第弐捨四話、壱日目

手を伸ばせば届きそうなほど近くに見える山脈が黒いシルエットに色を取り戻す。コンクリートの森、アスファルトの大地もまたひとの営みへと姿を変えた。びゅうと風が一陣とおりすぎ、シンジは半袖の腕を擦る。一夜明けた早朝だ。

彼はいま零号機の自爆によって誕生した第二の芦ノ湖の湖畔に立っている。ミサトもレイも深夜まで捜索したものの、シンジを発見できずにいた。彼女たちが目星をつけていた区域とは正反対にいたのである。パイロットの健康を考慮し、渋るレイを送ってミサトが帰宅したのは三時間ほど前だ。

またひとつ、風がシンジの頬を撫でた。朝焼けが徹夜の目に痛い。湖面の波は穏やかなれどもまるで夕日のごとく照らされて血の色に見える。場所柄、周囲の音がほとんどしないため、彼はあたかも自分だけが世界から取り残されたように感じた。眼前に広がるのは倒壊して水没したビルだったものたち。なんの施設かも判別できないほど墓標のようにいくつも立っている。人類が跡形もなく消失し、あるじを迎えないまま長い時を経た残滓さながらだ。もし使徒に敗北したらこうなるのかもしれないと、身震いする。

「成長しないな、僕は……」

乾いた唇を袖でぬぐう。人生のほんの入り口にいるくらいの年齢でこうも失踪癖があるのはどこか精神に異常があるのだろう。向きあうのはもとより、相談もなしに解決の見込みがないとわかってて現実から逃走する。ひとりになりたかったから、と自分に言い聞かせるが、実際はレイやアスカと逢うのが怖いだけだと自覚していた。

「僕は馬鹿だ……なんであんなこと……」

レイがいるのに、つきあってる恋人がいながらほかの女性とキスをした。ただされただけならばいくらでも弁明のしようがある。不意を突かれた、騙されたと言えば済む。しかし、実際には何度も舌を絡め胸と股間を弄くり倒した。絶頂した彼女に喜び服を脱がせることさえ頭にあったのだ。そのさきにどんな行為が待っているのか知ってて、経験してて、止まろうとはしなかった。レイと毎晩あれだけ睦みあっていながらしっかりと情欲を滾らせていたのだ。

「どうして僕なんだよ、アスカ……」

べつにそんな雰囲気とは思えなかった。雑談がてら調理器具を見て、一緒にリンゴの皮を剥いただけだ。シンジにとって彼女は戦友であり友人であり、そしてかつての家族だった。明晰な頭脳と卓越した戦闘技術、端麗な容姿と目を引く肢体。学校でも羨望の(まと)だったのだから惹かれないはずはない。密かに想いを寄せていた時期もあればなおさらである。

けれども、昨夜はそういった過去の気持ちが沸き起こらずに彼女を慰撫した。失踪を発見したときの光景と重なったのである。不安、苦しみ、寒さが見えて望まれるがまま唇を重ねた。これで震えも止まって温かくなるのなら、また前のような関係に戻れるのなら、明るいアスカが見られるのならと。ところが、レイと同じようにしてくれと言われてからがおかしい。逃げるような素振りがあった、手を止めようとしていた、絶頂したくないようなことも口にしていた。もっとほかにもやりようはあったはずなのに選択を誤り、穢したのだ。

「やっぱり僕がいけないんだ」

もっと強く拒否していればこんな事態にはならなかった。もしくは、触れただけのキスならばなにかの間違いだと無理に納得できたかもしれない。だがあのときの彼女はとても積極的で拒めなかった。あれほどの人気があればとっくの昔に初体験は済ませているのだろう。だから暇つぶしか度胸を試されたか、お情けか。そこになんら私情はないはずである。いわんや、好きだなんて気持ちが微塵もあるわけがない。そもそも彼女は加持のような男が好きなのだ。失踪直前など見向きをするどころかいつも怒ってるときが多く、口調も荒かった。レイとは違う意味で近寄り難い雰囲気があった。前にキスしたときだって散々な言われようで直後に口をゆすがれたくらいだ。思えばその頃から歯車が狂いだしたのかもしれない。

「くっ……」

朝陽から逃れるように両目をきつく閉じた。いまでも唇と手には彼女の感触が残ってるような気がする。至るところが湿ってて硬かった。普段見せる強気な態度とは裏腹に、柔らかく繊細で華奢な身体が頭から離れない。声もしぐさも表情も、正直に告白すれば可愛いと思った。歯車が狂う前までの彼女のようで、胸が高鳴っていたのだ。昔に戻れたと錯覚したほどだった。

「最低だ、俺って……」

どれだけ否定しようとも男としての本能がアスカとの交わりを望んでいた。かつては自慰の妄想にしてたくらいなのだ。胸の形、乳首の色、陰毛も栗色なのか。性器は、濡れる量は、どこが感じて逝きやすいのか。もっと声と表情を知りたかった。なまじレイの身体を知っているからこそアスカに対しても同様の興味を持ってしまう。まだレイとしたことのない体位がアダルトビデオの影響でアスカにすげ変わって再生される。うしろから突いて振り乱れる髪、騎乗して上下に揺れる乳房、互いに性器を舐めあう姿。

「クソっ! 糞っ、クソぉぉっ!」

一睡もしないで考えるのはそんな淫事ばかりだ。レイが好きなのに、誰よりも愛しているはずなのに交際してひと月どころか一週間もしないうちにほかの女性を意識してしまう。誰が見たって浮気だ。とてもレイの家へ帰れない。せっかく家具を買い揃えて同棲までしてるのに、彼女の顔を見るのも、触れることさえ怖かった。

仮にミサトあたりにすべてを話しアスカが悪いという結論が出たとしてもシンジは受け入れられない。アスカを求めてしまったのは偽りのない本心なのだ。水槽を見た夜にもしレイの部屋へ訪れなかったらアスカに依存していただろう。ずっと一緒にいたい、なにか役に立ちたい、助けて欲しいと懇願する姿が容易に想像つく。

「僕はどうすれば……」

ふたりから逃げたところでなんの前進にもならない。こうして無駄な時間をすごしている。何度も溜息をついては悪態を口にした。

そんなとき、どこからともなく歌声が流れて彼の耳朶を弾く。優しさがあるのにミステリアスな雰囲気を感じさせる声質だ。そして紡がれているのはドイツの有名な作曲家が遺した交響曲の一節である。世界的にも合唱部分が非常に知られているがシンジはかねてより曲の終わりの部分こそ最高だと思っていた。ゆえに、彼はこの歌の相手とは趣味があわないだろうという第一印象を抱く。そこへ、まさに当人から声がかかれば驚くというものだ。

「歌はいいねぇ……」

自分へ向けられた明確な問いだと思い、声がした方向を見る。いったいいつの間にそんな場所へと訝しがった。相手は水没した彫刻の上に腰かけていたのだ。黒いズボンに白いYシャツ、日に照らされる頭髪は栗色か銀色か。波打ち際から彫刻までの距離が3メートルほどあるにもかかわらず、その人物の服に濡れた形跡はない。なんとも奇妙だと感じながらも彼は目が離せなかった。そして相手が肩越しに振り向いてますます困惑するのだ。

「歌は心を潤してくれる……リリンが生み出した文化の極みだよ。そう感じないか? 碇シンジ君……」
「僕の名を?」

レイを髣髴とさせる赤い瞳がシンジに返答させた。それに、向けられた微笑みもどことなく彼女を思わせる。たった半日彼女と逢ってないだけなのに、とても懐かしい気がした。

「知らない者はいないさ。失礼だが、キミは自分の立場をもう少し知ったほうがいいと思うよ?」
「そう、だね……」

エヴァのパイロットがこんな場所をうろついているなど決して褒められたものではないだろう。荒廃しつつある町の治安ともなれば剣呑なことを考える人間がいてもおかしくはない。軽率な行動であるのは認めるものの、さりとてなぜ彼がそれを知っているのだろうか。そんなシンジの思案を読んだかのように相手は続けた。

「ボクはカヲル……渚カヲル。キミと同じしくまれた子供……フィフスチルドレンさ」
「フィフスチルドレンって……きみがあの、渚君?」

シンジはほんの二日ほど前にミサトから聞かされた新しいパイロットの話を思い出した。エヴァが二機しかないのにどうして増員なのか不思議に感じたが、万が一ということなのだろう。そして目の前にいる同じ歳くらいの少年がどうやらその相手だというのを理解する。

「カヲル、でいいよ。碇君……」

ズキりと胸が痛むのを感じた。レイに呼ばれるのとは微妙にイントネーションが違ってても音は同じだ。勝手と知りつつ正直なところ、いまその容姿で呼ばれたくはなかった。

「僕も、シンジでいいよ……カヲル君」

カヲルの名前を呼ぶことでシンジは誠実さを言いわけにする。あんな不貞を働いておきながら、よくもぬけぬけと言えるものだともうひとりの自分の声に耳を塞いで作り笑顔を浮かべた。

「ふふっ……さて、さっそくだけれども本部に行きたいんだ。入り口がどこかわからなくてね」

そう言うとカヲルは足場の悪い石像の上に立ち、あろうことかズボンのポケットに手を入れたまま軽々と跳躍して湖畔へ降りた。あっけに取られるシンジに構わずさきを歩いて振り返ると、また笑みを浮かべるのだ。

「案内してもらえるかな? シンジ君」
「ああ、うん……いいよ」

掴みどころのない人物、というのが偽らざる気持ちだった。警戒はしていない。ただ、存在がふわふわと儚く現実感が見られない。それは初めてレイを見たときに似ていて、ヤシマ作戦の夜に月を背にした彼女の姿だ。だからかもしれない。無意識に歩みを早めて彼の横へ並ぼうとしたのは。置いていかれる、というあせりだ。

「一次的な接触を極端に避けるね、キミは。怖いのかい? 他人と触れあうのが」

並んで歩いてはいても互いの肩の距離は2メートル近く離れている。知人が見たら自分たちをどういう関係に思うだろうか。そんな心の表れさえ覗かれているような気がしてカヲルの目をまっすぐには見られない。

「ごめん。ちょっといろいろあったから……心に余裕がないんだ」
「他人を知らなければ裏切られることも互いに傷つくこともない。でも、寂しさを忘れることもできないよ?」

