第弐捨四話、弐日目

いまから千八百年ほど前の時代、ひとびとを助けてまわる男がいた。その国では禁止されている兵士の婚姻を内密で執りおこなうたいへん慈悲深い聖職者だ。だが、時の為政者はそんな彼の行動を疎ましく思い罰を与えてしまう。結婚と出産を司る女神の祝日に彼は天へ還った。以来この日は恋人たちの日としてさまざまな国で祭日となる。

平時の朝七時ともなれば、多くのひとは通勤や通学でバスないし電車に乗っている時間だ。かつての第三新東京市でも学生や勤め人が行き交い、眠い目を擦って欠伸(あくび)を繰り返す気だるい時間である。あと数時間で会議や商談があり、授業だ。どれだけ面倒でもそれが平和な日常であった。

しかしいまは違う。地上は度重なる使徒との交戦により著しい被害を受け、住民の大半は疎開している。残っているのは施設を修理する作業員や警備員、ネルフの職員と彼らを相手に細々と商売する個人商店くらいだ。

人間の数が減れば自然は力を取り戻す。ましてや風光明媚と名高い国内屈指の観光地である箱根なら、動物は己が領域を越えて市内に踏み入った。狐やウサギ、リスらが道路を歩くことはあるし街路樹に(ふくろう)の姿を見ることもある。人間が廃棄した甘い食料品などを路地裏で漁っては舌鼓を打っているのかもしれない。それが束の間の贅沢となるのか、それとも永遠の楽園となるのか。

そうした地上の変化などお構いなしに、ジオフロントのネルフ本部ではひとが蟻のように動きまわっている。日曜日だろうが、意中の相手から告白されるかもしれない祭日だろうが彼らには関係ないし頭にもなかった。予算があるうちに、とにかく直せるものは修理してしまおうと東奔西走で作業に当たっている。それこそ昼夜を問わず二機のエヴァを優先し、つぎに外装や迎撃システムといった具合に、内部などはあとまわしだ。

そんな経緯もあってエヴァの格納庫はいち早く体制を整えていたわけだが、そうなると人員がほかにまわされて然りだ。猫の手だろうが孫の手だろうが借りたいほど忙しいのである。もちろん、最重要設備ゆえ警備は万全だ。職員でも管轄外のスタッフは扉をくぐるのさえ叶わないほど厳重に守られている。しかし、世界に四人しか存在しないパイロットともなれば話はべつだ。IDカードは使用するものの、不審がられて止められないし監視もされない。保安カメラがあったところで注視しているほど暇ではなかった。

ゆえに、着任したばかりのフィフスチルドレンが私服でエヴァの前に立っていてもなんら気に留める者はいないのである。どこから見てもシンジたちと変わらない中学生だし少女のように華奢な身体の線であれば、喧嘩はもとよりスポーツすら縁遠く筆でも持っているほうがふさわしい。黒いズボンのポケットに手を入れ、張りつけたような怪しい笑みで弐号機を眺めていても意味不明な言葉を呟いていても関心を示さないのだ。仮に耳にしたところで〝そういった年頃〟と思うくらいである。

「昨日も感じてはいたけれど、やっぱり動かないね」

見あげるカヲルと彼を見下ろす弐号機。互いに意思の疎通をしているかのように沈黙しているが、ほどなくすると彼は落胆の表情を浮かべた。片手をポケットから取り出してエヴァへ向けるものの、弐号機に反応はない。

「まだ覚醒していないのに……彼女の存在が大きい、か」

目論見が外れた、と人間らしく肩を落とす。母子の絆は簡単に断ち切れないのだろう。もちろん覚醒した初号機は使えないしそもそも起源が違う。面倒だと言わんばかりに頭を振って腹案の実行に移る。

「やれやれ。行けるところまで進んで、あとは徒歩かな」

できれば歩きたくない。しかし彼に取れる手段はとても少なかった。こんなことならシンジと来ればよかったかと一瞬考えて、自分に笑う。これがひとで言うところの未練なのか。彼ならどんな言葉と想いをぶつけてくれるだろう。カヲルは緊張や恐怖を感じずにタラップの外へ足をかける。手すりは存在しない。したがって、普通ならあっさりと転落してしまう。LCLが抜かれたままのため確実に墜死する高さだ。不幸な事故とずさんな管理体制を問われた大人たちが頭を抱えるだろう。

ところが彼はそうならない。重力に引かれて床へ激突せず、ふわりと空中に浮くのだ。翼を羽ばたかせるのでもなく、ひとの姿でATフィールドによる浮遊をおこなっていた。カヲルが使徒と認定された瞬間である。


情け容赦ない警報の音が本部内に反響する。最初に発令所へ到着したのはミサトだ。彼女は徹夜し、仮眠を取ったあと日向マコトが探し出したリツコの拘束場所へ行った帰りだった。憔悴する友人の口から聞かされた〝最後の使者〟との言葉に驚愕し、慌てて戻る途中に警報を耳にしていた。迂闊だった感はぬぐえない。あらゆる形態を取ってきた使徒ならばひとに擬態している可能性もあったのだ。上位組織から派遣されたというお墨つきが目を濁らせていた。(ほぞ)を噛む思いで通信用のマイクを手に取ると三人のチルドレンへ通達する。

「三人ともいい? 相手は渚カヲルと名乗る人型の使徒よ。現在、メインシャフトを降下中だから追って」

我ながら残酷な指示を出しているとミサトは思った。昨日まで交流のあった少年を殺せと命じているのだ。シンジとカヲルが談笑しているカメラの映像が脳裏に浮かぶ。三人は知っていたのだろう。だからシンジは昨夜にカヲルの部屋で寝たし、おそらく見張るつもりでいたに違いない。友人としてギリギリまで彼を信じていた。それが朝、友情という名の握られた手はするりと抜かれさきへ行かれてしまった苦悩は察するにあまりある。大人に言えるわけがない。私情としてはシンジを叱る気になれなかった。

