈黙がとてもつらい。どこにも行って欲しくないのに断って欲しいと矛盾した気持ちを抱える。叱ってくれたらそれで終わりにできる、一時期の熱だったと無理に納得できるかもしれない。心に予防線を張って、彼の身体が少し動いたときは大人しくシャツの手を離した。このあとはきっと〝どうしたの〟だの〝冗談やめてよ〟だの、デリカシーの欠片もないような言葉がくるのだ。そしてそれに激昂する自分の姿まで容易に想像がつく。だが、それもまたいままでと変わらない関係だ。喧嘩して拗ねて、それでもやっぱり気になって、ぐるぐる同じところをまわるだろう。決定的なものさえなければ続けられるのだ。そう決めようとしたとき、視界を塞がれた。キスされる……と脳が理解するより早く彼の首に両腕をまわす。逃げて欲しくないあまり力が入りすぎて、自分から押しつけたような唇だ。

「アスカ、僕には……」

唇を離せば離したで彼の瞳を見られずに逸らしてしまう。レイがいるからとなぜ言わないのか。アスカにシンジの心はわからない。だから彼女は期待してしまうのだ。迷うくらいには彼の中に自分がいる、と。強く拒絶するべきなのに、受け入れてくれていると。

「あたしのこと、怖い?」
「そんなわけ……」

アスカは彼にまわしている自分の前腕を見ながらほっとした。いつの間にか汗が滲んで産毛がきらきらと光っている。もしここでシンジが掴んできたらどんな態度を出すだろう。冗談とするには顔が熱くなりすぎてるし、力の入り具合も否定できない。やっぱり罵倒してしまいそうだ。そんな自分が嫌なのに、素直になりたいのに。だったら彼が行動を起こす前に言葉を重ねればいい。

「あたしのこと、嫌い?」
「嫌いじゃないよ……」

またひとつほっとして、息が震えた。どくどくと鼓動が激しく耳の奥にまで響く。ゆっくりと窺うような視線を彼にあわせる。黒い瞳は動揺に揺れ、頬がまっ赤に染まっていた。そんなところは変わらない。もしここで男の顔をしてたら自分のほうが臆病風に吹かれていただろう。だからこそリンゴを切るときより、使徒と戦うときよりも遥かに緊張する。酸素を求める水面の魚のように彼女は声を漏らす。

「じゃあ……あたしのこと――」

好き、とただひと言なのに訊けなかった。いくら自分から告白する勇気がないとはいえ、これでは誘導尋問だ。いつもの勢いはどこへ行ってしまったのか。シンジが黙したままなのをいいことに彼女は欲望を口にした。もう断られないだろうという打算がおおいにある。

「あの子みたいに、してよ」

抱いてなんて言えない。意味は同じなのに、わざわざレイを引きあいに出して決断を迫る卑怯な自分を自覚しても期待してしまう。同列に扱えと。いや、恋人以上のものを求めた。間違っていない、まだ終わっていないと頭の中で繰り返す。シンジが動くまでの時間が何分にも思えるほど長く、怖かった。だから背中に彼の両手を感じ、倒した顔が迫るのを見たとき彼女も自然と目を閉じて同じようにした。あのときと同じ強い腕に心が震える。

「んっ……」

さきほどよりも開かれた唇。偶発的な事故とは決して呼べない、故意の罪。伸ばされた舌先を知って彼女も応じた。つん、とシンジの舌が当たってどきりと鼓動が跳ねる。すると彼はさらに伸ばしてきて、くるりと撫でた。もう止まれない……アスカは発情している自分をはっきり認識すると絡め返す。初めはためらいがちだった動きもすぐさま大胆なものへと変わり、濃厚に何度も絡めあった。刹那、彼女の身体に甘い痺れが走る。かっと全身が熱くなり、下半身と胸にどっと血が集まるのだ。