どきりとしてカヲルの目を見た。そこには叱責も侮蔑もなく、ただ湖面のように凪いだ赤い色があるだけだ。アスカにした行為をレイが知ったらどう思うのかと重ねずにはいられず懺悔のような言葉が出てしまう。

「僕は弱くて卑怯だから……いまさら綾波の家に帰ることなんてできないよ」
「帰る家、ホームがあるという事実はしあわせに繋がる。いいことだよ?」
「しあわせ……そう、しあわせだったんだ。あんなことをしておいて、僕はいまでも彼女に逢いたい」
「でもそれが怖いんだね?」

黒い髪が前にふわりと揺れた。なぜだろうかとシンジは思う。逢ったばかりの相手にこうもつらつらと口を開いてしまう自分が不思議だった。

「誠実でありたいのに、裏切ったんだ。許されることじゃない……アスカの心を弄んで、罪と向きあうことすらしない。僕はケダモノ以下だ」
「心が寂しいから他人を求める……ひとはひとりだからね」
「寂しいからって節操なくしていいわけじゃない。それに僕は満たされてたんだ」
「話から察するに、キミは複数の相手を求めてしまったことに苦悩しているんだね? しかも相手は女性で大切なひとだ」

口と拳にぐっと力を入れる。大人からすれば一笑に伏されるような話かもしれない。セックスしたわけでもないのにペッティングだけでさきへは進まなかった。思わず劣情を抱いたとしても悩みすぎだと。単なる気の迷い、火遊び、魔が差した……加持あたりなら謝れば済むと言うか黙っていれば問題ないと助言しそうだ。

「僕は割り切れない」
「キミたちはもっと自由であるべきだとボクは思うよ?」
「自由って?」
「世界には女性のほうが多くいる。そして男性は複数の相手と(つが)いたいと本能が働く……それなのになぜ、自分たちを縛ろうとするのかな?」

ずいぶん男性本位な考えだとシンジは眉を寄せる。女性が多いからと手当たりしだいに交わってはそれこそ野生の動物と変わらない。人間には人間のルールがあるのだ。

「間違っているから、不誠実だから……そうじゃないの?」
「それこそ意味がわからないよ。だって国によっては一夫多妻のところもあるし、日本だって昔は認められているどころか賞賛されていたんだよ? 法律で禁じる理由はただトラブルを避けるためだけさ。本当に間違っているのなら世界的にそうでなければいけないし、そんな歴史も否定されないとおかしい」
「でもそういうルールなら従わないと……」
「まさにそれだよ、シンジ君。動物でも多くの相手を持つことは普通だし、太古のリリンたちだってそうしてきた。それこそが生物としてのルールなんだ。それなのに感情という自分たちの心を守るため、わざわざルールを曲げている」

カヲルの話はずいぶんと飛躍している。言っている意味はわかるものの、さりとて現代の日本でそれを持ち出すのは違う。彼は自由と淫奔を混同しているのではないだろうか。唖然として、べつの生きものを見るように眺めた。

「でも僕たちには心があるから。自分がされて嫌なことは相手にしちゃ駄目だ」
「そう、心だ。キミたちは求めているのに近づいてはいけない、と心に壁を作っている。そしてそれが世界を形作っている……とても不器用で哀しいことだね」
「カヲル君は違うの?」
「ボクはいろんなものを見てきたし、教わった。キミたちからね……でも残念ながら相容れないだろう」

残念と言うわりにはカヲルは哀しげな表情を浮かべず、ともすれば笑顔にさえ見えた。レイさながらの端麗な容姿が神秘的に思わせるのか、詩的な表現に説得力を感じているのかわからない。ただひとつ言えるのは妙な心地よさだった。だからつい、口も軽くなる。

「僕とカヲル君は、友達になれないの?」

すると、カヲルはその言葉を待っていたかのように足を止める。シンジもあわせて止まった。距離を広げずにいたのが彼には嬉しかったのかもしれない。カヲルはひときわ口角をあげて晴れやかに破顔した。

「キミの心は硝子のように繊細だね。好意に値するよ……とてもね」
「コウイ?」

首をかしげればカヲルは頬を少し緩める。肩を竦め一歩近づいて囁くような言葉を紡ぐ。それは風に阻まれることなく滑らかに届けられた。

「好きってことさ」

不覚にもどきりとした心臓を嘘だと否定する。カヲルが言ったのは人間としてであって、決していわゆる同性愛的なものではないはずだと落ち着かせようとした。けれども口から出るのは自分でもわかるほどの動揺である。

「かっ、カヲル君は男じゃないか……それにまだ逢ってすぐだし、僕には綾波がいるし……」
「はははっ。なんだ、ちゃんと家のこと気にしているじゃないか」
「もうっ、からかわないでよ。それにカヲル君の言っている意味なんて半分も理解できないんだし」
「済まないね、シンジ君。前にいたところの影響って言うのかな、つい曖昧な表現をしてしまいがちなんだ。でも……好きなのは本当だよ?」

顔がいけない、しぐさが優雅だから幻惑されたんだとシンジはかぶりを振る。そんな姿にカヲルは上機嫌のようだ。屈託のない笑顔で軽やかに前へ進む。一杯食わされたのかとシンジは慌ててあとを追い矢継ぎ早に口を開いた。

「だいたいさっきから言ってるリンリンってなんのこと? 第九を歌ってたのも自由って言いたかっただけでしょ?」
「リンリンじゃないよ、リリンだよ。歌はなんだって好きさ」
「そう、それだよカヲル君。まずはそこから説明してもらわないと、いきなり好きとかなんとか……いっぱいエッチしろとか……」

湖畔から少しずつ町の端に移動しているというのもあって、工事の音が遠くに聞こえた。これでは監視カメラに引っかかるかもしれないと頭の隅に思いつつも暗い気持ちを払拭させてくれるカヲルとの会話を楽しんだ。

「リリンと言うのはね、キミたち人間のことさ。そして、ボクはキミたちで言うところの使徒って存在だよ」
「えっ?」

電線の上に止まっていた複数の鳩が一斉に羽ばたく。まるでなにかに威嚇されたときのようだ。そんな答えをシンジは期待していなかったし、そもそもなにを言っているのだと足も止まる。また悪い冗談だろうと。

「てっきり大きな怪獣がまた来ると思ったかい?」

カヲルは一歩さきで両手を広げながらくるっと振り向く。レイと同じ赤い瞳が不気味に輝いた気がした。とても冷たく無機質な表情だ。

「そういう冗談はよくないよ……町だってこんなになったんだから」
「冗談なんかじゃないよ。ボクは正真正銘、最後の使徒だ……つまり、キミたちの敵だね」

いままでの満面の笑顔ではなく張りつけたような顔をするカヲルを見てシンジはむくむくと嫌な予感が込みあげる。赤い瞳、白い肌と銀髪。崩れた水槽の中のレイと、白い巨人。駄目だ、考えてはいけないとするが頭の中では両者がイコールで結びついてしまう。

「使徒って、だってきみは……人間じゃないか。綾波だって人間だ!」

まるでレイが侮辱でもされたかのように肩を怒らせると吠えた。あってはならない、そんなことを言う人間がいてはいけない。誰よりも不幸で哀しい彼女を、よもや使徒などと同じに語らせるわけにはいかない。

「なるほど、そういうことなんだね。済まなかった、シンジ君。知らないこととはいえ悪気はなかったんだよ」
「いくらカヲル君でもそれはよくないよっ」
「たしかにキミのことを考えなかったかもしれない。でもね、シンジ君……綾波さんは人間でも、ボクは違う。これは嘘じゃないよ」

シンジの脳裏に湖畔で見た跳躍が浮かぶ。助走もなしに、足場の悪い場所から羽根が生えたかのようなふわりとした着地。その距離も3メートルはあった。背格好も年齢もたいして変わらないカヲルが世界記録のような動きを見せたのだ。まだ確証はない。なにかのトリックがあるのかもしれないと思ういっぽうで、ほとんど肯定している自分がいた。

「本当に……そう、なの?」
「ふふっ、本当さ」
「なんでそんな大事なこと、僕に話したの? 僕はエヴァのパイロットだよ?」

カヲルは肩を竦める。しぐさひとつとっても人間らしいし、言われても気づかない。だいたい使徒ならば避難指示なりエヴァの出撃なりがあっていいはずだ。だが、過去の例からして探知を掻いくぐれるのも知っている。そして、彼が口にする台詞はまたずいぶんと人間的だった。

「誠実さ、だよ。フェアじゃないだろ? シンジ君のことをたくさん聞いておいてボクが話さないのはキミに対する裏切りだ」
「裏切り……誠実。それにしても……」
「ボクはね、シンジ君。これでもキミの言葉に感銘を受けたんだ」

こんなにも人間らしい彼が自ら使徒と名乗るメリットはなんだろうか。彼らは人間を滅ぼすために侵攻しており観光を目的に来ているのとは違うのだ。だが、カヲルはいままでの使徒と決定的に違う点がある。

「ねぇ、カヲル君……戦わないで済む方法とかないの? その、こうして話ができるなら……」
「優しいね、キミは。残念ながらそれはできない相談だよ。なぜならボクには寿命とでも言うべきものがあるからね。放っておけば消えてなくなる」
「寿命……具合が悪いとかって意味じゃないんだよね?」
「そうだよ。この身体はリリン……人間によって生み出されたものだ。本来のボクとは相容れない。だから、ちゃんとした身体を手に入れる必要がある」

レイがエヴァと同じような存在であるというのはなんとなくわかるが、ならば彼女もそうなってしまうのだろうか。ボタンひとつで崩れたレイの肉体が脳裏に浮かんで薄ら寒い汗が背中を這う。浅い呼吸によって唇が痛いくらいに乾いた。

「綾波も……」
「逢ってないからわからないけど、たぶん違うと思うよ? さっきキミも言ったろう? 人間だって。でもボクは違うんだ、決定的にね。たとえるなら石ころと草のようなものさ」

カヲルの姿をまじまじと見ても石の要素はどこにもない。とても整った顔立ちであることと目や髪の色が特徴的なくらいだ。使徒と言うのならコアを持ち、ATフィールドを発するのだろうか。柔らかそうな肌は陶器のように硬いのだろうか。

「そんなに……なの? どうにもならないの? 僕のこと好きだって言ってくれたのに……」
「それも嘘じゃないよ。キミに逢えてボクはよかったと思っている。でもね、これは生存競争なんだ。この星で生き残る種族はたったひとつだけという、厳しいルールなのさ」
「使徒と人間のどっちかしか無理なの?」
「ボクが決めたことではないし、ネルフのひとたちでもないよ? この星にふたつの卵が落ちてしまったときからの運命なんだ。言うなれば神さまが決めたってやつかな」