そんな彼はエヴァの前で呆然としている。両手で顔を覆い泣き崩れているのがモニタに映った。ほどなくしてプラグスーツに着替えたアスカとレイが駆け寄っているから、やはりあらかじめ想定していたようだ。それほどカヲルと交流が深くなかったのか、長い訓練の賜物か、ふたりはシンジと違って冷静に見える。音声までは聞き取れないが、アスカはシンジを叱咤し、鼓舞しているようだ。諦めた彼は力なく立ちあがりレイを連れてエヴァのエントリープラグに入ってゆく。とても短いやり取りがなんともやるせない。シンジが私服のままエントリーしたためシンクロ率に誤差があるという報告をマヤから受けるとミサトはまた指示を出す。

「いま全隔壁を閉鎖しているけどすぐに開けるから、アスカが先行してシャフトを降りて」

人型を取った弊害か、カヲルに隔壁を破る力はないようだ。通路の監視カメラに姿がある。彼のゆく手には武装した保安要員が待ち構えており問答の余地なくサブマシンガンを放っていた。可能ならこの使徒だけは大人が対処したいと思っていたが、それは叶わない。無数の銃弾はカヲルが発するATフィールドに阻まれなんら傷を与えられず保安要員たちは弾かれるように勢いよく壁へ叩きつけられる。赤い染みを見れば即死なのは間違いない。ミサトはあえてその事実をシンジたちへ伝えた。映像をプラグ内のモニタにまわしたのだ。

「あなたたちの心情は察するわ。でも、これが現実よ」

カヲルは通路を進み、つぎの攻撃も難なく防いでは隊員たちを赤い染みや霧に変える。降下中のアスカは苛立たしげな表情を浮かべ、シンジは唇を噛んで無言だ。もはや逃避しようもない光景に前屈みとなりながら操縦桿を握っている。ミサトはシンジという少年の成長を甘く見ていたのかもしれないと思った。水槽を見たあの夜、レイを見捨てずともにすごしたように彼は内に秘めた強さがある。普段は怯弱に隠れていても、どこか一線を越えればたちまち獅子さながらの胆力を見せるのだ。だからこそ、アスカを先行させて正解だったと確信する。

また大勢の隊員が死に、シンジの罪がひとつ増えた。隔壁ほど厚みがないシャッターは簡単にひしゃげる。カヲルは自らの凶行を隠蔽することなく笑みを浮かべながら地獄の中心地へ向かってゆく。


地上とジオフロントを隔てる外殻から6875メートル地下にある空間はターミナルドグマと呼ばれる場所だ。本部施設とは掘削の際の名残であるメインシャフトで繋がっており、セントラルドグマと言う。カヲルが降下を諦めた通路であり、アスカが追跡中である。

彼女は暗い大穴に落ちるとき、いっさいの希望を捨てなかった。発令所から読みあげられるマルボルジェなどといった物騒な単語も頭に留めない。もうすでに第八層まで来たとわかれば充分だ。逆を返せば肉欲や大食の罪は犯していることになる。暴力も悪意もおおいにあったが気にしていては人間などやってられない。それなりの自覚があるだけに完全な開き直りだ。

「これはさしずめ氷漬けってことかしらね……」

激しい衝撃とともに着地して周囲を見渡す。初めて来る場所なだけに驚きがあった。赤黒い壁面、白い大地に突き立つ墓標のような無数の柱が塩や氷に思えてしまうのは場所柄なのか。きっと鍾乳石だろうと見当をつけて考察しない。天井が宇宙のように見えても神秘に浸っている暇はないのだ。

「おさきに失礼するわ」

降りてきた穴の直下でシンジたちの初号機を見あげずに進む。彼女の駆ける弐号機が手にしているのはナイフだけだ。装備まで間にあわなかったというのもあるが、相手が人間サイズならこれで充分だと判断した。なにせ、かつてないほど〝使徒〟の姿を間近で見たのだ。足で踏みつぶすだけでも容易く殲滅できよう。これほど楽な相手はいない……ひとの姿さえしていなければ。

『待って、アスカっ。いま行くからっ!』
「あら、あたしのお尻を追っかけちゃって。そんなに触りたいの?」

嘆きの川を彷彿とさせるLCLの海をアスカはざぶざぶと割った。着地した初号機の振動が後方から伝わる。シンジは切羽詰まっているようだ。ゆえに通信で軽口を叩いたのだがまるで耳に入っていない。激昂の反動はとても大きいのだ。後悔に繋がらないよう落ち着いてもらいたかった。

『アスカ、早いよ。アスカっ』
「あたしすぐにイッちゃうのよ。知ってるでしょ?」

シンジの必死な呼びかけを無視する。この事態に責任を感じているのだろう。一緒の部屋に寝ていながら惨殺を止められなかったという悔しさだ。自らの手でけじめをつけたいと追い越すに違いない。だからこそ、彼にやらせるわけにはいかなかった。ふたりには少々悪いがじっとしててもらう。そう決めるや否や肩を掴んできた初号機の腕を取り、足払いも交えて海底に叩きつけた。息が詰まって苦しいだろうが、これで多少は気勢を削がれただろうし間にあわなかったと言いわけも立つ。

『ぐっ……あすっ、カ……』
「アンタはそこでレイとイチャイチャしてなさい」
『まっ……』

見下ろして言い放つと(きびす)を返した。案の定、初号機は起きあがるのも四つん這いになるもの緩慢な動作だ。これでいい、とアスカは前へ進む。これからやるのはおそらく至上最強の難敵だ。わずかに緊張しながらカメラの映像を望遠に切り替える。映し出される本部の見取り図がただしければ表示されている非常階段から間もなく降りてくる頃だ。

そして目論みは正解で、彼女の青い瞳は白いスニーカーの足を捕捉した。ナイフを持つ手にぐっと力を入れる。一足飛びで斬りかかれるように腰を落とした。黒いズボンが見え、腰のベルト、白いYシャツと続く。ぴょんぴょんとウサギさながらに踊り場を跳ねて移動するがこちらに気づいた様子はない。

最後の跳躍は波止場のような通路への着地だ。瞬間、アンビリカルケーブルをパージする。息を吐き、両脚の筋肉をバネにした。彼我の距離、エヴァの姿勢、背中を向けた相手とどれを取っても完璧だ。振動と音に気づいたカヲルが振り向こうとする。構わず逆手に持ったナイフを鉄槌さながらに打ち下ろした。しかし、それは突然の轟音に阻まれるのだ。