「はっ……ふ……」

これが本当のキスだと理解して鼻から吐息を漏らすとさらに腕の力を強めた。鼻息がこそばゆいなどと言った過去の自分がいかに幼稚だったか。欲動に高まればこうなるのは自然な反応なのだ。なんとも言えない甘い感覚に腰が引けそうになる。駄目だいけない、離れなければと頭ではわかっているのにどんどん溺れる。口の中が卑猥に踊ってくちゅくちゅと唾液が絡まれば全身がぐつぐつと煮えた。頭をくねらせ、シンジの唇と舌を味わうと性欲が轟々に渦を巻く。このあとになにが待っているのか知っている。もとより止まるつもりなどない。びくびくと腰が小さく跳ね、女の部分が催促をしてきた。コンドームは持ってないが、生理周期を安定させるためにピルを服用しているから妊娠の心配もない。いや……彼のすべてが手に入るのなら。証となる存在が得られるのなら。

「アスカ……本当に……」

どちらともなく唇を離して彼はさきに言った。最後までしていいのかとシンジは言外に問うている。額をくっつけんばかりの距離でアスカは熱を帯びた吐息とともに肩口へ顔を埋める。人生でいま以上に赤面し、恥じらう声が出ないと確信できるほど緊張と昂奮を自覚して小さく頷いた。

「うん……」

シャワーも浴びず、照明だって明るいし告白すらしていない。でもこのときを逃せば二度と機会は訪れないのだ。このまま帰らせては永遠に友達か戦友止まりで終わってしまう。なにも大人になりたいわけではないし、ただセックスがしたいわけでもない。彼が好きだから処女を捧げたかった。本物の家族になりたいのだ。

「アスカ……」

ぎゅっと抱き締められて、またしても胸がときめいた。抱擁ひとつで全身の骨が消えてしまいそうだ。脱力を隠すように彼女も腕を背中にまわすと抱き締め返す。すぐさま彼の唇が首筋を這ってきた。竦めたくなるようなくすぐったさの裏に、ぞくりとした快感がある。耳朶を甘噛みされて桃色の吐息が漏れた。片手がうなじを撫で、もう片手が背中を徐々にくだってゆく。それだけで反らしてしまいそうな痺れが脳髄を突き抜けて腰が震える。

「んはっ……んんっ……」

自らが発した吐息に驚いて唇に力を入れる。まるでアダルトビデオではないかと堪えるが、増加した血流は多くの酸素を求めて口を開かせた。性感を覚え、情動に滾る身体を自覚すればするほど昂奮する。そして同時に思うのだ。慣れている、と。彼の動きは理性を失った獣のそれではなく、しっかりと丁寧に前戯を施してくる。レイとの営みでどれだけの経験を積んだのかはわからないがいつもこうなのだろう。当然の差を痛感させられ、彼女と変わらない行為をされているのが嫉妬として沸き起こる。ゆえに、アスカは積極性を全面に出して自分を主張した。右手をするすると下半身へ持ってゆくと、彼の股間をしっかりと撫でるのだ。

「うっ……」

驚きにぴくりと腰を引いた彼の反応を知って喜ぶ。二回、三回と繰り返せば膨らみは硬さを増して脈動した。男性器がどのようなものか伊達に高学歴ではない。実物は見たことがなくともアダルトビデオで知っているし授業で模型も目にした。なんら臆するものではない。ないのだが、緊張から指が震えてしまう。それでも耳に聞こえる彼の荒い息を知れば相乗効果となっていっそう彼女を滾らせた。劣情はいよいよ限界を超え、全身の感覚を未知の領域へと突入させる。ふたりの荒い息がユニゾンした。

「はぁ、はぁ、はぁ……」

彼の手が尾骶骨を撫で、尻をむんずと掴む。もう片手がふたりの間に差し込まれ、脇腹から乳房を目指した。アスカは期待と羞恥を織り交ぜながらズボンのファスナーに手をかける。ジジジとスライダーをゆっくりおろしている間に彼の手は太ももの裏側と乳房へ到達した。キャミソールの下にブラジャーは着けていない。着替えるときに外したままだ。ゆえに薄い布越しでも彼の熱い体温まで容易に伝わる。がっつくことなく確認するように横乳、下乳を往復するのを受ければまたしても震えるような吐息が漏れた。

「はんぅっ……」

こんな耳元で喘いでしまう自分が恥ずかしい。なんとか吐息を逃がすべく天を仰いで少しでもごまかそうとする。唇に力を入れて、身体を強張らせようとするものの胸の快感がどうしても声になって出てしまう。太ももの痺れも同様で、腰骨を経由して下腹に向かえば嫌でも意識するというものだ。