しかし、と疑問に思う。カヲルは公平を期するためと言ったがそんな律儀なことをしなくても黙って攻撃すればいいはずだ。それなのに悠長にも散歩と雑談に興じている。そんな思考を先読みするのもまたカヲルだ。

「納得できないって顔だね、シンジ君は。でもね、ボクにはいまがとても大切な時間なんだ。滅ぼすかもしれない人類の姿をしっかりと目に焼きつけておきたい。ボクの意識と呼べるものが目覚めたのはほんの十日ほど前なんだ。だから、ちゃんと世界を知っておく必要がある」
「知っておく……」
「そう、ボクはキミたちで言うところの知恵の実を持っていない。だから新しくなにかを生み出すことができないのさ……綺麗な絵画も心地いい音楽も、なにひとつね。いまボクが話しているこの人格や知識だって借りものでしかない。無垢なまま永遠に生きるだけの存在がボクなんだ。せいぜいまねごとくらいだよ」
「だから消えてしまう前に、心に留めておこうってこと?」

沈む声を聞いてカヲルは笑顔のまま哀しげに頷いた。彼の言葉を借りるならば、そんなしぐさや心さえ自分のものではないという。無垢なまま永遠に生きる意味が理解できないのはやはり種族が違うからだろうか。やるせない、とシンジは溜息を漏らす。

「キミが少しでもボクを哀れんでくれるのは嬉しい。けれどもね、シンジ君。ボクたちは戦わなければいけない。どんなに望まなくても種族という十字架を背負っている以上、放棄することはできないんだ。未来を与えられる生命はひとつ……それを、忘れないで欲しい」

知らずシンジの目尻には涙が浮かび、肩が震えた。神はなんという残酷なルールを決めるのだろうか。せめて怪獣やいままでの使徒の姿をしていたならよかった。言葉も通じず、ただ破壊の限りを尽くす存在であればなんの憂いもないのに。

「僕に……きみを……」
「涙……ボクには流せないけれど、でも……ありがとう」

カヲルの手が頬にそっと添えられた瞬間、シンジは堪えきれずに声をあげて泣いた。友達になれると思っていた。いや、もうすでに心を許している自分がいたのだ。膝を突き、両手がアスファルトの地面を掴む。こんな気持ちでどうして戦えようか。目覚めた蝉の鳴き声がとても煩わしいと思った。


道路のアスファルトは痛みが目立ち雑草もまばらに生えている。ずらりと並ぶ十四階建てのマンションは変わらず薄汚れた灰色でこちらにも無数のヒビだ。エレベータが備わってないので上層階の住人は毎日の生活にも難儀するだろう。ほかにも住んでいるならば、だが。さいわいにも目的地は四階なためそこまで苦ではないし暑さが厳しい時間でもない。ひとの気配が窺えない幽霊マンションさながらだが、ドアの前までの廊下や階段は綺麗に掃除がされていた。逆にそれ以外の場所は荒廃しきっており、空き缶やゴミが散乱している。その対比が、あたかも自分たちの空間に少しでも色を添えようとする心の表れのように思えた。

シンジとカヲルが本部へ向かっているいっぽうその頃、レイのマンションにはアスカの姿があった。彼女はドアの前で何度も深呼吸を繰り返し、ひとつ頷くとインターフォンを押す。中に響いていないことに気がついてノックをするものの、反応はない。試しにドアノブへ手をかければ容易に開いた。施錠しないのは無用心だが、助かったところでもある。

「ふぁ……ファースト、いる?」

とても薄暗い室内に顔だけ入れて声を発するが返事はない。玄関へ身体を移し、うしろ手にドアを閉める。真新しいスリッパがひと組、彼の帰りを待っていた。すぐ右手の台所は整頓されていて、水色とオレンジ色のマグカップがペアで並んでいる。もしかして留守なのか、そう思っていると奥からレイが目を擦りながら現れた。

「なに?」
「あ、あの……勝手に来ちゃったけど、いま平気?」

とても弱気な声色を出してしまった自分に叱咤してレイを見れば、まさに寝起きといった様子だった。髪はぼさぼさで、足元もふらついてる。Tシャツに白のショーツ姿でタオル地の短パンは穿いてない。

「あがって……」

レイの気だるげな声に促されて靴を脱ぐと、寝室へ入る。広いダブルベッドの上にやはりシンジの姿はない。アスカは白木の椅子へ肩を窄めぎみにして座った。脚は組まず、しっかりと揃える。両手は膝の上だ。

「こんな朝早くに悪かったわね。もう起きてるかなって思ったんだけど」
「ゆうべ遅かったから……」

レイなら起床していると思って七時ちょうどに部屋へ入ったが、彼女の様子と就寝が遅かったという情報に胸がじくじくと痛む。つい床へ目線を落とせば玄関のものと同じデザインのスリッパが左右遠くに離れていた。

「あの、ね……」

静かな室内に耐え切れず呟く。エアコンのフィルターを掃除したのだろうか、風の音が控えめな気がした。いつもシンジとレイはどのような朝を迎えているのかと、ひとつしかない枕を見て想像する。腕枕して、目覚めたらどちらともなくキスするのかもしれない。微笑んで、優しい挨拶を交わすのか。休日ならそのままベッドでまったりとした時間をすごすのだろう。

「飲んで」

声に気づけば目の前のテーブルに水の入ったペットボトルが置かれていた。未開封で滴もついてないからたったいま冷蔵庫から出したのか。それすらも関心が払えないほど心に余裕がなかった。向かいのベッドへ腰を落とすのを待ってゆっくりと口を開く。

「昨日、アンタいなくなったって聞いたんだけど……」

水をひと口含んだレイの顔を窺う。少し伏せられた目元は赤く口角もいつも以上にさがっていた。両手にペットボトルを持ちキャップを見ているようだ。両膝は力なく開き、足首を交差させている。やや猫背で、彼女にしては珍しい姿勢だった。とても寝られるような心境でもなかっただろう。きっとゆうべは一睡もしておらず微睡(まどろ)んでいただけだ。憔悴しきった全身を見て溜息をつく。そうしたいのは相手のほうだろうに、どうにも息苦しかった。

「ええそうよ。どうしたらいいのか考えて、私は町をさまよったわ」
「それって、あたしと……シンジのことで?」

さっそく核心が迫って表情筋が強張る。レイは顔をあげてじっと見てきたあと首を振ってまた俯く。眉は寄り、小さな唇に力が入っていた。

「いいえ。でも、あなたに言われたことをずっと考えていた。私の心はどこから来るのか、本当はなにを求めているのか……」
「あれは……言いすぎたわ。結局あたしの目線でしか見てなかったのよ……その、ごめん」

レイはまた水を飲んでいる。平時なら神秘的とさえ思える彼女の顔は室内の暗さと疲れが滲む目元のせいでとても覇気がない。ほとんどなにも知らなかったのに、ずいぶん好き勝手を言ったものだと先日の自分へ嫌悪を向けた。

「べつに、いいわ。葛城三佐から助言をもらえたもの。きっかけ、なんだと思うから」

レイは顔をあげるとじっと見詰めてくる。目線が顔の輪郭をなぞるように動き、次いで身体の線を確認していた。なぜそこにいるのかと問われているような気がして呟くようにもう一度ごめんなさい、と謝る。それは本題に触れる前の布石だ。

「それで、ね。シンジのことなんだけど……」
「葛城三佐と一緒に二時すぎまで捜索したけれど発見には至らず、よ」

まるで作戦の連絡事項を伝えるかのような淡々とした語り口だ。彼女はなぜシンジがいなくなったのか、その理由を知らずに彼を探していた。だが、アスカは間違いなく自分が原因であると理解している。レイの手元を見ながら言葉を探すように言った。

「あたしが原因なの……」
「あなたが?」

ほんのわずかだけレイの声が高くなる。猫背が少し伸びて目線が注がれているような気がした。とても切り出しづらく、少し間を空けると膝の手を握って腹の底から告白する。

「今日それを謝りたくて、ここに来たの」
「なにを謝るの?」
「アイツは……悪くないの。あたしが一方的なことしたから。だから、シンジから聞いても、その……怒ったり、嫌いにならないで欲しい。勝手な言い分だってわかってるけど……でも……」
「続けて」

レイはどのような表情をしているのか。期待と不安でそっと窺うものの、とくに憤りがあるようには見えない。だからつぎの言葉は思いのほかすんなりと出た。

「初めはあたしの部屋で料理を教わるつもりだったのよ。アンタが検査で抜けたあとにね。シンジは普通に調理器具とか見てくれて、なにもヤラシイことはなかった……でも、あたし……アイツとさ……その、えっちなこと……シちゃったんだ」
「えっちなこと?」
「あたしが、けしかけたの。キスとか……いろいろよっ」
「そう……」

勢いを込めて言ったのに想定していた反応がなくて肩透かしを食らった。自分だったら間髪入れずに立ちあがってどういうつもりだと吠えるだろう。相手が言いわけや謝罪をしても受け入れず、罵倒するに決まっている。なにかモヤモヤとした感情が心に渦を巻いた。

「そうって……」
「どうしてしたの?」

なのにレイは怒る前に理由を尋ねてきた。冷静と言えばそうだが、どこか関心がないように思える。わかりきった質問に、恥も外聞もなく言い放つ。

「好きだからに決まってんじゃないっ」
「そう……」
「そうって、アンタわかってんの? 浮気したのよ?」
「ええ、理解してるわ」

いまやしっかりとレイを見据えたアスカだが、変化のない相手の表情にだんだんと気色ばんでくる。目を吊りあげて口角泡を飛ばすような激昂とはならずとも、蔑むなり苛立ちなりを募らせていいはずなのだ。崩れた予定にあせりが浮かんだ。

「胸だってアソコだって触られたのよ? あたしイッたのよ!?」
「気持ちよくなりたかったの?」
「当たり前じゃない。ほかになにがあるってぇのよ!」
「そう……」

おかしい、こんなはずではなかった。冷静さを失って立ちあがるとレイを見下ろす。変わらず俯きキャップを見詰めている姿に憤りが増した。彼女からの反応と言えば、せいぜいペットボトルがパキりと鳴ったくらいだ。それだってただの温度変化にすぎない。だから燃料を追加する。