「なっ!?」

音のしたほうへ横目で窺うと、黒い壁が向こう側から破壊されている。暗くて奥は見通せないが、ぞくりと背筋が凍るのを感じた。それでも彼女のナイフは勢いを止めずにカヲルへ届き、ATフィールドが光る。同時に脇腹へ激しい痛みが炸裂するのだ。

「かはッ!」

苦悶の呻き声と横に弾かれる機体。エヴァの操縦システムは欠陥だ。機体が受けたダメージでも身体が思い込むことでパイロットにも同様の傷を与える。ましてや高いシンクロ率ゆえ、彼女は腹を強打されたに等しい。

「アスカ!」

叫んだシンジは目を疑った。弐号機がカヲルを捉える寸前、狙っていたかのように壁から長いなにかが飛び出して彼女を穿ったのだ。弾丸もかくやという勢いで放たれたそれは腹部装甲を四散させると弐号機を吹き飛ばす。彼女は受け身すら取れず、二転三転とオレンジ色の海で跳ねた。慌てて壁を見たシンジは驚愕する。

「あれは……」

レイの声だ。さしもの彼女もそのおぞましい姿に言葉を失う。壁からぬうっと現れたのは顔面のない黒い巨人だった。放たれたのは巨人の片腕であり、上半身を壁の外に()り出している。巨人はゾンビのように這いずると緩慢な動作で直立した。全身を震わせ、いまにも倒れそうなほど弱々しい立ちかただ。

『あれ……エヴァ、でしょ。なんで、こんなところに……いるワケっ?』

回線越しにアスカの重苦に満ちた声が聞こえる。骨折とはならずとも腹筋は激痛に痙攣し、熱を帯びているだろう。それでもモニタに映る彼女の瞳は戦意の輝きを失わず相手を睨みつけている。

「たぶん、参号機よ。ここに廃棄されたって聞いたから」

レイは問いに答えた。だがしかし、どうしていまになって稼働しているのかという新たな疑問が生じる。もしや殲滅したはずの使徒がなんらかの拍子に復活したのだろうか。いや、違うとすぐに否定した。カヲルの姿が脳裏に浮かび、原理は不明なものの彼が遠隔操作していると結論づける。ではどう戦うか。銃火器などは持っていない。三機で迎撃に向かった野辺山の戦線では大苦戦したのだ。ところが、操縦を受け持つシンジの決断は早かった。

「アスカ、ごめん。すぐに終わるから、少しだけお願い!」
『あっ、ちょっ、シンジっ』

届かない弐号機の手が伸ばされていてもシンジは無視する。問答している時間はない。レイとタンデムしているとはいえシンクロ率はまだ頼りないままだ。戦闘になっても確実にアスカの足を引っ張るのが目に見えている。それに、カヲルを進ませてはならない。彼がなにを目指していのかわからなくとも結果は人類の破滅なのだ。これ以上の殺戮をさせてはいけない。

『待ちなさい、シンジ!』

視界の隅にアスカが起きるのを捉えつつ、すぐさまカヲルのあとを追う。驚くべきことに参号機は初号機になんの反応も示さなかった。初めから弐号機だけを足止めするつもりだったのか。背後から激しくぶつかりあう音がして振り向きたい衝動を堪えた。腕が自在に伸び、巨人とは思えないほど軽々とした身のこなし。各個撃破され、最終的には初号機の暴走によって勝利したのは記憶に新しい。頭部がないことからもパイロットは搭乗していないのだろうが、果たしてアスカ単独でどれだけ渡りあえるのか。あせりを滲ませながらカメラを望遠に切り替えれば宙に浮くカヲルの背中だ。

「カヲル君っ」

彼はエヴァの腰の高さで浮遊している。どう見ても手品ではない。間違いなく使徒だというのがわかる。認めたくはなかったが、やはりこれが現実だ。そんなカヲルの行く手には巨大な扉が進路を塞いでいる。頑丈そうでエヴァでも突破するのが難儀しそうな扉を彼にどうこうできるとは思えない。追い詰めた、とシンジは安堵する。これならば……。しかし、そう考えた矢先に扉は無情にも開かれてしまう。まるで両手を広げてあるじを迎える臣下さながらだ。

「待って、カヲル君!」

もう一度彼を呼んで扉をくぐる。さきにあるのは前に見た白い巨人だ。レイやエヴァがあれに関係している、くらいしかわからないがカヲルの目的はなんであろうか。本部の奥深くに隠匿されているものだからかなり重要なはずだ。壊すのか、それとも食べるのか。

けれども憂慮をよそに、カヲルは白い巨人の前でぴたりと止まってなにもしない。見あげてなにかを語っているようだ。ほどなくして彼は振り返り、初号機と対面した。抵抗の意思がなく、シンジはあっさりと掴むことに成功する。

「やあ、シンジ君」
「カヲル君……」

カヲルはよく見た笑顔ではなく憔悴しきっていた。目の下にうっすらと隈があり、髪にも艶がない。初号機を介してシンジの手に彼の感触が伝わる。顔だけを親指と人差し指の間から出し、胴体はまるで人形のようだ。ここにひとつの生命があるというのがにわかには信じられない。そんな彼に、カヲルは優しく語りかけてくる。

「ボクはまずキミに謝らなければいけない。さきに行って済まなかったね……弐号機が使えなさそうだったから、少しズルしたんだ」
「カヲル君、きみはなにがしたかったの? ここへ来るためにひとを殺したの?」

よもや白い巨人を見たいがためにひとを殺したわけではあるまい。それとも人類は、自分たちは負けたのか。だが、もしそうではなく目的が済んだというのであれば、わざわざ殺める必要はない。さきほど見せられた映像もなにかの行き違いで、きっと話せばわかる。

「やれやれだよ、シンジ君。教えられて来たのはいいけれど、騙されたようだね。不思議だと思ってはいたんだ。どうしてボクを利用するのかなってね。でもその謎がようやくとけたよ」
「騙された……謎って?」
「いいように使われたのさ、ボクは。初めからゴールなんてなかった……死にたいって言うから疑うこともなかったよ」
「じゃあ、もう人類を滅ぼす必要はないの?」
「そう、ボクの負けだ。もともと乗り気ではなかったんだけど、これで踏ん切りもついた」
「どういう……意味?」