「アスカ、気持ちいい?」

レイと営んでいても不安があるのかもしれない。ひとによって感じかたが違うというのも知っているからシンジが尋ねるのも当然だ。アスカは噛み殺した息を吐きながら二回素早く頷いた。止めて欲しくない。もっと触って欲しい。そんな欲望はすぐさま叶えられた。彼の指が乳首を撫でたのだ。

「ぁくぅっ! し、シンジっ……」

硬く尖ってるのを知られた羞恥以上に稲妻のような快感だ。布一枚隔てても、これほどまでに気持ちいい。もう声も我慢できず、身体の力が抜けてしまいそうになる。彼は反応に気をよくして繰り返す。片や、ショートパンツの中ではショーツの布越しに恥丘を這っている。下着も安物で、ちっとも可愛くない。小さなリボンがついてるだけだ。シンジは気にするか、しないか。彼は何本かの指先で丘を撫でる。たったそれだけで陰毛が性感帯のように昂奮は高まった。そして中指が陰裂に差し込まれるのだ。縦に連なる山脈も硬く主張している。自然と両脚を開き、彼を受け入れた。包皮の上から左右に優しく押されればひときわ激しい性感である。

「あふぅっ! あっ、あっ……」

股間がびくんと跳ねて、おろしきったファスナーから手が離れてしまう。それでもなんとかしてブリーフに触れればぱんぱんに勃起こした陰茎の感触だ。シンジの息遣いがさらに荒くなってアスカを虜にした。まるで自身の性感を伝えるように彼の膨らみを掴む。もっと触りたい……あせりを滲ませた指先でブリーフの開口部から指を入れようとくねらせる。指先に触れたのはどのあたりか。しかし、想いびとの性器に触れるという行為は思っている以上に彼女を弱らせていた。陰核の先端と包皮、乳首と乳輪を素早く何度も往復されてたちまち痴態を晒す。

「んんっ、んっあっ! あぅ、あっ……」
「気持ちよかったら、いつでも逝っていいからね?」

そんな優しい言葉に加え、ふたつの突起を撫でられてどう抗えばいいのかアスカにはわからない。あのシールの指先が再現されている。こりこりと捏ねられて膣に力が入った。するとさらに性感が増す。もう全身に汗が滲み、下着の中はぐっちょりと濡れている。膣口あたりは染み出てるかもしれない。知ったらどんな反応をするのか。そんな彼は無言のまま首筋をつつつと舐めてくる。汗が甘露と言わんばかりに汚いなど微塵も思っていないようだ。耳朶、鎖骨、そして反対側。その間もふたつの指先はこりこりと硬い豆を苛めてくるから意思など知らず胸を突き出し、せがむように股間も前後へくねらせた。

「あぅん……あっ、あっ! し、シンジっ! あっ、あたしっ」

危険だ、とアスカは慌てる。自慰を知ってからというもの朝晩するほど癖になった彼女だが、いまやその快感を大きく凌駕してぐんぐんと高まってしまう。胸も性器も刺激が強く、敏感すぎる。そんな中で彼は無情にもキスをするのだ。かつての意趣返しかと一瞬だけ思うが、これは彼の優しさだと気づく。意図はわからない。もしかしたら喘ぎ声を出させないためかもしれないし、キスが大好きだと知られたのかもしれない。唇で啄ばむようにして様子を窺ったあとぴたりとくっつけて舌を絡めてくる。鼻息が下品な音を立ててしまうことまで考えないあたり、彼らしい。息苦しさを察したようで口を離すが、つぎは頬にキスをしてくる。

「ひぅっ! だ、ダメっ! イヤっ……あっ、あっ! ああっ」

胸と股間に手を添えて行為を止めようとした。顔も左右に振って逃れようとする。だが、アスカは彼を拒絶しているわけではない。あと数秒もすれば逝ってしまえるほどの快感、もっと欲しいと渇望して止まない心と身体。果てたあと、ベッドへ移動して彼と交わる期待。どれも激しく求めているのに優しすぎるのだ。だからなんとか絶頂を堪えようと、いまさら無駄な足掻きをした。