「アンタにあんな偉そうな高説並べておいて、しょせんあたしはこんな女よ? アイツのこと考えながら自分でするような、はしたない女よ!? なんで怒らないのよ!」
「怒って欲しいの?」
「アンタが怒らなかったらあたしまた同じことするわ。アイツしっかり立ってたんだから! あたしだって、すっごく求められてたんだからぁ!!」
「そう……」

レイがもっと怒ってくれたらあの一件を反省できた。それだけシンジが好きなのだと、ふたりはたしかに愛しあってるのだと納得したのだ。ところがこれだけ具体的に卑猥なことを言っても肩を怒らせるどころか睨みもしない。彼がどうでもいいのか、好きではないのか。それとも女として相手にされてないということか。いや、本気と思われてないのかもしれない。シンジが奪われないと(たか)(くく)っている。

「あたし本気よ! アイツのこと、本当に好きなんだからね。あたし、諦めない。なにがあっても絶対に諦めないから!」

こんな馬鹿な話があるか。シンジを傷つけレイのことを考えて身を引いたのに、当人がさして気にしたふうに見えないとは。なんて惨めなのか。昨日の身体と涙、彼の名を呼んだ想い。服装まで地味にして自分なりのけじめをつけようと来た誠意を翻し、挑戦状を叩きつける。だが、レイはやはりかつての彼女ではなかった。

「そう。でも、彼は渡さないわ」
「だったらもっと怒んなさいよ! これじゃ、これじゃあたし、バカみたいじゃない!」

叱られることなく、恨みごとを言われるのでもない。彼は奪えず、さりとて捨てるなんてもっとできない。楽になりたいのに少しも開放されない。ふと力が緩んで腰を落とした。シーツの上に彼の髪の毛が落ちている。彼と彼女の下着が並んで干されている。どう足掻いたって勝てるわけがないのに、無様にも追い縋ろうとしている。

「だって、あなたが彼を求めるのはしかたないもの」

いつの間にか流れていた涙を隠すことなくレイを見た。彼女の眉は寄り、唇を噛んでいる。またパキりとペットボトルが鳴った。彼女だって怒っているし哀しんでいる。それを必死になって抑えていたのかもしれない。自分とは性格が違うと知っていながら人形と評したかつてと重ねて見てしまったのか。少しだけ冷静になって耳を傾ける。

「どういう意味よ……」
「あなた、碇くんと一緒に暮らしていたのでしょ? 彼との絆がとても深いと思うから」
「だからって浮気を許すって言いたいワケ?」
「いいえ。でも、ユニゾン訓練や並んで歩く登下校、学校や本部で喧嘩したり笑いあったり……私にはないから」

つまり、あとから来たから大きな顔ができないと言いたいのか。自分とは逆だ、とアスカは思った。さきんじていたのに生かせなかったからいま必死に取り戻そうとしている。過去を求める彼女と過去を否定したい自分。けれど、そんな簡単な話ではないことが続くレイの言葉からもわかる。

「それに、私はあなたのように心を強く表すことができない。嬉しいこと楽しいことは知っている。好きなこと、心地いいこと、嫌なことや怒ることだってわかる。哀しさも私の中にはある……なのに感情がついてこない。どうしていいのかわからない」
「怒るに怒れないってこと?」
「ええ。でも、一番の理由はあなたと険悪になりたくない。きっと碇くんがそれを望んでいないから」

レイは顔を伏せた。期待していたような罰はなく、ただじっと床を見詰めている。もうペットボトルも鳴らない。しばしの静寂が心を落ち着かせた。そして、どれだけ自分が最低な言葉を発したのか気づく。レイはなによりもまずシンジを優先した。今回の件で深く悩んでいるのは誰であろう彼なのだから、まっさきに案じて当然だ。それなのにもかかわらず自身といえば、昨夜は捜索に出るわけでもなく部屋でひとり悶々と反省していただけである。挙げ句の果てに感情を爆発させて、このざまだ。

「あたし、なにしてんだろ……ごめん。本当に、ごめんなさい……」
「べつに、いいわ」

アスカは顔を覆ってしくしくと泣いた。プライドも恥もなく、ただ自身の醜さと情けなさに肩を震わせる。シンジが好きすぎてつらい。レイに高説を並べた件だって、端的に言ってしまえば彼が欲しいあまり蹴落とすような手段を取ったにすぎない。自分のほうがしあわせになれる、してあげられると蔑んだだけだ。彼女はちゃんと恋しているし少しずつ変わっている。恋慕の情に理由なんていらない。それは自分が一番よくわかっているのに、どうしてこんなにも感情が止まらなくなってしまうのか。彼が知ったら幻滅するだろう。あんなことをしておいていまでも嫌われたくないと切実に願った。

レイから声はかからない。そうやって少しでも期待してしまう自分がますます嫌になる。それでも救いを求めるように顔をあげた。涙をぬぐって唇も強く結ぶものの眉は寄り、懇願するような声になってしまう。

「そのさ……あたし、どうしたらいい?」
「どうしたら?」
「近づくなとか、話をするなとか、そういうルールみたいな……さ」

言ったあとに思わず息を潜めた。間違った提案はしていないはずだ。なにかと顔をあわせる機会も多いだけにこれがもっとも誠意ある態度だろう。そうやって自分に強く言い聞かせる。ところがレイは表情ひとつ変えず首を横に振った。

「いままでと同じでいいわ」
「でもそれだと……あたしに罰がないじゃない。不貞したんだから」
「私が罰を与えてあなたの求める気持ちがなくなるの?」
「ごめん。すぐには……」
「なら意味ないわ。それに、彼が哀しむでしょ?」

関係の維持がシンジのためになる。すべては彼のためという考えはよくわかるものの、しかしとてもつらいと感じた。好きな気持ちを抑え、距離を保ち続けなければいけない。これこそが罰なのだとアスカは溜息とともに頷く。

「ええ、わかったわ……」

内心を見抜くようなレイの視線が痛い。無言ゆえに叱責されるより堪えた。そしてそんな弱さゆえに許しを求めてしまう。それこそが胸の内だと促されているように思えて緊張すると肩を狭める。顎を引き、上目遣いでそっと様子を窺いながら口を開いた。

「こんなこと言えた立場じゃないのは承知だけど、あたしと……その……」
「その?」
「とっ、と……友達に、なってくれない……かなって……」
「友……達?」
「うん、友達。あたしがそうなりたい、って言うのはもちろんだけど……」
「碇くんのことね?」
「う、うん。でも、やっぱり卑怯ね……」
「いいえ、構わないわ……友好的にするのが最善だと思う」

いくぶんか顔色のよくなったレイが頷くのを見てほっとする。どっと肩の力が抜け、大きな息を吐きそうになった。もしふたりが交際しなければ彼女のことをなにも知らないままだったのだ。今後どれだけの信頼を得られるかは不明なものの、もっと距離を縮めて理解する必要がある。

「ならあたし、これからはレイって呼ぶわ。だから、あたしのこともアスカって呼んで。友達にはそうしてもらってるの。まずはそこから始めましょ」
「あなたは碇くんに横恋慕しているのだから正確には恋敵よ。よって、今後も惣流さんと呼称します」
「そ、そうね……いいわ」

さすがに虫のいい話だと自戒した。危うく恋人を寝取る寸前までしておいて、いまさら友達では笑止だ。番号で呼び、人形と罵ったくせに我ながら嫌な女だと思う。だからこそ、ここから始めなければいけないのだ。

それからレイは会話の終了を告げるように干してあるバスタオルと下着を手に取って風呂場へ向かおうとした。てっきりシンジの捜索に向かうものとばかり思っていたアスカだが、ミサトから待機を命ぜられていると言う。

「惣流さんは座ってて」
「あ、うん……」

そう言われたがテレビもない部屋でじっとしているのも困りものだ。なにかないものかと見渡したとき、小さい箪笥(たんす)の上が目についた。やたらと難しい本を読むレイなのできっと眠くなるような詩集や学術書のたぐいだろうと考えたものの、どうにも背表紙がおかしい。

「あっ……それは……」

脱衣所から気まずそうな声が聞こえた。分厚い本の背表紙には〝性の奥義! 四十八手のすべて(図解)〟と書かれている。これを逃すアスカではない。ニヤりと嫌らしい笑みを浮かべると、攻めに転じた。

「へぇ。ファー……レイがこんな本をねぇ」

異性やセックスに興味が尽きないお年頃なのはレイも変わらないようだ。さてどんな凄いことが書かれているのか、もしくはページの端が折られているのかを確認するためチェストに忍び寄る。だがしかし、本へ伸ばした手は(すんで)のところで脱兎のごとく駆けて来た全裸のレイによって虚しく空を切った。見れば頬を染め、胸に本を抱く姿だ。

「これは葛城三佐からもらったもの……」
「ミサトから? あの女、なに考えてんのよ」

中学生にあるまじき猥本(わいぼん)を大人が渡すのはどうかと思う。わざわざレイのために買ったのか。いや、きっと蔵書だ。加持との再会の折にあれこれ研究するつもりだったのかもしれない。

「年末のビンゴ大会で当たったって……」
「ネルフってそういう組織なの? ってか、レイの口からビンゴ大会って言葉出るのなんか萌えるわね」

使徒などという怪獣と人類の存亡を懸けた戦いをしている国際組織で忘年会とは、日本人はずいぶん呑気だと呆れた。子作りの指南書を景品にするセンスも疑問だ。世界的な少子化にちなんでいるのだろうと無理に納得する。いっぽうレイは隠し場所がないものかと室内を見渡していた。

「これは駄目。あなたが読んではいけないわ」
「レイは読んだの?」
「まだ……」
「いいじゃない、ちょっとくらい。ってゆーか、アンタさっさとシャワー行きなさい。いつまでアソコ丸出し、おっぱい全開でいるつもりよ」

レイは二回頷いて、チェストに指南書を置く。ぷるぷると白い胸と尻を揺らしながらようやっと浴室へ入ろうとしたときだった、彼女の携帯が鳴ったのは。さっと首をめぐらせ、肩にかけたバスタオルを床へ落とすと枕元の棚に飛びつく。電話の相手はミサトであり、シンジが本部へ出頭したと告げていた。