やる気がないと言いながらカヲルは大勢の人間を殺害した。彼の表情に悪びれた様子はないから邪魔な障害物を排除したくらいの認識でしかなかったのだろうか。カヲルは肩をすくめるように首を倒す。心なしか寂しそうに眉も寄せている。

「なんでこんなことをしたのかって? 前にも言ったとおり、この身体は持たないからね。ボクが生き残るためにはしかたがなかった。ATフィールドがひとの形を保てなくなる……そうなる前に本体たるアダムに還る必要があったんだ。でもこうしてキミに追いつかれて安心するボクもいる……矛盾してるだろう? そういう存在なんだ、ボクは」
「安心してるって、どういうこと?」
「キミたちふうに答えるなら遺言、だよ。いまからアダムを探してもいいけど、もうそんな気力も時間もない。それにね、シンジ君。ボクは知ってしまったんだ……キミたちのことを。無垢だったボクは心という果実を口にしてしまった」
「果実……?」

相変わらず比喩が多いカヲルの言葉をシンジは半分も理解できない。ただ彼に敵対する意思はなく、それどころか生きる意味すら失っているのがわかる。ちりちりと脳の奥にデジャヴが浮かんだ。

「ボクは孤独になってしまうことを知ったんだ。もしキミたちを滅ぼせば、こうして触れられることも言葉を交わすこともできなくなる。この星が果てるまで、ずっとひとりで生きていかなければならない……そんなの生きてると言えるかな? 他人との接触が人間を人間たらんとしている、文明と文化を築いている……けれど、ひとりになってしまったらなにもできない。なにも生まないんだ」
「孤独になるの?」
「そうだよ。人類を滅ぼすとはそういうことだ。ボクはキミのように、すてきな恋人も友人も作れない。虚ろなままであれば機械のように生き続けただろうけどね。もうその生に対しても価値を見出せなかった……ただボクを送り込んだひとたちの言葉に従っただけさ」

だったらこれからともに生きてゆこう、と口を開いたシンジだが彼は見てしまった。カヲルの片腕がずるりと落ちるのを。強く掴んでいなかったというのもあって、まるでモノのように手の間をすり抜けて落下する。カヲルに苦痛の表情はない。

「腕が……」
「見ただろ? これがこの身体に与えられた運命なんだよ。相容れないモノをかけあわせた結果、無理が出たんだ。そしてあの白い巨人はリリス……アダムじゃない」
「カヲル君っ……今度は……脚が……」
「これはいよいよってところかな。ふふっ、思ったより時間があったみたいだ……でもこのまま消えるのは忍びない」
「どうすれば……いいの?」

カヲルは微笑みを向けてくる。憂いを帯びず、晴れ渡った青空のような声色で、あたかも子供を寝かしつけるときのようだ。いや、悟りの境地に至ったのかもしれない。ああ、やはり彼は彼女に似ている。

「シンジ君、キミの手で終わらせて欲しい……キミの感情をボクにぶつけて欲しい。それを手向けとして、ボクは迷いなく消えることができるよ」
「そんなっ……そんな!」

できるわけがないと唇を強く噛む。好きだと言ってくれた友人をこの手で殺めるなど、どうして叶えてあげられようか。わずか一日程度の関係でも、彼はまぎれもなく大切なひとだ。レイとは違う意味でとても癒されたのだ。もし違う形で出逢っていればきっといま以上にすてきな関係が望めたはずなのに、なぜこうも残酷な宿命を背負ったのか。世の中には彼がまだ見ていない美しいもので溢れている。それを見せてあげられずに消えようとしている。

「そうか……これが本当の感情なのか。ああ、涙の意味がわかったよ」

ATフィールドを通じて彼に想いが伝わったのか。目を細めて本物の笑顔を見せている。だが、せっかくの喜びももうひとつの脚が取れたことで邪魔さてしまう。

その瞬間、シンジの中に強い意思が灯る。仮に彼が存命できたとしよう。敵対せず友好的にしてくれたとしよう。それでも罪は消せない。生きるためにひとを殺した事実は曲げられないのだ。裁判か、それとも射殺か。実験動物のような扱いかもしれない。どうあっても昨日までの関係は取り戻せないのだ。ほかの誰かにカヲルを殺させるわけにはいかないし、このまま朽ちてゆくのを見すごすこともできない。上半身の形が無事なのも、きっと最期まで無様を晒したくないという彼の遺志なのだ。ならばこそ、その気持ちを汲んであげるのが友としての役目ではないのか。

「カヲル君……」

こんなときなのに、ありえたかもしれないべつの可能性が脳裏に浮かぶ。レイ、アスカ、カヲルと一緒になって楽器を演奏している姿だ。自身はチェロを持ち、三人はヴァイオリンがいいだろう。曲はカノンとすぐに決まった。レイはとても弱く弾きそうだがアスカは逆に強く弾きそうだ。なら、カヲルはどうだろうか。歌うようになめらかな感じがする。うまい下手は関係なく、文字どおり音を楽しむ。きっととても素晴らしい一体感を覚えるだろう。ミサトの家からチェロを持ち出しておかなければいけない。

現実逃避をしたわけではない。彼との時間がもっと欲しかっただけだ。動物園や水族館、美術館だってある。まだまだ語りたい、生きることは喜びなのだ。

けれど、もう時間はなかった。失われたときを求めても叶わない。ここで彼の人生は終わるのだ。大きく息を吐いて雑念を振り払う。

「ありがとう、シンジ君……キミに逢えて、よかった」

最後に見たカヲルの表情は、きっと一生忘れないだろう。きつく両目を閉じると同時にシンジは力を込めた。音もなく、ただ生暖かい感触だけが手に広がる。そこにあったのは人形ではなく、人間の体温だった。

「くうっ、ううっ……」

なぜカヲルはひとの形をしていたのだ。LCLにとめどない涙を溶かしながらシンジは咽び泣く。彼を知らなければ、友達でなければこんな悲劇は起こらなかった。だが、かつての使徒のような姿をしていては交流さえできない。なんという矛盾なのか。そんな理不尽に慟哭しながら操縦桿へ何度もこぶしをぶつける。