「ああっ! まっ、待ってっ! そんなにっ、あたしっ、イッちゃうっ!!」

強引なことをしたのに、こんなにも丁寧にしてくれる彼の行為が胸に痛い。好きなればこそ、これは間違っている。それなのに身体はあっさりと降参してしまうのだ。寸前の誘惑には勝てず、抵抗を手放した。絶妙なタイミングでさらに強い刺激があれば頭の中を爆発させて息を止める。最後の一線は思いのほか高く長く、鋭かった。ぴくぴくと下唇が痙攣し、ぞわぞわとした痺れに腰もくんっと突きあがる。あとに続くのは開放の嬌声だけだ。

「っんあああっっっ!!!」

白い喉を反らして快感に打ち震えた。ぐちゅぐちゅと水音が聞こえるほど膣口が収縮する。ぶるぶると太ももが痙攣し、腰が砕けそうになるのをかろうじて堪えた。シンジの指先は余韻までも丁寧に労わってくれる。少しずつ着地するまで離さなかった。もはや彼女は喘ぎを抑えない。

「あんっ、あっ、あうっ! はんっ、はんんっ……」

頭ががくがくと前へ落ちて徐々に絶頂から回復する。彼の両手がゆっくりと離され、髪を梳いてくれた。左手が肩にそっと乗ったので彼女も同じように両肩へ乗せ返す。自慰より遥かに快感だったと息を切らせながら胸の鼓動を感じた。

「はぁ、はぁ、はぁ……シンジぃ……」

ああ、駄目だ。シンジが好きすぎる。張り裂けそうな胸が苦しくなった。そして彼の顔が前に来れば欲しかったキスをされるのだとわかる。どこまでも女として異性として扱ってくれる彼に、目の奥が熱くなった。もっと乱暴で適当だったらこんな気持ちにならないだろうし、あっさり逝きはしなかっただろう。なのに、これではまるで本当の恋人ではないか。

「バカぁ!」

気づいたときには遅かった。彼の唇を寸前に捉えて、あろうことか突き飛ばしてしまったのだ。シンジに予測なんてできるわけがない。彼はなんら抵抗できずにたたらを踏むと床へ尻餅をついて見あげている。驚愕に見開かれた表情がしだいに動揺へと変わり、最後は悔恨と悲哀になったのを見てアスカは己が過ちを悟った。猛々しく硬かったはずのズボンの奥が見る見る膨らみを萎ませてゆく。

「あ、アスカ……僕、あの……」

眉を寄せたシンジは立ちあがらずに言葉を捜している。痛かったのか、やりすぎたのか、傷つけたのかと自分の行動を悔やんでいるのが明白だ。了解を得たはずなのに、見誤ったとすべてを否定しようとしている。そうではないとアスカは声を荒げた。

「違うっ。違うの、シンジっ……あたし、あたしちゃんとイッたのにっ、気持ちよかったのにっ!」
「でも僕が……きっと……」

両手を力なく伸ばしてくるシンジだが、彼女は顔を覆うと俯いて涙を堪えた。このタイミングで思い出してしまったのだ。後妻と父の関係を。情事の内容ではなく、母の生前から関係を持っていたという事実を。ついぞ最期まで夫の不貞に気づいた素振りを見せなかった母の姿。それがレイと重なってしまった。

「ごめん、ごめんなさいっ。シンジは悪くないの。あたしが……」
「そんなことないよ、僕がその……」
「あたしはシたかった! シンジと最後までシたかった! でも、でもできないの……」
「どうして……」

口止めすればセックスしたところでふたりの関係は誰にも知られないだろう。気弱な彼が嬉々として吹聴するとも思えない。だが、レイはどうなる。なにも知らないし気づかないであろう彼女の気持ちはどうなる。この優しさは彼女だけが受け取っていいものなのに。

「お願い、シンジ……もう行って。お願い……あたしが悪いのわかってるから、お願い……」
「アスカ……アス、カ……」

これ以上シンジにいられたらもっと甘えてしまう。つぎは止まれない確信があった。きっと朝まで底なしに貪るだろう。だから、涙を堪えているうちに部屋を出ていって欲しい。勝手とわかっていながらもそうすることでしか自分を保てなかった。

「お願いよ、シンジ……アンタは悪くないから……お願い……」
「わかった……うん、わかった。そう、する……」

それほど時間を待たずして部屋のドアが開き、しばらくしたあとに閉まる音がする。もう室内にシンジの気配が明確に存在しないと知っててもなお、アスカは歯を食い縛っていた。レイにあんな言葉を吐いておきながら結局は自分も変わらない。もっとべつの方法で彼を得るのだと気概に溢れていたのに。