外界の光が窓から入り込み、室内の広さを余計に際立たせる。見晴らしのいい景色に目を奪われることもなく、シンジは直立不動で首を垂れた。かつてこの部屋へ来たとき彼の心は怒りと絶望に染まっていたが、いまは後悔と反省しかない。手錠はかけられず、座して両手を口の前で組む父から尋問を受けている。カヲルとは途中で別れたためひとりだ。視界の隅にソファーで背を向けた冬月がいるものの話に加わることはない。

ただでさえいい想い出のない部屋が、いっそう居心地が悪かった。黙秘するような度胸もない彼は、つらつらと失踪した経緯を報告する。話せば話すほど稚拙な行動を悔やんだ。羞恥に赤面するどころか、ひたすら眉を寄せていた。

「シンジ。ほかになにか言うことはあるか」

ひととおり話し終えるとゲンドウは言う。倒れた父を案じたシンジだが、余計な気遣いだったと思わせる重い口調だ。少しくらいはそういったやり取りも許されるのかと一瞬だけ考えて振り払う。とてもそのような柔らかい雰囲気は見られない。

「ないです……」

蚊の鳴くような声をなんとか搾り出す。ゲンドウはそんな彼に構わず総司令としての言葉を発する。曰く、追跡を困難にした外出と無断外泊、および職務放棄。捜索にかかった諸費用は給金から引く旨、パイロットとしての自覚うんぬんといった、じつに耳の痛い話である。以前のときよりも長くとても説教じみておりシンジは肩を落とす。思っている以上の大事に頭を抱えたくなるほどだった。だから反論を挟まず静かに頷き謝罪する。そして最後にこう言われるのだ。

「シンジ。逃げてはいかん」
「はい……」

シンジはますます消え入りそうな声で答えると退室を促される。さきほどにも増して全身から哀愁と悔恨を滲ませた彼がドアをくぐったのを確認して、ゲンドウは大きく息を吐いた。両手の親指でこめかみをほぐしながらさらに一段声を低くして言う。

「冬月、なにがおかしい」

離れて詰め将棋に興じている男へ声を投げる。冬月は教本を片手にピシりと駒を打つが、目は少し細い。

「お前は顔も見ず、声も聞かず、相手の心が読めるのか? まるで超能力者だな」

彼は盤面に顔を向けたままだったが、対するゲンドウは自身の迂闊さに舌打ちをした。今度こそはっきりと冬月の押し殺した笑いが耳に聞こえるのである。


階下のシンジは、おそらくミサトかマヤあたりから本部施設に関する説明をカヲルが受け終えている頃だろうと考えてブリーフィングルームへ向かう。自分が悪いとわかってても慰めてもらいたかった。しかし残念ながら部屋は無人で、それならばと休憩所を覗きに行く。

通路の角を曲がればよく利用する場所だ。そう思いつつ一歩を踏み出せば、果たしてそこにいたのはレイでありアスカでありカヲルである。全身を晒してしまっている以上いまさら隠れることもできず、シンジは何度目かになる溜息とともに彼らを一望した。

四人用のテーブルが四つ配置されたうちのひとつにレイとアスカが対面で座り、通路を隔ててカヲルがテーブルに腰かけている。初めにレイの丸い視線がシンジへ飛び、つぎにカヲルが横を向いた。最後にふたりに釣られてアスカが肩越しに振り返る。赤四つ、青ふたつの瞳に見詰められ、全身に矢を受けたかのようにシンジの呼吸はきゅっと止まった。それでもなけなしの勇気で声を発するが、彼らに届くとは思えないほどの情けない大きさだ。

「あ、あの……ゆうべは、ごめん……」

片手を閉じたり開いたりする悪癖が出て首筋にさっと汗をかく。助け舟を出したのはカヲルだ。彼は変わらず笑みを浮かべているが、どこか張りつけたような顔に見える。目元は素面で口元だけがやけに開かれていた。

「いやぁ、キミがあの場所にいてくれなかったらボクはいまでも町を徘徊してたかもしれないよ」

ポケットに手を入れたままの体勢で肩を竦める。見え透いたフォローだとシンジは思ったが、返す言葉が出てこない。そこへ、席を立ったレイが素早く駆け寄ってくる。頭半分ほど身長の低い彼女を見下ろす形になる彼は、瞳が揺れているのを知って抱き締めたい衝動に駆られた。なにもかも、馬鹿をしたと改めて感じずにはいられない。

「碇くん……体調、大丈夫?」
「う、うん……その……」

ごめんという言葉を飲み込む。すべて一緒くたにして許してもらおうとしているようで、とても口にはできない。唇を噛み、どう言えばいいか思案しているとレイが半身を開いてアスカのほうを向いた。彼女は通路にいる。ふたりがともに小さく頷いたのを見て、なんらかの話が済んでいるのを理解した。

「さきに、惣流さんと話をしてきて……私は平気だから」
「わかった……」

呟くように返したシンジはさきを促すように歩き始めたアスカのあとを追う。隣へ並ぶ度胸はなく手の届かない距離を維持して無言で通路を歩いた。急がず振り向かずに黙々と進む彼女は、いつも使っている赤いインターフェイスヘッドセットの代わりに黒いリボンで無造作に髪を束ねている。上着は編み目が粗い黒のサマーカーディガンで、中に白のTシャツを着ていた。プリーツスカートも黒で、長い丈の下は白いショートソックスとストラップのある黒いパンプスだ。

コツコツと床を叩くアスカの靴音と、ひたひたと鳴るシンジのスニーカー。やがてふたりはエレベータに乗り込むがそこでもアスカはシンジに背を向けて扉の前に立った。とても話しかけられる雰囲気ではないしなんの言葉もない彼は、目的の階に到着してもアスカの後頭部だけを眺める。ほとんど無心でいたため着いた場所が以前にレイと来たことのある庭園だと気づかなかったほどだ。

「アンタはそっち、あたしはこっち」
「ああ、うん……」

ほどなくして広い庭の一角に置かれた椅子へ座る。テーブルを挟み、アスカと対面だ。このコンクリートでできた長椅子とテーブルのデザインはゴシックだったかロマネスクだったか。いや、バロックかもしれないと現実逃避ぎみに思考した。気が重く、とても彼女の目を正面切っては見られない。

ジオフロントという地下空間にもかかわらず、外光を取り入れる構造のため庭園は明るく快適だ。室温もすごしやすく決して蒸し暑いわけでもないのにシンジは喉が渇いてしかたがない。テーブルの上にはアスカが持っていたペットボトルが置かれている。ひと口もらいたいと思ったが水が半分になっているので飲みかけだ。間接キスという単語が脳裏に浮かび、目を閉じて唇に力を入れる。ついに彼は沈黙に耐え切れず口を開こうとした。

「あたしが話すから、最後まで聞いて」

だが、アスカは素早く手のひらを向けてそれを制した。安堵する彼に気づかない彼女は下を向いて黙考する。組みたくなる脚を堪え、スカートの谷間を眺めた。両手を太ももの上に置き、手のひらを天へ向ける。こうすることで素直に話ができるとなにかで読んだ。怪しいスピリチュアル系だったか、心理学だったかどちらでもいい。大きく息を吐き、顔をあげる。シンジはテーブルに視線を落としたままだ。

「最初に言っておくわ。アンタは悪くない……だから、罪悪感を持たないで。あれはあたしが勝手にしたことなんだから。本当は、ただ料理を教えてもらったりするだけでよかったのよ。あの瞬間まであたしも、シンジもなにも変なこと考えてなかったし、普通にしてたわ。でもね、アンタの顔見てたらどうしてもキスしたくなっちゃった。もしそこで少しでも身を引かれたらやめるつもりだったのよ……けど、シンジは受け入れてくれた。少なくともあたしはそう感じたわ。だからこのまま最後までシたいって、本気になった……レイとつきあってるの知ってるのにね。だから、悪いのは全部あたし。今朝も全部あの子に話して謝ってきた……そしたらレイってば、アンタが望まないだろうからいがみあいたくないって許してくれたのよ。でも、それはあの子の判断だから、シンジはシンジで決めてくれていい……それでももし、もしもよ? 未練がましいって思うかもしれないけど、シンジが許してくれるって言うなら、前みたいな関係でいて欲しいなって。その……友達って意味で」

なんの思考も挟まずアスカは一気に言い切った。正直なところ脈絡はないし自己弁護に終始しただけのような気もする。レイには提案しておきながら絶縁する、距離を置くとは言えなかった。離れたらそれこそ狂ってしまいそうなほど胸が苦しいのだ。本当は告白したかった。レイと別れて恋人になってくれと。もしかしたら彼女はそれも頭にあったのではないか。試されているのは自分の気持ちか彼の気持ちか。こんなことなら好きにならなければよかったといつも思う。

ふたりの間に沈黙が続いた。ジオフロントに風は吹かないから庭園に木々のざわめきは聞こえない。蝉の鳴き声も存在せず、わずかに工事の音がするだけだ。アスカは急かさずにシンジを見る。彼は眉を寄せ、音の大きさをたしかめるように声を紡いだ。

「僕は……僕はアスカが思っているような人間じゃない。ただ寂しいだけなんだ。ここへ来る前の学校でも、友達なんてまともにできたことがないくらい孤立してた。叔父さん……先生のところでも、離れの部屋でほとんどの時間をすごすくらい、ずっとひとりだった。それなのに、綾波もアスカも僕を見てくれる……だから僕は甘えてしまった。普通に考えたらおかしい話なんだ。こんなに美人で頭もよくて、エヴァの操縦だって、学校でだって……スタイルだっていいアスカが僕なんかと絶対にありえないってわかってたのに。でも、でもあのときは、きみが弱々しくて公園のときみたいで、だから温めてあげたらってうぬぼれたんだ。それに、昔みたいに凄く可愛かったから、どきどきしたから、綾波がいるのに、恋人なのに、アスカもいいなって、離したくないって、キスだけじゃなくてもっと知って、見てみたいって……裏切りなのをわかってて本気になったんだよ! でも普通はそういうの拒否しなきゃいけないんだ。綾波のことが大切なら、好きなら、だってそうじゃないか……ここは日本なんだから間違いなんだよ、そんなこと。アスカは悪くないって、そう言ってくれたけど、僕にそういった迷いがあっただけなんだ。ただ単に勝手に期待して見境いないだけなんだ……こうなるって、苦しくなるって、絶対にわかってたはずなのに……止まれなかった……その上、逃げて……アスカに言わせて……結局きみの心と身体を穢しただけなんだ」