「クソっ、クソっ、クソッ!」

俯いて自らの運命を呪っているかのような彼を、レイはうしろから見詰めた。なんの言葉もかけられない自分が情けなく頼りない。あれほど身体を重ねているのに心を共有できないことが胸に痛かった。カヲルを握る直前、シンジにシンクロを切られたのも余計に(さいな)ませる。同じエヴァ、同じエントリープラグ、同じLCLに浸かっていながら彼とひとつになれていないのだ。なんて勝手なひとなのかと、レイは深い孤独と憤りに似た想いを感じた。それでも言葉にしないで済んだのは息も絶え絶えなアスカから通信が入ったからだ。

『ようやく……終わったわね……助かったわ……』

レイはシンクロを取り戻し、初号機を反転させる。シンジは変わらず泣いており項垂(うなだ)れたままだ。かける言葉を持たない彼女はアスカへ助けを求めるように戻った。

LCLの海に尻餅を突いた弐号機の首には参号機の手が伸びており、しっかりと捕らえている。まさに絞めあげようとする寸前だ。装備していたナイフは参号機の腕に刺さっているが、有効なダメージまでには至ってない。それでも赤い装甲は健在で、彼女の戦闘能力の高さを窺わせた。

「惣流さん……大丈夫?」
『ええ、なんとかね。防戦だったけど、ギリギリ凌いだわ……勝てばいいのよ』
「そう……そうね」

ふたりの会話をシンジは雑音として聞いている。心をどこかへ置いてきたかのように瞳は虚ろだ。無事なアスカへの喜びも、ましてや勝利の凱旋にも程遠い。弐号機の手を取って起こそうとするのをぼうっと見詰めた。そこへ彼女の挑発が飛ぶ。

『なぁに辛気臭い顔してんのよ。アンタのことだからどうせウジウジ悩んでんでしょうけど、あたしはあのニヤついた顔見なくてせいせいしてるわ。アイツの前でプラグスーツ姿なんて、裸を見られるよりおぞましかったわよ』

モニタに映る彼女の顔がいつも以上に動いている。声が高く、身振りも大きい。そんな態度がシンジを激昂させた。友人を侮辱されて黙っていられるわけがない。いかにアスカがカヲルを避けていたとはいえ、仮にも言葉を交わした相手を悼みもしないでなんたる言い草だ。かっと目の奥を熱くすると起きあがろうとした弐号機の両肩を掴む。

「なんでっ、なんでなんだよ! どうしてそんなことが言えるんだ!」
「碇くん、碇くんっ」

レイの制止も耳に入らず、弐号機の肩を前後に揺する。ぎりぎりと互いの装甲が軋む音をあげた。アスカをさも仇のように睨んで怒号を飛ばす。

片や彼女はなされるがままだ。初号機の手を払いのけることも、反撃の口火を切ることもなく無言でやらせている。彼の瞳をただじっと見詰め、眉尻をさげた。やがてシンジが止まり荒い息を繰り返しながらぶつぶつと呪詛のように呟くのを聞いて、ようやく動くのだ。右手を初号機の、シンジの頬に添えて優しく撫でると言う。

『アンタはさ、ひとりで背負い込みすぎなのよ……もっと頼んなさい』

そして両腕でそっと彼の頭を抱く。胸に寄せ、背中をなだめすかした。エヴァの機体であっても感覚は彼に伝わる。ぬくもりはない、柔らかさも感じない。それでも彼女の優しさはシンジの心の防波堤を決壊させるのに充分だった。

「うあぁぁあっ!」

高らかと声をあげて泣く。さきほどより痛ましく、苦しみに満ちている。シンジはカヲルの名前を呼びながら懺悔と慈悲を乞うた。

『いいのよ、それで……いいのよ、シンジ』
「しかたがなかった! しかたがなかったんだ!!」
『ええそう、しかたがなかったの』
「綾波が、アスカが……世界が、皆が……」
『うん、そうね。あたし危なかったわ……だから、ありがとう。シンジのお陰よ』

ミサトは、アスカの通信を聞きながらこれが自分にはできなかったと溜息混じりに思った。きっと冷たく突き放していただろう。子供たちに必要なのは現実的な言葉ではなく、縋れる希望だったのだ。発令所と最前線、年齢と立場。これだけの間隙(かんげき)があって家族になれるわけがない。ゆえに、私情を排しマイクへ向かって口を開いた。

『三人ともリフトであがって。使徒は殲滅されたわ……お疲れさま』

ミサトの言葉を受けて発令所の面々もどっと力を抜いた。少年が少年を殺害したという事実は、人類の存続という大義名分の前になんの意味も持ちえない。使徒が一体殲滅された、それだけである。


リフトを使ってあがり各種洗浄や検査を受けると、シンジたちは戦闘配置から開放される。戦闘員の死者や重傷者は数十人に上ったが、格納庫や更衣室にその雰囲気はない。ネルフの地下深くのできごとであればなおのこと、数多くの戦闘を繰り返していれば感覚も麻痺した。シンジたちに労わりの声をかける大人はおらず、すれ違う者は口を揃えてお疲れさま、と言うだけだ。

シンジはシャワー室で何度も手を洗った。臭いや汚れがついてるわけでもないのに皮膚が痛むほど石鹸とタオルで擦る。本当は剃髪にしたかったがあいにくハサミがなかったので我慢するしかない。

シャワーを終えた彼はカヲルの部屋へ向かう。レイとアスカはミサトから聴取を受けているためひとりである。寒々とした飾り気のない迷路のような通路を歩いて目に映ったのは、黄色い防護服に身を包んだ連中だった。全身をすっぽりと覆い、手にはノズル、背中にはタンクを抱えている。Cが三つ重なった胸のマークから検疫のスタッフだとわかった。つまるところ、彼らは使徒であったカヲルがなにがしらの災いを持ち込んでいないか確認していたのだ。さきほどずいぶんと入念な自動洗浄や身体検査を受けたのも、その一環だろう。まるで病原菌のような扱いだがシンジが尋ねたいのはひとつしかない。