「シンジぃ……好き、大好きなのよ……ううっ」

いまさら言葉にして膝を突つくと咽び泣く。彼女は今朝、弐号機の座席で母に語りかけていた。好きなひとがいる、と。馬鹿でおっちょこちょいで頼りないけれど、とても温かい彼が壊れるくらいに大好きだ。戦いが終わったら紹介するからそれまで見守ってて欲しいと。

「あたし、シンジを穢しちゃった……ファーストの気持ち知ってて、穢しちゃった……」

情欲に滾っていた全身の汗がいまは冷たい。ショーツの股間が虚しいほどに大量の淫水を吸っている。こんな中途半端な行為ならいっそ最後までして落ちるとこまで堕ちればよかったと後悔した。前戯だけで果てたから余計に膣が疼くのだと知って自分が嫌になる。

「ママ……あたし、最低な女になっちゃった……」

この溢れる涙は誰のためなのかと自問した。頭の中から追い出したいのに唇と舌の感触が抜けない。胸と性器がいまでもじんじんしており絶頂の歓喜も鮮明に残っている。最低だと独白してもなお、彼への想いが振り払えなかった。恋人になりたい、ひとつになりたい、ずっと一緒にいたい……アンビバレンツな葛藤を抱え、涙を流す。もう一度この部屋に訪れて欲しいと願ってしまう自分がいて、ドアへ視線を向けるのだった。


ミサトがその連絡を受けたのは午後十一時をまわった頃だった。業務を終え、帰宅する途中の車内である。電話の相手は保安部であり、内容はシンジとレイの姿が見当たらないというものだ。いま全力で捜索をしているが、本部を出たところで足取りがぷつりと途絶えたのである。

もちろんミサトは激怒し、車を飛ばした。アスカに続き、今度はふたりのチルドレンをロストするという信じられないできごとにガソリン車のごとく頭の中を爆発させる。チルドレンには常に大勢の護衛がついており、おいそれと見失うなどありえない。ダークスーツにサングラス姿というのは対外的なものであって多くは市民にまぎれている。それは買いものをしている主婦であったり、犬を散歩させている老人であったりとさまざまだ。なにげなくシンジたちが乗りあわせた電車であっても隣に座るOLや向かいに立つ酔ったサラリーマン、ブランドショップの店員にすら護衛がまぎれている。それらの目を掻いくぐるなど本来なら不可能に近い。だからこそ先日のアスカの失踪にしても意図して見逃したというくだらない内輪揉めなのだ。

彼らをそうさせたのは作戦部の、ひいては自身の強引な指揮や手配に対しての嫌がらせなのだが、人類の命運を懸けた組織に身を置きながら責務の欠片もない行動に開いた口が塞がらない思いである。

「こんなときに見失うだなんて……」

激化する使徒との戦い、稼働率が大幅に低下した都市の防衛機能。考えたくもない現実に呟くとアクセルを開ける。前も同じ呟きをした気がして、自分は本当に使徒殲滅というゴールへ近づいているのだろうかと疑問さえ持った。

「保安部が探したって言うのは嘘ね。となれば、片っ端から当たるしかないわ」

車のバッテリー残量は充分にあるが本部のゲートをぐぐったふたりの時間を検索して絶望する。シンジが出たのは二時すぎ、レイは四時前なので示しあわせて逃走したとは思えない。だいたいレイの検査も戦闘訓練の中止も予定外だから計画していたとしても不確定要素が強すぎる。

「同棲してるのに駆け落ちに意味なんかないわ。喧嘩もありえないわね。アスカも……ない、か」

戦闘訓練中もとくに険悪な雰囲気はなかった。むしろアスカは楽しそうにしていたし、シンジやレイにしてもそれなりに連携していたのだ。であるならば、訓練後になにかあったと考えるのが自然である。いま本部内の監視映像をオペレータに解析させているが、しばらくかかりそうだ。

「カードはここ以外じゃ使えないから遠出もできない。気温は肌寒いくらいで天気も快晴……屋根の必要ないわね。公園や公共施設はまっさきに除外、友人宅……うーん、シンジ君はともかくレイはないか」