シンジは両手の拳を震わせた。ごめんと謝ってばかりだと指摘された過去から、それは口にしない。けれど内心は罪悪感で満ちていた。二股だとか秘密にするとかそんな器用なことができる男でもないのに欲望に負けた自分が悔しい。レイに好きだと言った気持ちに偽りはないしいまでも世界一大切なのに、なぜこうなってしまったのか。アスカに叩かれて激しく怒られるだろう。それが当然だし、むしろ期待している。そう思ってじっと動かない。ペットボトルは鳴らず、少しの静寂のあと彼女が口を開く。

「ねぇ、シンジ……あたし、アンタに穢されたなんて思ってないわよ? さっきも言ったとおり、あたしは望んでああしたの。本気でセッ……えっちしてみたいって思ったのよ? 逆にシンジはあたしに穢されたって思うの?」
「そんなっ、そんなことないよ……アスカに穢されただなんて、思うわけないじゃないか! アスカは汚くない」
「なら、あたしたちはなにも穢れてない。たまたま勢いがついてああなっちゃっただけ。間違いではあるけれど、未遂に終わってよかったんじゃないの?」
「そんな簡単に僕は割り切れないよ……だって……」
「レイに悪いって思うんでしょ? ならあたしにはなにも感じなくていいのよ。甘酸っぱい青春ってヤツにしておけば、少なくともあたしたちの間に遺恨はない……違う? あたしは……あたしは……そう、ただえっちしたかっただけ。シンジも求められて手放せなかった……つまりそういうことよ、ええ。それ以外のなんでもないんだから」

知らず涙を落としていたシンジはきょとんとした顔をしてアスカを見る。平然とした顔をしてそんな提案をする彼女は強いと思う。失恋をしたとき引き摺るのは大抵が男だというのも納得である。

「僕たちはそれでいいの?」
「それでいいのよ。言葉は悪いけどモテたことのないアンタが、傍にいたあたしのこと惜しくなっちゃったってワケね。そんなの世間にゴマンといるわ」
「でも、父さんは逃げるなって……たぶん責任取れってことなんだと思う」

真面目な顔をしてシンジが突然そんなことを口走れば今度はアスカが豆鉄砲を食らった顔になる。次いで頬を膨らませて吹き出すと、ケタケタと笑い声をあげた。

「あ、アンタ、まさかキスしただけで妊娠するとか思ってないわよね?」
「ちっ、違うよっ。だって、かなりその……いろいろとしちゃったんだよ?」
「ほーんと、そういうトコお子さまよね。アンタのファーストキスはあたしが頂いたのよ? 昨日だって……その、き、気持ちよくしてもらっちゃってさ。あ、アンタにしては悪くなかったじゃない。ごちそうさまってヤツぅ?」
「じゃあ突き飛ばしたのは?」
「あれは……えっと……せ、生理が来たような気がして慌てただけよ」
「えっ、そうなの? 僕もっと深刻に考えてたんだけど……」
「惜しいことしたわねぇ。アンタが野獣ならもっと凄いことできたのに……ぷくくっ」
「ちょっと、なに言ってるんだよっ!」

涙をぬぐってまっ赤な顔をするシンジにアスカはまた腹を抱えた。きっと大人たちはこういうことを繰り返しているのだろうと彼は思う。ひとの家の庭先で火遊びして、家主に見つかったようなものだ。場合によっては母屋が全焼するかもれない。けれど自分たちはボヤで済んだのだ。そう結論づけると胸の痛みとともに想い出として収納した。

「そんなワケだから、シンジ。あたしの色気に惑わされないように、もっとしっかりレイの手を握るのよ? ほかのオンナなんかに目でも向けてみなさい、アンタのちょん切ってやるんだから」
「アスカがそれを言うの? 無茶苦茶だよ。だいたい僕がモテないの知ってるじゃないか……」
「あらシンジ、学校でアンタかなり人気あるのよ? とくに三年生とか本気な女子たくさんいるから、あたしぐらいで心が揺れてたら登校できないわよ?」
「嘘だ。またそうやって僕をからかって……なんなんだよ、まったく。もう料理教えてやんないからな」
「それじゃ、イケナイコトした女友達ということでよろしくね。エロ・シ・ン・ジ」

そう言うとシンジの言葉も待たずにアスカは立ちあがる。スカートの埃を叩くふりをして前面をひらひらさせると彼の視線を弄んだ。居丈高な態度でなんとかごまかしたが、あまり長居はしたくなかった。どさくさにまぎれて可愛いとか美人とか言わても喜んではいけない。なるべく彼の姿を見ないように視線を逸らして胸のときめきを抑える。拳を握って余計なことを口走らないうちに撤退するのだ。

「あの……どこ行くの?」
「アンタはここで待ってなさい。レイを連れてくるわ……」
「うん……」
「あの渚ってヤツ、なんであんなにナルシストでキモいのかしら」

その場を去ろうとするアスカの言葉にシンジははっとした。どくどくと鼓動を早くしながら勢いよく立ちあがって呼び止める。咄嗟のあせりから今日一番の声が出た。

「あのっ、アスカっ!」
「なによ急に。もうあたしが恋しいの? 大丈夫よ、ああいうのは好みじゃないから……って違うのね?」
「うん……その、気をつけて」

あまりにも漠然としたシンジの言葉だが、アスカは無言で頷くと、ひらりと身を反転させて庭園を出てゆく。そんな彼女の背中を見ながら彼は自身の判断がただしいと願うばかりだ。ゲンドウにもミサトにもカヲルが使徒だと告白したことは伝えていない。限りなく黒に近くても確定してない以上、まかり間違って友人が誤解で殺されるような悲劇があってはならないのだ。

そわそわと、落ち着きない心でシンジは立ち尽くした。アスカが去ってどれくらい時間が経過したのかわからない。もしかして本部の中では使徒の力を振るったカヲルが暴れているのではないかと想像する。レイは無事か、アスカに危害はおよんでいないか。ゲンドウやミサトの顔が浮かび、うろうろと所在なげに円を歩く。ATフィールド、エヴァでなければ勝てない相手。誠実であるという彼の言葉は信用に足るのか。

「碇くん……」

と、そこへまさにいま一番逢いたかったレイの声がした。以前ブランド店で買った大きめのTシャツとロールアップしたGパン姿はさきほど見たときと変わらず血痕も付着していない。それでも咄嗟に駆け寄るシンジだが、しかし、彼女の手前一歩の距離で快音とともに阻まれた。

「くっ……」

シンジの視界が右に流れる。頬に焼けつくような激しい痛みを覚えて渾身の平手打ちを受けたのだと気づく。思わず手を添えて顔を背ける彼だが彼女の右手も彼に重なった。

「私も、心が痛かったのよ?」

ひやりとしたレイの手が心地いい。シンジは下唇を噛んで彼女の痛みを受け取った。アスカに言った台詞はまごうことなき言いわけだ。好かれた経験が少ないから、身近に魅力的な女性がいたから、そんな理由で正当化しては誰も彼もが不貞に走る。アスカが負い目を感じていたからこそいまの話しあいはあれで済んだのだ。なんて自堕落なのか。セックスをしていなければそれでいいという話ではないのだ。浮ついた心、まさにそれこそが罪なのである。宗教、国家、時代……そんなものは関係ない。レイが大切で好きだからこそ抱き、同棲したのだ。

「僕の浮気だ。きみを裏切った……本当に、ごめん……」

恐れる顔をレイに向け、頭をさげる。悔恨の涙を流し、ごめんと繰り返した。失望、などという言葉では済まないだろう。レイがどのようにしてかつての心を取り戻したのか、それを早くも忘れたとは言わせないと自身に怒りを向ける。しかし、彼女の愛はどこまでも深かった。

「そんなのはいいの……碇くん、私はあなたがいてくれればそれでいいの」
「僕を、許して……くれるの?」
「ええ。だからもう離れないって、約束して……どこへも行かないって」

顔をあげればレイの赤い瞳から涙が落ちていた。彼女の左手も彼の頬に添えられてシンジは誓いを新たにする。つらいことがあっても二度とレイの前から姿を消さない。大勢の好意に惑わされない強い心を持つのだと。よそ見をせず、ただレイだけを見詰めるのだと。

「うん約束する……もう、もうどこにも行かない……」
「なら、抱き締めてっ」

レイは堰を切ったかのような言葉を放ち、胸へ飛び込んでくる。シンジは力強く抱き留めた。彼女の背中が小さく震えている。あの夜と同じだ。こんなにも彼女の心を冷やしてしまったのだ。彼はたまらず両手で擦る。するとレイもまた応じるように擦り返してきた。

「綾波、ごめん……でも僕、ちゃんと好きだから。きみのこと、愛してるからっ」
「うん……うんっ……」

互いの肩口に顔を埋め、頷く。ふたりとも涙声だ。彼女は彼の肩口から首筋にかけて唇で愛撫を繰り返すと、香りを胸いっぱいに吸い込んで存在を確認した。目を閉じて恍惚とした顔を浮かべると喘ぐように息を吐く。やがてどちらともなく顔を離すと、微笑みも見せずに唇を重ねる。するとレイはさらに首のうしろへ腕をまわし、口を押しつけながらシンジの口腔を割った。いまは肌よりももっと深い粘膜の触れあいこそが癒しだと言わんばかりに舌を絡め、鼻息を粗くする。

レイの大胆さにシンジが驚いても彼女は止まらない。ミサトに肯定された言葉が背中を押して、とことんまで彼を感じようとする。右手で彼の髪をかき乱し、左手は乱暴に背中を這う。片足を彼の間に差し込むと股間をぐいっと腰骨に密着させた。その間もずっと舌を絡めながら全身を小刻みに震わせる。ゆっくりと唇を離せばレイは熱波のような吐息を漏らした。

「さすがにまずいから。汗とかお風呂とか入ってないから……うん……」
「いいえ。碇くんの匂いがする……」

シンジも辛抱たまらなくなりレイはすっかり目を潤めている。しかし、情事を営むための庭園ではないため気の利いた小屋やベッドは存在しない。あるのは背の低い植木や生垣、照明灯でせいぜい見通しのよすぎる小さなガゼボ(あずまや)くらいだ。

「駄目、だよ……綾波……」
「碇くん……私、夜まで……待てない……」

それでもすぐさま口づけを再開させるのだから止める気は皆無だ。レイは視界の隅にシンジとアスカが対話したテーブルを見る。高さ的にも申し分ないとなれば、いっそう身体は燃えあがった。彼女はすかさず彼のベルトに手をかけるとシンジもレイの尻をむちりと揉む。だがしかし、彼女がGパンは失敗だったと悔やんだとき無粋にもレイの携帯が鳴ってしまうのだ。