「あの……部屋に、なにかありませんでしたか?」

彼はカヲルの遺品を求めていた。もしかすると遺書のようなものがあるのではと期待したが、スタッフからは存在しないという返答のみである。唯一見せられたのは検査済みの小さなダンボールで、中には黒いズボンが二着とYシャツが三着、あとは靴下と下着だけ。音楽CDや哲学書といったカヲルらしさは皆無だ。着替えにしても封すら切られていない新品で、それがカヲルの言う寿命を肯定していて哀しかった。ここで長く生活する予定がなかったのだ。シンジはシャツとズボンを一着ずつもらい、検疫の終わった部屋へ入る。

「なにもないのか……」

スタッフの言葉に嘘はないだろう。昨晩泊まったときも生活感というものが皆無だった。ひと晩だけというのもあるが調理器具なども申請していなかったようで痕跡はまったく遺されていない。写真もないから、まるで初めから存在していなかったかのような感覚さえ受ける。手にあるのはマヤがこっそり渡してくれた顔写真入りのIDカードただひとつ。それが、カヲルという友人のすべてだった。

休憩所へ戻ると聴取を終えたアスカとレイの姿だ。ふたりは四人用のテーブルで向かいあいに座っている。昨日の今頃はそこに通路を挟んで腰かけるカヲルがいたと思うとシンジの胸はじくじく痛む。アスカに他意はなくても苺ミルクを飲んでいれば余計に嫌な記憶が刺激された。

「ったく、どこほっつき歩いてたのよ、シンジ」
「碇くん、着替えたの?」
「ああ、うん……」

カヲルの部屋で着替え、前の服は誰かのプレゼントというわけでもなかったので処分した。カヲルのズボンは少し丈が長く、裾を折り曲げて穿いている。なんの意味があるのか自分でもわからなかったが、アスカもレイもとくに怪訝な反応は示さず会話を続けた。

「ミサトがね、今日はもう帰んなさいだって。学校の先生かってぇのよ」
「葛城三佐から明日も休日だと聞いたわ」
「じゃあどっか遊びに行く? 気晴らしにさぁ遊園地とかやってないけど、ボートくらいあるでしょ」
「惣流さんが一生懸命漕いでくれるそうよ。いい運動だって」
「ハア? ンな約束してないわよ。アンタが漕ぎなさいよね。あたし筋肉痛なんだから」
「エヴァの操縦に筋肉は使わないわ。それにあなた、減量するって言ってたでしょ?」
「ハンっ。男子ってぇのはね、ちょっとくらいぽっちゃりしてたほうが好きなのよ。だからアンタが太りなさい」
「そうなの? でもさっき更衣室で私の身体を見てたわ。あれはきっと羨んでいた視線……そう、残念ね」
「べつにぃ? あたしのほうがおっぱい大きいしぃ」
「脂肪の塊がそんなに大切なの?」
「ほれほれぇ。ゆっさゆっさ……アンタのはぷるぷるでしょうが」
「べつに。碇くんはいつも丁寧にしてくれるもの」
「さーてどうかしらね? 男のロマンってヤツを甘く見てんじゃないの?」

あのレイがアスカの軽口に応じている。シンジは口を挟まず心を遠巻きにして眺めた。なにも変わらない日常のひとコマに見える。ここはネルフなどという組織ではなく、放課後の教室で談笑しているようだ。使徒やエヴァが存在しない世界で、アスカは近所に住む幼馴染、レイは去年に転校してきたという設定なら平和だろう。

「は、はっ……はは、はっ。ないよな……うん……」

つい乾いた笑い漏れ、ふたりから哀しげな視線を向けられた。レイとアスカのどちらが恋人になるか取りあう日々があってもいい。そんなふうに思ったが、どこにもない。カヲルという転校生が来てアスカに猛アタックするようなラブコメはないし、体育教師の加持と国語教師のミサトがつきあってる噂もない。ないのだ。

「シンジっ」
「碇くん……」
「大丈夫。僕は大丈夫だよ……なにも間違ってない。うん……」

さきに駆け寄ったのはアスカだ。いまにも膝を屈しそうな姿勢で俯いて両手を握り締めるシンジに、ただならぬ気配を感じていた。すぐさま両腕で彼を抱くと何度も呼びかける。一歩遅れたレイは、そんなふたりをすぐ傍で見守った。ミサトから任せると言われ、アスカと道化を演じる口裏あわせまでしたが彼の心は暗いままだ。

「シンジ。ほら、アンタの好きなあたしの胸よ。もっと顔埋めなさい。レイよりずっと柔らかいんだから」
「はは……アスカって最近とても大胆だよね」
「当然じゃない。シンジだったらいつでもオッケーの三連呼よ。毎晩全裸で待機してるわ」

涙声で何度もありがとうと繰り返すシンジをアスカはあやした。彼も彼女もレイもこのやり取りが決して性的な意味を含んでいるなどとは思っていない。心のつらさは三人に共通するのだ。触れあうこと、求めあうことをなにより欲する。自分の居場所と足元が不安定だから恋人でなくてもこうして抱き締める。レイよりさきんじた優越感などアスカにはない。たまたま近かっただけなのだ。少なくとも、彼女はそう思っていた。

「アスカも、綾波も……ごめん。僕、もっと強くなるから……もっと」
「バカっ。そんな意地張ってどうすんのよ。いいから、いっぱい吐き出しなさい」
「うん……うんっ……」

たった数時間前のできごとを簡単に頭から消すなど無理だ。数日はこうして苦しむだろう。それが一週間、一ヶ月とすぎて少しずつ自分の中に受け入れる余地を作る。一年経った頃にまた泣いて、そして徐々に想い出へと変えてゆくのだ。

それからシンジとレイはアスカと別れると買いものだけを済ませて家へ帰る。夕刻になり、なにかやったほうが気もまぎれるというシンジを押しのけレイが料理をした。鶏肉なら大丈夫かもしれないと彼女は思い、バターチキンカレーである。食欲がほとんど湧いていなかった彼でも鼻腔を刺激するスパイスとニンニクの香りに自然と腹を鳴らし、丸いテーブルをふたりで囲んだ。

「碇くん、もういいの?」
「うん……これくらいでいいかな。おいしかったよ、ごちそうさま」
「鍋にまだあるわ」
「冷蔵庫に入れて明日ちゃんと火をとおせば食べられるよ」