自傷行為には遠いはずで、たとえば森や山に潜むというのも考えづらい。持たせている携帯電話は当然ながら本部を出てすぐに切られている。それさえ本来なら保安部が察知して対応するべきなのだ。前回の失敗を踏まえて私服に発信機を取りつけるという決定も、彼らの怠慢で処置されていない。シンジとレイを示す光点はレイのマンションから動いていなかった。

「街頭カメラがおよばない場所……ああ、そういうことね」

得心すると、減速しないで十字路に侵入する。彼女の車は緊急車両信号が発せられているため向かうさきの信号は次々と青に変わった。おおよその見当はついたが、しかしいまとなっては該当する場所が無数だ。だが本気で隠れたのではなく、時間が欲しいだけなら遠くへは行くまい。ならばと、もっとも手近な工事現場に向かう。使徒戦で破壊されてカメラの少ない場所だ。

「倒壊の危険性を考えると、ビルが最適ね」

ぐんと車を加速させつつクラッチを蹴り、爪先でブレーキペダルを踏みながら踵ではアクセルを調整する。同時にサイドブレーキとハンドル引けば青い車体が華麗に横滑りした。モーターが唸りをあげたところでトランスミッションを変速してクラッチを繋ぐと、すかさずアクセルを開ける。タイヤからスキール音とともに白煙が昇り、赤いテールライトがゆらゆらと尾を引いて疾走した。

「慎重によ、慎重にね……」

ぺろりと舌なめずりをしていましがたの連絡を回想する。保安部からロストの報告があった直後にゲンドウからもあったのだ。ふたりへの接触はくれぐれも慎重におこなえとの命令である。わかりきっていることをわざわざ直接言うくらいだから、さしものゲンドウでもあせりがあるのか。しかしダミープラントが破壊されたとはいえ、身柄の安否を気にしているだけとも思えない。彼らの関係に気づいて親心を見せたのか。いつか友人がゲンドウを不器用と評したが、真意が見えてこない。

そう考えている矢先だった。廃ビルの入り口にたたずむ白いうしろ姿を見つけたのは。裾と袖口にチェックの柄が入ったワンピースの相手は今朝見たときと同じだ。鞄などは持たず、手にパスケースと携帯だけを握っている。間違いない、レイだった。

急ブレーキで驚かせないようにシフトダウンで減速すると、ゆっくりと横づけする。彼女との距離はおよそ2メートル。気配で察したのか、レイは肩越しに車を窺った。

「レイ……そこじゃ身体に毒だわ。車の中で話しましょ」

努めて優しい声で呼びかける。走って逃げられても追える自信はあるが、追いつめるようなまねはしたくない。あくまでも慎重に、相手のペースを維持するのだ。

果たしてレイは、しばらく逡巡して小さく頷くと助手席に乗り込む。すぐに走らせたい衝動を堪えハザードランプを点灯させると、手に持った携帯端末で手早くレイの確保を送信した。

「葛城三佐、申し訳ありません」

驚くべきことにさきに言葉を発したのはレイだった。ミサトが端末を操作し終えるのを待って俯いたまま手を握り締めている。既視感がある、と思った。前にシンジが〝家出〟をした際、懲罰房で会話したときのようだ。あのときの対応が間違いだったといまならわかる。頭に血が昇っていたとはいえ、相手はまだ十四歳の子供なのだ。ただでさえ多感な年頃なのにどうして社会人相手のような感情をぶつけたのか。それはレイとて変わらない。いやむしろ、いまの彼女だからこそ言動には細心の注意を払うべきである。

「そういうときもあるわよ。ただしいことじゃないけれど、人間そんな簡単には割り切れないもの」
「人間、ですか?」
「そう。私もあなたも同じ人間……それともレイは宇宙人なの?」

わざとらしいくらいにおどけてみせた。こんなのは話の取っかかりでしかない。頭ごなしに怒るより、理解を示すのが先決だ。大人になるほどしがらみや立場で逃げられなくなる。しかしレイたちは違う。それもひととのつきあいが苦手で繊細な、昔の自分のように。

「私は人間ではありません」

レイはまっすぐに見返してきた。赤い瞳が少し揺れている。よもや軽口が本質を突くとは思っていなかっただけに一瞬言葉を失うが、表情を抑えた。同時に脳内で激しく思考する。レイの断言とはすなわち、自らの出自に対する不安や恐れだ。世界中の誰よりも重い枷を強いられている彼女に下手な同情では逆効果と判断する。