「綾波……携帯……携帯……」
「どうして、そういうこと言うの……」

レイとしては正直なところ携帯を投げ捨てていますぐにでも交接したいのだが、もし相手がゲンドウでは困る。先日のようにふたりの仲に横槍を入れられてはたまらない。荒い息をなんとか整え、せっかく半ばまでほどいたベルトからしぶしぶ手を離すと通話を押す。聞こえたのは鼻息の荒いアスカの声だ。

『いつまでそこにいんのよ。ビンタしてキスして終わりでしょうが。さっさと戻ってきなさい』
「まだ終わってないから。だから、駄目」
『ぬぅわにが、まだ終わってないから、よ。アイツとふたりだと間が持たないから早くして。じゃないと乱入するわよ? いい?』
「あっ……惣流さん?」

一方的で理不尽だとレイは思った。もう通話は切られている。アスカがここへ到着するまでどれくらいか、瞬時に計算した。もっとキスはしたいし身体中に触れられたい。もちろん中だって飢えてるが間にあうのか。このままではシンクロテストどころではないだろう。密閉したエントリープラグであのような複座ともなればなおさらだ。そんな逡巡をしていると、早々と元気よく駆けてくる足音が聞こえた。

「こらぁ、なにやってんのよ! このエロシンジっ」

早すぎではないかとシンジもレイも驚愕した。彼女しか知らない抜け道でもあるのかとふたりしてアスカの姿を見るが、なんのことはない。彼女はレイを呼びに行ったとき休憩所で待たずに尾行していたのだ。心の内の七割はシンジたちがただしく復縁するかどうかの心配であり、もう九割はちょっとした好奇心と嫉妬である。まさかそんなことにはなるまいと生垣から覗いていれば、あろうことか人類最後の砦で白昼なにかを始めそうな雰囲気ではないか。もちろん恋人同士なのだから不貞ではないものの、アスカにしてみたら面白くない。鼻息荒く新しいオカズを捨てるという苦渋の決断を下した。

「あ、アスカ……は、早いね……あははっ」

ガチャガチャと音を立ててベルトを直すシンジはポロリしてなくてさいわいである。レイもレイで乱心していた自分に気づいてTシャツの襟やら髪やらを直し、尻が出てるわけでもないのにGパンを持ちあげた。冷たい、と感じても眉ひとつ動かさず澄まし顔のまま赤面するだけだ。

「ったくもう。なんなのよ、この色魔が。レイも女なんだから慎みくらい持ちなさい」
「あなたに言われたくない」
「くっ……そ、そうやって済んだこと言うのはナシよ。とにかく、あの薄気味悪い男とふたりなんてまっぴらゴメンなんだから一緒に戻るわよ」
「たしかに、あのひと変ね。とても異質な感じがするわ」

答えを求めるようにレイとアスカの視線がシンジに注がれる。かつて一時期だけエヴァのパイロットを勤めたクラスメイトのジャージ男は変態かもしれないが、異質ではなかった。だがあのカヲルとはなにものだ、と。出自が明らかになっているとはいえ胡散臭い態度が気になる。変な友達を引き連れるシンジのことだから、とアスカは思う。彼女の女の勘はピリピリと危機を伝え、レイもまた無自覚ながら生まれに由来するなにかを察知している。

「あの……カヲル君は、そう……」

どうするか、とシンジは激しく葛藤した。馬鹿な話だと笑い飛ばしてくれるならいい。しかし、本気で受け止められたらどう出るかわからないしカヲルの反応も読めない。険悪になりたくないのはもちろん、友人を売る行為は最悪だ。だが、そんな内面をアスカは看破しレイも続く。

「アンタ、またそうやってひとりで抱え込むつもり? なんのためのレイとあたしよ」
「惣流さんの言うとおりだわ、碇くん。なにかあるなら話して」

シンジは深呼吸を繰り返した。ちらりとアスカの持つペットボトルに目を向ければ彼女が無言で勧めてくる。レイが頷いたので受け取ると、ごくりと一気に煽った。それでも喉の渇きは癒せないし首筋や額に無数の汗が浮かぶ。空になったボトルを握る手は震え、パキりと音を立てた。

「彼は、カヲル君は自分のことを……使徒だって言ったんだ。最後の使徒だって……」

ああ、もう戻らない。言い切る直前に思った。彼は蔑むだろうか非難するだろうか。ふたりの少女は胡乱げに眉を寄せている。質問を投げかけたのはアスカだ。

「アンタはほとんど確信しているワケね? それで、どうするつもりよ。ミサトにでも言う?」
「わからない。なにかの間違いであって欲しいけど……」

彼女はカヲルに対して特別な想いを寄せるどころか怪しいと睨んでいたため、シンジの告白を疑う気にはなれなかった。むしろ、納得さえした。考えているのはただどれほどの脅威なのかということだけだ。歴代の使徒のように巨大な姿なら重量だけでも武器になる。落下してきた使徒はネルフ本部を全壊させるだけの質量と速度を誇っていたし、牛柄の使徒は手も足も出ないほど多彩な攻撃を放ってきた。では、カヲルはどうか。見たところ床やテーブルが破壊されるような体重ではないし、ビームを出しそうでもない。使徒であるなら擬態や偽装という線もありうるが、手錠で拘束できそうだし容易に傷がつけられそうである。まがりなりにも会話が成立したのだから説得という手も使えそうだ。ただ、おそらくシンジもそれは頭にあったのだろうと推察した。その上で悩んでいる。

「あたしからはなにも言わないわ。けどね、シンジ。いざとなったらあたし、ためらわないわよ?」
「わかってるっ。わかってるよ、そんなこと……」

アスカにとっては不気味な存在でもシンジには友人だ。まさにいま、好かれた経験がないと語った彼だけに失いたくない想いはひと一倍強いだろう。切羽詰まった顔を見れば苦悩が彼女にもよくわかる。人類が危急存亡の(とき)なのに、甘いとは思う。だがそれを非難できない。誰しも完璧ではないし、私情を排するのも難しい。仮に身内が使徒だと知らされて躊躇なく拳銃の引き金を引けるのかというのと同じである。そしてそれは万人に当てはまるのだ。

結局、シンジたちは結論も対策も浮かばず休憩所へ戻ることにした。カヲルを残したままでは不安というのもあったが、いまはじっとしていたくないという気持ちのほうが大きかった。

「やあシンジ君、お帰り。女の子をふたりも引き連れて贅沢だね」

休憩所を離れたときと変わらない姿勢でカヲルは三人を迎える。シンジは彼に対し、平静を装うと心がけた。しかし出てくるのは乾いた笑いだけでなんらうまい言葉が返せない。そんな彼にカヲルは続ける。

「見たところ仲直りはできたのかな?」
「ああ、うん……そうだね。もう大丈夫だよ」
「そうかい。それはよかった。悔いを残さないというのは大切だよ」

カヲルの言葉がシンジの胸に刺さった。人類の痕跡を見ておきたい。そして、死の瞬間でも健やかであれるように。彼にはそう聞こえる。返す言葉を捜さないで済んだのはアスカの携帯が鳴ったからだ。チルドレンはシンクロテストに備えよ、というミサトからの伝達だった。


一時間ほどあと、ミサトは映し出されたモニタを凝視している。弐号機のプラグ内に座しているのは新しく来たフィフスチルドレンの渚カヲルだ。片や初号機にはシンジとレイが前後に連なって座っているがとくに目新しいところはない。しいてあげるとするならばシンジの緊張で、心拍や脳波の数値が安定しないくらいか。レイに別段変わりは見られないものの、前方の彼を見る目がどことなく憂いを帯びている。

「伊吹二尉、弐号機のプラグ深度もっとさげてみて」
「これ以上はさすがにパイロットへの負担が……」
「平気よ。彼とても余裕がありそうだもの」

ぐぐっとプラグの深度が増してもカヲルの表情やバイタルに変化はなく、ハーモニクスの値はぴたりと追従した。シンクロ率は70パーセントで固定されている。端末を操作していたマヤは何度目かになる驚きの顔を浮かべた。カヲルはテスト開始からいまに至るまでさまざまな調整を受けてもなんらブレを見せず常に一定の値を記録し続けている。おかしい、と思うのは多くのスタッフに共通する認識だ。たとえ復調したアスカでもここまできっちりとしたシンクロ率は出せない。彼女はおおむねこれくらい、と意識してやってのけたが、それとて多少の変動はあったのだ。よほど訓練されてない限り感情や集中力を一定に保つのは困難を極める。幼少から訓練漬けだったアスカをも大きく凌駕する結果にドイツ支部の優秀さへ賛辞を送るべきか、人類補完委員会という上位組織の秘蔵っ子と見るべきか、はたまたカヲルの特殊性なのか。

「葛城三佐。彼、何者ですか?」
「わからないわね……アスカの様子は?」
「機嫌が悪そうにしてますが、そこまで荒れてないようです」

シンクロ率ではなく弐号機に乗られたのが嫌なのかもしれないと、控え室でモニタを見ているプラグスーツ姿のアスカを窺う。更衣室とは違い、サウナ部屋のような狭い空間にはモニタと椅子しか置かれていないからモノに当たることもできないわけだが、彼女は黙って脚と腕を組んでいた。足と手の指先でリズムを取っているから、なるほどたしかに苛立ちが増しているようだ。

ミサトはいくつかの推察を立てる。まず初めに地上でシンジとカヲルが並んで歩く映像記録を見たが、談笑しているところしか映っていなかった。歳が近いからすぐに打ちとけたようだ。残念ながら会話などは拾えていないし、使えたのも一台のカメラのみである。つぎに庭園のカメラを思い浮かべるが、なんてことのない痴話喧嘩とシンジとレイの濃厚な抱擁くらいだ。こちらもマイクが不調で内容は不明なものの、駆けつけたアスカも含めて三人になんら険悪な雰囲気はなかった。一緒に確認したマヤが息を切らせるほど昂奮していたくらいである。彼女はレイに対して複雑な感情を持っていたのをミサトは気づいていたが、なにか吹っ切れたのか、それとも知らないふりをしているのか。