初めて作ったわりには上手に作れて感心のシンジである。ジャガイモの芽は取ってあるし、皮もない。鶏肉は切ってあるのを買ったのがよかったようだ。レイも肉を問題なく食べている。とても平和で、あんなことがあったのに……と考えて危うく嘔吐しそうになるのを堪えて飲み込む。もっと食べていたら危なかった。

食事も終わり、あと片づけも済めばシャワーである。各々済ませ、床につく。シンジもレイも恒例となった全裸だが、彼女は彼に背を向けて窓のカーテンを見ていた。いつもなら腕枕で髪を撫でてくれるシンジが今夜は両腕をまっすぐ下へ伸ばしていたからだ。

「碇くん」

床について一時間は経とうとしているとき、ずっと無音だった室内にレイの声がする。シンジがまだ起きているのは気配で知っていたし、おそらく今夜は寝られないと思っていた。

「うん、起きてるよ」

シンジは少し遠くにあるレイの白い背中を見ながら返す。心身とも疲れ果てているのに、眠りはまったく訪れないばかりか醒めるいっぽうだ。そこへ驚きの問いを投げかけられる。

「惣流さんのところへ、行く?」
「えっ……なんで?」
「私がいると眠れないでしょ?」
「そんなこと……ない、よ」
「だって、ずっと目をあわせてくれないもの」

どきりとしてシンジは言葉に詰まった。そんなつもりはなかったはずなのに、知らず知らずのうちに彼女を避けていたのだ。理由は明白だ。赤い瞳と白い肌がカヲルを連想させるからにほかならない。なんと返したらいいのか。失礼極まりないと理解しているからこそ、なにも取り繕えなかった。

「ごめん……きみは悪くないんだ……」
「わかってるわ。でも、本当にいいの?」
「どういう意味?」
「私じゃなくて、惣流さんと一緒にいたほうが、碇くんはしあわせになれるのではないの?」

愕然とした。まさかそんなふうに思われていたのかと。やはり浮気を許してはいないのか。目を見なかったことで深い傷を与えてしまったのか。誰よりも大切に想っているのに、心の弱さがこんな言葉を口にさせてしまっているのか。

「そんなこと……なんで、そんなことを言うの?」
「私、ずっと思ってたの。あのひとのほうが碇くんにふさわしいんじゃないかって」
「違うっ。それは違うよ!」

あまりの声の大きさにレイは肩を小さく跳ねさせた。怖かったのではなく、彼の心を受け止めたからだ。彼女は本部でアスカから助言を受けている。曰く、シンジの精神状態が不安定なので暴力的な言動をしてしまうかもしれない、と。

「私は今日、あなたが苦しんでいるのになにもできなかった。ただ名前を呼ぶだけで、あとは惣流さんがしているのを眺めているだけだったわ。楽しい話題も、快活な行動も提供してあげられない。でも……彼女は違う」
「アスカはアスカだろ。綾波は綾波だ……それを僕は悪いと感じてない」
「でも、いま碇くんを救えるのは私ではないわ」
「僕を見捨てるの……?」

レイはかぶりを振った。そうではないのだ。どんなに想いがあっても肝心の行動が結びつかない。己の姿だけで彼の心に傷を作るのなら、アスカにゆだねたほうがいいかもしれないという判断なのだ。

「碇くん……違うのよ。私には自信がないの。いつももらうばかりでなにも返すことができない。本当に困っているとき、私は人形になってしまう。もっと時間があれば上手にできるのかもしれないわ。でも、あなたに必要なのはいまなの」
「違うんだ、違うんだよ……僕だって普通にしたい。きみがいてくれて本当に助かってるんだ。ずっといるって約束したじゃないか」
「私にはなにもないのよ? あるのは泣くことと笑うこと、身体を求めることだけ。いまだって心はあるのに、あなたが好きなのに……」

レイの肩が震えている。なんとか泣くまいと涙を堪えているのだ。シンジは唇を噛んでにじりと身体を寄せる。右手をゆっくりとレイの前面へ差し出して述懐した。

「この手に、まだ感触が残ってる……カヲル君をつぶした感触が。血塗られた、手だよ。だからきみに触れることができない」
「どうして? 私は碇くんが穢れているなんて思ってないわ」
「僕は友達を殺したんだ。使徒だと言われても僕には大切な友達だった……罪を背負ってるんだ」
「だから私に同じ想いをさせたくなくて、シンクロを切ったの?」
「そうだよ……こんなのは僕ひとりで充分だ」
「その結果がいまなのに?」

シンジは頭が殴れたような衝撃を受けた。よかれと思ってしたのに、それが逆に枷となってしまっている。アスカにも言われた。ひとりで背負い込みすぎだと。結局はひとりよがりでしかなく、レイやアスカを考えてなかったのか。カヲルと親しくなってミサトや大人に報告しなかった怠慢を自らの手で決着をつけるという行為ですりかえていた……そうなのか。

「僕は……またやってしまったのか? また、また……」

シンジの震える手を振りほどき、レイはくるりと身体の向きを変えた。彼が咄嗟に手を引っ込めて距離を開けようとするものの彼女は構わず握ってくる。赤い瞳には強い意思があり、手の力も痛いくらいだ。

「碇くん……私のこと、怖い?」
「そんなわけ……」
「使徒でも?」
「なんでそんなこと言うんだよっ。きみは人間じゃないか」
「なら、目を見て言って。あなたが恐れる、この赤い目を見て愛してるって言って」
「僕は……きみを……」

シンジの黒い瞳が揺れる。たったひと言なのに、口から出ない。心の中にはたしかに存在するし何度も感じていた想いなのに唇と喉が伝えるのを拒否していた。

「言えないのね? 私の姿が彼を連想させるから、好きだと言われた彼と重なるから、穢してしまうようで言えないのね?」
「それは……」
「碇くん……あなたは大罪人よ。大切に想ってる友人を殺した大罪人。どんなに繕っても事実は消えないわ」
「綾波……きみまで……」

絶望に染まるシンジの表情を見てもレイは言葉を止めなかった。彼女になにか考えがあってのことではない。いま胸にある想いをただ伝えているだけだ。

「でも……碇くん。これを感じて……ここにあるものを感じて」

そう言ってレイは彼の手を自身の胸に当てた。シンジの手のひらにとくとくと彼女の鼓動が響く。コアではなく心臓が熱い血潮をめぐらせているのを感じて彼の目から涙が一滴落ちる。