「まぁ、そうね。ひとから産まれていないっていう意味ではただしいわ。でもあなたはひとの言葉を話して、いまみたいに悩んでる。姿だって同じだし、シンジ君とエッチだってできる。ロボットにはできないわね、こんな芸当」
「でも私の行動はひとのまねだと、惣流さんに言われました」

アスカと喧嘩でもしたのかと思ったが、それも違うだろうと否定した。主体性のなさ、流されるようにしているレイの姿に苛立ちがあったとするべきか。たしかにかつての彼女であればそうかもしれない。命令に背くなど、ほとんど見られなかった。でもいまは明確に違う。それをレイ自身が証明しているのだ。

「アスカがねぇ……半分は正解で不正解よ。いい? 誰でもひとのマネなのよ。服装も趣味も、考えさえもね。ひとの輪から外れたくないから、自然とまわりにあわせるの。誰それが真面目に仕事をしているから自分もしよう、ってなるとするでしょ? でも面倒だからサボるわけ。じゃあ、さきにサボってるひとがいたらそれはマネかしら? そんなこと言い出したらキリがないわ。多様性なんて言ってもね、所詮はみんな誰かの姿をマネてるのよ。ゼロからなにかを生み出すなんて、それこそ真の天才にしかできないし、私は逢ったことがないわ」
「では、私が碇くんを求めてしまうのもまねではないのですか? ユイ、というひとの心が影響しているのではないのですか?」

なるほど、とミサトは唸った。ごく最近知った重要機密だがゲンドウが話したのか、それとも察したのか。いずれにせよ、レイは自分の中の感情に自信が持てないのだ。

「あなたの形質には外見が少し反映されているとしか私は知らない。でもそれを明確にする意味はなに? シンジ君の気持ちを否定することにならない? それとも彼が向ける想いすら疑うわけ?」

レイがはっとしたのでミサトは前を向く。彼女の容姿がシンジの琴線に触れてないとは言い切れない。幼い頃の記憶とはいえ無視できないだろうし、母性を感じている可能性もある。だが、知ってもらいたいのはそこではない。彼女が思考のループへ入る前に続けた。

「初恋のひとに似てる、アイドルに似てる、そんなの誰だってあるわ。私だって加持に父親の姿を重ねてたもの……外見なんて全然違うのにね。でもそれってそんなに重要なことかしら? 好きになるきっかけなんて些細なことよ。出身地が同じ、趣味が同じ、血液型やら食べものの好み……目があった、優しくしてくれた。なんでもいいのよ、話ができる理由さえあれば。あなたの場合、さしずめ司令と同じ苗字で同じチルドレンっていうのが共通かしら。ああ、クラスメイトってのもあるわね。ほかにもふたりだけの想い出みたいなものがあるはずよ?」
「想い出……それも私だけのもの、と考えてもいいのですか?」
「当たり前でしょう。シンジ君に似たような経験があったとしても、あなたになかったのならそれはあなただけのものよ。レイ……ふたりですごすことがなにより重要なの。したいこと、されたいことを伝えあって、自分らしさを出すの。まだ知らないことがいっぱいあるかもしれないけれど、変化を恐れては駄目よ。きっとね、アスカはそう言いたかったのよ。自分らしくあれ、ってね」

聞いた言葉を繰り返し呟いたレイはひとつひとつ心にしまうように頷く。ミサトにあわせるようにして姿勢を正面に戻した彼女だが、それでもまだ心が晴れたように見えない。疑問がとければつぎの疑問がすぐに出てくるのだ。そうやって悩み少しずつ前に進もうとする姿こそ人間の証明なのである。

「私は前と変らないと言われました。司令から碇くんに乗り換えただけだと」
「それだけシンジ君にラブラブってことでしょ? アスカは極端すぎるって言ってるのよ。たしかにそう見えるかもね……でもこれはすごく難しい問題だわ。あなたの場合、司令のほかに頼るべきひともいなかったんだししかたがないの。ただ、ひとづきあいってそういう切り替えを露骨にすると嫌悪されることもあるっていうのは覚えておいたほうがいいわね」
「ひとづきあい……ですか」
「そう。誰にでも愛想をよくしろっていう話じゃなくて、適度な距離感っていうのかしら……絶交したっていうならともかく、社会においては少しずつ角が立たないようにするのが上手なつきあいかたね。彼が好きだからと言って、すべてになってはいけないわ」