そして最後は休憩所の映像と音声だ。ここがどうにもおかしかった。ほとんど会話らしいものはなかったのだが急に三人とカヲルの距離が開いたように感じたのだ。たとえばシンジとカヲルが親しくしていることにふたりの少女が嫉妬したと考える。多感な年頃ゆえに可能性としては排除しきれないが、女の勘が違うと告げていた。あれはそういったたぐいのものではない。なにせ当のシンジでさえどこかよそよそしいのだ。仲良くするなと庭園で釘を刺されたわけでもあるまい。ならばいったいなにがあったのか。もっともありうるのが間諜だ。いまやネルフ本部と日本政府、および支部との関係はかなりの緊張をはらんでいる。内部工作をするための要員として派遣され、シンジがそれを知ってしまったというものだ。じつにお粗末ではあるが、それすらかく乱させるための策かもしれない。

「わっかんないわねぇ」
「なにがですか?」
「ひとり言よ。それよりも、地上の準備はどうなってるの?」
「はい。指示されたとおりのことは進めてますが……本当に必要なんですか?」
「さぁてね。私のクジは当たらないけど、これは当ててみせるわ」

疑念を隠そうともしないマヤに軽口で応じた。いまは目の前のことが先決だ。もしシンジがなにかを知っていると仮定して、なぜそれを大人に言わないのか。あの態度からして取るに足らない秘密とは思えない。言えない理由があると考えるのが自然だ。であるならば、これは彼らの無言のメッセージではないだろうか。訊き出すのは愚策だ。これこそ大人が気づいてやらねばならないはずである。ミサトはそう結論づけた。

やがてカヲルのテストは終わり、つぎはアスカの番となる。彼女はプラグの洗浄を追加で頼む念の入れようで、なかなか潔癖なところを見せた。それでもシンクロ率は復調時と変わらず通信でシンジたちをからかう余裕さえある。

『レイぃ? シンジと同じLCLに浸ってるからって変な妄想してんじゃないでしょうねぇ?』
『変な、妄想?』
『シンジのアレとか、ソレとか?』
『碇くんの……あれ……?』
『ああ、アンタのアレソレもあるわね。中庭の……ねぇ?』
『くっ……』
『ま、無言なシンジもえっちな暴走モードに突入しないようにねぇ』
『碇くん、耳を貸しては駄目』

果たしてこれはリラックスさせようとするアスカの芝居なのか、それとも本心なのか見極めるのが難しい。ミサトは椅子に座って思索に耽り、マヤは鼻の穴を膨らませて顔を熱くしている。緊張ぎみだった管制室に微笑ましい空気が漂っただけで少しの異変も見られなかった。


束の間の和やかな雰囲気もテストが終われば日常へと戻る。レイとアスカはまた庭園に行き、シンジとカヲルは時間をともにした。昼食夕食は集まり、そして別れる。シンジはカヲルと入浴するが、彼が語るのはネルフへ呼ばれるまでの自分の半生だ。カヲルの某所を覗き見してレイと同様にツルツルでも内心はおくびにも出さない。なけなしの勇気を振り絞ってカヲルに用意されている自室へ行ってもいいかと尋ねれば彼は快く応じてくれた。

「なんだい、シンジ君。ずいぶんと暗い顔じゃないか」
「そう、かな……ああ、うん。なにもふたりして床で寝ることないのにって」

ふたりは床に並んで仰向けだ。室内灯は消され、ほんのわずかな電子機器の明かりだけを光源にしている。それでも目が慣れてくれば相手のシルエットくらいは窺えた。

「だってこのほうが話しやすいだろ?」

頭のうしろで腕を組んでいるらしいカヲルが答えた。シンジとしても彼が見えないほうが安心できる。罪悪感に苛まれなくて済むからだ。

「うん。たしかに……」
「ボクに聞いて欲しいことがあるんじゃないのかい?」
「えっと……なんだろう」

シンジはいまの学校での生活を語った。友達たちとよくつるみ、それなりに楽しいこと。レイやアスカのいる景色がとてもかけがえのないものだけど、残念ながら学校の再開はしばらくさきになるといった取りとめもない話題だ。単なる時間稼ぎにしかならないとわかってても彼の口は次々に言葉を発した。聞いてもらいたかったのは事実だ。どういうわけだかカヲルといると話しやすい。彼の声色か相槌か、不安はあっても恐怖はなかった。だから、話が途切れたときに投げかけられて心臓が止まる思いをする。

「ボクのこと、どうして葛城さんには話さなかったの?」
「えっ? そ、それは……」
「あのふたりには話したんだろ?」
「あっ、えっ……その、ごめん」
「責めてるわけじゃないよ。どうしてかなって」
「正直、僕……つらくて。でも綾波やアスカなら平気かなって……ミサトさんには言えない。そこまで、裏切れない」

カヲルは黙っている。やはり失望したのだろうとシンジは気落ちした。レイたちとミサトの違いはなんであろう。パイロットと上官、それだけなのかべつの理由か。かつては心地いいと感じていたミサトがいま少し怖いと思うのは、あまりに勝手すぎるかもしれない。

「なるほど……ひとの心は抱え込めることに限りがある。だから忘れたがるし、他人を求めるのさ。悪いことじゃないよ。むしろそれこそがキミたちの本質だ」
「人間の本質……」
「そうだよ、シンジ君。不完全だからこそ、ひとはここまで増えたんだ。自分ができないことを誰かにやってもらうためにね」
「僕は誰かになすりつけたいだけ……」
「そうかもしれないし、違うかもしれない。心の中なんて自分ですら気づかないものだろう? だから自分を映す鏡……他人が必要なんだよ」

とても納得のいく話ではあるが、しかしいっぽうでなぜ使徒であるカヲルがここまでひとを理解できるのだろうかという素朴な疑問が生まれた。人間というものを深く観察し、把握している。それなのに争わなければいけない運命なのだ。

「神さまってなんだろう。こんなおかしなことを平気で決めるなんて……」
「ひとが生み出した概念だよ。ああは言ったけど神さまなんて存在しないとボクは思うね。すべては自然が導いただけさ」
「運命も?」
「たぶんね。運命ということにしないと耐えられないんだよ、ひとは」

シンジの思考は地球上の隅々までを網羅し、宇宙の果てまで辿り着く。そこにいるのはどんな存在か。なぜわかりあえる可能性がある者同士を争わせるのか。だが、レイという一番愛しい彼女とですらすれ違ってしまったのだ。同居していたアスカとも何度となく喧嘩をした。考えるだけ無駄かもしれないと自棄になる。自分がただしいと思える責務を果たすしかない。そうやってつらつらと考えれば考えるほど心が寂しくなってくる。

「あのさ、カヲル君……」
「なんだい?」
「手に、触れても……いいかな」
「ふふっ……いいよ」

男同士でなに気色の悪いことをと自分でも思うものの、どうしても彼の体温が知りたかった。レイとするような指を絡めるのではなく甲にそっと重ねれば、たしかなぬくもりと柔らかさがある。使徒と言われても、やはりそうは感じない。少しだけ白い、ひとの肌。ただそれだけだ。

「ううっ……」

胸が苦しくて涙が溢れた。カヲルは黙ってなにもしてこない。頭を撫でるのでも、優しい言葉もなくただじっとしている。慰めかたがわからないのか、それともなにも感じていないのか。泣き疲れたシンジは、やがて目蓋を重くする。まだ彼と話がしたいと必死に抗おうとするものの徹夜と心労から来る誘惑には勝てず、夢の世界へ旅立つのであった。

片やこちらはアスカの自室である。彼女はいまレイとベッドをともにしていた。シンジがカヲルの部屋に行くと聞いて、すぐさまアスカが提案したのだ。万が一の事態になった場合、レイが自宅にいては対処しきれない可能性がある。もちろん、彼女をひとりで帰らせたくないという気遣いも多分にあった。

ダブルサイズのベッドならレイと同衾しても充分な広さだ。互いに仰向けになって、常夜灯のわずかな光に照らされながら雑談に興じた。語るのはアスカひとりだが盛りあがりを期待していたわけではない。張り詰めていては気が持たないからと考えつくままに話題を出す。

「――だからね、あたし途中で帰って来ちゃったってワケ」
「そう」
「だいたいなんとも想ってない相手から褒められたって嬉しくないっつぅの」
「たしかに」
「それにしてもアイツ、モテたことないーなんて言ってるけど、学校再開したらどうなるかしら」
「あいつ?」
「シンジよ、シンジ。いい? あたしが知る限り、三人は狙ってるわ」
「碇くんに横恋慕してるってこと?」

アスカは姿勢をレイへ向けて肘枕になった。わずかに視線を向けてくれるから、やはり彼の話をすると食いつきがいい。つい笑みを零せば声のトーンもあがった。

「そう。アンタもっとアピールしないとダメよ」
「アピール?」
「あたしに言ったみたく、渡さないぞっていう表現? あんまりベタベタするとヒンシュク買うけどさ」
「どうすればいいの?」

こうやって質問を挟んでくれるレイがとても好ましい。あれほど人形と忌み嫌っていたが、少し歩み寄るだけでコミュニケーションは取れるものなのだ。シンジのことは横に置くとしても、同じ戦友として、あるいは友人としていつか名前を呼んでもらえたらいい。そんな心の内が自然と口を滑らかにする。

「――ってことよ。まぁ、参考程度にってね」
「わかったわ。でも、難しいのね」
「そーやってひとつずつ覚えればいいじゃない」
「ええ、そうね」
「と、ところでさ、下世話な質問なんだけど……」
「なに?」
「ぶっちゃけ、どれくらいシてんの?」
「どれくらい?」
「だから、その、シンジとのえっちよ」
「それは……あ、あの……」

レイがシンジと結ばれてからというもの、少しでも下ネタを話すと急に動揺するさまが面白かった。庭園であんな大胆なことをしておいて、ふと平時に尋ねればいまのように言葉は噛むし、目を泳がせる。普段のクールさはどこへやら、頬を染めて口をまごつかせるものだから彼でなくても可愛いと感じるのは当然であろう。恋敵はかなり手ごわいと再認識する。

「――ま、まぁ気持ちいいから当然よね」
「う……ん……」
「心が満たされるって言うか、うん……あ、ごめん」
「平気よ。わかるもの」
「うん……」
「惣流さん?」
「ああうんうん。そうよ、ファッションについてお話ししましょ」
「ええ。私も知りたいわ」

こうして少女たちの夜も更けてゆくのであった。時折、アスカの笑い声が聞こえる部屋と静まり返ったカヲルの部屋。避けられない運命と決断の時間は刻一刻と迫っている。