「きみは生きてる……」
「そうよ。あなたが救ってくれたから、私はここにいる。惣流さんも、碇司令も、葛城三佐も、ネルフのみんなも……世界中のひとも」

シンジは手を引かず、目を閉じてレイの言葉を聞いた。彼女の声はどことなくカヲルを彷彿とさせる。まったく違うのに、あんなに陽気な声色ではなく憂いが強い声質なのに、なぜか重なった。そんな彼女からさらに紡がれる。

「だから、私があなたを許すわ。あなたが犯した大罪を、私が許すの。世界中のひとがあなたを罪人だと言っても、私だけはあなたを許し続ける……なぜなら私はあなたを、愛してるから」

シンジはここに至って、ようやく許しを得ることができた。誰も彼も褒めてくれるばかりで、ついぞ罪を許してはくれなかった。ゆえに、自分に言い聞かせるしかなかったのだ。唇が震え、涙が枕にいくつも落ちる。息が波を打ち、声は揺らぐ。

「ううっ……あや……なみぃ……」
「私は誰?」
「あや……な、れ……」
「そう、綾波レイ。では、私はあなたのなに?」
「大切な……ひと。恋人……」
「ええ、そうよ。あなたの恋人。いつも大切にしてくれる、私のたったひとりのあなた」

そう言ってレイはシンジをしっかりと抱き締めた。彼の手も彼女の背中にまわされる。互いの心臓をぴったりとくっつけて、鼓動をたしかめあう。

「僕の……大切な、きみ……」
「だから碇くん、抱いて……あなたの罪で私を穢して。私はあなたを許したい」
「綾波っ……綾波!」

力強く組み敷かれながらレイはもうひとつの愛を理解する。愛とは罪を許し、無償で捧げることだ。すべては彼のため……だからこそ、彼が姿を消したのは心に深い傷を作った。アスカとの浮気など彼がいてくれる至福に比べれば些事なのである。

「碇くん、愛してるわ……あなたを心から愛している……」
「うん、うんっ……」

いつもなら繊細に這う彼の唇や指先が今夜はとても荒々しい。レイはアスカとの会話を思う。戦場でひとを殺したあとの兵士は強い情動に突き動かされるときがあると。それは死を認識したことで生殖を活発にさせるのか、それとも戦いの興奮の延長線上なのか、はたまた憂愁を鼓舞せんとする心の均衡なのかはわからない。性行為の内容もいつもと違うかもしれないとも言われた。

「もっと……もっと、壊してっ……」

だが、シンジがどんな情動に突き動かされても構わない。命さえ落とさないのなら、乱暴にされたところですべて受け止めたい。感情の表現が発育の途上にあるレイにとって、自らが発する想いも彼の想いもどちらも大切なのだ。

「はーっ、はーっ、はーっ」

シンジの息は血に飢えた獣のように荒い。それでも彼は理性を失っているわけではなかった。レイの耳朶を甘噛みし、首筋に吸いつく。乳房を鷲摑みにしては乳首を蹂躙した。それが彼女をいっそう歓喜させる。レイは底なしのマゾヒストだった。鼓動は激しく高鳴り、全身に汗が滲む。彼の舌が腋を舐め、太ももをしごかれれば腰を浮かせて応じる。むんずと尻を掴まれると乳首は槍のように尖り、陰核は弾けんばかりに硬くなった。

「くはぁっ……いいっ、犯して……私を、犯してっ……」

レイは両手でシンジの頭を撫でて頬を労わる。涙を指先で掬い口へ含むと喘ぎながら微笑んだ。彼の手が脇腹や恥丘を撫でれば追従するように身体を寄せる。膣口からは壊れた蛇口のように愛液が溢れ、肛門へと伝う。危うい瞳をしていたシンジが生への情動を滾らせるほど彼女を凄まじく昂奮させるのだ。

上体を悶えくねらせるレイの二の腕をシンジは押さえつけた。左右の乳房を口に含んでは責め立てて彼女をさらに困らせる。彼に自由を奪われたことがレイをますます昂ぶらせ、喘ぎを激しくさせた。思い出したかのように口づけされると貪るように舌を絡める。彼の唾液を嚥下し、離された唇の間には透明な橋だ。

彼の両手が前腕を越え、指を絡ませるようにして手を繋ぐ。レイはどきりとして瞳を潤ませた。ぞくぞくとした痺れが早くも全身に伝わると、シンジの唇が何度も胸に吸いつく。ほんのわずかな痛みが生じ、それを覆す快感がすぐに訪れる。乳首も同様にされれば、彼女はたちまち昇ってしまうのだ。まだ駄目だ、もっと知りたいと思ってても敏感すぎる身体は絶頂への誘惑に勝てない。乳房の外周を舐めまわされてレイは慌てるが、あっけないほどあっさり降参してしまう。全身を硬直させ、息を止めてもシンジの前戯は止まらない。

「ふぬぅ、ふんっ、ふんっ!」

それが、本格的な蹂躙の開始だった。まず挿入で続けざまに絶頂したレイだが、シンジはまたもや止まらず腰を動かす。いつもならこんなに早く動かないのに、じゅぶじゅぶと水音を響かせて激しく膣がしごかれる。繋がれた手のひらがあり、胸に彼の上体が乗っていれば身体を捩れない。下腹から打ちつけられて自分でも初めて耳にする大きな嬌声を漏らしては瞬く間に果てるのだ。シンジの精神状態ゆえか彼の射精はなかなか訪れず、絶頂が終わらない間に次々と快感が押し寄せてレイを狂わせた。彼女にできるのは悶絶の顔を左右に振り、腰をくねらせ逝くと叫ぶだけである。嵐の中の小船ように翻弄されたレイは、無数の涙を振り撒く。高い嬌声を唸りへ変えて濁した。

「ひぐっ!! っぐぅうぅっっっ!!!!」

潮とも尿ともつかないものを股間から飛散させると代わりに精液が注がれる。灼熱の膣に彼の脈動を何度感じたのかもわからないまま彼女はこの夜、気絶するのであった。