こればっかりは経験を積まないと感覚が掴みづらいし幼少期から他人との接点がほとんどなかったレイなら余計に難しいだろう。しかし、外に目を向ける第一歩とも言えるのだ。

「私は碇くんを好きなままでいてもいいのでしょうか?」
「ええ。すてきなことよ……たくさん甘えなさい」
「では……私が碇くんを強く……その、肉体的に強く求めてしまうのは間違いではないのですか?」

ミサトもまさかそんなことまで悩んでいるのかと思わず隣を見れば、街頭に照らされたレイの白い頬はほんのりと赤くなっていた。そして、ようやくすべてに合点がいくのだ。つまるところ彼女は出自も含め、感情を持てあましていた。新しい身体になる前のレイであればもしかしてここまで悩まなかったのかもしれない。だがいまの彼女は前の自分から受け継いだ事柄ばかりだ。ゆえに自身の立つ位置が定まっていないのである。

「それこそ考えすぎよ。中学生なんて、性に対してまっ盛りじゃない。私は……まぁ、ちょっち遅めのデビューだったけど、覚えたての猿になったわ」
「猿、ですか?」
「猿……猿ってぇのはね。うん、まぁ……とにかく止まらないって意味よ。あったり前じゃない、気持ちいいことしてるんですもの。食う寝るエッチは人間の三大欲求よ? 否定するってことはロボットと同じ。だからあなたは立派な女、胸を張りなさい」
「そう……です、か……」

重いものを背負っているレイだが蓋を開けてみれば中学生日記だったと思った。妊娠する心配もないなら、おおいに励めばいい。道徳など犬にでも食わせてしまえ。ネルフに言えるわけがないのだ。

「出自がどうの、模倣がどうのと言っても、ここで悩んでいるのはあなたの意思よ。そこにシンジ君のお母さんも、他人も関係ないわ。彼が好きだから、抱かれたいから、それでいいじゃない。難しく考えなくても大丈夫。あとは女を磨いてアスカに取られないようにしなさい」

好きと抱かれる、の言葉に口元をぴくぴくと反応させるレイが可愛らしくて頬を緩めた。握られていた拳はスカートを掴んでいる。もしかしてこれを見越してゲンドウは指示したのだろうかと邪推した。お抱えの特殊部員をあてがわず、最初に探し出すよう仕向けたのだ。

「はい……気をつけます……」

レイが力強く二回頷いたのを見て安堵した。だが、まだ解決すべき問題が残っている。せっかくシンジの話をしたところで切り出すのは気が重いが、さりとて彼女に言わないのは仁義にもとる。落ち着いたのを見計らって言葉を選んだ。

「それでね……さっそくで言いづらいんだけど、シンジ君もゆくえ不明なのよね」
「碇くんが、ですか?」
「そうなのよ。たぶんどこかで油を売ってるだけだと思うんだけど、放っておくなんてできないでしょ? それで、あなた居場所とか心当たりはない?」

問われたレイは車外を見渡したあと黙考し、やがて首を振った。彼女の驚いたような声色と表情から手がかりは得られないと判断したミサトは、彼女に自宅まで送ると告げてハザードランプを消す。だがレイは同じない。

「私も一緒に捜索に加わっては駄目でしょうか?」
「あなたの保護は碇司令からの至上命令なの。なにか事件に巻き込まれることはないだろうけれど、万が一の場合は警備のある自宅のほうが安全よ。私としては手が多いに越したことはないけれど、懲罰の対象になるかもしれないわ……それでも同行したい?」

ミサトにはレイの葛藤が見えた。下唇を噛み、眉を寄せている。ゲンドウの命令と他人に迷惑をかける可能性、徒労に終わるだけというのもありうる。どれだけ力になれるのかわからないがシンジを探したい、逢いたいという鬩ぎあい。果たして、レイは力強い視線を返すとたしかに口にした。

「はい。同行させてください、葛城三佐」

ミサトは満面の笑みを返事とすると、青い車のアクセルを開ける。レイは本当の意味で殻を破り、女になったのだと確信するのであった。